もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

141130 「バイバイ原発・京都」のブログから関西電力への申し入れに賛同!、転載する。

2014年11月30日 15時16分24秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
11月30日(日):

 

「脱原発情報サイト 「バイバイ原発・京都」のブログ」から関西電力への申し入れを、大いに賛同して転載する。


  申 入 書

高浜・大飯原発の再稼働をやめてください。
そして40年超えのあまりにも危険な劣化原発である
高浜1・2号機の運転申請をやめてください。

関西電力株式会社
代表取締役社長 八木 誠 様

 東京電力株式会社の引き起こした福島第一原発事故から4年近くも経つというのに、事故収束のめどはまったくたちません。汚染水の流出を止めることもできず、原発近隣ではいまも住民が放射能汚染にさらされ、十数万人もの人々が避難を強いられ、健康への不安にさらされて続けています。
 御社は、福島事故原因の究明すらできていないというのに、高浜原発3・4号機、大飯原発3・4号機を再稼働しようとしています。
 原子力規制委員会の田中俊一委員長自身が、新規制基準適合性審査に合格しても原発が安全だとは言えないと言っています。高浜原発3・4号機では通常のウラン燃料ではなく、安全余裕が少なくなるプルトニウムが多いMOX燃料を燃やすプルサーマルを実施する予定であり、地震による両原発の事故の不安もぬぐえません。原発から30キロ圏の住民の避難計画も、要援護者の計画をはじめとして、実効性がある計画はまったく策定できない状況です。原発再稼働など、暴挙以外のなにものでもありません。
 しかも御社は、あろうことか全国で初めて、稼働から40年を超える高浜原発1・2号機の20年運転延長を、来春にも申請しようとしています。ただでさえ危険だというのに、高経年化して劣化した原発をも運転するなど、絶対に認めることはできません。会社の経営の失敗のつけを住民に押しつけることは絶対に許されません。御社はいったい何基の原発を再稼動するつもりなのでしょうか? いったいいつまで御社の置かれている経営状況を見直さず、高い原発依存を続けるつもりなのでしょうか?
 大飯原発差止訴訟の福井地裁判決が述べているように、「経済活動の自由」は「生命を守り生活を維持するという人格権の根幹部分」よりも「劣位に置かれるべきもの」です。<おカネよりも命が大事>なのであり、住民の命と生活を軽視した再稼働など許されません。
 若狭の原発で深刻な事故が起きた場合、放射能拡散予測によれば、京都府は南部まで強い放射能汚染にさらされる危険性があります。高浜原発の30キロ圏に居住する住民の人口は、立地自治体の福井県よりも、「被害地元」である京都府のほうがはるかに多いのです。それにもかかわらず、御社は京都府と立地自治体並みの安全協定を結ぼうともしません。
 京都府では、北部の日本海に面する「海」の幸、中部の豊かな「森」、そして南部で生産される「茶」の文化を守り、伝統を受け継ぐ中で府民の豊かさを生み出していくことを大切にしています。若狭の原発は一年以上すべて止まっているにもかかわらず、京都府を含む関西への電力供給は安定しています。一企業が、自らの利害のために原発再稼働によって市民生活の豊かさを脅かすことは許されません。これ以上、京都府民の命と生活を軽視することはやめてください。

(1)高浜・大飯をはじめ、御社のすべての原発を再稼働させないこと
(2)高浜原発1・2号機をはじめとする、御社の40年を超える高経年化原発の運転延長のための申請を行わないこと
(3)京都府および隣接自治体と、立地自治体並みの安全協定を直ちに結ぶこと

以上、強く申し入れます。

<連名> 50音順 2014年11月17日現在 (以下略:文中の強調箇所はもみさんによる)


おまけ:こんな風になったら良いのになあ…

Election Uncertainty (11月 26, 2014 2:21:Bloomberg)

The yen will also be influenced by the Dec. 14 snap election called by Abe, said Sakakibara. The premier dissolved parliament last week to seek a fresh mandate for his policies after deciding to postpone a planned second increase to the sales tax with the economy slipping back into recession.

While Abe’s Liberal Democratic Party remains the favorite to win, its support has dwindled, which may threaten the monetary easing that has fueled the yen’s losses. Backing for Abe’s cabinet has fallen 3 percentage points to 47 percent the past two weeks, public broadcaster NHK reported yesterday, citing a Nov. 22-24 phone survey of 1,316 people.

“The LDP will lose more seats than most forecast, causing volatility,” Sakakibara said. “If the LDP loses 100 seats, Abe would have to step down to take responsibility for the failure of Abenomics and his misjudgment of dissolving the parliament. The outcome of the election will probably be a big surprise for many.”

141130 民主党野田汚物はTVに出るな!大飯原発再稼働強行、「大きな音だね」を忘れてない!虫唾が走る!

2014年11月30日 15時12分37秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
11月30日(日):

俺は今回の総選挙で、比例区は「社民党」だが、小選挙区は「民主党」に入れるつもりだ。選挙とは、理想を追うのでなく、最悪を避ける選択行動だから仕方がない。

しかし、TVに野田汚物の威圧的な詐欺師面が何度も出て来ると、2012年6月の<大飯原発再稼働>強行と国会前の原発再稼働反対デモを「大きな音だね」と言い捨てたことに対する激しい怒りと生理的嫌悪感がフラッシュバックして蘇ってくる。カテゴリー「国家の信頼メルトダウン。民主党を打倒せよ(36)」で告発した民主党への怒りの数々が蘇ってきて、小選挙区を白紙で出してしまいそうになる。 共産党には入れない。

野田汚物は、大飯原発再稼働強行と「大きな音だね」を国民の多くがまったく忘れていないことを思い知れ!民主党の顔だと勘違いして、オモテに出て来るな!千葉の自分の選挙区でこそこそやっていろ!民主党は、野田汚物前原詐欺師長島戦争屋をTVなどのオモテに出すな。仙石原発屋は、引退したのでよしだ。

民主党が、安倍晋三や片山さつきよりもマシなことは認めるが、生理的嫌悪感だけは別儀だ。反原発から見れば、野田汚物だけは許せない。財務省の犬である藤井裕久と組んで<マニフェスト違反の消費税増税>に踏み切ったことまで思い出されてきた。もうこれ以上は、考えたくない…

130518 News23 多事争論「愛国主義は悪党の最後の隠れ家である」(051027)

2014年11月30日 13時51分55秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
2013年05月18日 16時48分06秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」

5月18日(土):

 昨日の気分の延長で思考が動いている。極右妄言政治屋集団・橋下維新と憲法改悪姑息・安倍晋三自民に思う。

 日本国憲法は、前安倍政権において、「有権者総数の過半数ではなく、有効投票数の過半数でよい」という国民投票法案改悪により致命的ダメージを受けている。これは、有効投票数が40%であれば、有権者総数のわずか20%超で憲法改悪が可能だということだ。

 こんな危機的状況にあることを、我々の多くが気付いていない。それどころか、橋本維新や、安倍自民の極右勢力が活動を強化しているのだ。戦後日本は、最大の危機を迎えているのだ。そして、こんな状況をつくったのが、偽リベラルの民主党の野田汚物前原詐欺師であることも忘れてはいけない。

 俺が大切にしたい言葉に「愛国主義は悪党の最後の隠れ家である」というのがある。サミュエル・ジョンソン(1709~84)というイギリス人の言葉だそうだが、初めて知ったのは、今年の4月18日(木)に読んだ0059冊目の筑紫哲也「若き友人たちへ」(集英社新書;2009)によってである。

 この言葉を検索したら、偶然、筑紫さんの「多事争論」にヒットした。味わい深い内容なので、転載しておく。

News23 多事争論 2005年10月27日(木)
「隠れ家」

自分の郷土や文化や同胞を愛するというのは人間の自然な感情ですが、一方では「愛国主義は悪党の最後の隠れ家」と言うことわざもあります。国のリーダーたちが国内の行き詰まりから国民の目を反らすために、対外的な冒険に出て行くということも歴史でいろんな例があります。

そういう中で愛国心が健全で自然であるためには、いくつかの条件と警戒心が必要だと私は思います。例えば、不安や怒りの捌け口として愛国心に立てこもるというのは控えたほうが良い。あるいは、国を愛しているからこそ、その国の「あり方」について厳しいことを言う人間というのは当然出てくるわけですから、愛国心の表現の仕方には、いろんな「あり方」があるということを認める。ひとつの「あり方」を強制すべきではない、ということも考えるべきだと思います。

そして何よりも外国への排他的な、敵対的な手段として愛国心というものを弄んだり、固執するというのは、あまり健康なものとは遠くなるだろうと思います。

それから最後に国家と言うのは国民の利益と安全を守るためにあるわけで、その逆ではない。国家に奉仕する、あるいは国家のために犠牲というものを国民に強いるという形の愛国心というのは、やはりいろんな問題を生むだろうと思います。

もちろん、いろんな議論があっても良いわけですが、何よりもこの問題を「目が吊り上がった強ばった形」で議論するのではなくて、もっと自然に議論して欲しいと思います。


 橋下が、アメリカからの非難に対して居直って、我が身の保身のために<日本人のナショナリズム>を煽って、自らを正当化し、言い逃れようとしている姿を見させられていると本当に情けなくなる。
 世の中に絶対に負けない者がいる。己の非を認めない恥知らずな卑怯者だ。人間、恥を忘れたら終わりだ。ましてや、自らを保つためにナショナリズムを利用しようとする政治屋がいるとすれば、そいつはもう終わっている。
 「筑紫さんが、ご存命だったら、橋下の妄言安倍の憲法改竄について、何と言って批判しただろうか…」心から声を聞きたいと思う。


※以下に、ウィキペディアに載っていたサミュエル・ジョンソンの語録を載せておく。
「腐敗した社会には、多くの法律がある。」
「政府は我々を幸せにすることはできないが、惨めな状態にすることはできる。」
「結婚は多くの苦悩を生むが、独身は何の喜びも生まない。」
「怠け者だったら、友達を作れ。友達がなければ、怠けるな。」
「あらゆる出来事のもっともよい面に目を向ける習慣は、年間1千ポンドの所得よりも価値がある。」
「彼の死を悲しんではならない。彼のようなすばらしい奴と出会えたことを喜ばなくてはならない。」
「過ぎ行く時を捉えよ。時々刻々を善用せよ。人生は短き春にして人は花なり。」
「ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者だ。ロンドンには人生が与え得るもの全てがあるから。」(ジョンソンの言葉で最もよく引用される言葉)
「愛国心は卑怯者の最後の隠れ家」
「地獄への道は善意で舗装されている。」
「人生において新しい知人をつくらずにいると、やがて独りぼっちになるでしょう。閣下、人は友情を常に修復し続けなければなりません。」
「信頼なくして友情はない、誠実さなくして信頼はない。」


※120313(2012年3月13日火曜日)の俺のブログで引用した記事を再掲載する。

秋原葉月さんのブログで以下のような橋下批判を発見した。世の中、捨てたものじゃないですね。
【ニーメラーの警句、日本バージョン 】(2010/04/18)
「彼(橋下大阪府知事)が保育園の芋畑を無惨に掘り起こし、母子家庭の女子高生を泣かせたとき、彼を拍手喝采した人々がいたが、なにもしなかった/ついで彼は公務員を攻撃し、君が代を強制した。私は前よりも不安だったが、公務員ではなかったから何もしなかった。/ついで地方主権の名のもとに道州制が導入され、地方は財界と新自由主義の食い物になり、貧困層が増大してどうしようもなくなった。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。/ふくれあがった彼らははついに憲法を攻撃した。私はついに動いた―しかし、それは遅すぎた。」

※秋原葉月さんのブログは、本日の一番の良き発見・収穫でした!。私は、トラックバック他、簡単な技も使いこなせませんので、言葉で推薦します。「是非、秋原葉月さんの良質なブログ「Afternoon Cafe」を訪れてみて下さい。」私も、今後折に触れて、勉強させてもらいにいくつもりです。

140902 池澤夏樹さんのレジスタンスに賛成!

