もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

4 089 司馬遼太郎「翔ぶが如く (四)」(文春文庫:1972~76) 感想 5

2015年05月31日 23時11分55秒 | 一日一冊読書開始
5月31日(日):

309ページ   所要時間 7:30   蔵書

著者49~53歳(1923-1996)。

 どうも既読は、第四巻の前半までだったようだ。後半からは、全く未読の世界に突入した。

 全盛期の司馬遼太郎作品の重厚さには圧倒される。この作品で顕著な特徴が、著者の寄り道だが、あっちへこっちへ立ち寄るのだが、その立ち寄り先で本格的に論が展開されるので、作品が時に本題を忘れた感を呈する。読み手も著者から提示される深くて広い解説を理解するのに集中して、力尽きてしまいそうになる。せめて1ページ30秒で読まねばと考えるのだが、少しでも興に乗るとあっという間に1ページ90~120秒ぐらいになってしまう。中身が濃いのだ。

 第四巻では、征韓論争に敗れた西郷が下野して鹿児島に帰った後、江藤新平が佐賀の乱を起こしたが、大久保が直々に乗り出して、まともな裁判もせずに処刑・梟首(キョウシュ)にする。情け無用の苛烈な処分は、西郷を頂く薩摩士族に対する示威・警告であった。独立国の様相を呈する薩摩では、西郷や県令大山綱良によって全体主義的政党に似た私学校組織が作られる。その後、大久保を中心とした東京政府は、薩摩士族のエネルギーのガス抜きのために、杜撰な計画で台湾出兵を強行する。西郷従道陸軍大輔が3600の兵を率いて台湾に行くが、戦死者12人に対して半年の病死者561人を出す。

 事前の根回しなしに実行された台湾出兵に対して、英国を中心に列強が激しく反発。中国も重い腰を上げて軽率をなじる。「どうもこの問題はこじれるぞ」という感じで、第四感は終わり。本書を第10巻まで読み切る自信がどうも持てない。高く聳える壁のようだ。

・結局、征韓論争は、欧米を実際に見た人間と見てない人間の原体験の違いだった。
・村田新八の人物像は、とても魅力的だった。

150531 水上勉「拝啓池田総理大臣殿」( 『中央公論』1963年6月号,pp.124-134)

2015年05月31日 19時32分04秒 | アーカイブ
5月31日(日):

拝啓池田総理大臣殿
水上 勉 1963 『中央公論』1963年6月号,pp.124-134
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 われわれの税金は果して正しくつかわれているだろうか。身体不自由な娘をもった一人の作家が、税制の不合理と社会保障の欠陥を追及した切々たる公開状

拝啓 池田総理大臣殿
 ご多忙な総理が、ふと自宅でテレビをみておられて、定時制高校卒業生の差別問題にいたく心を動かされ、さっそく、翌日にこの問題を閣議の席上で審議にかけられ、長いあいだの課題であった定時制高校卒業生の資格に、陽の目をあたえられたという新聞記事をよんで私は、正直のところ、あなたにほのかな親しみを感じたものの一人であります。そこで、このような文章をあなたにさしあげる勇気が出ました。どうぞ、テレビでもごらんになるつもりで、私のこの拙文に三、四十分あまりの時間をさいて下さい。
 私は、主として今日まで推理小説を書いてきた作家です。三、四年前から、日本の読書界に起こった推理小説ブームのおかげもあり、私は私の名を一部読者におぼえられるようになり、小説の注文も月々多量にひきうけるような境遇にあります。むかし(といっても、つい四、五年前まで)にくらべますとずいぶん収入も多くなり、本年度の私の居住する地域の東京都豊島区税務所の査定によりますと私には三千四百万円もの収入があり、それに課税された所得税額は、五百八十七万円ということでありました。これは所得税額だけであって、そのほか、区民税、さらに納入ずみの諸税金を加えますと私の税金はだいたい一千一百万円近い額にのぼるということを税務所の方から申しわたされました。私は正直のところ、びっくりしました。私は三、四年前までは、家内を外へ働きに出し、私も、また洋服の行商をしているというような貧乏な間借り生活をしておりました。所得税はおろか、区民税さえも期日に払うことが出来ずに、何ども督促をうけながらも、ようやく利子をつけて支払うような生活を長いあいだしてまいりました。そのためか、一千万円以上の税金を支払△124▽125うなんてことはまったく夢のような気がしたものです。
 しかし、収入はそのとおりありましたし、私がハンコを押して受けとっているのでもありますから、政府でおきめになった税法どおり、私は払わざるを得ません。それで、私はきめられたとおりにすでに、第一期分を支払い、五月の末までには、残額全部を支払わねばならない立場にあります。ところで、一千万円以上もの金が、いったん、私のふところに入っておって、それがまた時日を経てから出てゆくかと思うと一抹のかなしさが無くはありません。私は人いちばい強欲なのでしょうか。小さい時から、貧乏な家に育ち、禅宗の寺へ小僧にやらされ、小僧がいやでその寺をとび出して以来、十二歳ごろからひもじい思いばかりして放浪してきて、お金なども、財布に入れてもらったことのないほどの貧乏をしてきておりますので、つい、自分の手に入った大金が、法律によって、よそへ出てゆくというようなことが、実感としてわからなく、まったく損をするみたいな気もちになるわけです。
 決して、私の税金を払うことを私がイヤがっていっているわけではありません。毎日毎夜寸時も原稿紙からはなれたこともなく、背中のよこにコブを二つもつくり、四年前からの痔の手術も、歯槽膿漏の手術もする時間も惜しんで、原稿用紙に小説を書いて得た金が、一年間三千四百万にもなったのであります。そのうちの三分の一の金が、よそへ逃げてゆくかと思うと私はただかなしい思いがするだけです。だが、これも、日本国民としての私の納税義務だとあきらめてしまえばそれで納得もできるのでありますが、正直のところ、わたしは、この約一年前ごろから、とくに、今日このごろ、私が一生懸命勤労する仕事の量と、税金と、それから、私の生活面に起ってきているある特殊な事情の三つが関連してどうしても、私は暗い気分にならざるを得ないのであります。それをうちあけたったのが、この文章の目的なのです。

 去年の九月のはじめに、私の妻は一人の身体不自由な子を産みました。病名は脊椎破裂といい、背中の骨がとび出て、大きな肉腫ができていました。せむしのような恰好で出てきたのをみて、私たち夫婦は、死んでしまいたいほどびっくりしました。医者は、一万人の中の一人の子だと申しまして、たぶん、このまま死ぬだろうからあきらめてくれ・・・・というなことをいうかと思うとまた、ある医者は手術をすれば、背中のコブはなくなる。けれど神経障害はまぬかれない、だが、それも、根気よく治療してゆけば、一人前の人間にすることは可能だといいました。私たちは、看護婦からも、医者からも見はなされたような、奇型の子が、ガラスの箱の中でもがいているのをみました時、どうにかして、生かしてやりたい、この子が生きようとするのなら、全力をつくして、生かしてやりたいと思うようになりました。まもなく外科手術を行ない、背中の肉腫を除去することに成功しまし△125▽126た。手術後の経過はよくて、子もふつうの赤ちゃんと同じようなつややかな顔をとりもどして笑顔をみせるようになりましたが、今日も頭形肥大、両肢不随、歩行困難の症状はなおりません。
 約三ヶ月間病院に入れておりましたけれど、月々に八十万円ちかい諸経費も大変に思われもしましたので、豊島区の自宅へつれてもどり、只今は自宅療法と病院通いをしているわけです。私たちは最初、この子がうまれた時、世にも不幸な親たちは自分たちではないかと思ったりもしたものです。ところがあとになって、私は、私の子と同じような症状の赤ちゃんが、この世に、なんと、何万人とも知れず生まれている、そうしてその子たちが半身不髄のまま今日も生きているということをきいてびっくりしたのです。
 私は作家であります。この子のうまれた当日の模様や、親としてのかなしみや、新しく芽生えてきたこの子への愛などについて、考えるところもありましたので、そのことを、雑誌に、体験記ふうに発表してみたことがあります。すると、この私の文章を読んで、全国から約三百通あまりの手紙が私あてに届きました。それらはみな、私と同じようなかなしみをもち、身体不自由な子を養っていらっしゃるお母さんからの手紙なのです。私はふたたび、びっくりしました。中にこんなのがあったからです。
 「水上センセイ。ワタクシモ、アナタト同ジセキツイハレツノ子ヲモッテヰマス。ワタシノ子ハコトシ十八才ニナリマスガ歩ケマセン。学校ヘイッテヰマセン。十八年間、ワタシハ子ヲ病院ヘカヨワセテヰマス。子ハ両足ガフラフラシテヰテ、頭モ大キク、ウチデジィットシテヰマス。ケレドモ、ワタシハコノ子ヲカワイガッテ育テテヰマス。コノ子ヲ愛シテクダサル人ハ世ノ中ニナイカラデス。ワタクシダケガコノ子ノ母ダカラデス。十八年カン、ワタシハイロイロトコノ子ニ教エラレタコトガアリマシタ。ニイガタハ雪ノ多イトコロデス。病院ヘユクタメニ、車ニノセテユキマス。雪ミチノスベル日ハ、車ニチェンヲマイテ、ワタシハ元気デ車ヲオシテユキマス。
 水上センセイ。アナタノオ子サンモ、キット、リッパニ大キクナリマス。ワタシハセンセイガ、ワタシト同ジ子ヲモッテオラレルトキイテ、一ソウ元気ガデマシタ。コレカラモ。友ダチニナッテクダサイ。」
 片仮名で書きましたのは理由があります。この婦人は四十歳を出た人でした。おそらく農村の人ではないでしょうか。病院へゆくのに、手押車でゆかねばならないところだといっておられますから。私は十八年間も、学校へもゆかないで、田舎の家で自宅療養しておられるこの手紙の主のお子さんのことを思うと眼がくもりました。こんなのがあります。
 「水上先生、私は先生と同じ子をもつ熊本県の一母親です。先生の直子さんと同じように、うちの子も生れたときは医者△126▽127に見はなされました。けれども、理解ある個人外科医の手術で、どうやら脊椎神経を直すことに成功して、頭形肥大、歩行困難の子として今日になりましたが、今は七歳になり入学を迎えました。ところが、一般の学校へ入れるのは子がかわいそうな気もしますし、どこか、重症身体障害児の学校がないものかと思ってさがしますけれど、熊本県には一校もありません。それで、何とか義務教育だけはさせてやりたいと日夜悩んでおります。
 先生のお子さまも、やがて、学校へゆかれる日がこられるでしょう。東京には私どものような障害児の学校があるときいていますが如何せん、私ども安サラリーマンの家庭では、子を遠い町へ放してまで、養育する余裕はありません。いろいろと悩んでおりますが、先生の雑誌の文章を読んで励まされました。たとえ歩けない子でも、立派な人間にしてやろうと書かれた先生の父親としての文章に、本当に元気づけられました。義務教育がうけられなくても、私たちはうちの子を立派に育てようと思っております」
「私は先生の文章をよんで感じたことを書きます。じつは私も、神経障害で、ことし、二十歳になる女性です。私は歩けますが、後遺症の難聴でこまっています。家が貧しいので働かなければなりませんので、耳が遠いこと秘して就職しますと、すぐにクビになってしまいます。そのために、私は、今日まで二十二の職業を転々としてしまいました。つくづく、世の中がいやになって死んでしまいたいと思うことがあります。けれども、こんど先生の文章を読んで元気がでました。先生も、元気でお子さんを大切にお育てになるように祈ります。」
 三通の手紙は、その代表的なものではありません。手許にあります三百通の手紙の一部をおみせするまでです。それぞれ似たような境遇の成人になられた本人か、もしくは母親や父親の、障害児をもったために、苦しまねばならなかったかなしみで充満したものばかりであります。

