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もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

アーカイブ 浅田次郎「蒼穹の昴(一)~(四)」「珍妃の井戸」「中原の虹(一)~(四)」 評価4~5

2011年12月30日 21時04分22秒 | 一日一冊読書開始
12月30日(金):

今日は、あまり多くない知り合いの人たちに年賀状を書かなければならないので、読書はお休みです。代わりに過去のアーカイブを載せておきます。浅田次郎の作品は、その世界に入り込むと、史実でないのはわかっていても、虚実ないまぜになった物語世界にもうぐいぐいと引き込まれてしまう。芸術家ではなくても、本当に達者な職人だと思う。

2008年1月

浅田次郎「蒼穹の昴(一)~(四)」

(1)377ページ  所要時間4:55   評価5
科挙(卿試→会試→殿試)の社会的影響の描写や男性器を切除し、預かることで宦官たちを支配・搾取する刀子匠の存在、胡同の描写、乾隆帝と郎世寧。

(2)367ページ  所要時間4:40   評価4
おもしろいが、李春雲(リイ チュンウン) / 春児(チュンル)の出世譚が少し調子良過ぎる感じだが面白い。曾国藩と李鴻章の関係と清朝における存在の大きさ、二人は進士である。

(3)372ページ  所要時間5:20   評価4
西太后と光緒帝の義母子関係の深さ。李鴻章の存在の大きさ。光緒帝と康有為(アジテーター)の出合いは変法の失敗を暗示。職人としての宣教師。

(4)388ページ  所要時間5:30   評価4
梁文秀(リャン ウェンシュウ)のモデルは梁啓超?。王逸(ワンイー)の守護すべき龍玉(ロンユイ)が実は毛沢東という展開はズッコケタ。サービス精神は良いが、マンガ的に過ぎる。

※NHK放送の日中合作ドラマ「蒼穹の昴」は、全くの駄作だったが、原作を根こそぎ改変した全く異なる別のものである。

2008年3月

浅田次郎「珍妃の井戸」 ※「蒼穹の昴」続編

 402ページ  所要時間5:05   評価5
1日で一気に読んだ!。珍妃の死の真相について立場の違う7人の証言がすべて食い違う。廃太子プーチンの自殺説が一番本当らしい?。歴史の真実の不確かさ。芥川の「藪の中」の技法。中国旅行の紫禁城を思い出した。

2009年5月~7月

浅田次郎「中原の虹(一)~(四)」  ※「蒼穹の昴」続編
 
*書名しか記録していない。評価は4~5だった。とにかく面白かった!

 主人公は満州馬賊の総攬把(ツォンランパ;総首領)の張作霖(チャン ヅォリン)で、決め台詞は「鬼でも仏でもねえ。俺様は張作霖だ」。もう一人がチュンルの生き別れの兄李春雷(リイ チュンレイ) / 雷哥(レイコウ;レイ兄貴)。中央では変法自強失敗(戊戌の政変)後、李鴻章(リイ ホンチャン)なき清朝では、袁世凱(ユアン シイカイ)が実権を握り、辛亥革命を経て、中華民国となり、混沌を深めいていく。
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113冊目 神谷美恵子「生きがいについて 神谷美恵子著作集1」(みすず書房;1966) 評価5

2011年12月30日 06時54分01秒 | 一日一冊読書開始
12月29日(木):

288ページ  所要時間5:10

20年以上、読まずに死蔵していた本を、この機会に浚えてしまおうと、本棚から取り出して読み始めた。今回は休息のつもりで、楽そうな本を選んだつもりだった。しかし、とんでもない地雷を踏んでしまった!。生易しい本ではなかった。

はじめは、眉につばをつけて用心しながら、読み始めた。頻りに外国人の名があげられて、あの人がこう言っている、この人がああ言ってる、と引用して、コメントを加える。「なんだ切り貼りだらけの内容で、所謂「~では」調の出羽守タイプか」と相当に怪しんでいた。

ただ、全体としては概ね良心的内容が語られているし、すべて正しいことだと思うので読み続けた。一方で、「だから何をどう受け留めたらよいというのか?」わからない。

しかし、後半になって、岡山県長島愛生園のハンセン病患者の記述が中心に据えられると、人間の「極限的絶望」の紹介であり、想像を絶する内容であった。著者自身の語りは坦々と進められるのだが、そこに紹介され続けるのは、人間の「生きがい」と真っ向から対立する「極限的絶望」の数々であって、全く洒落にならない。絶望的状況の数々は敢えて書きません(というか、時間もエネルギーもありません)。皆さんで是非読んで下さい。

「患者たちの「絶望」は、極端な形で表れるが、それはすべての人間の「絶望」でもある」などと言われても…。著者の話もどう受け止めてよいのか、どうも波長が合ってこない、ピンとこないのだ。とりあえず、確かなことは、<ただ事でないこと>が紹介・提議・論議されているということだけである。

とにかく、読んでいて疲れる内容の本だった。しかし、途中で読むのをやめようという気には全くならない。終りまで目を通し終えて、この本が、人間の「存在」「生命」の根源に関わる最も大事な問いを発している、非常に質の高い実存哲学・思想・宗教・臨床心理学の書だ、ということ。フランクルの「夜と霧」に匹敵(凌駕?)する内容の本だ、と思う。

この本は、一気に読んで、内容について軽々にコメント云々する本ではない。じっくり十分な時間を懸けて読むか、何度も折に触れて読み直し、<座右の書>とすることで、自分自身の精神を練り上げる縁(よすが)にすべき本である、と思った。

変革体験。

結語:愛生園でも病状が重く最底辺のハンセン病患者たちにも「なお生きる意味というものがありうるのか」という最も厳しい問いに対して、「人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。野に咲く花のように、ただ「無償に」存在しているひとも、大きな立場からみたら存在理由があるにちがいない。自分の眼に自分の存在の意味が感じられないひと、他人の眼にもみとめられないひとでも、私たちと同じ生をうけた同胞なのである。もし彼らの存在意義が問題になるなら、まず自分の、そして人類全体の存在意義が問われなくてはならない。そもそも宇宙のなかで、人類の生存とはそれほど重大なものであろうか。人類を万物の中心と考え、生物のなかでの「霊長」と考えることからしてすでにこっけいな思いあがりではなかろうか。/現に私たちも自分の存在意義の根拠を自分の内にはみいだしえず、「他者」のなかにのみみいだしたものではなかったか。五体満足の私たちと病みおとろえた者との間に、どれだけのちがいがあるというのだろう。私たちもやがて間もなく病みおとろえて行くのではなかったか。パール・バックにとって、精薄(ママ)の娘はそのままでかけがえのない子どもであるように、大きな眼からみれば、病んでいる者、一人前でない者もまたかけがえのない存在であるにちがいない。少なくとも、そうでなければ、私たち自身の存在意義もだれが自信をもって断言できるであろうか。略。/これらの病めるひとたちの問題は人間みんなの問題なのである。であるから私たちは、このひとたちひとりひとりとともに、たえずあらたに光を求めつづけるのみである。」

