もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

166冊目 香山リカ「14歳の心理学」(中経の文庫;2006) 評価2

2012年02月29日 03時50分36秒 | 一日一冊読書開始
2月28日(火):

255ページ  所要時間2:15

著者46歳。「思春期の子供を持つ親(特に父娘)を中心に、大人に対して難しい年頃の子たちとの正しい付き合い方を説いた内容」だということに、最後まで読んで一応理解した。読んでいて、硬軟のバランスが悪いのと、話の内容に実感が持てなくて、ちぐはぐな気分に何度もなった。

著者の本は、10冊は読んできたと思う。印象はいつもよく似ていた。「あなたの言いたいこと(御高説)はよくわかった。それでは、それを踏まえてどうすればいいのですか?」と言うと、とたんに抽象的なままで放り出されるか、極端に卑近な、下世話なレベルに落ちるかになるのだ。高度な分析をしているなら、そのレベルに合わせて対処法を説くべきだろう。逆も真なりで、抽象的な対処法か、卑近・下世話な対処法しか思いつかないならば、そのレベルに合わせて、現状分析すべきなのであって、あまり大上段に構えて分析・御高説を垂れるべきではないだろう。

本書で、思春期の「離人症」「解離性障害」などを紹介して、「現実感の喪失」を問題にしているが、著者の本こそがいつも「分析のあとに、同レベルの力強い対処法がない」「まさにリアルさに欠けたバーチャルな実感の無い」著作ばかりなのだ。頭でっかちで理屈は多いが、腕の悪い大工と、無愛想で言葉数は少なくても腕のいい大工のどちらが頼りになるか。きちんと能弁に生徒の悪さを指摘・説明できるが、クラスのいじめを止められない先生と、怒り出すとむちゃくちゃキレまくって(勿論、暴力は絶対ダメ!)、生徒を怯えさせるが、いじめをきっちりと止められる先生とどっちが良いだろうか。という思いをいつも抱かせられるのだ。

それなら、そんな著者の本を読まなければいいじゃないか!、と言うことになるのだろうが。二つの点で、ついつい手が出てしまって読後、不完全燃焼で後悔するのだ。

まず一番に、著者の意見に対して、俺がほとんど納得・賛成できるのだ。言いかえれば、著者の<善良さ>を信頼しているというのが大前提にあるのだ。ただ、著者に辛淑玉(シン・スゴ)さんのような闘う強靭さがあれば、俺は諸手を挙げて支持することができるのだが…、如何せん北海道出身の著者は、高校から東京での下宿を許され、何千万円もかかる私立の医科大学をすべり止め受験できるほどのお金持ちのお嬢様である(本書中の記述)。育ちが良過ぎるのかもしれない。

ただ社会に向けて評論活動という形で発信をするのであれば、もっと下まで降りて来て、所謂大衆レベルでの実践を考えるべきだろう。「離人症」「解離性障害」などと大上段に振りかぶる一方で、尾崎豊やNANA、村上隆氏などのサブ・カルチャーに詳しくなるよりは、もっと給食費や諸費を払えない子ども(母子家庭)の貧困や、釜ケ崎や山谷のホームレス、被差別者の問題などに向き合っていくべきだろう。読者と乖離した高い所から御託宣を述べる<あなた任せの分析屋さん>で終わってもらいたくないのだ。……そろそろ泥酔モードになってきたぞ…やばいなあ…。

第二番目は、今回の所要時間でも明らかなように、著者の本は、はやく読めて楽ができるのだ。理由は、記述内容の易しさと著者の言いたいことがほとんど予測の範囲内なので、どんどんとばして読めるためだ。

※ちなみに前々回の「朝まで生テレビ」で、著者も含めて橋本大阪市長を批判する学者たちが、見事に彼の術中にはまって無力化され言葉を失っていく姿を拝見するのは、なかなかに辛いシーンだった。たとえ若くても海千山千の法律家の橋本大阪市長に空中戦を挑めば、ばしばしとはたき落とされるのは当然でしょうが!。橋本大阪市長相手にサブ・カルチャーなんて太刀打ちできる訳がないでしょう!。「どうしてこの人たちは、正しいことを言ってるのに、こんなにひ弱なんだろう?」、俺はとても悲しかった。
 立教大学なんてお洒落な大学の教授になられて、満足ですか?。肩書よりも、“ほんまもん”の実践家になって下さいよ。そっちの方がずっとずっと偉い人間だと思うのですが…。   *すみません。ほんと酔っ払いの与太話になってしまいました。スルーして下さいませ。

※本書の内容は、特に改めて報告する気にはなれません。特に、現在泥酔中のためなおさら無理です。関心のある方は、どうぞご購入下さいませ。

165冊目 太宰治「斜陽」(角川文庫;1947) 評価5

2012年02月28日 03時21分07秒 | 一日一冊読書開始
2月27日(月):※太宰治1909~1948;38歳没 *桜桃忌6月19日

178ページ  所要時間4:00

ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、

大宰の『人間失格』は、高校か大学の時に読んだ。ひどく面白かった記憶が残っている。しかし、『斜陽』は名前が悪かった。何よりも受験勉強時の知識が悪かった。「敗戦後の没落華族の衰えゆくさまを描いた作品」というのでは、陰気くさい名前と合わせて「読みたい!」という気にはなれない。ずっとそうだった。「必読の書だから読まねばならぬ」とまでは思うのだが、「そんな上流階級が没落していく陰気くさい小説なんか、時間がもったいない!」と思ってしまうのだ。手に取り最初の数ページをパラパラ読んで「なんだ食事の作法かよ、下らない!それがどうした!」と閉じてしまうのを無数に繰り返してきた気がする。結局、読まず仕舞いだった。

今日は、たまたまひどい寝不足と疲労感で「読書を休もうか?」と思ったが、「休むぐらいなら、何でもええわ。なんか薄手のどうでもいい小説はないか?」と見慣れた“本棚の肥やし”たちをぼんやり眺めていて目に留まった。「『斜陽』か…。そう言えば、ドナルド=キーンさんが、何故か<20世紀の日本文学の最高傑作のひとつ>と賞賛してたなあ。じゃまくさそうやなあ。まあ、一日一冊の習慣でちょっとは忍耐力はついてるから、面白なくても一気に読んでしもたらええわな」。何時買ったのかも全く不明の、劣化し切って完全に黄ばんで活字すらかすれて読みづらい文庫本を手に取った。「どうせ繊細で上品ぶった華族の連中が滅びてゆく陰気くさい薄味な作品なんでしょ」と投げやりに読み始めた。  当時、太宰は37歳。

何をしても下品にならない(たとえ女性の立ちションでも!)古き貴族性の良質さ、美しさの最後の体現者たる母親に憧れる一方、復員兵で弱さから麻薬・酒に溺れる放蕩な弟直冶を疎ましく思う姉かず子の目を通して時代が語られる。かず子は、妊娠した子どもの父親が誰かを疑われて婚家を追い出され、母のもとに身を寄せていたが、生まれた赤子は死産であった。父を喪い、敗戦後の混乱した状況のなか、母娘とも自力で生計の道を切り開けず、家財を売り払い逃げるようして東京から伊豆へ引きこもり、身のまわりのものを切り売りしてなんとか生活をつないでいく日々が続く。

読み進めるうちに、予想していたような暗くて薄味な内容ではない。「どう展開していくのかわからないが、濃密な内容と時間が流れる物語だなあ!」と、それまでの思い込みが全くの誤解だったことに気付かされた。登場人物たちの対話・やり取りが生き生きしている。重層的で奥行きが深く、文章がみずみずしく弾んでいる。やがて、お優しいお母さまの結核(テーベ)が判明し、徐々に弱られ始める。


 *「私は、お母さまはいま幸福なのではないかしら、とふと思った。幸福感というものは、悲哀の川のそこに沈んで、幽かに光っている砂金のようなものではなかろうか。悲しみの限りを通り過ぎて、不思議な薄明かりの気持、あれが幸福感というものならば、陛下も、お母さまも、それから私も、たしかに今、幸福なのである。」

かず子は、堕落した弟に悩まされ、衰えていく母にかしずきながら、ローザ=ルクセンブルク(この人、非業の死を遂げたはずなんだけどなあ…)をはじめレニン、カウツキイなどマルキシズムの影響なども受けて「人間は恋と革命のために生まれたのだ。」と思い定めてゆく。

やがて、「日本で最後の貴婦人だった美しいお母様」の死を境に、「戦闘、開始。」 かず子は、夫ではない「こいしい人の子を生み、育てる事が、私の道徳革命の完成」だとして突き進み成就する。その時、弟の直治は新しい時代への疎外感・嫌悪と夫あるジョコンダ婦人のような女性を恋した苦悩を姉に伝える遺書とともに自死を遂げていた。「私生児と、その母。/けれども私たちは、古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです。」という、かず子の決意で物語は終わる。

