もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

0063 吉田孝「大系日本の歴史 3古代国家の歩み」(小学館;1988) 感想5

2013年04月30日 01時25分46秒 | 一日一冊読書開始
4月29日(月):

366ページ  所要時間8:00     単行本蔵書

著者55歳(1933生まれ)。青山学院大学教授。副題「倭から日本へ」

まさか一日で読めるとは思わなかった。付箋をして、線を引きながらの<それなり読み>で、終りまで行けたのは、望外であり、達成感がある。一日で読み切らなかったら、最後まで行けない可能性が高かったと思う。有難いことです。合掌。

読み始めて、すぐ好感触を得た。テキスト「大化の改新~延喜・天暦の治までの300年間」を、多少のばらつきは仕方がないが、学術書としてのレベルを落とさず読み易く、オーソドックスに過不足なくまとめている。

著者の力量にもよるのだろうが、やはり「古墳時代」とは違って、「大化の改新」以降まで来れば、25年前の内容であっても、そんなに古くはなっていない。あとは、まとめ方の問題だ。

本書では、古代国家の形成・発達を、視野広く朝鮮半島や中国の政治情勢をふんだんに盛り込み、関連付けて語っていて、「やっぱり!」「ああ、そうそう!」「そこそこ、それなんだよ!」と同意、発見、共感が十分できて、楽しい読書になった。前回の「2古墳の時代」とは、対照的に非常に出来の良い仕上がりだと思う

「実用的! 役に立つ一冊!」と言える。いつも意識の片隅に置いておきたい一冊だ。お薦めです。

面白かった内容を挙げると、収拾のつかないことになるので、内容の例は控えるが、網野善彦さんの本と一緒に読むと、一興かもしれない、と思います。

目 次: コピペです。
はじめに
宮中のクーデター
入鹿暗殺/動乱の東アジア/大化の改新
新しい国制の模索
大化の諸改革/氏族制から官僚制へ/難波の宮/緊迫する国際情勢
亡国の危機
有間皇子の死/時間と空間を支配する/白村江の戦い/倭国防衛の努力/近江の朝廷
内乱の勝者
大海人、吉野へ/壬申の乱/天武の政権/藤原京/文学の世界へ
律令国家の構想
大宝律令の制定/唐帝国の周辺諸国/日本の律令国家の特質/藤原氏の台頭
平城京の建設
貨幣と都市/国史と地誌/律令制の体制化/国土の大開発/新しい空間の出現
大仏開眼
新しい信仰集団/聖武天皇と光明皇后/内外に高まる緊張/彷徨する天皇/政策基調の転換/天平時代の歴史的位置
天平びとの愛と死
求愛と結婚/古代人の家族生活/火葬と魂のゆくえ
揺れ動く天皇観
鑑真和上の来日/恵美押勝の専権/女帝と法王
平安京へ
新しい王朝の成立/律令国家の領域の拡大/律令制の変容/日本仏教の母胎
古典的な国制と文化
藤原北家の政権掌握/国風文化の胎動/変貌する律令国家/日本語とかな文字/おわりに
年表
索引

0062 鹿野政直「近代国家を構想した思想家たち」(岩波ジュニア新書;2005) 感想5

2013年04月29日 02時32分29秒 | 一日一冊読書開始
4月28日(日):

熱っぽくて、体調も頭の状態もあまりよくなかった。それでも読めそうな本を探した。ページの少なさに騙されて手に取った。

181ページ  所要時間4:10      アマゾン

著者74歳(1931生まれ)。俺が最も評価している歴史家の一人である。本書は、2度目である。前回大変良かったので、アマゾンで取り寄せ直したのだ。

25人について、各6ページずつ、代表的言葉が記され、人物解説されている。前回読んだことをすっかり忘れている感じだが、いつの間にか俺自身の人物評価に刷り込まれていると感じる。読み直し始めると、勿体無くて流し読みできず、付箋を付けたり線を引いたりしてしまい、あっという間に時間が経った。

正直言って、一貫性はあまり感じられないが、馬場辰猪、宮崎滔天、朝河貫一、金子(朴)文子、出口なお、山川菊栄、戸坂潤など、本書の人物選択は、著者ならではの感がある。マイナーでも、著者が推薦する人物については、今後も注目していこうと思う。

*金子文子を除けば、全体に女性が長生きで、男性はだいぶん短命だ。これは寿命ではなく、女性が評価されるには、まず長命が必要ということだろうか…
*俺は、陸羯南が何故か好きだ。
*大杉栄は、ハチャメチャ感がよかった。

しばらくは、本書を座右において、心に残る人物を読み直したい、と思う。

目次: *コピペです。
プロローグ
1 近代への先駆者
  渡辺崋山/吉田松陰/坂本龍馬/中山みき
2 「国民」の形成をめざして
  福沢諭吉/中江兆民/植木枝盛/馬場辰猪/陸 羯南/吉野作造/美濃部達吉/市川房枝
3 アジア・世界のなかの日本
  内村鑑三/岡倉天心/宮崎滔天/朝河貫一/金子文子/石橋湛山
4 体制の変革を志す
  出口なお/幸徳秋水/大杉 栄/北 一輝/山川菊栄/戸坂 潤/河上 肇

130428 政府による天皇の政治利用に反対! 沖縄の第2の悲劇は1952年から。

2013年04月28日 20時56分01秒 | 日記
4月28日(日):

政府主催の「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」に天皇・皇后が出席された姿は、痛々しかった。出席されていながら、「お言葉」が無いことの不自然さを天皇の意志として強く感じた。