※この著書は、加賀乙彦「死刑囚の記録」に並ぶ基本的文献だと思う。

※ノーベル文学賞作家パール・バックが「精神薄弱(ママ)」の娘を生み、絶望の底から娘の存在を意味あらしめる道を求め続ける話を知ったことも大きな収穫だ。

※睡眠不足と疲労で、表現が大げさになっているかもしれないですが、お許しください。お休みなさい。 

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112冊目 高橋和巳「邪宗門(上)」(朝日文芸文庫;1966)  評価 5

2011年12月29日 07時17分19秒 | 一日一冊読書開始
12月28日(水):

568ページ  所要時間7:00  結論を先に言っておく。「めちゃめちゃ面白かった!」の一言に尽きる。

※大学の頃から、なぜか高橋和巳を身近に感じていた。「我が心は石にあらず」を読んだが、労働運動にピンとこなかった。「憂鬱なる党派(上)(下)」「堕落」は買ったが読めず終い。小説では、挫折したが、「孤立無援の思想」「現代の青春」「わが解体」「人間にとって」などのエッセイ集は、折に触れて目を通し、いつもお守りのように持ち歩いたり、座右に置いていた時期が長く続いた。記憶違いでなければ、大学紛争で立て籠もる学生たちが、同じ世代の高卒の機動隊員たちを蔑む罵声を浴びせるのを聞いた高橋和巳が、その歪んだエリート意識に深く失望したり、象牙の塔たる京都大学の教授選考会で強烈な差別がまかり通る現実を暴露し糾弾するのを読んで「この人は、本物のインテリ(知識人)だ!」と共感していた記憶がある。

その延長で、「邪宗門(上)(下)」2冊を買ってあったのだ。しかし、その難解そうな印象と読むのが遅い負い目と、上下1150ページを超える分量に圧倒されて、気になりながら、15年以上、本棚の肥やしとして死蔵していた本だった。

今回の一日一冊読書(風前の灯だが…)の勢いと、東大の先生方が高く評価しているのを知って、一度は挑戦してみようという気になったのだ。

文庫裏の紹介文「たとえ天国の眼前にあろうとも、一人の餓鬼畜生道の徒あるかぎり我らは昇天せじ……現世で世直しは可能なのか。ありうべき世を求めて権力と相対峙した新興宗教団体“ひのもと救霊会”の誕生から壊滅に至るまでの歴史と夢幻の花をこの世に求めて苦闘した人々を描いた壮大な叙事詩」

今回も深く味わうことなど考えていては絶対に読み通せない。「吉里吉里人」読破の時と同様、1ページ30秒眺め読みの戒律を課して取り組んだ。ただ、終盤あまりの面白さに、30秒を守れなかった。

話の展開は、三部構成。序章を経て、第一部が1930-1932年(昭和恐慌~五・一五事件)、第二部は1940年(日中戦争泥沼化)、第三部は1945年(敗戦,GHQ占領期)で戦前・戦中・戦後の大本教弾圧をモデルに創作した<ひのもと救霊会>をめぐる群像小説。

開祖=行徳まさ(出口なお?)/教主=行徳仁二郎(出口王仁三郎?)/教主夫人=行徳八重/教主長女・次女=行徳阿礼・阿貴/堀江駒・菊乃・民江/植田文麿・克麿兄弟/浮浪児(遍歴・苦学を経て三高生となる)=千葉潔/佐伯医師/有坂卑美呼/高倉佳夫看護士(元医師)etc. 三行(歩行・誦行・水行)・四先師・五問・六終局・七戒・八誓願なる要諦、「子種の夫はあっても、魂(みたま)の夫などこの世にあると思うな」

神道系新興宗教団体の成立と信者・民衆との結びつき、昭和大恐慌、小作争議、労農問題、戦前・戦中の新興宗教やプロレタリア労働運動に対する国家の弾圧・統制、天皇諫暁、宗教と性、女性の解放(ジェンダーなんて言葉は当時存在しない)、教姉教弟制(性的関係含む)、新興宗教の“世直し”とプロレタリア労働運動との近似性と接近、法廷での治安維持法違反をめぐる宗教論争、戦時下の教団分裂、五・一五事件青年将校の挫折・転落、教団壊滅;炭坑労働者の実態と悲惨、戦時中のミクロネシア・ポナペ島での布教、宗教と差別、ハンセン病患者の隔離された世界での性の問題、戦時中の大阪の貧民窟での医療、禅寺での公案とカニバリズム(貧困で餓死した母親の肉を食べた千葉潔)の対決、宗教におけるユーモアの精神・笑いの精神の大切さetc.

著者35才。買った当時は、ほとんど気にならなかったが、読んでみて、著者の年齢と作品のレベルの高さとの落差にボー然とするしかない。白川静に私淑する中国文学専門の学者である著者が、全く異なる様々な世界・世間の現状・歴史に対して、35才という若さで、どうしてこんなに緻密・詳細、リアルな記述表現ができるのか…。青年のわずかな人生経験と頭の中の知識・想像力だけで可能なのか…。日本的な簡素で枯れた表現ではない、登場人物一人ひとり、しっかりと人格を与えられた群像が縦横に動きまわり、その時代の社会・世相をまるごと表現しようとする重厚かつ執拗なエネルギーを感じさせる。なによりも引き込まれるような面白さがある。眺め読みですら、これだけすごいのだから、丁寧に再読すればどうなるのだろう…。どんな驚きと発見があるか、と思ったりもする。

ドストエフスキーやトルストイ、山崎豊子を思わせる。主人公たちだけでなく、その時代の、その社会全体を描き切ろうとするタイプの作家だ。山の木を描くために、山全体を描きだすタイプに思える。

しかし、下巻585ページにいつ挑戦できるかは、未定です…。
コメント (2)
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111冊目  池上彰「そうだったのか!中国」(集英社;2010(2007))  評価5

2011年12月28日 07時29分31秒 | 一日一冊読書開始
12月27日(火):

435ページ  所要時間6:50

2度目。現時点で「現代中国」「中華人民共和国の成立と現状」の解説と諸問題の指摘に関する最も適切でわかりやすいテキスト(教科書)だと思う。「池上彰にハズレ無し!」は今回も健在!。<毛沢東の負の遺産>を直視できない中国共産党に未来は無い!。一党独裁支配は早晩、なんらかの限界・破綻に至るだろう。よく知れば知るほど、こんなに深刻な矛盾・格差・差別・汚職まみれで、民主的選挙もできない独裁政権がこれ以上長く続くわけがない!。中国共産党の独裁支配が長くて20年以内(10年以内かも…)に崩壊するのは間違いない、と思う。ただ、その後の大混乱で世界の平和・安定・秩序も決してただでは済まないだろう。それが本当に恐ろしい。 