 *弟直治の遺書より:「人間は、みな、同じものだ。/これは、いったい、思想でしょうか。僕はこの不思議な言葉を発明したひとは、宗教家でも哲学者でも芸術家でもないように思います。民衆の酒場からわいて出た言葉です。蛆がわくように、いつのまにやら、誰が言い出したともなく、もくもく湧いて出て、全世界を覆い、世界を気まずいものにしました。この不思議な言葉は、民主主義とも、またマルキシズムとも、全然無関係のものなのです。それは、かならず、酒場において醜男が美男子に向って投げつけた言葉です。ただのイライラです。嫉妬です。思想でも何でも、ありゃしないんです。/けれども、その酒場のやきもちの怒声が、へんに思想めいた顔つきをして民衆のあいだを練り歩き、民主主義ともマルキシズムとも全然、無関係の言葉のはずなのに、いつのまにやら、その政治思想や経済思想にからみつき、奇妙に下劣なあんばいにしてしまったのです。メフィストだって、こんな無茶な放言を、思想とすりかえるなんて芸当は、さすがに良心に恥じて、躊躇したかもしれません。/人間は、みな、同じものだ。/なんという卑屈な言葉であろう。人をいやしめると同時に、みずからをもいやしめ、何のプライドもなく、あらゆる努力を放棄せしめるような言葉。マルキシズムは、働く者の優位を主張する。同じものだ、などとは言わぬ。民主主義は、個人の尊厳を主張する。同じものだ、などとは言わぬ。ただ、牛太郎だけがそれを言う。「へへ、いくら気取ったって、同じ人間じゃねえか」/なぜ、同じだというのか。優れている、と言えないのか。奴隷根性の復讐。/けれども、この言葉は、実に猥せつで、不気味で、ひとは互いにおびえ、あらゆる思想が姦せられ、努力は嘲笑せられ、美貌はけがされ、光栄は引きずりおろされ、いわゆる「世紀の不安」は、このふしぎな一語はっしていると僕は思っているんです。/イヤな言葉だと思いながら、僕もやはりこの言葉に脅迫せられ、おびえて震えて、何をしようとしてもてれくさく、絶えず不安で、ドキドキして身の置きどころがなく、いっそ酒や麻薬の目まいによって、つかのまの落ちつきを得たくて、そうして、めちゃくちゃになりました。/弱いのでしょう。どこか一つ重大な欠陥のある草なのでしょう。」 :ちょっと長い引用をしてしまったが、これを読むと、大宰にかぶれる人が大勢いる理由の一端が分かるような気がする。

※自己の生き方を求める和子が、男(上原二郎)を種牡馬の如くみなし自立して子どもを生み育てようとする姿に、特に共感はしないが、かず子の思考と行動に魅かれる人たちが大勢いるのは不思議ではないと思った。

※そもそも、この作品のストーリーを紹介することは、あまり意味がないというより逆効果かもしれない、と思う。コンデンスミルクのように濃密にしかも縦横にぐいぐいと展開する文章の力強さの上に乗っかって気持ちよく身を任せて、行方も知らず連れて行ってもらうことに無上の魅力がある。ある意味、もっともらしい結末も余計で、著者による知的懸け言葉や本歌取り、ひと言毎のやり取りの背景にある深さ・面白さ、押し広げられた奥行きと広がりを楽しむのが本道なのかもしれない。つまり、この作品は、太宰治が物語の形をとりながら自らを語り尽くすことが目的の作品だった、と考えて味わうべき作品なのかなと思う。


164冊目 池上彰「知らないと恥をかく世界の大問題」(角川SSC新書;2009年11月)評価4

2012年02月27日 07時29分08秒 | 一日一冊読書開始
2月26日(日):

182ページ  所要時間4:40

体調激悪、怒涛の睡魔。遅々として前に進めず、最後までたどり着ける見通しの立たない苦しい読書だった。

今日、ブックオフで52円で入手。値崩れしない池上さんの本としては、超掘り出し物である。他の池上さんの著作に比べると、やや硬い書き方の印象を受けたが、内容は相変わらず充実していた。

まず、2008年9月のリーマンショックの一年後、オバマ政権1年目(2009年1月~)を意識した時代認識(チェンジ!)で、当時の国内外の重要な問題・課題を解説し、ブッシュ政権を断罪・総括し、小泉・竹中政権を分析・総括する。最後は、2009年9月の「政権交代」への強い期待感で締め括られていた

目次:
第1章 新しい「世界の勢力地図」を占うキーワード:“世界のお金”の重心は西から東へと動いている!/世界の重心が動きはじめた/発展する国かどうかは、書店を見ればわかる/ジャブジャブ状態のお金が再びバブルの芽を生む!?/G7からG20へ―世界の枠組みが変わる/今、世界一番の火薬庫はパキスタン/「宗教」「民族」「資源」が戦争のキーワード/新しい世界の中で、日本の立ち位置は?
第2章 20世紀の覇権国家・アメリカを転落させたもの:アメリカは日本をバカにしていたくせに……/バーナンキは日銀に「ケチャップを買え!」と言った/世界恐慌の引き金を引いたのは……/大きかったサブプライムローン問題の余波/アメリカは一番得意な分野でコケた/世界恐慌を引き起こしたのは“第2のフーバー”?
第3章 アメリカ一極集中の崩壊──次なる覇権国家はどこか?:アメリカをおびやかす国はどこだ?/中東のオイルマネーがアメリカから回帰/資源高が大国ロシアを復活させた/世界工場から世界の市場へと変貌する中国/ITを成長戦略にするインド/フランス・サルコジ大統領の野望「地中海連合」
第4章 待ったなし! 世界全体が抱える問題点:資源が投機の対象にされてしまった/食べるか、燃やすか、それが問題だ/二酸化炭素(CO2)がカネになる/基軸通貨「米ドル」にとって代わるのは「SDR」?/新型インフルエンザで経済がマヒ?
第5章 新たな火種、世界各地の小競り合い~国や地域間の衝突~:なぜテロが起こるのか?/ユダヤ人とアラブ人の陣取り合戦/新疆ウイグル自治区で何が起こっている?/イランはなぜ核を開発したいのか/「北朝鮮」と距離を置く韓国/アフリカの資源をめぐって日中がにらみ合い/ダイヤモンド産出国の南アフリカ共和国は輝けるか?/ロシアと東ヨーロッパ諸国の冷めた関係/中南アメリカに広がる反米ネットワーク
第6章 政権交代で解決できるか?──日本の抱える問題点:私たちは年金をもらえるのか?/介護の現場が危機/日本人の「学力低下」をどうする?/郵政民営化は失敗だったのか?/地方分権のすすめ/バラマキというけれど食料自給率はアップ/これでいいの?日本の納税システム
第7章 世界の中の新しい風を読~?私たちがなすべきこと:アメリカ・ブッシュ政権が残したもの/小泉・竹中改革が残したもの/政権交代で何が変わる?/私たちのこれからなすべきことは何か?

「民主主義国家における政権交代とは、「無血革命」です。戦場で銃弾が飛び交うのではなく、人々が投票することで、権力が移動するのです。「革命」は、それまでの政権によって利益を受けていた集団が利権を失い、政権から見放されていた人々が利益を受けるようになること。民主党政権になって、鉄とコンクリートの公共事業に投じられていた税金は、子育てや授業料の負担軽減に投入されることになりました。/選挙とは、「私たちの税金の使い道を決める人」を選ぶ過程でもあります。私たちの税金の使い道が、大きく変わりつつあるのです。」池上さんも、当時は、民主党政権に大きな期待を抱いていたのだ。

※確かに、政権交代で鳩山政権が成立した時、清新な印象を受けたよなあ。国会での鳩山総理の施政方針演説を聞いた時、俺は、「新しい発想の友愛の政治が始まるんだ!」と素直に感動して、新聞でその施政方針演説の切り抜きをしたことを思い出した。

163冊目 ヘミングウェイ「誰がために鐘は鳴る(上) 大久保康雄 訳(1973)」(新潮文庫;1940) 評価4

2012年02月26日 06時46分39秒 | 一日一冊読書開始
2月25日(土):

413ページ  所要時間5:45

著者41歳。ヘミングウェイ(1899~1961;61歳没)は1954年にノーベル文学書受賞。

いつ買ったのか、記憶の無い劣化して黄ばんでしまった本棚の肥やしだった。先日NHKBSで映画を録画(観ていない)したのを微かなきっかけに手に取った。読むのを完全に諦めていた本である。とりあえず、1ページ30秒で読んでみて、2時間で半分まで耐えた。残り半分でペースが崩れ、睡魔に襲われ、筋が解らなくなりかけたりして少し苦しかった。とりあえず、上巻は目を通せたが、いま一つ物語りの世界に入り込めず、下巻をいつ読めるか、自信がない

