もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

5 032 大和和紀「あさきゆめみし 11」(講談社コミックス・ミミ:1991)感想4+

2015年11月30日 00時58分55秒 | 一日一冊読書開始
11月25日(火):  

著者43歳(1948生まれ)。

206ページ    所要時間 3:25(お風呂で(*´ω`))       蔵書

  「宇治十帖」の始まりであるが、心の動きが複雑でしんきくさい。読んでいてフラストレーションがたまる。特に薫大将にはイライラする。源氏物語の世界では男女関係は最後には男性が女性をレイプすることで成就することになっていて、これまで「これってどうなんかなあ」と思っていたが、逆に薫のように女性の気持ちを大切にして待つ姿勢を貫くと女性の側から「私をあなたのものにして下さい」とは絶対に言えない世界だから全く話が進展しない。読んでるうちに「こいつあほちゃうか?」と思ってしまった。それに比べると、匂の宮の方が何か潔さがあって好感が持てた。あと、大君(おおいきみ)もしんきくさい女性である。「宇治十帖」の作者別人説というのはあながち当たってるのかもしれないな、と思った。

  2度目。故六条院源氏の子(実は柏木の子)薫の中将と少し年上の源氏の孫匂の宮。自分の父が源氏でない誰かだと子供の時に聞き心に陰を持つ物静かな薫、天真爛漫ではあるが心根のやさしい匂の宮、二人は当代を代表する公達である。それでも昔を知る女房たちから見れば、光源氏の君には及びもしない。薫は香も焚かないのにかぐわしい匂いがして人に気づかれる。

  (血のつながらない)兄である冷泉院のもとで、居合わせた阿闍梨から薫は、昔冷泉院が春宮の時、廃太子の陰謀があり、対抗馬として勝手に利用され結局退けられた後、俗聖(ぞくひじり)として仏道に励む冷泉院の弟八の宮が愛する妻に先立たれ、娘二人と宇治の山奥に隠棲していることを聞きつける。

  仏道に励む八の宮を訪ね、親しくなった薫は、八の宮が山籠もりの修行中に琴の音に魅かれて偶然八の宮の娘大君(おおいきみ)と中の君を垣間見る。薫は姉の大君に魅かれる。

  貴人の相手のできる女房もいない山荘でようやく出てきた弁の君という老女が薫を見て涙ぐみ、薫が柏木衛門督の子であったことを告げる。ショックを受けつつ、薫はかえって自分の存在に初めて確信を持てた気になる。

  八の宮のもとに足繁く通う薫から姉妹の話を聞きつけて強く魅かれる匂う宮だが、皇族のゆえに自由に行動できない。八の宮が姉妹を残して山籠もりの修行中に亡くなってしまう。中の君は生まれた直後に母を失っており、姉の大君が母親代わりとして寄り添って生きてきた。八の宮に姉妹の行く末を託されていた薫はかいがいしく面倒を見ながら、大君への思いを深めていくが、源氏のような大胆さに欠け、女性に判断を預けてしまう。

  ようやく大君に襲いかかるが、「ここは亡くなった父の仏殿です」の言葉にひるみ何もできず朝まで過ごす。大君は大君で薫の気持ちを確かめると薫の気持ちを自分の持ち物と勘違いして、薫のような素晴らしい男性は、妹の中の君に譲って丈夫でない自分は山里で一人で生きようと決めて、薫に冷たくあたるようになる。

  八の宮の一周忌が明けて、薫が大君に積極的に出ると「妹をどうぞ」という。起こった薫が寝所に忍び込むと中の君を残して大君は隠れる。中の君だけだと知った薫は何もせず朝まで過ごす。匂の宮に中の君への仲介を頼まれたのを幸いに薫は大君に挨拶と称して裾をとり「わたしが嫌いですか」と問う。一方で、弁の君をだまし匂の宮を中の君のもとに案内させる。

  中の君は匂の宮のものとなるが、大君はとことん薫と結ばれることを拒む。薫を愛しているのに拒む大君に薫は「あなたは間違っている」と声をかける。ここで To be continued.
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151129 一年前:141129アベノミクスは<スタグフレーション><弱者いじめ>!4年の白紙委任状渡せば破滅

2015年11月29日 19時36分03秒 | 一年前
11月29日(日):
141129 アベノミクスは<スタグフレーション><弱者いじめ>!4年の<白紙委任状>渡せば日本は破滅!

11月29日(土):  皆さん、必ず12月14日(日)には投票に行きましょう。投票率を上げましょう。安倍自民党以外の候補者に投票しましょう。お願い申しあげます。m(_ _)m。...