2014年11月30日 13時29分54秒 | 考える資料
2014年09月02日 21時42分48秒 | 考える資料
9月2日(火):
(終わりと始まり)過激とユーモアの不足 動け、闘え、笑わせろ 池澤夏樹      朝日デジタル  2014年9月2日16時30分

 夏休み、友人たちは海外各地に遊びに行った。ぼく自身は家を出る余裕などかけらもなかった。
 ロンドンからおもしろい報告が入った。ヴィクトリア&アルバート・ミュージアムで開かれている「不服従のオブジェクト」という展覧会。
 まず会場がいい。イギリスがいちばん元気だった時の女王とその夫君の名を冠した美術館/博物館だから、日本で言えば東京は神宮外苑の絵画館みたいなもの……と言いたいが、あそこはまったく何もしていない。占拠して何かやってやろう、とそそられるようなメッセージをイギリスからもらった。
 「不服従」すなわち市民のレジスタンスである。世界中いたるところで人々は権力に反抗している。選挙だけが意思表示ではない。国民はもっと過激な手段を使ってもいいのだ。
     *
 ロック・オン LOCK―ON という抗議の方法がある。紛争の現場で、固定されたものに自分の身体を縛り付ける。自転車やバイクの盗難防止用に使われるU字型の錠で自分の首と鉄柵などをつなぐ。この展覧会の図録にその方法の詳細が絵解きしてある。
 排除するにはパワー・ツールなどで錠を切断しなければならないが、いやしくも先進国、メディア注視の場で一滴でも流血はまずい。それを見越して抵抗者は塩ビのパイプの中に組み込んだ手錠で身体と鉄柵と結ぶ。外から見えないから警察もうかつに電ノコなど使えない。辺野古あたりで応用できそうだ(と、沖縄から遠い札幌にいるぼくが言うのは無責任か?)。
 この展覧会は抵抗の手段をいくつも具体的に紹介している。どこのホーム・センターでも手に入る材料を使って、最も効果的なアピールを実現するための具体的なアイディア。
 シリア政府に非暴力的に抵抗して殺された青年の肖像をシリア国内に広める方法を見よう。彼の肖像を影絵で作り、厚紙に転写して切り抜いてステンシル(型紙)にする。スプレー缶のペイントを使って国の至るところに彼の顔を広める。
 以下は図録にヒントを得たぼくの案(良い子のみなさんは真似〈まね〉してはいけません)――
 この国の首相をシリア方式で讃(たた)えよう。衆を頼んで憲法をバイパスするこの人の手腕は賞賛に値する。彼の肖像を今はなきナンシー関の皮肉のきつい画法で作って、週刊誌大の厚紙に写して切り抜き、ステンシルを作る。
 高級な和菓子店に行って平たい箱の饅頭(まんじゅう)などを買うと、幅のあるしっかりした紙の袋に入れてくれる。底を切り抜いてステンシルを装着する。それとスプレー缶を持って都心に向かおう。国会議事堂周辺ならば警備が手厚い分だけスリリングだ。
 靴紐(ひも)が緩んだ。手にした紙袋を路上に置いて締め直すついでに袋の底にペイントを噴射。立って歩き始めた後ろの路面にはくっきりと最高権力者の肖像画。後から来る人、その御真影を踏むなよ。
 原発周辺の直線道路に「駐停車禁止」の交通標識によく似た「再稼働禁止」という標識のポールをさりげなく立てる。警察官が駆けつけて撤去するかどうか悩む場面を撮ってネットで広める。実効はないがメッセージは伝わる。
 同じ原理の別の案――紙幣は国家に属する。たまたまあなたの財布の中にあってもあなたの私物ではない。だから、「アベノミクスで価値半減」というでかいゴム印を作って千円札にべたっと真っ赤なスタンプ・インクで押したりしてはいけません。
     *
 落書きは抵抗の手段である。どれほど効果的なことができるかを知りたければ、匿名のグラフィッティ・アーティストとして名高いバンクシー(←検索)の偉業を見てほしい。彼はパレスティナ人を閉じ込めるイスラエルの高い塀に夢のような脱出の絵をステンシルで描く。少女が風船にぶらさがって自由な世界へ飛んでゆく。
 文筆業者としては言いにくいのだが、ビジュアルはやっぱり強い。抵抗の場でアピール力がある。デモとプラカードもいいけれど路面・壁面の版画はもっと効果的。現場とネットを組み合わせよう。
 他の国を見ていると、日本には明らかに過激とユーモアが不足している。
 若い人々よ、動け、闘え、笑わせろ。
 扇動するつもりはないが、この八月九日、長崎で集団的自衛権への抗議の言葉に対して「見解の相違」と明快に言われた安倍氏のお人柄を国民こぞって顕彰・賛美したいという屈折した憤怒の念はなかなか強いのだ。
 「見解の相違」とは同等の立場の者に向かって言う言葉である。あなたはこの国を指揮する立場、政策すべてについて説明責任があるはずだ。税金と電力料金を払っている国民からの異論に対して、しらっとそっぽを向かないでくれ。

141129 アベノミクスは<スタグフレーション><弱者いじめ>!4年の<白紙委任状>渡せば日本は破滅!

2014年11月29日 16時08分58秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
11月29日(土): 

 皆さん、必ず12月14日(日)には投票に行きましょう。投票率を上げましょう。安倍自民党以外の候補者に投票しましょう。お願い申しあげます。m(_ _)m。

 「なぜ俺はこんなに剥きになって<社会正義の実現>を求めているのだろう…?」と時におかしな気分になる。しかし、「世の中なるようにしかならないのだ。そういう行為は無駄だ」とどうしても思えないからやっているとしか言えない。平和憲法を守りたいとリアルに実感を持って思う。弱者に優しい安心して暮らせる日本であって欲しい。原発の再稼働や、集団的自衛権、武器輸出解禁、特定秘密保護法などを絶対に許せないのだ。

 なぜ、戦後営々と築き上げてきた平和国家のあり方を、たかだか5年程度の目先の経済と引き換えにしてどぶに捨てようとするのか。日本の豊かな国土・自然を壊滅的に破壊する危険さに目をつぶってしまうのか。

 気になるネット記事を掲載する。

【田中龍作ジャーナル】:安倍首相街頭に 有権者「アベノミクスの実感ない」 
                   2014年11月28日 23:26
 安倍首相は身振り手振りをまじえ、日本の新聞・テレビでだけ通用するアベノミクスの効果を強調した。
 安倍晋三首相が今夕、新宿駅西口で街頭演説した。事実上の選挙戦がスタートしてから東京で演説するのはこれが初めてだ。
 アベノミクスの是非を問う、とまで言われる今回の選挙。海外の主要経済紙・誌はいずれも「アベノミクスは失敗」と結論づけた。BBCはStagflation(景気後退下のインフレ)と言う恐ろしい経済用語まで用いた。
 日本のマスコミがアベノミクスを持ち上げてきたこともあり、今夕の演説で安倍首相は、アベノミクスがさも順調に行っているかのように強調した―
 「有効求人倍率は20数年ぶりの高い水準になっている」「平均で2%以上給料があがった」「100万人の雇用を作った」・・・いいことだらけだ。
 会社が正規を切って非正規を増やせば、有効求人倍率は増える。給料が上がったのは一部の優良企業だけだ。月給は上がってもボーナスがその分、減っていたりする。
 首相の演説に耳を傾けていた聴衆に聞いた―
 60代の不動産業者(男性・府中市)は「自分は株を買っていないので(アベノミクスを)実感できない」と語った。
 「ニュースでは(アベノミクスが)いいように伝えられているが、景気回復の実感はない」。こう話すのは会社員の男性(20代・正規社員)だ。
 東京選出の前衆院議員の再選もかかる。野党共闘しだいで議席を減らす可能性もある。
 今回の選挙では「集団的自衛権の行使容認」や「特定秘密保護法」も争点になる。
 年金生活者の男性は「(秘密保護法は)困ったものだ。今の若い世代が困るでしょ。言いたいことが言えなくなるから」と顔をしかめた。
 自民党幹部がテレビ局に事実上の圧力をかけた文書を出していたことも、選挙戦を左右しそうだ。
 文書は「街頭インタビュー等で一方的な意見に偏ることのないよう公平中立、公正を期していただきたい」などと要求している。
 たとえば有権者10人にインタビューして、8人がアベノミクスに否定的・懐疑的で、2人が肯定的だったとする。
 それでもテレビ局は2対2で扱わざるを得ない。もともとテレビ報道は変な「バランス感覚」があったが、自民党からのお達しでアベノミクスに批判的な街の声は実際よりも少なくなるだろう。
 「安倍官邸」は記者クラブメディア(新聞・テレビ)をフルに使って世論操作を展開するだろう。
小泉政権による郵政選挙(05年)が「コミ戦※」と云われたように。
 『田中龍作ジャーナル』は庶民の怒りと悲鳴をありのままに伝えていきます。
 ◇
※コミ戦:自民党コミュニケーション戦略本部の略。テレビのワイドショーをフルに利用して「小泉劇場」を演出した。

【田中龍作ジャーナル】安倍政権 生活保護利用者にトリプルパンチ
                            2014年11月27日 18:20
(生活保護費が削られ消費税が上がったために、生活保護利用者の3人に1人はさらに食費を切り詰めるようになった。)
 「弱者をムチ打つ」-安倍政権の本質が改めて浮き彫りになる調査結果が出た。
 今年4月の消費税増税後、生活保護利用者の72%が「生活が苦しくなった」、35%「特に食費を切り詰めている」などとするアンケート結果がこのほどまとまった。
 アンケートは法律家などで作る「生活保護問題対策全国会議」が、北海道から沖縄まで全国各地の生活保護利用者を対象に面談で実施した。21歳から94歳までの1,285人から回答があった。
 生活保護費は昨年8月、今年4月と2度にわたって切り下げられている。来年4月には3度目の切り下げが実施される予定だ。最終的には平均で6・5%、最大で10%切り下げられる。
 アベノミクスによる物価高と消費税増税が、生活保護利用者に追い討ちをかけている。
 アンケート結果は次の通り―
●4月の消費税増税で暮らしは変わりましたか? 
回答:とても苦しくなった・・・27%
   やや苦しくなった ・・・45%
●ここ1年くらいで物価はどう変化したと感じますか?
回答:とても上がった・・・47%
   やや上がった ・・・39%
●昨年7月(切り下げ前)までと今年9月(切り下げ後)の生活保護費を比べるといくらの減額になりましたか?
回答:1円~1,000円   ・・・47%
   1,001円~5,000円 ・・・41%
   5,001円~10,000円 ・・・6%
(高齢加算はすでに廃止されている。医療費がかさんでもお構いなしだ。お年寄りの生活保護利用者の暮らしは厳しさを増す。)
●特に節約している費目は?
回答:食費     ・・・35%
   被服・履物費 ・・・17%
   水道光熱費  ・・・15%
   娯楽費    ・・・12%
   交通費・通信費・・・8%
   交際費    ・・・8%
●生活保護費減額の暮らしへの影響は、予想していたのと比べていかがでしたか?
回答:思っていたより苦しくなった・・・60%
   思ったほど苦しくはなかった・・・19%
 昨年初頭、厚労省は生活保護費切り下げを決めた際、切り下げの理由のひとつに物価下落をあげていた。
 ところがアベノミクスと消費税増税で物価は上昇した。トップエリートの官僚が読めていないはずはない。「物価下落」を理由としたのは口から出まかせか。
 「増税分は福祉に回す」と言っていたはずだが、こと生活保護に関しては回されていない。それどころか削減している。詐欺ではないか。
 消費税3%が導入された時(1989年実施)、生活保護基準は引き上げられた。5%(1997年)の時も同様だった。今回、引き下げられるのは弱者へのダマシだ。
 生活保護利用者の暮らしはもともと苦しい。それにアベノミクスによる物価高と消費税増税が加わる。トリプルパンチだ。

 生活保護費切り下げをめぐっては、「生存権を定めた憲法25条に違反する」として全国各地で違憲訴訟が起こされている。
 憲法破壊が好きな首相のもとで弱者の生活はガタガタだ。

141127 「従軍慰安婦」問題を考える。高橋源一郎さん論壇時評&朴裕河(パクユハ)氏フェイスブック記事

2014年11月28日 00時16分11秒 | 考える資料
11月28日(木):