 総理大臣。私はこのような手紙をあなたによんでいただきたいために、わざわざこの手紙をここにつらねたのではありません。世の中には、不幸な子をもつ家がずいぶん多いものだということを総理に知ってほしかったためなのです。
 私は、熊本県に身体障害児を教育する学校が本当にないか、そのことについてまだしらべていません。しかし、私へきた手紙では、一校もないといってきております。おそらく、新潟県の雪の村で十八年間も家にひきこもっておられる障害児の村も、そういう施設は遠いのではありますまいか。私は、身体障害の子としてうまれた人間は、日本のある地方では教育からしめだしを喰っているような思いがして、慄然(りつぜん)としました。
 私は、都内や周辺にある身体障害児の施設や養育園に関△127▽128心をもつようになったのは、これらの手紙に接してからであります。正直のところ、私自身、ひとりの障害児をもっているとはいえ、生来、暢気な性質でもある私はまだ、二歳になってまもない私の子供の五年のちの入学のことや、教育のことなど、切実に考えるところまでいっていなかったのでした。私の考えていることは、何とかして、歩かせてやりたい、それだけが切実な希望だったのであります。ところが、これらの手紙に接してからというものは、私の子も入学期がくることに思いが走り、どのような施設に入れて、義務教育をうけさせてやろうかと心配が起きたからにほかありません。ところが、しらべてみますと、軽症児童の学園や養育園でさえが満員で、なかなか入れないという母親たちの声が私にきこえてきました。つまり設備が足りないということなのでしょう、重症児は尚更であります。
 いま、手もとにあります『厚生白書』という本を繙いて、総理大臣におみせします。次のように書かれてあります。
 「いわゆる『重症心身障害児』の問題がある。これは障害がきわめて重度であり、また二種以上の障害が重複しており、現行の児童福祉施設への収容は、実際上不可能である。現在は、民間団体において、収容療育の方法を研究中であるが、能力開発がとうてい期待しえないこれらの児童に対しては手厚い保護をよりいっそうに強化すべきであろう」(傍点筆者)
 因みにこの白書は昭和三十八年二月十五日の発行であります。今年の二月現在において、政府は、白書の示すとおりの、重症心身障害児に対しては、このような民間の篤志家まかせの対策しかもちあわせていなかったのでありましょうか。
 東京の南多摩郡多摩村落合中沢というところに、島田療育園という重症心身障害児の収容施設があります。
 ここには約五十人の盲、オシ、ツンボ、精薄、脳性麻マヒ、テンカン、奇型などの障害を、一身でいくつも背負っているかわいそうでみじめな子供が収容されています。こうした子供さんたちは、ダブル・ハンディキャップといわれて、人一ばい手がかかるために、一般の児童福祉施設や精薄児や盲、ロウアの施設などからしめだしをくったのです。ところが、ひとりの篤志家の決意によって設けられたこの施設に収容されることになったのです。「世の中には、重症心身障害の子を家にかくしてひそかに育てている人たちが、何万人いるだろう。むかしのように座敷牢に入れたり、まるで飼い殺しにするような状態から、何とかしてその子たちを救いたい」念願からこの療育園は出発したのだと小林提樹園長はいっています。「重い心身障害をもつ子どものお父さん、お母さん、どうぞ、連絡して下さい。どうしたら、その子がしあわせになれるか、いっしょに考えようではありませんか」と園長さんは世間によびかけているそうです。
 ところがこの島田療育園に、現在まで政府が、どのような援助をなされたか、私がしらべたところによりますとだいた△128▽129い、次のようになります。昭和三十六年度四百万円。三十七年度六百万円。それだけであります。現在この療育園で、一児につき実費三十六万円かかるそうです。現在では合計二千七百万円の実費のかかる収容児をもっていますが、政府補助は、わずかに全経費の二割にしかなりません。療育園では、この不足分をどうしておられるかというと、募金などに頼っているとの返答です。小林園長はこうつけ足しています。
 「昭和三十八年度は″重症心身障害児養育費″として補助費が出る約束はしてくれているが、交付金はまだ発表されていない。地方自治体のレベルでは重症児に対して年金を払うというような動きも出てきていて、たとえば神戸市などでは、昨年十月から、一児に対して年間一万円弱の年金です。神戸市長はこの額では慰労程度のものだが、といっているそうですが、新しい動きとして注目されます」
 まことに寒い思いがします。総理大臣はどう思われましょうか。

 私は、総理が日本の政治の総元締の地位にあられることを知っています。外交、文教、開拓、商工振興、鉄道、観光など、あらゆる国が事業を行なう上(うえ)にあって、それを統率遂行なさる立場にある方だと知っております。総理は日夜、多忙であられます。そこで、総理は本年初頭に、明年度の予算は健全積極性のものにすると表明されました。一般会計の規模は二兆八千五百億円(外債などを入れると一兆七百億円)ぐらいで、本年度に比べて、一般会計で、一七・五パーセント、財政投資計画で二〇パーセントの増となるだろうということを言われました。
 作家の私が、総理が本年初頭に発表されたこのような予算編成の声明を気をつけてみていたわけではありません。これも、いま、私は手もとにある『ジュリスト』という雑誌の一△129▽130月十五日号を繙いているにすぎないのです。そこには、政府の積極財政について、次のようなことを記しています。
 「明年度は不況のせいで、税の自然増収がせいぜい三千億円ぐらいしかみこめないし、財政投融資の原資も窮屈であるが、一方で景気のテコ入れを行なう必要があるところから、なんとか積極性をもりこもうとしているのである。財源は不足だし、既定経費の当然増で、新規政策費に廻せるものは少ないが、それでも公共投資、文教、社会保障の三つの柱を中心にして積極性のある予算を組もうと苦心している。(中略)しかし、社会保障の充実にしても生活保障基準の二一パーセント引き上げ、福祉年金支給率のひき上げ、国民健康保険の国費分担率の引き上げ、医療費の地域格差の是正の要求が厚生省から出されているが、大蔵省は財源不足を理由にこれをできるだけ低目に押さえようとしており、三本柱の一つも、どこまで重点がおかれるか心配されている」(傍点筆者)
と解説者は記したあとで、次のように記しています。
 「だが、われわれ国民大衆が一番注目するのは減税問題だ。減税は、今まで池田内閣の重点施策の一つの柱となっていたが、今度は抜けてしまっている。池田首相なども『毎年大幅減税をやってきたのだから、今後ぐらい休んでもいいのではないか』とか『一般国民はそれほど減税をのぞんでいない』とかいいながら、減税、とくに所得税中心の減税を見送ろうとしている。一方、政府の税制調査会では、物価の値上がり、累進税率などによって、もし減税しなければ、所得税の増税になるということから、所得税について基礎、配偶者、扶養の各控除をそれぞれ一万円ずつ引き上げることを答申した。ところが、池田首相、賀屋政調会長あたりは、こうした所得税中心の減税よりも、資本家蓄積重点の減税に熱心で、利子および、配当所得への税制上の特別措置を優先しようとしている。いわゆる政策減税といわれるものである。(中略)
 こうした政策減税が優先したため、一般の所得税減税の方は、税制調査会の答申よりさらに後退して、基礎控除一万円引き上げ、その他の配偶者、扶養の二控除および、中小企業者の専従控除は五千円引き上げということに落ち着きそうである」
 この記事をよみましても私は、総理が減税政策の統率者でないことをあらためて考えざるを得なくなります。自由民主党の幹部の方たちの考え方は、なりふりかまわず大資本の擁護をはかるというやり方を露骨に出しておられるという思いがしますが如何でしょうか。
 こんなことをとつぜん私がひきあいに出しましたのは、前述したように、日本の隅々に、学校へゆけない重症身体障害児が何万と放置されているということと、そうして、その子供たちが、高所得者の家庭によりも、低所得生活者の家庭に多いようにみうけられるからであります。私あてに、全国から集まりました身体障害者の手紙はそのようなことを明らか△130▽131に示していたからです。公共投資、文教、社会保障の三つの柱のどこに重点がおかれて予算が組まれるか心配である、と先の雑誌の解説者を憂慮させるような現実では、社会保障の項目に当然入るであろう、これらの下積みの身体障害者の保護施設問題が等閑視されはしないかと私に心配されるからでありました。
 ところで、私は、冒頭に私の所得額と税額を総理に示しました。私はしつこいようですが、もういちど言わせていただきますと、大体一千一百万円の税金をおさめねばならないことになっています。私は作家でありますから、個人企業といえましょうか。私が孤独に働いて得た金であります。ふつうの会社や、法人組織の団体のように、社員や、大ぜいの人の力で得た金ではなくて、私が、日夜、原稿用紙に向って得た収入から、おさめなければならない金なのであります。
 ところで私のように、個人で、一年に一千万円以上もの税金を支払う境遇にあるものは当然、高所得者の部類に入るではないかと思います。私は総理の所得税額はいくらか存じませんが、おそらく、池田さん、あなたよりも、多額の所得税を私は政府に支払っているのではないかと思いますが、どうでしょうか。もし、それが事実であれば私は一国の宰相よりも、多額の収入があるということになります。冒頭で、夢のような気がすると書きましたのも、そのような感慨があるからでありました。私は、こんなに多額の税金をおさめるようになったのは、つい最近のことだといいました。いま私の手もとにある本年度の納税申告書をみてみますと、過去三年間の課税対象額は、昭和三十五年三百四十四万、三十六年千四百三十八万、三十七年二千百五十三万となっております。三十五年は私がまだ妻を外に働かせて洋服の行商をしていた生活から作家に移行する時期でありましたし、小説注文も少なくて収入もなかったからでありましょう。しかし翌年には、一千万以上に昴り、翌々年には二千万近い上昇を示すにいたりました。
 私は、毎日毎日、働いております。私が、こんなに働くようになりましたのは、私の子が身体障害者であるからです。頭部肥大、下半身不随で、歩行困難が予想されるからです。一時は月に八十万円もの医療費がかかったほど、この子は私どもを泣かせました。私はこの子の医療費を得るために、がむしゃらに小説を書いてきました。おかげで、退院も出来て、今日は自宅で療養いたしていますけれど、この子の将来を思うと私は暗たんたる気もちになります。生涯歩けないのでは廃人同様だからです。廃人同様であっても、私たちの産んだ子でありますから、世間様にめいわくのかからないように、どこかで、ひっそりと天命を全うするまで、生活させてやらねばならない責任が父親としてのわたしにあります。私は、この子のためにいくらかの貯蓄を余儀なくされたわけです。△131▽132そこで、がむしゃらに働いたわけですが、今日になって、その子に、どこか陽当りのいい、空気の澄んでいる郊外の家でもつくってやろうと思ってみましても、所得額のうちから三分の一の一千万円以上もの税金をもってゆかれるようでは、画餅に終ってしまったわけです。私は私の子にやるべき金を、政府にとられたような気がした錯覚さえおぼえたのは、このためにほかありません。総理は、私が一年や二年の労働で、子の生涯の養育費をひねり出そうとしていることをお笑いになるかもしれない。しかし、これには、理由があるのです。
 私は、個人企業の、孤独な作家であります。二十歳時代に肺病をやり、今日も痔、歯槽膿漏の病気を背負いながらあまり健康でもない?を酷使して働いているのですが、かりに、私が、急に病気で寝てしまうと、私の収入はぴたりと止ってしまいます。会社員ではありませんから、生活の保障はないのです。一家は路頭に迷わねばなりません。それに作家という商売は、なかなかなことでは出来ません。骨の折れる仕事である上に、今日のように高所得を持続することはそんなに続くものでもないのです。病気でなくても、書けない時期もくるのでありまして、無収入の年のことも計算に入れると、つい、私は、書きたいことのあるうちは、一生懸命働いてみようという心もちになって、今日も原稿用紙に向っているわけなのです。
 ところで、私がこの孤独な書斎作業で働いて得る金と、同額ぐらいの収入のある中小企業の会社は、私よりも、税額が少ないということが、私に妙な感じを抱かせております。豊島区の税務署の方は、私の妻に、こんなことをいわれたそうです。「秘書を二人ぐらいお置きになるとか、運転手をお傭いになるとかなされば必要経費としてみとめられます」私は総理のように秘書は要りません。運転手もいりません。なぜならば書斎労働だからです。つい三年ほど前まで、三百四十四万の課税対象額しかなかった生活者です。秘書をやとって、小説の書けるような人間に出来ておりません。運転手をやとうことも面映ゆい気がして出来ません。私は禅宗のお寺で少年時を送りました。そういうことは勿体ないと考えるような教育をされてきていて、粗衣粗食に甘んじ、節約一心に勤労するというような生活態度を今日も、尊いとしておるものです。私が、日夜、働くのも、こうした少年時の勤労の教えを守っているのであります。ところがこの勤労生活は、今日の税制からみますと、おかしな云い方かもしれませんが、損であるように思われます。すなわち、私が、秘書をやとい、運転手をやとって、なるべく?を酷使しないような方法をとり、世の中でもっとも孤独作業であるべき創作の仕事を、共同工場化して、生産するような組織にもってゆけば、税金も安くてすむような仕組みにできているのです。おかしなことに思われてなりません。小説は共同で出来るものでも△132▽133なく、秘書の力で出来のよくなるものでもありません。あくまで、孤独につくられるものなのです。なぜ、こつこつと孤独に働いて、収入をより多く得た者に、税率が多く課せられるのでありましょうか。今日の税金政策が、勤労精神と相反するように見えてならないのは私だけでしょうか。
 私は、今日の税制が、さきの雑誌の解説者の憂えたように、大資本擁護の立場をとっていることを身をもって知るものです。いっておきますが、総理大臣、私は、あなたよりも所得税を多く政府に払います。しかし、私は貧乏であります。そうして、私ばかりでなく、私のように、孤独に働いて、多額の税率をかけられて、文句もいわずにそれを納め、真面目に生活しておられる無数の貧しい人びとのことも思うと暗くなります。ふっと、その人たちの暗い家の隅で、歩けない子がかくれていることを思うと私は、ぎょっとなるのです。雪の新潟から、片仮名まじりできた手紙は、車にチェンをまいて十八年間、重症の子を町の病院へ通わせてきたと書いてきていました。南の九州から、熊本には、歩けない子の学校は一校もないと書いてきておりました。私はふっと、その子たちの親たちが、いったい、どんな思いで税金を払っているのかと思いを馳せてみました。
 私はこの三月に税務署から査定金額を申しわたされて、帰ってきた妻にいいました。
 「いったい、うちの直子(歩けない子)に、政府はいくら補助金をくれるのか」
 妻はこたえました。
 「六千円ひかれます」
 「ひかれるって、税金のはなしをしているんじゃないんだ。うちの病気の子に、政府がいくら、医療保護のお金をくれるのかということきいているんだ」
 「区役所からも都庁からも、そんなお金をくれはしません△133▽134よ。ただ、あんたの稼いだお金から六千円をひいてくれるだけですよ」と妻はいいました。
 私の子の政府の医療補助費は、私が稼いでいることになるのかもしれない。そのことが、私の身に沁みました。
 総理大臣、私は、あなたに私の泣きごとをかいてみたかったのではありません。私は、重症身体障害者を収容する島田療育園に、政府が、たったの二割しか補助を行なっていないことに激怒したからなのです。政府が、今日まで、あのオシや、ツンボや、盲やのかわいそうな子供たちが、施設からしめ出しを喰って、収容されている療育園に、これまで助成した金は、二年間にわたってたったの一千万円でした。三十六年度に四百万円、翌年に六百万円でした。しかも、これは研究費というめいもくです。私が本年一年におさめる税金の一千一百万円よりも少ないのです。私は、私の働いた金が、この島田療育園の子らにそそがれるのであったら、どんなに嬉しいかしれません。私ひとりの子でなく、私の子と同じように歩けない子らの上に、そそがれる金であったら、私はどんなに嬉しいかわかりません。
 無茶なことをいう奴だと総理はお笑いになるかもしれない。私は何も、私の税金をそっくりそのまま、重症身体障害児の施設に廻せといっているのではないのです。そうなれば嬉しいといっているだけのことなのであります。私は月に一どほど島田療育園の近くにあるゴルフ場へゆくことがあります。私は健康上の理由から、芝生の上でクラブを振ることをおぼえて、ここ半年ほど前からゴルフをやるようになりました。私はそのゴルフ場へ行く途中で、島田療育園の山の下を通ります。ああここだな、と私は心につぶやきます。島田療育園の建物は、山をきり崩した中腹の平坦地に、まだ地ならしも完了していない赤土が出ている所です。粗末なていさいでたってみえます。そこへゆく途中の道路は悪く、建物も貧弱で、寒々としてみえるのです。対岸にあるゴルフ場のキャディ宿舎の方がはるかに立派です。白いペンキのぬった療育園の小さな窓は格子がはってあります。その窓の中に、手足のうごかない子供が五十人もいるかと思うと、私はふっと、みどりの芝生を歩いている五体健康の私の身のありがたさに身をひきしめます。そうして、やがては、そうした施設に入れて、教育させてやらねばならない私の奇型の子のことに思いをめぐらせます。だから、私はゴルフをやらねばなりません。健康を保って、働かねばなりません。
 総理大臣。とりとめのないことを書きました。どうか、あなたのご多忙な日々のある時間に、身体障害の身でありながら、生きようとしているたくさんの子らのいることに思いを馳せて下さい。来年から、どうか、この子たちのために出来るだけの予算をとって、施設を拡大してあげて下さい。大勢の気の毒な子とその両親を代表して、心からお願い申し上げます。△134

