11月19日(土):
今年は仕事が忙し過ぎる。初老の身を思えば、仕事の量と負担が重過ぎるのだ。今の世で奇跡的に自分の専門性を生かせる仕事に就けているのだから我慢すべきかもしれない。しかし、それにしても馬車馬のように脇目もふらず走らされながら、さして偉くもない年下の上司や、調子に乗った役付きの馬鹿が無神経な言葉を吐いて現場にいる俺の精神状態を逆なでし、混乱させてくる。
思いやりを欠いた言葉を、小賢しく吐いて青息吐息で踏ん張っている現場の反感を買い、士気を著しく下げているのにも気づかずに「自分は大所高所から良いことを言っている」と満足している馬鹿に出会うと飲んでいるカップのコーヒーをぶっかけてやりたくなる。人間あまりに忙しく、あまりに疲労がたまると精神状態が極めて悪化、不安定化するようです。
そんな訳で現在私もみは絶不調であります。要領よく手を抜く術を知っていれば、もう少し楽かもしれないけど今いちそんな気分になれない自分自身が恨めしい。その上、風邪まで引いて、いやな咳を繰り返しながら熱っぽい体を押して這う様に週末に漕ぎつけた。というのが現状です。
本どころか、とっている
朝日新聞(堕落して政府広報化しつつある!ので学べない。価値がない。そろそろ止めようかと思っている!)すらまともに読めない日々の中、最近唯一の楽しみが、
ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」を繰り返し観ることである。もちろんまともに見るのは初回だけで、あとは持ち帰った仕事や最低限やらねばならない日々のルーティーンを疲れた体に鞭打って進める際のBGMとして流し見し続けるのである。
初回から現在第6話まで繰り返しているが、何度見直しても楽しめるドラマは久しぶりである。
昨年秋のドラマ「コウノドリ」がそうだったが、「逃げ恥」はこの繰り返し何度見ても面白い傾向がより強い気がする。一年前の、「151219 知のドラマ「下町ロケット」3と情のドラマ「コウノドリ」5。何度でも観れるのは情のドラマ。」でも書いたことだが、
故桂枝雀師が
「知には記憶があるが、情には記憶がない。赤ちゃんの顔を何度見ても可愛らしさは変わらない。」「筋がわかっていても、それでも何度聞いても面白い。それこそが落語の本質だ。」と語っておられた。
「逃げ恥」を繰り返して観る人たちが大勢いるそうだが、俺にはすごくよくわかる。筋を確認するためではないのだ。そのシーンごとの、心地よい情(人情)を繰り返し味わいたいと思っているのだ。他の多くのドラマが、知としてのストーリー展開のみに関心があるのに対して、「逃げ恥」は、物語の展開もさることながら、共感できる情(人情)にこそ最大のポイントがあるのだ。
結論めかしく言えば、
「『逃げ恥』は落語である」と思えばよいのだ。だから、繰り返し観ていても「あああの人にまた会いたいなあ」「あああのシーンをまた見たいなあ」と思えば、筋書きは分かっていても、何度でも見てしまえるのだ。「逃げ恥」を分析すること自体無粋で野暮なことかもしれないが、今回のキャストは絶妙だと思う。嫌な人がいないので感情移入を邪魔されないのも良い。
ちなみに、昨夜はくたくたに疲れ果てている中で、星野源さん初主演
映画「箱入り息子の恋」(2013)の録画を流し観した。最後のいささかシュールな終わり方には驚かされ、感想は3+(夏帆さんが良かった)だったが、
この映画の主人公が、津崎平匡の原型であることはほぼ間違いがない。『逃げ恥』での平匡さんの演技は、映画ですでに確立していたのだ。あとは少しアレンジするだけだったのだ。
また、「逃げ恥」を見始めてから、このひと月半の間に、俺は
ドラマ「リーガルハイ」1シリーズ・2シリーズ・SPと
映画「フレフレ少女」(2008)の録画を全部流し観している。もちろん、日々の仕事に追われながらではあるが、疲れ果て、悪化し続ける精神状態を支えてくれる清涼剤的な効果があった。新垣結衣さん(ガッキー)には、理屈抜きで観る者の疲れを癒やしてくれる清潔感と面白味、爽やかな魅力があると思う。本当に素敵な女優さんだ。
あと野木亜紀子さんの脚本は、気の利いた言葉遊びとスピード感があって、とても洒落ている。この人、言葉のセンスが抜群だ。落語家・落語作家の素質があると思う。