よい内容なので紹介する。朝日の良い記事は、ほとんどが外注の記事だ。朝日新聞社は恥を知るべきだろう。まあ、読売・産経、NHKより100倍マシだけどね。

(論壇時評)孤独な本 記憶の主人になるために 作家・高橋源一郎
朝日新聞デジタル 2014年11月27日05時00分

 去年、韓国で出版され、「元慰安婦の方たちの名誉を毀損(きそん)した」として、提訴・告訴された、朴裕河(パクユハ)の『帝国の慰安婦』の日本語版が、ようやく公刊された〈1〉。感銘を受けた、と書くのもためらわれるほど、峻厳(しゅんげん)さに満ちたこの本は、これから書かれる、すべての「慰安婦」に関することばにとって、共感するにせよ反発するにせよ、不動の恒星のように、揺れることのない基軸となるだろう、と思われた。そして、同時に、わたしは、これほどまでに孤独な本を読んだことがない、と感じた。いや、これほどまでに孤独な本を書かざるを得なかった著者の心中を思い、ことばを失う他なかった。
 「朝鮮人慰安婦」問題は、日本と韓国の間に深刻な、修復不可能と思えるほどの亀裂を生み出した。片方に、「慰安婦は、単なる売春婦に過ぎない」という人たちが、一方に、「慰安婦たちは、強制されて連れて来られた性奴隷だ」とする人たちがいて、国家の責任をめぐって激しい論争を繰り広げてきた。
 朴裕河はこういう。
 「これまで慰安婦たちは経験を淡々と話してきた。しかしそれを聞く者たちは、それぞれ聞きたいことだけを選びとってきた。それは、慰安婦問題を否定してきたひとでも、慰安婦たちを支援してきたひとたちでも、基本的には変わらない。さまざまな状況を語っていた証言の中から、それぞれ持っていた大日本帝国のイメージに合わせて、慰安婦たちの〈記憶〉を取捨選択してきたのである」
 朴がやろうとしたのは、慰安婦たちひとりひとりの、様々な、異なった声に耳をかたむけることだった。そこで、朴が聞きとった物語は、わたしたちがいままで聞いたことがないものだったのだ。
     *
 朴は、「朝鮮人慰安婦」たちを戦場に連れ出した「責任」と「罪」の主体は、帝国日本であるとしながら、同時に、実際に彼女たちを連れ出した朝鮮人同胞の業者と、そのことを許した「女子の人生を支配下に置く家父長制」(日本人の場合も同じだ)を厳しく批判する。
 「謝罪」すべきなのは、帝国日本だけではない、「韓国(および北朝鮮)の中にも慰安婦たちに『謝罪』すべき人たちはいる」のだ。だが、そのことは忘れ去られた。なぜだろうか。植民地に生きる者は、時には本国民よりも熱く、その宗主国に愛と忠誠と協力を誓った。それが仮に真意ではなかったとしても。そして、そのことは、忘れるべき「記憶」だったからだ。
 「日本人慰安婦」の代替物として戦場に送られた「朝鮮人慰安婦」にとって、日本人兵士は、時に(身体と心を蹂躙(じゅうりん)する)激しく憎むべき存在であり、時に(同じように、戦場で「もの」として扱われる)同志でもありえた。その矛盾を生きねばならなかった彼女たちの真実の声は、日本と韓国、どちらの公的な「記憶」にとっても不都合な存在だったのだ。
 「何よりも、『性奴隷』とは、性的酷使以外の経験と記憶を隠蔽(いんぺい)してしまう言葉である。慰安婦たちが総体的な被害者であることは確かでも、そのような側面のみに注目して、『被害者』としての記憶以外を隠蔽するのは、慰安婦の全人格を受け入れないことになる。それは、慰安婦たちから、自らの記憶の〈主人〉になる権利を奪うことでもある。他者が望む記憶だけを持たせれば、それはある意味、従属を強いることになる」
 かつて、自分の身体と心の「主人」であることを許されなかった慰安婦たちは、いまは自分自身の「記憶」の主人であることを拒まれている。その悲哀が、朴の本を深い孤独の色に染めている。
 木村幹の『日韓歴史認識問題とは何か』は、朴が提起した問題への、日本の側からの誠実な応答の一つであるように、思えた〈2〉。
 「日韓歴史共同研究」に参加した著者は、朝鮮半島に関わる研究者たちが巻きこまれざるをえない、歴史認識問題をめぐる争いの中で、疲れ果て、アメリカへ赴いた。そこでの「リハビリのためのトレーニング」として、この本は書かれた。
     *
 木村は考える。
 なぜ、歴史認識をめぐって、不毛とも思える激しい争いが繰り広げられるのか。あるいは、なぜ、かつては問題でなかったことが、突然、問題として浮上するのか。そして、なぜ、その問題は、いまもわたしたちを苦しめるのか。
 それは、「過去」というものが、決して終わったものではなく、その「過去」と向き合う、その時代を生きる「現在」のわたしたちにとっての問題だからだ。
 では、「過去」が「現在」の問題であるなら、わたしたちはどう立ち向かえばいいのか。
 「わたしたちの生は過去の暴力行為の上に築かれた抑圧的な制度によって今もかたちづくられ、それを変えるためにわたしたちが行動を起こさないかぎり、将来もかたちづくられつづける。過去の侵略行為を支えた偏見も現在に生きつづけており、それを排除するために積極的な行動にでないかぎり、現在の世代の心のなかにしっかりと居すわりつづける」(テッサ・モーリス=スズキ〈3〉)
 遥(はる)か昔に、植民地支配と戦争は終わった。だが、それは、ほんとうに、遠い「過去」の話だろうか。違う。戦争を招いた、偏見や頑迷さが、いまもわたしたちの中で生きているのなら、その「過去」もまた生きているのである。
     ◇
 〈1〉朴裕河『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』(今月刊=日本語版)
 〈2〉木村幹『日韓歴史認識問題とは何か』(今年10月刊)
 〈3〉テッサ・モーリス=スズキ『過去は死なない』(文庫版が今年6月刊行。単行本は2004年刊)
     ◇
 たかはし・げんいちろう 1951年生まれ。明治学院大学教授。小説作品に『さよならクリストファー・ロビン』(谷崎潤一郎賞)、『優雅で感傷的な日本野球』(三島由紀夫賞)など。評論集『「あの戦争」から「この戦争」へ』が近日刊行予定。



◎さらに、朴裕河(パク・ユハ)さん(勤務先: 世宗大学校)自身のフェイスブック記事も載せます。こちらは、まだ読めてません。折を見てゆっくり目を通します。この記事の掲載は、俺自身の高橋源一郎さんへの信頼に依拠してなされたものです。現時点では、この記事の内容が、俺自身の見解と同じとは言えません(為念)。

韓国で慰安婦問題に関する新しい本を出しました。ちょうど先日日本で講演の機会があったとき、この問題をめぐる日本での議論に添って本の内容の一部をまとめたのでアップしておきます。.

2013年7月29日 19:37

慰安婦問題をどのように考えるべきなのかー秦郁彦・吉見議論(2013・6)を踏まえて(2013・7・15、明治学院大学)

 慰安婦問題はどのように考えるべきなのだろうか。わたしは昨年からこの問題について考えてきてこの夏に韓国で本を出すことになっている。日本語版も出ることになっているけれど、まだ先のことになるので、昨今大きな混乱を呼んでいるこの問題について、とりあえず日本で「慰安婦問題の第一人者」とみなされている二人の歴史家のお話に議論を添わせる形で今日はお話させていただこうと思う。

 ここで議論の土台にするのは、去る6月にラジオで放送された「秦郁彦 吉見義昭 第一人者と考える慰安婦問題の論点」である。安倍首相は「歴史家に任せたい」としていたが、歴史家の「第一人者」の議論がなかなか接点を見いだせていないことから分かるように、慰安婦問題はもはや単に「歴史家」だけの考えだけでは日韓の合意どころか「日本内」の合意さえ見いだせない難しい問題となっている。

 それはなぜか。それはこの問題がすでに長い間解決されないまま長引く間に両国の国民の多くがこの問題に対してのかなり詳しい「情報」を持つようになってひとつの政治問題となり、さらに昔の「慰安婦」をめぐる情報や考え方のみならず、現在身を置いている政治的立場やそれに伴う感情までが入り込んでしまっている問題となっているからだ。さらに、この問題に直接・間接にかかわってきている人の数が多く、そのほとんどの人たちが間接的な「当事者」にもなっていて、かかわった期間が長かっただけにそれぞれ自分の主張が自分の人生や生き方を示すものにさえなっているせいで、既存の考え方や立場をなかなか崩せないところにまで来ていることも対立を深めた大きな原因である。

 そしてこの問題について考える時もっとも必要と思われるのは次のことである。

1、できるだけ早い解決
2、そのためにこの問題を「慰安婦」という存在自体をめぐる状況はむろんのこと、ここ20年の運動や葛藤の様相についても知る。
3、この問題にかかわることが自分の生活や政治的立場と直接には関係のない人たちもこの問題について多くの情報を持ち、それをもとに「解決」をもたらす方法を「関係者とともに」考える。

この問題を考えるためには、いわゆる「慰安婦」問題が発生した時期よりもさかのぼった近代初期や、さらに現代の状況についてまで考えなければならない。しかも先に触れたように、ここ二十年の葛藤についても考えて始めて問題の全体が見えてくるような問題なのでとても限られた時間で話しきれる問題ではない。それでもこの問題の「解決」を考えるためにはおおまかにでも全体のことを見ておくことがどうしても必要なので,今日はおおまかな形を取りたいと思う。時間があればあとで細かいことについては質問を受けて御応えしたいと思うのでこの点ご了承願いたい。

1、「慰安婦」とは誰か

 近代以降、交通の発達や国家の勢力拡張の欲望を内面化する形で、海外へ単身で移動する男性たちは多かった。そしてそのような男たちを支えるために女性たちの「移動」も多くなった。日本の場合、最初は日本に入ってきた外国軍人のためにそういう女性たちが提供されていたのが、同じ頃から海外へでかけることになっていた。いわゆる「からゆきさん」がそれで、彼女たちの殆どは貧しい家庭出身で親に売られたり家のために自分を犠牲したような女性たちだった。

 そして彼女たちは朝鮮に駐屯した軍隊や国家の移住奨励政策に従って移住していった男たちのために朝鮮にも移住して行った。やがて朝鮮半島にも公娼制がしかれ、朝鮮人女性もそこで働くようになる。すでに日露戦争の時から軍人たちを「慰める」女性たちはいたのであり,軍隊を支えるという意味で彼女たちは「娘子軍」と言われていた。

 つまり、「慰安婦」とは基本的には<国家の政治的・経済的勢力拡張政策に合わせて戦場や占領地や植民地となった地に「移動」していった女性たち>のことである。そして商人や軍人が利用した「慰安所」のようなものは早くから存在していた。「慰安所」や「慰安婦」という名前は1930年代に定着したようだが、その機能は近代以降の西洋を含む帝国主義とともに始まったと見るべきである。

2、「慰安婦」と「朝鮮人慰安婦」

 当然ながら、日本の場合は遠い海外へ「国家のために」でかけている男性のために「慰安婦」が用意されるのでその対象は「日本人女性」だった。それが、朝鮮が植民地となったがために「朝鮮人女性」もその仕組みに組み込まれることになる。そして、1920年代にはすでに中国や台湾には朝鮮人女性も海外にいる「日本人」や「日本人となった朝鮮人」を相手するためにでかけていった。のちに「慰安婦」と意識されるようになる「朝鮮人慰安婦」の前身と見るべき存在である。

3、「からゆきさん」の「娘子軍」化

 からゆきさんの中には、たとえ売られてきていわゆる「売春」施設で働いても、拠点を築いた女性たちは「国家のために」来ている「壮士」たちのためにお金や密談のために場所を貸すような立場になっていた女性たちもいた。彼女たちが「娘子軍」と呼ばれるようになったのはそのためで、そのようにして彼女たちは蔑まれる一方で「格上げ」されることになる。一方彼女たちも、間接的に「国家のために」働く男たちを支えることでそれなりの誇りを見いだすことができる(もちろんそれは戦争に突き進む国家の帝国主義の言説にだまされたことでもある)ようになっていた。「慰安婦」とはそのような仕組みが支える名称でもあった。

4、様々な「慰安所」

 したがって、日本軍が1930年代に入って突然「慰安婦制度」を発想して<「慰安所」を作った>と考えるべきではない。日本軍は、満州国と日中戦争のために駐屯軍のために、それまで衛生など(内地なら警察が管理していた)の「管理」をしてきた売春施設のうち(料理屋、カフェなどにはその役割をしたところもあった)、基準を満たすところを「指定」して「軍専用の慰安所」にしていた。しかしやがて軍隊の数が増えるにつれて、それだけでは間に合わなくなったので、そのような施設をさらに増やすことを考えた。そして業者を使って「募集」するにいたったのである。

 つまり今日「慰安所」と考えられているところには、軍が新たに作ったところだけでなく、日清・日露戦争以降の既存の施設も含まれていると考えられる。「業者」にしても中には移動や経営に関する便宜を与えるために「軍属」(あるいは軍属扱い)にする場合もあった。

 しかし、それはあくまでも「軍が作った」慰安所に限る。したがって「慰安所」の形が様々であるだけに、「業者」のあり方も様々だった。島などの場合、営業許可を得たか否か確かでない業者が進んで自分で粗末な「慰安所」を作り、「臨時営業」(一種の派遣業務)を始める場合もあった。もちろん、軍隊が「慰安所」を建設する場合もある。将校などは指定慰安所を使わずに、普通の料理屋などを利用する事も多かった。

 軍が慰安所を作った(指定した)理由は、言われているように性病防止やスパイ防止以外にも、利用軍人が多くなるにつれて、「安く」利用できるようにするため、の理由もあったと思われる。その場合の料金は<公>と言われた。給料の少ない兵士たちに利用しやすくしたと考えられる。

以上のように、「慰安所」は、時期や場所によって様々な形があった。

5、様々な「慰安婦」

 したがって、本来の意味でなら、日本が戦争した地域にあった性欲処理施設を全て本来の意味での「慰安所」と呼ぶことはできない。たとえば「現地の女性」がほとんどだった売春施設は本来の意味でなら「慰安所」と呼ぶべきではない。つまり、そのような場所にいた女性たちは単に性的はけ口でしかなく、「自国の軍人を支える」という意味での「娘子軍」とは言えないのである。さらに、戦場で提供されて、半分継続強姦の形で働かされた女性たちや、戦場での一回性の強姦の被害者も厳密な意味では「慰安婦」ではない。

 したがって、アジア太平洋戦争で日本軍の性の相手をした全ての女性を「慰安婦」と呼ぶべきではなく、本来の「慰安婦」の名前にふさわしいのは、「日本人」や「日本人」になっていた「朝鮮人」「台湾人」「沖縄人」だけと考えるべきである。そして彼女たちこそ「娘子軍」に近い存在だった。

 しかし、普通の売春施設にいた女性たちも「慰安婦」と同じように軍を対象にした性労働に従事し、「愛国食堂」のような看板を掲げて軍人を受け入れてもいたので(もちろん指定業所になっていたはずだ)、事態はややこしい。

 何よりも、90年代に「慰安婦」という存在が問題となったとき、まだ「慰安婦」がどういう存在なのか共通理解がない中、日本軍の相手をした全ての女性に名乗り出るように呼びかけたことが問題を混乱に陥れたと言えるだろう。そして,当時の軍人たちでさえ、その区別に厳格ではなかった。しかし、すくなくとも、戦場での一回、あるいは継続的強姦をさせられた女性たちと、日本人を含む「慰安婦」たちの、軍人との関係の違いは歴然としている。

「慰安婦」は、このように国籍や時期によって、そして場所(最前線か後方か)によって、さらに個人のキャラクターによってもその体験は異なっている。

 にもかかわらず、そのすべてを「「慰安婦」と考えて、問題の対応に当たったことから、大きな混乱が始まったのである。

 しかし、そのどのケースであっても性的労働に従事させられる経験は、社会における弱者に押し付けられるもので、彼女たちの多くが病気にかかりやすく、死が隣り合わせの悲惨な境遇にいたことを認識することは、慰安婦問題を考えるための大前提とならなければならない。

6、「強制連行」について

 したがって、軍人を相手に性労働をするまでになった経緯も当然ながら一つではない。中には本格的な募集が始まる前から現地にいた女性もいたはずである。

 韓国で最初にこの問題を提起した人は、自分が経験した「挺身隊」のことを「慰安婦」のことと勘違いした。彼女が経験した「挺身隊」は「学校」で「判子」を押すような形だったので彼女はその募集を「強制」と思ったのである。しかし「挺身隊」の募集が「学校」単位での「国民動員令」によるものだったことから分かるように「教育」のある人が対象だったのに対して「慰安婦」はほとんど低いレベルの教育か教育を受けていない人がその対象だった。韓国で慰安婦が「強制連行」されていったと考えるようになったのは、日本の否定者たちが言うように「嘘」を言ったからではなく、まずはこの90年代の勘違いによる。