それにしても、「毛沢東の真実の姿を知れば、英雄と崇められていただけにどうしても許せない!。日本の中国侵略とその罪業深さを誤魔化す気など毛頭ない。しかし、これまで毛沢東を“長征の英雄”などという今にして思えば盲信の戯言を吐いて称揚してきたインテリの人々は、たとえ竹のカーテンで実態を知りえなかったとはいえ、カリスマではあってもあのような罪業深き権力欲の権化たる独裁者を、多くの教え子や労働者・大衆に称揚し、尊敬するように指導してきたことに対する真摯な反省と責任の自覚と自己批判を徹底して行うべきだろう!。それができないのであれば、彼らのインテリとしてのあらゆる発言は、ただの無責任な言いっぱなしの妄言となるだろう。今こそ自己批判という行為が真の意味を持つ、と思うのだが、毛沢東を礼讃してきたインテリの方々は如何思われますか、と問いたい」というのが正直な感想だ。

目次:
第1章 「反日」運動はどうして起きたか
第2章 毛沢東の共産党が誕生した
第3章 毛沢東の中国が誕生した
第4章 「大躍進政策」で国民が餓死した
第5章 毛沢東、「文化大革命」で奪権を図った
第6章 チベットを侵略した
第7章 国民党は台湾に逃亡した
第8章 ソ連との核戦争を覚悟した
第9章 日本との国交が正常化された
第10章 小平が国家を建て直した
第11章 「一人っ子政策」に踏み切った
第12章 天安門事件が起きた
第13章 香港を「回収」した
第14章 江沢民から胡錦濤へ
第15章 巨大な格差社会・中国
第16章 進む軍備拡張
第17章 中国はどこへ行くのか
21世紀の中国の光と影

※体力的に限界で、過激な表現になってしまったかもしれないですが、書いてる内容は、確かなことです。不愉快を感じられた方々にはお詫びします。本書は、絶対に推薦します!。<必読の書>です!。
※もう寝ないといけません。限界です。朝になってしまいました。自分でも馬鹿じゃないか…、と思います。これ以上は無理です。また、書ければ書き直し・書き足します。
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110冊目 ドナルド・キーン「日本の面影」(NHK人間大学4月-6月;1992) 評価5

2011年12月27日 07時44分34秒 | 一日一冊読書開始
12月26日(月):

130ページ  所要時間:5:35

   
著者70歳、コロンビア大学教授。速読どころか、お勉強をしてしまった。著者は先日89歳で、日本に骨を埋める意志で帰化(国籍取得)して、日本人となられた、<日本文学・文学史>の生き字引の碩学ドナルド・キーン大先生。

非常にわかりやすい説明で、頭にすらすら入ってくる。本の帯文「日本文学のさまざまな流れや作家と作品などの話を中心に、日本人の論理と感性、日本人の伝統文化と現代社会など、キーン教授が愛する「私の日本」を語る。」     

目次:

第1回 日本と私=最初の出会いは『源氏物語』の翻訳(18歳)。中国語の勉強から日本語へ。1942年、海軍の日本語学校入学、11ヶ月集中授業後、海外で軍務。書類・日記の翻訳。沖縄戦は一番悲劇的体験。京都大学留学(2年間)。

第2回 「徒然草」の世界―日本人の美意識=随筆は、エッセイとは違い、東洋的な文学。徒然草243段は、ある家の壁に貼ってあった。今川了俊が発見、整理。暗示性(余情)、象徴主義。不規則性、いびつへの嗜好。偶数嫌い、7・5・3が好き。簡素(白木の美)。

第3回 能と中世文学=京都今熊野社での17歳の義満と11歳の世阿弥の出会いが決定的事件。義満の庇護。舞台装置は影向(ようごう)の松のみ。能の象徴性。シテ(中心人物)、ワキ(観衆のためにシテに質問するだけの人)、ツレ、子方;囃子方(笛、小鼓、大鼓、太鼓)、地謡(誰でもない8人)。能の台本「謡い」は多層的で素晴らしい文章(一番翻訳しにくい)。題材は『平家物語』の悲劇が多い。夢幻能(幽霊)と現在能(現実の人間)。世阿弥の時代の能は今の2倍のスピード。遅くなったのは、徳川時代の権威付けによる。;狂言=太郎冠者(頭のいい召使い)、大名(威張って失敗する人)、女性(全部悪人)、僧侶(エラクない)。面白さは、話の筋と独特の発声法。

第4回 芭蕉と俳句=芭蕉はキーン氏にとって最高の詩人。俳句は完成した詩型として世界で最も短い。芭蕉の俳句は、発句であって明治の俳句(正岡子規が発明)とは違う。紀行文もよい。非常に翻訳しにくい。俳句は、取り替えのできない言葉を用いるのが鉄則。ユーモア。俳句第二芸術論(桑原武夫)には反対。

第5回 西鶴の面白さ=中世の憂き世から江戸の浮き世へ。西鶴の一番は「好色物」だが義務教育ではNG。西鶴は写実主義的、近松はロマンティック。「町人物」のテーマは、金持ちになること。「武家物」は失敗。

第6回 近松と人形浄瑠璃=平安の傀儡子たちは、西アジアの外国人。クグツは外国語。近松は世界的な劇作家、世話物(普通の庶民の悲劇)が断然面白い。『曽根崎心中』の道行き「この世の名残り夜も名残り、死ににゆく身をたとふれば、仇しが原の道の霜、一足づつに消えてゆく、夢の夢こそ哀れなれ」は名文。万国共通でオというのは悲しい音。イは高い音で、むしろ華やか。

第7回 近代文学1―漱石と鷗外=二葉亭四迷(ロシア語翻訳家)の言文一致は大きい。漱石の「道草」は私小説だが、読むと本当に暗くなるので要注意。

第8回 近代文学2―谷崎と川端=谷崎は意地の悪いサディスティックな女性が好き。関東大震災で作風が変わる。「細雪」が最高峰。ノーベル賞を受賞すべき作家だった。川端はもともと前衛文学者、一番の傑作は「雪国」だが、何度も書き直している。男性をあまり書けない。キーン先生は谷崎・川端・三島と直接深く付き合っている。

第9回 近代文学3―太宰と三島=大宰の「斜陽」は20世紀日本文学の最高傑作のひとつ。40歳自殺。太宰と三島の本質は同じ。逆に三島は太宰を毛嫌い、作風が重ならないようにした。最高峰は「金閣寺」、最大の作品は「豊饒の海」四部作。45歳自殺。おそらく神武天皇以来、外国で最も知られてる日本人は三島由紀夫である。それは自決事件のせいではない。

第10回 日本人の日記から1―子規と一葉=日記文学というジャンルは日本だけ。「更級日記」「成尋阿闍梨母集」、阿仏尼「うたたね」、「とはずがたり」、芭蕉の紀行文。一葉の「たけくらべ」は傑作だが、日記も素晴らしい。23歳死去。子規は短歌・俳句よりも日記が最高にいい、「墨汁一滴」「病しょう六尺」、特に本音は「仰臥漫録」(自殺念慮まで記述)。

第11回 日本人の日記2―啄木、荷風、有島武郎=啄木は天才だったという他ない。啄木が焼き捨てるように遺言した「ローマ字日記」は鷗外・漱石を凌駕する面白さ・傑作。日記の比較だと「子規は近代人、啄木は現代人」。27歳病死。戦争非協力を貫いた荷風の日記「断腸亭日乗」。有島武郎は学習院で大正天皇のご学友。札幌農学校進学は周囲を驚かせた。有島の日記「観想録」