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151129 朝日デジタル:【考論 長谷部×杉田】平和主義守るための改憲、ありえるか

2015年11月29日 19時07分03秒 | 考える資料
11月29日(日):

朝日デジタル【考論 長谷部×杉田】平和主義守るための改憲、ありえるか  2015年11月29日05時00分
 憲法解釈の変更で揺らいだ「9条の理念」を守るためには、いっそのこと憲法改正で自衛隊を認めた方がいいのでは――。長谷部恭男・早稲田大教授(憲法)と杉田敦・法政大教授(政治理論)の連続対談は今回、集団的自衛権の行使を認めた安全保障法制の成立を受けて、護憲的な立場から浮上した「新9条論」を切り口として、憲法と民主主義の関わりを考えます。

 ■9条と自衛隊だけ批判、不思議 長谷部/解釈余地なくせば理念守れる? 杉田
  杉田敦・法政大教授 朝日新聞の「声」欄に、「憲法9条を素直に読めば自衛隊の存在は違憲だ」「護憲だけれども、自衛隊は現状のままでよいというなら、立憲主義を語る資格などない」という投稿が寄せられ、賛否両論の反響があったようです。まず、自衛隊は違憲だ、自衛隊合憲論は解釈改憲だという説に対して、どうこたえますか。
  長谷部恭男・早稲田大教授 憲法に限らず、法律の条文はレストランのメニューと同じで、解釈しなくても意味がわかるというのが原則です。ただ例外的に、解釈が必要になる場合がある。ある条文と別の条文が矛盾している、あるいは普通の日本語の意味通りに考えたら良識に反する結論になってしまう時などです。
  杉田 「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とする9条2項は、解釈が必要な条文だと。
  長谷部 普通に読んだら自衛隊のような実力組織は持てないことになる。しかしそれでは日本国民の生命と財産を守れません。国民の生命と財産を守る。これはどんな国家でも最低限やるべきサービスです。だから、これまで政府は国外からの急迫不正の侵害があった時に、どうしても必要だという場合に限って、均衡のとれた範囲内で個別的自衛権を行使して対処する、そのために自衛隊を備える、憲法がそれすら認めていないのはおかしいだろうと解釈してきたわけです。
  杉田 解釈が必要なのは9条だけではありませんね。21条には「一切の表現の自由は、これを保障する」とありますが、人の名誉を毀損する表現などは保護されません。また、内閣不信任が決議された場合でなくても、首相が衆院を解散できるということについては、明確な憲法の条文はありませんが、解釈によって認められてきました
  長谷部 その通りです。それらについて、違憲だ、解釈改憲だ、おかしいという批判は聞こえてこないのに、9条2項と自衛隊の関係についてだけ、護憲、改憲両派からことさらに批判が出るのは不思議です。
  杉田 ただ、戦後の平和主義的な価値を大事に考える人々の一部には、現行憲法の文言が抽象的だからこそ、今回、集団的自衛権が行使可能にされてしまったという忸怩たる思いがあるようです。そこで、平和主義の理念を守るために憲法9条を改正すべきだという「新9条論」も出ている。個別的自衛権は行使できるが、集団的自衛権は認められないなどと明示し、解釈の余地をなくすべきだと。
  長谷部 そのような改正が仮に実現したとしても、それがさらなる解釈の対象にならないという保証は全くありません。集団的自衛権は行使できないと書いてあっても、フルスペックでないからOKだと解釈されてしまう可能性は残る。

 ■憲法の蘇生めざす「新9条論」 杉田/みんなで決めれば正しいのか 長谷部
  杉田 まさに今の政権が言っている話ですね。
  長谷部 条文の文言は思っているほど頼りになりません。一番頼りになるのは安定性継続性昨年夏の閣議決定による集団的自衛権の行使容認に対して、歴代の内閣法制局長官や元最高裁長官らが厳しく批判しているのは、法の安定性と継続性を破壊してしまうからです。集団的自衛権は行使できないという憲法解釈は長い年月をかけて営々と紡ぎ出され、積み重ねられてきた。すでに確立した解釈であるから、簡単に変えられないし、変えてはならないはずだと。
  杉田 しかし、その安定性と継続性が安保法制の成立によって断たれ、9条は空文化し、死んでしまった。だから、新条項として蘇生させなくてはいけないと、「新9条論」者たちは主張しています。
  長谷部 死んでいるのならなぜ、安倍さんたちは明文改憲を目指しているのでしょう。死んでませんよ。集団的自衛権の行使は認められないという「法律家共同体」のコンセンサスは死んでいませんから。元の政府解釈に戻せばいい
  杉田 その法律家共同体の営みが、密室での合議で不透明だという不信感が、改憲論の背景にはある。安倍さんが以前唱えた「憲法を国民の手に取り戻す」、つまり憲法改正規定をゆるめて国民投票で民意を反映しやすくするのが民主主義だといった主張のベースにもあるし、「新9条論」にもそれがあるようです。
  長谷部 法律の現実を形作っているのは法律家共同体のコンセンサスです。国民一般が法律の解釈をするわけにはいかないでしょう。素っ気ない言い方になりますが、国民には、法律家共同体のコンセンサスを受け入れるか受け入れないか、二者択一してもらうしかないのです。
  杉田 おそらく、宗教と並んで、法について解釈学が発達してきたことには理由があり、専門的な解釈の積み重ねによってしか運用できないようなものなのでしょう。しかし、それは一般的にはなかなか理解されない。解釈の余地がない、透明な秩序を作れるはずだと多くの人が思っている。憲法についても国民自身が参加する透明な手続きで、透明なものに作りかえられるし、その方が望ましい。国民の同意によって出来た憲法であれば、政府を縛る力が強まるはずだと。
  長谷部 しかし、同意が基礎だと言い始めたら、10年、20年おきに憲法を全部作り直さないといけなくなります。しかも、同意は法律や憲法の正当性を基礎づけることにはならない。みんなで議論し、最終的に多数決で決めれば、正解にたどり着く蓋然(がいぜん)性はある。でも、みんなで決めたことだから正しいという主張に根拠はない。多数決で間違った決定をすることも珍しくはありません。

