もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

141030 今は、何か狂気の世界に迷い込んだ気分だ。現実感が無い。愚かな独裁者と破滅に向かって驀進中だ。

2014年10月30日 22時25分19秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
10月30日(木):

この時代は、後世に取り返しのつかない傷を残す。「その時、日本の人々は、なによりおまえは何をしていたのか?」という大きな疑問符を付けられることだろう。

https://twitter.com/minorumorita

(『月刊日本』2014年11月号掲載、「安倍総理は無能な独裁者か!?」と題した森田実インタビュー記事より)

「安倍総理は経済を再生するどころか、消費増税で破壊しているのが現状です。そして今、再増税で日本を地獄に叩き落としかねない。」

「消費再増税などという国家の命運を一人だけで決定するほどの巨大な権力が安倍晋三という凡庸な人物の手に握られてしまったのは、日本国民にとって不幸なことだと私は思います。」

「私は半世紀以上にわたって日本政治を見続けてきましたが、安倍総理ほど思想・哲学・信念の面で軽い宰相は、ほとんど見たことがない。何度か安倍総理の演説を直接聴いたことがありますが、とにかく軽いという印象が強い。」

「(安倍総理の)あの軽さは物事を真剣に考えていない証拠だと思います。自らの非力に対する忸怩たる想いや、国民生活への深刻な危機感があるならば、あんなに軽い口をきくことはできないはずです。」


「昨年の参院選大勝後、麻生副総理は安倍総理に対して「あなたは歴史上にない独裁者になりますよ」と語りかけたと報道されましたが、安倍総理は事実上の独裁者と言っても過言ではありません。しかし凡庸な独裁者は、危機に直面すると戦争のような悲劇を起こしてしまうことがしばしばあります」

「今や日本が地獄に落ちるかどうかという瀬戸際ですから、あえて忠言します。安倍総理、一刻も早く消費再増税を中止すべきです。さもなければ、貴方は後世から日本経済を地獄に突き落とした無能な独裁者という烙印を押されてしまうでしょう」

「私は安倍総理がそのような最悪の独裁者にならないことを心から願っています」



141026 東大本田由紀氏の朝日書評に異論。この人は、観念で生きている。生身の人間に接してるのか…?

2014年10月26日 13時14分33秒 | 徒然・雑感
10月26日(日):

今朝の朝日新聞の書評に、【10代の読書】で「差別、まず知ることから」とテーマで上原善広「路地の教室」(ちくまプリマー新書)、金城一紀「GO」(角川文庫)、安田浩一「ルポ 差別と貧困の外国人労働者」(光文社新書)が紹介されていた。それぞれ差別、在日韓国・朝鮮人差別、外国人労働者の奴隷的労働をテーマにしているものだ。

3つ目の本は読んでいないので、できれば近いうちに読んでみようと思う。本田由紀氏は東京大学教授である。俺自身は以前から、この先生の言動には弱者へのまなざしを感じて好意的な感じを受けていた。

問題なのは、前の二著である。東京大学の先生が、まさか読み違いをするとは思えないが、この先生は、差別問題や在日韓国・朝鮮人差別問題を、本当に自分のものとして考えたことがあるのだろうか。もしそうであれば、この二著の内容の危うさ、すなわち問題の本質を微妙にずらして間違った理解、偏見へと導く危うさを感じ取れるはずだ。ましてや、批判能力の無い、おそらくこれらの問題を初めて考える10代の若者たちに安易に進めることの危険性をどうして感じないのか?

上原善広「路地の教室」」(ちくまプリマー新書)については、「3 082 上原善広「路地の教室 差別を考える」(ちくまプリマー新書;2014/1)感想4」で、俺が感じた違和感は述べている。俺は、この本を10代の若者に薦めるべきではないと思う。もし薦めるなら「アーカイブ 角岡伸彦著「被差別の青春」(講談社;1999)  評価5」にする。

金城一紀「GO」(角川文庫)については、この本が書かれた時、俺の知り合いの在日コリアンの人々は皆、著者の在日問題、在日の実存について乱暴に踏みにじる内容だと違和感を表明していた。そして、俺も当時読んでみて著者の在日問題つまみ食いぶりに強い違和感を覚えた記憶が残っている。

俺が感じたこの二著を推薦する本田由紀氏への違和感は、結局氏自身にその問題に対する本当の関心があるかどうかの違いだと思う。本田由紀氏には残念ながら、金城一紀「GO」を「ある種のステレオタイプと言えますが」と言いつつ、この人の前2冊の選択自体が、そもそも観念だけの<ステレオタイプ>ではないかと感じたのだ。

まあ、「書評って所詮その程度のものでしょ」と言われれば、それまでだが10代の若者に薦める書評、しかも差別問題を扱う書籍の書評としては、あまりにも無責任で安易に過ぎる気がしたのだ。

※10月30日(木):追加です。
「201冊目 角岡伸彦「はじめての問題」(文春新書;2005) 評価5 2012/4/18 2:28」




4 017 大和和紀「あさきゆめみし 5」(講談社コミックスミミ:1984) 感想5

2014年10月25日 22時46分37秒 | 一日一冊読書開始
10月25日(土):

210ページ  所要時間 2:10   蔵書

著者36歳(1948生まれ)。

漫画とは言え、読むほどに深みを増していく展開である。源氏物語には様々な女性が見事に描き分けられている

末摘花の君の受難の物語。源氏が須磨に流されると、不器量で頭も悪く気も利かず、無いもの尽くしの君は、誰からも忘れられた存在となり、屋敷は荒れ放題で窮乏の極みにおちいり、身分の低い受領の妻となった近親者にまで馬鹿にされる始末。だけど源氏への一途な思いと根っからの宮家の姫君の自覚(嫌みではない)だけを支えに日々を送る。万事休した頃、都に戻った源氏がふと通りがかって、末摘む花の君を思い出し、その心ばえに感じ入り、妻として迎える。ちょっと、泣けるストーリー。

逢坂の関で、源氏の車列が、常陸の介(元伊予の介)の車列と行き合わせる。10年以上前の若き源氏が、空蝉の君(伊予の介)の妻とかわしたつかの間の恋の記憶が蘇える。衛門の督(かみ)の娘として入内も可能な生まれだったが父母を早くに亡くし、後ろ見もないなかで、身分の低い受領で父親ほどの伊予の介の妻となり、方違の源氏と泊まり合わせて結ばれたが、夫伊予の介の老いへの義理立て?でその後源氏の呼びかけを頑なに拒む。ついに夜源氏が忍んで現れると横で寝ている継娘(軒端の荻;のきばのおぎ)を残して、自分は衣を脱ぎすべらせて逃げ去った。

冷泉帝の後宮では、源氏からの遺伝か、絵を殊に好む冷泉帝と源氏の養女として入内した斎宮の女御(梅壺)が絵の鑑賞で意気投合。あせった太政大臣家の中納言(頭の中将)が、娘の(新)弘徽殿女御に帝の足を向けるために多くの絵を調達する。ついに帝の母である故院中宮(藤壺)が間に入り、梅壺の女御(源氏)と弘徽殿女御(中納言)が、帝の前で絵合わせを披露することになる。ヒートアップする勝負は、梅壺側が出した最後の絵によって決着がつく。源氏が流人生活中に描いた須磨の浦の絵だった。背景にある源氏の悲運のストーリーも含めて満座を圧倒したのだった。

源氏の描いた須磨の絵巻は故院中宮に献じられ、そこで「罪(不義の子冷泉帝をもうけた)を…、苦しみを分かち持つのが、私たちの愛の形]と二人だけの思いを確認し合う。

二条院のそばに源氏は、東の院を立てる。花散る里や末摘花の君らを世話する屋敷である。その最大の女性は明石の君である。

いよいよ明石の君とちい姫(3歳、満なら2歳か?)を迎えるときが来た。明石の入道が、都の外れの大堰(嵐山の辺か)に屋敷を作り、源氏が通い始める。紫の上は、明石の君にだけは他の源氏の女性とは違った激しい感情(惧れ?)を抱く。明石の君は、女性としては内親王にも劣らぬ最上級の人だが、圧倒的に身分が低かった。そのままだとちい姫の将来も知れたものである。源氏は、紫の上にちい姫を養女にすることを持ちかけ、紫の上は大喜びする。