130冊目 山崎豊子「運命の人」第4巻を読めば、沖縄の第2の悲劇が、1952年アメリカの施政権下に取り残されてから起こったことがわかる。
◎土地闘争:「戦時中、日本で唯一、地上戦が行われ、四人に一人が戦死したと云われている沖縄は、戦後も犠牲を強いられた。サンフランシスコ条約で日本本土と切り離され、米軍統治下に置かれると、米ソ冷戦を背景に米軍が沖縄の基地化を進めるため、1953年土地収用令を公布して多くの住民の土地を問答無用で取り上げた。」 「米軍将兵が、「沖縄はわが将兵1万4千人の戦死者後によって日本軍から奪い取ったものだ、三等国民に抵抗する権利はない」と家に火をつけ、無抵抗の抵抗を続ける村民をごぼう抜きし、荒縄で縛って毛布にくるみ、飛行機で嘉手納基地へ連行して、軍事裁判にかけた。罪名は公務執行妨害で実刑判決が下された。」「1955年といえば、本土ではもはや戦後ではないという言葉が聞こえはじめた頃であるのに、沖縄では敗戦のツケを背負わされた人々が、生活のすべてを奪われ、喘いでいたのだった。」

S130420 長かった…。塩漬け1821三井住友建設12000株がやっと売れた。

2013年04月22日 22時19分07秒 | 96万円からの株式投資
4月22日(月):

2月20日(水)に78円で買った1821三井住友建設12000株が、鳴かず飛ばずで2ヶ月間、本当に困憊したが、ようやく指値105円で手仕舞いできた。昨日の87円から、今日1日で18円×1万2000株=21万6000円の利益。

終わってみれば、32万4000円のプラス(税金3万2400円を引いて、29万1600円(諸経費別)のプラス)だが、逆に見れば昨年の暮れ以来、この上昇相場で今日の急騰が無かったら、全く何をしていたのかわからない。自分の才能の無さにあきれるしかない。

現時点の資金総額123万9500円。でも、次回また塩漬け、大損するかもしれないのだ。


4月23日(火):

何故かわからないが、資金総額が127万2800円になっていた。税の還付の関係か?




0061 和田萃「大系日本の歴史 2古墳の時代」(小学館;1988)  感想4

2013年04月22日 01時17分16秒 | 一日一冊読書開始
4月22日(日):

350ページ  所要時間5:30      蔵書

著者44歳(1944生まれ)。京都教育大学助教授。現在は、名誉教授。

随分昔に読んだ本の再読。2回目(3回目?)。流し読みを心掛けたが、線を引いたり、付箋をしながら読むと、どうしても時間が掛かってしまう。それでも、5時間30分間、一気に読んだ。でないと最後まで行けなかった、と思う。

古墳時代は、陵墓の特定をはじめ<推理ゲーム>のようなところがある。本書は、古墳時代のわかりやすい叙述と発掘調査の現状、及び著者自身の推理の紹介がうまくいっていない気がした。

要するに、まとめ方がへたくそで、25年後の今日から見れば、明白に答えの出ていることをくどくど解説していて、「そんなことよりもっと大事なことがあるだろう」と、イラッと来たりした。例えば、筑紫君磐井の墓が岩戸山古墳であることや、継体天皇の墓が今城塚であることを、「何を今さら」って感じでくどくど説明する。かと思えば、欽明天皇の見瀬丸山古墳を宣化天皇の陵墓と推理し、二朝対立は無かったと結論付ける始末。読み手としては、二朝対立の有無について戸惑うばかり。

著者が若すぎたのか、古墳時代の研究が飛躍する過渡期で、しかも陵墓や陵墓参考地の公開が未だに解禁されていないことによる宿命なのか…。

ただ、本書があまり使いやすい内容構成でないことあくまでも日本国内の発掘調査や資料検索に終始して、中国や朝鮮・韓国の研究に触れようとしていない視野の狭さ著者自身の当時の推理にハズレが多かったこと、は間違いない。

学術的な本ではあるが、それを読むことによって「誰かに何かを語ってみたい」気にさせる内容でなければ、やはり普及版の学術書としては厳しいし、寂しいと言わざるを得ないではないか。本書を読んでも、遺跡発掘の話はメリハリが無く、ややこしくて、こんがらかって、とても人に聞かせるどころか、俺自身がほとんど思い出せない。歴史叙述は逆に、もっと豊かに幅広く話を膨らませて面白く語ってよ、と思うぐらい今一だった。特に、歴史叙述も何か日本の中に引き籠ってステロタイプで語られていて広がりが全く感じられなくて面白くなかった。

偉い先生に申し訳ないが、このシリーズ全15巻の中では、出来の悪い方だと思う。古墳時代って、もっとダイナミックで面白く書けるはずでしょ、ってのが感想だ。もしも、古墳時代の勉強がしたい人がいれば、俺は本書を薦めません。もう内容が古いです。

目 次:コピペです。
古代史への招待-はじめに
巨大古墳の出現
 最初の王墓/古墳の葺石と造営/古墳の種類と構造
ヤマトの王墓
 巨大集落の発見/オオヤマト古墳集団/三角縁神獣鏡をめぐって
 ヤマトの範囲
大和・河内連合王権
 佐保川流域の開発/ワニ氏を追って/馬見古墳群と室大墓
河内の二大古墳群
 古市古墳群と土師氏/応神陵の被葬者/モズ古墳群と大山古墳
 二大古墳群と対外交渉
ワカタケルとその時代
 鉄剣銘文の発見/斯鬼宮と泊瀬朝倉宮/画期としての雄略朝
存在しなかった河内王朝
 河内王朝論/大伴氏と忍阪遺跡/物部氏と石上神宮/倭の屯田と
 三輪山祭祀/曽我遺跡と雄略陵
王権の動揺
 吉備氏の反乱/瀬戸内航路と出雲街道/古代の大王と女帝/
 オケ・ヲケ王の物語
継体新王朝の成立
 平群氏と大伴氏/息長氏の勢力/画像鏡の銘文をよむ/継体の擁立基盤
国家意識の形成
 磐井の乱/継体・欽明朝内乱/思想・文化の導入
飛鳥の春秋
 女帝の登場/真神原の寺と宮/聖徳太子の登場/斑鳩の勢力
大発見の陰に-おわりに-
年表
索引

※俺には大きな疑問がある。現在の皇室の明確な祖先である<継体天皇>が、どうして高校教科書の本文に書かれず、系図で辛うじて名前が出る程度の扱いしか受けていないのか。万世一系に抵触するからなのか? でも三王朝交替論から見ても、継体は間違いなく現天皇家の祖先なのに、どうしてこれほどまでに無視されるのか。文部科学省の教科書調査官に一度心ゆくまで問い質したいと思うのは俺だけだろうか…?

