OLD WAVE

サイケおやじの生活と音楽

「運命」と書いて、「さだめ」とは必然

2011-12-31 15:55:45 | 歌謡曲

運命 ― さだめ ― / 藤井明美 (日本ビクター)

アッという間に今日は大晦日、早いなぁ~~~。

そんな思いを毎年重ねつつ、歳をとっていくサイケおやじにしても、今年は特別な記憶になるでしょう。

言うまでもなく大震災から原発事故、諸々のバカ野郎の登場と退場、出口の見えない不景気や社会状況の停滞を振り返っていたら来年になってしまうほどです。

しかし、それを「運命」と達観するほど、サイケおやじは人間が練れていませんから、せめてもの救いを目の前に求める事に吝かではありません。

例えば欲しかったレコードの入手に力を入れるとか、性的嗜好の充実に血眼になるとか、まあ、いろいろと仕事以外にエネルギーを費やしてしまったのは例年どおりなんですから、いやはや、お恥ずかしいかぎりです。

それは本日掲載のシングル盤についても例外ではなく、曲タイトル「運命」と書いて「さだめ」と読ませるあたりも何か本日のネタという思惑は隠せませんが、現実としては十数年来探索していたブツのひとつです。

歌っている藤井明美は歌手というよりも、昭和40年代はCMタレントとして有名だった美女で、おそらくはレコードを出したのも、そうした芸能活動の一環だったと思います。

そして昭和45(1970)年に発売された「運命 / さだめ」は当時のラジオ放送では歌謡曲メインの深夜番組でヒットしていましたですねぇ~♪ ただしテレビに登場したことはサイケおやじの記憶には無いので、そのあたりが微妙な裏人気の秘密かもしれません。

で、肝心の曲調は歌謡ポップス~フォーク歌謡の味わいも滲ませながら、実は青江三奈の影響下にある「恍惚のためいき」唱法が印象的な演歌であり、しかしミディアムテンポでドライヴするエレキベースやパヤパヤコーラスが素晴らし過ぎますよ♪♪~♪

コブシがナチュナルに活きるメロディ展開の良さも特筆すべきでしょう。

あぁ~、こういう歌が当たり前に出ていたからこそ、昭和歌謡曲は充実していたんですよねぇ~~♪

ちなみに作詞:みやざきみきお、作曲:新井靖夫に加え、馬飼野康二のアレンジのイヤミの無さは要注意の魅力だと思います。

ということで、今年もサイケおやじの戯言&暴言にお付き合い下さいました皆様には、心から御礼申し上げます。

過ぐる年は良くも悪くも思い出になれば、それはそれで人生の味わいでしょうし、新しい年は、またひとつの節目のスタートにするべく、拙プログを書きながら、サイケおやじは自分なりに精進を積み重ねる所存です。

なぁ~んて、最後になっても格好をつけてしまいましたが、「それらしい」享楽を求める気持、所謂諸事万端へのスケベ心は失わないようにしたいものです。

皆様におかれましても、良いお年をお迎えくださいませ。

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それだけの正直

2011-12-30 16:32:00 | 歌謡曲

ただそれだけのこと / 林マキ (キング)

日頃から厚顔無恥なサイケおやじにしても、流石に今回の仕事は後味が悪かったですよ……。

と、まあ、何の事かさっぱりわからない皆様には、これを読んでくださるご厚情に甘えての嘆きの独り言として、本当に恐縮至極でございます。

んなぁ~こたぁ~、もぉ済んだ話なんで、すっぱり忘れてしまうのが、人生を楽しく生きるコツなんでしょうねぇ、きっと。

そこで本日は、今の気分に正直なシングル曲「ただそれだけのこと」をご紹介致します。

実は掲載した林マキの歌うバージョンはカパー&リメイクであって、オリジナルは人気ジャズシンガーの笠井紀美子がメジャーデビューにあたって書かれた、なかしに礼の作詞、村井邦彦の作曲によるボサノバ歌謡の名品でした。

それが昭和43(1968)年の事で、しかし当時としてはお洒落過ぎたのでしょうか、ほとんどヒットしなかったという現実があり、楽曲だけが好事家の間で独り歩きしていた感があったとか!?