 しかしさかのぼれば植民地時代にすでに「挺身隊に行くと慰安婦になる」との風聞はあった。「慰安婦」は「挺身」して「兵隊さんのためのこと」をすると言われたのであり実際のところ看護補助や洗濯など「性的慰安」以外のことをさせられる場合もあったので、まったくの誤解とも言えない側面もある(兵士の墓を清掃することも、朝鮮人慰安婦たちはやっていた)。

 「軍人」がつれていったと証言する慰安婦の割合はすくなくとも証言集を見る限りむしろ小さい。そしてその場合も、「軍属」扱いを受けた業者が「軍服」を着て現れた可能性が大きいと私は考える(もちろんこれは植民地朝鮮でのことであって、中国などの戦場でそうだったというのではない)。また、業者が、集めやすいように、当時日本で始まっていた国民動員としての「挺身隊」へ行くのだと言った可能性も排除できない。業者は、日本人と朝鮮人がペアで現れたことが多かったようである。

 しかし、慰安婦の募集は、一人や少人数でいるところを「工場」へ行くなどの言葉でだまして連れて行かれたことが証言でも圧倒的に多い。そういう意味では、「軍につれていかれた」という意味での「強制連行」はなかったか、たとえあったとしても「例外的」なこと—つまり「個人」としての行為と見るべきであって、「軍が組織として(立案と一貫した指示体系を通して)やらせた」ことと見るのには無理がある。

 オランダや中国の場合、軍が直接集めたり隔離して性労働に従事させたのでそれは文字通りの「強制連行」に間違いない。ただその場合は上記の意味での「慰安婦」とは言えない。日本人・朝鮮人・台湾人が「日本帝国内の女性」として軍を支え励ます役割をしたのとは違って、彼女たちへの日本軍の行為は、「征服」した「敵の女」に対する「継続的強姦」の意味を持つからである。このような日本軍との「関係の違い」が無視されて同じ「被害者」としてのみ理解されたために、「強制連行」や「慰安婦」に対する理解が、否定者と支援者間に接点を見いだせずに慰安婦問題をめぐる混乱が深まったのである。

 大まかに分ければ、問題発生以来、「慰安婦」としてみなされてきた人の中には,もとの意味での「慰安婦」(これは挺身隊よりゆるやかな「国民動員」の一種と見るべきである)、民間運営の施設(占領地や戦地に早くから存在した場所を含む)を軍が「指定」し衛生などを「管理」した所で働いた人たち、戦場で捕まって継続的強姦の対象になっていた「敵の女」の三種類の女性たちが入っていることになる。

 このうち文字通りの「強制」はオランダや中国のケースであるが、(軍属扱いされた)「軍服を着た業者」が集めた朝鮮の場合、業者が「挺身隊」(強制的、しかし「法律を作っての」国民動員。しかし「志願」の形となる)に行くとだましたがために、「強制連行」だったと当事者たちが認識した可能性も高い。

 つまりもと慰安婦たちが「嘘」をついているというより(まったくないわけではないとしても)、今はいないはずの「業者」たちが嘘をついた可能性が大きいのである。

7.日本軍と朝鮮人慰安婦

 朝鮮人慰安婦は着物を着て日本名をつけられて働いた。つまり「日本人」女性に代わる存在だった。慰安婦たちには料金の区別がつけられていて、「日本人」が一番高く,その次が朝鮮人だった。本来なら巻き込まれないでいいはずの(日本を対象とした)「愛国」に朝鮮人も動員されたのである。そういう意味では朝鮮人慰安婦は「植民地支配」が生んだ存在であり,その点で日本の「植民地支配」の責任が生じる。そして、慰安所に着くと最初に将校や軍医による強姦も多く、部隊移動中にも朝鮮人たちは「朝鮮人」であるゆえに、決まった性労働以外に強姦されやすかった。

 同時に、「国家のために」集められた「軍慰安所」に居た場合は、基本的には敵を相手に「ともに闘う同志」の関係でもあった。なので兵士の暴行などを上官が取りしまることも多く、業者の搾取を軍が介入して管理することもあった。

圧倒的多数を相手しなければならない過酷な体験をしたのは確かだが、上官が兵士や業者の横暴から慰安婦たちを守るような役割をしたのも事実である。朝鮮人慰安婦と日本軍人との恋愛が可能だったのも、そういう構造の中でのことである。

 しかし同時に,最前線においても行動を共にしながら、銃弾の飛び交うような戦場の中で兵士のあくなき欲望の対象になり、銃撃や爆弾の犠牲になるような過酷な体験をしたことも事実である。つまり、たとえ契約を経てお金を稼いだとしても、そのような境遇を作ったのが「植民地化」であることも確かで、朝鮮人慰安婦に対する日本の責任は、「戦争」責任ではなく、「植民地支配」責任として問われるべきである。

8、業者

 軍が必要として集められたのは確かだが、拉致や嘘を軍が公式に許可したとする証言や資料は今のところ存在しないようである。そして、嘘までついて強制的につれていったのも、病気などの時も「強制的に」働かせたのも、逃げないように監視したのも、中絶させたのも、多くはその主体は「業者」である。
 慰安婦たちが多くのお金を稼いだと言う人もいるが、それはむしろ少数で、多くは業者の搾取に遭って貧しかったし、借金状態を抜け出せなかった。

 もと慰安婦たちの身体に残っている傷跡も業者によってつけられたものが多い。軍が暴行する場合ももちろん多かったようだが、それは公式には禁じられていた。つまりそのような「軍の暴行」があり、それを糾弾するとしても、それは「例外」であって「軍」としての犯罪ではなく「個人」としての犯罪と捉えるべきなのである。

 吉見教授は慰安婦に「居住」「廃業」などの自由がなかったというが、それは基本的には「業者」による拘束で、居住の自由がなかったのは「慰安婦」として「軍」とともに行動する限り、「軍人」にそれがないのと同じようなケースと考えるべきであろう。

 つまり、「慰安婦」を巡っての「犯罪」——当時の法律に抵触する行為は、拉致・誘拐や人身売買であって、「慰安所利用」を「道徳的に」問題のある「罪」と捉えることは可能でも,当時の

(法律に抵触する)「犯罪」ではないことになる。それにくらべて、オランダや中国のケースは明らかな「犯罪」であり、彼らは「個人」として処罰された。

9.20万の少女

「20万」という数字は、日韓を合わせた、「国民動員」された「挺身隊」の数である。日本人女性が15万,朝鮮人が5—6万、と言及した1970年の韓国新聞の記事が、上記の誤解も手伝ってその後そのまま「慰安婦」の数と理解させたと考えられる。しかもその「慰安婦」の全てが必ずしも「軍が作った」「軍慰安所」にいたわけではないことはさっき述べた通りである.

 慰安婦になった人には実際は「少女」はむしろ少数で、まだ十代前半のケースはむしろ少なく、当時の軍人たちにも「例外」な状況として受け止められていた。「慰安婦」と名乗り出た人の多くがまだ幼かった「少女」であったことを強調するのは、彼女たちこそその「例外」のケースにいた人々であり、だからこそ訴え出たのだとも考えられる。実際に証言者のほとんどが、「他の人は自分より年上だった」と語っている。つまり「少女」たちは判断力の足りない「少女」だったがゆえにだまされていくことが多かったとも考えられるのである。実際の平均年齢は、証言や資料による限り20才以上だった。

 そして、そのような「少女」までを「慰安婦」にするべくつれていった主体が「業者」だったことが注目されなかったのも混乱を呼んだのである。

10、敗戦後の帰還

慰安婦が敗戦後に帰国できなかったのは、戦場での爆撃の犠牲になった場合や玉砕に巻き込まれた場合である。中国にいた慰安婦たちは、いわゆる「引揚げ者」たちの受難を同じく経験していて,その道のりで犠牲になった場合もあると考えられる。そのほかは帰ってきたかその地に残ったと考えるべきである。敗戦後に「置き去り」にしたことに、動員した軍に責任があるのは言うまでもないが、それでも第一の責任者は直接管理をした「業者」と言うべきである。軍と行動を共にした場合、負ける戦闘のなかでのことであって、その状況は様々で、軍が帰国を助けた場合もあった。

11、1990年代の謝罪と補償

1990年代に日本が「慰安婦」と名乗り出た人々に「謝罪と補償」をすべく作った「アジア女性基金」は、被害者たちが要求した「国家立法」を経たものではなかったが、当時の閣僚たちの合意に基づいて作られたものだった。国会では立法を進めた議員たちもいたが、韓国の場合、1965年の日韓条約で国家間賠償が終わったことと「強制連行」の有無が議論の焦点となって法案を通すにはいたらなかった。「基金」は「国会」は通さなかったが、「政府」閣僚たちが合意してやった「謝罪と補償」である。それは「国家立法」を主張する人たちに「責任回避」の手段と非難されたが、1965年の国家間条約で個人補償は終わっているので国家賠償はできないと思った日本政府が、「法的責任」は存在しないと考えながらもなお、「道義的責任」を取るとして行った、いわば「責任を取るための手段」だったのである。国民の募金でまかなうと言われていたが、300万円に当たる医療福祉補助費も出されていて名前こそ「補償金」でないが、初めから決まった補償金の半分以上が国庫金から出されている。しかも、最終的には事業費の89パーセントが国庫金からまかなわれていた。そういう意味では「基金」は心を込めた「謝罪と補償」に限りなく近いものだった。

12、1965年の過去清算について

 1965年の日韓条約は1952年のサンフランシスコ講和条約に基づいての条約だったので、「戦争」の事後処理をめぐる条約だった。「植民地支配」という過去清算に関する条約ではなかったのである。条約の文面にひとことも「植民地支配」に対する謝罪の言葉が入ってないのはそのためのことである。実際徴用などに関しての「補償」も、中日戦争後のことに限っていた。しかし朝鮮は日本の戦争相手国ではなく、むしろいっしょに闘った立場だったので、この補償は、恩給などに当たる、いわばもと「日本国民」としてのものだった。突然両国が引き離されることになったための、貯金やその他を含む金銭的事後処理が中心だったのである。

 そして日本は「個人の請求権」は個別に請求できるようにしたほうがいいと言っていた。しかし韓国側は、北朝鮮を意識して、韓半島唯一の「国家」としての韓国が代わりにもらおうとしてその提案を拒否した。つまり「韓国」だけが補償を請求できる正統性を認めてもらおうとしたのには(チャン・バクチン)、厳しい冷戦時代のさ中にいたという歴史的経緯がある。

 当初韓国側は「植民地支配」による被害について(人命損失など)も請求しようとした。最終的にそれが削除された理由は明らかでないが,おそらく今でも続いている論争——「植民地支配は合法」、つまり韓国の意志でやったことだというような議論があってのことかもしれない。確かに当時においてはほかの元帝国も「植民地支配」に関して謝罪したことはなく、それは時代的思考の限界だった。つまり、1965年の条約は植民地支配についての謝罪にはなっていないが、それは冷戦下にあって元帝国諸国がそのような事に関して謝罪するような発想をするような時代に至っていなかったこと、そして元植民地側も冷戦時代のあおりを受けて、自ら「過去清算」を急いでしまったためのことだった。したがって、慰安婦問題に関して、「個人請求権」が残っているとする支援側の要求は無理がある。

13、1910年の合併条約について

さらにさかのぼって1910年の合併条約自体が「強制的」なもので「不法」だったとする議論もある。そしてこの時の条約が「不法」だとすると当然日本に「植民地支配」についての「法的責任」が生じることになる。しかし、たとえ少数が率いてやった事が明らかでも、それが「条約」という(当時における)「法的手続き」を通してのものだった以上、このことを「不法」とするのは倫理的には正しくても現実的には無理がある。それはアメリカやイギリスなどやはり植民地を作った大国の承認を得てやったことであって、彼らだけの「法」に基づくものだったという意味でなら「不法」と言えても、ともかくも「合併」を韓国が承認した文面が存在する限り、残念ながらそのことを「不法」とは言えなくなるという現実もある。

 もっとも、国民のほとんどに意見が聞かれたわけでも知らされていたわけでもない「合併」は、「ほとんどの朝鮮人」の了解や承認を得ていないという点ではほんとうの意味では「了承」したとは言えない。しかし国の代表がそうしてしまった時点で、不服でも、「不法」ではないことは時代的限界と考えるべきであろう。そのような「法」に問題があったことを後世の人々が認めるのなら(すでに90年代の日本の謝罪はそれを間接的に認めたことにはなる)、法を犯していない点で「不法」ではないが、道義的に問題があったとすることは可能である。つまりすでに決められていた規則に悖る行為だったという意味で「不法」ならば「犯罪」になるが、当時においてその行為(植民地支配)に対しての価値判断がなされなかった時代である以上、「不法」=犯罪とへ言えないにしても,植民地支配を、ひとつの民族に対する「罪」とみなすことはできるはずだ。

14,「罪」と「犯罪」

 韓国が求めているのは慰安婦募集と慰安所使用に関わることを「犯罪」と認めて「賠償」せよとするものである(日本の支援者の多くもそれを主張している)。しかし、当時において日本内で「売春」が「罪」と認められていなかった以上、そのことを「犯罪」とみなすことは無理がある。たとえ国際的に不法と見なし始めていた時期だったとしても、である。当時は性暴力さえもまだ「罪」と認められていなかった時代だったのであり、だからこそ男たちは罪の意識もなく強姦を繰り返したのである。