 ■緊急事態条項、必要か疑問 長谷部/立憲体制、根幹変質の恐れ 杉田
  杉田 たしかに、みんなで決めたことでもだめなものはだめ。これが立憲主義でしたね。民主主義と立憲主義の間の緊張関係を常に意識しておかないと、「新9条論」を主張する人たちの純粋で真摯な思いが、民主主義の名の下に、改憲そのものを自己目的化する現政権の動きを、裏側から支えてしまう可能性がありそうです。
  長谷部 そもそもなぜ、憲法を書き換えるという形で自らの社会構想を表現するのでしょうか。憲法改正には衆参各院の総議員の3分の2以上の賛成による発議という、非常に高いハードルが課されています。政治や社会の基本原則を軽はずみな思いつきで変えてはならないからです。
  杉田 憲法を書き換えるくらいの勢いでないと、民主政治が活性化しない、という発想でしょうか。しかし、今年、憲法を守ろうと、人びとは大いに盛り上がった。戦後日本は、9条で平和主義25条で生存権の原理を掲げ、現実をそこに向かわせようと実践を積み重ねてきました。いま条文を実態に合わせようとすれば、現実を変える力はむしろ失われてしまうでしょう。不幸なテロ事件をきっかけに、フランスでは緊急事態対応の憲法改正が取りざたされています。日本でもさっそく、呼応する議論が出てきていますが、立憲デモクラシー体制の根幹を変質させることにつながらないでしょうか。
  長谷部 フランスで議論されているのは、すでに法律レベルで定められている非常事態対処措置の根拠を憲法に書き込もうという話ですね。他方、安倍さんは緊急事態条項を憲法に取り込む改正に意欲を見せていますが、憲法を改正する必要が本当にあるのか。国民の安心を保障しようとしても、心配のタネが尽きることはないわけで、得られるはずのないものを得ようとして、むやみに政府の権限を広げることにならないか。問題は山のようにあります。この件については、回を改めて話し合うことにしましょう。=敬称略    (構成・高橋純子)

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151128 一年前:141127 「従軍慰安婦」問題を考える。高橋源一郎さん論壇時評&朴裕河氏フェイスブック記事

2015年11月29日 01時59分18秒 | 一年前
11月28日(土):
141127 「従軍慰安婦」問題を考える。高橋源一郎さん論壇時評&朴裕河(パクユハ)氏フェイスブック記事

11月28日(木):よい内容なので紹介する。朝日の良い記事は、ほとんどが外注の記事だ。朝日新聞社は恥を知るべきだろう。まあ、読売・産経、NHKより100倍マシだけどね。(論...

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151127 54万PV超:今や政治の最大の癌は民主党を解党しない岡田党首だ!大阪W選挙の教訓「一枚岩が勝つ」

2015年11月28日 15時39分40秒 | 閲覧数 記録
11月27日(金):  今や政治の最大の癌! 一番辞めてほしい人。

記録ですm(_ _)m。ブログの開設から1511日。

アクセス:閲覧 810PV/訪問者 113IP

トータル:閲覧 540,317PV/訪問者 160,612IP

ランキング:6,565位 / 2,324,726ブログ中 週別 6,422位

  今のままだと来年の参議院選挙は、大阪W選挙で示された「有権者は「政策」ではなく「一枚岩の政党」の候補者か「寄り合い所帯」の候補者かという点で選ぶ投票行動」が再現されるだろう。そして勝つのは「一枚岩の政党」だ。野党は惨敗する。最大の元凶は、現民主党執行部である。前原詐欺師や細野ら自民党別動隊を抑えられない民主党は鵺のように混沌としている。俺だってこんなあやふやな政党に投票はできない。

  決断力、創造性のかけらもない岡田党首は一体何がやりたいんだかわからない。もはや、取るべき道は前原・細野・長島ら<第二自民党>勢力が言う通りに維新の党との合併を目指して「解党」するしかない。だれも止めない。

  民主党が解党してくれれば、たとえ3割くらいの少数であっても、<第二自民党>勢力と行動を共にしない中道リベラル議員が残るだろう。その残った3割こそが、いまの日本にとって<希望>なのだ!この3割が覚悟を決めて、憲法違反の集団的自衛権白紙撤回を約束して、「立憲主義回復」「戦争法廃止」「脱原発」「反辺野古」の枠組みで、共産党、社民党、生活の党、旧未来、沖縄、学者、SEALDs他中道リベラル勢力とともに結束して「一枚岩の受け皿」になれば、必ず奇跡は起こる。

  いまや政治の最大のガンは安倍晋三でもなく、前原詐欺師でもなく、古い民主党の形にしがみついている岡田民主党党首である。今の民主党には100%未来はない!民主党は早く解党せよ!