舞台は、第二次世界大戦の前哨戦とも言うべき<スペイン内戦(1936年7月~39年3月)>。フランコ将軍のファシズム陣営に対する共和国軍(人民戦線政府軍)側の闘いを描く。義勇軍として参加したアメリカ人(モンタナ州の大学のスペイン語講師)ロバート・ジョーダンは、参謀本部ゴルツ将軍から、ダイナマイトでの鉄橋爆破の密命を受けて、共和国支持派ゲリラたちと合流、字も読めない、一癖も二癖もある農民・庶民ゲリラが一人ずつ丁寧に描き分けられ、一筋縄ではいかない作戦遂行への道のりが進行していく。ロバート(ロベルト)は両親をファシストに殺され、自らも凌辱され傷つき、ゲリラ隊のリーダー・パブロ(海千山千)の妻ピラール(肝っ玉母さん)に保護されていた美しいマリア(短髪坊主頭)と出会い、すぐに恋に落ちる。一方で、ゲリラの人々にとって人を殺すということが、どれほど重い心の枷となるか(特にアンセルモ老人)、それでも闘うことの意味と無意味に揺れる対立が描かれる。

上巻は約400ページもあるが、俺の読み違いでなければ、ロバートが来てから数日、長くても1週間ほどしか経っていない。従って、マリアとの恋は、まさに急転直下であった。場所も、ゲリラの親方パウロの洞窟のアジトとその周辺の爆破予定の鉄橋や、製材所や歩哨詰所、つんぼおやじ(*)の家などごく狭い範囲での出来事に終始し、時間的に、空間的に離れた世界は、登場人物の思い出話や記憶の中でしか出てこないし、大きな戦闘シーンなど皆無である。「別に関係ないことやけど、この作品って、舞台化しやすいやろなあ。映画化しても予算は少なくて済むやろなあ」と余計なことを考えてしまった。
(*)翻訳が39年前で仕方がないのだが、つんぼおやじ、唖(おし)、めくら、きちがい、ジプシー、くろんぼ、など今の感覚で聞くとどぎつい差別用語で、正直“心に痛み”を覚える響きの言葉が、バンバン出て来て強い戸惑いを覚えた。

スペイン内戦は、結局、フランコ将軍のファシズム陣営が勝利するのが歴史的事実なので、「人民戦線派ゲリラの闘いも、アメリカ青年ロバートと不幸なスペイン美女マリアの愛のゆくえも厳しい破滅に向けて苛酷の度を強めていくんだろうな」という想像はつくのだが、これまた429ページもある<下巻>を読むのは、相当の覚悟が必要で、読めるかどうか自信はない、のである。

第一次世界大戦後、ドイツに過酷過ぎる処罰を与えたのが、第二次世界大戦の原因なのは周知の事実であるが、1929年世界恐慌で世界の協調体制があまりにももろく崩れ去ったのには、近代国家のビジョンへの確固とした哲学をしっかりと考えていく必要を痛感する。

◎それにしても、人民戦線側による、フランコ派に対する公開の集団リンチ、死に至る処刑のシーンの紹介には大きなショックを受けた。これまで持っていた「人民戦線は良い者」という先入観が崩れた結局、現場レベルで、戦争に正義や・大義もくそもないのだ。あるのは残忍な憎悪と殺人である

◎登場人物:
ロバート(ロベルト)・ジョーダン:アメリカ・モンタナ州のスペイン語講師。義勇軍に参加。共和国軍参謀本部から鉄橋爆破の指令を受けて赴任。
アンセルモ:ロバートにとっては一番信頼できる仲間。妻子の無い孤独な老人。過去の戦闘での殺人に深く心を傷つけている。
パブロ:ゲリラの親方。残忍で海千山千の悪党。今回の作戦には非協力的。
ピラール:パブロの妻(再婚)。強力な共和派。今は弱気なパブロよりもゲリラたちへの影響力大。
フィニート:思い出の中の人物。ピラールの最初の夫。貧しい出自と貧弱な体躯で、闘牛士となり、牛の反撃による傷がもとで死去。
マリア:両親をフランコ派に殺され、共和派に保護を受けている。ロベルトと出会い急速に恋に落ちる。
ラファエル:攻撃的で過激なジプシー
フェルナンド:インディアン?
アグスティン:黒人?。
etc.

※体力の限界です。   もう寝ます。

162冊目 水木しげる「水木しげるのラバウル戦記」(ちくま文庫;1994) 評価4

2012年02月25日 07時17分03秒 | 一日一冊読書開始
2月24日(金):

235ページ  所要時間4:40

本書は、2007年にNHKのSPドラマ「鬼太郎が見た玉砕 〜水木しげるの戦争〜」を観た翌日にアマゾンで新本(1000円)の注文を出して購入したものだ。本棚に眠っていたが、昨日の読書の余韻でその気になって読むことにした。

著者72歳。漫画家水木しげるには、アジア・太平洋戦争の最果ての激戦地ラバウルで部隊の全滅・敗走、重篤なマラリア感染、左腕の喪失を経ながら、生きて現地で終戦を迎え、奇跡的に日本に生還を果たした<歴史の生き証人>としての顔がある。その生き証人が、漫画家という強い表現力・発信力を持っているというのは、偶然にしてもあまりに希有のことである。特に本書は、戦後の早い時期に、発表するあてもなく描いた『ラバウル戦記』を使用して、絵日記風の『戦記』となっている

鳥取連隊に応召して、半年後に「「南方がいいか北方がいいか」といわれて、「南方です」といって、南方ゆきと相成った」のが、昭和18(1943)年11月頃(著者21歳)。一室を三室にして三段になった家畜輸送の仕掛けの輸送船に積み込まれ、南方のパラオへ。そこから、日露戦争の「敵艦見ユ!」で名をはせた老朽艦「信濃丸」に乗って、パプアニューギニアのニューブリテン島ラバウルに到達した。これは、前後の輸送船が皆撃沈されていたので、奇跡的到達であると同時に、著者はラバウル最期の補給兵となったということである。

ここから、戦局の急速な悪化、ポツダム宣言受諾、捕虜収容所生活を含めて、日本への生還まで<約2年間の最果ての南方最前線での、最悪の非人間的軍隊生活>が挿絵とともに坦々と、時に激しく語られるのである。

最期の補給兵となった水木さんたちは、後に来る兵が全くいないので、いつまでたっても軍隊の最底辺身分<初年兵の二等兵>から脱け出せず、<古参兵殿>たちに奴隷の如く扱われ、激しいビンタの暴力を受ける日々を最期まで送り続けることになる。

暴力以外にも、食糧不足による空腹・飢餓、仲間たちの理不尽で・不条理な大量死を日々当り前のように目にしながら自らの死も身近に生きる。彼が、命を保ったのは、まったく神様の気まぐれによるたまたまの偶然の積み重ねに過ぎない。水木さんと二人乗りの川船に乗ったもう一人が、一瞬でワニの餌食になり、二十日後に下半身だけが発見されるたぐいの話も特別ではない。

そんな中で、文字通り“土の人”たる土人の人々と意気投合してしまう感性を発揮して、土人たちと交流を通して人間性を維持・回復する水木さんの姿は、やはり人間存在に関わる大切な何かの真理を表している。反面、水木さんは「アラブ人とはどうもうまくゆかない」と頭をひねるが、イスラムは<文明そのもの>だということに気がつけば、<文明を否定する>水木さんと合わないのは理の当然だろう。

※まだ何か、書き残すべきかもしれないが、疲労が重なってきた。初期の風邪の症状か?目の焦点が合わない。  もう寝ます。



161冊目 水木しげる「トペトロとの50年―ラバウル従軍後記」(中公文庫;1995) 評価3

2012年02月24日 06時01分23秒 | 一日一冊読書開始
2月23日(木):

197ページ  所要時間2:45  

著者73歳(1922年生まれ)。朴訥な文章だが、「小説より奇なり」の内容、多くのイラスト、スケッチ画、写真により十分に心を掘り起こす喚起力がある。水木さん(本名 武良 茂)の人生は、単に運・不運では片付けられない、水木さん自身の資質・感性によって大きく押し拡げられ、ありえないスケールの大きさを自然な必然にしてしまっている。鬼太郎をはじめとする漫画家としての成功も、そのスケールの大きさの一部として収まってしまう感じだ。

左腕を失った傷病兵として、パプアニューギニアのニューブリテン島ラバウルで、終戦を迎えた水木さんは、当時現地人(トライ族)の家に入りびたり、日本帰還よりも現地で結婚・永住を真剣に思い悩むまでになっていた。説得されて帰国した後は、一昨年(2010)のNHK「ゲゲゲの女房」でも話題になった極貧生活から一躍有名漫画家としての成功を遂げる。

本書の記述の中心は、その成功を遂げた頃から始まる。1971年、水木さんは、昔自分を救ってくれた土人たち(*)に会うために26年ぶりにラバウルへ行く。そして、少年から成人し部族の指導者になっていたトペトロをはじめとするトライ族の人々と懐かしい再会をする。
(*)「私の家では、“土人”という言葉は尊敬の意味で、“土の人”というのは私は昔からあこがれだったのだ。」