第12回 古典と現代―「源氏物語」を中心に=日本文学の際立った特徴①時間的継続性(時代的切れ目がない文学)、②源氏物語の影響力の巨大さex.源氏名。日本料理の席での美的宇宙の創造。手紙の料紙・墨の濃淡・字の形すべてにこだわる。<ますらおぶり>より<たおやめぶり>のほうが強い。

第13回 日本文学の特質=余情の文学。主観の文学。座の文学。美術との密接な関係。特殊性より普遍性が強い。 


※12月27日(火)に見直して、追加・整理しました。参考になれば、うれしいです。
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109冊目 池上彰「その日本語伝わっていますか?」(講談社+α文庫;2011) 評価3

2011年12月26日 06時45分15秒 | 一日一冊読書開始
12月25日(日):

217ページ  所要時間3:00

「日本語の『大疑問』」(講談社+α新書;2000)改題・加筆修正)。池上さんの著書としては、凡作である。しかし、読み易くてストレスが全くかからないのは、池上さんの最大の長所の一つであり、いつも、読者の立場で書いている証拠だ。

本書は、日本語論としては、ごく初歩的で、切り貼りの内容で中途半端である。しかし、読者を退屈させない配慮が行き届いていて、読みやすく、何よりも日本語に関する様々なテーマ立てと話題の収集により「日本語論」の入門書としては十分に読むことができる。さすがである。今日は、読むのが楽で大変助かった。
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NHK『坂の上の雲』(第13話;日本海海戦):「九仞の功を一簣にかく」 とても残念だった。

2011年12月26日 03時47分46秒 | 日記
12月25日(日):

NHK『坂の上の雲』について、先に断っておくが、俳優さんたちの演技もCGを含めた戦闘シーンも本当に素晴らしかった。掛け値なく心から感動した!。本当に素晴らしい作品に感謝で一杯だった!

しかし、「坂の上の雲」(最終回)を観ていて、正直頭から冷水をかけられたような白けた気分になったシーンがあった

根岸の子規庵に現れた夏目漱石の<大和魂>談義のシーンだ。漱石が「大和魂!と叫んで日本人が肺病やみのような咳をした」「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五、六間行ってからエヘンという声が聞こえた」「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示すごとく魂である。魂であるからつねにふらふらしている」「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いたことはあるが、誰も遇った者がない。大和魂はそれ天狗の類か」と大和魂を茶化して、子規の妹律が「命を懸けて戦っている軍人さんに失礼じゃ」「兄さん(子規)もそんなことは言わない」と立腹、慌てた漱石が「妬みじゃ」と弁解し、律を通して向こう側にいる軍人さんたち(軍隊)に、手をついて謝るシーンだ。

このシーンに限れば、これまで非常に自然な演技をしてきた律役の菅野美穂さんの拗ねる演技も、漱石役の小澤征悦さんの謝る演技も何か腑に落ちないというか、取ってひつけたような、ぎこちない演技に見えた。菅野さんも、小澤さんも気の毒だった。

「坂の上の雲」の原作にこんなシーンは、全く存在しない。調べてわかったが、「我が輩は猫である」のちょうど真ん中辺りに、テレビと同じ<大和魂>談義があった。しかし、当の苦沙弥先生(漱石)は、決して手をついて謝ってなどいない。

漱石に、日頃あれこれ言ってても、いざ戦争となったら何もできずに、軍人さんたちを頼るしかない無力な存在だと自己規定させて、「妬みじゃ」と言わしめるシーンを入れる必然性は一体どこにあったのか。

大英帝国のロンドン留学でノイローゼになって帰国し、当時としてはずば抜けた国際的視野を持つ漱石が、日露戦争の中で全く自分自身の判断能力を放擲してしまったとは思えない。ましてや、この戦争の危うさを知悉していながら、軍人さんたちにすがりつくしかなかったなどとはとても思えない。

また、司馬遼太郎が生前「坂の上の雲」の映像化を決して認めなかったのは有名な話だ。そして、その理由は、日露戦争後急速に<鬼胎:統帥権独立>として肥大化・独断暴走化していった軍部に対する日本人の認識を誤らせる危険性に対する危惧によるものだったことも周知の事実だ。それを、文豪夏目漱石が、たとえ日露戦争の佳境とはいえ、軍部に対して手をついて謝るシーンを創作するなんてことを、もし司馬さんが生きていたとすれば、断じて認めるわけがない!。

全13話に250億円ともいわれる贅沢な映像は、本当に素晴らしく心躍らせ堪能させてもらったが、今回の<大和魂>談義のシーンで、一気に白けてしまった。NHKは、この作品のもつナショナリズムに対する影響力を真剣に考えてきたのだろうか?。この作品が、その価値とは別に、自由主義史観の蛆虫たちに利用されてきた事実を忘れていたというのか。規模の傲慢さの中で、思考・検証をストップさせてしまっていたとでも言うのか?。

どうして千円札の肖像にもなった文豪夏目漱石を故意に矮小化して、軍人・軍隊に対してひれ伏させたのか、そんなシーンがどうして必要だったのか。どうして原作者司馬さんの有名な<鬼胎>への危惧を忘れた(無視した)のか?。

画面の中では、一座で漱石がKY(空気読めない)として笑い者にされているのを観ながら、視聴者としてのこちら側では逆にNHKのKYさに対して興が冷めて、急速に白けていくのを抑えることができなかった。NHKという組織は、これほどの看板番組の中味すらきちんとチェックできない杜撰な組織なのか…。「九仞の功を一簣にかく!」。全く余計なシーンを見せられて、すべて台無しにされた気分で、本当に大変残念だった。

※足尾銅山鉱毒事件や女工哀史に見る庶民の悲惨で厳しい歴史を、司馬さんが軽んじているような解説を選択的に採用していることも、NHKの狡さ、無責任さ、杜撰さ、KYさ、という点で通底している気がする。

※日露戦争後まもない1908年に書かれた「三四郎」の中で、広田先生(漱石?)は「いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね」と語り、「然しこれからは日本も段々発展するでしょう」という三四郎に対して「亡びるね」と断言している。これだけでも、漱石が軍隊に依存し、ひれ伏すことの不自然さがわかるはずなのだが…。
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108冊目 倉都康行「世界がわかる現代マネー6つの視点」(ちくま新書;2006) 評価4

2011年12月25日 03時39分08秒 | 一日一冊読書開始
12月24日(土):

252ページ  所要時間5:30

著者51歳。<国際金融経済学>のしっかりした内容の本である。特に適切なテーマ建てと記述の明晰さが印象的であった。テキスト。書かれたのは、ライブドア事件・村上ファンド事件の年、サブプライムローン問題やリーマンショック前年。ちょっと熱っぽい体調も多少影響あるのか?、文章は読めるが、何のことか理解が頭に定着しない。歯が立たない感じ。ページをめくり続けるので精いっぱい。最後まで眺め続けるのは、正直難行苦行だった。しかし、評価は4だ。この評価も、あくまで俺の読み取り能力の低さによる。おそらく、本当は評価5が妥当だと思う。