ですから、昭和46(1971)年になって、ここにリメイクされたのも、何か満を持しての再登場であり、しかも特筆すべきは前述の笠井紀美子が表現していた十八番のアンニュイなムードとは一変し、なんとっ! ジャズっぽい味わいはそのままに、全体としてはニューソウル系のアレンジが馬飼野俊一によって施されています。

そして主役たる林マキが、なかなか大きなノリのグルーヴ感で歌っているんですから、サイケおやじの好みにはジャストミートの一撃でした。

ちなみに彼女についてはリアルタイムでは知る由もなかったんですが、一説によると直木賞作家の木々高太郎の愛娘であり、日劇ミュージックホールのスタアでもあり、高身長の巨乳系美女としての存在感も抜群だったそうですねぇ~♪

そうした履歴を知ってみると、実演ステージはもちろん、動く映像すら見たことのないサイケおやじは本当に残念な気分に満たされるわけですが、しかしこの「ただそれだけのこと」を聴ける現在の幸せには感謝しなければなりません。

ということで、ここにきてガチガチの仕事に追われ、ストレスは蓄積しっぱなしだし、気力と体力も限界気味です、正直。

あ~ぁ、自分は何をやっているんだろぉ……。

そんな心境なんですが、せめてどこかに「ただそれだけのこと」みたいな、開き直りとは言いませんが、ちょいとした心の逃げ場が欲しいと思うばかりです。

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ギブアップまで待てない

2011-12-29 14:57:42 | Weblog

なぁ~んていう、如何にもトホホプロレス番組が昔ありましたが……。

今の自分の年末は、まさにそれです。

未だ仕事に解決の糸口が見つからず、帰省ラッシュの最中を移動中とは、これ如何に!?

情けないなぁ。

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年の瀬の苦界

2011-12-28 15:12:37 | Weblog

今日はわかりきった結論の会議で紛糾中……。

故に本日の1枚は休載をご理解願いたいわけですが、しかし、こんな年の瀬に首つりの足を引っ張る相談をしている自分が情けないです。

そして会議の中身だって、それを誰の所為にするかが本音はなんですから、悔しいですよ。

これじゃ~、今の民主党を笑えない立場ですが、まあ、離党者というか、こっちはそれでも離反者が出ないだけ、マシってもんでしょうかねぇ。

失礼致しました。

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ママ・キャスの完璧なバブルガム

2011-12-27 16:09:03 | Pops

It's Getting Better / Mama Cass (Dunhill / 東芝)

それなりに長く生きてしまったサイケおやじにしても、今年ほどロクな事の無かった日々は、ちょいと記憶にありません。

それは言わずもがなの大震災から原発事故、全く出口の見えない不景気、政治の混乱やお役人衆の唯我独尊に振り回され、国民は何を信じて明日に向かうのか……。

しかし、そんな日常でも、生きていればこその享楽を求めてしまうサイケおやじは、リスニングライフにおいて、何かお気楽な「バブルガム」系のレコードに手が伸びてしまい、最近は拙ブログでも、そうしたご紹介が多発しているというわけです。

そして本日も、その流れの中で思わず取り出してしまったのが1969年に発売されたママ・キャスのシングル盤で、特にA面の「It's Getting Better」は明るく前向きなムードと絶妙の胸キュンフィーリングが最高の要素で融合した名曲にして名唱!

そう、断言して後悔致しません。

ちなみに1980年代末頃から洋楽マスコミによって広められた「産業ロック」なぁ~んていう、なかなか忌まわしい用語がありますが、「音楽」を「産業」として成立させたのはアメリカ西海岸のハリウッドでしょうし、そこには音楽だけでなく、映画やテレビの制作現場も集中していますから、結果的に「ウエストコーストロック」と称された流行が誕生するのも、その下地があればこそ!?

つまりハリウッドで作られていたポップスはサイケデリックだとか、ハードロックだとか、とにかく時代の最先端をリードする要素が大衆に媚びるが如き姿勢で、しかも必要以上に強調されたものだったのかもしれません。

ですから例のフラワー・ムーブメントの一翼を担ったママス&パパスのママ・キャスがバブルガムロックを歌うとなれば、楽曲もバックの演奏パートも、アレンジもプロデュースも、諸々を含めた最高のスタッフが揃えられなければ成り立たないわけで、その点を極北的に追求完成されたのが、この「It's Getting Better」だとサイケおやじは思います。

とにかくアップテンポで解放感に満ちた曲メロの展開は、ママ・キャスというジャズもロックもソウルも完全に歌いこなせる実力派シンガーによって、既に原曲の魅力を超えた圧巻の仕上がりになっているのですから!

