その社(やしろ)は、大型ショッピングモールのあるバイパスから、田んぼに向かって360mの場所にあった。
戦乱に明け暮れた室町末期、信長の台頭してきた1570年建立。飛騨から来た工匠が建てたと、伝えられる。
このプロポーション。2.5m四方の母屋に対して、大きすぎる屋根。そして特徴的な、2本の並行線が交わった、襷桟(たすきざん)。
普通のプロポーションでも、屋根の反り返りを維持するために、かなりの複雑な軒の組み物を必要とする。これは一種の「てこの原理」だ。支点、力点、作用点。見えない内側に軒の垂木(たるき)を支える秘密がある。しかしこれは完全にやり過ぎ。匠中の匠(たくみ)だからこその成せるワザだ。
昔、京の都にプロの集団がいた。「飛騨の匠」と呼ばれた。それが昭和5年、古四王神社の解体修理で、墨書きの名前が出てきた。それは「古川村、甚兵衛」と読めた。岐阜の方でも語り継がれる名工がいた。古川村の五社神社を建てた匠は、請われて越後へ行き、さらに出羽の国へ入った。ここで1本の線が繋がったが、名前を特定するまでは至らなかった。
そして今、古川町に屋号が「甚兵衛」と言われる家が1軒存在する。今は途絶えたが、昭和20年に戦死した甚兵衛さんまでは、代々甚兵衛を名乗る匠であったことが分かった。やはり飛騨の匠の中の匠は秋田に来ていた。
建築家にして建築史家の伊藤忠太(1867~1954)という人物がいる。彼はこの神社を見て次のように言った。「手法、放縦、磊落、端倪スベカラズ。実に奇中の奇、珍中の珍ト称スベキナリ」まあ現代語に訳すと、自由奔放、想像を超えていて・・・というところでしょう。この番組の案内役が壇蜜で、だから行ったのですが、檀蜜はおらず代わりに私のような珍品好きがチラホラ途絶えることなく見学に見えていました。