◇黒金 泰美 196307 「拝復水上勉様――総理に変わり『拝啓池田総理大臣殿』に応える」,『中央公論』1963年7月号,pp.84-89

4 088 高谷清「重い障害を生きるということ」(岩波新書:2011) 感想5

2015年05月31日 18時48分45秒 | 一日一冊読書開始
5月31日(日):

196ページ   所要時間 3:10    図書館→アマゾンに発注258円(1+257)

著者74歳(1937生まれ)。1964年京都大学医学部卒業。京都大学附属病院、大津赤十字病院、吉祥院病院小児科勤務を経て、1977年~97年びわこ学園勤務。うち1984~97年第一びわこ学園園長。2011年、教育に貢献した個人・団体におくられるペスタロッチ賞受賞。現在、びわこ学園医療福祉センター医師(非常勤)、特定非営利活動法人きらら(障害者作業所他)理事長。

 安っぽい評価論を超えた本はあるのだ。感想はと聞かれたら、5以外は付けられない。重症心身障害児(者)の存在を45年間見続けてきた著者による「人間が<生きる>意味論」である。神谷美恵子「生きがいについて」に通底する内容。

 前半で何度も涙腺を刺激された。人間を泣かすのは簡単だ。真実の重み思いやる優しさがあれば十分だ。本書の後半は、やや講釈的な感じになったが、著者をはじめ、著者の先人たちの考え方に十分に共鳴でき、良い言葉にもたくさん出会えた。

 浅ましい政治が行われている一方で、本当の世の中のあり様とあるべき姿・考え方を呼び覚ましてくれるような内容の本である。半ばまで読んだところで、アマゾンに注文を出した。「お守り」として所持してもいい本だ、と思った。

 本書で紹介された水上勉の逸話「拝啓 池田総理大臣殿」は別に載せる。

■目次: はじめに
序 章 「抱きしめてBIWAKO」―25万人が手をつないだ日
第1章 重い障害を生きる :1 はじめて「びわこ学園」を訪れる /2 子どもたちとの出会い
第2章 どのような存在か :1 脳のない子の笑顔 /2 感覚的存在―五感だけでなく /3 身体的存在―二次元の世界 /4 意識―生命体を維持・発展させる方向 /5 関係的存在―「わかる」とは /6 人間的存在―生きがいとは
第3章 重症心身障害児施設の誕生―とりくんできた人たちと社会 :1 小林提樹と島田療育園 /2 草野熊吉と秋津療育園 /3 糸賀一雄とびわこ学園 /4 おしすすめてきた家族の力
第4章 重い心身障害がある人の現在 :1 医学的視点から /2 さらに重い障害へ /3 人数と実態
第5章 「いのち」が大切にされる社会へ :1 「この子らを世の光に」 /2 「ふつうの生活を社会のなかで」―第一びわこ学園移転計画 /3 「抱きしめてBIWAKO」から何が生まれたのか /4 生きているのは「かわいそう」か
あとがき

紹介文:「人間」とはどういう存在なのだろう?
 「人の世話になってまで生きていたくない」という人がおられる。よほどご自分で頑張ってこられたのだろう。だけど「100%人に頼らないと生きていけない」人もいる。そういう人の生に「意味」はないのだろうか?
 この本の主人公は、重い身体障害と精神障害とを併せ持って生まれた「重症心身障害児(者)」と呼ばれる人びとである。聞き取りにくいながらも言葉をしぼり出す人もいれば、寝たきりで人工呼吸器をつけ目だけはよく動く人、手足が曲がり自分の意志とは関係ない体の動きに苦しげな人など、さまざまである。
 著者は滋賀県の重症心身障害児(者)施設「第一びわこ学園」(現・びわこ学園医療福祉センター草津)の園長をつとめた医師。何を思いどう感じているかが非常にわかりにくい重い障害のある人びとに40年以上にわたり接してきた。
 脳がない状態でもなぜ「笑顔」を見せることがあるのか、外界をどのように感じるのか、寝たきりの状態と少しでも身を起こした状態では人の意識にどんな変化をもたらすのか、言葉も反応も乏しいのに、親や親しい介護者はなぜ「(この子は)わかっている」と言うのか……。
 著者はその体験と観察から、重い障害を持つ人ならではの感じ方、さらには、人間とはどういう存在なのかということにまで思索を深める。
 重い障害のある人が持っているのは、極限的には「いのち」だけとも言える。そういう人が社会のなかでどのように生きられるかは、他の障害をもっている人にも、幼い子どもの福祉にも、あるいは高齢のため生活が不自由になった場合にも、何らかかかわる社会の根本の設計を表すことになるだろう。
 元気なときの自分の価値観がすべてではない。重い障害を持つ人の世界から社会を見直してみると、新たな発見がいくつもあるのはおもしろい。ぜひご一読を。 (新書編集部 大山美佐子)

150531 晴耕雨読様:かなり本質的な内容である。「岩上安身による、元経産官僚・古賀茂明氏インタビュー」

2015年05月31日 13時21分57秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
5月31日(日):

 この取材は、かなり本質的問題を指摘していると思う。社会に対しても、歴史に対しても、これほど基礎的知識・知性の無い(高校生以下!)不適格な男が、単なる生まれによるプライド(A級戦犯岸信介の孫)だけで日本と日本人を地獄に導こうとしているのだ。馬鹿にしがみついてかついでいる選良の自民党政治屋・霞が関官僚も愚かの極み、亡国の徒である。それを「パンとサーカス」を求めるネット右翼が強く支えている。この馬鹿の支持率がいまだに50%なのだ。言葉が無い。

 「マルクスもレーニンももともとプロレタリアートではなかったよ」(高橋和巳)。結局、プロレタリアート(プレカリアート)層は、ファシストに引きずられ続けるのか。きちんと道を指し示せる「社会民主主義」勢力をつくり上げなければいけないのだが、一体この国の政治家や大資本のマスコミ・報道は何が真の願い・望みなのだろう? 本当に分からない。愛国心を押し付けてくる連中が、未来の子どもたちに対して最も無責任で、愛国心から遠いという構図はあまりにも戯画的過ぎる。