しかし、楽曲そのものの素晴らしさも、やはり打ち消すわけにはいきません。

なにしろそれを書いたのがバリー・マン&シンシア・ワイルという、1950年代から第一線でポップスの名曲を世に送り出し続けて来た名匠ですし、プロデュースを担当したのが、このシングル盤の制作レーベル「ダンヒル」を創立したルー・アドラー子飼にして、サーフィン~ホッドロッド時代から西海岸ポップスのキーパーソンだったスティーヴ・バリというだけで、バックの演奏をやったメンバー、つまりハル・ブレイン(ds,per)、ジョー・オズボーン(b)、ラリー・ネクテル(p,key) 等々の名前が自然に導き出されてしまうという、まさに完全無欠のプロジェクトが、ここにあるのです。

しかも、これは後に同曲が収録されたLP「バブルガム・レモネード&サムシング・フォー・ママ」の裏ジャケットに掲載されたクレジットで判明したのですが、アレンジを担当したのが、これまた当時のポップス界で大きな注目を集め、今に至るも絶大な影響力が無視出来ないジミー・ハスケルなんですから、これでしょ~もない作品が出来てしまったら、ポップスの神様が激怒しますよねぇ。

ということで、なにはともあれ、こうして緻密に作られながら、軽い気分で楽しめる歌や演奏こそが、今のサイケおやじには必要みたいです。

今年を振り返るには、やや早い時期ではありますが、仕事はゴッタ煮状態でしたし、それは大災害の影響を否定は出来ず、加えて気脈を通じていた盟友が次々とリタイヤ……。もちろん自分自身のふがいなさは言うまでもありませんが、既に来年の苦境が容易に推察出来るんのは、情けないかぎりです。

ただし、それでも「楽しいことを作っていくのが人生」という、独り善がりの思いで生き続けているサイケおやじは、これからも享楽を求めていく姿勢を変えることは出来ないでしょう。

あと僅かとなった本年、少しでも楽しくやっていきたいものですねぇ~~。

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これぞっ! 熱血ロッキンソウルのライブ盤

2011-12-26 15:43:45 | Rock

Humble Pie Performance Rockin' The Fillmore (A&M)

ロックの醍醐味のひとつがライプステージの熱狂にあるとすれば、演じていた歌手やバンドの大ブレイクに直結する事も度々なのが業界のひとつ慣わしですから、どのような事情があるにせよ、切り札的に作られるライプアルバムが人気アイテムとなるのはムペなるかな!?

例えば本日ご紹介の2枚組LPは、結成当時からスーパーグループと期待されながら、レコード会社の倒産や諸々の人間関係から煮詰まりかけていたハンプル・パイが1972年に出した起死回生の傑作盤です。

 A-1 Four Day Creep
 A-2 I'm Ready
 A-3 Stone Cold Fever
 B-1 I Walk On Gilded Splinters
 C-1 Rolling Stone
 D-1 Hallelujah I Love Her So
 D-2 I Don't Need No Doctor

既に述べたようにハンプル・パイがスーパーグループ! と期待を集めたのは、本来は実力も業界では認められていたスモール・フェイセズハードという、1968年当時最高のアイドルバンドで中心メンバーだったスティーヴ・マリオット(vo,g,key) とピーター・フランプトン(vo,g) がそこを脱退してまで組んだのですから、これは我国でもリアルタイムの洋楽マスコミでは相当な話題になっていたほどです。

そしてグレッグ・リドレー(b,vo)にジェリー・シャーリー(ds) という顔ぶれが揃っての公式デビューから翌年に発売されたシングル盤が傑作「あいつ c/w Wrist Job」だったのですが……。

首尾良く各方面で好評を得たのも束の間、ピーター・フランプトンの怪我やレコード会社の倒産によってマネージメントが縺れ、その流れの中で制作された2枚のアルバムも泣かず飛ばずでしたから、1970年に入ってアメリカのA&Mレコードと新たな契約に踏み切ったのも、心機一転というよりは、かなり切羽詰まった事情があったと言われています。

しかし如何にもアメリカ流儀の売り出し方として、頻繁なライプ巡業こなしながらのレコード制作&発売が、結果としてスモール・フェイセズもハードも果たせなかったアメリカでの大きな人気の獲得に繋がったのですから、グループの選択は正しかったわけです。

そして力強い2枚のアルバムを出した後、評判の高かったライプステージを決定打にするぺく作られたのが、この「パフォーマンス・ロッキン・ザ・フィルモア」と名付けられた、そのタイトルに偽り無しの大名盤!