まずちい姫が母を離れて、源氏との生活を始める。実際にちい姫を迎えた紫の上はこの上ない幸せを覚えるが同時に、こんなかわいい我が娘を手放さざるを得ない明石の君の悲しみを想像し、改めて立派な女性に育て上げる覚悟を決める。明石の君は、ちい姫を失った悲しみに沈むが、ちい姫を可愛がり大切にしてくれている紫の上を「なさぬ仲の子を大事にするのはなかなかできることではない」と感謝の思いを深める。優れた二人の女性は、会う前から既にお互いを敬し始めているのだった。

都で天変地異が続く。陰陽道では帝が、父母への礼を失するときにそのようなことが起こるというが、聡明な冷泉帝には、身に覚えが無い。やがて、病がちであった故院中宮(藤壺)が薬石効なく亡くなる。源氏の嘆きぶりは普通ではない。「だれにも知られてはならないのだ…、この涙は…、あの人のために涙をながすことさえもわたしにはゆるされぬのだ…!」

当事者の源氏、藤壺以外で冷泉帝の出生の秘密(冷泉帝の父は源氏である)を知るのは代々仕える加持の僧都と王の命婦(みょうぶ)二人だけである。その僧都から冷泉帝は真実を知らされる。そして、「忘れてはなりませんよ。源氏の大臣(おとど)こそ命にかえても主上(うえ)をおまもりくださるかた…」という母の言葉を思い出す。帝は悩み、「自分が退位して、源氏が皇籍に復して皇位につく」よう勧めるが、源氏は断然断り、秘密を帝が知ったと察して王の命婦に確かめるが「そんなことはない」と否定される。

藤壺と源氏の夫婦関係は、一見不幸に見えるが、互いが互いを愛し抜いていた関係であり、幸せではないが、決して不幸なものではなかった。

141025 活眼の人、内田樹先生。現政権への最も適切な批判。すべて同意、腑に落ちる!納まりが良い。

2014年10月25日 12時31分47秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
10月25日(土):

今どき、これほど言い得て妙、小気味よく当を得て日本の現状を捉えたお話は少ない。内田先生は、自らのブログの転載を許可されているので、ここに転載する。溜飲の下がる思いである。

このレベルの読み物(高橋源一郎、池澤夏樹、藤原 帰一他)が出てくるので、やはり朝日新聞は辛うじて購読する価値があると言える。しかしながら、とっくに判っていた宮沢新経済産業大臣が、東京電力の大株主であるという事実を昨日の夕刊で報道していたのには、あきれて開いた口がふさがらなかった。ネットよりも2日遅い記事を掲載して恥としない新聞は、ふがいなさ、批判能力の低さにおいて、存在価値が無いと言わねばならない。

最近の朝日の記事を見ていると、政府と対決しろとまでは言わないが、政府批判能力が極端に低下しているのが手にとるように伝わってくる。何かビクビクと怯えて、周りの様子を見ながらおっかなびっくり報道をしているようだ。見るべき記事が今回のように外注に頼っているものしかないというのでは、朝日の記者は腰抜けとしか言えない。まあ、悪魔に魂を売った読売・産経よりはましだが。

内田樹の研究室  みんなまとめて、面倒みよう – Je m'occupe de tout en bloc」より   2014.10.21

カジノについて

朝日新聞にカジノ法案についての意見を聴かれましたので、こんなことをお話ししました。
2014年10月21日の朝刊に掲載されたものです。

「実は、身内にかなりのギャンブル依存症がいます。優れたビジネスマンですし、他の面ではいたってノーマルな人物なのですが、ことギャンブルとなると熱くなる。若いころは給料日に競馬場へ行って1日でボーナスをすってしまうというようなこともありました。海外出張の時はカジノに通っていました。なぜそんなふうにお金を無駄に使うのか聞いたことがあります。これで負けたら全財産を失うという時のヒリヒリする感じが『たまらない』のだということでした」
 ――依存症は青少年や地域社会、治安への悪影響と並んで反対派、慎重派が最も懸念する点です。やはりカジノはやめたほうがいい、と。
 「僕は別に賭博をやめろというような青臭いことは言いません。ただ、なぜ人は賭博に時に破滅的にまで淫するのか、その人間の本性に対する省察が伴っていなければならないと思います。賭博欲は人間の抑止しがたい本性のひとつです。法的に抑圧すれば地下に潜るだけです。米国の禁酒法時代を見ても分かるように法的に禁圧すれば、逆にアルコール依存症は増え、マフィアが肥え太り、賄賂が横行して警察や司法が腐敗する。禁止する方が社会的コストが高くつく。だったら限定的に容認した方が『まし』だ。先人たちはそういうふうに考えた。酒も賭博も売春も『よくないもの』です。だからと言って全面的に禁圧すれば、抑圧された欲望はより危険なかたちをとる。公許で賭博をするというのは、計量的な知性がはじき出したクールな結論です
 ――カジノ法案は、政府内に管理委員会を置いて、不正や犯罪に厳しく対処するよう求めています。推進派の議員らは、十分な依存症対策も取る方針を明確にしています。それなら賛成できますか。
 「賛成できません。法案は賭博を『日の当たる場所』に持ち出そうとしている。パチンコが路地裏で景品を換金するのを『欺瞞だ』という人がいるかもしれませんけれど、あれはあれで必要な儀礼なんです。そうすることで、パチンコで金を稼ぐのは『日の当たる場所』でできることではなく、やむをえず限定的に許容されているのだということを利用者たちにそのつど確認しているのです。競馬の出走表を使って高校生に確率論を教える先生はいない。そういうことは『何となくはばかられる』という常識が賭博の蔓延を抑制している。賭博はあくまでグレーゾーンに留め置くべきものであって、白昼堂々、市民が生業としてやるものじゃない。法案は賭博をただのビジネスとして扱おうとしている点で、賭博が分泌する毒性についてあまりに無自覚だと思います
 ――安倍晋三首相は、シンガポールでカジノを視察して、日本の経済成長に資すると発言しました。経済を活性化する良策ではないですか。
 「賭博は何も生み出しません。何も価値あるものを作り出さない。借金しても、家族を犠牲にしても、人から金を盗んででも、それを『する』人が増えるほど胴元の収益は増える。一獲千金の夢に迷って市民生活ができなくなる人間が増えるほど儲かるというビジネスモデルです。不幸になる人々が増えるほど収益が上がるビジネスである以上、そのビジネスで受益する人たちは『賭博に淫して身を滅ぼす人』が増大することを祈ることを止められない。国民が不幸になることで受益するビジネスを国が率先して行うという発想が、僕には信じられません
 ――しかし観光振興の起爆剤になり、自治体財政にも寄与する可能性はある。デメリットを上回るメリットがあるとは考えられませんか。
 「安倍政権の経済政策は武器輸出三原則の見直し、原発再稼働などいかに効率的に金を稼ぐかにしか興味がない。でも、当然ながらリスクが高いほど金は儲かる。一番儲かるのは戦争と麻薬です。人倫に逆らうビジネスほど金になる。でも、いくら金が欲しくても、あまり『はしたないこと』はできない。その節度が為政者には求められる。その『さじ加減』については先人の経験知に謙虚に学ぶべきですが、安倍政権には節度も謙虚さも何も感じられません
 「為政者の本務は『経世済民』、世を治め、民を済うことです。首相は営利企業の経営者じゃないし、国家は金儲けのためにあるんじゃない。福島の原発事故対策、震災復興、沖縄の基地問題の解決の方がはるかに優先順位の高い国民的課題でしょう。厳しい現実に目を背け、なぜ金儲けの話ばかりするのか」
 ――でも、安倍内閣の支持率は一定の高さを保っていますよ。
 「メディアは選挙になれば『景気を何とかしてほしい』『経済の立て直しを』という『まちの声』を繰り返し報道してきました。国民は政党間のこむずかしい政策論争よりも民生の安定を望んでいると言ったつもりでしょうが、メディアはそれを『有権者は経済成長を望んでいる』という話に矮小化した。有権者は何より金が儲かることを望んでいるというふうに世論を誘導していった
 「武器輸出も原発再稼働もカジノも『金が儲かるなら、他のことはどうでもいい』という世論の形成にあずかったメディアにも責任の一端があります。メディアはなぜ『金より大切なものがある』とはっきり言わないのか。国土の保全や国民の健康や人権は金より大切だと、はっきりアナウンスしてこなかったのはメディアの責任です」
 ――理想を高らかにうたうのは大切だと思いますが、成熟した大人にとって、現実的な議論とは言えないのではないでしょうか。
 「それのどこが『大人の態度』なんです? 人間は理想を掲げ、現実と理想を折り合わせることで集団を統合してきた。到達すべき理想がなければ現実をどう設計したらいいかわかるはずがない。それとも何ですか? あなたはいまここにある現実がすべてであり、いま金をもっている人間、いま権力を持っている人間が『現実的な人間』であり、いま金のない人間、権力のない人間は現実の理解に失敗しているせいでそうなっているのだから、黙って彼らに従うべきだと、そう言うのですか」
 ――理想を語らず、目先の金。嫌な世の中になりました。
 「時間のかかる議論を『決められない』と罵倒してきたのは、あなた方メディアでしょう。『決められない政治』をなじり、『待ったなし』と煽ったせいで、有権者は独裁的に物事を決めていく安倍さんを『決断力がある』と見なして好感を持った。合意形成に時間がかかる民主制より、独裁的な方が政策決定の効率はいい。そう思うようになった。それならもう国会なんか要らない。安倍さんがどれほど失政をしようと『劇的に失敗する政治』の方が『決められない政治』よりましだ、そういうニヒリズムが蔓延しています
 ――ニヒリズムですか……。
 「米ソ冷戦の1960年代、米ソの外交政策に対して日本人は何の発言権もなかった。国内でどんな政策を行っても、ある日、核ミサイルが発射されれば、すべて終わりだった。そういう時代に取り憑いていた虚無感を僕はまだ覚えています。いまの日本には、当時の虚無感に近いものを感じます。グローバル化によって海外で起きる事件が日本の運命を変えてしまう。どこかで株価が暴落したり、国債が投げ売りされたり、テロが起きたり、天変地異があれば、それだけで日々の生活が激変してしまう。自分たちの運命を自分たちで決めることができない。その無力感が深まっています
 「『決められない政治』というのは政治家の個人的資質の問題ではなく、グローバル化によって、ある政策の適否を決定するファクターが増え過ぎて、誰も予測できなくなったので『決められなくなった』というシステムそのものの複雑化の帰結なのです。何が適切であるかは、もうわからない。せいぜい『これだけはやめておいた方がいい』という政策を選りのけるくらいしかできない」
 ――私たちは政治とどう向き合ったらいいのでしょう。
 「民主制のもとでは、失政は誰のせいにもできません。民主制より金が大事という判断を下して安倍政権を支持した人たちは、その責任をとるほかない。もちろん、どれほど安倍政権が失政を重ねても、支持者は『反政府的な勢力』が安倍さんのめざしていた『正しい政策』の実現を妨害したから、こんなことになった。責任は妨害した連中にあるというような言い訳を用意することでしょう。そんな人たちに理屈を言って聞かせるのはほとんど徒労ですけれど、それでも『金より大切なものがある。それは民の安寧である』ということは、飽きるほど言い続ける必要があります