「 151105 つぶやき&日刊ゲンダイ:「中道」の幻想にとらわれた民主党は破滅に向かう 永田町の裏を読む/高野孟 」の<つぶやき>を以下に再掲する。  
「  そろそろ岡田・前原・細野の民主党に見切りをつける時期だ。この党はもうだめだ。生活小沢一郎の「オリーブの木」、民主党阿部知子の「立憲民主の党」の枠組みを「共産党」と「社民党」と「生活の党」+αでしっかりと作ればいい。前回選挙の「未来の党」や“沖縄”支持派の勢力などを糾合し、違憲立法に反対する「学者の会」や「SEALDs」の協力を得ればかなり良い形が出来上がる。この枠組みの候補者は党籍はそのまま参加できるようにしておけば、民主党の辻本や福山らリベラル派も合流しやすいだろう。「中道~リベラル~左派」と「浮動票」のまとまった受け皿になる。

  枠組みのテーマは「立憲民主」「戦争反対」「脱原発」「反辺野古」の4つとし、「憲法9条解釈改憲の撤回」、「憲法違反の安保法の停止・廃止」、「原発再稼働の中止」、「辺野古基地建設強行の中止」にしぼって参院選を闘えばよい。SEALDsの考えとも一致するし、共闘することができれば、安倍・山口の自公ファシズム政権に反対する「中道~リベラル~左派」支持者と「浮動票」を合わせて投票の受け皿になり、巨大な票が投じられるだろう。

  これ以上、腐った民主党にむなしい期待を続けるよりも、共産党、社民党、生活の党、旧未来、沖縄、学者、SEALDsで「立憲民主の党(仮称)」の枠組みを立ち上げて4つのテーマでしっかりと有権者に訴えれば、十分すぎるほどの議席をとれる。しっかりした受け皿を作れば、民主党内のリベラル派も合流できるだろう。民主党に残存する腐った<第二自民党>勢力は捨てておけばよい。どうせ多くは落選して消えていく奴らだ。細野がうそぶく「民主党を支持する保守層がどの程度いるのか」見せてもらえばよい。鳩山と小沢のいない民主党は創設者のいない<偽・民主党>であり、消えてしまえばよいのだ。維新の党なんて鵺(ぬえ)には参院選で誰も投票しない。おおさか維新なんてごろつきも同様だ。

  「立憲民主の党(仮称)」の枠組みをきちんと作って、「中道~リベラル~左派」と「浮動票」の受け皿になれば、死に票が無くなる。それだけで安倍の独裁政権を倒せるのだ。参院選での強い民意を背景に「立憲民主の党(仮称)」と自公との交渉に持ち込めば、「憲法違反の安保法の停止」、「原発再稼働の中止」、「辺野古基地建設強行の中止」に持ち込める。簡単ではないだろうが、さらに衆院選で政権交代を果たせれば、「憲法9条解釈改憲の撤回」「憲法違反の安保法の廃止」が実現する。日本の政治を正常化できる。前を向いて生きていける。

  <第二自民党>勢力が排除されている分、与党間の共闘は維持しやすい。真に国民の意志に応える政権ができるはずだ。岡田・前原の民主党には、今後も頑張って見苦しく振舞い続けてもらえばいい。愛想をつかした国民は明確に民主党を見離し、民主党は自民党に吸収され消滅することになるだろう。それでいい。
  」