 しかし「人身売買」は当時においても「罪」と認められていて、「犯罪」だった。そういう意味では、植民地支配も、強姦も、強制動員も(軍人や挺身隊),当時において「他民族」や「女性」の立場を考えなかった「罪」であったことが確かでも、当時における「犯罪」ではなかったのは仕方のないことと言えるだろう。1965年に日韓が、個人の請求権を、連合国のように「戦争賠償」ではなく、あくまでも「元日本国民」として未処理部分を処理したことに過ぎないのはそのためでもある。そしてこのように考えるのは、植民地支配やその後の思考の「罪」—時代的限界をよりよく見るためでもある。

15、再び「アジア女性基金」について

 そういう意味では90年代の「道義的責任」は、そうは意識しなかったにしても、まさにそこを突いての「謝罪と補償」だった。最初に声をあげた朝鮮人慰安婦が「植民地支配」による存在ということも認識されていて、それに対する補償だったからである。そして「植民地支配」に対しての「法的責任」を求めることがいささか無理であるのはさきに述べた通りである。

 すでにイタリアやイギリスも植民地支配に関して謝罪をしたことがある。もっとも、日本も,細川首相や村山首相が行った。しかし、最初は「慰安婦問題」を「植民地支配」と捉えていたのが、のちに別の国の人たちが現れることになったことが影響して、普遍的な「女性の問題」と捉えられることになったために、そのような捉え方はやがて消えてしまった。

 しかし、現在この問題で、ほかの国・地域は「アジア女性基金」を受け入れて一応解決されてことになっている。そして現在補償を求めているのは「韓国慰安婦」だけなので、「韓国問題」として捉え直す必要がある。そして、あらためて「植民地支配」に対する謝罪として「基金」を拒否した人を対象に追加措置を行うことだけが解決のための唯一の道となるだろう。それは、亡くなった兵士たちに遺族年金を払うのと同じ発想——つまり、「自発的に」「国民動員」されていった「日本人慰安婦」が現れるのなら、どのように補償するのかーで考えるべきことでもある。オランダや中国などほかの国といっしょに考える「女性の人権」問題との捉え方では、朝鮮人慰安婦の特殊性が見えてこない。

  橋下市長が「戦争ではどこでもやったこと」として他の国々を名指ししても当該国家から無視されているのは、それらの国がその「戦争」で日本と闘った国々だからともいえる。「女性の人権」問題とするなら、敗戦前後に多くの日本人女性を強姦したソ連もこの問題を避けて通ることはできなくなる。もちろんそのことも問題視しなければならないが、とりあえず「韓国人慰安婦問題」を解決するためには、まずは「植民地支配」問題と捉えるべきである。ほかの国々に「反省」を求めるのなら、オランダを始め世界の「元帝国」に「植民地支配」が起こした問題として、反省を呼びかけて始めて、アメリカもイギリスもオランダもこの問題を「自国」の問題として向き合うことができるだろう。それらの国の欲望のために自国や他国の女性たちが動員されて、軍人や商人に継続的な「慰安」を与えさせられていたことについて。

16、「性奴隷」について

 朝鮮人慰安婦たちは基本は「売春婦」であるが,同時に「準軍人」のようなものだった。従って,彼女たちの境遇が悲惨だったのはまぎれもない事実であるが、強制労働をさせた主体は主に業者だったのだから(もちろんそのような状況を作った日本軍に責任がないというのではない)彼女たちの「奴隷性」はまずは業者との関係で言われるべきである。「性奴隷」に関してもしかり、である。彼女たちの自由を拘束したのは直接には業者だったのである。

 そして彼女たちは、国家の必要によって間接的に動員されて命さえも(戦場、病気、過労働)担保にしたという意味では「国家の奴隷」でもある。それは、移動の自由も廃業の自由もさらに命を守る自由もないという意味で軍人もまた「奴隷」、という意味と同じ意味での奴隷である。軍人は「法」によって、慰安婦たちは「契約」によって構造的な奴隷となっていた。

 17、河野談話

 河野談話は「自分の意志に反して」慰安婦になったことを認めているのであって「強制連行」を認めているわけではない。つまり,連れていった過程が自分の意志ではなかったことと慰安所での性労働が彼女たちの選択ではなかったことに触れていて、物理的な強制性ではなく構造的な強制性を認めたことになる。それは、朝鮮人の場合、たとえ自発的に行ったように見えてもそれが植民地支配によってもたらされたことであることを正確に認めている言葉でもある。つまり、河野談話見直し派が主張しているような、いわゆる「強制性」を認めたわけではなく、しかも管理をしたという意味では「官憲が関与」したのは事実なので、そうである限り河野談話を見直す必要もないはずである。

18、解決をめぐる葛藤

 日本政府が作った「基金」が「民間」のものと認識されたのは、まずは、マスコミなどの報道にもよるが、新たな補償が1965年の条約に抵触することを気にした政府が、基金に深く関与していることを十分に説明しなかったことに第一の原因がある。しかし、「仕方のない次善策」として受け止める人たちもいる中で「責任を回避するもの」と強く非難し,以後今日に至るまでこの問題で日本政府を非難している人たちは、国会立法だけが「日本社会の改革」につながると考えていた。しかし前述したように「強制連行」が焦点になっていることと1965年の条約がある限り慰安婦をめぐる被害を「国家犯罪」と見ることはできない。したがってそれを「国家犯罪」と認めて「賠償」することを求める「立法」は不可能であるほかないだろう。

 にもかかわらず20年以上も基金批判者たちが「立法解決」を主張してきたのは朝鮮人慰安婦問題解決を通して「日本社会改革」を見ようとする転倒した構想があってのことでもあった。そしてその意図はなかったとしても、そのような主張は、慰安婦を結果的に日本国家のための人質にしていた主張とさえ言える。基金に反対した中心部にいた人たちは、現代政治を変えるのに過去のことを利用したことにもなるのである。 

 問題は、そのような主張が韓国の支援団体の主張を支え、この二十年の間(特にこの十年)、慰安婦問題をめぐる議論や主張に反発するひとたちを日本内にたくさん増やしてしまったことである。逆に、20年前に比べても今の日本にはこの問題に感情移入できる人は減ったはずで、たとえば改めて募金をするとしてもあの時のようには応えてもらえないのが現状であろう。慰安婦問題を解決してアジアの平和を構築するはずが結果的に葛藤を呼んでしまったことについても考えるべきことがあるはずである。

 支援者たちの一部は、慰安婦を日本固有のファシズムが作った問題とみなし、一方的な被害者とのみ捉えた。韓国側の誤解だった挺身隊との勘違いも感情移入しやすい原因だったはずだが、慰安婦問題は、国家間問題となってしまった以上はともかくも「国民の合意」が必要だった問題だった。

 支援者たちは、天皇を犯罪者にするような国際裁判をしたが、そのような「運動」が、広く「日本国民の合意」を得られるわけもなかった。そして実際にその後2000年代の「嫌韓流」、2010年代のヘイトスピーチに見られるようなこの問題への嫌悪が広まることになるのである。

19、世界の意見

運動家たちは2000年代以降に日本政府を説得することよりも世界に訴えて日本を圧迫するやり方に出た。しかしKumarawasumi報告書をはじめ、数々の国連報告書のほとんどは韓国側の資料をそのまま鵜呑みにして作られたものだったと考えられる。そこでその多くは「20万の少女が強制的に連れて行かれ性奴隷として働かされ、敗戦後もほとんど虐殺された」と考えている。欧米の議会の決議もそれらの報告書を参考にしていているが、これまで見てきたように、世界の日本非難は、必ずしも正しいとばかりは言えない。 

 国連ではオランダの女性も証言していて、オランダのケースは確かに「レイプセンター」の言葉にふさわしいものだった。しかし朝鮮人もまったく同じ状況と考えられていて、日本人慰安婦もたくさんいて、彼女たちに比べて報酬は低くても基本的には同じような状況にいたことが知られていないようである。オランダの女性が被害を受けたのは(先に述べたように、厳密な意味では「慰安婦」と言うべきではない)、彼女たちがオランダが植民地にしていたインドネシアに暮らしていたところを日本が占領したからである。したがって、オランダにしてみれば、敵だった日本に自国の女性を強姦されたことになるので、そのようなことが「世界の厳しい視線」に介入した可能性も排除できない。

20、帝国と慰安婦

 橋下市長が図らずも触れたように、沖縄基地をはじめ米軍が基地をおいているところでは今でも遠い地に送られた兵士たちを「慰安」すべきとされている女性たちがいる。つまり、戦後直後の日本や韓国戦争での朝鮮戦争当時やその後の韓国がそうだったように、「軍隊」は今でも「慰安婦」を作り続けている。日本軍の慰安婦と違うのは、「国家のため」と意識させられているかどうか、そして平時(しかし戦争に待機している)か戦時かの違いだけである。

 それらの「基地」は、かつて戦争や冷戦のためにおかれ、その状態を維持し続けた。そして今やアメリカこそが日本や韓国に慰安婦を作り続けているのである。もちろん日本や韓国がそれを提供し黙認している構造である。(橋下首相の「風俗業を利用せよ」との言葉は、図らずもそのことを顕すものだった)

 かつて国家が政治経済的に勢力範囲を広げるべく「帝国」を作ったように、現在でも特定国家の世界掌握勢力は存在する。その中心にあるアメリカが、慰安婦問題に関して日本を非難する決議を出し続けているのはオランダの女性が入ってることや不十分な報告書によるものとはいえアイロニーと言うほかない。

 弱者のために闘ってきたはずのリベラル勢力は、そうは意図しなかったはずだが、日韓の葛藤を作ることで韓国の軍事化や保守化を進めた。北朝鮮と連携して日本を批判するのも、現実には冷戦的思考を維持するのに組みしている。

 したがって、支援者たちは冷戦的思考から抜け出し、否定者は慰安婦が単なる売春婦ではないことを知ることでその悲惨さに(朝鮮人日本軍を靖国に祭るのなら彼女たちは蔑むのは矛盾)気がつく必要がある。そして日本内の国民的「合意」を見いだして解決に臨むべきだ。具体的な方法は、韓国慰安婦問題の捉え直し(植民地支配問題として捉え、ほかの西洋帝国もまたこの問題と無関係であり得ないことを指摘する)、それを「罪」と認めて「道義的責任」を負うことの表明であろう。そしてかつての「基金」の思考—植民地支配を「罪」と認めての、謝罪と国庫金での補償が望ましい。

<秦・吉見議論について>

——秦郁彦教授の意見について

1)売春婦としてのみ見なしているー愛国した存在、特に軍が運営した場合は「準軍人」として支えたことが看過されている。売春婦としても悲惨さはいっしょだった。お金を稼ぎ、楽しかったのは、「軍のために働く存在だったから」。そして様々な境遇の一部でしかないのにそれだけに注目する傾向。たとえば運動会で楽しかったのはそれだけつらい生活をなんとかしのぐためのもの。

2)業者を朝鮮人だけと考えている—実際にはペアが多かった。

3)朝鮮人だけの責任にしたがっている—慰安婦たちが売られていったと言わないというが、証言集では言っている。

4)業者が軍に働きかけた境遇だけではない。業者は軍属の地位を与えられることもあった。

5)女性たちをチェックしたのはそういう商品を利用しないようにしたことと考えられるが、契約書があれば問題がないということになる。本人が認知せずに軍を手伝うことと考えた場合もあるのだから、契約書があれば問題がないとはいえない。

6)運動が政治活動になった動きがないわけではないが、それは参加者の一部。ほとんどは単に善意で動いたと考えるべきだ。

——吉見義昭教授の意見について

1)`強制連行`を、構造的な強制性と捉えるのは正しいが、それを官憲がつれていったことと理解する人が多い以上、その違いは正確に語るべき。

2)性奴隷?
自由を拘束したのは業者であり国家。売春婦にも奴隷性はある。

3)世界が慰安婦問題で韓国の主張を認めたのは、問題のある資料を提供してきた運動や欧米の思惑によるもの可能性が多い。

4)慰安婦の生活困難は業者によるもの。インフレだけではない。

5)オランダとの関係における違いを看過。

6)業者には純粋に民間も存在。軍属のみではない。前線に行くひとのみ。様々な慰安所があるのに軍運営のものに限定して語っている。

7)責任—人身売買は業者であるのに業者の責任は語られない。国家が加担したのは事実だが、知っていて指示し、助けた(船を使っただけで人身売買を助けたと言っていいかどうか)のと、知って黙認したのと知らずに利用したのは違う。時期によって場所によって違っていたはず。それを全て軍の責任としている。

8)構造的強制性の中にある自発性を看過。人身売買だから性奴隷というが,そうでないケースもあるし、何よりも慰安婦の「主人」は業者だった。

*どちらも見たいところだけを見ていて結論が先だっているようだ。そうである限り「歴史学者」の議論であっても接点を見いだせないだろう。

*「被害」かそうでないかだけを強調しているが、「植民地」はその両方を持つ存在だった。

*考えるべきは、国家(帝国)欲望に動員された人々の不幸を誰が償うかのこと。兵士もその一人。慰安婦も。そこに加担した民間の責任(定住者たち、大人たち)もまた大きい。

*この問題が難しいのは様々なケースがあるのに、「補償」は一つの形になったこと。

*慰安婦は「売春婦」も無垢な「少女」の面も併せ持っていて、そのような矛盾こそが「植民地の矛盾」だった。今では変わって来ている側面もあるが、売春婦は基本的に社会の弱者に担わされる役割という点で階級問題であり、社会構造が作るもの。彼女たちは自分の身体と命の「主人」ではありえなかった。そのことを知ることこそが、慰安婦問題を考えることの意味にならなければならない。


4 027 菅広文「京大芸人式日本史」(幻冬舎:2014)感想ゼロ以下

2014年11月26日 23時27分26秒 | 一日一冊読書開始
11月26日(水):