4 016 大和和紀「あさきゆめみし 4」(講談社コミックスミミ:1983) 感想4

2014年10月24日 23時41分22秒 | 一日一冊読書開始
10月24日(金):

202ページ  所要時間 1:50   蔵書

著者35歳(1948生まれ)。

意外と源氏物語って、テンポが速い。どんどん展開していくので飽きさせない。

紫の上に留守を任せて、都を追われる様に退去した源氏一行は、わずか一日の行程で須磨に着く。鄙での流人生活は侘しく、友情厚い左大臣家の頭の中将の来訪も寂寞感を深めさせるだけ。

播磨の受領などを務めて有徳人なった明石の入道が、嵐の翌日住吉の神の導きで須磨に現れ、源氏一行を明石の館に迎える。入道はしきりに源氏に娘を娶せようとするが、ある日娘の生まれる前に住吉の神の「わが家から必ず国母が立つ」との夢のお告げがあったと語る。それは源氏がかって受けた「お子は3人、ひとりは皇帝、ひとりは皇后、中の劣った方も太政大臣になる」の夢占いと合致する内容だった。

入道の娘明石の君と源氏では、圧倒的に身分違いであったが、美しさと教養と優れた心ばえに魅せられて二人は結ばれ、明石の君は懐妊、女子を生む。

一方、都では、故父院の遺志に反した朱雀帝は目を病み、父右大臣を亡くして大后(弘徽殿女御)も弱り果て、朱雀帝の源氏の都召還の意志を変えられない。

都を追放されて3年、ついに源氏は都に戻り、大納言となり、すぐ兄の朱雀帝にまみえる。兄帝は退位、東宮への譲位の意志を示す。朧月夜の君は、源氏の誘いを振り切って朱雀院についてゆく。

元服をすませた東宮(源氏の子)は、即位し冷泉帝となり、源氏はその後見人として、かつて以上に繁栄する。将来、皇后になるかもしれない女子を生んだ明石の君をそのままにしておけない。紫の上の様子を窺いながら都に呼び寄せるタイミングをはかる。

新帝の即位によって伊勢の斎宮は交代し、六条の御息所と斎宮の母娘が都に戻る。逢いに来た源氏の目に御息所は美しいまま、その生を閉じようとしているようにうつる。

御息所の「娘をよろしく」という遺志を受けた源氏は、冷泉帝の母である故院の中宮(藤壺)に相談して、すでに22歳?の前斎宮を源氏の養女とした上で12歳?の冷泉帝の女御として入内させる。相性はよく、前斎宮は幸せそうである。しかし、それは頭の中将(左大臣家)の娘王女御(おうのにょうご)との中宮の地位を争うことでもあった。

4 015大和和紀「あさきゆめみし 3」(講談社コミックミミ:1982) 感想5

2014年10月21日 23時34分31秒 | 一日一冊読書開始
10月21日(火):

202ページ  所要時間 1:50   蔵書

著者34歳(1948生まれ)。

人間関係が複雑になるほど見せ場が多くなり読み応えが出てくる。付箋の数も多くなる。

葵祭りの勅使を務める源氏を見にきた六条御息所の牛車が、混雑の中で身重の葵上の牛車ともみ合いになり、誇り高い御息所が恥をかかされる。

その後、葵上は六条御息所の生き霊に苦しめられ続け、男の子(夕霧)を無事出産し、源氏との新たな夫婦の絆を結ぶが、ほどもなく生き霊にとり殺される。

自らの生き霊を抑えられない御息所は、源氏に正体を知られていることを知り、絶望する。そして、伊勢の斎宮の娘(秋好中宮)についていくために野々宮に潔斎する。

生まれた子を葵上の左大臣家に預け、久しぶりに二条院に戻ると、大人びた紫の君が待っている。源氏は我慢できずに紫の君と無理やりに結ばれる。驚き怒った紫の君も、全く頼るべき後ろ見の無い彼女を源氏が誠意を持って5年間愛しみ、盛大に婚儀を行い、北の方として迎えてくれたことでその愛を受け入れる。

訪ねてきた源氏(22歳)に「より多く愛した者が負けなのです」の言葉を残して、御息所(30歳)は伊勢に去る。

桐壺院が亡くなり、最後の言葉を託された藤壺(27歳)の中宮は院が、東宮の父が源氏であることを知っているのを知る。

源氏は、父院の死後、再び藤壺を求め始める。その源氏の思いを断ち切り、父たる源氏とともに母としてわが子東宮(後の冷泉帝)を守るために、藤壺は髪を切り出家する。ショックを受け打ちのめされる源氏。