しかし、現地での生活は、乾季にはトタン屋根の雨水をドラム缶に溜めた水を使用し、朝のコーヒーがドロドロしている。よく見ると巨大なボーフラが沈澱している。トペトロは、「煮てあるから無害だ」と言う。また、茶碗一杯の水で口をすすぎ、口から手に出し、顔と手を同時に洗う。「便所らしきものはあるにはあるが、略、私にはとても使用に耐え得るものではない」と言う。普通の日本人なら、震えあがって逃げ帰るはずだが、水木さんは「汚い限りだが、私は、略、わりと平気だった」と言い、ボーフラコーヒーも毎日飲んだのである。この部分が、常人と水木さんのスケールの分岐点なのだろう。

やがて重篤で楽しい<南方病>に罹った水木さんは、彼らの奇妙な踊りと音楽のとりことなる。“ドクドク”という踊りに感動して、彼らの“カミサマ”を日本に持って帰ると言い張ってトペトロや長老たちを困らせる。繰り返しラバウルを訪ねるうちに、現地名「パウロ」と呼ばれ、トペトロに永住のための家まで作ってもらうまでに交流を深めていく。

中には、日本の昔の歌をほとんど知っていて2時間半歌いまくるオッサンが紹介されて、戦時中の日本語教育の影響をかいま見たり、「『鬼太郎』たちは実はいわば、トペトロたちなのだ(あまり大きな声では言えないが)。どこかなんとなく“違った”人々。しかも温かい。鬼太郎を守る側の一団のお化けたちはトライ族の方々に近いのだ」と本音が語られたりする。

再会後20年以上の交流が重ねられるが、意外にも水木さんよりもずっと若いトペトロが突然死ぬ(1991?)、駆けつけた水木さんに、息子が2年後の葬式を約し、参列を願う。2年後、二人の娘をともない参列に向かうが、葬式挙行の気配はない。彼らは貧しかったのだ。思わぬことから、水木さんが一肌脱いでトペトロの喪主となり、現地でももはや最期かもしれない「古式に則った盛大な葬式」を執り行う。

「下の娘はなぜかトチルが好きだった。トチルはあまり歌もまじめにやっていなかった。何となく生きてるような人間だった。それが前から私の気に入っていた。/もともと人間は虫や木と同じように生き、黙って素直に死ねばいいのかもしれない。」「人間が動物や虫や木や石よりもエライと考えるようになってから人類はおかしくなったのではないか。」と、水木さんは“文明嫌い”を表明する。

それから約一年後(1994年)、ラバウルの火山が大爆発した。そして、ラバウルもトライ族(トペトロたちの種族)も熱い灰のため、カイメツした。

※水木さんの人生のスケールの大きさを感じさせてくれる本だった。   もう寝ます。

160冊目 立松和平「ぼくの仏教入門」(ネスコ 文芸春秋;1999) 評価3

2012年02月23日 06時24分58秒 | 一日一冊読書開始
2月22日(水):

252ページ  所要時間4:10

著者51歳。TV報道のリポーターとして、素朴な気の置けない人柄に親しみを覚えていたが、昔「遠雷」という映画を観た以外、著者の作品に接するのは初めてである。典型的、団塊の世代の羨ましい自由な生き方の実践者と感じていた。一昨年(2010)の62歳という早過ぎる死には驚かされた。NHKで「道元」を訪ねる旅をしたり、「永平寺」の100歳を超える長老を取材したりしていたので仏教に強い関心を持っているのは知っていたが、実際に読んでみて、ここまで深くのめり込んでいるとは思わなかった。

この本は、随分前にブックオフで900円で買った(当時は余程欲しかったのだろう)のに、読みそびれていたものである。昨年9月から始めた「一日一冊」読書では、結局「速読」能力はほとんど伸びなかったが、本棚の肥やしになっている退屈な本でも長時間読み続ける「耐久力」が少しだけ身に付いたような気がする。

本書は、仏教の教えに深く傾倒する著者が、自らの人生や、地球及び日本の環境問題(エコロジー)に対して、仏教的見地を重ね合わせてさまざまに論じる随想集の形態をとっている。「一切衆生悉有仏性」「草木国土悉皆成仏」を説き、世界でも稀にみる恵まれた日本の自然環境そのものをブッダと捉え、環境問題に強い関心と警鐘を鳴らす。エコロジーや生態系破壊に対する論調には、仏教縁起原理主義を感じていささか辟易する感はある。特に、豊かな国土を支えるのが、豊かな水と、わずか5cmの薄い表土であることを大変強調していたのは印象的だった。著者が、わずか5cmの薄い、簡単に破壊されてしまう表土を守ることに強い危機意識を持っていたことを知るにつけ、今回の福島原発事故による土壌汚染に対して、「表土を削り取る放射能対策」を、著者がもし存命していて耳にしたら、どんなに絶望し、憤ったかを思ってしまった

著者の仏教への関心は、日蓮宗や禅宗への偏りが多少強いようだが、特に拘りもなく、体系的なものではない。強いて言えば、岩波文庫の中村元先生の『ブッダのことば―スッタニパータ』、『ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経(大般涅槃経)』の二著を独力で深く読み込んで、自らの人生経験と重ね合わせて練り上げた独自の仏教観と言えるだろう

昔と違って、今の俺はこんな風な「現代社会と直接に切り結ばない内面的な宗教的随想」に対する評価能力が、衰えているのを思い知らされた。読めない訳ではないのだが、この文章の意義がほとんど感じられない。単なる主観的思い込みの羅列に見えて、価値が解らない。もっと直接的に言えば「何の意味もない文章」に思えてしまうのだ。それは、文学の否定かもしれないのだが…。随分昔には、どうしても欲しかった本だったはずなのに、今回の評価ではちょっと戸惑ってしまった。


159冊目 小出裕章「小出裕章が答える原発と放射能」(河出書房新社;2011年9月) 評価5

2012年02月22日 06時03分25秒 | 一日一冊読書開始
2月21日(火):

155ページ  所要時間3:30

著者62歳、京都大学原子炉実験所助教、反骨の学者。著者の本は、9月16日の「原発はいらない」(幻冬舎;2011)評価5 以来、2冊目。

そろそろ財界、政界、官界、学界、マスコミによる<ゾンビ原発再稼働への動き>が頭をもたげてきているのを肌に感じながら、「どんなに反対しても、なし崩しに再稼働されて、押し切られてしまうのかな…」と漠然と思っていたが、この本を読み進むうちに居ても立っても居られない気分になった。原発をめぐる諸勢力の不透明さは、日本最大の<闇社会(シンジケート)>ではないか!。その前では、暴力団も半グレ・闇金すらも可愛らしいものだ。

この本の発行は、昨年の九月であり、「この手の本は賞味期限が短いから、半年前の内容ではちょっと古いかな?」と思いながら、読みだしたのだが、予想に反して、まったく古くなっていない!。それどころか、今!、まさに今!、原発再稼働への動きが蠢動し始めた今こそ、この問題を考えるために必要な基礎知識、識見を与えてくれる内容になっている。この本を読んでいて「原発の再稼働を絶対に許してはいけない!!」という抑えられないマグマのような思いが起ってくるのを感じた。

この本の内容は、余程の例外を除いてマスコミでは流されない、知らされない内容である。世が世なら間違いなく<発禁本>であろう。それほど、今の日本社会のタブーに触れている。同時に、それは原子力発電の問題を考える上で、ぜったいに外せないが、洒落にならない<基本中の基本>の知識・情報・識見である。福島原発の事故と国の対策などについて、まったく手加減なしの科学的論評が展開されており、読んでいて「それじゃあ、(被災者や国は)どうしたらいいの…?」と途方に暮れてしまう内容であり、著者自身が「(被災者のことを思うと)どうしたらいいのかわからない」と途方に暮れているのだ。著者は、極めて良心的な良識の学者である。

ページ数も少なく、素朴で率直な質問に対する<64のQ&A>の単純な形式で記された本であるが、原子力の専門家として40年間、その原子力に抵抗してきた著者の学識と信念がほとばしるような説得力をもって、読者に迫ってくる力のある内容の本である。原子力政策を考える人間は、肯定するにしても、否定するにしても、最低限この本に収められた64のQ&Aを自らのものとして踏み越えていくべきである。そのような試金石としての価値があると考える。  あれれ、今日は酔いの回りが早いぞ……。

あとがき「「核」を求める国家、利益を求める電力会社と巨大原子力産業、その周辺に群がる土建業など無数の企業、名誉と地位・研究費を求める学者、戦争中からそうであったように国と企業に縛られたマスコミ、さらにはエネルギーを膨大に使う社会にあこがれた国民が一体となって原子力を進めてきた。/しかし、巨大な危険を内包する原子力発電所は都会に建てることはできずに過疎地に押し付けられた。その過疎地の人々も、大半はカネに縛られて原子力を受け入れさせられた。ごく少数の人々が原子力に抵抗を続けたし、私もその一人として四〇年間、原子力に抵抗してきた。/二五年前に旧ソ連チェルノブイリ原子力発電所で事故が起きたとき、住民は「被曝による健康の被害」か「避難による生活の崩壊」かの選択を迫られた。私にとっては、どちらの選択をしていいのかわからない苦しい選択であった。自らが迷う選択を迫られないためには、原子力を廃絶する以外ないと、私は決意を新たにしたが、残念ながら原子力を止めることができないまま福島第一原子力発電所の事故は起きた。/略。被曝に安全量はないし、特に子どもは被曝に敏感である。多くの人々が、どうしていいかわからない選択を前に苦しんでいる。正直言って、私自身もどうしていいかわからない。でも、原子力の場にいる人間として、私が知り得た知識を伝えることは私の責任であろう。/略。困難な選択を目の前に苦しんでいる人々に本書が少しでも役に立つのであれば、ありがたく思う。」