130421 4月21日(日)炎上したら、すぐに削除します。宮台真司、竹田恒泰、山折哲雄「皇太子退位論」

2013年04月21日 16時20分49秒 | 日記
昨夜のブログの余韻として、俺は文化人と称される人々に対してどのように捉える傾向があるのか、とふと考えた。
先ず、斎藤貴男、姜尚中、筑紫哲也、湯浅誠、佐高信など権力と対峙、または切り結び、社会的弱者の側に立ち、かつ視野の広い合理的な太い根っこを持つ人々に共感・憧れを持つ傾向にあるようだ。森達也氏は、少し弱いがこの範疇の人だ。
逆に、TVの雛壇芸人のような有象無象の幇間学者・文化人(例えば、辛坊治郎などは確信犯だ)は論外として、最も唾棄すべき存在は、自分を高みに置いて読者を見下し、アカデミックな素振りで、いっぱしの論陣を張るが、その実、常に権力の側に立っているような奴だ。最も典型的な唾棄すべき奴は、<宮台真司>である。こいつには、昔、「この人は何かを持っている」と騙されたので軽蔑心はより強烈だ。最近『14歳からの社会学――これからの社会を生きる君に』(2008)を読んだ時には、むき出しのエリート意識に「ここまで堕ちたか…」と気分が悪くなった。宮台のように、現実の社会の矛盾や問題と何ら切り結びもしないくせに、自分が偉い何者かであるように見せかけようとする存在が一番たちが悪い。こいつの影響で若者たちが、大切な時間を無駄に混乱させられることは忍び難い気がする。

蛇足だが、<竹田恒泰>だけは何とかならないものか。俺は天皇制に対して批判的な立場だが、今の天皇・皇后に対して強い尊敬心を持っている。親愛感といってもよい。これはお二人の象徴天皇としての存在に対する日々の並々ならぬ努力とバランス感覚に対して敬意を払わずにはいられないということだ。即位後、沖縄へ行き、韓国には桓武天皇以来の<縁(ゆかり)>発言、サイパン島慰霊の旅では韓国人戦没者墓地への慰霊、東日本大震災では異例の早さで国民への励ましのお言葉声明、その後の病身に鞭打ちながらの東北への慰問行脚の繰り返し…、一方で寄生地主出身の将棋連盟会長米長邦雄の園遊会での行き過ぎた天皇への忠誠心発言を「そのようなことは(強制ではなく)自然な感じでよいと思います」とやんわりと諌めた姿など、枚挙にいとまない。これらは、現天皇の行なってきたご努力のごくごく一部に過ぎない。それを思うと、天皇制に対して批判的な立場の俺から見ても「この方たちの努力は、尊敬に値するし、これが象徴天皇制というものであれば、憲法規定に従って大切にできる」、「立憲君主制というものが、このようにリベラルで立派な天皇を頂くのであれば、あえて共和制を求める必要はない」と今の俺は、考えるようになってきているのだ。この思いは、俺の中では、現皇太子夫妻と愛子ちゃんまでは、つながっている。しかし、秋篠宮夫妻と悠仁くんまでは、どうしてもつながらない。微妙なのだ。しかし、この感情的な微妙さこそ、俺は現行の象徴天皇制論議の核心だと思っている。

まさにその微妙さの中に、突然土足で踏み込んできて、明治天皇のヤシャゴか何か知らないが、竹田恒泰というガラの悪いチンピラがテレビに出てきて、「おまえら何もわかってないかもしれないが、日本には昔から偉い天皇陛下様がいて、それだけでよその国とは違う、すごい国に住めてるんだぞ。日本は天皇陛下様がいるから、世界中から尊敬され、愛されてるんだぞ」とわめき散らしているのだ。俺の周りの人間は、こいつがテレビに出てくる瞬間にチャンネルを変えると言っている。この竹田恒泰は、実は皇族ですらない。そのチンピラが、天皇家との血縁を盾にしてテレビで「俺たちは、おまえらとは違うんだぞ」とわめき散らしている姿を見ると、正直目の穢れなのだ。昭和が終り、平成という新元号ができたとき、元号法制化をめぐって大きな議論があり、俺たちは平成という元号に対して強い違和感を覚えていた。それをこの25年間の現天皇夫妻の言行を見続ける中で、自分でも「こんなはずではなかった…」と戸惑いながら、天皇に対して尊敬心、親愛感、敬愛の情を持つようになってきたのだ。

そこにガラの悪いチンピラが、視聴率1%で100万人の人々が見るテレビに出てきて、わめき散らして、国民の反感を買い、天皇ご夫妻が、まさに身を削って築き上げて来られた象徴天皇制の姿を土足で踏みにじっている姿は見るに堪えないのだ。このチンピラだけは、公共電波から摘まみ出して欲しい。こんな下品な輩の存在が場を濁した状態で、天皇制のあり方が論じられることには正直堪え難いのだ。これは切望と言っていい。

