12月1日(木):
180ページ 所要時間5:00
"久しぶりに本当の人間の声を聴かせてもらった気がする。「人権」の本とは言いたくない。「人間」の本だ。日々を生きて行く中で、どんどん痩せ細って鈍くなっていく俺自身の感性を、もう一度生き返らせるために、絶対に必要なタイプの本だ。読み進むうちに、「ああそうだったんだ」「ああそうだよな、やっぱり」という思いや学びに繰り返し出会うことができた。この本の内容のほぼすべてに納得がいき、素直に感動することができた。良い勉強になった。
「在日朝鮮人問題とは、日本人の問題なのだから、日本人こそ学んでくれないと困る」という著者の指摘は正鵠を射抜いている。在日コリアン(外国籍市民)の人権問題を歴史的背景とその精神の奥の襞までも含めて理解する上で、一般書としては、現時点で最上の参考書になると考える。
しかし、ここではそれ以上に、著者の高校生・浪人生時代の4年間のまさに<青春の彷徨>ぶりが、素晴らしい。素晴らしい、という表現は不適切と怒られるかも知れないが、高校生が、自らの実存・アイデンティティについて、これほど真摯に全力投球で悩み抜き、考え抜いて、なお答えが出ない、という経験は、既に「在日朝鮮人」の問題を超えて、「若者の実存」に関する問題として、他にも通じる普遍性を具えていると思うのだ。自分自身の罪深さは謙虚に認めつつも、差別や在日朝鮮人の実存に悩みはじめた著者が、「いつも自分の罪、心のなか、魂の問題」しか語らない教会に矛盾を覚えて苦しむ姿もすごく良い。崇高な精神性を持ち、詩情を湛えたノンフィクションの青春文学になりえている。いろいろと悩める高校生には是非読んでもらいたい。暢気な大学生には、これぐらい悩んでみろよと尻を叩きたい。それ以上の大人には、あなた自身の青春時代をもう一度思い出し、見直してみませんか、と勧めたい。
また、鋭利過ぎる刃物のような、全身ヤマアラシのような若き日の著者を取り巻く人々が非常に魅力的だった。「略。なによりも、康さん、あなたが谷山という名前でなにもわかっていなかったときに、あなたに朝鮮人であることを自覚させようとしたのはだれだったのか。それらはこの学校では、はじめてのことだった。そういうことが、自分自身のこととして差別の問題を考えていないような教師にやれることなのか。…」と嘆きつつ示される浅田先生の自負心が心地よい。「人間が生きる上で、一番大切なこと、一番の目的は、やはり、しあわせになることだ。」という浅田先生の言葉に、「しあわせになりたい、って思っていいんだ。」という著者の反応にも感動した。そういえば、自由と平等の陰に常にかくれて目立たないが、基本的人権には「幸福を追求する権利」が必ず入っている!。私も改めて「初めて教えられた気がした」。
そして、疾風怒濤の著者をも圧倒し、かつ共闘してくれる部落研の部員たちの存在も魅力的だった。著者の本名宣言に戸惑いながらも、何とか自分の言葉で正直に話そうとするが、結局当時の著者を失望と孤立感に追い込んでしまう長田高校のクラスメートたち。でも彼らの知的水準の高さは読んでいれば十分に伝わってくる。「一度、母に、おまえには色気が無い、だけならまだしも、女のエスプリが無い、と言われた時には、何のことかもよくわからないのに、なぜか涙がこぼれた。」という著者の母親は、ちょっと突き抜けた感じですごい人だ。他にもいろいろ魅力的な人々との出会いや、物語りがあるが、いずれも素敵であった。そうは言っても、当事者たちは皆、その時々を大変な思いをして懸命に生きていたのだろう。
著者の高校3年生での「砂漠の砂の詩」にはびっくりして圧倒された。さらに「私は怒りと愛とを合わせ持っている/愛のゆえに/怒りが憎しみに変わることはなく/怒りのゆえに/愛が妥協に変わることはない/ただそのために/悲しみがいつも結晶している」19歳の浪人生の詩に素直に感動してしまった。
※まだまだ、何か書き出したい気がするが、そろそろ体力が尽きてきた…。また、書き足せれば、書き足したいと思うが、とりあえず寝させて頂きます。
12月4日(日):ネットで以下の記事を発見した。
「 2010/05/14付け 東洋経済日報掲載 <随筆>◇高校生の頃◇ 康 玲子さん 五年間勤めた小学校での職を辞し、この春から、やはり非常勤講師として高校で「国語」を教えている。高校で働くことはかねてからの希望だった。云々。」
心から良かったと思うし、今後のご活躍を期待している。康先生の存在自体が、外国籍の生徒たちだけでなく、日本国籍の生徒たちにとっても、さらには保守的な教師たちに対しても、きっと灯台のような存在となるだろう。何も無理に直接言葉を交わさなくてもいいのだ。「康先生がいた!」そのことだけで大きな意味があるのだ。浅田先生はきっと喜ばれているだろう。しかし、「康さんなら、もっともっとできるはずだから、頑張れ!」と励まされる気がする。反面、京都大学大学院博士課程学修退学という優秀で、かつこれほどの熱い思いを持った人間に対して、その力にふさわしい十分な活躍の場を提供できなかった日本社会の閉鎖性と差別体質には、残念さ・怒りとともに、言葉を失ってしまう。