もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

NHK『坂の上の雲』(第13話;日本海海戦):「九仞の功を一簣にかく」 とても残念だった。

2011年12月26日 03時47分46秒 | 日記
12月25日(日):

NHK『坂の上の雲』について、先に断っておくが、俳優さんたちの演技もCGを含めた戦闘シーンも本当に素晴らしかった。掛け値なく心から感動した!。本当に素晴らしい作品に感謝で一杯だった!

しかし、「坂の上の雲」(最終回)を観ていて、正直頭から冷水をかけられたような白けた気分になったシーンがあった

根岸の子規庵に現れた夏目漱石の<大和魂>談義のシーンだ。漱石が「大和魂!と叫んで日本人が肺病やみのような咳をした」「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五、六間行ってからエヘンという声が聞こえた」「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示すごとく魂である。魂であるからつねにふらふらしている」「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いたことはあるが、誰も遇った者がない。大和魂はそれ天狗の類か」と大和魂を茶化して、子規の妹律が「命を懸けて戦っている軍人さんに失礼じゃ」「兄さん(子規)もそんなことは言わない」と立腹、慌てた漱石が「妬みじゃ」と弁解し、律を通して向こう側にいる軍人さんたち(軍隊)に、手をついて謝るシーンだ。

このシーンに限れば、これまで非常に自然な演技をしてきた律役の菅野美穂さんの拗ねる演技も、漱石役の小澤征悦さんの謝る演技も何か腑に落ちないというか、取ってひつけたような、ぎこちない演技に見えた。菅野さんも、小澤さんも気の毒だった。

「坂の上の雲」の原作にこんなシーンは、全く存在しない。調べてわかったが、「我が輩は猫である」のちょうど真ん中辺りに、テレビと同じ<大和魂>談義があった。しかし、当の苦沙弥先生(漱石)は、決して手をついて謝ってなどいない。

漱石に、日頃あれこれ言ってても、いざ戦争となったら何もできずに、軍人さんたちを頼るしかない無力な存在だと自己規定させて、「妬みじゃ」と言わしめるシーンを入れる必然性は一体どこにあったのか。

大英帝国のロンドン留学でノイローゼになって帰国し、当時としてはずば抜けた国際的視野を持つ漱石が、日露戦争の中で全く自分自身の判断能力を放擲してしまったとは思えない。ましてや、この戦争の危うさを知悉していながら、軍人さんたちにすがりつくしかなかったなどとはとても思えない。

また、司馬遼太郎が生前「坂の上の雲」の映像化を決して認めなかったのは有名な話だ。そして、その理由は、日露戦争後急速に<鬼胎:統帥権独立>として肥大化・独断暴走化していった軍部に対する日本人の認識を誤らせる危険性に対する危惧によるものだったことも周知の事実だ。それを、文豪夏目漱石が、たとえ日露戦争の佳境とはいえ、軍部に対して手をついて謝るシーンを創作するなんてことを、もし司馬さんが生きていたとすれば、断じて認めるわけがない!。

全13話に250億円ともいわれる贅沢な映像は、本当に素晴らしく心躍らせ堪能させてもらったが、今回の<大和魂>談義のシーンで、一気に白けてしまった。NHKは、この作品のもつナショナリズムに対する影響力を真剣に考えてきたのだろうか?。この作品が、その価値とは別に、自由主義史観の蛆虫たちに利用されてきた事実を忘れていたというのか。規模の傲慢さの中で、思考・検証をストップさせてしまっていたとでも言うのか?。

どうして千円札の肖像にもなった文豪夏目漱石を故意に矮小化して、軍人・軍隊に対してひれ伏させたのか、そんなシーンがどうして必要だったのか。どうして原作者司馬さんの有名な<鬼胎>への危惧を忘れた(無視した)のか?。

画面の中では、一座で漱石がKY(空気読めない)として笑い者にされているのを観ながら、視聴者としてのこちら側では逆にNHKのKYさに対して興が冷めて、急速に白けていくのを抑えることができなかった。NHKという組織は、これほどの看板番組の中味すらきちんとチェックできない杜撰な組織なのか…。「九仞の功を一簣にかく!」。全く余計なシーンを見せられて、すべて台無しにされた気分で、本当に大変残念だった。

※足尾銅山鉱毒事件や女工哀史に見る庶民の悲惨で厳しい歴史を、司馬さんが軽んじているような解説を選択的に採用していることも、NHKの狡さ、無責任さ、杜撰さ、KYさ、という点で通底している気がする。

※日露戦争後まもない1908年に書かれた「三四郎」の中で、広田先生(漱石?)は「いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね」と語り、「然しこれからは日本も段々発展するでしょう」という三四郎に対して「亡びるね」と断言している。これだけでも、漱石が軍隊に依存し、ひれ伏すことの不自然さがわかるはずなのだが…。
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3 コメント

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はじめまして 同感です (yo)
2011-12-27 13:20:46
あのシーンには耳を疑いました。「エヘンと言う声が、、」まではよかったのですがその後の展開には不快感が湧きあがってきて。漱石の作品からの引用だろうなというおぼろげな記憶があって、、、えっ?ここで漱石が謝っちゃうの?と言う驚き。気になって検索していたらこちらにたどりつきました。原作にないと知って安心しました。あまりにも違和感がありましたので。
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yoさんへ (もみ)
2011-12-27 21:54:03
同感のコメント。有難うございます。ドキドキしました。司馬さんは、漱石を大変敬愛していました。その点から見ても、司馬さんの作品の中で、漱石が鬼胎化する軍に頭を下げるシーンなどは有り得ないことだと思います。
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大和魂 (kuroneko)
2012-01-17 01:23:19
トラックバックをつけたので、一言ごあいさつにきました。

ドラマ「坂の上の雲」に漱石が謝るシーンがあるときき、記事を書きました。
「大和魂」「夏目漱石」で検索して、当方の過去エントリー「反日文豪夏目漱石『大和魂』を揶揄する」にくるひともいるようです。
(その検索結果で、こちらのブログのことも知りました)
わたしの過去エントリーはもとより冗談記事ですが、真面目になって「大和魂」をからかうのはけしからん、という人もいるのかもしれませんね。
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