晴耕雨読「「安倍さんは戦争犯罪者と同じような気持ちなのでしょう」古賀茂明氏インタビュー:岩上安身氏」 2015/5/30   

これより、岩上安身による、元経産官僚・古賀茂明氏インタビューの模様を実況します。http://www.ustream.tv/channel/iwakamiyasumi
(略)
岩上「安倍総理の『ポツダム宣言不承知発言』はすごいですよ。読んでないだけでなく、『承知していない』と言っているんです。不承知だと」
岩上「不承知というのは、事実上の『否認』ではないかと思います。実は安倍さんは過去に『ポツダム宣言とは原子爆弾を2発落として日本に大変な惨状を与えたあと、『どうだ』とばかりに叩きつけたものです』などと言っています」
古賀「めちゃくちゃです」
古賀「安倍さんとしてはポツダム宣言を認めていない、ということなんでしょう。読んだというと、認めてないとは言えないので、『わからないからコメントを控える』と。しかしこれは許される無知ではない。安倍さんは戦争犯罪者と同じような気持ちなのでしょう
古賀「ポツダム宣言は国民からすれば被害者の位置づけで、恥じることではありません。しかし、安倍さんは自分を『加害者側』に置いているんです。ポツダム宣言は自分に言われているような気になっているのだと思います」
岩上「岸信介さんのお孫さんですからね」
岩上「安倍さんだけでなく、礒崎陽輔首相補佐官は、ポツダム宣言について『文章が一字一句、正しいことを書いているかどうか』などと発言されました。安倍総理1人の失言ではなく、内閣を支えるブレーンらも含めてポツダム宣言は不服だという共通認識があります」
岩上「礒崎さんは『「立憲主義」を理解していないという意味不明の批判を頂きます。この言葉は、Wikipediaにも載っていますが、学生時代の憲法講義では聴いたことがありません』とも書きました。小林節さんは『知らないわけがない。おとぼけです』と」
古賀「立憲主義を否定したら憲法の意味がないですね
岩上「他の法律は上から国民を縛っているんですから、下から国家を縛る憲法でなければ意味がありませんね。片山さつきさんは天賦人権説をとらないと言っていますが、天賦国権説だとでも言うのでしょうか」
古賀「安倍さんたちは明治憲法こそが憲法だと思っているのでしょうね」
岩上「ポツダム宣言は『軍国主義者が悪い、国民を欺瞞し、世界征服の挙の過ちを侵させた勢力を永久に除去する』と言っています」
岩上「さらに安倍さんは『満州は攻め入ってつくったわけではないですよ。満州に対する権益は第一次世界大戦の結果、ドイツの権益を日本が譲り受けた面がありますよ』(2005年7月31日 テレビ朝日「サンデープロジェクト」より)とも言っています」
岩上「そして天皇陛下は2015年の念頭所感で『本年は終戦から70年という節目の年に当たります。満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び,今後の日本のあり方を考えていくことが,今,極めて大切なことだと思っています』と話しています」
岩上「安倍総理は満州と青島を混同しているのでしょうか。三原さんの『八紘一宇』発言もあります」
古賀「三原さんは、権力者が使う綺麗な言葉に騙された状態なのか、それとも国民を騙そうとして使ったのかはわかりません。こうした発言が立て続けに出ますね」
岩上「安倍総理の取り巻きには、国連脱退を主張する人たちもいます。花田紀凱氏は『これからの主戦場は国連だ。クマラスワミ報告は成り立たないと訴え、認められないなら、国連を脱退するくらいの覚悟でやればいい』と発言されました」
古賀「安倍総理の取り巻きの中でももっとも知識レベルが低い人たちですか」
岩上「いえ、これが一番知識レベルの『高い』人たちです」
古賀「ちょっとこれはさすがに困りますね。総理周辺でも『一線超えた政権だ』と考えている人もいます」
岩上「日本はまだ敵国条項の対象でもあります」
古賀「敵国条項は空文化していると言われますが、残っています。国連憲章では戦争が正当化される条件は限られていますが、もし日本が変なことを始めたら国連を通さず日本を叩いて良く、国連ルールも適用されない」
古賀「敵国条項を外す努力をしたほうがいい。しかしそうすると、中国などが裏から『危ない』というでしょう」
岩上「『IED』という“即席爆発装置”が後方地域の道路に設置され、08年以降、アフガンの兵士の死者の約6割はIEDが原因となっています
古賀「後方支援で危なくなれば退避する、といいますが、できないですね
岩上「“交戦”したら、その時点で、戦時国際法、国際人道法上の『紛争の当事者』になる。『戦闘が起これば直ちに退避』など、現代の国際社会では許されません
古賀「いろんな情勢を理解すればするほど絶望的な気持ちになる人も多いかと思います。マスコミが本当のことを伝えないのは非常にネックです。しかし、諦めてしまっては後戻りできなくなる。我々が立ち上がるしかないんです。本当の平和主義を確立する時です」
 以上で実況を終えます。

↓現在の幇間・去勢豚メディアの恥知らずども↓ 絶対に赦さない!

150529 39万PV超え:格差と貧乏の話。室井佑月と芥川賞作家・柳美里

2015年05月30日 23時47分50秒 | 閲覧数 記録
5月29日(金):記録ですm(_ _)m。ブログの開設から1329日。

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  ごはんアザラシ

週刊朝日室井佑月「日本はすでに格差社会だ」 2015年6月5日号
 作家の室井佑月氏は、グローバル化が進むにつれ日本の貧困は拡大し、暗い未来が待っているとこう危惧する。
*  *  *
 夏休みはどこにも行かないと決めた。これから子どもの教育費にいくらかかるかわからない。子どもの教育費は削りたくないので、削るなら行楽費だ。
 子どものいない友人も、どこへも行かないみたいだ。その友人は独り者で、年に2回の海外旅行だけを楽しみにしているような女だ。円安で、以前ほど海外へ行っても楽しめないのが理由らしい。
 こりゃあ、個人消費も落ち込むわね。あたしたちが日々使う食料は、円安で材料が値上がりし高くなっているし。
 物価上昇分を差し引いた実質賃金指数は、23カ月続けて前年割れ。これで再来年の春からまた消費税が上がったら悪夢だな。
 さて、ここで疑問が。「グローバル」という言葉が世の中に浸透し、この国もそちらへ進んでいくわけだが、そう考えたとき、円安とは、この国に住んでいるうちらの個人財産の目減りも意味するんじゃないか。
 世界で考えれば、なんにもしなくても、円安で財産は減ってるわけ。
 金だけじゃない。人間の価値などもそうなのかも。世界と競争するため、人材不足を解消するため、移民を受け入れるという話がある。ぶっちゃけ、競争する企業のため、低賃金で働いてくれそうな人を入れたいわけでしょう。
 この国はすでに格差社会だ。5月4日付の東京新聞で、NPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」の理事長の大西連さんがはっきりこういっていた。
「(相対的貧困)その比率は上がり続け、今は約16%。およそ六人に一人が貧困状態です」
 この国の貧困者は、移民の方々の給与水準に合わされるに違いない。そして、その数は大西さんがいうように増えつづける。
 アメリカではグリーンカードをもつ移民が市民権取得のために入隊することが多いと聞いた。
 この国の自衛隊も、これからアメリカに追従し、世界中でドンパチできるようにするんでしょ。人材不足となれば永住権を餌に、移民の入隊をほどこすのかも。そして、この国の貧困者もそれにつづく。
 貧困から抜け出せないこの国の若者は、移民の方々と働きながら、「日本人である」その一点だけが心の拠り所となりそうだ。
 「日本人だから彼らよりは上」、そういう考え方ね。つまり、差別だ。
 そして、そういう偏狭な考え方に固執するあまり、ほんとうの悪を見ようとしない。本来なら、自分を落とし込んだ、社会の不平等なルールを作った人間に怒りを向けるべきなのに。そういうイヤ~な感じの未来に、この国は動き出しているような──。
 とここまで書いて顔を上げテレビを見たら、中央アジアのタジキスタンという国で、貧困女性が売られていく、というルポをやっていた(「日テレNEWS24」)。
 あたしは最悪の場合、将来、この国でもそんな悲しいことが起こる気がする。

Business Journal年収1億円から困窮生活へ――芥川賞作家・柳美里が告白「なぜ、私はここまで貧乏なのか」    5月27日(水)6時1分配信

 芥川賞作家の柳美里氏が、3月に上梓した『貧乏の神様 芥川賞作家困窮生活記』(双葉社)が話題になっている。昨年10月に柳氏が公表して話題となった雑誌「創」(創出版)の連載エッセイの原稿料未納問題や、困窮のためネット回線が止められ、公共料金や仕事の電車賃、あげく食費にも困るという作家の実情がつぶさに書き綴られているのだ。柳氏ほどの著名な作家がなぜここまで生活に苦しむことになったのか……その理由を自らが語った。

--いつから、なぜ、困窮するようになったのでしょうか。
柳美里(以下、柳) 困窮の理由はふたつあります。ひとつは、2004年ごろから断続的にひどい鬱状態に陥ることがあり、その間はトイレに行くにも起き上がれず、幻覚・幻聴も強く、「書かなければ」と思ってもまったく書けない状態になってしまいました。
 もうひとつの理由は、携帯電話の普及に伴い本が読まれなくなり、だんだんと収入が減っていったことです。20代で出版した『ゴールドラッシュ』(新潮社)は、初版5万部だったと記憶していますが、最近出版するものは初版1万部前後。これは私だけの問題ではなく、一握りの超ベストセラー作家以外の作家は総じて初版部数を絞られています。電車に乗るたびに、絶望的な気分になりますね。昔はたくさんの人が文庫や週刊誌を読んでいたのに、今はスマホ。それも電子書籍が読まれているわけではありませんからね。

--多くの作家が経済的に困っている状態ということですか。
柳 「書くことだけで食べている作家は30人ぐらいではないか」という話を聞いたのですが、かなりリアルな数字だと思います。ただ「貧乏は恥ずかしい」と考えている方が多く、公にしないだけだと思います。
 友人の作家は、1作当たりの販売部数が減ったことの対処として、出版点数を増やすことにしたそうです。私はそんなに量産できません。今回の『貧乏の神様』の前に出版したのは、1年前の『JR上野駅公園口』(河出書房新社)です。ある程度知名度のある作家の中には、大学や専門学校やカルチャースクールで教えたり、講演会やトークショーを頻繁に開いたりして、原稿料や印税以外の副収入に頼っている人もいます。私は講演会はほとんどしません。聞くところによると、講演会のギャランティもバブル期に比べて半分以下に減っているそうです。講演会収入で生計を立てていた作家も苦しくなっているようですね。

--柳さんの最も多かったときと少なかったときの年収を教えてください。
柳 多かったときは1億円以上、少ないときは400~500万円です。少ないときでも日本の平均収入くらいはありますが、1億円あったときに購入した神奈川県鎌倉市の家のローンと維持費が生活を圧迫し、水道や電気などの公共料金すら支払えない事態となりました。その家は現在売りに出していて、4月に引っ越した福島県南相馬市の借家は月額6万円の家賃なので、今後は食うに困るという状況には陥らないと思います。

--収入が多かったときに貯金はしていなかったのでしょうか。2000年に亡くなった元恋人の東由多加氏が闘病されていた際は、アメリカの病院での毎週500万円もの高額ながん治療費を柳さんが工面されていたそうですが。
柳 貯金はしていませんでした。東さんががんになる前は、浪費、乱費をしていましたね。ブランド品や貴金属など後に残るモノを買うわけではないんです。例えば、タクシーに乗るんですが、目的地に向かうために乗るのではなく、ただ2時間走り回る。そうやってお金を無目的に無意味に使うということに意地になっていました。20代から抗鬱剤を服用し、出血性胃炎や十二指腸潰瘍などで入退院を繰り返していたので、長く生きられるとも、長く生きたいとも思っていなかったんです。

●お金のために書くわけではない

--収入が減って、講演会や講師など“書く”以外の仕事をしようとは思わなかったのですか。
柳 もともと人前に出て話すことが苦手だから書く仕事を選んだんです。ほかの方法でお金を得ることは考えられません。ただ、一時期、小説家を辞めてドッグトレーナーになろうと学校に通っていたことはあります。犬を相手にするドッグトレーナーなら、人間とは話さないで済みそうだと思って。

--「小説家を辞めて」? 副業ではなく?
柳 はい。でも、実際相手にするのは、犬よりも、その飼い主でした。かなり理不尽なオーダーもあると知って、私には向いていないとあきらめました(笑)。

