8月5日(火):
朝日新聞夕刊の池澤夏樹【終わりと始まり】で、
これはどういうことだろう。我々は、史上かつて例のない新しい天皇の姿を見ているのではないだろうか。
(略)
天皇は言論という道具を奪われている。しかしこの国に生きる一人として、思うところは多々あるだろう。その思いを言論で表すことができないが行動で表すことはできる。国民はそれを読み解くことができる。
八十歳の今上と七十九歳の皇后が頻繁に、熱心に、日本国中を走り回っておられる。訪れる先の選択にはいかなる原理があるか?
みな弱者なのだ。
(略)
今上と皇后は、自分たちは日本国憲法が決める範囲内で、徹底して弱者の傍らに身を置く、と行動を通じて表明しておられる。お二人には実権はない。いかなる行政的な指示も出されない。もちろん病気が治るわけでもない。
しかしこれほど自覚的で明快な思想の表現者である天皇をこの国の民が戴いたことはなかった。
を読んだ時、泣きそうになった。俺は、押し付けられる「日の丸」に反対だし、「君が代」は生理的に受け付けない。“天皇制”そのものにも批判的な厳しい考えを持っている人間だが、今の天皇・皇后夫妻に対しては、心の底から尊敬と敬愛心を持ってしまっている。時に泣きそうになるほど、有難いとも思っている。今日の池澤夏樹の文章は、俺がふだんから感じている心の琴線に触れるものだった。確かに、俺も、そう思う。
全部載せちゃいます!:
(終わりと始まり)弱者の傍らに身を置く 自覚的で明快な思い 池澤夏樹 2014年8月5日16時30分
この半年、『古事記』の現代語訳という仕事をしてきて、ようやく最後のページに辿(たど)りついた。へとへと。
『古事記』は神話と系譜と歌謡から成るのだが、そこに天皇という太い軸が一本ずっと通っている。
「天皇」とは「天」によって権威を保証された「王」である。世界の始まりの時、まず神々が生まれ、大地が生成し、神たちはどんどん増えて、その中の一人が地上に派遣され、人として統治の任に就いた。初代神武天皇はまずもって平定者であり国家建設者であった。
「上巻」はほとんど神話。それが「中巻」から「下巻」へと進むにつれて人間らしい話が増えてゆく。夫と兄とどちらが大事かと兄に問われて、思わず兄と答えてしまった后(きさき)(沙本毘売〈さほびめ〉)の悲劇など、古代人のまっすぐな心の動きがよくわかる。
訳し終えて、やはりこれは王たちの物語だと思った。つまり、世界のあちこちにあった王族の由来譚(たん)の一つ。しかし神話から歴史に戻ってその後を見ると、「天皇」はずいぶん特異な王権である。藤原氏による摂関政治のあたりから武家政治を経て幕末まで、ほとんど権力を行使していない。
天皇の責務は第一に神道の祭祀(さいし)であり、その次が和歌などの文化の伝承だった。国家の統治ではない。だからこそ、権力闘争の場から微妙な距離をおいて、百代を超える皇統が維持できたのだろう。後鳥羽院はまず超一級の詩人で、次いで二級の君主だった(それでも天皇にしては政争過剰)。こんな王が他の国にいたか。
千年を超える祭祀と文化の保持の後に維新が起こり、ヨーロッパ近代が生んだ君主制が接ぎ木される。島国は島のままではいられなくなった。グローバルな戦争の果てに、昭和天皇は史上初めて敗者として異民族の元帥の前に立たされた。この人について大岡昇平が「おいたわしい」と言ったのはそういうことではなかったか。一人の人間としての昭和天皇の生涯を見れば、大岡の言葉はうなずける。
*
七月二十二日、今上と皇后の両陛下は宮城県登米市にある国立のハンセン病療養所「東北新生園」を訪れられた。これで全国に十四カ所ある療養所すべての元患者に会われたことになる。
六月には沖縄に行って、沈没した学童疎開船「対馬丸」の記念館を訪れられた。戦争で死んだ子供たちを弔い、今も戦争の荷を負う沖縄の人々の声を聞かれた。
昨年の十月には水俣に行って患者たちに会われている。
東日本大震災については直後から何度となく避難所を訪問して被災した人たちを慰問された。
これはどういうことだろう。我々は、史上かつて例のない新しい天皇の姿を見ているのではないだろうか。
日本国憲法のもとで天皇にはいかなる政治権力もない。時の政府の政策についてコメントしない。折に触れての短い「お言葉」以外には思いを公言されることはない。行政の担当者に鋭い質問を発しても、形ばかりのぬるい回答への感想は口にされない。
つまり、天皇は言論という道具を奪われている。しかしこの国に生きる一人として、思うところは多々あるだろう。その思いを言論で表すことができないが行動で表すことはできる。国民はそれを読み解くことができる。
*
八十歳の今上と七十九歳の皇后が頻繁に、熱心に、日本国中を走り回っておられる。訪れる先の選択にはいかなる原理があるか?
