北九州の、弥生時代始めの遺跡から、青森の漆塗り土器片が発見された。
東京大学の設楽先生は、常識を覆す仮説を提唱する。青森の縄文人は、先端の稲作技術を視察するため、縄文土器持参で見学しに来た。
青森から船で北九州まで来たことも驚きだが、その情報は、どうやって手に入れたのか。
私は知っている。縄文人の航海技術を侮ってはいけませんよ。糸魚川のヒスイや秋田のアスファストが広く流通していたことは分かっている。
普段から例えば江戸時代の北前船のような、航路が知られていた可能性はあると思う。
稲作は北九州から東へ次第に広がって、文化というものは西高東低だという観念がある。
大阪八尾空港近くにある田井中で、河川工事に伴い500mにわたって遺跡を調査した。
すると弥生人が暮らす遺跡を挟んで、同時代に縄文人の集落があることが分かった。
これが過渡期の典型的な日本列島の姿だと思う。人種が別なような言い方をしているが、縄文の生活が好きな人、新しいモノ好きな人、居たんじゃないか。
弥生土器の中に縄文の模様があったり、多様性の期間が500年くらい続くらしい。だから弥生時代という言い方は見直す必要がありそうだ。
稲作を始めると、田んぼを確保する必要があるから、必然的に狭い土地の取り合いになる。
こうやって1万年以上続いた平和な時代は、終わりを告げる。
もう一つ、気に入らないことがある。縄文人は土偶を祭祀の道具に使って、祈ることばかりやっていたような言い方をするが。
そんなヒマな人間の集まりだったのか。そう考える人は、自分と縄文人は違う人間と思っているようだ。
関西から来た人は、声が大きいし、辺りの状況に構わず関西弁で空気を圧倒する。
その自意識の裏には、西から東に文明は伝わり、未開の民族を見下すような雰囲気を感じさせる。
どうせ田舎ですよ、ここは。
好戦的な民族を、縄文人は好きじゃないんだよ。
何があったのかって?
何もないよっ。