--「芥川賞受賞」という名誉があれば、テレビ番組やCMなどの声もかかりそうですが、そういった仕事もダメですか。
柳 テレビ番組の出演依頼は何度かありましたね。引き受けると返事をしても、番組のスポンサー側から「待った」がかかるんです。そのたびに、私は依頼してきた担当者を「あぁ、やっぱり。仕方ないですよ。気にしないでください」と慰めています。ネットで「柳美里」と検索すると、ロクなものが出てこないんで。昔は人の噂も七十五日と言いましたが、ネットにいったん出回った風評や噂話は、ある人が聞き飽きたとしても、ある人が初耳である限り拡散され続けます。でも、「柳美里」のイメージが最悪だということは嘆くことではなく、逆によかったと思っているんですよ。「私には書くことしかない」と、書くことに追い詰めてくれますからね。

--講師に講演会にテレビに、うまくやって儲けている作家がうらやましくなることは?
柳 まったくありません。私がお金を得る手段は書くことしかないけれども、お金のために書いているわけではないのです。作品を書いているときは、“その作品への奉仕”の気持ちしかありません。私には10年、20年とずっと読み続けてくれる方がいらっしゃるので、とてもありがたいです。読者の方に支えられていると思っています。

--子どもへの貧困の影響はありませんでしたか。例えば、子どもから貧しさを責められるとか、柳さん自身が罪悪感に苛まれるとか。
柳 なかったですね。食べるものがないときは、うちの母が近くに住んでいるので、息子に「食べものがない」とは言わず、「ばあばのところでごはんを食べてきなよ」と言って行かせることは何度もありました。そうやって子どもには食べさせて、私と同居人の村上くんは食べないか、食べてもチキンラーメンとか。

--シングルマザーの貧困が問題となっています。
柳 私の場合、「シングルだから子どもに手が回らないんだ」と思われたくなくて、肩肘を張ってしまったことも鬱になった原因のひとつです。幼稚園のお弁当だけは絶対に手を抜きたくないと思い、執筆で徹夜が続いても冷凍食品は一切使わず、毎朝お弁当の中身をポラロイドに撮って、帰ってきたら何は食べた、何は残したなどと細かくノートに記録していたら、あるとき気持ちが崩れてしまいました。やはりシングルマザーは、経済的に余裕がないか、もしくは時間的、精神的に余裕がないか、どれかに陥りがちだとは思います。

--貧しさそのものが原因で悩んで鬱になることはなかったんですか。
柳 子どものころから貧乏に慣れていたので、それはありませんでした。おかずがないので、きょうだいでノビルやハコベなどの野草を採ってきておひたしにして食べたり、ごはんに麦茶をかけて食べたりしていましたからね。うちは、子どもだけで夜を過ごさなければならなかったんです。母親がキャバレーのホステス、父親がパチンコ屋の釘師で、ふたりとも夜間の仕事でしたからね。

●「創」の原稿料未払いをブログに書いた理由

--例えば、単行本を書き下ろすとすると、出版されるまで、書いている間は長期間無収入となりますね。印税を先払いするなど、作家への待遇を改善すべきだと思いますか。
柳 出版社自体、経営難に陥っているので、それは難しいと思います。かつてはノンフィクションであれば執筆前に取材費が出ていましたが、今は自腹です。執筆期間中は無収入で取材費も出ないとなると、経済的な基盤がある人でないとノンフィクションは書けないということになりますね。かつて新潮ドキュメント賞の選考委員を10年間務めていたのですが、NHKでテレビ番組化した主題を放送後にノンフィクション化した作品がたびたび最終選考に残っていました。確かに受賞作として相応しい作品ではあるのですが、潤沢に取材費を使える恵まれた環境にあるテレビマンによる作品と、フリーのノンフィクション作家の作品を、取材力で比べるのは酷だと思います。

--その点は出版界全体で考えていく必要がありますね。
柳 しかし、出版業界には、お金の話はおおっぴらにはしないという暗黙の了解がありますよね。原稿料も印税率も初版部数も、公にすることはルール違反とされています。

--その中であえて「創」の原稿料未払いの件を金額も含めて公にしたのはなぜですか。
柳 作家や出版業界は儲かっているという世間的な誤解を解きたかったんです。もちろん、いきなり公表したわけでなく、「創」編集部には、何年間も催促し続けています。催促するとたまに数万円振り込まれたりして、まったく払う意志がないわけではなさそうでした。そんなこんなで延ばし延ばしになっていたので、もうこのまま書き続けることはできないと判断しました。

--未払い騒動は、当初の概算約1136万8078円から柳さんが大幅に譲歩し、140万8706円が支払われる形で解決しました。そのお金も健康保険の支払いなどに消え、生活が楽になったわけではないそうですね。今、貧乏を脱出するためには、どうすればいいとお考えですか。
柳 書くしかありません。お金を稼ぐ手段は書くことしかない。この4年間、『警戒区域』というノンフィクション作品を抱えていて、これは雑誌掲載ではなく、単行本書き下ろしなので、原稿料がもらえないんです。ですから、非常に厳しいんですが、『警戒区域』を書き上げて出版して、すぐに原稿料をもらえる小説を書き始めれば、“いける”んじゃないかという気はしています。“いける”といっても、余裕ができるわけではないけど、やりくりしていける自信はある。『貧乏の神様』という本書のタイトルはこのこと。“貧乏”は私を書かせる神様なんです。     構成=安楽由紀子

4 087 内海聡「児童相談所の怖い話 あなたの子どもを狩りに来る」(三五館:2013) 感想4

2015年05月30日 02時08分02秒 | 一日一冊読書開始
5月29日(金):

253ページ   所要時間 2:05    図書館

著者39歳(1974生まれ)。精神科医療を強く批判する内科医。

 性善説の制度・施設を、性悪説の目で観た時、そら恐ろしい景色が広がる。本書に書かれたことに対する評価の基準を俺は持たないので、本書を良いとも悪いとも言えない。また、著者はともかく、被害訴訟を起こしている当事者(松島)と弁護士(南出)の話の内容が「占領下でできた憲法で日本が悪くなった」「戦後教育が悪い」など変な方へ話がそれて(218ページ)鼻白む部分もあって、本書の立ち位置がわからなくなったりした。

 本書に書かれてるように児童相談所を「親から子どもを奪う専制的権力を有する組織」として見た場合、その危険さは、考え得る限界を超えている。人間の人生を破壊する恐ろしい強制力を持つ機関であり、それを無自覚な地方公務員たちが担っている。
・予算確保のため、一方的に「虐待判定」、子どもを「一時預かり」→「入所」、面会不許可
・「虐待判定」などは、母子家庭や生活保護家庭など権力に逆らう力の弱いところを狙い撃つことが多い。
・「虐待判定」そのものへの異議申し立てもチェックも全くできない。
・「入所」した児童は、施設とグルの精神科医によって強力な精神薬(覚醒剤など)を処方され大人しくされる。
・厚労省も裁判所も児童相談所の味方で、親の親権は全く尊重されず、否定される。
・児童相談所に相談に行っても、抽象的な話に終始してなんら具体的解決は図られない。むしろ予算確保の帳尻合わせ候補としてキープされ、ある日突然「虐待判定」を受け、子どもを奪われることがあるだけ。
・不当な児童相談所の振る舞いは、すべて不当な法律によって守られているので、子どもを返してもらいたければひたすら児童相談所に頭を下げ、言いなりになるしか仕方がない。そして身に覚えの無い「虐待」の事実を認めさせられるだけ。
・「児童虐待相談の対応件数」は急激に増加している一方で、「児童虐待死亡件数の推移」は横ばい、漸減している。「虐待死激増」という印象操作があるのではないか?

 著者はあまり上品な人柄ではない。本書の感想が5になることは決してない。そこまで信用はできない。
 書かれてることすべてが妥当で真実だと考えてるわけではないが、児童相談所とその関連法や児童精神科医の実体に相当深刻な問題があることも否定できない。確かに「児童相談所の怖い話」であった。

目次 : 第1章 児童相談所で今、何が行なわれているのか?/ 第2章 検証、児童虐待激増・凶悪化のウソ/ 第3章 児虐法がやりたい放題を可能にする/ 第4章 児童相談所に拉致された子どもたち/ 第5章 児童相談所の正体を暴く―児相をめぐる鼎談/ 第6章 海外でも、被害に遭い続ける子ども/ 第7章 児童相談所を監視しよう

紹介文:「一時保護」されたら、おしまい…“こどもを救う正義の味方”の恐るべき正体。
    「子どもを救う正義の味方」の恐るべき正体!  デッチ上げ、強制入院、薬漬け…全国で頻出する“保護"という名の拉致。「子どもを守る」という美名のもと、権限が強化されすぎた児童相談所の暴走が止まらない。誰も触れることのなかった衝撃的スクープ。
     私は「その話」を最初に聞いたとき、信じることができなかった。医師という立場上、精神医学の問題に関しては、すさまじい被害報告にも非現実的な出来事にも数多く接してきた、そんな私が…。それほどにこの問題は闇と非道に満ちている。 ――今、児童相談所で何が行なわれているのか? 新聞・テレビが伝えない闇……

150529 内田樹師匠の卓説「国旗国歌について」 今以上に下らない馬鹿が威張る日本はもういやだ。

2015年05月29日 22時45分48秒 | 考える資料
5月29日(金):

内田樹の研究室国旗国歌について 2015.05.28

国立大学での国旗掲揚国歌斉唱を求める文科省の要請に対して、大学人として反対している。
その理由が「わからない」という人が散見される(散見どころじゃないけど)。
同じことを何度もいうのも面倒なので、国旗国歌についての私の基本的な見解をまた掲げておく。
今から16年前、1999年に書かれたものである。
私の意見はそのときと変わっていない。