自棄になった源氏は、兄朱雀帝の尚侍(ないしのかみ)になっている右大臣家の六の君、朧月夜(おぼろづきよ)の君との通い婚状態を隠そうとせず、右大臣に見つかり、今上帝の母である大后(弘徽殿女御)の逆鱗に触れる。

風前の灯状態となった源氏から潮が引くように人々が離れていく。頭の中将など真に信じられる人だけが残される。源氏は、昔馴染みの心安らぐ“花散る里の君”の元に行き、そこでしばし憩うたのち、勅勘を被りすべてを失う前に、大切な人々を守るため自ら位冠を返上し、無位無官となって須磨の浦に隠遁することを決意、実行する。

紫の上との悲しい別れ。






4 014 大和和紀「あさきゆめみし 2」(講談社コミックミミ:1981) 感想4

2014年10月21日 00時43分37秒 | 一日一冊読書開始
10月20日(月):

189ページ  所要時間 1:40  蔵書

作者33歳(1948生まれ)。

大輔の命婦の手引きで末摘花と結ばれるが、その後吃驚!あまりの不器量故にみはなせず面倒を見ることになる源氏。

60歳近い恋の達人源の典侍(ないしのすけ)に翻弄される源氏と頭の中将。40年越しの恋人、修理の大夫(かみ)もまた恋の達人。

すくすく生い立つ若紫。一方、不仲の葵上と強引に結ばれ、また離れる。素直になり切れない葵上。

藤壺女御の懐妊、出産、父帝から新宮を東宮に立てられた弟(実は息子)の後見を託され宰相となる。源氏に皇族として、藤原氏への対抗意識が芽生える。

東宮(源氏の兄)の母弘徽殿女御の妹六の君は東宮女御になるはずだったのに、源氏と結ばれる。朧月夜は芯の強い激しい女性。

源氏を待つことに疲れ果てた六条御息所(源氏より8歳上)が、斎宮となった娘に付いて伊勢に下るのを知った源氏は会いに行くがすれ違い。源氏への愛に焦がれながら、葵上の懐妊を聞いてさらに苦悩をふかめる六条御息所。

141020 東京新聞は生きてる。Times報道:NHKは死んでる。安倍晋三は頭軽い、罪深い最悪のファシスト。

2014年10月20日 16時16分30秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
東京新聞:斎藤美奈子コラム「女王蜂症候群(男性社会で例外的に出世した名誉男性的な女性)と女活」

自らの女性性を否定し、尊重しない女性閣僚がいくら増えても、何の意味もないどころか、侮辱である。それは目晦ましであり醜悪の極致だ!

イギリスの新聞「Times」がNHKの内部文書を暴露!日本政府がNHKに南京大虐殺や慰安婦などへの言及禁止を指示していた模様!
http://saigaijyouhou.com/blog-entry-4207.html 2014/10/18 Sat. 19:00:19 真実を探すブログ

イギリスの新聞紙「Times」がNHKの内部文書を暴露しました。Timesが暴露した文章によると、NHKは安倍政権から南京大虐殺や慰安婦問題などへの言及を禁止されていたとのことです。安倍政権側はNHKに強く日本の保守的な民族主義と政府の立場を反映するように命令し、NHKもそれに従っていたと報じられています。
Timesは「イギリスでは話題になっている情報も取り上げられない」と述べ、安倍政権とNHKが癒着していることの問題性を指摘しました。


安部首相が政権を取ってから真っ先にやったことがNHKへの脅しだったので、今回の件も予想通りだと言えます。そして、この内部文章のお陰で、日本政府が南京大虐殺や慰安婦問題などを誤魔化そうとしていることが改めて分かりました。前に外務省がホームページの慰安婦関連の記述を削除するということがありましたが、これも政府の方針と何か関係がありそうです・・・。

☆Japan’s ‘BBC’ bans any reference to wartime ‘sex slaves’
URL http://www.thetimes.co.uk/tto/news/world/asia/article4239769.ece
引用:
A ban on reference to the Rape of Nanking is seen as a surrender of editorial independence by Japan’s public broadcaster, NHK Japan’s public broadcaster, NHK, has banned any reference to the notorious Rape of Nanking, to the country’s use of wartime sex slaves, and to its territorial dispute with China, in what critics see as a surrender of its editorial independence.
日本公共放送(NHK)は戦時慰安婦、中国との領土問題、悪名高い南京大虐殺への言及を禁止されていることが分かりました。英タイムズ紙が入手したNHKの内部文書によると、 英語記者が注目しているトピックについて厳密なルールがあるといいます。 規制は安倍総理が日本の保守的な民族主義と政府の立場を反映するように指示しているようです。


※こんな記事すら、TVは無論のこと、朝日新聞でも報道されないのだ。今の日本は、ロシアや中国を笑えない。報道の自由がまったく保障されていない。

4 013 大和和紀「源氏物語 あさきゆめみし 1(全13巻)」(講談社コミックス;1980) 感想4

2014年10月20日 00時09分51秒 | 一日一冊読書開始
10月19日(日):

  206ページ  所要時間 2:00    蔵書

作者32歳(1948生まれ)。

2度目である。初めて読んだのは、8年ほど前である。家内と温泉に行く時に、古本で買い集めた全13巻を持って電車の中で読んだ。とにかく、人間関係に注意して読むと随分時間がかかった記憶がある。しかし、それまでさまざまな源氏物語の現代語訳に挑戦してことごとく跳ね返されてきた俺にとって、源氏物語の全貌を知ることができた貴重な経験となった。

本書は、コミックではあるが、源氏物語の内容をできる限り忠実に漫画化して古典的教養と読解力無き多くの迷える羊たちを源氏物語の世界に導いた功績は高く評価してし過ぎることはない。

今回は、風呂で読む本を探していて、なんとなくその気になって手にした。多少勉強の気分もあり、付箋をしながら読んだ。桐壺帝と桐壺更衣の恋愛・出産・更衣の死、光源氏登場、藤壺女御(源氏の5歳上)との出会い・思慕、左大臣家の娘葵上(源氏より年上)との結婚、頭中将(源氏の従兄で義兄弟、葵上の兄)、六条御息所(大人の女、前東宮の娘産む)との出会い、夕顔(頭中将の娘産むが消える)との出会いとその死(六条御息所の生き霊)、若紫(藤壺の兄の娘、正妻の子ではない)との出会い、藤壺女御(父帝の妻)との道ならぬ性交渉と絶交、若紫を二条院に引き取る。

第1巻でいきなり息もつかせぬ展開の連続である。平安時代の公家社会では、過激な展開に紫式部さん「つかみはOK!」というところだろう。

141019 転載(毎日新聞):慰安婦問題:朝日報道 メディアで飛び交う「売国・国賊」

2014年10月19日 15時09分41秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
10月19日(日):

 為政者がヘイトスピーチを許容する愚か者で知性・品性が下劣だとこれほどまでに世の中が子供騙しで浅ましく、下品で恥知らずになるのかと思い知らされる日々だ。また、それに同調・迎合・許容している野党も同罪だ。この国の政治は、まったくやるべきことをやっていない。向かうべき方に向かっていない。マスゴミどもの“極右旋回”状況への便乗が目に余るので以下の記事を転載する。

慰安婦問題:朝日報道 メディアで飛び交う「売国・国賊」
                毎日新聞 2014年10月17日 17時34分(最終更新 10月17日 17時53分)
  朝日新聞の誤報問題を取り上げた週刊誌など=内藤絵美撮影
 ◇田原総一朗さん「メディアが使うのまずい」 渡辺治さん「右翼が攻撃に使った用語」

 売国、国賊、国辱……。21世紀、平成ニッポンとは思えない言葉が飛び交っている。従軍慰安婦問題などを巡り、誤報記事を取り消した朝日新聞に浴びせられるこのフレーズ、インターネットの匿名掲示板などではなく今やメディアが乱発している。さすがにおかしくないか?