※64のQ&Aは、どれも切実な内容であり、軽重はつけ難い。少しでも紹介したいと思うが、体力が尽きてきました。また、機会があれば、紹介したいと思います。


158冊目 城山三郎「官僚たちの夏」(新潮文庫;1975) 評価5

2012年02月21日 07時15分28秒 | 一日一冊読書開始
2月20日(月):

352ページ  所要時間5:40

著者48歳。休みを入れずに、5:40で一気に読み切れた。やはり、面白かったのだろう。

舞台は1960年代(1955年~沖縄返還交渉まで)の日本。ハジけるような勢いで日本の経済が伸びている時代の通産省のキャリア(特権官僚組)の意気込みや活動を描いた内容。

元々の出会いは、2年半前の2009年夏、TBSでドラマ化された時、「三丁目の夕日」的なノスタルジーも含めて、「なんだこれ、面白いじゃんか!」とはまって、録画を何度も繰り返して観たのが始まりである。当時、古本じゃなくて定価の新本を買って手元に置いていたのだ。ただ、「内容は、もうテレビで観てしもたからなあ…」と読まずにいたのだが、なぜか急に「読んでみよう!」という気分になって読んだのだ。

結論から言うと、要所を合わせた以外は、原作とTVドラマは別物であるということ。「ドラマが、あんなに良い出来だったのは、しっかりした原作があったからだ!」ということを確認できた。ただ、ドラマでは、原作のわずか数行のエピソードを、想像で大きく膨らまし、中には原作に存在しない内容も、時代を検証し、原作の味わいを傷つけない形で盛り込まれていた。当然あったであろうドラスチックな外国資本との衝突、民間企業への行政指導と対立・衝突などが大きくエピソード化されていた。(ex.繊維業界との衝突、曙自動車による国産自動車開発、IBMとの特許交渉、公害問題etc.)

1960年代を中心とする高度経済成長期は、日本経済を導く通商産業省にとって<伝説の時代>である。キャリア通産官僚たちが、数々の小さき神々として、さまざまな伝説を生みだしている時代なのだ。自分たちの活動が、即<天下国家>の盛衰に結びついているという自負と気概を持てた幸せな時代。当時、「子供は誰でも自分の力で大きくなった、と思い勝ちだし、親は子供の成長自体が一番立派な勲章なのである。」(神埼倫一の解説)、いわば、「鼓腹撃壌」の世で、通産官僚が日本経済の親としての責任感・自負を持てた幸せな時代だったのだ。

通産省内の産業派・民族派の中心で主人公の風越 信吾 【佐橋滋】の人物像は、世の常識を豪快に外れ過ぎていて、自分の上司・同僚としては絶対勘弁してほしいが、傍から見る分にはこんなに痛快で面白い存在はない。彼を支える鮎川 【川原英之】、庭野 【三宅幸夫】の一途な仕事ぶりの魅力。一方で、通商派・国際派の官僚たちとの確執。風越の同期ライバル玉木 【今井善衛】、カミソリ惑星牧 順三 【両角良彦】、風越に左遷されて復活した片山 泰介 【山下英明】たち。そして、大物政治家池内 信人 【池田勇人】、須藤 恵作 【佐藤栄作】らの存在感。それに物怖じしないで直言を繰り返す風越の言動が、物議を醸す。熱気ある内容に満足である。

この作品が、出版された1975年は、モデルとなった人々のほとんどが存命である。よくぞ、公刊されたものだと、驚きを禁じ得ない。なにか、まとまらないけれど、もう寝ます。また、書ければ、もう少し文章を整えさせてもらいます。お休みなさい。


「庭野は茫然とした。信頼していた池内総理に裏切られた気がした。だが、池内をうらむより、希望をつないだ自分のあまさにしたうちしたい気分であった。/庭野の陳情に対し、池内はたしかに「わかった」といってくれた。少ししわがれたその声は、はっきり庭野の耳に残っている。池内をときに父のように感じたりする庭野は、その「わかった」に一安心する気持ちになったのだが、池内もまた他の政治家と異ならなかった。どの大臣にも共通する口ぐせが、「よし、わかった」である。「わかった」といってみるのは、いかにも大臣らしいし、そして大物らしくていい。一見、肯定的な返事である。<了解>という意味にとれば、その実行を約束してくれることになる。事実、実現に努力してくれる「わかった」もある。だが、同じ「わかった」でも、<趣旨はわかった>とか、<気持はわかった>というニュアンスのことも多い。この場合は、もっともな話だと、ききおく程度で、実行に結びつかない。さらに、せっかくの官僚たちの提案や進言を真向から否定したのでは、角が立つので、その点、反対なのだが、「わかった」といって、きき流して置く。/その意味で、「わかった」とは、いちばん油断のならない返事であった。」



157冊目 大塚公子「死刑執行人の苦悩」(角川文庫;1988) 評価4

2012年02月20日 07時04分58秒 | 一日一冊読書開始
2月19日(日):

221ページ  所要時間5:00

著者46歳。加賀乙彦「死刑囚の記録」の分析精度の高さには遠く及ばない。「死刑制度は悪いもの」という著者の主観的思い(著作の動機)が前提に出過ぎて、死刑囚への同情・配慮、時には更生した死刑囚の人格の賞賛までがなされている。反面、犯罪の悪質さ、被害者の無念・遺族感情、社会不安を引き起こした重大責任等への言及・配慮が省略されがちなため、読んでいて、アンバランスな印象を強く受けた。第九章で「死刑確定囚からの手紙」をそのまま掲載したのも戸惑いを覚えた。死刑囚は極限のストレスの中で多くが異常な被害妄想感情に取りつかれ精神のバランスを崩していることが多い。その手紙を、何かの証拠のように掲載してしまうのは軽率の誹りを受けるだろう。読みながら、どうしても居心地の悪い思いが拭えなかった。

死刑囚が立派に更生しているから死刑は駄目なのではなく、死刑という刑罰が、単に死を与える以上に残虐な刑になっている実態を分析し切れてないので、紋切り型で同じことを繰り返してるようにしか響かない。結局、死刑制度がなぜよくないのかが判らず、「死刑に賛成」する多数派世論との水掛け論にしかならない。

しかし、死刑執行の様子を人間模様も含めて詳しく再現・解説してみせるなど、「死刑制度に反対」する著者の熱意は、確実に伝わってきた。刑務官から拘置所長まで、直接自らの手を汚して死刑を執行する現場の人々が、「国家による殺人」の実行者として深刻に傷つき疲弊し切っており、心の傷が一生癒えずにトラウマ化している人々がたくさん存在する事実と、<刑務官に対する「殺人者」という偏見・差別>がその家族・子どもたちにまで及んでいる看過できない事実を発掘したのは著者の功績である。「死刑制度」は、<国家による殺人>であると同時に<国家による殺人の強制>であり、それは刑務官という権力の最末端の人々の基本的人権を侵害する制度になっているのだ。

俺自身、光市母子暴行致死事件で心情的に死刑判決を支持した人間であり、死刑制度の廃止について、今のところどちらとも決め切れないが、著者の「国民も存続を認めているというけれど、それは死刑が秘密裡に行われているからではないのか。密行主義をやめて、いっさいを公開して死刑を行ったら、世論調査の数字も大きく変わってくると思う。/死刑囚の、確定後から執行までの人間としての姿をありのままに国民に知らしめたら、それでも死刑にしろという人はあまりいないのではないだろうか。/死刑の執行を直接行なう刑務官も、もっと堂々と、死刑はいやだ、と言えるような自由が与えられたらどうなのだろう。」という提言は大変有効なのではないだろうか。

裁判員制度に一般国民が「死刑判決」に関与する以上、「死刑制度」について国民に周知徹底を図ることは喫緊の課題だろう。まさか、「死刑制度の<残虐性>」を全く知らない人間が、軽い乗りで「これだったら、死刑が相場だよね!」なんて光景は、いくらなんでも洒落では済まされないのだから。同時に、何故世界が「死刑廃止」にどんどん進んでいるのかも、皆が理解しておくべきだろう。

この本は、著者の論じ方にかなり問題があるので、それが気になる人は腹を立てて低評価になるかもしれないが、包括的な意義を考えれば、それなりの高い評価を受けるべきだと思う。あと、刑務官という職業への偏見が広がらないような政策的配慮は重要だと思った。