国旗国歌法案が参院を通過した。
このような法的規制によって現代の若者たちに決定的に欠落している公共心を再建できるとは私はまったく思わない。すでに繰り返し指摘しているように、「公」という観念こそは戦後日本社会が半世紀かけて全力を尽くして破壊してきたものである。半世紀かけて国全体が壊してきたものをいまさら一編の法律条文でどうにかしようとするのはどだい無理なことだ。
ともあれ、遠からず、この立法化で勢いを得て騒ぎ出すお調子者が出てくるだろう。式典などで君が代に唱和しないものを指さして「出ていけ」とよばわったり、「声が小さい」と会衆をどなりつけたり、国旗への礼の角度が浅いと小学生をいたぶったりする愚か者が続々と出てくるだろう。
こういう頭の悪い人間に「他人をどなりつける大義名分」を与えるという一点で、私はこの法案は希代の悪法になる可能性があると思う。 
一世代上の人々ならよく覚えているだろうが、戦時中にまわりの人間の「愛国心」の度合いを自分勝手なものさしで計測して、おのれの意に添わない隣人を「非国民」よばわりしていたひとたちは、8月15日を境にして、一転「民主主義」の旗持ちになって、こんどはまわりの人間の「民主化」の度合いをあれこれを言い立てて、おのれの意に添わない隣人を「軍国主義者」よばわりした。こういうひとたちのやることは昔も今も変わらない。
私たちの世代には全共闘の「マルクス主義者」がいた。私はその渦中にいたのでよく覚えているが、他人の「革命的忠誠心」やら「革命的戦闘性」についてがたがたうるさいことを言って、自分勝手なものさしでひとを「プチブル急進主義者」よばわりしてこづきまわしたひとたちは、だいたいが中学高校生のころは生徒会長などしていて、校則違反の同級生をつかまえて「髪が肩に掛かっている」だの「ハイソックスの折り返しが少ない」だのとがたがた言っていた連中であった。その連中の多くは卒業前になると、彼らの恫喝に屈してこつこつと「プロレタリア的人格改造」に励んでいたうすのろの学友を置き去りにして、きれいに髪を切りそろえて、雪崩打つように官庁や大企業に就職してしまった。バブル経済のころ、やぐらの上で踊り回っていたのはこの世代のひとたちである。こういうひとたちのやることはいつでも変わらない。
いつでもなんらかの大義名分をかかげてひとを査定し、論争をふきかけ、こづきまわし、怒鳴りつけることが好きなひとたちがいる。彼らがいちばん好きなのは「公共性」という大義名分である。「公共性」という大義名分を掲げて騒ぐ人たちが(おそらくは本人たちも知らぬままに)ほんとうにしたがっているのは他人に対して圧倒的優位に立ち、反論のできない立場にいる人間に恫喝を加えることである。ねずみをいたぶる猫の立場になりたいのである。
私は絶対王政も軍国主義もスターリン主義もフェミニズムも全部嫌いだが、それはその「イズム」そのものの論理的不整合をとがめてそう言うのではない。それらの「イズム」が、その構造的必然として、小ずるい人間であればあるほど権力にアクセスしやすい体制を生み出すことが嫌いなのである。
正直に言って、日本が中国や太平洋で戦争をしたことについて、私はそれなりの歴史的必然があったと思う。その当時の国際関係のなかで、他に効果的な外交的なオプションがあったかどうか、私には分からない。たぶん生まれたばかりの近代国民国家が生き延びるためには戦争という手だてしかなかったのだろう。
しかし、それでも戦争遂行の過程で、国論を統一するために、国威を高めるために、お調子者のイデオローグたちが「滅私奉公」のイデオロギーをふりまわして、静かに暮らしているひとびとの私的領域に踏み込んで騒ぎ回ったことに対しては、私は嫌悪感以外のものを感じない。
小津安二郎の『秋刀魚の味』の中に、戦時中駆逐艦の艦長だった初老のサラリーマン(笠智衆)が、街で昔の乗組員だった修理工(加東大介)に出会って、トリスバーで一献傾ける場面がある。元水兵はバーの女の子に「軍艦マーチ」をリクエストして、雄壮なマーチをBGMに昔を懐かしむ。そして「あの戦争に勝っていたら、いまごろ艦長も私もニューヨークですよ」という酔客のSF的想像を語る。すると元艦長はにこやかに微笑みながら「いやあ、あれは負けてよかったよ」とつぶやく。それを聞いてきょとんとした元水兵はこう言う。「そうですかね。そういやそうですね。くだらない奴がえばらなくなっただけでも負けてよかったか。」
私はこの映画をはじめてみたとき、この言葉に衝撃を覚えた。戦争はときに不可避である。戦わなければ座して死ぬだけというときもあるだろう。それは、こどもにも分かる。けれども、その不可避の戦いの時運に乗じて、愛国の旗印を振り回し、国難の急なるを口実に、他人をどなりつけ、脅し、いたぶった人間がいたということ、それも非常にたくさんいたということ、その害悪は「敗戦」の悲惨よりもさらに大きいものだったという一人の戦中派のつぶやきは少年の私には意外だった。
その後、半世紀生きてきて、私はこの言葉の正しさを骨身にしみて知った。
国難に直面した国家のためであれ、搾取された階級のためであれ、踏みにじられた民族の誇りのためであれ、抑圧されたジェンダーの解放のためであれ、それらの戦いのすべては、それを口実に他人をどなりつけ、脅し、いたぶる人間を大量に生み出した。そしてそのことがもたらす人心の荒廃は、国難そのもの、搾取そのもの、抑圧そのものよりもときに有害である。
現代の若い人たちに「公」への配慮が欠如していることを私は認める。彼らに公共性の重要であることを教えるのは急務であるとも思う。しかし、おのれの私的な欲望充足のために、「公」の旗を振り回す者たち(戦後日本社会で声高に発言してきたのはほぼ全員がその種類の人間たちである)から若者たちが学ぶのは、そういう小ずるい生き方をすれば、他人をどなりつける側に回れるという最悪の教訓だけだと私は思う。
国旗国歌法によって日本社会はより悪くなるだろうと私は思う。だが、それは国旗や国歌のせいではない。 日時: 2015年05月28日 16:17

150528 目を疑う驚き!朝日新聞は「慰安婦」問題に関する日本の歴史学界の公式見解を掲載していない。

2015年05月28日 16時54分23秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
5月28日(木):

「150527 日本の歴史学界の公式見解!:「慰安婦」問題に関する日本の歴史学会・歴史教育者団体の声明」に関する記事を朝日新聞で26日、27日、28日の朝刊・夕刊すべてチェックしたが、どこにも載っていなかった。この感覚の鈍さは、どうしたことだろう。政府見解は別にして、「慰安婦」問題に関する日本の歴史学界の総意であり、公式見解とも言うべき声明(5月25日)を報道せずに放置する姿勢は明らかに間違っている。朝日新聞もNHKも、日本の報道は異常をきたしているとしか考えられない。

 なぜ取り上げない? こんなのは自粛にすら当たらないはずだ。なぜ日本の歴史学界の良識を国内・国外に発信しないのか?!

日刊ゲンダイ慰安婦問題で歴史学16団体が声明「過ち繰り返さない姿勢を」 2015年5月27日
 従軍慰安婦問題をめぐり、日本の歴史学者が声を上げ始めた。
 歴史研究専門家らの国内16団体が25日、都内で会見し、「いま求められているのは歴史研究や教育を通して問題を記憶にとどめ、過ちを繰り返さない姿勢だ」との声明を発表。一部政治家やメディアの姿勢に懸念を示した。
 声明に名を連ねたのは80年以上の歴史があり、大学の研究者ら2200人が加盟する歴史学研究会や、日本史の学術団体としては最大の日本史研究会、教員らの歴史教育者協議会など。個人会員は数千人以上にのぼるという。
 慰安婦問題の背景には、植民地支配や差別など不平等で不公正な構造が存在していたと指摘。歴史研究と教育を通じて慰安婦問題を記憶にとどめるよう求めた。歴史学研究会の委員長を務める信州大の久保亨教授は、「声明には数千人の歴史研究者の意思が反映されている。標準的な歴史学者の多数の意思だ。この声明を基に今後の議論が行われることを期待している」とクギを刺した。
 歴史学研究会が昨年10月に同様の趣旨の声明を出したことを機に、幅広い団体の連名で改めて見解をまとめた。
 今月上旬には、欧米を中心とする著名な日本研究者や歴史学者187人が、「慰安婦問題など歴史解釈の問題は深刻だ」として「日本の歴史家を支持する声明」を発表してもいる。賛同者はすでに400人を超えたという。「70年談話」発表を前に、安倍首相に対する警戒感はますます強まっている。

150527 大阪都構想「住民投票」の顛末、内田樹師匠による総括! 納得ですm(_ _)m。

2015年05月28日 00時30分26秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
5月27日(水):

2015.05.22
朝日新聞への寄稿:5月21日の朝日新聞夕刊に住民投票の結果を承けて一文を寄せた。
朝日読者以外のかたのために再録しておく。
 
いわゆる「大阪都構想」と呼ばれる大阪市の解体構想についての住民投票が終わり、構想は否決された。数千票が動けば勝敗が逆転するほどの僅差だった。だから、この結果について「民意が決した」とか「当否の判定が下った」というふうな大仰なもの言いをすることは控えたいと思う。賛否いずれの有権者も「大阪の繁栄」と「非効率な機構の改善」と「行政サービスの向上」を願っていた点に違いはない。賛否を分けたのは、その目標を実現するためにどのような方法を採るのか、「急激な改革か、ゆるやかな改革か」という遅速の差であった。「独裁的、強権的」と批判された市長の政治姿勢も、賛成派には「効率的でスピードのある改革のためには必要な技術的迂回」と見えたことだろう。だが、遅速の差は、まなじりを決して、政治生命をかけて戦うほどのことなのだろうか。そんなのは話し合えば済むことではないのか。この常識を誰も語らなかったことに私はむしろこの国を蝕んでいる深い闇を見る。
二重行政のロスが大きいと言われたが、府県と政令指定都市の間に権限の重複が発生するのはほとんど制度的必然である。そこを調整するのが「間に立つ人」の知恵の見せ所ではないのか。戦後、五大都市から始まった政令指定都市がいまの日本には20ある。大阪市以外の19の都市はどこも二重行政解消のために政令指定都市を解体して特別区に割るというようなアイディアを採用していないし、検討してさえいなかった。府県の持っていた権限の一部を市に委譲すれば「グレーゾーン」が生じるのは当たり前であり、それがもたらす混乱を最小化することが行政官の仕事だという常識が大阪以外の都市ではたぶんまだ通用していたのだろう。
制度設計がどれほど適切でも、運用者に知恵と技能がなければ、制度は機能しない。逆にどんな不出来なシステムでも、「想定外のできごと」に自己責任で対処できる「まともな大人」が要路に一定数配されていれば、システムクラッシュは起きない。
私は別に「制度か人間か」の二者択一を迫っているのではない。どちらも必要に決まっている。違うのは、制度を壊すのは簡単で、大人を育てるのは時間がかかるということである。「都構想」をめぐる議論の中で私は賛否いずれからもついに一度も「システムを適切に管理運用できる専門家の育成」という話を聴かなかった。聴かされたのは制度問題だけである。
大阪の二重行政の最悪の事例として、りんくうゲートビルタワービルとWTCビルのことが何度も出て来た。府と市がバブルに浮かれて無駄なハコモノに桁外れの税金を投じたことがきびしく批判された事例だが、考えればわかるが、これは二重行政の特産物ではない。バブル経済の先行きについての楽観に基づいて巨大なハコモノに莫大な税金を投じた府市の役人の犯した失敗である。仮にバブル期の時点でもし府市が統合された「大阪都」が実現していたら、巨大な権限を持った「都」の役人の裁可で出現したハコモノの巨大さ(そして空費された税金の額)は想像を絶したものになっていたに違いない。
私たちの国が現に直面している危機の実相は「かなりよくできた制度」が運用者たちの質の劣化によって機能不全に陥っているということである。三権分立も両院制も政令都市制度も、どれも権限と責任を分散し、一元的にことが決まらないようにわざわざ制度設計されている。その本旨を理解し、その複雑な仕組みを運用できるだけの知恵と技能をこれらの制度は前提にしており、それを市民に要求してもいる。
権限をトップに一元化して、下僚は判断しない代わりに責任もとらないという仕組みの方が「効率的だし、楽でいい」とぼんやり思う人が過半を制したら、市民社会も民主制は長くはもつまい。
今回の住民投票は「簡単な話を複雑にした」という結果になった。大阪市の抱える問題はひとつも解決しないまま残ったが、あえて「面倒な仕事、複雑な手間」を選んだ大阪市民の「市民的常識」を私は多としたいと思う。  日時: 2015年05月22日 12:08

4 086 「井沢元彦の学校では教えてくれない日本史の授業」(PHP研究所:2011) 感想2

2015年05月28日 00時10分07秒 | 一日一冊読書開始
5月27日(水):

381ページ   所要時間 2:00    図書館

著者57歳(1954生まれ。)

 著者のことを知らなかったわけではないが、汚ない物に触れて自分が穢れるのを避けるために読まなかった。どうせ歴史を読むならもっと価値のある本が無数にあるのだ。なにもわざわざインチキ作家の中途半端な本を読む必要はない。従って著者の本を読むのは今回が初めてである。図書館で、たまたま「学校では教えてくれない日本史の授業」というタイトルを見て、「どんな程度なのか?」と思って手にとったのだ。結論から言えば、これまで著者を読まずに避けてきた選択の正しさを確認することができた。

 歴史を知らない人間が本書を読めば、感想5もあり得るかもしれないが、少し歴史を知る者から見れば、そのもったいぶった指摘の陳腐さ、身勝手さに“吐き気”を催しながら、「よくまあこれだけ膨大な量の無責任な作り話が書けたものだ」と感想2がせいぜいだろう。中身も無いのに威張ってる分、印象は悪い! アカデミズムを批判する素人は所詮天に向かって唾を吐く愚か者だ。そもそも裏付けの無い独断的な話ばかりなので落ち着いて読んでられない。著者は梅原猛ではない。