1971年5月に今や伝説のフィルモアイーストで録られたそこにはハードで粘っこく、ソウルフルでロック魂に満ちた演奏がテンコ盛りに詰め込まれ、曲によってはLP片面全てを費やしたトラックがあるのは、如何にも当時のロックがその場のノリでやってしまうアドリブや盛り上げ方を重要視していた事の表れですし、また、そういう展開が出来なければ、これは一流のバンドと評価されない要因でもありました。

ですから、せっかくやった長尺演奏が退屈だったりしたら、それはもう自縄自縛の地獄と化すんですが、ご安心ください! ハンプル・パイは、たった4人で見事な熱演を披露しています。

なにしろ冒頭の「Four Day Creep」からして、これはアメリカの女性ブルース歌手として歴史に名を残すアイダ・コックスの十八番を見事なハードロックに仕立てるという、なかなか真に迫った熱演になっているんですが、特筆すべきは情熱優先主義に徹するスティーヴ・マリオットの黒いボーカルに対峙するピーター・フランプトンのギターが、実にメロディアスなフレーズの大洪水♪♪~♪

もう、最初に聴いた時から、こんなに歌心のあるアドリブソロって、本当は寝ないで考えたんじゃなかろうか……?? とサイケおやじは勘繰ったんですが、それこそがギタリストしてのピーター・フランプトンの持ち味なんですねぇ~♪

とにかくアルバム全篇を通して、それが溢れる泉の如く堪能出来るのですから、ハードロックギター好きには急所を鷲掴みにされたも同然でしょう。

一方、もうひとりの看板スタアたるスティーヴ・マリオットも負けじと奮戦! コテコテに粘っこく、火傷しそうに熱い歌いっぷりは言わずもがな、重心の低いサイド&リードギターはロックの本質を体現していますし、当時既に本格的な流行になっていたスワンプロック的なニュアンスも楽しめるのは、そこに由縁していると思います。

またドラムスとベースのゴリゴリ感も流石の一言で、実は有名すぎるR&Bヒットの「Hallelujah I Love Her So」、あるいはシカゴブルースの大定番「I'm Ready」や「Rolling Stone」が単なるブルースロックの焼き直しに陥っていないのは、グレッグ・リドレーとジェリー・シャーリーの個性派(?)コンビの頑張りにあるんじゃないでしょうかねぇ~♪

ですから、今に至るハンプル・パイと言えば、これが出ないと収まらない「I Don't Need No Doctor」が、実はレイ・チャールズの有名持ちネタである真相から遊離し、完全に自家薬籠中のオリジナルの如き人気を集めてしまったのも当然が必然です。

もう、このあたりはサイケおやじが稚拙な文章を弄するよりも、皆様には絶対に聴けずに死ねるか! そういう思い入れで楽しんでいただきたい名演なんですよっ!

それと長尺演奏の決定版として、これまた変形R&Bの「I Walk On Gilded Splinters」はメンバー相互間のアドリブ合戦とバンドしての意思の疎通が、なかなか危ういバランスの上で成立した奇蹟かもしれず、それゆえに紙一重のなんとやら……。

これまた、かなりの思い入れがないと、現代では聴き通すのが苦しくなる皆様もいらっしゃるはずですが、それは「ロック全盛期」の免罪符ってやつかもしれませんねぇ。告白すれば、なぁ~んて書いてしまったサイケおやじにしても、額に汗が滲むわけです。

しかし、その意味で純粋なバンドオリジナルの「Stone Cold Fever」が、妙にあっさりしているのは、この時期のハンブル・パイがひとつの限界に来ていたことの表れかと思います。

なにしろピーター・フラントンが、このアルバムの大成功を待たずしてグループを脱退したのも、闇雲にハード&ソウルフルな音楽性ばかりを全面に出す方針が人気の秘訣と知ったからと言われているとおり、本人はもっとメロディ優先の歌と演奏を希望していた事は、独立後に作られたリーダー盤を聴けは納得されるはずです。

ということで、これはロックのライプアルバム「ベストテン」は無理にしても、「ベスト50」には必ずや入るであろう名盤だと思います。

そして良く言われるように、ハンブル・パイとフリーは共に英国ロックのブルース&ソウル部門では「似た者同士」でありながら、決定的に異なる個性を持った稀有な存在であり、個人的にはフリーが豪胆ならば、ハンブル・パイは柔軟な姿勢があったように感じています。

ただし、それはピーター・フランプトンが在籍していた時までであって、後任としてデイヴ・クレムスンというロックジャズもイケるハードなギタリストが参加した事により、ハンブル・パイは尚更にドロドロした音楽性を硬派に演じていくのですから、逆に物分かりが良くなっていったフリーとの対比も、些か色あせてしまったように思います。

そこで絶対に忘れられないのが、やはり本日ご紹介のアルバム「パフォーマンス・ロッキン・ザ・フィルモア」でありまして、この傾向のロックを目指すバンドは日本も含めて世界中のグループが当時、お手本にしていたものです。

まさに聴いているうちに寒さもブッ飛ぶ、熱演盤!