ついでに、最近話題の山折哲雄さんの「皇太子退位論」には正直、耳を疑ってしまった。皇太子妃の雅子さんの具合が悪く、皇太子が公務よりも家庭を大切にしているのは、象徴天皇制にそぐわないから、弟の秋篠宮に皇太子位を譲って、京都で気楽に暮らせばよい。とは、まあ、開いた口がふさがらない。山折哲雄氏は、宗教学者として敬愛していただけに、「殿御乱心」としか言えない。個人の都合で、皇太子位(天皇位に等しい)が変更できるのであれば、それは既に公(おおやけ)ではない。憲法、皇室典範が、それほど軽く扱えるなら誰も苦労はしないし、これほど危険なことはない。奥さんの具合が悪くて、公務がおろそかになるから「日本の象徴天皇制」にふさわしくない、というのであれば、天皇家は家庭円満を演じることを強制され、人権を侵された存在になってしまう。夫婦仲良く、男の子に恵まれ、家族全員心身ともに健康で人付き合いが好きで外交的・社交的な性格でなければならない。それが象徴天皇制のあるべき姿だ、と本当にこの山折のじじい(ちょっと腹立ってきた!)は考えてるのだろうか。山折のじじいが言うような天皇家の姿を基本にすれば、それは既に生身の人間ではない。人形かロボットだ。じじいが譲位先に勧める秋篠宮家だって、悠仁くんだって生身の人間である。じじいの言うように、象徴天皇制の条件として家庭円満・心身健康・社交的・家庭より公務優先が主張されるのであれば、俺は断じて天皇制に反対する。現代日本の市民生活の多様性から見ても、さまざまな事情により心を病む人々が大勢いる。さまざまな苦しい事情を抱えながら家庭を維持しようと頑張っている人々がいる。そして、やむを得ず離婚という選択肢を選び、多くの場合子供の親権は母親が持ち、母子家庭がたくさん生まれている。その母子家庭の貧困は大変深刻な状態になっており、母子家庭の母親は疲弊しきっている(阿部彩「子どもの貧困」2008)。発達障害ほか、さまざまな障害・事情を抱えた人々を含めたすべての国民(市民)の「象徴天皇制」なのだ。俺は、雅子妃の病に精一杯に向き合っている皇太子を素晴らしいと思う。また、私見だが、女系天皇・女性天皇論議はともかく、歴史的に見て女性天皇は珍しくない(特に飛鳥~奈良時代)し、男女平等の憲法の精神から見ても、またイギリス王室をはじめ、世界の王室のあり方から見て女性天皇の存在に違和感はない。勿論、第一に考えるべきは、愛子ちゃんの幸せだが、男女平等の精神を生かす意味でも、愛子ちゃんが、天皇になる方が良いと思う。

今回の山折じじいの論は、昭和天皇の結婚問題で、血統的に色覚異常の恐れありとして、結婚に反対した山県有朋のしでかした宮中某重大事件以上に悪質な論説だと断ぜざるを得ない。

0060 森達也「世界を信じるためのメソッド よりみちパン!セ」(理論社;2006)  感想4

2013年04月21日 02時45分22秒 | 一日一冊読書開始
4月20日(土):

今日は、午後3時頃からから夜8時頃まで寝てしまった。その上、録画してるのに、映画『テルマエ・ロマエ』の放送をライブで最後まで観てしまい、まったく中途半端な状態に陥ってしまった。夜の11時を過ぎて、寝るには早すぎるが、本も読み難い。半ば諦めそうになったが、「読めない時も、読めそうな本を読むべし」の方針に従って本書を読んだ。

154ページ  所要時間1:50     図書館

副題は「ぼくらの時代のメディア・リテラシー」

著者50歳(1956生まれ)。たまに、 ?な作品もあるけれど、概ね共感・評価できる著書を出す作家である。本書も、“当たり”である。書かれている内容のほぼすべてに賛同し、適切さを感じた。感想4は、154ページという薄さに対する俺自身の引け目であって、本書にマイナスがある訳ではない。副題通り、メディア・リテラシーの教科書に使ってもよい内容だ。

◎メディアは、結局多数派の視聴率に強く影響される。だからといって無い方が良いとは絶対に言えない状況だ。結局、我々が賢くメディアを見る目を育てて、メディアの質を高めるしかない。それでも、メディアを鵜呑みにしてはいけないのは変わらない。

*星の王子様の3本のバオバブの木は、日・独・伊のファシズム国家。

*指導者にとって、戦争を起こすことはそれほど難しくありません。国民にむかって、我々は今、攻撃されかけているのだと危機を煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。このやりかたは、どんな国でも有効です。(ヘルマン・ゲーリング)66ページ

*青少年に、判断力や批判力を与える必要はない。彼らには、自動車、オートバイ、美しいスター、刺激的な音楽、流行の服、そして仲間に対する競争意識だけを与えてやればよい。青少年から思考力を奪い、指導者の命令に対する服従心のみを植え付けるべきだ。国家や社会、指導者を批判するものに対して、動物的な憎悪を抱かせるようにせよ。少数者や異端者は悪だと思い込ませよ。みんな同じことを考えるようにせよ。みんなと同じように考えないものは、国家の敵だと思い込ませるのだ。(ヒトラーの発言といわれる)74ページ

*撮影という行為は、ちっとも客観的じゃないし、ましてや公正でも中立でもないってことを。/僕の周りには世界がある。あなたの周りにもある。三六〇度すべてにある。でもカメラはまず、この無限な世界を、四角いフレームの枠の中に限定する。その瞬間、区切られたフレームの外の世界は、存在しないことになってしまう。/何かを撮るという行為は、何かを隠す行為と同じことなのだ。97ページ

*「沈黙の螺旋」114ページ

*メディアは、自ら作り出した社会の雰囲気にのみ込まれる。

目次 :  *コピペです
第1章 メディアは人だ。だから間違える。(連想ゲームをしよう/ イメージって、どう作られる? ほか)
第2章 メディア・リテラシー、誰のために必要なの?(メディアへの接しかた/ 「何となく」の副作用 ほか)
第3章 キミが知らない、メディアの仕組み(僕がクビになった理由/ トップ・ニュースは何か? ほか)
第4章 真実はひとつじゃない(世界をアレンジする方法/ メディアは最初から嘘だ ほか)

130419 習作「母の手記」 ※酔っ払いつつ創作す。

2013年04月20日 00時35分27秒 | 創作・エチュード
4月19日(金):

習作「母の手記」

午後8:30頃、職場で評判を聞いた「ワイルド・スワン」を探すために実家に行った。先ず、奥の家に行った際、母の生前のメモ書きを見つけた。加齢による記憶力の衰えを嘆きつつ、最後は書き記せない苦悩で終わっていた。