■目次
まえがき
第一章 死刑執行に立ち会うのは誰か 廃止は時間の問題/黒子・刑務官/地球より重いちいさな包み/即日言い渡し/数秒で外される踏み板/泥酔する刑務官/一度に二十三人の執行命令書にサインした大臣
第二章 東京拘置所ゼロ番区
 希望に燃えて刑務官に/通称ゼロ番区の一日/二十一歳の死刑囚/「おれ、死刑になっちゃったよ」/
第三章 陸奥の刑場
 眼下に広がる美観/死出の鉄路の旅/死刑囚の集結地/囚人への情/処刑の日の重苦しい空気/拒否出来ない執行命令/他に仕事のあてがあれば……/天井から垂れ下がるロープ/悟りを教えてくれた死刑囚/立ち会いはごめんだ/回復不能な精神の疲労/満杯の死刑囚房/愛妻には決して話せない/第一子誕生までの不安な日々/、「悔しい」のひと言/墓場まで沈黙
第四章 力づくの処刑
 重病者との会見/「死にたくない!」の叫び声/孤独をなぐさめる小鳥/規則が生んだ悲劇/悔いの残る“人生の選択”/十日に一人が執行された頃/最後の抵抗/妻も初めて聞いた“告白”/
第五章 死刑囚とのきずな “看守”は権力の最下位/執行官が負う深傷/執行を促した死刑囚/なげやりな日々/なつかしい訛り/“G”の生い立ち/何度もふり返って刑場へ
第六章 法の無情
 等しい命の重さ/話すことも供養/善人に立ち直った頃に執行/思いがけない証言/締め技でとどめ/せめて安心立命の境地で/「どうせ死ぬんだ」/わがままを詫びての旅立ち/完全遮断の内と外/死を待つ者への思いやり/外に漏らせば厳重注意/楽しみは訪問者/胸にすがりつき号泣/夢に見た母親/家族も憎悪される社会/母との別れ
第七章 言い渡しをする立場
 傲慢な法律/眠れぬ夜はいまも/その瞬間、堅く目を閉ざして/恥ずかしい制度/処刑された男が肩をたたいた/三島由紀夫の訪問/法務大臣もいやがる署名/死刑は誰もがたまりません
第八章 執行人家族の涙
 少女時代からの夢/父からのプレゼント/初めてのずる休み/泥まみれのプレゼント/誰にも命令されない人生/ずっしりと重いみやげ/大量の死刑確定者
第九章 連載は終わったものの
 一通のパンフレット/死刑確定囚の感想
あとがき

156冊目 阿部 彩「子どもの貧困」(岩波新書;2008) 評価5

2012年02月19日 08時21分07秒 | 一日一冊読書開始
2月18日(土):

266ページ  所要時間6:05

体当たりの現場取材ではなく、データ渉猟とアンケート分析、OECD先進国研究などの分析を通して、「子どもの貧困」の存在そのものをあぶり出し、問題の深刻さを繰り返し指摘し、解決への方策を具体的に提案した内容。正直言って、データ分析中心の本は読み難くて苦手だし、「(欧米の)○○では~である」という“出羽守”も嫌いである。読み通すのに随分時間が掛ったし、すべてを理解できたとは言い難い。

しかし、新鮮な視点の変更という“学び”を与えてくれたことは確かであり、付いて行ききれない主張もあるが、「難しいかもしれないけど、この人の言うことが実現するような日本であって欲しいなあ」という気持ちになった。評価4ではなくて、評価5にしたのは俺自身の著者への支持の表明でもある。

著者は、日本の貧困問題の幅広さ・奥深さを承知したうえで、敢えて「子どもの貧困」問題に特化して分析を試みている。まず、誰もが薄々気づいている家庭の経済格差が、その後の子どもの人生に大きな影響を及ぼすことをデータとして確認する。

特に、日本では欧米と異なり<母子世帯>における生活の窮乏と子どもの貧困状況が危機的であることに激しく警鐘を鳴らす。俺自身「母子家庭は大変だろうなあ…」と漠然と思っていたが、統計から読みとれるのは、20年前よりも今の方が状況は悪化していて想像を絶するほど厳しいものだった。偏見ではなく女性研究者による細やかな分析で、母子家庭の母親たちが、疲弊しきっている現状が浮き彫りにされている。子どもたちが、無事である訳がない。この大切な時期に人間性の涵養・学習への意欲が伸びる訳がないのだ!

日本の政府には、“少子化問題”への意識はあるが、“子どもの貧困”問題という意識は存在しなかった。“子どもの貧困”問題の解決には、小手先の取り組みでは駄目で、<この国のかたち>を変える覚悟が必要だが、もしそれを実現できれば“少子化問題”なども包括的に解決できる。

著者は、非常に良いモデルとして、イギリスのCPAG(チャイルド・ポバティ・アクション・グループ)による「子どもの貧困ゼロ社会への10のステップ」を基に、「11のステップ」政策を提言する。(*この政策は、部分的に、ウソつきマニフェストの民主党に“子ども手当”という形で流用されている?)

俺は、大阪維新の会のセンセーショナリズムよりも、この著者のような地道に日本社会の問題点を十分な時間を掛けて分析し、問題解決のための処方箋を考えている人たちの意見が、きちんとすくい取られる“日本”であって欲しい

著者も、<逆進性の強い消費税増税>に反対ないしは十二分な配慮を求めている(231ページ)。どうして、民主党は、ウソつきになってしまったのだろう…。実は、俺も先の総選挙では、民主党のマニフェストを熱狂的に信じて、地元の民主党の候補に一票を入れたんだぞ!。自民党は嫌いだし(実は、谷垣総裁は好きです)、好きな社民党は、なにせ無力だし、どうしてくれるんだ!。

だからと言って、大阪維新の会の薄っぺらなポピュリズムに乗るほどにはバカになりきれないので…。大好きだった辻本清美は、国土交通副大臣で権力の味を覚えたのか、社民党を裏切っちゃうし…、もうなんなんだ!。

新党日本の田中康夫さんは選挙区が違うし、俺は、酔っ払って呂律が回らなくなってくるし…、「責任者出てこい!」「そんなんゆうて、出てきはったらどないすんのんや!この泥亀!」「母ちゃん、ごめん!」って、天国の人生幸朗師匠にでも一票入れるしかないなあ…、と思う今日この頃でございまする。すんまへん、泥酔してます。もう寝ます。明日、目ー覚めたら。また、慌てるんやろなあ…。いつものことです。寝る前に自分が書いた内容の記憶がほとんど無いので、いつも目覚めてから「俺、何考えてたんやろ、公共のブログに困難書いて!ほんま、アホちゃうか…」と頭抱え込んでるんです。すんまへん。おゆるしえってくなんせ。m(_ _)m。

※最近、いろんな本を読んできて、だんだん気が付き始めたのだが「日本は政治家は駄目だが、官僚がしっかりしてるからなんとかなっている」というのは都市伝説のたぐいであって、「日本の官僚は、意外と頭が悪いのではないか。多少は私腹を肥やすのは良しとして?、あまりにも視野が狭く、柔軟で果断な発想力が無さ過ぎるのではないか。責任を組織の硬直性に求めてはいけない。それを含めても、官僚の出す・出してきた答えがお粗末すぎる。あまり口にすべき言葉ではないが<本当の愛国心>を彼らに全く感じられないのだ。」俺には、官僚の言いなりになってマニフェストを完全に放棄して逆進性の高い、弱者に厳しい消費税導入に政治生命を懸けて思い詰めた表情をしている野田総理が、みすぼらしく見えて仕方がないのだ。一国の総理に対して「この人は、金持ちに尻尾を振るのを自分の使命だと思っているのか…。頭の中もハートも死んでるんとちゃうか…」としか思えない。「野田バカ総理!」と呟いてため息をつくしかないのだ。