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汎用性世界一のマイ・ガール

2011-12-25 16:28:36 | Soul

My Girl / The Temptations (Gordy / 日本ビクター)

世界で最も有名なR&Bヒットを選ぶ時、必ずや有力候補に挙げられるのが本日ご紹介の名曲でしょう。

実際、1965年にテンプテーションズが演じるところの「My Girl」はアメリカのチャートでトップに輝き、もちろん忽ち世界中で大ヒットして以降、今日まで歌い継がれ、加えて夥しいカパーバージョンが吹き込まれていますから、何時の時代もリスナーの耳を奪ってしまう傑作であると思います。

で、そのキモはなんといってもシンプルでありながら、実にキャッチーなイントロであって、幾分シンコペイトしたギターフレーズの黒っぽくてお洒落な雰囲気は未来永劫、不滅!

それと柔らかくて覚え易いメロディが、イントロに続く同じリフに乗せられて歌われていくところの流れの良さは本当に絶品のアレンジで、これは後に知ったことではありますが、バックの演奏メンバーは白黒混成の腕利き揃いが即興的にレコーディングの現場で練り上げたというのですから、何か全てに神がかったインスピレーションが「My Girl」には染み込んでいるのかもしれません。

もちろん演じているテンプテーションズは、おそらく大きなヒットはこれが最初でしょう。当時のメンバーはポール・ウィリアムス、エディ・ケンドリックス、デヴィッド・ラフィン、メルヴィン・フランクリン、オーディス・ウィリアムスの5人でしたが、1961年のテンプテーションズ名義での正式デビュー以前から、各々は別々のグループで歌っていたことは言うまでも無く、また個性的な振り付けのダンスや絶妙のコーラスワークが曲毎のリードボーカリストをサポートする魅力は、おそらくは同系黒人グループの最高峰として各方面から高い評価を得ています。

ちなみに、このオリジナルシングルバージョンの「My Girl」でリードを歌っているのはデヴィッド・ラフィンですが、以降の頻繁なメンパーチェンジの所為もあり、実際のライプステージではそれが度々代わっていたと言われていますし、既に述べたとおり、夥しいカバーバージョンの中ではローリング・ストーンズやママス&パパス、そして我国のGSも定番的に演じていたとおり、極めて汎用性の高いところが永劫性の秘密だと思われます。

そして告白しておけば、サイケおやじが「My Girl」を知って、忽ち好きになったのは昭和43(1968)年頃、テレビで某GSがやったのに接してからで、このバンドの名前を失念したのが全く不覚なほど、それは素敵な演奏でした。

というか、楽曲の魅力が優先していたのが本当のところでしょう。

直ぐにレコード屋の店頭で確認した時、初めて黒人グループのテンプテーションズがオリジナルだった事に突き当ったのですからっ!

ということで、本日掲載した私有のシングル盤は後年になって中古でゲットしたものですから、リアルタイムのオリジナルではないと思われますが、これも所謂モータウンサウンドを代表する1曲であれば、その白人感覚は不思議も何でもありません。

つまり当時の最先端は黒人が演じる白人ポップスであり、また逆に白人が演じる黒人音楽のブルースロックやブルーアイドソウルという、逆転的発想が必要とされていたわけですから、とりあえず人種差別に拘らなかった日本や世界各国で幅広くロックやR&Bが浸透していったスピードの速さも納得出来ます。

そしてテンプテーションが1980年代末、なんと「ロックの殿堂」に入るという快挙も、全盛時代にサイケデリックロックから極めて強い影響を受けたような、元祖ニューソウルをやってしまったからでしょうか?

それもこれも、全ては「My Girl」から始まったとすれば、ますます感慨深いところです。

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歌謡フォークのカルメン・マキも別格

2011-12-24 16:01:10 | 歌謡曲

時には母のない子のように / カルメン・マキ (CBSソニー)

昨日はお伝えしたとおり、劇場版映画「ワイルド7」を鑑賞♪♪~♪

まあ、書きたい事は思い入れがある分だけ多すぎますんで、結論だけ言えば、すっかり「その気」にさせられましたよ。観客の目的意識を喚起する意味においては、成功作だったんじゃないでしょうか。

今は、それだけでご容赦下さいませ。

で、映画館を出てからは、これまた予定のあった宴会に出たんですが、そこには場違いとしか言いようの無い、某与党の女代議士先生が来ていて、世迷い言で嘘の上塗りをホザくんですから、いやはやなんとも……。

よくもまあ、ヤジが飛ばなかったもんだっ!