「(苦悩とは)兄の独身のことか…」と勘違い?しつつ、生前の母が幸せではなかったことを思い知り、「付いて来ていいよ」と母に小さくつぶやいて、奥の家を出た。

鍵を開けて、実家に入り、本を探したが見つからない。代わりに1986年のダイアリー帳に書かれた55歳の母の手記(日記)を見つけた。今の俺とちょうど同い年である。

嘆きに満ち満ちた内容で、亡き父母(俺の祖父母)を想い出し、「今だったら、どんなことだってしてあげられたのに、何もしてやれなかった。父はお酒が好きだったのに、十分に飲ませてあげることもできなかった。悲しいことに出会えば出会うほど、父母のことが思い出される。」と嘆いている。しかし、真の嘆きの元は、当時29歳の俺の親不幸にあった。「一番おっとりとしていたはずの末っ子の旭が、どうしてこんなにひねくれてしまったのか。自分の言いたいことだけ言って、相手には凶暴になって何も言わせない。自分に甘くて、人には厳しい。どうして、こんなに気の小さい男に育ってしまったのか。私の責任だ。これでは職場でもまともな付き合いをしてくれる人もできないだろう。旭の行く末が思いやられて気持ちが塞ぎ込んでどうしようもない」という悲痛な内容だった。

「俺は、これほど母を苦しめていたのだ。」という思いと、「母は、結局こんな風に俺のことを観ていたんだ。」という両方の思いが俺を打ちのめした。母の霊に「付いて来ていいよ」と声を掛けたのが、こんな偶然を呼ぶとは…。そして、母の嘆きの最大の原因は、俺と兄の確執だった。

俺が、おとなしく優しい性格の兄を兄と思わず、兄弟の仲を修復不可能にしているというのだ。「旭はどうして、おとなしい安男を兄として立てないのか。安男は安男なりに兄として努力している。旭が怪我したとき、病院に毎朝車で送り迎えして、駐車禁止で車をレッカー移動させられたこともあるのに、どうして旭は安男を兄として立てないのか。どうして兄弟仲良くと育てたつもりなのに、おとなしい安男に旭は凶暴に突っ掛かっていくのか。」という嘆きが綴られ、亡き祖父母を想い、祈り助けを求めるような内容だった。

「兄弟仲良く。兄は弟を思い、弟は兄を立てるべき、なのに旭は、おとなしく優しい兄の安男や父母である自分たちに凶暴に突っ掛かって刃向って来る。凶暴な旭はどう見ても悪い。どうして旭は、自分の間違いに気が付かないのか!」という母の俺への断罪が、実は俺を引くに引けない状態に追い詰めていたのだ。当時の俺の行き場のない反発が、今この文章を書きながら蘇ってきた。

俺は、兄に訳も無く反発していた訳ではない。むしろ兄の優しい性格、能力の高さを誰よりも認めていた。それゆえに、そんな兄が弟の俺に対して、俺の必死の努力に対して斜に構え、見向いてくれないことにいらだっていたのだ。俺は、いつでも兄との深い交渉・絆を求めていたのに、兄がそれを拒否していることに強く反発していたのだ。俺の思いを理解しようという姿勢すら見せない母による断罪に、当時の俺がいら立って、抑えが効かなくなっていたことが思い出された。

俺は、母の手記を発見して、母に謝罪する思いを記すためにこの日記を書き始めたつもりだった。もちろん、今も亡き母を懐かしみ謝罪する思いはある。しかし、書き進むにつれて、当時の55歳の母の「長幼の序」を掲げてまったく譲らない無理解な壁に対する29歳の俺のやり場のない怒り・感情も一緒に思い出されてきた。如何なる人間にとっても、最も大切なのは、「他人の評価」ではなく、結局「親の評価」なのだ。「誰にどう見られていようと、親がどう見てくれているか」が、すべてなのだ。少なくとも、当時の俺はそうだった。母は、どうしてこんな時限爆弾を仕掛けて放置しておいたのだろう。

今となれば、昔話に過ぎないが、亡き父母を想う思いと、母の無理解に反発する思いの二つに引き裂かれている俺がいる。そして、あと十数年か、二十数年で、俺も両親のもとに逝くのだ。「母の手記」の冒頭「名前を言うだけで泣きたくなるほど可愛い旭が、云々」という文面に母の愛の深さを痛切に思う。今は、両親の生前に仲の良い兄弟を演じることができればよかった、と本気で思うこともできるが、それもこの歳になったからだ。

若かりし時には、俺も、兄も必死に生きていた。そう易々と親の思い通りに「兄弟仲良く」を演じるのはやっぱり無理だったと思う。そして、「長幼の序」を掲げて一方的に弟の俺を悪者と決めつけていた亡き母には、やはり一言、「母さん、あなたが、俺の思いを理解して、声を掛けてくれていれば、俺だってあんなひどいところまで兄貴にぶつかっって行ったりしなかったよ!」と言いたくなるのだ。

しかし、小学校もまともに卒業できない、貧しい中で、やりたいことも何もせず、ただひたすら懸命に働いて、俺たち兄弟に高い教育を与えてくれた母、そして父に対して、俺が何を言えるだろう。何も言えない。理屈を超えた情愛に返せる言葉などない。今は、ただ父母のことがひたすら恋しいのみだ。

0059 筑紫哲也「若き友人たちへ」(集英社新書;2009) 感想4

2013年04月18日 00時09分33秒 | 一日一冊読書開始
4月17日(水):

仕事に疲れて帰って来て、本を読めるような状態ではなかった。それでも読めそうな本を探した。

251ページ  所要時間2:15      ブックオフ105円

副題は「筑紫哲也ラスト・メッセージ」である。

著者73歳(1935~2008)。著者の遺稿と立命館・早稲田両大学院生への講演記録をまとめた本。

2005年頃のアメリカ・ブッシュ政権と小泉欺瞞政治に象徴される当時の日本の有り様に対する厳しい批判・警鐘が中心になっている。

郵政民営化反対、移民に頑迷に門を閉ざし続け、人口減少に取り組まず国力の衰退に取り組まない、国の借金にまともに取り組まない、姿勢を批判。

新渡戸稲造の努力を無に帰した松岡洋右のポピュリズム批判、松岡洋右の二人の甥岸信介・佐藤栄作、さらに安倍晋三批判。

年間400本の映画を観る生活の中で、ベスト3の監督は、ジャン=リュック=ゴダール(仏)、クリント=イーストウッド(米)、テオ=アンゲロプロス(希)。

戦後、自衛隊がただ一人の外国人も殺していない事実だけは、アジアの如何なる国に対しても強く主張できる。その基の憲法を改正して9条を改変させようなんて断じて許せない。それは、自民党の後藤田正晴らの政治家も同意見だ。「憲法を変えて(軍隊の持てる)普通の国になる」なんて寝言を言う暇があれば、年金問題、国債破綻危機問題など、いくらでも取り組むべき問題があるはずだ。