230ページ  所要時間 0:50    図書館

著者38歳(1976生まれ)。

 正直、途中で投げ出したかった。冊数に入れるべきではないと思った(入れちゃったけど)。それほど下らない。有害無益な内容である。この本に1300円+消費税8%を支払った人は、悲惨である。まあ、中身を点検せずに買ったのは自己責任だが、それにしても内容皆無の本だった。感想は、ネガティブ、マイナスである。形は本の姿をしているが、これは本ではない。何物でもない。存在してはならない詐欺的で有害無益な何かである。



4 026 島本慈子「戦争で死ぬ、ということ」(岩波新書:2006) 感想特5

2014年11月25日 01時57分30秒 | 一日一冊読書開始
11月24日(月): ※瀬戸内寂聴さんのご健康回復を心よりお祈りしております。

236ページ  所要時間 3:20   ブックオフ200円

著者55歳(1951生まれ)。

帯文:死を見ずに戦争を語るな。戦後生まれの感性で、いま語り直す戦争のエキス。

テキスト。補章の参考文献リストも充実していて、とても良い。読後の印象は、岩波新書版「はだしのゲン」って感じである。戦争の真実を知る上で極めて具体的かつ記憶に残る内容である。問題提議も多角的であり、いろいろな立場から戦争、特に戦争による様々な死について考えられるようになっている。

8年前の著者の集団的自衛権に関する懸念は、現在まさに現実の問題化している。尊く貴重な<戦争の悲惨>の経験を、しっかり継承しようとして来なかった我々は、今まさに同じ過ちに踏み込もうとしている。そして、全く同様に尊く貴重な<福島原発事故の悲惨>の経験から真摯に学ぼうとして来なかった結果、原発再稼働という深刻な同じ過ちに踏み込もうとしている。これが日本人の限界なのかと思うと情けない惨めな気持ちになる。

1967年レイテ島の慰問団に参加した大岡昇平が、芝生の上に手をついて、いつまでも頭を上げられず慟哭していた記述も忘れがたい。

原爆の被害を受ける前に、原子爆弾の存在は、新聞報道によって日本人の多くが知っていた。従来の知らなかったという論理は本書でくずされた。

まえがき:私は戦後生まれの自分の感性だけを羅針盤として文献と証言の海を泳ぎ、自分自身が「これは戦争のエキスだ」と感じたことを読者にも提示しよう、と思った。私は戦後生まれの目で、戦後生まれにも通じる言葉で、戦争のエキスを語りなおしたかった。/何のために? それは日本のこれからを考えるときの判断材料として、過去の事実のなかに、未来を開く鍵があると思うから。/誰のために? それは私と同じく、戦争を知らない人々のために。  ページ

・これら一連の資料を見れば、こう思わずにいられない。もし日本かドイツが原爆投下に成功すれば、日本人の多くは喝采して喜んだのではないかと。日本軍のなかに、原爆の投下を命じられ、「そんな非人道的なことはできない」と断るパイロットがいたとは思えない。人は簡単に兵器を使ってしまうのだ、ある方向を向いた流れのなかでは。99ページ

日本の戦後をアメリカとは異なる色に染めてきたものは、人々の心に重く沈み、消えることがないこの悲しみの深さだったと、いま本書の取材を終えて私は痛感している。/「戦争が終わりました」というビラと一緒に投下された1トン爆弾で、バラバラになって死んだ労働者。歯ぎしりをして敵艦に突入していった特攻機のパイロット。ふるさとの江州音頭を歌いながら南方のジャングルに置き去りにされた兵士。死んだ母親の乳首にすがりつき泣いていた赤ちゃん。赤ちゃんを抱いたまま首なしの死体になった女性。炭と同じ状態になって、シャベルで片付けられた人々。そして、キューピーのようにお腹をふくらませて広島の川を流れていった男と女……。/悲しみの底まで降りた者だけが、他者の悲しみを予見できる、それを防ぐために働くことができる。このたぐいまれな日本の個性を軽薄に投げ捨てるということは、戦争で死んだ人々にかけても許されない。195~196ページ

・「ハイテクによって戦争は変わった」とか「いまの戦争はきれいだ」などというのはまやかしである。かつての戦争でも、いまの戦争でも、同じように人は傷つき、同じように人は死んでいる。テクノロジーの進化によって兵器が高性能となり、殺す側の負担は小さくなっていくとしても、殺される側の痛みは変わらない。殺される側の人々が発する“恨み声のうねり”をテクノロジーによって止めることはできない。199ページ

・私は憲法改正にともなって、日本に株式会社スタイルの戦争請負会社が生まれることは確実だと思っている。そう思う理由は簡単で、市場原理を信奉する社会が「新たなビジネスチャンスを逃すわけがない」からである。そうなると、戦争によって配当利益を得る株主がたくさん生まれることになる。「戦争が起きたらもうかる」というネット株主がうようよいるという国が、この世界から戦争をなくすため「誠実に働いていく」ということができるのだろうか。/日本の憲法九条をどうするかということは、それらを知ったうえで考えるべきではないだろうか。つまり本書は、憲法九条改定問題を考えるときの「基礎知識編」として読んでいただきたい、と願っている。200ページ

■目次:
はじめに――語りなおす戦争のエキス
第一章 大阪大空襲――戦争の実体からの出発:火の鳥のなぞ/戦争死亡障害保険/首のない死体の氾濫/第二次大戦最後の大空襲/戦争で死ぬということ  
第二章 伏龍特攻隊――少年たちの消耗大作戦 :幻の海底特攻隊/一億玉砕という嵐/これが戦争なのか?/特攻の現場で起きたこと/ひとりにはひとつの命   
第三章 戦時のメディア――憎しみの増幅マシーン :暗闇のジャーナリスト/恐怖の網が良心をからめとる/大東亜共栄のまぼろし/さげすめ! 憎め! 殺せ!/何が民族を覚醒させたのか  
第四章 フィリピンの土――非情の記憶が伝えるもの :ある子どもたちの死/フィリピンにとっての占領/ゲリラはなぜ生まれるのか/原爆を待つ戦場の狂気/ジャングルに流れた江州音頭/死者たちの証言  
第五章 殺人テクノロジー――レースの果てとしてのヒロシマ:「八月六日以前」の原爆報道/果てしない殺人のレース/ウラン鉱の採掘を続けて/子どもが見た戦争の正体/予測できない被害/二つの顔を持つ原爆体験 
第六章 おんなと愛国――死のリアリズムが隠されるとき:乙女たちの祈り/女子特攻部隊を!/戦争のチアガール/「轟沈」のリアリズム/生命は誰のものか/よみがえる戦争応援団/軍国少女との訣別 
第七章 戦争と労働――生きる権利の見えない衝突 :「原子爆弾」と労働者/「毒ガス戦」と労働者/秘密と分断の体制/戦争へと駆け込んだ社会/深刻な被害、そして加害/兵器工場と哺乳場  
第八章 九月のいのち――同時多発テロ、悲しみから明日へ:テロが日常に飛び込んだ/「カミカゼ」という衝撃/日本という事業子会社/深まる悲しみとイラク戦争/悲しみの連鎖を止める/日本という国の色
あとがき――九条問題の基礎知識
補章 主な参考文献

4 025 内田樹「街場の共同体論」(潮出版社:2014) 感想4+

2014年11月24日 01時07分54秒 | 一日一冊読書開始
11月24日(日):

267ページ  所要時間 4:40   図書館

著者64歳(1950生まれ)。

本来的な「良質の保守思想家」であり、大いなる「常識人」である。所謂、「(ものの道理が)良く見えている賢人」である。しかし、言葉巧みな先生なので、批判精神を忘れると、被膜の薄さで俺自身の感性とのずれの存在にヒヤリとする部分もある。まあ、何事につけても、理解しつつ批判的に受け入れるべし、ということ。

目次:
第1講 父親の没落と母親の呪縛
第2講 拡大家族論
第3講 消費社会と家族の解体
第4講 格差社会の実相
第5講 学校教育の限界
第6講 コミュニケーション能力とは何か
第7講 弟子という生き方

※「本書では、家族論、地域共同体論、教育論、コミュニケーション論、師弟論など、『人と人との結びつき』のありかたについて、あれこれと論じておりますが、言いたいことは簡単と言えば簡単で、『大人になりましょう』『常識的に考えましょう』『古いものはやたら捨てずに、使えるものは使い延ばしましょう』『若い人の成長を支援しましょう』といった『当たり前のこと』に帰着します。」 (「まえがき」より)

はっきり申し上げますけれど、今日本で進められているさまざまな「改革」は、あと何十年かすれば(できればあと何年間かのうちにそうなればいいのですが)、「あんなことしなければよかった」と、みんながほぞを噛むようなことばかりです。「あんなことしなければよかったこと」だけを、官民挙げて選択的に遂行しようとしている。そのことに僕はほとんど驚倒するのです。外交も内政も、教育政策も、ほとんどがそうです。3ページ

・僕が以前から「学校教育に市場原理を持ち込んではならない」と繰り返し述べているのはそういう理由からです。現場にいれば、わかります。学校教育で子供たちに費用対効果を競わせたら、教育はもう「おしまい」です。原理的に考えて、その競争では「学力ゼロ」で卒業した子供が勝利者として讃えられるゲームなんですから。/でもその狂ったゲームが今、実際に行われています。100ページ

「こども」は、システムの保全は「みんなの仕事」だから「自分の仕事」じゃないと思う。「おとな」はシステムの保全は「みんなの仕事」だから「自分の仕事」だと思う。その違いです。それだけの違いです。/今の日本は、「こども」の数が異常に増殖してしまった社会です。略。別に全員が「大人」になる必要はありません。略。でも、7%を切ったら、つまり15人1人くらいの比率で「おとな」がいるという状態が維持できなくなったら、社会システムはあらゆる箇所で破綻し始めます。105ページ

・鐵舟は、六郷川を渡ったところで篠原国幹率いる官軍の鉄砲隊に遭遇しました。鐵舟はそのままずかずかと本陣に入り、「朝敵徳川慶喜家来山岡鐵太郎総督府へ通る」と大音をあげて名乗りました。篠原は鐵舟のこの言葉を受け容れて、道を空けて、鐵舟を通しました。174ページ

・ツイッターって、略。あれ、「つぶやき」と言っているけども、じつは発信するよりも受信のほうが重要なんです。/誰かが質のいい情報源を発見すると、それを「リツイート」して自分のフォロワーたちに告知する。それがさらにリツイートされて拡がってゆく。そういう拡散する構造になっています。ですから、「質のいい情報源を発見できる才能」は、すでに「質のいい情報源」の資格を満たしていることになる。実際に、そういう人にコネクトしておけば、自分は何をしなくても、次から次へと流れるように質の高い情報が手元に流れ込んでくる。だから、ここでも自分が何を発信するかよりも、「誰をフォローしているか」が問題になるわけです。/もし、朝から晩まで、自分がどれほど立派な考えを持っているかを誇示したり、誰かをやかましく罵倒したり論難している人がいたとしても、ツイッター的には半分しか機能していないことになります。その人自身は情報を発信していますけれど、誰ともつながっていない。そこからは出自の違う情報は何も「流れて」こない。でも、ツイッターでは、参加者たちがどれほど質のよい情報の「通り道」であるかが問題なのです。略。問題は情報の「通り道」であることなのです。情報の良導体であることなのです。/これは「学ぶ」という行為の本質に深いところでつながっていると僕は思います。「学ぶ」ことの本質は、師から教えられたことを、自分で受け止めて、整えて、付け加えられるものがあれば付け加えて、次の「世代」に「つなぐ」ことだからです。214ページ

・でも、それは日本に限らず、階層社会の基本構造なんです。フランスでもイギリスでも、階層社会では、「人に頭を下げるな。人にものを訊くな。人にものを教わるな。自分のことは自分で決めろ」という自己決定・自己責任イデオロギーが、階層下位に向けて選択的にアナウンスされています。略。/だから、階層が下に行くほど、人間が狭量になり、意地悪になり、怒りっぽくなる。だって、社会的上昇しようとしたら、まず自分の非力や無知を認めて、それを補正し、自己陶冶を果たすために、師や先達を探し出して、「お願いします。教えて下さい」というのが、最も効果的な道なわけですけれど、その道を自分で塞いでしまっているんですから。/略。/自分の無知を認めないで、ものを学ぶことを拒絶した人間に、社会的上昇のチャンスはありません。そんなふうにしてフランスの階層社会は再生産されている。えげつないものだと思います。でも、これは明らかに支配階層によるひそやかなイデオロギー操作なんです。236ページ

・階層社会の力学って、かなり複雑なんです。どういうふうに語っても、階層構造が強化されるように作り込まれている。実によくできているんです。階層を「這い上がろう」とする振る舞いそのものが、階層上位への参入を阻止されてしまうように作られている。237ページ

141123 現政権に乗っ取られたNHKは、本気で済まされると考えてるのか?畏れるべきは国民の目だろう?