もちろん、サイケおやじは、そこに「非礼」という言い訳を用意しての腰ぬけ状態なわけですが、その場の辟易感は実に濃厚でしたよ。

そして、そういうムードですから、当然ながら二次会は気の合う者同士で流れまくり、ついには定番の昭和歌謡カラオケ大会と相成り、本日のご紹介は、そこで辿りついた店のチイママがハートウォームに歌ってくれた大名曲♪♪~♪

今となってはロックシンガーのカルメン・マキが昭和44(1969)年のデビュー時に大ヒットさせたアンニュイな歌謡フォークとして、時代と共に日本の社会状況には染み込み過ぎた感もあるんじゃないでしょうか。

その無気力となげやりなムードで歌うカルメン・マキは当時17歳でありながら、日米ハーフという生い立ちに起因する、なかなかディープな美貌が圧倒的な個性を放っていた事は、リアルタイムをご存じない皆様にも、掲載したシングル盤のジャケ写によって充分に納得いただけると思います。

う~ん、この「つけ睫毛」の凄さも、彼女のナチュラルな美しさのひとつかもしれませんねぇ~♪ それほどカルメン・マキは雰囲気ありましたですよ♪♪~♪

ちなみに彼女は本来は女優であり、前年に寺山修司が主宰の「天井桟敷」に入団していた履歴があるんですが、直ぐに業界からスカウトされる経緯も含めてのレコードデビューには寺山修司の作詞、田中未知の作曲という「時には母のない子のように」が用意されたのですから、既にヒットは確定的だったと言われています。

ただし、詳しくは書くことが出来ませんが、歌詞の問題云々は残酷性も確かに認められることから、別の角度からの話題もありましたですねぇ……。

まあ、そのあたりは、当時はガチガチに固かったNHKにも出演が可能だった現実によって霧散したわけですし、続く同路線では「山羊にひかれて」とか「私が死んでも」等々のヒットを放った事で結果オーライ!?

ところがそんな人気絶頂時、カルメン・マキが突然のロック転向表明という、今では歴史の事件(?)があり、しかし何故か業界も世間一般も、それには大して驚かなかった記憶もあるんですが……。

というか、その頃の日本のロックなんてものは完全にマイナーな世界であって、まともに生活出来ない事象の代名詞でもありましたから、最初からアングラ劇団出身の彼女が元の世界に戻ったという受け取り方があったように思います。

しかし皆様が良くご存じのとおり、カルメン・マキは大成功を勝ち取り、まさに日本のロックを作った偉人のひとりになったのですから、このデビュー曲を歌謡フォーク云々として軽んじることも出来ないでしょう。

つまり「時には母のない子のように」があってこそ、日本のロックの大名曲「私は風」が残されたんですよねぇ。

尤も正直に告白しておけば、サイケおやじはロックシンガーとしてのカルメン・マキにはライプも含めて何度も接していますが、結果的に歌謡フォークを演じていた時の方が好きなんですよ。

それは時代性という事もあるんでしょうか、ギスギスにリアルな情感をちょいとオブラートに包んだようなプロデュースに好感が持てるのかもしれません。

ですから、何時までも歌謡フォーク期のカルメン・マキが忘れらず、事ある毎に和んでしまうのでした。

そう言えば書き遅れていましたが、確か篠山紀信が撮影した彼女の18歳のヌードも良かったなぁ~~♪ 残念ながら今は手元に無いんですが、そのイメージは今もサイケおやじのスケベ心に焼きついています。

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危険なカーヴは不可解なり

2011-12-23 13:39:52 | Pops

危険なカーヴ / Jan & Dean (Liberty/ 東芝)

いよいよ本格的な冬の到来とあって、生活全般には諸々の注意が尚更に必要となるわけですが、昨日のサイケおやじは車の運転中に危うくあの世へ行くところでした。

と書けば、例によって大袈裟な!?!

なぁ~んて呆れられる皆様もいらっしゃるとは思いますが、実は今、雪国で仕事をしているサイケおやじには車が必須ですし、当然ながらスタッドレスタイヤを装着していながら、それが原因不明のバーストに陥るんですから、全く油断は出来ません。

それは昨日午後、ほとんど交通量の少ない山間部を走りつつ、ゆるやかな下り坂のカープに入ったところで急にハンドルを左にとられ、同時に何かの衝撃音に気がついたので停まってみると……。

なんとっ!?