 外国人観光客も多い築地市場を望む朝日新聞東京本社(東京・築地)。ここで週2回、保守系団体による抗議集会が続いている。

 10日昼の集会に参加したのは十数人。植え込みに日の丸やプラカードを林立させ、朝日新聞不買を訴えるTシャツを着たメンバーが「『従軍慰安婦』は朝日新聞の捏造(ねつぞう)だ」と記されたビラを配っていた。「こんなことは言いたくないが、朝日新聞は地獄に落ちろと言いたい!」。スピーカーを使った演説に、メンバーから「そうだっ」と合いの手が入る。

 向かいのブロックには国立がん研究センター中央病院がある。病院前でのスピーカーの音量は気になるが、その言葉遣いについて、もはや驚かない自分がいる。

 何せ、朝日新聞が記事を取り消した8月上旬から「朝日新聞 『売国のDNA』」(週刊文春9月4日号)、「中国共産党に国を売った」(同9月18日号)、「1億国民が報道被害者」(週刊新潮9月4日号)、「売国虚報32年」(同9月25日号)、「廃刊せよ! 消えぬ反日報道の大罪」(月刊誌「正論」10月号)、「言い逃れできぬ『慰安婦』国辱責任」(同11月号)……といった文字・記事が書店やら電車の中づり広告やらにあふれているのだ。

 例に挙げたのは、いずれも大手出版社や新聞社が発行する媒体だ。誤報は批判されて当然だが、このおどろおどろしい言葉遣いは何なのか。

 時に朝日新聞以上のバッシングを浴びてきたかもしれないジャーナリストに聞いてみた。討論番組の司会でおなじみ、田原総一朗さん(80)だ。

 「僕は朝日新聞を『売国奴』とは思いません。当然、彼らは日本を愛していますよ」とストレートに切り出した。

 「朝日が主張したのは戦時中の日本の軍隊は決して良くなかったんだ、ということです。その要因の一つに慰安婦問題があり、追及する過程で『吉田証言』を報じた。でもそれは虚偽だった。それは『売国』行為なのでしょうか」

自身も左派からは「体制の犬」、右派からは「売国奴」などと言われ続けてきたという。「一番すごかったのは靖国神社参拝問題かなあ。『A級戦犯がまつられている以上、首相参拝はダメだ』と言ったら、『田原は国賊だ』という視聴者からの電話やらファクスやらがじゃんじゃん来て。ま、あえて波風を立てるのがジャーナリストの仕事ですからねえ」

 自身への批判はさほど意に介する様子はないが、話題が朝日新聞批判に戻ると声色が沈んだ。

 「売国、国賊、ですか。本来、決してメディアや言論人が使ってはならない言葉です。視聴者からの批判と違って、メディアがこの言葉を安易に使うのはまずいな、と心配しています……」

 それはなぜか。

 「今起きているのは、戦後70年で初めてと言える、重大な社会現象と捉えるべきです」。日本政治史に詳しい一橋大名誉教授、渡辺治さん(67)を訪ねると、嘆息しながら想像以上に重い言葉が返ってきた。渡辺さんは、売国、国賊という言葉がこれほど“市民権”を得たのは、ごく最近だと見る。

 戦前でいえば、例えば1918年、シベリア出兵など当時の国策を批判した大阪朝日新聞を政府が弾圧し、さらに右翼が襲撃する事件(白虹事件)があった。この時、社長は右翼に縛られ、首に「国賊」と記された布を巻き付けられたが「右翼の活動家の世界でのことで、今の『朝日バッシング』のような社会的な広がりはなかった」という。

 なぜなら、戦前は新聞紙法や治安維持法などの言論弾圧法があり、政府が危険視する言論は国民の目に触れる前に封殺されたからだ。法律で取り締まれないリベラル派政治家に対し、右翼団体が使ったのが「売国」「国賊」という言葉で、現在のようにちまたに氾濫する言葉ではなかった。

 「状況が一変するのは30年代の満州事変以降、政府が国民を戦争に引っ張る時代です。政府は戦争に反対・批判する言論を容赦なく取り締まり、『非国民』『売国奴』というレッテルは、戦争に消極的な言論や言論人に向けられ、マスメディアをより積極的な戦争協力に駆り立てるために使われたのです

 戦後、言論への弾圧法はなくなった。自民党政権も軍事力による海外進出は志向せず、安定的な高度成長を目指した。売国、国賊という言葉は、国策面で必要とされなかった。

この言葉を振り回したのは戦前同様、過激な右翼団体だ。記者が殺害されるなどした朝日新聞襲撃事件(87〜88年)や長崎市長銃撃事件(90年)、河野洋平元衆院議長らが脅迫された建国義勇軍事件(2002〜03年)、加藤紘一元自民党幹事長宅放火事件(06年)などの政治・言論テロの犯行声明や脅迫文、裁判陳述で頻出する。

 「そんな言葉を大手メディアが使い出したのは驚くべき事態です。考えてみてください。『オレは売国奴だ、国賊だ』と思っている人がどこにいますか? 『改憲に賛成か反対か』という議論と違い、『売国か愛国か』という議論など成り立ちません。つまりこうした言葉は自由な言論を生むのではなく、言論封殺のための暴力でしかない。朝日の誤報問題とは別次元の深刻な問題です」と渡辺さんはショックを隠さない。

 田原さんも「売国とか国賊という言葉は相手を問答無用でたたきつぶし、致命的な打撃を与える言葉です。このような言葉を吐くことで、何か自分が『正しい側にいる』『勝った』ような気になるのでしょう。本当に自分の主張や考えが正しい自信があるのなら、こんな言葉は決して使いません。特に自由で多様な言論によって立つメディアが使う言葉ではない。メディアの自殺でもあるし、民主主義の否定につながりかねません」と目を怒らせた。

 批判と罵倒は異なる。メディアやジャーナリスト、作家らが、「言論を封殺する罵倒語」を使えば、それは当然市民にも広がっていく。

 ◇高橋源一郎さん「容認こそ問題」

 作家、高橋源一郎さん(63)は「批判とレッテル貼りは違う」と指摘する。「『国家の敵』は世界共通のレッテルで、みんなでたたくいじめと同じです。昔はこんなことをやっていいのかという意識があったが、今は一線を越えてしまっている」。さらに「売国とか国賊とか反日とかいう言葉へのメディアの批判が少ないことに驚いています。批判しないことは容認することと同じだからです。僕ははっきり言ってこっちの方が重大な問題だと思う。かつてナチスについて、ドイツの知識人はまともに相手せず批判しなかった。そのナチスは政権を取ってしまった。日本だって、言論を圧殺するような連中が政権を取らないとは限りません」。

朝日新聞の論壇時評(9月25日付)で高橋さんは「誤報は擁護のしようもないし、批判を受け入れるべきだ」と書いたうえで、米国の作家、スーザン・ソンタグさん(04年死去)を紹介した。彼女は01年の米同時多発テロ直後「まず、共に悲しもう。だが、みんなで一緒に愚か者になる必要はない」「現実を隠蔽(いんぺい)する物言いは、成熟した民主国家の名を汚す」と反撃にはやる米国民をいましめた。

 「ソンタグは国中から怒りを買い『売国奴』と見なされましたが、それでも発言を続けた。母国が憎悪にかられて暴走するのを止めたかったのでしょう。僕は彼女のような人が愛国者だと思う」

 そのうえで「従軍慰安婦についての朝日の誤報が日本をおとしめた」という論調に一番違和感があると強調する。「戦後の朝日新聞がだれかを殺したり、女性を暴行したりしたでしょうか。日本を本当におとしめたのは、軍事力をもって他国に踏み入った戦前の日本国と日本軍ではないですか? 批判すべき先を間違っていませんか

 淡々と、自らに言い聞かせるように続けた。「ソンタグが9・11直後、即発言できたのは日ごろから自分の思想を鍛えていたから。今こそ、私たちの知恵と勇気が試されているのではないでしょうか」

 言葉は、発する者を映す。心して選ばねばなるまい。【吉井理記】




140524 反面教師。敵の思考パターンを知ろう!:読売新聞の痛過ぎる社説を読む。朝日・毎日の社説も併載!