2014年11月23日 21時33分33秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
11月23日(日):

 一昨日の衆議院解散の日の「NHKニュース9」で、今回の選挙の争点に関してNHKの解説員がアベノミクスの是非(実質、アベノミクスの宣伝)を論じても、原発再稼働の是非、特定秘密保護法案の問題、集団的自衛権の強引な憲法解釈変更の閣議決定の問題、普天間基地辺野古移設問題、棄民化する福島原発避難民問題、何より政権の幼稚な<反知性主義><立憲主義のルール違反行為>など安倍自民党が強行した戦後日本に大きな変化・ダメージをもたらし、<審判を仰ぐべき課題>についてキャスターの大越も解説員も口を拭って一言も一切言及しなかったことは、呆れ返ってしまうとともに衝撃的な風景だった。当然のことだが、その後の報道ステーションでは、それらは選挙の争点としてきちんと言及、説明されていた。

 本来語られるべきことが語られないことによって、かえって論じられるべき真の問題が浮き上がってくる。「語られなかったことこそが、今回の選挙の本当の争点だ」と言えるだろう。NHKの異様さは際立っていた。安倍晋三自民党に乗っ取られてるのはよく分かったが、受信料をとる公共放送としての完全な自殺行為である。受信者、視聴者の存在をどう思っているのか。NHKは本当にどうするつもりなのだろう。

2014年11月23日
メディアに支えられた安倍の不思議<本澤二郎の「日本の風景」(1831)

<安倍批判不発>
 こんなに恵まれた政権というのも珍しい。新聞テレビは安倍インタビューで宣伝・広報に徹している。スポーツ新聞までが対象となっている。こんな首相宣伝をするメディアなど過去に前例が無い。日本からジャーナリズムが消滅した明らかな証拠である。「権力に屈するな。これがジャーナリズムの真髄」と叫んでいた宇都宮徳馬に顔向けできない新聞とテレビである。

<蓋した平成の治安維持法と自衛隊参戦体制>
 日本の経済成長の原動力は平和憲法にある。戦争放棄の日本に経済の恵みがあった。考えなくてもわかろう。「日米同盟のおかげ」では全く無い。
 国家主義・国粋主義は、この体制を破壊している。自公政権の目指す方向は、平和主義の放棄である。多少の教養があれば理解できるだろう。
 安倍・自公の最大恥部は、平成の治安維持法問題と自衛隊参戦体制である。背後の中国敵視政策である。ワシントンの右派を喜ばせている。むろん、仕掛け人の財閥は笑いが止まらない。
 新聞テレビはこれに蓋をかけている。野党も、である。財閥批判が出来ない日本である。

<経済失政さえも批判しない>
 アベノミクスなるいい加減な造語を宣伝した新聞テレビに問題がある。経済学者にはろくな人物がいない。いかさまの詐欺師といったほうがいい。でたらめなことを口にする。竹中がそうだった。世のエコノミストやノーベル経済学賞を受賞したものまで、すべて怪しい。
 安倍はいま大失政のアベノミクスを宣伝している。新聞テレビはそれを宣伝して批判しない。

<NHK支援の自公>
 世論に一番影響力を与えるメディアはNHKである。安倍はそこへと三井財閥のモミイを送り込んで、いうところのハイジャックに成功した。不甲斐ない野党と2万人のNHK職員は、結果的に受け入れてしまった。
 こうして安倍支持率の急落は消えてしまった。本来であれば支持率10%台である。民衆の生活は疲弊している。アルバイトで生計を維持している者たちの肉体と精神は、破壊されているというのにである。
 その実態を報道しないNHK、報道できないNHKである。理由は安倍にマイナスになることはしない、してはいけないからである。そうしてNHK職員は高給を懐に入れている。

<ねじれる世論>
 かくして、ねじれる世論が生まれる。いまの日本がそうである。「安倍もなんとかがんばっている」という間違った世論だ。まともなジャーナリストであれば、断じて承服できないものである。世論格差がきわだつことになる。
 真実を報道しない言論界によって、世論は複雑骨折を起してしまっている。これは独裁国のそれに相当するものである。日本に健全な民主主義はない。お分かりだろうか。
 「議会とマスコミが健全でないと民主主義は正常に機能しない」との宇都宮の指摘が、見事に的中してしまっている。卑猥な言葉を使うと、議会もマスコミも安倍にレイプされて、ひたすらメダカのように群れるだけである。木更津レイプ殺人事件の被害者レベルの日本なのである。
 憲法が断じて否定している国家主義にひれ伏してしまっている日本。自立しない日本人に世界も驚いているだろう。友人が東南アジアに居を構えるのも理解できる。

<棄権する無党派>
 まともな日本人有権者は無党派を形成している。自民党から公明・共産まで怪しいと判断している有権者が、6割から7割近い。したがって、この多数派を取り込んだ政党が勝つという、おかしな選挙制度でもある。
 多くは棄権するだろう。その結果、悪政し放題の自公が過半数を割ることはない。奇跡が起こることを願うばかりだ。反自公・反共の統一候補が誕生すると、政権交代が間違いなく起きる。
 「愚民野党には無理だ」が安倍・自公の判断であろう。

 日刊ゲンダイと東京新聞が、ややまともな正論を吐いているが、全国民には伝わらない。新聞テレビが支える自公が、ずっと続くわけではない。列島の自壊作用は始まっているのだから。
2014年11月23日記

141123 共産党が野党に協力するか、党利党略に走るかどうかで、選挙結果は大きく変わってきます。

2014年11月23日 13時47分48秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
各選挙区に基礎票2万 野党勝利のカギ握る共産党の動向 2014年11月22日 日刊ゲンダイ

 野党の選挙協力が急ピッチで進んでいる。自民党が大勝した2012年総選挙でも“野党6党”が統一候補を立てて戦っていれば、114選挙区で逆転していた。勝敗のカギは、野党協力の成否にかかっている。

 しかし、一切協力しようとしないのが共産党だ。共産党は各選挙区に2万票の基礎票を持っている。もし共産党が候補者擁立を見送れば、野党陣営が一気に有利になる。

「見落としがちですが、共産党が野党に協力するか、党利党略に走るかどうかで、選挙結果は大きく変わってきます。たとえば、都知事選の時も“反原発陣営”が一本化していれば、細川護煕元首相が舛添要一知事に勝利する可能性があったのに、共産党が独自候補の擁立にこだわったために“反原発票”は二分裂してしまった」(政界関係者)

■小選挙区全敗で死に票の山

 12月14日の衆院選は、「自民VS野党」は接戦になると予想されている。それだけに、各選挙区に2万票ある共産票は、決定的な意味を持つ可能性が高い。

 政治評論家の本澤二郎氏が言う。
「どんなに善戦しても、共産党が小選挙区で議席を得ることはないでしょう。死に票になるだけです。だったら、野党に協力すべきです。なにも表立って手を握る必要はない。295選挙区で候補者を立てなければいいのです。小選挙区は10万票の争いだけに、2万票が上乗せされるのは大きい。しかも、年末選挙は低投票率が予想されているから、なおさら組織票である固い共産票は威力を発揮する。それでも共産党が候補者を擁立するとしたら、それは自民党をアシストするだけです」

 共産党は国民の味方なのか、安倍首相の味方なのか。



141122 「白紙委任要求解散」に断固No!原発再稼働/集団的自衛権/消費増税/辺野古移設「非自民に投票!」

2014年11月23日 00時25分15秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
11月22日(土):

もう一度安倍がやってきたこと、言ってきたことをしっかりと思い出そう。原発再稼働、憲法違反の集団的自衛権、消費増税、特定秘密保護法、福島<棄民>化、普天間基地辺野古移設「<白紙委任要求>解散」を断固拒否して、意地でも今回だけは絶対に<安倍以外(非自民・非公明勢力)>に投票しよう!

「国民に考える暇を与えないナチス型政治との対決」(田中 良紹 | ジャーナリスト) 2014年11月21日 23時41分

衆議院が解散された。解散と同時に選挙戦が始まる。その選挙戦は選挙が公示される12月1日までが本番である。外国と違い日本の公職選挙法は選挙中の運動に様々な縛りをかけており、選挙に入ると自由な活動が出来ない。そのため選挙が始まるまでの運動で当落は決まると言われている。

他の民主主義国では考えられないほど日本の選挙は奇妙な仕組みの中にある。昔、「公職選挙法の珍奇」というブログを書いたので、詳しくはそちらを読んでほしいが、なかでも異常なのは選挙期間の短さである。1年がかりで行われるアメリカ大統領選挙は別格にしても、欧米では選挙期間が短い事を良い事だとは考えない。

国民に判断する時間を与えない事を反民主主義と考える。ところが日本では「選挙にカネがかかる」という理由で選挙期間を短くしてきた。それは現職議員に有利な結果を生みだす。選挙期間が短ければ顔を知られた現職が新人候補より有利になるのは当たり前である。現職議員によって作られた公職選挙法は「政治とカネ」を表向きの理由に世界の民主主義とは逆の方向を向いている。

従って選挙の当落を決めるのは解散から公示までの期間である。それが今度の選挙では11日間に過ぎない。過去最も短い森元総理の「神の国解散」と並んでいる。前回の野田総理の解散では18日間、麻生総理の時は28日間、小泉総理の郵政解散でも22日間の時間があった。しかし安倍総理の解散は国民に考える暇を与えたくない意思を感ずる。

森元総理は「有権者は寝ていてくれれば良い」と発言したが、安倍総理にも同様の考えが読み取れるのである。国民にじっくり考えられると解散の本音を読み取られてしまうと怖れているようだ。安倍総理は今回の解散を「アベノミクス解散」と自ら命名したが、本音を読み取られる前に国民を誘導し、そのままの形で早く選挙を終えたい。それが見えるのである。

何度も書くのは嫌なのだが、解散・総選挙をやらなくとも消費税引き上げ「延期」は法律に従ってやれた。法律に書き込まれているのだから重大な「変更」ではない。もちろん国民に聞く必要もない。にもかかわらず解散に打って出たのには他に理由がある。

一つは「アベノミクス」に先がない事を知っているからである。日銀の追加金融緩和のサプライズで市場を一時的に驚かすことはできた。しかし上がった株価がいつまで持つか実は気が気でない。その前に足場を固めないと、自民党の中からも足を引きずられる恐れがある。

海外は既に「アベノミクス」には先がない事を論じている。日本国債をすべて日銀が買う体制をどこまで続けられるのか、その出口戦略に疑問がある。出口戦略は先に行けば行くほど難しくなるが、どうするつもりなのかが全く見えない。

外国人エコノミストの中には、日銀が国債を買うのではなく同額を国民に配った方がデフレ脱却に効果的だと主張する人もいる。1年以内に使わなければ無効になるカードで国民に配れば、確実に需要が増えてデフレから脱却できるというのである。

またもうけ過ぎの大企業が抱えている200兆円を超える内部留保に課税すれば良いと主張する人もいる。大企業は内部留保を設備投資や賃上げに回す事になり、経済の好循環が生まれるというのである。とにかく「アベノミクス」などやらなくともデフレ脱却の知恵はあるはずだという。

しかし安倍総理には誰かから吹き込まれた「アベノミクス」以外の事を考える能力がない。「この道しかない」と言い募って他の知恵を拒否する。「これしかない」と知恵を持たない者に言われても知恵のある者は困る。無理心中を迫られている気になる。

だが安倍総理が相手にしようとするのは知恵のある者ではない。安倍総理は第二次政権誕生以来、国民から合理的判断能力を奪う事を目的に政治を推し進めてきたように思う。政策課題をめまぐるしく国民に提示してじっくり考えさせることをしない。

アベノミクスも特定秘密保護法も集団的自衛権も地方創生も女性の輝く社会も、十分な時間をかけて議論が行われたという実感がない。肝心な議論は常に先送りで課題だけが中途半端なまま既成事実化されてきた。私がこれまで経験した事のない政治である。

それがこの解散劇にも適用されている。何のための解散か分からない解散をするところに安倍総理の目的はあるようだ。それは国民から合理的な判断能力を奪う。そして理性を感情に委ねる国民を創りだす。私は片山杜秀慶応大学教授の著作によってヒトラーが民主主義のドイツ国民をファシズムに引き入れる時に使った手法がそれである事を知った。

ならばこの選挙は日本国民がナチス型政治に組み込まれるかどうかの選挙である。それは戦後史に於いて日本国民が経験した事のない選挙である。その重大な岐路に立ち向かっている事を国民は自覚すべきだと私は思う。考える暇を与えない政治と対決するのである。



141122 「原発再稼働」の考え方:「内田樹の研究室」より

2014年11月22日 16時12分28秒 | 考える資料
11月22日(土): アベノミクス解散ではない! 原発再稼働、特定秘密保護法、集団的自衛権、消費税増税、辺野古移設「白紙委任要求」解散だ!

11月14日(金)の朝日新聞朝刊(大阪 朝刊 1社会)掲載の【(考・民主主義はいま)原発再稼働、内田樹さんと考える】記事を「内田樹の研究室」にたどって読んだ。「目から鱗の内容」とは思わない。当り前のことが書かれている。むしろ、なぜ、この当然の論理が、今の日本で政治に反映されないかの方が非常に気になる。残念過ぎる。それほどに今の日本の政治状況は行き詰まっているのだ、という指標になる論だと思う。

そもそも安倍晋三首相(!)や麻生太郎財務相(!)という家業政治屋どもの児戯に等しい幼稚さ、知的能力の低さは、瞠目すべきレベルだ。「反知性主義」という表現も恥ずかしくなる。この連中には知性も哲学もない。小学生に1億2千万人、世界第3位の経済大国の国家運営を任せていると言ってもおかしくないのだ。洒落にもならないし、笑い事じゃないが、後世のお笑い草だ!