 吐き気を催しながらだったので、むしろ1ページ15秒のペースをほとんど崩さずに読めた。内容は俺にとって知ってる話ばかりなので大体理解できた。その上で言うが、読む価値がない本だ。わざわざ時間をかけて、偏見や誤解を身に付けるほど人生は長くはない。本書から学べたことは、何も無い。どころか、今どきこんなに幼稚な言説を振り回して差別意識を助長する歴史作家がいることが驚きだった。

以下、俺が本書を読みながら書きなぐったメモ書きに少し手を入れて載せる。

*学校の授業を強く批判しながら、その教科書の土俵の上で相撲をとっている倒錯に気がつかない振りをしている。

*問題意識も取り上げる事柄も全体的に陳腐、ご都合主義的つまみ食いを「日本通史学」と自称する恥知らずさはお話にならない。プロの学者は、まず古文書が読めて、膨大な史料、先行研究を渉猟し、かつ好きでないところもきちんと押さえる。好きなところだけ取り上げるのは、アマチュアであり、プロの学者の築いてきた基礎研究の上に乗っかってることへの自覚もなしに自分の思いの表現として歴史を扱う恥ずかしさを自覚していない。

*学者を馬鹿にする著者には、学者が持つ実証的・批判的姿勢の欠片もない。これは虚実混ぜ合わせた著者の創作にすぎない。

*一方的に江戸幕府を否定しながら、日本の歴史は話し合い絶対主義(情緒的表現)であると誇り、幕藩体制の話し合い体制を棚に上げる矛盾。

*著者のような論法で、もし学校で歴史を教えれば、基準がぶれるどころか、情緒的過ぎて基準がないので収拾のつかない混乱状態におちいるだろう。

*勝手な思い込みの論が延々と続くが、その足場は批判してる教科書に頼り切っている矛盾に気がつかない。

*昔、学生時代、速読が得意と称する友人がいたが、著者とそっくりな話し方をする奴だった。本人は談論風発で豪傑気取りかもしれないが中身が全くなかった。そいつとは、実際に働くようになって付き合わなくなった。ご都合主義のウソ臭さが社会人になると手にとるように分かったからだ。別れて全く惜しくない存在だった。

*根本的矛盾を抱えた恥知らずな本。

*何の裏付けもない思い込みで埋め尽くされた学者の揚げ足取りには厳しく、自分自身のあり方にはとことん甘い姿勢で埋め尽くされた本だ。冷戦体制の背景も踏まえず、碩学の学者を批判する姿は浅ましいの一語に尽きる。

*本書を読んで日本史に強くなった気でいるお目出度い輩には、「まず高校時代の教科書とノートでしっかり歴史を復習しろ。絶対にそっちの方が近道だ! 本書の内容を知ったかぶりして他人に語って、実はきちんとした歴史の知識が無い、なんて話は洒落にもならない。」とだけは指摘しておきたい。基本的に本書は、作家によるお目出度いフィクションである。勘違いしてはいけません。学者を馬鹿にし続ける限り、著者は自分自身の道化師の浅ましさに気がつかないでしょう。

150527 日本の歴史学界の公式見解!:「慰安婦」問題に関する日本の歴史学会・歴史教育者団体の声明

2015年05月27日 20時46分49秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
5月27日(水)

「140221 「河野談話」(1993):これの一体何が問題なのか?当然の内容だ!ここから出発するしかないだろう!」と「150508 朝日:歴史「偏見なき清算を」 米の日本研究者ら187人「日本の歴史化を支持する声明」」も見て下さい。

「慰安婦」問題に関する日本の歴史学会・歴史教育者団体の声明

 『朝日新聞』による2014年8月の記事取り消しを契機として、日本軍「慰安婦」強制連行の事実が根拠を失ったかのような言動が、一部の政治家やメディアの間に見られる。われわれ日本の歴史学会・歴史教育者団体は、こうした不当な見解に対して、以下の3つの問題を指摘する。

 第一に、日本軍が「慰安婦」の強制連行に関与したことを認めた日本政府の見解表明(河野談話)は、当該記事やそのもととなった吉田清治による証言を根拠になされたものではない。したがって、記事の取り消しによって河野談話の根拠が崩れたことにはならない。強制連行された「慰安婦」の存在は、これまでに多くの史料と研究によって実証されてきた。強制連行は、たんに強引に連れ去る事例(インドネシア・スマラン、中国・山西省で確認、朝鮮半島にも多くの証言が存在)に限定されるべきではなく、本人の意思に反した連行の事例(朝鮮半島をはじめ広域で確認)も含むものと理解されるべきである。

 第二に、「慰安婦」とされた女性は、性奴隷として筆舌に尽くしがたい暴力を受けた。近年の歴史研究は、動員過程の強制性のみならず、動員された女性たちが、人権を蹂躙された性奴隷の状態に置かれていたことを明らかにしている。さらに、「慰安婦」制度と日常的な植民地支配・差別構造との連関も指摘されている。たとえ性売買の契約があったとしても、その背後には不平等で不公正な構造が存在したのであり、かかる政治的・社会的背景を捨象することは、問題の全体像から目を背けることに他ならない。

 第三に、一部マスメディアによる、「誤報」をことさらに強調した報道によって、「慰安婦」問題と関わる大学教員とその所属機関に、辞職や講義の中止を求める脅迫などの不当な攻撃が及んでいる。これは学問の自由に対する侵害であり、断じて認めるわけにはいかない。

 日本軍「慰安婦」問題に関し、事実から目をそらす無責任な態度を一部の政治家やメディアがとり続けるならば、それは日本が人権を尊重しないことを国際的に発信するに等しい。また、こうした態度が、過酷な被害に遭った日本軍性奴隷制度の被害者の尊厳を、さらに蹂躙することになる。今求められているのは、河野談話にもある、歴史研究・教育をとおして、かかる問題を記憶にとどめ、過ちをくり返さない姿勢である。

当該政治家やメディアに対し、過去の加害の事実、およびその被害者と真摯に向き合うことを、あらためて求める。


2015年5月25日


歴史学関係16団体:日本歴史学協会/大阪歴史学会/九州歴史科学研究会/専修大学歴史学会/総合女性史学会/朝鮮史研究会幹事会/東京学芸大学史学会/東京歴史科学研究会/名古屋歴史科学研究会/日本史研究会/日本史攷究会/日本思想史研究会(京都)/福島大学史学会/歴史科学協議会/歴史学研究会歴史教育者協議会

150526 政府はどこまで国民・市民の尊厳を踏みにじり、侮辱すれば気が済むのか。海外バラマキををやめろ!

2015年05月27日 01時16分57秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
5月26日(火):

白痴の安倍晋三の海外大名行列の莫大な国民財産の散財の陰で、どれほど多くの国民・市民の生活が切り捨てられ、貧困に喘いでいる事実にマスコミが光を当てないのは異常を通りすぎて、グルだとしか言えない。OECD加盟国で、日本はイスラエル、アメリカに次ぐ3番目の貧困大国である。ネット右翼ら安倍の支持者が、そのしわ寄せを一番受ける階層なのに、彼らは安倍晋三を支持している。ブラック過ぎる戯画である。安倍自民を批判する俺をはじめ、多くの人間は実は何とか持ち堪えれる中流層なのも皮肉だ。高橋和巳の「邪宗門」で、「マルクスもレーニンもプロレタリアートじゃなかったよ」のいっせつが思い出される。


今の政治家は、国民を幸せにする目的を完全に忘れている。あるのは利己主義だけか。悲しむべきの世なり。

リテラ派遣労働法「骨抜き改正」で日本も…ドイツで起きた「一生派遣」の奴隷地獄が始まる! 2015.05.26.

『労働者派遣法の研究』(高橋賢司/中央経済社).

 賃金は半分になったが、住居費や病気にかかるコストなどの支出は高い。心が引き裂かれ、憔悴ばかりして、故郷へ帰らざるをえない。帰る故郷がない、労働契約を解約されたある女性は、住居を失い、お金も底を尽き、通りでホームレスになった。彼女は「私は奴隷同然だと感じた」と語る……。
 ある改正案が施行されたとたんに、あなたも奴隷同然の扱いを受けるかもしれない――。この5月、労働者派遣法の改正案が衆議院本会議で審議入りしたのだ。労働者派遣法の改正案は、条文のミスと衆議院の解散で2回廃案となっており、政府は3回目の提出となった今国会で確実に成立させたいとしている。
 これまで派遣労働の派遣期間は、一部の専門業務(26業務)は「期間制限なし」で、それ以外は最長で「3年」までとなっていたが、労働者派遣法の改正案では、業務を問わず1人の派遣労働者が企業の同一の組織単位(同じ部署)で働ける期間を「3年」に制限する。さらに、派遣元企業(派遣会社)は「3年」の上限に達する派遣労働者に雇用安定措置(派遣先企業への直接雇用の依頼等)を講ずることとする。このため、政府は、正社員への道を開き、派遣社員の待遇を改善する改正だとする。
 しかし、派遣先企業への直接雇用の依頼等といった雇用安定措置を、注文を受ける弱い立場の派遣元企業(派遣会社)がはたしてできるのか。また、多くの派遣社員にとっては「3年」後の労働環境が派遣先企業次第で、不安定という事実は変わらないのだ。
 さらに、同じ派遣社員の同じ部署への派遣は3年を上限とされているが、同じ部署でなければ、いつまでも派遣社員としての雇用が可能になる(過半数組合等への意見聴取という条件付き)。
 派遣先企業にとってみれば、1つの部署を派遣社員で3年ごとに回転させることが可能となり(派遣労働の固定化)、さらなるコスト削減が可能になるのだ。企業にやさしい経済政策ばかりの安倍政権ならではの改正案と言っていいだろう。
 この派遣法改正に関しては、1月末、厚労省の担当課長が派遣業界団体の会合で「派遣労働というのが、期間が来たら使い捨てというモノ扱いだったが、(派遣労働法改正によって)ようやく人間扱いするような法律になってきた」と述べ、問題になったが、今回の改正では、「派遣労働者がモノ扱いされる」状況は変わらず、さらに「一生派遣」の奴隷地獄が始まるのだ。
 実際に最長派遣期間の上限規制を撤廃したドイツの例を見れば明らかだろう。『労働者派遣法の研究』(高橋賢司/中央経済社)によれば、ドイツは2002年に最長派遣期間の上限規制を撤廃している。こうしたドイツの労働市場の規制緩和の動きを日本は見習っているとされるが、その先に広がった光景は派遣社員が急増し、「賃金ダンピング」が横行する奴隷地獄だったという。冒頭に紹介した「私は奴隷同然だと感じた」というホームレスになった女性の証言はドイツの労働者の声だ。
 まずは、派遣社員の急増。上限規制撤廃直後の2004年に38万5256人だった派遣社員は、2011年に87万2000人に倍増した。正社員が次々と派遣社員に切り替えられたのだ。
 代表的な事件がシュレッカー事件だ。
 「薬のディスカウント・ショップ・シュレッカー社は、労働者を解雇し、多くの支社を閉鎖し、MENIARという派遣企業を通じて、新たに開業した支社へ同労働者を派遣させた。(略)当該労働者の賃金は以前シュレッカー社で雇用されていたときより低く定められ、賃金ダンピングだと同社は非難を受けた」(同書より)
 シュレッカー社が閉鎖した約4000の支社(小規模店舗)で雇用されていた約4300人は解雇され、新しい支社(大型店舗)で働くためには、派遣企業MENIAR社との間での労働契約を締結することを迫られたのだ。賃金はそれまでの約半分になり、それまでにあったクリスマス手当も有給休暇手当もなくなった。
 回転扉の一方の側からいったん外へ出し、ぐるりと回る扉の他方の側から中に入れたならば(正社員ではなく派遣社員にすることで)、それまでとは別の扱いができるようになる現象をドイツでは「回転ドア作用」と呼ぶそうだが、このシュレッカー社の「回転ドア作用」と賃金ダンピングは大いに問題視された。
 派遣社員にとっては無期限に続く低賃金という悪夢のような雇用環境だが、ドイツでは幸いなことに、2011年に「回転ドア作用」を制限し、労働者派遣は「一時的」なものとすると定義づけるなど再規制の道を選ぶことになる。
 しかし、この再規制は加盟するEUがそれまでの規制緩和路線から、雇用の安定性を重視する姿勢に転換し、ドイツに対して、政策転換を促したことが大きい。
 一方、日本で仮に派遣法改正で上限規制が撤廃された場合には、EUといった歯止めもないために、無期限・低賃金という悪夢のような雇用環境がいつまでも続きかねないのだ。
日本が見習ったドイツでは今、「雇用を増やすだけでなく、安定性の高い雇用を増やさなければならない、という基本的な姿勢」(同書より)が一般的になりつつあるというが、日本は周回遅れで、「一生派遣」の奴隷地獄に突き進もうとしている。 (小石川シンイチ)