2014年10月19日 15時03分04秒 | 考える資料
2014年05月24日 14時53分55秒 | 考える資料
5月21日の福井地裁による大飯原発3、4号機再稼働差し止め判決について。

つぶやきです。: 敵の声に耳を傾けましょう。しかし、これはちょっと…、ひど過ぎる…。

大飯再稼働訴訟 不合理な推論が導く否定判決   読売新聞【社説】2014年05月22日付 

 「ゼロリスク」に囚とらわれた、あまりに不合理な判決である。
 定期検査のため停止している関西電力大飯原子力発電所3、4号機について、福井地裁が運転再開の差し止めを命じる判決を言い渡した。原発の周辺住民らの訴えを認めたものだ。
 判決は、関電側が主張している大飯原発の安全対策について、「確たる根拠のない楽観的な見通しのもとに成り立ち得る脆弱ぜいじゃくなもの」との見方を示し、具体的な危険があると判断した。
 「福島第一原発の事故原因が確定できていない」ため、関電は、トラブル時に事態把握や適切な対応策がとれないことは「明らか」とも一方的に断じた。
 昨年7月に施行された原発の新たな規制基準を無視し、科学的知見にも乏しい。
 判決が、どれほどの規模の地震が起きるかは「仮説」であり、いくら大きな地震を想定しても、それを「超える地震が来ないという確たる根拠はない」と強調した点も、理解しがたい。
 非現実的な考え方に基づけば、安全対策も講じようがない。
 大飯原発は、福島第一原発事故を受けて国内の全原発が停止した後、当時の野田首相の政治判断で2012年7月に再稼働した。順調に運転し、昨年9月からは定期検査に入っている。
 関電は規制委に対し、大飯原発3、4号機が新規制基準に適合しているかどうかの審査を申請している。規制委は、敷地内の活断層の存在も否定しており、審査は大詰めに差し掛かっている。
 別の住民グループが同様に再稼働の差し止めを求めた仮処分の即時抗告審では、大阪高裁が9日、申し立てを却下した。
 規制委の安全審査が続いていることを考慮し、「その結論の前に裁判所が差し止めの必要性を認めるのは相当ではない」という理由からだ。常識的な判断である。
 最高裁は1992年の伊方原発の安全審査を巡る訴訟の判決で、「極めて高度で最新の科学的、技術的、総合的な判断が必要で、行政側の合理的な判断に委ねられている」との見解を示している。
 原発の審査に関し、司法の役割は抑制的であるべきだ、とした妥当な判決だった。各地で起こされた原発関連訴訟の判決には、最高裁の考え方が反映されてきた。
 福井地裁判決が最高裁の判例の趣旨に反するのは明らかである。関電は控訴する方針だ。上級審には合理的な判断を求めたい。


周辺住民や住民グループが<悪者>になり、関西電力が<被害者>になっている。露骨過ぎて笑える。読売新聞が、どちらを向いて新聞を作ってるのかが、すごくよくわかる。2年ほど前、朝日新聞に嫌気がさし、しばらく朝日を止めて、読売をとってみた時期があるが、二ヶ月ほどで耐えきれなくなって朝日に戻した記憶が蘇ってきた。別に朝日に満足しているわけではないが、この読売の社説はひど過ぎる。これを福島や宮城、北関東(栃木・群馬や千葉)と関西(滋賀・京都・大阪・兵庫)などの購読者に読ませるつもりなのか。正直、読売新聞は、<読者>ではなく<原子力ムラ>に丸抱えしてもらって生きていくつもりのようだ。読売新聞では、もはや「社会の木鐸」という言葉は死に果てている。

ついでに、同じ日の朝日新聞朝刊の社説も載せておく。これほど見方に違いがあるのも珍しいことだ。メディア・リテラシーの例としては、絶好の教材になるだろう。

大飯差し止め 判決「無視」は許されぬ   朝日新聞【社説】2014年5月22日(木)付

 東京電力福島第一原発事故の教訓を最大限にくみ取った司法判断だ。電力事業者と国は重く受け止めなければならない。
 関西電力大飯原発3、4号機(福井県おおい町)をめぐり、福井地裁が再稼働の差し止めを命じた。
 関電側の想定をはるかに上回る地震の可能性が否定できず、少なくとも250キロ圏内の住民に重大な被害を及ぼす恐れがある、と判断した。
 裁判長は、福島原発事故で15万人が避難を余儀なくされ、入院患者ら60人の関連死があったことに言及し、「原発技術の危険性の本質と被害の大きさが明らかになった」とした。
 そして「同様の事態を招く危険性が万が一でもあるか。裁判所がその判断を避けることは、最も重要な責務を放棄するに等しい」と述べた。
 原発は専門性が高く、過去の訴訟で裁判所は、事業者や国の判断を追認しがちだった。事故を機に、法の番人としての原点に立ち返ったと言えよう。高く評価したい。
 特筆されるのは、判決が、国民の命と暮らしを守る、という観点を貫いていることだ。
 関電側は電力供給の安定やコスト低減を理由に、再稼働の必要性を訴えた。これに対し、判決は「人の生存そのものにかかわる権利と、電気代の高い低いを同列に論じること自体、法的に許されない」と断じた。
 「原発停止は貿易赤字を増やし、国富流出につながる」という考え方についても、「豊かな国土に、国民が根を下ろして生活していることが国富だ」と一蹴した。
 関電は控訴する方針だ。再稼働を望んできた経済界や立地自治体の反発も必至だろう。しかし、福島原発事故で人々が苦しむのを目の当たりにした多くの国民には、うなずける考え方なのではないか。
 事故後、独立性の高い原子力規制委員会が設置され、新しい規制基準が定められた。安倍政権は規制委の審査に適合した原発は積極的に再稼働させていく方針を示している。
 だが、判決は「自然の前における人間の能力の限界」を指摘した。「福島原発事故がなぜ起き、なぜ被害が広がったか」にすら多くのなぞが残る現状で、限られた科学的知見だけを根拠に再稼働にひた走る姿勢を厳に戒めたといえる。
 事業者や国、規制委は、判決が投げかけた疑問に正面から答えるべきだ。上級審での逆転をあてに、無視を決め込むようなことは許されない。


この違いを観れば、俺が読売新聞から逃げ出した理由は明白だろう。またまたついでだ!毎日新聞の社説も載せてみた。これは俺自身の記録のためです。池上彰さんは、毎日こういう新聞の読み比べしてるんだろうなあ。


大飯原発差し止め なし崩し再稼働に警告   毎日新聞【社説】2014年05月22日付

 福井県にある大飯原発3、4号機の運転差し止めを住民が求めた訴訟で、福井地裁は、関西電力に対し再稼働を認めない判決を出した。判決の考え方に沿えば、国内の大半の原発再稼働は困難になる。判決は、再稼働に前のめりな安倍政権の方針への重い警告である。
 2011年3月の東京電力福島第1原発事故後、差し止め訴訟で初めての判決だ。住民の生命や生活を守る人格権が憲法上最高の価値を持つと述べ、「大災害や戦争以外で人格権を広範に奪う可能性は原発事故のほか想定しがたい。原発の存在自体が憲法上容認できないというのが極論にすぎるとしても、具体的危険性が万が一でもあれば、差し止めが認められるのは当然」と結論付けた。
 住民の安全を最優先した司法判断として画期的だ。福島第1原発事故で、250キロ圏内の住民に対する避難勧告が検討されたことから、大飯原発でもその圏内の住民に人格権侵害の恐れがあり、原告になれるという判断も示した。
 関電側は控訴する方針で、上級審が改めて判断する。この地裁判決が確定しない限り、原子力規制委員会の安全審査に適合すれば運転再開は可能だ。だが、司法判断を無視し、政府が再稼働を認めれば世論の反発を招くだろう。
 東日本大震災は、地震大国・日本に想定外の地震はないという現実を突きつけた。判決はそれを踏まえて、大飯原発3、4号機について、地震の際の冷却機能と放射性物質を閉じ込める構造に欠陥があると認めた。原発の持つ本質的な危険性に楽観的すぎ、安全技術や設備は脆弱(ぜいじゃく)だという判断だ。
 訴訟で関電側は、再稼働が電力供給を安定させ、コスト低減につながると主張した。これに対し判決は「運転停止で多額の貿易赤字が出たとしても国富の流出や喪失というべきではない。豊かな国土とそこに根を下ろした国民の生活を取り戻せなくなることが国富の喪失だ」と退けた。
 いったん原発事故が起これば、多数の住民の生命を脅かす。判決が「万が一の場合にも放射性物質の危険から国民を守るべく万全の措置を取らなければならない」と電力事業者側に強く求めたことも納得できる。
 判決は「福島第1原発事故は最大の公害、環境汚染。環境問題を運転継続の根拠とすることは筋違いだ」とも断じ、原発の稼働を温暖化対策に結びつける主張を一蹴した。共感する被災者も多いのではないか。
 安倍政権は、安全審査に適合した原発の再稼働を進める方針を示している。だが、震災を忘れたかのように、なし崩し的に運転再開しないよう慎重な判断をすべきだ。


141017 日刊ゲンダイの主張に全く同感! 産経の「言論の自由侵害」抗議はお門違いの笑止千万だ!