前輪左のタイヤが完全にパンク状態で、確認してみると大きく裂けしまったバースト状態だったんですねぇ~~!?

もちろん、何かに衝突したとか、擦ったとかの自覚症状も無く、その周囲にも障害物は無いのですから、本当に不可解です。

もちろんタイヤそのものは既に3シーズン目で幾分は擦り減っていますが、それでも今冬は充分に使えるであろうことは素人でも認識出来る程度なんですよ。

スピードだって、きっちり落していたわけなのに、それが間違えればあの世へ直行だったかも……。

しかし首を捻っているばかりにもいきませんから、速攻でスペアタイヤの交換作業に移ったんですが、悪い事にその時の天候は霙混じりの激しい雨とあって、レンチやジャッキはすべるし、手は冷たいし、何よりも普通のコート姿だったんで、全身がずぶ濡れになっての悪戦苦闘でした。

で、どうにか走行可能になって、そのまんま行きつけのGSで新品タイヤを入れたわけですが、そこで非常に気になる話をされました。

それは件のカーヴは、これまでも度々事故が頻発している問題個所で、最近も死亡事故があったそうですし、そういえば「事故多発注意」という立て札もあった記憶が鮮明です。

で、その原因は過去に凶悪なひき逃げ事件があり、未だ犯人が捕まらずに長い年月が過ぎているという因縁は、なにか良く出来た話という感じが濃厚とはいえ、以降に発生した交通事故は何か想定外の事例が多いとの事……。

そういえばサイケおやじにしても、何ら原因に思い当たるフシが無いのに、現実のタイヤバーストは超常現象か!? と納得させられてしまうわけです。

そして今回もまた、自らの悪運の強さを実感させられたわけですが、そういう事ですから、本日の1枚は「危険なカーヴ / Dead Man's Curve」という次第です。

演じているジャンとディーンは所謂ビーチボーイズ系のサーフィン&ホットロッドのスタイルで多くのヒットを飛ばした、まさに1960年代の西海岸ハリウッドポップスを代表する人気コンビなんですが、この「危険なカーヴ / Dead Man's Curve」は後者のホッドロッドと称される車を歌ったヒット曲の象徴して、1964年春の全米大ヒット以来、今日まで忘れられていないものと思います。

とにかく大らかなイントロから些か呑気な曲メロの展開と歌い回しが、少しずつ緊張感を孕んでいくような流れは、なかなか良く計算されているんじゃないでしょうか。なにしろ中間部では急ブレーキの効果音が入り、シビアな語りからグッと厚みのあるサウンドに変化していくところは、始まりとは相当に異なる世界観を提示する目論見が成功した感が濃厚です。

しかも、既に皆様もご存じのとおり、実はこのヒットからおよそ2年後、ジャン・ペリーが交通事故で重体となって、グループは活動停止……。

全く悪い予感が現実となっては、一概に残念とだけは決めつけられないものがありますねぇ。

ということで、昨日はタイヤ交換後にびしょ濡れの衣類を着替え、仕事を片付けた流れで予定どおりの宴会にツラを出し、全く酒を飲まないので、そのまんま高速使って車を飛ばし、自宅に戻ってきました。

もちろん「車を飛ばし」と書いたものの、昼間の事故もどきと雪の悪天候の所為で、運転は慎重優先モードでしたよ。

まあ、それが常日頃、当然の仕儀でなければなりませんがねぇ。

最後になりましたが、自宅で本日掲載のシングル盤をレコード棚で探索中、なんでここにっ! という状況の二千円札を発見♪♪~♪ 今やすっかり過去の遺物というか、忘れられた存在でも、お金に変わりはあるじゃなし!

ちょっぴり慰められた気分ですし、本日は待望(?)の劇場版映画「ワイルド7」を鑑賞する、その料金に使ってくれという事なんでしょうねぇ~♪

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今も最高な辺見マリの恋

2011-12-22 15:18:45 | 歌謡曲

サンドラの恋 c/w  光の季節 / 辺見マリ (ワーナーパイオニア)

最近の芸能人の結婚には、ほとんどが「デキ婚」なぁ~んて話題がつきまとっていますが、なにかそうでなくてはマスコミが困ってしまうような風潮は???