4 085 松井祐三「だから「いい家」を建てる」(大和書房:2010) 感想2 オカルト本

2015年05月27日 00時47分36秒 | 一日一冊読書開始
5月26日(火):

275ページ   所要時間 1:30   ブックオフ360円

著者41歳(1969生まれ)。一級建築士。

 前半は、外断熱を力説する住宅本の体裁をとっていたが、後半“新換気”システムの話になるあたりから、シロアリの恐怖やカビ、PM2.5の恐怖まで煽って、頻りに家でする「深呼吸」の話になり、ダクトに溜まった埃や・カビの写真を見せて「これが皆さんやご家族の肺に吸い込まれていたと思うと…」とまるで恐怖感を煽って信仰心を植え付けるような非常識な内容になっていく。こんなことを考えてたら人間は生きていられないか、家から一歩も出られないか、「いい家」を建てられない貧乏人は死に絶えるしかない。そもそも「深呼吸」は屋外や郊外でするものである。

 こういうのをオカルト本というのだろう。外断熱(と換気)教の信者に向けた宗教本・教義書だ。後半では他メーカーの悪口を熱心に説き、都合の良い自慢話と顧客の「あなたしかいないわ」という客観性に欠ける評価を延々と載せている。正直、終盤は読み流した。付き合ってられない。アマゾンの5.0(6件)の評価は信じ難い。信者さんによる奉仕活動としか思えない。外断熱と換気の大切さを否定する気は毛頭ないが、本書の特に後半部分の記述はやや常軌を逸している。少なくとも、出版のモラルに反すると思う。

4 084 「プロブレムQ&A 性同一性障害って何? 増補改訂版」(緑風出版:2011) 感想5

2015年05月26日 01時05分28秒 | 一日一冊読書開始
5月25日(月): 副題「一人一人の性のあり様を大切にするために」
 294ページ   所要時間 2:40    図書館

野宮 亜紀(著), 針間 克己(著), 大島 俊之(著), 原科 孝雄(著), 虎井 まさ衛(著), 内島 豊(著)

MTF1、FTM1、弁護士1、医師3。この問題に取り組む第一線の当事者たちが祈りを込めて書くことで、行き届いた内容の本になっている。本書のおかげで、MTFの友人の思いにほんの少しだけ近づけた気がする。

LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)という言葉をよく耳にするようになったが、その意味するところを分かっていない自分にいら立って図書館で借りた本である。結論から言えば、LGBTと総称されているが、各々が違う概念・存在である。

性同一性障害に当たるのはトランスジェンダーであり、「障害」という言葉の不当性を和らげるための言いかえに使われる言葉である。心が女性のMTFと心が男性のFTMについて、彼女、彼らの実体とこの社会の居心地の悪さの切実さ、本来の性である心の性に身体を合わせることの意味と手続き、それだけでは解決にならない現実などが当事者の言葉で丁寧に書かれている。

性同一性障害者は、同性愛者とひと括りにされやすいが、別の存在として捉えるべきである。この問題は世界で現在進行形で進められており、日本もやや遅れてはいるが、状況は日々刻々変わっている。本書が出た2011年から既に4年が経つ。実際、この4年でLGBTという言葉が人口に膾炙するようになったことを思えば、本書の内容自体やや古くなっているものと考えるべきだろう。

マイノリティの人権を考える時には、人間の尊厳を前提に、多様性を尊重し、面白がるくらいの寛容さを持たねばならない点は、すべてに通底する。しかし、一方でそれを強調し過ぎて各々の当事者が持つ固有の問題やしんどさ、居心地の悪さをとばしてしまうと、日本共産党が歴史的に犯してきたマイノリティ団体に対する上から目線の無謬性強調・指導(してやる)の過誤におちいる。

俺は共産党の講座派ではなく、労農派だ。当事者を見下ろすのではなく、寄り添いたいし、それしかできない。あまり分かる分かると強調するよりも、心を寄せながらも当事者にしか背負えない哀しみ、居心地悪さが残ることを銘記して、その部分は他者には理解し切れないと謙虚になるべきだろうと考える。

ちなみにMTFが3万人に1人,FTMが10万人に1人という統計(42ページ)には、少し驚いた。最近30人に1人ぐらいいるので1クラスに1人位はいるという話はトランスジェンダーではなく、LGBT全体ということなのか? ちょっと分からなくなった。

ウィキペディア:LGBTにクィア(Queer)のQを加えたLGBTQという表現も一般的に使われている。一方、Intersex(インターセックス、男性と女性の両者の性的な特徴と器官がある人)はLGBTにIを加えたLGBTIという表現の使用を提案しており、この表現も様々な活動において用いられている。 このような人々が自分たちの性を認め、公表できるかどうかは、彼らが住む地域にLGBTとして生きる権利が認められているかどうかに依ると言える。

紹介文:※戸籍上の性を変更することが認められる特例法が二〇〇四年から施行され、日本でも性同一性障害が社会的に認知されるようになった。しかし、いまだ誤解や偏見もあり、当事者を取り巻く環境は厳しい。本書は性同一性障害とは何かを理解し、治療や性別変更の手順、また、現実社会で生活していくために、当事者やまわりはどうすればよいか、をQ&A形式でやさしく解説。発売以来五刷りを重ねた入門書として定評の高いロングセラーに最新情報をプラスした改訂版。(2011.2)
※あなたの悩みに答え、みんなの誤解と偏見をなくす!
戸籍上の性を変更することが認められる特例法が今国会で可決された。性同一性障害は、海外では広く認知されるようになったが、日本はまだまだ偏見が強く認められることは難しい。性同一性障害とは何かを理解し、それぞれの生き方を大切にするための入門書。医学、法律を含め専門家が分担をして執筆。
性同一性障害って何?からはじまり、具体的な治療について、生活や学校・職場の問題、法律や性別変更の仕方まで、49の質問を一つ一つわかりやすく解説する。

■内容構成: 性同一性障害って何?/ 性同一性障害の治療/ 性同一性障害と生活・仕事/ 性同一性障害と法律・社会/ 終わりに

資料1 性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン(第三版)
資料2 性同一性障害のための医療機関等リスト
資料3 性同一性障害/トランスセクシュアル/トランスジェンダーの自助支援グループ

[Qの例]
性同一性障害は病気なのですか?/ だれに相談すればいいのですか?/ ホルモン療法ってどういうものなのですか?/ 性別適合手術ってどうゆうものなのですか?/ 職場に性同一性障害をもつ人がいたら、どう扱うべきでしょうか?/ どのような手続きで性別を変更するのですか?

【著者紹介】
野宮亜紀 : 東京生まれ。早稲田大学第一文学部心理学専修卒業。1998年より、性同一性障害/トランスセクシュアル/トランスジェンダーの自助・支援グループ「Trans‐Net Japan:TSとTGを支える人々の会」運営メンバー。和光大学非常勤講師
針間克己監修 : 東京大学医学部医学科卒業。東京大学医学部大学院博士課程修了。医学博士。日本性科学学会幹事長。性同一性障害研究会理事。日本精神神経学会「性同一性障害に関する委員会」委員。The World Professional Association for Transgender Health(WPATH)会員。専門:精神医学、性心理障害。2008年4月、千代田区神田小川町にて、はりまメンタルクリニック開院
大島俊之 : 弁護士(弁護士法人淀屋橋・山上合同、大阪弁護士会)。大阪大学法学部卒。法学博士。大阪府立大学の専任講師、助教授、神戸学院大学の法学部教授、法科大学院教授、九州国際大学大学院法学研究科長を経て、現職。カナダ首相出版賞受賞(1999年)。尾中郁夫・家族法学術賞受賞(2003年)。GID(性同一性障害)学会前理事長
原科孝雄 : 1939年生まれ。1965年慶応義塾大学医学部卒業。形成外科学教室入室。1973年マイクロサージャリーの研究のため米国留学。1984年同助教授。1987年埼玉医科大学総合医療センター教授(川越市)。1995年性別適合手術を同大学倫理委員会へ申請。1998年わが国で始めての公けの性別適合手術を行なった。日本形成外科学会、日本マイクロサージャリー学会、性同一性障害研究会の会長、また、性同一性障害研究会理事長、日本性科学会会長を歴任
虎井まさ衛 : 1963年東京生まれ。作家。「オフィス然nature」作家。「FTM日本」主宰。著述、講演、東京都人権啓発ビデオ(東映製作)への出演、「3年B組金八先生」第6シリーズへの協力、企画講演の実施など、性同一性障害に関する啓発活動を精力的に続けて20年以上になる(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

4 083 岩田正美「現代の貧困 ワーキングプア/ホームレス/生活保護」(ちくま新書:2007) 感想4

2015年05月25日 00時44分22秒 | 一日一冊読書開始
5月24日(日):

221ページ   所要時間 1:00   ブックオフ105円

著者60歳(1947生まれ)。現在、日本女子大学教授。研究テーマは、貧困・社会的排除と福祉政策。

1ページ15秒の縁結び読書。1ページ15秒は1時間が限界だ。感想4は、もう少し丁寧に読めば、5になったと思う。良書だ。機会があれば、もう一度読みなおそうと思う。貧困の問題は、現代社会を理解する上で根本的な問題だ。

読みながら頭をよぎったことは、これほど貧困の問題が語られてるが、実際問題としてこの2年半安倍晋三が海外で無意味にばら撒いてきた7兆円の金がもし国内に向けられていたら、日本国内の貧困、子育て、教育を取り巻く状況は劇的に改善していただろう。

これは意識のあり方の問題だと思う。憲法をいじらなくても、為政者とマスコミが少し意識を変えて国民をリードしてくれれば世の中はすごく良い方向に変わるのだ。鳩山民主党政権が行った高校無償化政策が画期的意味を持ったのを思い起こすべきだろう。

今後、白痴の安倍晋三によって、自衛隊の海外派兵の常態化及び底無しの軍事費拡大、出口の無い原発政策継続、中国と張り合う海外大散財の継続によって、莫大な金が構造的に蕩尽されていくことになるだろう。その金は結局社会保障費の削減、弱者切り捨て、中流家庭崩壊によって支えられるのだ。安倍晋三を支持する日本人の戯画がいつまで続くのか。後世の笑いものでは済まない、子や孫から我々は深く恨まれる取り返しのつかない事態が多くの浅慮な国民の支持によって進行中だ。五里霧中。

紹介文:貧困は人々の性格も、家族も、希望も、やすやすと打ち砕く。この国で今、そうした貧困に苦しむのは「不利な人々」ばかりだ。なぜ? 処方箋は? トータルに描く。/ 格差社会の果てにワーキングプアや生活保護世帯が急増中、と言われる。しかし本当にそうか?バブルの時代にも貧困問題はあった。ただそれを、この国は「ない」ことにしてきたのだ。そもそも、貧困をめぐる多様な議論が存在することも、あまり知られていない。貧困問題をどう捉えるか、その実態はどうなっているのか。ある特定の人たちばかりが貧困に苦しみ、そこから抜け出せずにいる現状を明らかにし、その処方箋を示す。

目次:1章 格差論から貧困論へ/2章 貧困の境界/3章 現代日本の「貧困の経験」/4章 ホームレスと社会的排除/5章 不利な人々/6章 貧困は貧困だけで終わらない/7章 どうしたらよいか

150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)