2014年10月17日 20時19分38秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
10月17日(金):

本当に知りたい必要な記事は、マスメディアで得にくくなっている。新聞は、消費税の軽減税率適用を意識しているのか、当然、報道されるべき政府批判や原発事故関連情報、違憲問題、NHK委員の問題発言への追及などが報道されない。

読売・産経とNHKがほぼ政府広報(「大本営発表」)に堕して、極右自民の“犬”になり下がって、今にも愚かな戦争を煽りそうな勢いだ。まさにファシズムの手先だ。朝日新聞も衰え、舌鋒がゆるくなっている中で、日刊ゲンダイの良質な批判精神は大変貴重である。

以下の記事も、全くもって同感である。良識ある正論と言えるだろう。このぐらいの当然な論理は、購読している朝日新聞でこそ読みたいのだが、今の朝日は池に落ちた犬のように元気が無い。肩で息をしている。支えるしかないが、社会の木鐸の役割を果たせていない。

今や社会の木鐸の役割を、日刊ゲンダイ「阿修羅」などのネット投稿サイトに頼るところ大である。

ソウル前支局長起訴で抗議声明 産経新聞の不可思議な主張
                              2014年10月16日 日刊ゲンダイ

「民主主義各国が憲法で保障する言論の自由に対する重大かつ明白な侵害だ」――。

 産経新聞が熊坂隆光社長名で、韓国政府に抗議声明を出した。ソウル中央地検が8日、朴槿恵大統領の名誉を毀損したとして産経の加藤達也前ソウル支局長(48)を在宅起訴したことに対する抗議である。サンケイグループの夕刊フジも14日、「身内」の加藤氏を独占インタビュー、加藤氏は「(私には)謝る理由がない」「朴政権は、言論の自由に狭量だ」と語っていた。

 確かに、今度の問題における朴政権の横暴はムチャクチャだ。問題となった産経の記事<朴大統領が旅客船沈没当日、行方不明に……誰と会っていた?>は、韓国最大手紙「朝鮮日報」がすでに報じた内容をまとめたもの。それなのに朝鮮日報には「おとがめなし」で、産経だけが狙い撃ちにされたのである。これじゃあ、言論の自由も何もないのだが、とはいえ、産経が声高に「言論の自由の侵害」を叫ぶのにはちょっと違和感を覚えてしまう。

日頃から「嫌韓報道」をこれでもかと続けているのがサンケイグループの活字メディアだからだ。夕刊フジなんて「朴大統領『無礼者!!』」(3月26日)、「韓国『三流国家』」(4月21日)などと連日、1面の大見出しで叩いている。関東大震災時の朝鮮人虐殺を取材するライターの加藤直樹氏は「毎日その見出しを目にすることでレイシズム(人種差別)が娯楽になって刷り込まれていく」と指摘していたが、韓国叩きの執拗さは欧米メディアでも話題に上っているほどだ。

■「言論の自由」とは別次元の問題

 産経の論調の通り、韓国が三流国家でマトモな国でないとすれば、言論弾圧もしょうがないのではないか。その国に赴任する支局長はそれなりの覚悟を持ってしかるべきだろう。日頃は韓国の後進性を揶揄するクセに、こういう時には「民主主義国ニッポン」の論理で抗議するのは、手前勝手というものだろう。

保守論客で知られる「月刊日本」主幹の南丘喜八郎氏はこう言った。
「今度の一件は、韓国の司法当局のやり方がおかしいのは言うまでもありません。ただし、その背景に何があるのか。韓国の事情に思いを馳せることなく、一方的に『けしからん』と言うのにはチョット違和感を覚えます。日本は日韓併合で韓国民を踏みにじってきた過去がある。自民党や右派の人々には日韓併合によってインフラ整備をしてやったのは日本であって、今の韓国の繁栄は自分たちのおかげだという思い上がりがある。そうした考えが韓国蔑視につながり、嫌韓論が広がっている。支局長はその風潮に乗ったわけでしょう? 覚悟を持って書いた記事じゃないと思う。そうしたらソウルの司法当局が動いたわけです。戦前の国家主義団体『玄洋社』には韓国同等論を唱える人もいました。韓国蔑視の風潮を顧みず、拳を振り上げるだけでいいのでしょうか」

これが冷静な意見だろう。

 なにも産経だけじゃないが、昨今の右寄りメディアの狭量ぶりは異常な気もする。朝日が「吉田証言」を取り消すと、「朝日を潰せ」の大合唱だ。右も左も含めて、自由にモノを言える社会こそが「言論の自由」なのに、「潰せ」とは暴力的で恐ろしい。そのくせ、都合のいい時にだけ「言論の自由」を持ち出す身勝手は、随分、便利な「言論の自由」だ。今度の措置が言論の自由とは全く別次元の政治判断で行われていることは、産経だって百も承知だろう。この抗議には失笑してしまう。


※まったくもってその通り!俺だって朴クネは大嫌いだが、産経の慌てぶりは身勝手で見苦しい限りだと思う。 もみ

4 012 大岡昇平「野火」(新潮文庫;1951)感想 特5

2014年10月17日 01時16分29秒 | 一日一冊読書開始
10月17日(木):

189ページ  所要時間 3:30    ブックオフ50円

著者42歳(1909~1988;79歳)

大変な地雷を踏んでしまった。既に日付をまたいでしまって感想を書く時間が限られてるのが悔しい。

戦場はレイテ島である。「レイテ戦記 全三巻」の下巻をまだ読めていないが、作中のレイテ島について土地勘が働き、読み易かった。本書は、ちょうど下巻と重なるあたりの内容だと思う。即ち、オルモックの陥落前後から、日本軍が潰走し、総退却のためにパロンポンに集結しようとするところである。

主人公は、小泉兵団村山隊歩兵を結核のため追放された田村一等兵である。作中では、一人称の“私”で語られる。日本軍崩壊前後から、ひりひりするような死の気配の中、逃げまどう主人公が、敵の陰に怯え、飢えに苦しみ、山中を彷徨するなかで、無辜の比島女性を撃ち殺し、原罪を背負い込む。手に入れた塩と引き換えに、小部隊に拾われてパロンポンを目指すが、米軍の圧倒的武力を前にして“降伏”を念慮するが、敗残の日本兵同士が互いを監視し合い、また何者かの目を感じて実現しない。

出会った多くの日本兵が次々と死ぬ中で、パロンポン行きを諦めて、逆方向の山中に逃れた“私”は、そこらじゅうにある日本兵の死体のなかに、臀部などを齧られたものがあることに気付く。「山中には、死肉をあさる犬もいないのに…」。やがて、“私”は、多くの日本兵たちと同様に、極限の飢餓状態に陥るが、互いが相手の弱り方(「もうちょっとで死ぬかどうか」)を窺い合ってしまう。