みな弱者なのだ。
責任なきままに不幸な人生を強いられた者たち。何もわからないうちに船に乗せられて見知らぬ内地に運ばれる途中の海で溺れて死んだ八百名近い子供たち、日々の糧として魚を食べていて辛い病気になった漁民、津波に襲われて家族と住居を失ったまま支援も薄い被災者。
今の日本では強者の声ばかりが耳に響く。それにすり寄って利を得ようという連中のふるまいも見苦しい。経済原理だけの視野狭窄(きょうさく)に陥った人たちがどんどんことを決めているから、強者はいよいよ強くなり弱者はひたすら惨めになる。
強者は必ず弱者を生む。いや、ことは相対的であって、弱者がいなければ強者は存在し得ない。水俣ではチッソと国家が強すぎた分だけ漁民は弱すぎた。ぼくも含めて国民はたぶん無自覚なままにチッソの側にいたのだろう。
今上と皇后は、自分たちは日本国憲法が決める範囲内で、徹底して弱者の傍らに身を置く、と行動を通じて表明しておられる。お二人に実権はない。いかなる行政的な指示も出されない。もちろん病気が治るわけでもない。
しかしこれほど自覚的で明快な思想の表現者である天皇をこの国の民が戴(いただ)いたことはなかった。
朝日新聞夕刊の池澤夏樹【終わりと始まり】で、
これはどういうことだろう。我々は、史上かつて例のない新しい天皇の姿を見ているのではないだろうか。
(略)
天皇は言論という道具を奪われている。しかしこの国に生きる一人として、思うところは多々あるだろう。その思いを言論で表すことができないが行動で表すことはできる。国民はそれを読み解くことができる。
八十歳の今上と七十九歳の皇后が頻繁に、熱心に、日本国中を走り回っておられる。訪れる先の選択にはいかなる原理があるか?
みな弱者なのだ。
(略)
今上と皇后は、自分たちは日本国憲法が決める範囲内で、徹底して弱者の傍らに身を置く、と行動を通じて表明しておられる。お二人には実権はない。いかなる行政的な指示も出されない。もちろん病気が治るわけでもない。
しかしこれほど自覚的で明快な思想の表現者である天皇をこの国の民が戴いたことはなかった。
を読んだ時、泣きそうになった。俺は、押し付けられる「日の丸」に反対だし、「君が代」は生理的に受け付けない。“天皇制”そのものにも批判的な厳しい考えを持っている人間だが、今の天皇・皇后夫妻に対しては、心の底から尊敬と敬愛心を持ってしまっている。時に泣きそうになるほど、有難いとも思っている。今日の池澤夏樹の文章は、俺がふだんから感じている心の琴線に触れるものだった。確かに、俺も、そう思う。
全部載せちゃいます!:
(終わりと始まり)弱者の傍らに身を置く 自覚的で明快な思い 池澤夏樹 2014年8月5日16時30分
この半年、『古事記』の現代語訳という仕事をしてきて、ようやく最後のページに辿(たど)りついた。へとへと。
『古事記』は神話と系譜と歌謡から成るのだが、そこに天皇という太い軸が一本ずっと通っている。
「天皇」とは「天」によって権威を保証された「王」である。世界の始まりの時、まず神々が生まれ、大地が生成し、神たちはどんどん増えて、その中の一人が地上に派遣され、人として統治の任に就いた。初代神武天皇はまずもって平定者であり国家建設者であった。
「上巻」はほとんど神話。それが「中巻」から「下巻」へと進むにつれて人間らしい話が増えてゆく。夫と兄とどちらが大事かと兄に問われて、思わず兄と答えてしまった后(きさき)(沙本毘売〈さほびめ〉)の悲劇など、古代人のまっすぐな心の動きがよくわかる。