「愛国主義は悪党の最後の隠れ家である」

小泉の安易な靖国参拝に対する意識は、中韓以外のアジアの国々の日本に対する警戒心を呼び起こしている愚行だ。

筑紫さんの意見・主張は、ほぼすべて首肯できた。そして、彼が取り上げた深刻な問題が、今もってまったく何ひとつ解決していない現実に背筋が寒くなった。問題は、解決するどころか、悪化の一途をたどり、ついにアベノミクスで深刻な問題を見ざる、聞かざる、言わざるで、ほうかむりしてしまっているのだ。

近い将来、どんな破綻が訪れるのだろう。日本の経済破綻程度で済めば仕方がないが、中国共産党開発独裁政権の崩壊・大混乱、チベット・ウィグル・内モンゴル独立・内戦・紛争、北朝鮮チンピラ国家の破綻・核ミサイル発射、などの複合的カタストロフィーが起これば、もう想像を絶してしまう。

正直言って、筑紫さんのような、影響力のあるリベラルっていうか、本当に真っ当な正論を社会に発信できる人がいない現実を思い知らされた。筑紫さんに対する喪失感を再認識させられた本だ。筑紫さんが、がんに侵されることなく元気に活躍されていれば、東日本大震災の復旧・復興問題や覚醒剤中毒患者のような日本の原発依存状態に対して、しっかりと道を指し示してくれていただろう。

筑紫さんを思い浮かべると、池上彰さんの今のポジションは、「やっぱりずるいな!」って思ってしまう。知者には、自らの信じる道を示す必要があると思うのだ。それによって多少は、批判を受け、自らの活動の場を狭められることになっても、それはやるべきことだろう。ジャーナリストとしての美味しいポジションにしがみついてる池上彰さんの姿には、やはりジャーナリストとしては不満を感じる。

変な結論になってしまった。これこそ「風が吹いたら桶屋が儲かる」みたいな論かもしれない…。だいぶん疲れた…。

目次:
第一章 まず憲法について話してみよう
第二章 そもそも日本人とは何か
第三章 二つの日本人論を読む
第四章 沖縄から何が見えるか
第五章 さまざまなメディアを歩いてみよう
第六章 雑誌と新聞をめぐる私的ジャーナリズム論
第七章 国家、この厄介なるもの
第八章 教育こそが国の基本である
第九章 「知の三角形」という考え方
第十章 この国がおかれている現実を見つめる
第十一章 そして、この国の行方は・・・・・





130414 NHK「泣き笑い 俺たちと先生の就職活動~西成高校・生きる力を育む1年~」を観た。 感想5

2013年04月14日 18時40分32秒 | 映画・映像
4月14日(日):

録画してあったドキュメンタリー(42分間)を見た。期待してなかったが、久しぶりに見応えのある番組を見た気がする。普通科の学校なのに就職希望者99名の西成高校は、セーフティーネットのような高校である。

NHKの番組解説「生活保護受給率が全国一の大阪市西成区。大阪府立西成高校は、経済的に厳しい環境にいる生徒が多く、普通科ながら半数以上が就職する。番組では、就職を控えた3年生の1年間に密着。ひとり親家庭で就職を選ばざるを得なかった生徒、遅刻など生活習慣の乱れが原因で試験に何度も落ちる生徒など、様々な事情を抱える生徒たち。貧困が生み出した“しんどさ”を抱えながら就職活動に挑む生徒たちと、それを支える教師の奮闘を描く。」

担任の先生が全員に一人ずつ手紙を書き、その担任からもらった手紙に目を輝かせる生徒たちひとりひとりの姿に“良い風景”を観た気分になれた。

教育の原点、人間の原点、考えさせられる材料がたくさんあった。

※再放送があるようです。
 (全国放送)NHK 総合 4月25日(木)午前2:15~2:58(水曜深夜)

0058 本田良一「ルポ 生活保護 貧困をなくす新たな取り組み」(中公新書;2010) 感想3+

2013年04月13日 21時20分38秒 | 一日一冊読書開始
4月13日(土):

244ページ  所要時間2:15      図書館

著者51歳(1959生まれ)。

まったくの失敗読書だった。感想3+は、本書の評価ではない。内容・立場的にはもっと高い評価を付けてよい本だと思う。ただ、俺の体調の悪さもあったが、読み難い本だった。数値史料・法律用語がやたら多用されていること。著者のホームベースが北海道(しかも釧路市)であること。正義を貫こうとしているのは、わかるのだが、読者に読みやすくしようという配慮が少ないと思う。結局、一般常識的レベルでの雰囲気は伝わったが、後に残らない読書に終わった。

この手の本は、苦手である。ある意味、一日一冊読書、多読の敵のような本だ。読書に使える持ち時間が少ない中で、いくら良い志で書かれた本だといっても、解読のために10時間以上掛けてもそれにふさわしい見返りは無いのは、少し読めばわかる。また、数値史料、法律用語が、やたら出てくる本を読み続ける苦行は、本来の読書の目的ではない。俺の場合、この手の本を読む場合、たいてい時間を掛ければ掛けるほど途中で投げ出して挫折する。結局、読めないままだ。だからこそ、今回はページに目を這わせて最後まで眺めた通したが、「読者に不親切な本は、たとえ良い意志で書かれたものであってもあまり評価できない」という感想しか持てなかった。

もっとじっくり腰を据えて、座右の書とすべきなのかもしれないが、読みたい本は、他にも膨大に存在するのだ。結局、今回は、ご縁が無かったということだ。

0057 佐原眞「大系日本の歴史 1日本人の誕生」(小学館;1987) 感想5-

2013年04月12日 01時44分27秒 | 一日一冊読書開始
4月11日(木):