日本社会に「馬鹿が権力を握る階級社会出現」の弊を痛感せざるを得ない。今の日本は、完全に倒立状態だ。いつ倒れても不思議じゃない。改善すべき答えが明瞭に見えているのに、変えられないこのもどかしさ。我々は、2011/3/11以来、ずっと侮辱を受け続けているのだ。我々を侮辱しているのは、自民党だけではない。自民党最大の補完勢力日本共産党もまた、日本の現状を見て見ぬふりをして今回もまた全選挙区に泡沫候補を出した。

共産党の選挙手法を、政治闘争の多様性だと言って受忍できるほど今の日本の政治状況はよくないのだ。
公明党という宗教政党が、自民党と連立している以上、リベラル票を分けもつ共産党の票がどぶに捨てられることがどれほど日本の政治バランスを崩していることか。安倍晋三という愚かなファシストが現れて日本を破滅に追い込んでいるまさに今も、共産党は中道リベラル勢力結集の足を引き続けるのか。

中道リベラル勢力と協力して、少しでも共産党の主張を政治に反映させて、厳しい生活を送る低所得者層の人々の生活を守ることが本当に大事なことだろう。それをできない硬直した日本共産党という勇気の無い政党も、組織として腐り果てている。今の日本の異常な政治状況を象徴していると言わざるを得ない。

今回の総選挙でもまた、共産党は我々国民を侮辱し続けるのか

*(ここから)東日本大震災による東京電力福島第一原発の事故で運転を止めていた各地の原発を、政府や電力会社は次々と再稼働させようとしている。再び重大事故が起きればその影響は計り知れない。誰もがそう思うのに、なぜそのリスクをとるのか。現代思想家の内田樹さんに聞いた。国にこのまま「いのち」と「暮らし」を預けていいのでしょうか――。(ここまで、朝日新聞)

「川内原発再稼働について」(内田樹)

13日の朝日新聞に掲載された「川内原発再稼働について」の寄稿のロングヴァージョンです(紙面では行数が少し減りました)。九州電力川内原発の再稼働に同意した鹿児島県の伊藤祐一郎知事は7日の記者会見で自信ありげに再稼働の必要性を論じていました。私は「事態は『3・11』以前より悪くなってしまった」と感じました。

原発で万が一の事故があれば、電力会社も国の原子力行政も根底から崩れてしまう。「福島以前」には原子力を推進している当の政府と電力会社の側にもそのような一抹の「おびえ」がありました。でも、東京電力福島第一原発の事故は、その「おびえ」が不要だったということを彼らに教えました。

●福島の責任不問

これまでのところ、原発事故について関係者の誰ひとり刑事責任を問われていません。事故処理に要する天文学的コストは一民間企業が負担するには大きすぎるという理由で税金でまかなわれている。政府と東電が事故がもたらした損失や健康被害や汚染状況をどれほど過小評価しても、それに反証できるだけのエビデンス(根拠)を国民の側には示すことができない。
彼らは原発事故でそのことを「学習」しました。
鹿児島県知事は「たとえこのあと川内原発で事故が起きても、前例にかんがみて、「何が起きても自分が政治責任を問われることはない」ということを確信した上で政治決定を下したのです。

僕も彼らが利己心や邪悪な念によって原発再稼働を進めているとは思いません。彼らは彼らなりに「善意」で行動している。主観的には首尾一貫しているんです。それは、せいぜい五年程度のスパンの中での経済的利益を確かなものにすることです。経営者としては当然のことです。しかし、1億人以上の人が、限られた国土で、限られた国民資源を分かち合いながら暮らし続けることを運命づけられた国民国家を運営するには、百年単位でものごとを考えなければならない。株式会社なら、四半期の収支が悪化すれば、株価が下がり、倒産のリスクに瀕します。だから、「百年先」のことなんか考えていられないし、考えることを求められてもいない。目先の利益確保があらゆることに最優先する。でも、国民国家の最優先課題は「いま」収益を上げることじゃない。これから何百年も安定的に継続することです。株式会社の経営と国家経営はまったく別のことです。原発推進派はそれを混同してしまっている。

社会が成熟すれば経済活動は必ず停滞する。生身の身体の欲求に基づいて経済活動がある限り、「衣食足り」れば消費は頭打ちになる。成熟社会では人口が減り、消費活動は不活発になる。成長しない社会において、どうやって国民資源をフェアに分配するか、この問いに答えるためにはそのための知恵が要ります。でも、わが国の政治家も官僚も財界人も学者もメディアも、誰一人「経済成長が終ったあとに健康で文化的な国民生活を維持する戦略」については考えてこなかった。
「パイ」が増え続けている限り、分配の不公平に人はあまり文句を言いません。でも、「パイ」が縮み出すと、人々は分配が公正かどうか血眼になる。そういうものです。資源の公正な再分配にはそのための知恵が要ります。しかし、今の日本にはその知恵を持っている人も、そのような知恵が必要だと思っている人もいない。
相変わらず「パイが膨らんでいる限り、パイの分配方法に国民は文句をつけない」という経験則にしがみついている。
原発再稼働は「パイのフェアな分配」については何のアイディアもなく、ただ「パイを増やすこと」以外に国家戦略を持たない人たちの必至の結論です。

◆汚染、国土失うリスクに無関心

福島の事故は、放射能汚染で国土の一部を半永久的に失う事態を招きました。でも、尖閣諸島では「国土を守れ!」と熱する人々も原発事故で国土が失われるリスクにまったく関心を示さない。それはナショナリストたちも「パイが大きくなる」こと以外に何の目標も持っていないからです。
領土問題で隣国と競り合うのは、彼らの眼には領土もまた「パイ」に見えているからです。
中国や韓国の「取り分」が増える分だけ、日本の「割り前」は減る。そういうゼロサムゲームで彼らは国際関係を捉えている。だから、国内における国土の喪失には特段の意味を感じないのです。

原発を稼働すれば経済戦争で隣国に対するアドバンテージが得られると訊けば、この「ナショナリスト」たちは国土の汚染や国民の健康被害など「無視していい」と平然と結論するでしょうし、現にそうしている。

●目先の金求める

日本が誇れる国民資源は何よりも豊かなこの「山河」です。国破れて山河あり。戦争に負けても、恐慌が来ても、天変地異やパンデミックで傷ついても、この山河がある限り、国民は再生できます。日本の森林率は67%で世界トップクラス。温帯モンスーンの肥沃な土壌のおかげで主食のコメはなんとか自給できます。豊富な水、清浄な大気。これらがほとんど無償で享受できる。こんな豊かな山河に恵まれた国は世界でも例外的です。国民が知恵を出し合ってフェアに分配し、活用すれば何世紀も生きているだけの「ストック」がある。なぜ、国土を汚染し、人間が住めない土地を作るリスクを冒してまで目先の金を欲しがるのか。それは原発推進派の人たちには「長いスパンで国益を考える」という習慣がないということでしか説明できません。
     
原子力発電から手を引くのは文明の退化だ。そんな主張をなす人もいます。でも、原子力発電と人類の文明の成熟の間に相関はありません。
20世紀初頭に米・テキサスで大油田が見つかり、「ただ同然」のエネルギー源を利用した内燃機関文明と今日に至るアメリカの覇権体制が基礎づけられました。でももしあのときテキサスで油田が見つかっていなければ、20世紀のテクノロジーはおそらくまったく別のかたちを取っていたでしょう。石油エネルギーは人類がある時点で「たまたま」選んだ選択肢の一つに過ぎません。
原子力もそれと同じです。原子力がなければ、それに代わる何かを私たちは見出す。文明というのは人間の知性のそのような可塑性と自由度のことです。原子力がなければ滅んでしまうような文明は文明の名に値しません。

●経済成長よりも

多くの国民は国土の汚染や健康被害のリスクを受け入れてまで経済成長することよりも、あるいはテクノロジーの劇的な進化よりも、日本列島が長期的に居住可能であり、安定した生活ができることを望んでいます。
成長なき社会では、「顔の見える共同体」が基礎単位となることでしょう。地域に根を下ろした中間共同体、目的も機能もサイズも異なるさまざまな集団が幾重にも重なり合い、市民たちは複数の共同体に同時に帰属する。生きてゆくためにほんとうに必要なもの(医療や教育や介護やモラルサポート)は市場で商品として購入するのではなく、むしろ共同体内部で貨幣を媒介させずに交換される。そのような相互支援・相互扶助の共同体がポスト・グローバル資本主義の基本的な集団のかたちになるだろう
と私は予測しています。百年単位の経済合理性を考えれば、それが最も賢いソリューションだからです。         (日時: 2014年11月15日 08:57)

うちだ・たつる 1950年生まれ。東京大文学部卒。神戸女学院大名誉教授。専門はフランス現代思想。著書に「日本辺境論」「街場の共同体論」「街場の戦争論」など。武道と哲学のための学塾「凱風館(がいふうかん)」館長を務める。


141119 健さん安らかに。遙かなる山の呼び声(1980)感想5/幸福の黄色いハンカチ(1977)感想5

2014年11月19日 22時45分08秒 | 映画・映像
11月19日(水): 「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」

 

 昨日、高倉健さんが11月10日(月)にお亡くなりになったというニュースが流れた。昨夜は、俺の中の健さん映画No.1「遙かなる山の呼び声」(1980:山田洋次監督)を布団に入って観た。今朝は寝不足だった。この映画で、俺は健さんの信者になった。俺にとって理想の男性像だった。乗馬の健さん、かっこいい! 子役の吉岡秀隆もよい。

 今晩は仕事から帰宅後、No.2「幸福の黄色いハンカチ」(1977:山田洋次監督)を観た。武田鉄矢と桃井かおりの演技も光っていた。

 二本とも倍賞千恵子と渥美清、武田鉄矢が出ていた。49歳と46歳の健さんは、精悍さにに渋みが加わり、様々な表情を見せてくれてた。これらの映画を何度見かえしてきたことだろう。

 健さんは俺にとって、大切な「美しい風景」の一つだった。健さんの死を、あまり残念だとは思わない。たくさんの作品を残してくれたから。御冥福をお祈りします。

4 024 渡井さゆり「「育ち」をふりかえる」(岩波ジュニア新書:2014) 感想5

2014年11月18日 01時39分36秒 | 一日一冊読書開始
11月17日(月): ※副題「「生きてていい」、そう思える日はきっとくる」

  221ページ  所要時間 3:10    図書館

著者31歳(1983生まれ)。児童養護施設などで生活した人たちが気軽に集えるNPO法人「日向ぼっこサロン」創設者かつ元代表。現在は二人の子育てのため引退(充電?)している。

すでに時計は日付をまたいでいるのに、またしてもひどい地雷を踏んでしまった。存分に感想を書きたいが、時間も気力・体力も残りわずかだ。

始め、31歳の著者の若さを甘く見ていた。少し拙くても誠実で正直で一所懸命な著者の文章の格調は高い。スピード感に満ちて、刃をあてれば、切れて血の出る文体だ。本書中、両親の離婚、母のネグレクトという最悪の「育ち」の中で、眠ったように動かなかった著者の心が、突如運命に抗して疾走し始める。変化とテンポは速いが、カラカラカラカラと空回りを繰り返しながら、何かに取り憑かれたかのように出口を求めて走り続ける。

養護施設を出た後、アルバイトで貯めたなけなしの138万円をはたいて、NGOが企画した3ヶ月半の世界一周の船旅に飛び出し、帰国後も、居所もない経済的苦闘の中で夜間大学に進学し、社会福祉の勉強を始める。そして、寄る辺なき孤立したはずの著者の周りに人が現れ始め、「勉強会日向ぼっこ」の立ち上げから、突如道が開け、その道に向かって著者は息もつかせず突進していく。

ついには厚生労働省が動く、追い風優先の中で、付いて来られない仲間は振り落としながら、国のモデル事業の認可を受け、「社会的養護の課題と将来像」という国の報告書がまとめられる。

しかし、二人目の子を身ごもった著者の心身が悲鳴をあげる。自身の心の傷も残したまま走り続けてきた著者だが、「子どものために」と突然活動を放棄してしまう。引き継ぎではなく、放棄である。俺はこのあたりの正直さが人間らしくて好きだ。

本書は、知られることの少ない「児童養護施設」について、そこで「育ち」、経済的に切迫した窮状の中、心に重い傷を持ちながら自分の道を探し続けた著者による紹介である。ノンフィクションだが、「人間失格」からの<再生>の物語りとして、下手な小説よりはるかに“読み物”として面白い。

明日の仕事に差し支えるので、この辺でペンを擱くが、何のことだ…? という人も多いと思うが、実のところ俺自身も「児童養護施設」「母子生活支援施設」「一時保護所」「大舎制」「里親家庭」「児童福祉司」「生い立ちの整理」「措置延長」「児童心理司」「ユニットケア」「社会的養護の課題と将来像」etc. 一読、すべてを了解とはいかないが、本書は時間をおいて是非もう一度読み返そうと思う。その価値がある。

以下、岩波書店HPから
■目次
1 子どものころ:父と母,そして私/母子生活支援施設での暮らし/転校を繰り返して/大舎制の児童養護施設での暮らし/一時保護所とグループホームでの暮らし/父の死/アルバイト/高校卒業
2 施設を巣立って:地球一周の船旅/フリーター/自傷行為/生きる意味/退所者支援/社会的養護の変遷
3 子どもの自分を育てる:瞼のおじいちゃん/もう,ひとりじゃないよ/子どもたちのおかげで/親からの解放/「私」を生きる
■内容
親に愛された記憶を持たず,母子生活支援施設や児童養護施設で長く暮らした著者が自らの生い立ちを辿ります.孤独と疎外感,深い絶望のなか,自分は何のために生きているのかと問い続けた日々….
困難と向き合いながら生きる意味を探し,当事者が集い語り合う場「日向ぼっこ」の活動などにたずさわってきた著者が,やがて「生きててもいいんだ」という思いに辿りつくまでの歩みを綴ります.
■著者紹介
渡井さゆり:1983年,大阪府生まれ.家庭の事情で,幼少の頃から母子生活支援施設や児童養護施設など社会的養護のもとで暮らす.高校卒業と同時に施設を退所し,フリーターを経て東洋大学社会学部社会福祉科に進学.在学中の2006年に「児童養護の当事者参加推進勉強会 日向ぼっこ」を立ち上げる.2007年,大学卒業と同時に児童養護施設などで生活した人たちが気軽に集える「日向ぼっこサロン」を開設.2013年に引退し,現在は家族(夫・一男一女)との時間を大切に過ごしている.著書に「大丈夫.がんばっているんだから」(徳間書店)がある.


150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)