訳し終えて、やはりこれは王たちの物語だと思った。つまり、世界のあちこちにあった王族の由来譚(たん)の一つ。しかし神話から歴史に戻ってその後を見ると、「天皇」はずいぶん特異な王権である。藤原氏による摂関政治のあたりから武家政治を経て幕末まで、ほとんど権力を行使していない。
天皇の責務は第一に神道の祭祀(さいし)であり、その次が和歌などの文化の伝承だった。国家の統治ではない。だからこそ、権力闘争の場から微妙な距離をおいて、百代を超える皇統が維持できたのだろう。後鳥羽院はまず超一級の詩人で、次いで二級の君主だった(それでも天皇にしては政争過剰)。こんな王が他の国にいたか。
千年を超える祭祀と文化の保持の後に維新が起こり、ヨーロッパ近代が生んだ君主制が接ぎ木される。島国は島のままではいられなくなった。グローバルな戦争の果てに、昭和天皇は史上初めて敗者として異民族の元帥の前に立たされた。この人について大岡昇平が「おいたわしい」と言ったのはそういうことではなかったか。一人の人間としての昭和天皇の生涯を見れば、大岡の言葉はうなずける。
*
七月二十二日、今上と皇后の両陛下は宮城県登米市にある国立のハンセン病療養所「東北新生園」を訪れられた。これで全国に十四カ所ある療養所すべての元患者に会われたことになる。
六月には沖縄に行って、沈没した学童疎開船「対馬丸」の記念館を訪れられた。戦争で死んだ子供たちを弔い、今も戦争の荷を負う沖縄の人々の声を聞かれた。
昨年の十月には水俣に行って患者たちに会われている。
東日本大震災については直後から何度となく避難所を訪問して被災した人たちを慰問された。
これはどういうことだろう。我々は、史上かつて例のない新しい天皇の姿を見ているのではないだろうか。
日本国憲法のもとで天皇にはいかなる政治権力もない。時の政府の政策についてコメントしない。折に触れての短い「お言葉」以外には思いを公言されることはない。行政の担当者に鋭い質問を発しても、形ばかりのぬるい回答への感想は口にされない。
つまり、天皇は言論という道具を奪われている。しかしこの国に生きる一人として、思うところは多々あるだろう。その思いを言論で表すことができないが行動で表すことはできる。国民はそれを読み解くことができる。
*
八十歳の今上と七十九歳の皇后が頻繁に、熱心に、日本国中を走り回っておられる。訪れる先の選択にはいかなる原理があるか?
みな弱者なのだ。
責任なきままに不幸な人生を強いられた者たち。何もわからないうちに船に乗せられて見知らぬ内地に運ばれる途中の海で溺れて死んだ八百名近い子供たち、日々の糧として魚を食べていて辛い病気になった漁民、津波に襲われて家族と住居を失ったまま支援も薄い被災者。
今の日本では強者の声ばかりが耳に響く。それにすり寄って利を得ようという連中のふるまいも見苦しい。経済原理だけの視野狭窄(きょうさく)に陥った人たちがどんどんことを決めているから、強者はいよいよ強くなり弱者はひたすら惨めになる。
強者は必ず弱者を生む。いや、ことは相対的であって、弱者がいなければ強者は存在し得ない。水俣ではチッソと国家が強すぎた分だけ漁民は弱すぎた。ぼくも含めて国民はたぶん無自覚なままにチッソの側にいたのだろう。
今上と皇后は、自分たちは日本国憲法が決める範囲内で、徹底して弱者の傍らに身を置く、と行動を通じて表明しておられる。お二人に実権はない。いかなる行政的な指示も出されない。もちろん病気が治るわけでもない。
しかしこれほど自覚的で明快な思想の表現者である天皇をこの国の民が戴(いただ)いたことはなかった。