350ページ  所要時間4:20       蔵書

著者55歳(1932~2002)。考古学者。

当時、現代社会と切り結ぶ斬新な考古学のスタイルを引っ提げて、さっそうとメディアに登場し、一時代を築いた学者である。確かに格好良かったが、考古学の効用をアピールする姿勢に少し無理があり「ちょっと気取り過ぎと違いますか?」と突っ込みを入れたくなる時もあった。

2002年に亡くなった時には、かなりショックを受けた。早世だと思った。新しい考古学をわかりやすく、もっと教え続けて欲しかった。ただ、改めて70歳という年齢を考えれば、必ずしも短命ということもない。まあ、好きな学者さんだった。

何度目の読み返しか? わからない。通読は2,3度目だろうが、折に触れ、部分的にはよく読み返してきたと思う。座右の書のひとつだ。今回、評価5-にしたのは、さすがに25年の歳月で当時斬新に思えた内容が、定説になっていたり、否定されていたりと、やはり「この本も古くなったな…」という感慨を覚えたからだ。

何よりも、著者が「岩宿人」と呼び、旧石器時代人を力説している東北の有力な遺跡が、2000年の旧石器捏造事件で、今やまったく信用の置けないページになってしまっているのは痛い! 何よりも張本人の大馬鹿野郎詐欺師の藤村新一が称揚されている55ページにはウンザリしてしまった。ただ、当時すでに東京都教育委員会の小田静夫氏が強い疑義を表明していたのを知り、少し救われた。しかし、佐原氏は、詐欺師の藤村を支持していたのだ。

今回、流し読みだったが、昔を思い出せて良かった。細かい有意義な情報は付箋だらけで針ねずみ状態で、さすがに膨大すぎて書けないので、悪しからずお赦し下さいませ。

*佐原さんは、邪馬台国論争では、「倭国大乱」と高地性集落の時期が重なることなどから、邪馬台国畿内説をとっている。311ページ

*定住生活が呪術を生む。220ページ


0056 重松清「その日のまえに」(文芸春秋;2005) 感想5

2013年04月10日 01時05分26秒 | 一日一冊読書開始
4月9日(月):

292ページ  所要時間4:30   ブックオフ単行本105円

著者43歳(1962生まれ)。

それなりに仕事から疲れて帰宅後,7:45~12:15まで4時間半、一気に読んだ(読めた)。重松作品、恐るべし!

オムニバス方式で、死を巡る5つの物語が書かれている。静かに、坦々とした感じで読み進む。激しい展開などどこにもない…、はずだったのに、終盤に入ったところ(222ページ)で、まったく何の変哲もないやり取りのシーンで、突然前触れも無く、心がぐらりと動揺し、目元にぐうっ…ときて、涙が出た。何か、前半、中盤で、静かに沈澱していた人間の哀しみの澱のようなものが、終盤にはからずも噴出した感じを受けたのだ。

5話目の物語り(「その日のまえに」「その日」「その日のあとで」)に、前の4話の登場人物のその後が交差し、大きな物語として収斂されていく。しかし、細やかな感情表現や穏やかで優しいシーンはあっても、物語りが静かに坦々と進められるのは変わらない。

いつの間にか、読む速度は落ちて、登場人物の思いを丁寧に追うようになっていた。途中、一度も読むのが嫌にならなかった。まあ、泣かせてくれたのだから“感想5”である。

*蝉はそもそも土の中の生き物であって、地上に出てきてからの姿は、「成虫」ではなく、「死装束」だと思うべきではないのか、だとすればわずか半月の命を悲しむことはない。蝉はすでに土の中で充分に生きたのだ。地上に出て、羽が生えたあとは、「晩年」にすぎないのだ……。95ページ

*先生はもう余命の話をしなくなった。僕の胸に宿るものは、絶望から悲しみに変わった。悲しみは深い。けれど、不安とは違って、そこにはちゃんと輪郭がある。ありかがわかれば、それに触れないようにすることだって、できる。和美の入院する」大学病院に通うのが日常になったとき、僕は悲しみとの付き合い方を覚えたのかもしれない。219ページ

*僕は泣かない。泣いてはいけない。子どもに気のすむまで泣かせてやるには、親は黙って、微笑んでいなければいけない。232ページ

*(山本美代子看護師長)「終末医療にかかわって、いつも思うんです。『その日』を見つめて最後の日々を過ごすひとは、じつは幸せなのかもしれない、って。自分の生きてきた意味や、死んでいく意味について、ちゃんと考えることができますよね。あとにのこされるひとのほうも、そうじゃないですか?」/「でもどんなに考えても答えは出ないんですけどね」本音だった。「その日」の訪れが予想より早すぎたせいではない。略。/「考えることが答えなんだと、わたしは思っています。死んでいく人にとっても、あとに遺されるひとにとっても」略。/僕は訊いた。「いまは、たくさんの患者を看取ってきて、だいぶわかってきたんじゃないんですか?」―すがるような口調になってしまった。「どんどんわからなくなってきます。」山本さんはそう言って、「でも、考えることが答えなんだということだけは、最近わかってきましたから」とさっきの言葉を繰り返した。279~280ページ


0055 藤田紘一郎「踊る腹のムシ グルメブームの落とし穴」(講談社文庫;1999) 感想4

2013年04月09日 02時48分04秒 | 一日一冊読書開始
4月8日(月):

263ページ  所要時間3:15       ブックオフ105円

著者60歳(1939生まれ)。サナダ虫(日本海裂頭条虫)の感染幼虫を飲みこみ、自らの体内で「妊娠」したサナダ虫に「サトミちゃん」「ヒロミちゃん」「キヨミちゃん」「ナオミちゃん」と名前を付けて愛しみ、サナダ虫で健康ダイエット、アレルギー、アトピーも治る(本当のこと)と喜々として啓蒙する一種の奇人である。

「本書はサナダ虫のキヨミちゃんをおなかに飼って、僕がいろいろ感じたことのほかに、飽食を背景にして起こってきた「美食ブーム」に潜んでいろいろ悪さをしている寄生虫たちの姿を描いてみた。」252ページ