目次:第1章 投資時代への期待と幻想―資産運用の環境変化 1 貯蓄から投資へ 2 投資信託の大胆な変貌 3 分散投資のリスク 4 高金利通貨の魅力と魔力 5 商品市場とマネーの接近
第2章 ポスト不良債権時代―銀行主導時代の終焉 1 「ポスト不良債権時代」の課題 2 自己資本比率との闘い 3 銀行の行動原理 4 金融行政の問題点 5 金融システムは改善されるか
第3章 経済社会を動かすファンド―「ファンド主義」は定着するか 1 ファンド=金融における「核問題」 2 社会はヘッジファンドをどう見ているか 3 PEファンドの隆盛 4 ファンドへの期待と懸念
第4章 米国型金融システムの揺らぎ―強さと脆弱さの危うい均衡 1 不均衡問題に揺れる「ドル共和制」 2 貯蓄過剰論のゆくえ 3 資本吸収システムの曲がり角 4 資金循環は変わるか 5 米国投資銀行の明と暗
第5章 多極化へ動き出すマネー社会―多様化する国際経済 1 新興国の外貨準備戦略 2 オイルダラーとイスラム金融 3 共同体への目覚め 4 M&Aの多様化と金融資本の動向 5 グローバル化とローカル化
第6章 金融と社会との対話―金融は役立っているか 1 保守化する金融市場 2 市場メカニズムの効用と限界 3 投資立国への道のり 4 3つのE(エネルギー、エクイティ、エコロジー)の時代で


※経済はやっぱり面白い!。興味深い内容がたくさん出ていたがまとめる気力がない。また、書ければ少しでも内容紹介をしたいと思う。もう一度読み直したい気がしている。

*ヘッジファンドは、今や金融市場における「核兵器」のような存在なのである。/「平和の理念」としてその存在を否定することは簡単であるが、いまやその存在なしには、国際的な金融秩序も経済秩序も保てなくなっているのが現実だからである。



*村上ファンドの誤りは、企業価値とは株価であると断定したしたところにある。略。企業経営における理念の追求とは株価だけではないはずだ。

*市場主義の立場から高速道路建設を批判する見方は、一見合理的に見えて、じつは都市部知識人というごく一部の意見を代表したものにすぎなかった。高速道路の存在価値は、都市と田舎で全く異なる。都市における道路の経済学は、田舎の論理では机上の空論にすぎない。ここに市場主義における合理性の限界をみることができる。略。田舎における高速道路のコスト計算の論理は、首都高や東名高速のそれとは大きく異なるだろう。略。市場主義は、なくてはならない道具だが、万能の公理ではない。

*現代経済社会は、「権威の正当性」を金(ゴールド)という貴金属から「信用力」という抽象的な概念へシフトすることに成功した。いわば、「金(ゴールド)という王政」から「信用貨幣という共和制」への移行である。略。現在のドル本位制とは、「金王朝」を支えたポンドの地位をドルが奪い、金の廃貨を経て米国の信用力をバックにした「ドル共和制」を敷いたものということができる。

*イスラム金融のキーワード→「イスラムは金利が許されない」、イスラム債券「スクーク」、各金融機関に設置された「シャリア委員会」

*「東アジア共同体」について、「アジアでの統一通貨は、むしろ日本円を除いた各国通貨によって検討したほうが実践的ではないかと思われる。日本が、日本円を捨てる積極的な理由は見当たらない。/そうした通貨と経済を切り離したうえでの共同体議論であれば、日米中の政治的な思惑を調整しながらアジアでの共同体思考を進めていくことは、決して容易ではなかろうが不可能ではないだろう。






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107冊目  藤沢周平「市塵 (下)」(講談社文庫;1989)  評価5

2011年12月24日 07時02分22秒 | 一日一冊読書開始
12月23日(金):

302ページ  所要時間6:00

読んでる途中は、評価4だった。しかし、読み終わって、どうも評価4を付けにくい。評価5を付けたがっている自分がいる。満足させられていたのだ。完全な評価5ではないが、やはり評価5にした。ちょっと珍しい経験だ。時の流れ、人の生死・盛衰は平等に訪れる。偶像化された偉人も市塵から出て市塵に戻る。藤沢周平作品の渋さ・目線の低さにやられたということなのか…。     

上巻同様、白石の時代を本当によく調べ上げて記されているが、上巻に比べて、下巻の方が白石をはじめ登場人物たちが生き生きと息づいていた。             

朝鮮通信使迎接での三使と白石座談のシーンは圧巻だった。日本を一段低い文化国と見下す朝鮮側に対して対等関係を目指し、単身乗り込んで、「白刃でわたり合うようなきわどい応酬をはさみながら、飾りのない率直な対話をすすめるという形」で座談をし、互いの理解を深め、ついに朝鮮の三使に日本(白石)の文化力?を認めさせたのは、荻生徂徠と並ぶ江戸時代最大の<知の巨人・新井白石>の面目躍如であった。その中で、「清の康熙帝が息子を朝鮮王の養子に入れて、朝鮮の乗っ取りをはかったことがあった。その際、朝鮮は通信使による日本との通交関係を盾にして断った」ということが明かされてびっくりした。

ただ、儀礼面での理屈の張り合いは、朝鮮側も白石も<頭でっかちの朱子学>の徒として、お互いに全く譲らないで「重箱の隅をつつく」細かい理屈の闘い(やりとり)に終始した。挙句の果てに、諱(いみな)一字の問題で、双方が国書・返書を持ち帰るはめになったのは、面白かったけれど、正直「やれやれ」と呆れ果ててしまった。まさに朱子学の世界だ!。

荻原重秀の不正と幕府首脳に対する恫喝・居直り、反発する白石。家宣の苦衷。何度も何度も瀉(しゃ;下痢)の持病に苦しめられる。3回の荻原弾劾書→荻原罷免、翌年死去。家宣の早い死と白石への信頼と遺訓(後嗣家継、貨幣改鋳、長崎貿易)。7代家継(4歳)の生母月光院の増長。貨幣改鋳事業の難航。反対派の反撃=大奥老女絵島事件。イタリア人宣教師シドッチのその後(布教→地下牢で餓死)。長崎新令への苦心と成就。7代家継の死去(8歳)。御三家紀伊中納言吉宗の8代将軍就任。その直後から始まる前政権関係者に対する容赦ない排除。白石も直後から役宅を追い出され、江戸中心からはるかな郊外に排除される。長崎新令を除き、白石が心血を注いだ朝鮮通信使の儀礼変更も宝永の武家諸法度もすべて否定され、5代綱吉の時代の先例に戻される。大いなる怒りとともに、権力から追い落とされた悲哀を思い知らされながら、白石は不朽の著述活動に没頭していく。白石の子10人中7人が病死早世。そして、訪れる人もなくなり、老いを深めていく。