■目次
はじめに
第1章 貧困世帯に育つということ
1 なぜ貧困であることは問題なのか
貧困と学力/貧困と子育て環境/貧困と健康/貧困と虐待/貧困と非行/貧困と疎外感
2 貧困の連鎖
大人になってからも不利/一五歳時の暮らし向きとその後の生活水準/世代間連鎖
3 貧困世帯で育つということ
貧困と成長を繋ぐ「経路」/さまざまな「経路」/やはり所得は「鍵」
4 政策課題としての子どもの貧困
求めるのは格差を縮小しようという姿勢
第2章 子どもの貧困を測る
1 子どもの貧困の定義
相対的貧困という概念/相対的貧困の定義/貧困率と格差
2 日本の子どもの貧困率は高いのか
社会全体からみた子どもの貧困率/国際比較からみた日本の子どもの貧困率
3 貧困なのはどのような子どもか
ふたり親世帯とひとり親世帯/小さい子どもほど貧困なのか/若い親の増加と子どもの貧困率/「貧乏人の子沢山」は本当か/親の就業状況が問題なのか
4 日本の子どもの貧困の現状
第3章 だれのための政策か―政府の対策を検証する
1 国際的にお粗末な日本の政策の現状
家族関連の社会支出/教育支出も最低レベル
2 子ども対策のメニュー
政府の子育て支援策/「薄く、広い」児童手当/縮小される児童扶養手当/保育所/教育に対する支援/生活保護制度
3 子どもの貧困率の逆転現象
社会保障の「負担」の分配/子どもの貧困率の逆転現象/負担と給付のバランス
4 「逆機能」の解消に向けて
第4章 追いつめられる母子世帯の子ども
1 母子世帯の経済状況
母子世帯の声/一七人に一人は母子世帯に育っている/貧困率はOECD諸国の上から二番目/母子世帯の平均所得は二一二万円/非正規化の波/不安定な養育費
2 母子世帯における子どもの育ち
平日に母と過ごす時間は平均四六分/「みじめな思いはさせたくない」/母子世帯特有の子育ての困難さ
3 母子世帯に対する公的支援―政策は何を行ってきたのか
「母子世帯対策」のメニュー/「最後の砦」の生活保護制度/二〇〇二年の母子政策改革/「五年」のもつ意味/増える出費
4 「母子世帯対策」ではなく「子ども対策」を
第5章 学歴社会と子どもの貧困
1 学歴社会のなかで
中卒・高校中退という「学歴」
2 「意識の格差」
努力の格差/意欲の格差/希望格差
3 義務教育再考
給食費・保育料の滞納問題/「基礎学力を買う時代」/教育を受けさせてやれない親/教育の「最低ライン」
4 「最低限保障されるべき教育」の実現のために就学前の貧困対策/日本型ヘッド・スタートの模索
第6章 子どもにとっての「必需品」を考える
1 すべての子どもに与えられるべきもの
「相対的剥奪」による生活水準の測定/子どもの必需品に対する社会的支持の弱さ/日本ではなぜ子どもの必需品への支持が低いのか
2 子どもの剥奪状態
剥奪状態にある子どもの割合/子どもの剥奪と世帯タイプ/親の年齢と剥奪指標/子どもの剥奪と世帯所得の関係/子どものいる世帯全体の剥奪
3 貧相な貧困観
第7章 「子ども対策」に向けて
1 子どもの幸福を政策課題に
子どもの幸福度(ウェル・ビーイング)/子どもの貧困撲滅を公約したイギリス/日本政府の認識/「子どもと家族を応援する日本」重点戦略
2 子どもの貧困ゼロ社会への11のステップ
1 すべての政党が子どもの貧困撲滅を政策目標として掲げること/2 すべての政策に貧困の観点を盛りこむこと/3 児童手当や児童税額控除の額の見直し/4 大人に対する所得保障/5 税額控除や各種の手当の改革/6 教育の必需品への完全なアクセスがあること/7 すべての子どもが平等の支援を受けられること/8 「より多くの就労」ではなく、「よりよい就労」を/9 無料かつ良質の普遍的な保育を提供すること/10 不当に重い税金・保険料を軽減すること/11 財源を社会が担うこと
3 いくつかの処方箋
給付つき税額控除/公教育改革
4 「少子化対策」ではなく「子ども対策」を
あとがき
主要参考文献

155冊目 池上彰「これが「週刊こどもニュース」だ」(集英社文庫;1999) 評価3

2012年02月18日 05時48分59秒 | 一日一冊読書開始
2月17日(金):

277ページ  所要時間3:25

著者49歳、NHK報道局所属。今日は読み始めるのが遅かった。仕事で疲れてもいる。とても意欲的な読書をできる状況にない。本書は、こんな時のために、ブックオフで買っておいた本である。12年前の本で、内容は1994年まで遡るので、食指が動かなかったが、池上彰さんの本なので読みやすさは保障されている。今日みたいな条件の良くない日にはもってこいだったのだ。結論を先に言えば、評価3だが、俺は好印象をもっている。満足感もある。

読み終わった感想は、どれと言って特に強調するより、全般に盛りだくさんの内容と、バブル崩壊後の1990年代の話を「あー、そうそう!そういう話があったよなあ」と頭の中が、あの頃にスライドした感じになった。人生がどんどん歴史になっていく軽い悲哀も覚えた。あとで誰かに語って聞かせたくなるような<お得感のある記事>が随所にあって、これも満足感につながっている。

俺は、「週刊こどもニュース」の熱心な視聴者だったので、池上さんが、出演する子どもたちの声や感想を番組作りに最大限に生かそうとしていた様子が非常に興味深かった。当時、当たり前に観ていた番組が実は、それまでにない実験であり、今日のニュース報道に大きな影響を与える「お客様本位」という方法論を確立する過程だったのだと、気付かされた。

徹底的に視る人、読む人の立場に立って工夫する池上さんの姿勢は首尾一貫している。この人は、ジャーナリストとしての強い自覚とともに所謂独り善がりから最も遠い希有な人だ、と思う。本来、ジャーナリストはそうあるべきだが、分かっていてもなかなか実践はできないものである。という意味で意味です。

目次:
第1章 こどもニュースのこころみ
第2章 銀行はなぜおかしくなったか
第3章 茶の間に入ってくる「ワルイ人」たち
第4章 おとなだって知らない政治の基本
第5章 「天気」に強いこどもになるなる方法
第6章 「環境」について、こどもと考えよう
第7章 世界を舞台に踊る不況の伝え方
第8章 「戦争と平和」をどう伝えるか
第9章 世界にはいろんな考え方がある
第10章 ニュースの本質をつかむために
第11章 こどもに自分で考えさせる
第12章 おとなのあり方が問われる

◎台風はなぜ北半球では左巻き、南半球では右巻きなのか。それは地球の自転が西から東に回るなかで、赤道が一番速度が速い。北半球では北から南へ風が吹き、自転に巻き込まれて、左巻きになる(偏西風)、南半球では南から北へ風が吹き、自転に巻き込まれて、東風の貿易風になる。

寝ます。


154冊目 神野直彦「財政のしくみがわかる本」(岩波ジュニア新書;2007) 評価5

2012年02月17日 07時54分52秒 | 一日一冊読書開始
2月16日(木):

204ページ  所要時間5:45

著者61歳、東京大学経済学部教授。はじめの1/3は用語などの言葉がなじまず、ひどく難しい印象で逃げ出したくなった。「この本は、高校生では無理だ!どう考えても社会人・大学生向けだ!」と確信した。鉛筆・色鉛筆2色、付箋、ドッグイヤーをしながら、お勉強状態で読み進めた。

真ん中辺りから、「あっ、そうなんだ!」と目から鱗の落ちる体験を何度も繰り返して、全く期待してなかったのに、非常に時宜を得た内容のテキストであることに気付かされた。

「財政」の視点から、日本の現在を非常に明晰に分析して、さらに東大教授である著者自身の意見をはっきりと明示してくれている。「あっ、東大の先生もやっぱりこう考えてたんや」「やっぱりまともな先生はこう考えるんやな!」今まで、百家争鳴状態で、日本のあるべき姿について、何が正しいのか、訳が判らなくなっていたのが、一本明確な筋がスーッと見えた気がした。他人の意見に納得し、十分に腑に落ちる快感を覚えたのは、久しぶりだ。現代社会を見る目を変えてくれる卓説に出会えた喜びがあった。

勿論、一度読み通しただけでは消化しきれないが、大人が読むべき<本当の社会常識>を学べるすごい本に出会えた気がする。ブックオフで105円で入手した本なので、存分に線を引いて読めた。今後、折に触れて読み返すべきテキストである

目次:
1 財政って何だろう
2 予算って何だろう
3 税はどんなしくみになっているのだろう
4 どんなところにお金をつかっているのだろう
5 借金は財政にどんな意味をもつか
6 国と自治体の関係
7 いま財政がかかえる問題
8 財政の未来像をえがく

「消費税を増税しようとしている日本はどういう社会をめざしているのでしょうか。略。日本はアメリカのような、国民が自分の責任で生きていく社会をめざしているようです。そうだとすれば、消費税の増税ではなく、所得税の増税をめざすべきです。アメリカでは消費税はなく、所得税のウェイトが高いからです。/ところが、日本はヨーロッパ諸国のように消費税のウェイトを高めようとしています。しかし、ドイツもフランスもスウェーデンも、貧しい人びとを支える社会保障は充実しているのです。それだからこそ、貧しい人々にも負担がになえるのです。/貧しい人々の生活を国民がおたがいに支え合うのでもないのに、貧しい人々にも高い税負担を求めることはできません。日本はどのような社会をめざすのかを明らかにしたうえで、税金のあり方を考えていかないと、社会は混乱するばかりです。」※この言葉を、国民に何の説明の努力もしないで、官僚言いなりの逆進性の消費税増税成立を一点突破しようとしている民主党の野田バカ総理に聞かせたい。