◎以下、内田樹師匠の卓論を載せる。「無限責任の政治と有限責任の株式会社とは違う。共和政は上意下達ではない。」という嘆きが聞こえてくる。
内田樹の研究室株式会社化する政治   2015年11月27日 16:02  
  大阪ダブル選では、政策的には候補者間に大きな違いはなかった。いずれの候補者も大阪の全方位的な長期低落傾向を嘆き、再活性化の喫緊であることを訴えていた。そして、結局「大阪都構想」が再び争点になった。
  ふつう半年前に否決された政策が(特段の条件の変化があったわけでもないのに)再び争点化するということはない。ということは、この選挙のほんとうの「賭け金」が政策ではなかったということを意味している。
  大阪の有権者が選択を求められたのは政策の「中身(コンテンツ)」ではなく、候補者の人間性あるいは手法という「容れ物(コンテナー)」だったと私は理解している。
  維新・非維新候補の際立った違いは何よりも「一枚岩の政党」の候補者か「寄り合い所帯」の候補者かという点にあった。有権者たちはその違いに最も敏感に反応した。「街の声」でも、SNSに流れた感想でも、大阪維新のアドバンテージとして「話がわかりやすい」「言うことに一貫性がある」を挙げたものが多かったし、逆に、自民党・民主党・共産党が推した候補者たちはまさに国政において対立している政党の支援を基盤にしたゆえに、いったいどのような立場を代表しているのか「わからない」という批判に終始さらされた。
  有権者は「一枚岩組織」のもたらす「わかりやすさ」を選好し、「寄り合い所帯」の「わかりにくさ」を退けたのである。
  この「組織のかたち」についての選好のうちに私はこの選挙結果の歴史的な意味を見る。
  現代人は「一枚岩」の、上意下達でトップの指示が末端にまで瞬時に伝達され、成員が誰も命令に違背しない、そのような組織を好む。そのような組織こそが「あるべき姿」であり、それ以外のかたち(例えば、複数の組織が混在し、複数の命令系統が交錯し、複数の利害が絡み合うようなかたち)は「あってはならない」ものだと信じている人がたぶん現代人の過半を占めるであろう。
  以前から繰り返しているように、この趨勢を私は「株式会社化」と呼んでいる。
  CEOが経営方針を決定するというのはビジネスマンにとっては「常識」である。従業員の過半の同意がなければ経営方針が決まらないような「民主的」な企業は生き馬の目を抜くビジネスの世界を生き抜くことはできない(そもそも存在しない)。ワンマン経営者は取締役会の合意さえしばしば無視するし、株主総会は事後的に経営の成否について評価を下すが、事前に経営方針の適否について判断する機関ではない。
  株式会社はトップが独断専決することを許容するばかりか、しばしばそれを理想とさえする。
  トップによる独断が許されるのは、なぜか。理由は簡単である。それは経営者のさらに上に「マーケット」という上位審級が存在するからである。
  経営戦略の適否を判断するのは従業員でもないし、取締役会でもないし、株主総会でもない。それは「マーケット」である。
  「マーケットは間違えない」というのはビジネスマンの揺らぐことのない信仰箇条である。
  そして、ビジネスマンが「マーケットの下す判断」を愛するのは、何より「マーケット」では判断が下るまでに長い時間を要さないからである。経営政策の適否は、ただちに翌月の売り上げや株価として誰にもわかる数値として開示される。
  ビジネスマンにとって(もっと広く「営利企業で働く人々」と言い換えてもいい)にとってはそれが「社会というもの」である。それ以外の組織のかたちを「生まれてから見たことがない」という人さえいるだろう。例えば、子供の頃はよい成績を上げて、よい学校に進学することが「家庭という企業」の製造する製品の質を示すことになると教え込まれ、学校を卒業するときには、有名企業に入り、高い年収を得ることが「大学という企業」のアウトプットの市場での評価を高めると教え込まれた子供がサラリーマンになった場合、彼は生まれてから「そういう組織」しか見たことがない大人になる。
  当然、その人は「あらゆる社会組織は株式会社のように制度化されねばならない」と心から信じる市民となるだろう。
  そのような人が政治を見ると、「マーケット」は選挙だということになる。
  同業他社とのシェア争いが他党との得票率争いに相当する。たしかに「マーケット」における売り上げやシェア争いと同じように開票結果は一夜でわかる。政策の良否は選挙の勝敗によって示される。それで終わりである。「その後」はない。
  ビジネスマンならそう言うだろう。
  けれども、この「株式会社原理主義者」たちはたいせつなことを忘れている。
  それは「政策は商品ではない」ということである。
  さらに言えば、「国民国家や自治体は株式会社ではない」ということである。
  どこが違うのかと言えば、責任の範囲がまったく違うのである。
  株式会社にとって考え得る最悪の事態は倒産である。けれども、それで終わりである。株主は出資金を失う。それ以上の責任は問われない。株式会社は世にも稀な(というか唯一の)「有限責任体」なのである。
  だが、国や自治体はそうではない。それは「無限責任体」である。
  国や自治体に失政・失策があれば、そのツケを後続世代の人々は半永久的に払い続けなければならない。現に、福島原発はわが国の原子力政策の失敗だが、国土の汚染と住民たちの生業喪失と健康被害は東電が派手に倒産してみせたからと言ってまったく回復されることがない。そもそも私たちは70年前に私たちが選任したわけでもない政治家や官僚や軍人たちが犯した戦争の責任を今も問われ続けているではないか。この責任追求が私たちの世代で終わるという楽観的見通しに与する日本人はごく少数であろう。
  だからこそ、先人は共和政という使い勝手の悪い政体を選んだのだと私は思う。
  共和政という、複数の価値観や複数の利害が絡み合うことを常態とする政体ではなかなかものごとが決まらない。けれども、なかなかものごとが決まらずにいるうちに、歴史の淘汰圧に耐え得ない空疎な政策や組織が消え失せ、生き残るべきものが生き残る。適否の判断を「歴史という審判者」に委ねることを人々は選んだ。それほどには歴史の判定力を人々が信じていたのである。
  「歴史の審判力を信じる」共和主義者は形式的には「マーケットは間違えない」と信じているビジネスマンと違わない。
  違うのはどれくらいのタイムスパンでことの良否を判定するか、その時間の長さである。
政治については、一夜ではことの良否はわからない。吟味のためには時間がかかる。まして、選挙で相対的に多数を制した政党の政策が、選挙結果だけを以て「正しい」ものであることが確定したなどということはありえない。
  共和制的な合意形成には時間がかかる。けれども、その代価として、国や自治体にどのような致命的失政があっても、それについて「私には責任がない」「ほら見たことか」と言うような市民ができるだけ出てこないように抑制することはできる。
  共和制は全員が多かれ少なかれ現状に責任があるということを認め合う仕組みだからである。
 「全員が政策決定がもたらす成功の恩恵も失敗の責任も等しく分かち合う仕組み」というのは、言い方を変えれば、「全員が(ろくでもない)現状に同程度に不満であるような仕組み」のことである。
  私はこれを先賢が知恵が振り絞って構想した政治の仕組みだと思う。
けれども、残念ながら私たちの時代にはそのような仕組みに価値を見出す人は次第に少数派になりつつある。


 参院選「落選運動」第1位<片山さつき>絶対に落とす!社会保障制度の敵!弱者切り捨て、自己責任の誤解・偏見と差別意識を煽って生きる悪魔!
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151127 朝日デジタル:【論壇時評】LGBTから考える 困難でも、壁越えよう 作家・高橋源一郎