時の流れ、人の生死・盛衰は平等に訪れる。偶像化された偉人も市塵から出て市塵に戻るのだ。
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アーカイブ   リスト (今後、更新していきます)

2011年12月23日 05時59分46秒 | 書籍&ブログリスト
12月22日(木)~   :   アーカイブ   リスト (今後、更新していきます)


10月30日(日)掲載:

  山崎豊子著「白い巨塔(1)~(5)」(新潮文庫;1965と1969) 評価5  2011年1月5日~20日

10月31日(月)掲載: 

  吉村昭著「間宮林蔵」(講談社文庫;1982)  評価5   2011年8月19日(金)

11月2日(水)掲載:

  黒田俊雄著「寺社勢力-もう一つの中世社会-」(岩波新書;1980) 評価3 2011年8月24日(水)

  岡田斗司夫著「いつまでもデブと思うなよ」(新潮文庫;2007) 評価3  2011年8月24日(水)

  角岡伸彦著「被差別の青春」(講談社;1999)  評価5  2011年8月23日(火)

  三浦綾子著「旧約聖書入門―光と愛を求めて―」(カッパブックス;1974)評価3 2011年7月21日(木)


11月5日(土)掲載: 

   梁石日著「夜を賭けて」(幻冬舎文庫;1994) 評価5  2011年8月25日(木)

  阿川弘之著「井上成美」(新潮文庫;1986) 評価3  2011年8月18日(木)

  福沢諭吉著「福翁自伝」(旺文社文庫;1899)  評価5  2011年8月17日(水)

11月13日(日)掲載:

   司馬遼太郎『坂の上の雲』(文春文庫;1978)  評価5  2007年10月~11月

12月17日(土)掲載:

   山崎豊子「沈まぬ太陽(1)~(5)」(新潮社;1999)&映画DVD 評価5 2007年11月末~12月

   映画『沈まぬ太陽』DVD 評価5   2010年8月

12月30日(金)掲載:

   浅田次郎「蒼穹の昴(一)~(四)」(講談社文庫;1996)評価4~5 2008年1月
   
   ※NHK放送の日中合作ドラマ「蒼穹の昴」は、原作を根こそぎ改変した全く異なる別のものである。

   浅田次郎「珍妃の井戸」(講談社文庫;1997)評価5 2008年3月 ※「蒼穹の昴」続編

   浅田次郎「中原の虹(一)~(四)」(講談社;2006~2007)評価は4~5 2009年5月~7月 ※「蒼穹の昴」続編
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106冊目  藤沢周平「市塵 (上)」(講談社文庫:1990)  評価3

2011年12月23日 04時51分00秒 | 一日一冊読書開始
12月22日(木):

320ページ  所要時間5:00


題名の「市塵」とは「市井紅塵の間に生業をもとめ、ほそぼそと暮らす」の意から来た言葉のようだ。芸術選奨文部大臣賞をとった作品らしいが、いま一つピンとこなかった。

時は、ちょうど300年前。主人公は「正徳の治」の新井白石。2度主家を失い、浪人となり木下順庵の知己を得て、その推挙で甲府徳川綱豊(家宣)に仕えた経緯。多くの子供に恵まれるが、その多くの子供を病で亡くす話。徳川綱吉と甲府綱豊(家宣)の微妙な関係。徳川綱吉の偏執狂ぶり。生類憐みの令。荻原重秀の貨幣政策への批判。宝永の富士山噴火。イタリア人宣教師シドッチ尋問。湯島聖堂学問所や武家諸法度他をめぐる林大学頭信篤との対立(せざるを得ない状況)。興福寺の一条院と大乗院の揉め事(南都訴訟)裁定。当時の朝廷と幕府の関係性。圧巻は朝鮮通信使応接問題の解説と改革(改悪?)の記述。etc.

著者は、主人公の新井白石の時代背景、制度、白石の事績について、本当によく調べぬいている。しかし、その分だけ、背景や事件の解説、長い肩書付きの多くの関係者の名前の羅列が非常に多くを占めて、その隙間を縫って、主人公の白石や間部詮房、6代家宣らと、名もなき人々が行き来し、彼らの心理や場面展開の描写も非常に抑制的になされている。そういう意味では、日本史の詳細の解説を読んでいるようで、ストーリー展開の面白さはそれほど感じない。読んでいてあまり体温の高さは感じない。盛り上がることも、励まされることもない。ただ、「それは違うだろう」と読者を白けさせるような間違いもほとんど無く、読むのが嫌になることは全くなかった。それが、著者の力量というものなのかもしれない。

あと、白石については、儒教的理想主義の限界という評価が存在し、政敵荻原重秀などにはある種の先進的経済官僚という評価も存在するので、あまり勧善懲悪的に描かれると白けてしまうのだが、とりあえず事実関係を優先した表現手法に違和感を覚えることは無かった。   

※評論家の佐高信さんが、司馬遼太郎に対抗させて、あまりにも藤沢周平を称揚するので読んでみたが、やはり比較すること自体が筋違いの見当はずれだったとしか言えない。当たり前すぎることだが、藤沢周平は藤沢周平として味わうべきもので、誰かの評価を引き下ろすために読むべきものではないのだ。所詮「他人のふんどしで相撲を取っているのだ」という節度を忘れた時、評論家は道を踏み外すのだ、と思う。佐高信さんを支持するがゆえに、私もつらい。こうなったら、やはり「三屋清左衛門残日録」「蝉しぐれ」「風の果て」あたりを読まないといけないのだろうか。でも後ろの2作品は、NHKの傑作ドラマで堪能してるから、改めて読むのもなあ…。
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105冊目 片山恭一「考える元気 (「DNAに負けない心」改題)」(光文社文庫;2004/2000)  評価3

2011年12月22日 02時28分52秒 | 一日一冊読書開始
12月21日(水):

199ページ  所要時間2:30

著者41歳。『世界の中心で愛をさけぶ』(2001)の著者が、セカチューのブレイクする前年の不遇時代に書いたエッセイ集。

ドラマ再放送(山田孝之&綾瀬はるか)でハマったセカチューの著者が、どんな人なのか気になって手に取った。想像よりもかなりかっちりした考え方の人のようだった。調べると、九州大学で農政経済学を学び、博士課程中退。学生時代も含めて、中学生を対象にした学習塾の講師を務めて20年くらいになる。お金にならない純文学を志向し、出した作品が全く売れず、出版社からのリストラ(見放されること?)も経験している。

流し読みでは、なかなか読みとりにくい内容で社会に対する厳しい見方・考え方が展開されており、「なんか偏屈な偏った人かな?」と警戒したが、読み進めるに従って、ベースにマルクス、ヘーゲル、ニーチェなどの思想があり、その上に現代社会・現代科学に関する見方・考え方が幅広く展開されているのに気付いた。借り物でない、オリジナルのまとまりのある考え方が提示されているのがわかってきて、安心した。