「私たちはまず、自分たちの社会のなかで、自分たちの生活を考えて、これはニーズ(基本的必要)なのか、それともウォンツ(欲望)なのかを決めることが必要です。それがニーズだったら財政で満たされなければならないし、ニーズとウォンツとの中間形態だと思えば、公的な企業をつくって料金収入でまかなうのが原則です。もちろん、ウォンツなら市場にまかせてしまいます。こうしたことを国民が決めた政府こそが「ほどよい政府」だといえます。私たちはそのようなほどよい政府をめざすべきだと、私は考えています。/いまの日本政府のように、福祉でも医療でも教育でも聖域なく斬りこんで、小さくするのがいいのだと決めるのは、民主主義の原則からは大きく逸脱しているといわざるをえません。何を財政でやり、何を市場にまかせるのか、決めるのは私たちなのです」

「幸いなことに日本は外国債を発行していません。借金はすべて「内国債」です。家族のなかで借金をしあっているように、国民が国民に借金しているのです。略。内国債を発行しすぎて国家破産したという例は、人間の歴史のなかでは一つもありません。略。国家の借金は、家計の借金や企業の借金とちがって、返そうと思えばいつでも返すことができるのです。たとえば、日本政府が明日、借金を返そうと思えば、明日返すことができます。略。政府はお札を発行することができますから、インフレをつくってしまえば、いつでも解消できます。略。いえ、問題はあります。現在日本では予算の四分の一にものぼる巨額な金額を借金返しに使っているということです。略。財政が借金返しに追われて、危機を解消するという本来の使命を果たせなくなるということが大きな問題なのです。/もう一つ、大きな問題があります。それは、財政の大きな任務である所得再分配に反することです。略。国民からとりたてた税金を、国債の借金返しに使えば、一般の国民から税金をとって豊かな人々にお金を配分してしまうという現象になるのです。/現在日本でおこなわれようとしている、財政再建のために消費税を増税しようという政策は、この典型です。なぜなら、消費税は負担が逆進的で、貧しい人に負担が大きく、豊かな人に負担が小さいからです。税金で貧しい人々に負担を求め、国債をもっている豊かな人々にお金を配分することになるわけです。」「地方自治体の出す地方債は、外国債と同じなのです。」※野田バカ総理、国民にきちんと「日本をどういう社会にしたいと思っているのか?、欧米型か、アメリカ型か?」きちんと説明する努力をしろよ!。

「2006年7月、OECD(経済協力開発機構)は日本に対して「日本は異様な格差社会になっている」という経済審査報告書を提出しました。具体的には、/「ジニ係数(所得や資産の分配の不平等をしめす数値)がすでにOECDの平均以上になっているだけでなく、相対的貧困率が先進国のなかでももっとも悪いアメリカに肉薄している。とくに、子どものいる家族の相対的貧困率は、アメリカをすでに抜いている。さらに独り親(母子家庭)の相対的貧困率は、アメリカを大幅に抜いて突出している」ということが指摘されているのです。」

※原発の御用学者の東大教授たちに深く失望と嫌悪を抱いていたのだが、当たり前のことだが「東大にも筋の通った骨のある立派な先生がいるんだ!」と嬉しくなった。

他にも、国政による、中央集権的地方自治への画一的・硬直した支配への弊害のひどさなど厳しい指摘が展開されていたが、もう限界です。

寝ます。

番外 よしたに「理系の人々(1)(2)」(中経出版;2008,2010)評価3

2012年02月16日 06時23分05秒 | 一日一冊読書開始
2月15日(水):漫画は、ノルマとしては0.5冊扱い。

※今日図書館でこのマンガを発見した時、休息をとるつもりで借りた。しかし、確かにたくさん笑わせてもらったが、結局随分と時間がかかり、疲れてしまって、当てが外れた。マンガを読むのもそれなりに消耗するものだ

(1)175ページ   所要時間2:05  評価3

著者30歳、理工学部情報科出身の「オタリーマン」でデビューしたSE兼業漫画家・イラストレーター。

人間をカテゴライズして、「やっぱり○○は、…」というのは、偏見と差別の温床だが、反面笑いとカタルシスの源泉でもある。所謂「理系の人々」は高学歴のエリート集団であり、その人々が持つ特異な習性(性癖?)を戯画化するのは、<狂言>で太郎冠者が支配階級の連中を「やるまいぞ、やるまいぞ」と笑い飛ばす爽快感がある……だろうか?……。俺も「うっとうしさ」と「めんどくささ」だけなら理系の資格有りかな?、と読みながら思ってしまった。

1週間に1作ペースで2年間の連載をまとめた本。理系の人って、本当にこんな風に不器用なのだろうか。気のせいか、文系よりも飲み会はすごく多そうに思える。ちなみに、この本の中では同じ理系でも<工学系>と<理学系>は別であり、社会適応能力では明らかに<理学系>が劣るようだ。むちゃくちゃ面白いという訳ではないが、そこそこ深く笑える。

目次:1理系の仕事/2理系の暮らし/3理系の物欲/4理系の宿命/5理系と異性/6理系の情熱/7理系の未来

(2)175ページ  所要時間2:30  評価3
著者32歳。絵と表現力が明らかに上達している。しかし、それが作品としての向上につながったと言いきれないのは表現活動の難しいところだ。「理系の人々」というタイトルだが、正確にはIT産業のSE(情報技術産業のシステムエンジニア)関係の人々を題材にした作品である。著者は、SE・プログラマーとしての非常にハードな仕事をこなしている。その上で、マンガ家業を行い成果を出しているのは、まさに若さのなせる奇跡であり、舌を巻く仕事振りだ。作品は、内容のセンスにうまく波長が合うとかなり深く笑える。SE業界の人々の生態もかなり面白かった。

目次:1働く理系/2こだわる理系/3暮らす理系/4遊ぶ理系/5感じる理系/6戦う理系/7夢見る理系

153冊目 宮崎正勝「知っておきたい「食」の世界史」(角川ソフィア文庫;2006)評価4

2012年02月15日 06時35分24秒 | 一日一冊読書開始
2月14日(火):

238ページ  所要時間4:00

著者64歳、高校の世界史教師から教育大学教授へ。

カバー紹介文「私たちの食卓は、世界各国からもたらされたさまざまな食材と料理にあふれている。日常的に食べているものの意外な来歴、世界各地の食文化とのかかわりなど、身近な「食」にまつわる歴史と文化をさまざまな切り口で展開。大航海時代に地球規模で劇的に変化した食材の世界交流、コールドチェーンがもたらした食文化の単一化など、食卓の上を世界各地からの食材や料理文化が踊る「小さな大劇場」にみなした、おもしろ世界史。」

目次:
はじめに 食卓は小さな大劇場/広がり続ける食/食の世界史の四幕/第一幕―穀物とポットの出現/第二幕―食の回廊、大西洋/第三幕―腐敗を封じ込む/第四幕―冷たい食品が地球を巡る/ファストフード化の波/スロー・イズ・ビューティフル
第1章 人類を生みだした自然の大食糧庫:1腐っていく食材との闘い/2大地と海に調味料を探す
第2章 農耕・牧畜による食のパターン化:1イネ科植物が運んだ食糧の安定/2三大穀物とそれぞれの食世界/3食肉の主役となったブタとヒツジ
第3章 世界四大料理圏の誕生:1巨大帝国で体系化された料理/2大乾燥地帯に根ざした中東料理/3森と地中海で育ったヨーロッパ料理/4ウシを殺さずウシを生かしたインド料理/5内陸性をベースにする中国料理
第4章 ユーラシアの食文化交流:1絶えなかったユーラシアの食材移動/2草原と砂漠を越えてやってきた食材/3万里の波濤を越えて
第5章 「大航海時代」で変わる地球の生態系:1コロンブスの交換/2「旧大陸」を救った食材たち/3食卓に浸透する「新大陸」/4新大陸が育てた嗜好品/5日本にもおよんだ「食の大交流」
第6章 砂糖と資本主義経済:1日用品に変身した嗜好品/2嗜好品が結びつけた三大陸
第7章 「都市の時代」を支えた食品工業:1加工食品で変身する食の世界/2封じ込まれた腐敗/3進む食の世界化
第8章 低温流通機構とグローバリゼーション:1アメリカ主導の「冷凍食材の時代」/2世界にひろがったインスタント食品/3食卓に影響をおよぼした流通革命/4ダイエットと飢餓

※この手の本の扱いが一番困る。著者は、「食」をめぐるダイナミックな世界史の動きを描きだしたかったのだろうが、一方で「歴史上の面白豆知識の寄せ集め」になっている。厳しい見方をすれば、世界史のダイナミズムを描くと豪語しながら、無数の豆知識で言い訳しまくってる感じだ。そりゃ、面白くなかったか?と問われれば、興味深くなかった訳がない。しかし、面白かったか?と問われれば、「まさか教科書のように知識を逐一吟味して覚えるヒマなどどこにもない」のだから、覚えたい欲求を抑えて<情報を読み捨て>し続けるのはあまり楽しい経験ではなかった。体裁よくまとめられていて親切な本だと思うが、「眼から鱗が落ちる」という感じではない。読ませる必然性?では評価3だが、最期まで目を通せたので評価4が妥当かなと思う。

150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)