2015年11月27日 07時57分07秒 | 考える資料
11月27日(金):
朝日デジタル【論壇時評】LGBTから考える 困難でも、壁越えよう 作家・高橋源一郎   2015年10月29日05時00分
  教え子に性同一性障害の女子学生がいた。その頃にはまだ、性的少数者を、それぞれの頭文字でつないだ、「LGBT」(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル=両性愛者、トランスジェンダー=性別越境者)ということばがあることを、わたしは知らなかった。
  彼女は内心の性である「男性」へ変わることを決意したが、それログイン前の続きは深い悩みを伴っていた。話をするたび、わたしは、なにかまっとうなことをいおうとした。けれども、そのことばは、彼(女)の深奥にあった孤独を氷解させることはできなかったように思う。彼(女)の前で、わたしはいつも無力感に苛(さいな)まれていた。
  雑誌「現代思想」の特集は、その「LGBT」〈1〉。わたしの知る限り、この問題についてこれまでになく詳しく、かつ、深く掘り下げたものになった。
  巻頭の対談は、東京ディズニーリゾートで同性のパートナーと結婚式をあげて話題を呼んだ元タカラジェンヌ・東小雪とカウンセラー・信田さよ子〈2〉。「LGBT」ということばが認知されてゆくと同時に噴き出した、さまざまな問題について語り合っている。
  たとえば、今年の6月にはアメリカ連邦最高裁で、同性婚を容認する判決がでた。また、東京都渋谷区では画期的な同性パートナーシップ条例ができた。それは素晴らしいことだ。だが、と信田はいう。その優れた条例を作った渋谷区は、同時に「宮下公園」から「野宿者排除」を企てた。性的少数者と野宿者の間で、人権に差はないのに。
     *
  「LGBT」問題が浮上し、性的な差別が誰の目にも見えるようになった。その結果わかった、もっとも重要なことは、それが「家族」の問題でもあることだ。信田は、こういう。
  「『普通の家族』は……既成のシステムを踏襲している、つまり男と女の結婚には、家父長制だとか、性別役割分業がべたっとくっついてくるのです……もともと差別されたマイノリティである自覚をもったLGBTの人が新しい家族をつくるということは、自分たちに一番適した家族の制度設計をつくることでしょう」
  多様なのは「家族」だけではない。そもそも「性的な違い」もまた、「LGBT」ということばには収まりきれない、多様さを持っている。
  吉野靫(ゆぎ)は、男性から女性へと変わってゆくプロセスをあえて「公開」した、あるミュージシャンに触れ、こう書いた〈3〉。「性別移行の表現や方法は千差万別であり、ひとりひとり異なるその姿こそ『真実』であるということだ」
  「性的少数者」が迫害されていた時代(もちろん、現在もだが)、その少数者のひとりとして抑圧と戦った者や、その戦いを支援してきた者がいる。
  アメリカの、先駆的なゲイの公的役職者で、「すべてのマイノリティ、とくにレズビアンとゲイに夢から覚めるよう呼びかける」という名高い演説の後、凶弾に倒れたハーヴェイ・ミルク〈4〉。
  あるいは、2008年、カリフォルニアで、それまで許されていた「同性婚」の権利が住民投票で否定されたとき、テレビのアンカーマンとして画面から、否定した人たちに向かい、静かな怒りを秘めて語りかけたキース・オルバーマン〈5〉。「これは、あなたにとって何なのですか? だれもあなたに彼らの愛情表現を信奉してくれとは言っていません。しかしその愛を、人間として、あなたは、祝福しなくてよいのですか? 世界はもうじゅうぶんに不毛なのに」
  わたしは、これらの力強いことばに、強く共感してきた。けれども、心の底に、少しだけためらいがあることも隠せなかった。彼らのいうことがすべて「正しい」として、なぜ、世界はそれを容易には受け入れなかったのだろう。
     *
  いま夥(おびただ)しい数の難民が、ヨーロッパに、とりわけドイツに殺到している。今月の論考には、この問題を取り上げたものが目立った。難民受け入れをめぐって欧州連合(EU)は分裂し、統合の理念「多様性と寛容と尊厳」は揺らいでいる。多くの国で、「反難民」「反移民」の政党が票を激増させていることも知られている。
  抑圧と迫害に悩む少数者。それを目にしてもなお、受け入れることを拒む多数者。その壁を越える方法は、どこかにあるのだろうか。
  長い間、少数者(マイノリティー)の聞き取り調査を行ってきた岸政彦は、女子学生たちを日雇い労働者の町・釜ケ崎に同行させたときの経験に触れ、多数者は少数者と出会うべきだとしながら、同時に、そのことが(どちらにとっても)、「暴力」になりうるとした〈6〉。多数者にとっては「怖い」思いがし、少数者にとっては「見せもの」にされた思いがする場合があるのだ。それでも、岸はこう書かねばならなかった。
  「この社会にどうしても必要なのは、他者と出会うことの喜びを分かち合うことである。こう書くと、いかにもきれいごとで、どうしようもなく青臭いと思われるかもしれない。しかし私たちの社会は、すでにそうした冷笑的な態度が何も意味を持たないような、そうしているうちに手遅れになってしまうような、そんなところにまできている」
  人と人の間を切り離す「壁」を越えなければならない。それが、どんなに厳しいことだとしても。閉じこめられた「壁」の内部で成長する憎悪や恐怖によって、この社会が崩れ落ちてしまう前に。
     *
〈1〉特集「LGBT――日本と世界のリアル」(現代思想10月号)
〈2〉東小雪・信田さよ子 対談「私たちがつくる〈家族〉のかたち」(同)
〈3〉吉野靫「砦(とりで)を去ることなかれ」(同)
〈4〉ハーヴェイ・ミルクの発言(ランディ・シルツ著『MILK』から)
〈5〉キース・オルバーマンの発言(翻訳はサイト「北丸雄二のNew York Journal」から、http://www.kitamaruyuji.com/dailybullshit/2008/11/post_287.html別ウインドウで開きます)
〈6〉岸政彦『断片的なものの社会学』(今年6月刊)
     ◇
 たかはし・げんいちろう 1951年生まれ。明治学院大学教授。SEALDs(シールズ)の近著『SEALDs 民主主義ってこれだ!』で奥田愛基さんと対談した。
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151127 朝日デジタル:【あすを探る 財政・経済】1億総勤労からの脱却を 井手英策