「科学」と「貨幣」と「市民主義」を三位一体と観て、市民主義や人道主義は資本主義を補完・補強するイデオロギーでしかない、と断罪する。(一方で、それに代わる明確な思想や具体的な対案の説明がない。っていうか、模索中でしかない。)「人間の価値が能力や効率によって測られるとすれば、遺伝子操作によるデザイナーチャイルドの誕生まで、この社会は一気に突っ走ってしまうだろう。歯止めは何もない。」など、ある種のノスタルジーを感じさせるマルクス主義の風味がただよう内容に出会ったりする(九州大学って、向坂逸郎先生の影響なのか?マルクスを勉強してる人が多い気がする)。経済的に苦しい当時、資本主義社会を批判的に観ていた著者のもとに、この翌年セカチューの空前の大ヒット(発行部数が国内単行本最多記録の306万部)とともに莫大なお金が流れ込むことになるのだから、世の中面白いものだ。

この本は、出版後すぐに絶版になったが、作者にとっては、「現在(2004)に至る創作のモチーフが、この本の中に散在している」「幾多の不備があるけれど、ぼく個人にとってはとても大切な一冊である」と記されている。確かに、セカチューのヒロイン亜紀ちゃんのモデルが、キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』に出てくる「再生不良性貧血におかされた十七歳の少女」であること、ヒトの死が本人自身の死で完結するというのは傲慢な考え方(ハイデガーよ、反省しろ!)であって、家族をはじめ周りの人間にとっても重大な関係性をもつ死だ、というセカチューで示された世界観などは本書の中にきちんと書かれている。

また、読んでいて「さすがは作家さんのエッセイ集だ!」と、表現で笑わせられるところもあった。「たとえば私のクローンを作って私の意識を搭載する。彼女のクローンを作って彼女の意識を搭載する。そしてクローンの私とクローンの彼女が、どこかの世界で一緒になる。それはやっぱり、二人の恋が成就したことになるのだろうか。クローンの私とクローンの彼女は、それぞれ元の私や彼女と遺伝子的には完全に同一であるから、遺伝子的同一性を「自己」と考えるかぎり、恋は成就したことになる。しかしなんと言うか、俺的にはちっとも嬉しくないぞ、みたいな?」   

※今回は、怪しい本かな…?と思いながら読んだので、次はそれなりにきちんと読もうと思う。
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104冊目  森達也「君が選んだ死刑のスイッチ  よりみちパン!セ」(理論社;2009)  評価4

2011年12月21日 05時38分48秒 | 一日一冊読書開始
12月20日(火):

252ページ  所要時間3:55

著者53歳。中学生(以上)向けの本なので仕方ないが、第1章は前書きに入れて省略して欲しかった。私自身の勉強不足によるのだが、<裁判員制度>に対して、これほど真っ向から疑問・批判を述べた本に出会ったのは、初めてだ。<死刑制度>については、加賀乙彦『死刑囚の記録』を読んでいたので、よくわかった。

「わかりやすさには気をつけよう。現実は単純ではない。とても複雑で多面的だ。」と述べ、ジョージ・オーウェルの『1984年』で核戦争後の世界を支配する独裁者「ビッグ・ブラザー」から、「ニュー・スピーク」という非常に単純化した言語を強制された人々が、複雑なことが考えられなくなる話を紹介し、国家の支配者と、マスメディアのあり方に警鐘を鳴らす。  

<罪刑法定主義>。<無罪推定原則>。

<冤罪>。<松本サリン事件>「警察は味方ではない。警察は犯人を作るところ」「マスメディアが犯人を作る」「警察もメディアも裁判所もまちがえる。なぜなら人だから」。<1942横浜事件の再審請求→2009免訴(なかったことにしましょう…?)>。<デュー・プロセス(適正な手続き)>。

刑事司法の問題点:<代用監獄>。<取り調べの不可視性>。<供述調書偏重主義>。<無罪推定原則の機能不全>。<ポピュリズム(司法の、世論迎合)>。     

裁判員制度については、「どうして国民が裁判に参加したほうがいいのだろう?」と根源的疑問を呈し、司法側の「国民の視点と感覚を取り入れて!司法への理解を!云々」という言い分の虚妄を、実は1997年頃、アメリカ資本側からの圧力を受けた「司法の規制緩和」がきっかけであり、元々<民事裁判>が焦点だったのが、光市母子殺害事件や北朝鮮の拉致問題による社会不安・厳罰化を求める世相の中で、皮肉にも<刑事裁判>に焦点がスライドしてしまったのが真相である。つまり、「刑事司法に市民感覚を取り入れる」「国民の司法への理解を求める」などは、全くの<後付けの理屈>である。

<裁判の迅速化>って、もっともらしいけど、なんで必要なの?。日本の裁判は遅くない。そのズレは、「裁判員制度が<一審のみ>で、二審・三審に何の影響力もない」という無意味さ。厳しい<出頭義務>と<守秘義務>を課すが、特に<守秘義務>は、国が国民に強制的に大きな精神的負担を課すことで許し難い人権問題。重罪に適用される裁判員制度では、法律の素人が多くの<死刑判決>に関わることを避けられないのに、<死刑制度の実態>は知らされず、知る国民は少ない。これほど未整備で矛盾を抱えたまま、取り返しのつかない形で実施が始まった裁判員制度は、もはや<その継続維持のみが自己目的化した>マンモスの伸びた牙ような存在になり果てている。そんな不備な裁判員制度が、非常に大きな問題をはらむ<死刑制度>と深く関与するのは、未整備カーで高速を走るようなもので、あまりにも危険な問題をはらむ!。  

アメリカの死刑は<公開>、日本の死刑は<密室>。死刑囚の罰は殺されることだけなので、<拘置所>に入る。<刑務所>に入るのは自由制限刑を受ける懲役囚のみ。処刑の言い渡しは、その日の朝が原則。死刑囚の朝は恐怖の極み、そんな日々が何年も続く。本書の中に<死刑執行の過程>が、詳細に描かれているが画像は無くても恐怖は伝わる。アメリカでは、「絞首刑は絶命するまでにとても大きな苦痛を与えている」という研究報告があり、絞首刑は廃止になった。
   
2007年の殺人事件は、戦後最も低かった。「日本の治安が悪くなっているから死刑は必要」という論理は完全に破綻している。虚偽の社会不安をあおって、罪深いのが日本のマスメディアである。犯罪抑止効果が虚偽ならば、残るのは被害者遺族の応報感情(死刑を希望しない遺族もいる)の満足のみであり、それならば死刑は<公開>で、もっと<なぶり殺し>にするべきである。      

2008年現在、世界の3分の2が死刑廃止国、3分の1が存置国。廃止国は賛成4対反対6の段階で、世論を押し切って政治家が判断をした。ただ現在の日本は、賛成0.6対反対8.1と異常に死刑廃止反対が強いのも事実。これは、地下鉄サリン事件などをきちんと究明することを怠った日本の司法と、「オームの信者が、純真で善良で優しい「普通」の人々であることを隠し、「凶暴凶悪な殺人集団」「洗脳された不気味な集団」、要するに「普通ではない」「自分たちとは違う」存在として捏造報道、少なくとも真実を伝えなかったマスメディアの責任は大きい。