相変わらずむちゃくちゃ面白いが、まったく洒落にならない話が満載されている。前半は、著者と善玉サナダ虫(日本海裂頭条虫)との愛情あふれる交流が描き出され、後半は飽食日本の「げてもの食い」に寄生虫の視点から警鐘を鳴らす。前回も書いたかもしれないが、外からの攻撃には、身構えることもできるが、体の中からの攻撃、胃壁や腸壁に食い込まれての腹痛ならまだしも、体の中を移動されて、蚯蚓腫れができたり、瘤が移動して、肺や網膜、果ては脳に巣食われては、もうお手上げである。

寄生虫の一生、というか生のサイクルを考えると生物について、何か大きな啓示を受けた気になる。親虫が、宿主の中で産卵し、宿主の体外に出た幼虫が、第一・第二の中間宿主を経て、最終宿主のもとに取り込まれて、そこで大きく育ち、また産卵する。逆に、そこのサイクルが、近代生活により立ち切られると、寄生虫も危機に陥る。これも縁起というべきか。

そして、人間を宿主とする寄生虫は、良い関係「共生」が成立するが、人間以外の生物を宿主とする寄生虫のサイクルに、人間が介入し、幼虫を摂取した時には激烈な症状を発することが多い。

*「なじみの少ない獣肉の生」を食べる「ゲテもの食い」が、とても恐ろしい。取り返しのつかない危険なことである。略。有鉤条虫(サナダ虫)の幼虫が潜むブタ肉を生で食べると、悲惨である。体中が「虫だらけ」になり、やがて脳も冒されてくるい死にすることがあるのだ。飼育のために中国・韓国・沖縄などにあるブタトイレは最悪である。イスラムでブタがタブーなのもブタ肉の恐ろしさによるものだろう。略。地鶏のレバ刺しだけではなく、ウシだってブタだって、レバ刺しは「恐い」ものだ。

*「肉を生で食べる」ことはとても恐ろしいことを繰り返して述べて、終りにしたい。250ページ

※時間が無い。眠らないと明日の仕事に差し支えるので、とりとめないレポートになった。すみません。また、手を加えられれば、やります。この本、面白いですよ!ってことで、今晩は、お休みなさいませ。



0054 福沢諭吉「文明論之概略」(岩波文庫;1875) 感想5

2013年04月07日 19時28分56秒 | 一日一冊読書開始
4月7日(日):

391ページ(本文305ページ) 所要時間3:30   蔵書

著者40歳(1835~1901)。一万円札の肖像の人。

そもそも丸山真男が悪い。偉そうに岩波新書で「『文明論之概略』を読む(上・中・下)」なんて厳めしい本を出すから怖くなって、ずっと手を出せなくなっていたのだ。「緻密に精読する時間も元気も無い。別に難解でわからなくてもいい。ご縁だけでも結ぶ、眺め読みをしよう」と思い立った。1ページ30秒のルールを正確に守って、目を這わせた。ページを折り、たまに付箋と線引きをしながら終りまで、本文だけなら2:40で到達した。多少、世界地理、世界史、日本史、哲学・宗教の知識は必要だったが、特に、難解というほどのことは無かった。考えてみれば、明治初年のベストセラーだったわけで、そんなに難解な本である訳が無かったのだ。そうだとすれば、なおさら丸山真男が悪い! ってことになるだろう。まあ、とにかく、読み通せただけで嬉しい。人生の宿題を、一つやり終えた感じだ。

短時間で、内容の深い含意を読みとるのは勿論無理だし、読んだ内容についてまとめなさいと言われれば、やはり無理である。しかし、意外だったのは、それでも楽しい読書になった、ということだ。

本書が書かれたのは、1874(明治7)年民撰議院設立建白書が左院に提出され、翌1875(明治8)年大阪会議が開かれ、漸次立憲政体樹立の詔が出されて、自由民権運動が開始された時期である。福沢は、当時オピニオン・リーダーとして、まさに啓蒙活動の先頭に立って、本書を出版しているのだ。巻末の解説で知ったのだが、当時政府を下野していた大西郷も本書を通読して、少年子弟に「この著書は読むが宜しとかたりしことあり」(365ページ)というのだ。そう言えば、司馬遼太郎「坂の上の雲」の秋山好古が少年の頃、弟の真之に福沢のことを「日本で一番えらい人じゃ」と語るシーンがあったが、好古少年が『学問のすゝめ』『文明論之概略』を読んで世界への視野を広げていたことはほぼ間違いないだろう。

内容は、「結局、我輩の旨とする所は、進みて独立の実を取るにあり。退てその虚名(*日本の伝統文化か?)を守るが如きは、敢て好まざる所なり。略。国の独立は即ち文明なり。文明にあらざれば独立は保つべからず。」(300~301ページ)「自国独立の四字」(305ページ)を掲げることにあるのだが、福沢の文章は、具体的でわかりやすく、表現が生き生きとしているのだ。

前に、福沢が本を書く秘訣として「サルにでもわかるように書け!」と言っていると読んだことがあるが、本書はまさにその通りに書かれている。先ず、例え話が具体的で、卑近な例がさまざまに多用されている。アフリカも含めた世界地理、日本史(秀吉や正成、後醍醐など)・東洋史(中国は唐虞三代から李鴻章まで)だけでなく、欧米史について古くはローマ帝国、宗教改革、近くはアメリカ独立戦争、南北戦争、1870(明治3)年の普仏戦争まで、掌を指すように語り、仏教(神道)、儒教、キリスト教、カースト制度、とにかく向かうところ敵なしの談論風発・縦横無尽な語り口で、つい話の調子に引き込まれてしまうのだ。そして、日本の置かれている状況、取りうる選択肢、何を選ぶべきか、どのようにすべきか、などがいつの間にか熱く論理的に語られているのだ。

きちんと読みとれた訳ではないが、恐らく福沢は中途半端な「和魂洋才」などではなく、覚悟を決めて最後の一歩を踏み出して、西洋の文明を受け入れてしまえ。そんなことで、日本のアイデンティティーが無くなってしまうようなことはありえない。西洋に伍して、国の独立を守るためには敵を知り、その良さを認めて積極的に受け入れる覚悟をせよ! と、明治初年の日本人に指し示したかったのだろう。




150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)