2015年11月27日 07時50分57秒 | 考える資料
11月27日(金):
朝日デジタル【あすを探る 財政・経済】1億総勤労からの脱却を 井手英策  2015年11月26日05時00分
  ふと思い立ち、国立国会図書館の検索機能を使って書籍のタイトルに見える「勤労」という言葉を調べてみた。ヒット件数が急増するのは第2次大戦前後の時期だ。
  勤勉に働くという思想なら、近世ヨーロッパや二宮尊徳の活躍した江戸時代の日本にもあった。だが尊徳の銅像が普及したのは満州事変後であり、次々と勤労をうたう閣議決定が行われ、勤労奉仕や勤労動員などの用語が定着したのは戦時期だった。
  戦争の産物であるこの概念は、思想の垣根を越えて浸透した。社会党(現社民党)は1945年にまとめた綱領に自らを「勤労階層の結合体」と定め、同じ年、共産党も行動綱領のなかで勤労の語を8度繰り返した。極めつきは日本国憲法だ。勤労は「義務」にまで昇華された。
  戦後財政の基礎を築いたのは、所得倍増計画を打ち出した池田勇人である。その池田も著書で「人間の勤労の能率をよくし、生産性を高める」公共事業と「勤労者に対する」減税を政策の柱に据えていた。
  勤労する民の生活基盤は貯蓄だった。貯蓄は勤労の証しであり、かつ、老後、教育、住宅といった暮らしの防衛線でもあった。反対に、公共サービスは、権利ではなく、貧困層や高齢者、母子家庭、障害者への施しと考えられた。勤労を義務とし、自分の蓄えで生きていく自己責任社会。権利よりも道義を重んじる人びと。日本の福祉国家はまさに「勤労国家」だったのである。
  バブル崩壊後の90年代、この前提は根底から覆った。不良債権に苦しむ銀行は貸し付けを削減した。不動産価格が下がり、追加担保を迫られた企業側も借金返済を急いだ。さらに、キャッシュフローを重視する国際会計基準も導入された。
  企業は「手元現金の確保」に追われ、雇用の非正規化、人件費の削減に乗り出した。政府も労働規制緩和や法人減税でこれを支えた。企業の経常利益はバブル期に匹敵する額に達した。だが、働く場を作るための努力もむなしく、勤労者の生活は見るも無残に劣化を重ねた。
  最大の不幸は、グローバル化のもとでの賃金下落圧力に太刀打ちできず、勤労国家の柱である減税と公共事業が巨額の政府債務を生んだことだ。踏み倒しを恐れた勤勉な民は歳出削減を支持し、公共事業や社会保障は容赦なく切り下げられた。
  823万世帯(90年)から1077万世帯(2014年)へと共稼ぎ世帯が急増した。夫婦で働いたのに世帯所得はピーク時より2割近く減り、先進国きっての高いワーキングプア率となった。勤労どころか就労さえできない。家族で働いても貧困がついて回る。家計貯蓄率はゼロ近辺をさまよっているのに、自己責任だけは繰り返し求められる。「勤労国家」は完全に破綻(はたん)してしまった。
  だがその残骸は残っている。家族との時間を犠牲にし、出産をあきらめ、過労死さえ強いられかねない勤労者には、働かない人間が目の敵になりかけている。生活保護への批判はその象徴である。社会的弱者の不正を暴き立て、給付を削り、負担を増やすことが納税者目線で「公平」だと語られるようになった。
  安倍政権の新「3本の矢」も、出生率をあげ、介護離職者を減らすだけなら反論の余地はない。だが、たとえ介護離職を免れ、出生率があがっても、働くことが苦痛である限り、働いていない人への攻撃は止(や)まないだろう。義務感ではなく、働きたいから働き、働けない人に想(おも)いを馳(は)せられる社会を目指すべきだ。1億人に総勤労を迫る社会からは、人びとが活躍する社会は生まれない。
  仕事と生活の両立支援や就業環境の改善、非正規問題の解消などが大切なのは、勤労のためではなく、働く痛みを緩和して、働けない人への理解と共感を育むためではないだろうか。生きやすさこそが、多くの人が活躍する社会の大前提である。