著者は、死刑について強く反対の立場を持っている。しかし、同時に、死刑制度のもつ特異性・複雑さも十分に認めている。読者には、「大切な命を奪ったのだから死刑になって当然なのだ」という浅いレベルで考えるのだけは、やめてほしい、と言うに止めている。死刑制度の実態、死刑制度の存置論者、廃止論者の双方の考え方を、できる限り具体的統計や世界の流れなどを十分に考えてよく考えて欲しい。すぐに結論は出さないで欲しい。さまざまな視点から、十分に時間をかけて<自分の頭で考えて結論を出すこと>を求めている。そして、「もしもあなたが死刑はあって当たり前だと思うのなら、本当はこのスイッチを、刑務官にばかり押しつけないで、あなたも押すべきなのだ。」と訴える。

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103冊目 今井久美雄「韓国語の散歩道 ほんとうに初めての人の韓国語」(アルク;1999)  評価4

2011年12月20日 04時51分22秒 | 一日一冊読書開始
12月19日(月):

237ページ  所要時間6:15

著者48歳。韓国語のプロで、医師。7年前に眺め読みした本。韓国語の初級レベルを丁寧にカバーし、中級の入り口まで立たせてくれる内容、部分的にすごくハイレベル。本来、一日で一気読みするべき本ではない…か?。

ただ、イエンナレ、ホランイ タンべ モクトン シジョルに少しだけハングンマル(韓国語)を勉強したことがあるので、読みながら覚えるのは無理だが、書かれている内容やまとめ方の巧拙は十分に理解できた。構成は、ある韓国語教室で、先生(著者)と著者の分身である若い順に、信行(学生)、弘志(青年実業家、25歳?)、みどり(OL;28歳?)、直樹(会社員;29歳?)と最年長の徳次郎さん(自営業;60歳)の5人が、先生に導かれながら、韓国語の世界を広げていく形で進められていく。途中、韓国の地誌や人情にも触れながら、先生の話はさまざまに脱線し、読者をも刺激しつつ、生徒たちと丁々発止のやり取りが展開されていく。何度も「それ、初級レベルと違うやんか!レベル高すぎ!」と突っ込みを入れたくなった。一方で、韓国語の基礎をわかりやすく、奥行きを広くして説明しようとする著者の意欲と韓国語の力量がよく伝わってきたので、安心して読み進められた。

随分、勉強を怠けてきたが、この一冊に目を通したことで、やるべきことは「ああ、そうそう、こういうことやった」と確認できた気がする。「壮にして学べば老いて衰えず。」「老いて学べば死して朽ちず。」(佐藤一斎「言志四録」)って言葉もあるし、徳次郎さんを見習って、そろそろ少しずつでもハングンマルの勉強を再会しようかな。
          
目次::第1部 ハングルと発音=流音の鼻音化
    第2部 あいさつから数字へ=敬語、鼻音化
    第3部 韓国語の文法=陽母音・陰母音、変則用言の活用パターン(ほんとキツイ!)、「ている」状態は過去形で表わす、現在・過去の連体形
    第4部 漢字語と外来語  

※この本は、<ほんとうに初めての人の韓国語>の本ではない。ハングンマルの勉強自体は、NHKのラジオ講座や別の教材で進めた方がいいだろう。その上で、勉強を続けながら、半年に一回程度ずつ読み返して、勉強のモチベーションを高め、自分の力の伸びを確認するのに適した本だと思う。"
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102冊目  アルフォンス・デーケン「死とどう向き合うか」(NHK人間大学;1993) 評価4

2011年12月19日 04時13分18秒 | 一日一冊読書開始
12月18日(日):

121ページ  所要時間3:00

著者61歳。上智大学哲学科教授。評価4は、甘いか?。最後のまとめで、死後の再生に関して、キリスト教的決め付けと仏教への無理解(無関心?)が鼻に衝いたが、それでも(一方的に決めつけてるからこそ、かえって)死生観を考える縁(よすが)になる気がして、評価3を4にした。

最近、私が、死をめぐる書籍に魅かれるのは、年齢的なものが関連しているが、「死にたくない」ではなく、「残された時間を充実させたい、少なくとも流されるのでなく、意識化された日々を送りたい」という内面の欲求によるものだ。故スティーブ・ジョブズが、「今日死ぬとしたら、自分は何をするのか。」を毎日自らに強く問いながら生きてきた。それを彼は、日本の禅から学んだ、と伝えられる。しかし、本書の<死生学>の見地は、仏教ではないが、まさにその点を中心に据えて展開されているのだ。  

目次::1 死を見つめる/2 悲嘆のプロセスのなかで/3 伴侶を喪う前に/4 死への恐怖を乗り越える/5 自分自身の死を全うする/6 さまざまな死に学ぶ/7 「死」についての生涯教育(1幼児から青少年のために)/8 「死」についての生涯教育(2大学生・中高年に向けて)/9 今、世界のホスピスでは/10 日本のターミナル・ケア/11 死とユーモア/12 死にまさる生命  

1→タナトス(死)について学ぶタナトロジーを死学ではなく、死について学ぶことは、逆に生き方を学ぶことだ、として<死生学>とする。1990年頃は、日本における死生学・ホスピスなどの創成期である。試行錯誤の時代ゆえに、かえってすそ野の広い視点からの考察が提供されている。さまざまな考えるきっかけが与えられるようで良い。まず、はっきりしているのは、「死のタブー化は良くない!」ということだ。
2→「悲嘆のプロセス」十二段階。
3→晩年の孤独。プレ・ウィドウフッド・エデュケーション(配偶者を喪う時に備える悲嘆教育)。具体的なチェック・リストを夫婦で話し合っておく。
4→介護に当たる人が自分の価値観や信仰を押しつけるのは決してすべきでない。
5→キューブラー・ロス『死ぬ瞬間』の五段階に、「期待と希望」という第六段階を加えたい。自分でコントロールできることとできないことをはっきり区別して、最後までその人らしく生き抜くこと。
6→トルストイの虚無との闘いに決着をつけた作品が「イワン・イリッチの死」で実存主義の基礎。『かいまみた死後の世界』(ムーディ)。
7→米・加・独のデス・エデュケーション。
8→大学生の二つの演習「もし半年の命しかなかったら、どう過ごすか」「別れの手紙」、演習なので無記名提出。中年期は、人生の折り返し点を過ぎたという自覚を持つ。こうした時間意識の変化を人生における一つの挑戦とみなして、自分の価値観の見直しと再評価の良い機会だと考えるべし。
9→ホスピスのついては、外国の取り組みが紹介されて、日本の未成熟ぶりがわかった。
10→日本では、死に関するタブー、告知に関するタブー、宗教との協力のタブーが問題。ホスピスボランティア像。
11→死というストレスの多いテーマだからこそ、ユーモア(思いやり)が不可欠。
12→死後の世界が存在する、死後の永遠の生命を信じる決断に賭けるべきだ、という結論にはキリスト教の独善と仏教に関する無理解・無関心が目に余った。死を考えるとき、何を「持つ」かではなく、どんな人間で「ある」かが大切になる。
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150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)