人肉食への誘惑を嫌悪し排除しようとしながら、格好の死にかけた将校と出会い、その死に立ち会う。その将校は、亡くなる間際、締まった筋肉の胸をさして「食べてもいいよ」という。しかし、その言葉がかえって“私”にブレーキをかけるが、山ビルたちが、その将校の死体にたかって吸った血を、狂ったように引き剥がした山ビルを絞ってその血をすすってしまう。もはや、間接的には人肉食をしてしまっている。

いっそ、直接食べてしまおうと、右手に軍刀をかざした時、不思議なことが起こる。左手が勝手に右手首を持って、人肉食を止めたのだ。大いなる何者か(神か?)の意志を感じ、敢然と人肉食を放棄するが、その後には、死の覚悟と極限の飢えの苦しみによる彷徨の果てに死を迎える。

しかし、その直前に、永松に助けられ「猿」の肉を与えられる。本当は、何の肉なのか(つまり、さ迷う日本兵を狩りした人肉)を知りながら、“私”はそれを食べて回復する。永松が大勢の日本兵を殺して肉に捌くキル=サイトを発見した“私”は、永松から同行の安田との殺し合い(その後、人肉食)を持ちかけられる。安田を殺した永松を、“私”は殺すが、肉は食べなかった。

その後、記憶が無くなり、10日後気付いたときには、比島ゲリラにつかまり、頭蓋骨折で米軍の医療を受け、捕虜となり日本に送り届けられ、妻と再会するが、5年後、精神病院で治療の一環として、この作品を書いている。

極限の場での「人肉食」をこれほどまでに描き切った作品に出会うのは、戦場ではないが、竹田泰淳の「ひかりごけ」以来であり、本書はそれをはるかに凌駕する作品になっている。戦場でカニバリズムがあったことは、漠然と知識では知っていたが、これほどリアルで、切迫した事実を教えられた作品は初めてだ。

本書は、現代日本人が読むべき必読の書だ。「レイテ戦記 全三巻」が、俯瞰的な戦争(負けいくさ)の記録であるとすれば、レイテ戦記は、時と場所と戦死者の数字で示された記録だとすれば、「野火」は、レイテ島で存在した兵士たちの単に数字で示すだけではいけない、疎かにされてはいけない無数の顔と意志を持った兵士一人一人の記録である。

司馬遼太郎の「坂の上の雲 全八巻」を読んで熱くなった人は、必ず、大岡昇平の「レイテ戦記 全三巻」、「野火」、「俘虜記」を読んで、バランスをとるべきだという言葉が、今はとても良く分かる。

・この田舎にも朝夕配られて来る新聞紙の報道は、私の最も欲しないこと、つまり戦争をさせようとしているらしい。現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼らに欺されたいらしい人たちを私は理解できない。おそらく彼らは私が比島の山中で遇ったような目に遇う他はあるまい。その時彼らは思い知るであろう。戦争を知らない人間は、半分は子供である。171ページ

4 011 高橋源一郎「一億三千万人のための小説教室」(岩波新書;2002) 感想4

2014年10月15日 23時47分00秒 | 一日一冊読書開始
10月15日(水):

215ページ  所要時間 2:20  ブックオフ108円

著者51歳(1951生まれ)。横浜国立大学除籍。作家。

一度読みでは、しっくりこない。読み返せば、もっと本書の良さを感じることができただろう。

いかなる小説(らしきもの)も敬遠・忌避せず、きちんと受けとめて面白がる姿勢を持つべきである。そうすれば、「ほら自分のなかに今まで無かった新しい見方ができるようになる!」と強調する。でも、すぐに書き始めてはいけない。本当に書きたい、書くべきものを「つかまえられる」までは、じっと待ち続けるのだ。

実際に、小説を書く準備としては、優れた作家で自分にあったものをマネする。徹底してマネする。作家の目線をとことん身につけてマネをすることが重要だ。マネをすることによって対象に対する理解が本当に深まるのだ、と説く。実際、著者自身も含めて、著名な作家が如何にマネを自作にとりいれているかの実例が示される。また、手本とするに適当な作家と作品をたくさんリストアップして、さらにマネしてはいけない作家も紹介されている。これは一見の価値ありである。

最後に、世間で小説とされるものを狭い宇宙とし、「小説」の世界はもっともっと自由で広々とした世界なのだとまとめて見せた上で、「まず作品を書くことです。さあ、みなさんの作品を作りましょう。」として終わる。

世間一般の技術論的な「小説の書き方」本を「何の役にも立たない」とダメ出しをするのは、十分に納得できるが、だからと言って本書によって示された小説論はあまりにも「学問に近道なし」の王道過ぎて、ちょっと肩透かしを食った気がする。「小説教室」ではなく、「小説の愉しみ方教室」とでも命名した方がよい。「作り方」よりは「鑑賞の仕方」の方がメインに思えた。

141013 映画「あなたへ」(降旗康男監督、高倉健主演;2012年) 感想5   ※健さんの映画は特別!

2014年10月13日 16時17分36秒 | 映画・映像
10月13日(月)休日:

 久しぶりに、録画してあった高倉健の映画を観た。若い時から健さんの映画には、強い憧れと尊敬を持っていた。俺にとって、健さんは特別に神聖な存在だった。健さんとはいえ、やはり老いは隠しきれない。しかし、最後まで観て満足を得た。やはり健さんは健さんである。きちんと自分の出るべき作品を選んでいる。それを監督はじめ、選び抜かれた一流の俳優陣が支えている。佳品だけど、それでは終わらない作品になっていた。daijinakotoha iwanaidehyougennsurunogayoi!

 富山県で定年を過ぎた嘱託の技術指導刑務官(高倉健)が、晩婚で結ばれ15年を過ごした慰問童謡歌手だった妻(田中裕子)の死(53歳:悪性のリンパ腫)後、NPOから2通の遺書を示され、一通はその場で長崎の平戸に郵送される。「故郷の平戸の海に散骨してほしい」という妻の遺書を読み、もう一通の遺書を受け取り、散骨をするために老刑務官はワンボックスカーを小じんまりしたキャンピング仕様に木工技術で改造して、平戸へ旅立つ。

 途中、妻との日々を思い出し、妻の思いを推し量る1200kmの旅である。途中、全国の物産展を回る北海道のイカ飯実演販売員2人に出会う。11年目の主任(草なぎ剛)と4年目の社員(佐藤浩一)の年齢が明らかに逆転していて訳ありである。

 同じく妻に先立たれてキャンピングカーで旅をする元国語教師の男(北野武)から「放浪」と「旅」の違いを「目的があるかないか」「帰るところがあるかどうか」「山頭火は放浪、芭蕉は旅」と教えられる。二度目に会ったとき、その男は車上荒らしの容疑で逮捕されるが、山頭火の句集を刑務官に残す。

 多少厚かましかったり、押し付けがましかったり、わけありの感じがする旅人との出会いもあり、京都、大阪、竹田城、下関、門司を経て、平戸に着く。

 妻の故郷平戸での散骨は、漁港で強く忌避され、折からの台風の接近もあってなかなか実現しない。小さな食堂の母娘(余貴美子・綾瀬はるか)の懇意で散骨ができる運びになるが、結婚をひかえた娘の父は7年前に海で遭難して行方不明になっていた。「海難事故では、死体が見つからなくても3カ月で死亡認定が出る」。保険金で借金を返し、小さな食堂を開いた。

 鄙びた平戸の町を歩きながら、朽ちかけたような写真館に飾られた古い写真に演壇で歌う子供の時の妻の写真を発見する。思わず「ありがとう」の言葉が口をつく。食堂の母が、娘の結婚写真を持って、「一緒に海に流して欲しい」と頼みに来る。刑務官は、あることを察する。散骨を引き受けてくれた偏屈な老漁師(大滝秀治)は、よき風格を滲ませていた。

 散骨を終えたあと、富山に戻る刑務官は途中で実演販売の2人と再会する。気真面目な老刑務官は、融通が利かない役人ではなく、自分には厳しいが、他人の哀しみに優しい人間だった。

 このみちや いくたりゆきし われはけふゆく  種田山頭火

 長塚京三、原田美枝子、浅野忠信ほか、本当に贅沢な脇役陣だった。

150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)