しかし、そうだとしても、確かにおめでたい話題の中で新婦がアイドルやスタア女優であれば、少しでも彼女を気にかけていた野郎どもの心中は穏やかではありません。

尤も、何れは「破局」とか「別居」とか、ついには別れ話の縺れも含め、それが後々には続く予想さえも、これまたマスコミを浮かれさせるのですから、やりきれませんねぇ……。

さて、そこで本日の主役たる辺見マリは皆様もご存じのとおり、日米ハーフの美女としてタレント活動の後、昭和44(1969)年に歌手デビューし、その最初のシングル曲「ダニエル・モナムール」から大ヒットを連発!

なにしろ当時、二十歳前という若さと芳醇なエロキューションのアンバランスな魅力は、忽ちにして日本男児を虜にする、所謂セクシー歌謡路線の新しき曙を到来させ、以降は「経験」「私生活」「めまい」「とまどい」等々、如何にものタイトルが思わせぶりな楽曲をクールな情熱で歌いまくってくれたのですから、たまりませんでしたねぇ~~♪

もちろん当時の慣例としてキワドイ衣装や水着姿も出し惜しみせずに披露し、ヒット曲の歌謡映画化に際しては、ちょい役での出演もあり、加えて様々なCMにも登場する等々の大活躍は、まさに昭和元禄を彩るものとして忘れられません。

ですから、これまた当時のスタア俳優だった西郷輝彦との結婚により、昭和46(1971)年末に芸能界からの引退発表は、あまりにも人気絶頂の最中に潔すぎる決断として、世間を騒がせました。

そして本日ご紹介するのが、そのラストシングルとして企画され、同年12月に発売された、今も不滅の名曲名唱です。

ちなみに、ここで「企画され」と、あえて書いたのは、辺見マリの結婚引退は既に同年秋の時点で所属事務所とレコード会社から許諾されていたという事実が後に公表されたからで、そのポイントにおいての用意周到さは、年月を超えて流石の感服というところでしょう。

特に収録された楽曲両面ともが、彼女のデビュー盤となった「ダニアル・モナムール c/w ふりむかない季節」に関わった作詞:安井かずみ、作曲:村井邦彦、そして編曲:川口真という黄金のヒットメーカートリオによって作られたという部分は、その出来栄えの見事さ共々に圧倒的な成果だと思います。

それはまずA面の「サンドラの恋」からして傑作の極みであり、所謂ソフトロック歌謡ポップス最高峰のひとつと断言して、後悔しないものがあるほどっ! 当然ながら、そこには彼女の結婚を祝福する高揚感が歌詞とサウンドの双方から確立されていますし、ウキウキ感と微妙な胸キュンフィーリングをフレッシュに歌いあげる辺見マリのリアルな実在が本当に素晴らしいですよ♪♪~♪

ちなみに同時期の我国で東映が制作公開した成人映画「現代ポルノ伝・先天性淫婦」への出演で大ブレイクしたサンドラ・ジュリアンというフランス系のポルノ女優が自ら歌って発売したシングル曲「サンドラの森」は、作曲が同じ村井邦彦のフレンチポップス系歌謡曲とあって、こちらの「サンドラの恋」との関連も各方面で指摘されているようですが、どうなんでしょうねぇ~~。

個人的にはあまり気にしてはいないのですが、念のために書き添えておきます。

閑話休題。

一方、B面に収録された「光の季節」はスローな情感を表出させる名曲で、失礼ながら本来はこうした曲調が不得手と思われる当時の辺見マリが、じっくりと歌いあげる仕上がりは侮れません。何か万感の思いを込めたような雰囲気の良さこそが、大きな魅力じゃないでしょうか。

ということで、このシングル盤を出して間もなく、彼女は引退~結婚し、生まれた愛娘は今やタレントの辺見えみりというわけですが、そういう事でしばらくは専業主婦をやっていた辺見マリも1980年代には芸能界に復帰し、西郷輝彦とは離婚に至りました。

まあ、そういう道は別に芸能人でなくとも、大人であれば充分に納得も理解も出来るはずですし、現実に同じ状況を歩んでいる人だって大勢いることは言わずもがなでしょう。

しかし辺見マリには正式デビュー時から夥しいファンがつくという、ある意味では幸せな重荷があり、また生まれついての美貌と長じてからのフェロモン放出度の高さは、もう罪作りだったかもしれません。

それゆえに昭和46(1971)年の結婚から引退は実に勿体無いなかったというのが、大方の本音じゃないでしょうか。

ただ、それでも全てを許容するのがファンの心得である事も間違いではありませんから、このシングル盤を含めた彼女の全ての楽曲を楽しませていただける幸せは大切にするべきと思います。

ド派手な付け睫毛も強すぎるインパクトのジャケ写ではありますが、それも愛おしいかぎりなのでした。

コメント (2)
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