 (いで・えいさく 1972年生まれ。慶応大学教授・財政社会学。著書に『経済の時代の終焉〈しゅうえん〉』など)

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151126 日刊ゲンダイ:しょせんは大阪ローカルの橋下維新 永田町の裏を読む/高野孟

2015年11月26日 22時11分53秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
11月26日(木):
日刊ゲンダイしょせんは大阪ローカルの橋下維新 永田町の裏を読む/高野孟  2015年11月26日
  大阪ダブル選挙が橋下維新の2勝という結果となり、マスコミは「野党再編にどう影響するか」とか「橋下自身が参院選に出るのか」とか大げさに書き立てているけれども、全国民的にみれば、ほとんど論じるに値しないほどマイナーな話題である。
  第1に、自ら火を放って騒ぎを起こし、架空の争点を仕立てて抗争に持ち込んで、敗れればまた次の奇策で「起死回生」を図るという橋下流の単調な作劇術に、誰もがウンザリしている。
  第2に、それがまだ通用するのは、政治をお笑い番組のドタバタ劇のように楽しむ人が多いという独特の風土を持つのは大阪だけなので、橋下は維新を引っかき回して四分五裂に陥れた末に、結局「大阪維新の会」に立てこもり、最後の砦だけは死守しようとした。
  第3に、それで何をするのかといえば「大阪都構想への再挑戦」だという。5月の住民投票で否決されたものを、「僅差だったからもう一度」というのもどうかと思うが、それ以前に、そもそもこの構想が奇怪なのは、大阪のことだけを想定していて、何ら全国的な普遍性を持たないことである。御厨貴東大名誉教授が「必要なのは、全国の地方分権にどう一般化していくのかという視点だ。全国の地方が変わっていくという話にならないと、みんなが関心を持たない」(23日付朝日新聞)と言う通りである。
  府県と政令指定都市とが「二重行政」の弊害を抱えているのはどこも同じで、そうだとすれば神奈川県と横浜市・川崎市も、愛知県と名古屋市も、兵庫県と神戸市も、みな同じように市を解体して府県が「都」を名乗ればよいということなのか。それとも、大阪は特別だから東京に対抗して「都」を名乗る権利があるというのか。
  さらに、これまでいろいろ議論されてきた「道州制」構想との接合はどうなるのか。全国を9の道州に再編する案だと、大阪府は解体されて関西州に統合されるが、12道州案だと今の大阪府が独立して「大阪副首都特別州」になるという考え方もある。いずれにせよ、道州制なり何なりで国の姿を抜本的に改革しようという時に、その全体的な制度設計がまずあって、その中で大阪はどういう形をとりたいのかという順序で物事を考えないと話にならない。
  結局、この何度目かのドタバタ劇で再確認されたのは、橋下が大阪ローカルの域から一歩も出られない程度の政治家だったということである。
▽たかの・はじめ 1944年生まれ。「インサイダー」「THE JOURNAL」などを主宰。「沖縄に海兵隊はいらない!」ほか著書多数。


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151126 一年前:4 026 島本慈子「戦争で死ぬ、ということ」(岩波新書:2006)感想特5

2015年11月26日 22時11分38秒 | 一年前
11月26日(木):
4 026 島本慈子「戦争で死ぬ、ということ」(岩波新書:2006) 感想特5

11月24日(月): ※瀬戸内寂聴さんのご健康回復を心よりお祈りしております。236ページ  所要時間 3:20   ブックオフ200円著者55歳(1951生まれ)。帯...

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151124 一年前:4 025 内田樹「街場の共同体論」(潮出版社:2014) 感想4+

2015年11月25日 01時11分06秒 | 一年前
11月24日(火):  
4 025 内田樹「街場の共同体論」(潮出版社:2014) 感想4+

11月24日(日):267ページ  所要時間 4:40   図書館著者64歳(1950生まれ)。本来的な「良質の保守思想家」であり、大いなる「常識人」である。所謂、「(...

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5 031 大和和紀「あさきゆめみし 10」(講談社コミックス・ミミ:1990)感想4+

2015年11月22日 23時55分31秒 | 一日一冊読書開始
11月22日(日):  

208ページ   所要時間 3:00(風呂で(*´ω`))  蔵書

著者42歳(1948生まれ)。

2度目。 母親に死なれた二の宮の元へ夕霧は通い続け、二の宮の本宅を修理するなど世話をやく。夕霧から強く関係を迫るが二の宮に鍵のかかる部屋に逃げられてしまう。雲居の雁は夫夕霧が二の宮に夢中になるのに我慢がならず、三条邸を出て実家内大臣家に帰ってしまう。侍女に抜け道を聞いた夕霧は、背後から二の宮に迫り結ばれる。

病がどんどん重くなる紫の上は、最期の春を迎えて思い出深い二条院で千部の法華経の供養会をおこなう。弱っていく紫の上は、源氏との出会いの有難さを思いながら、幸せだったとは決して言い難い自らの人生を振り返る。しかし、最期は「この世はなんと美しいのだろう」との境地に達し、源氏の腕の中で亡くなる。

紫の上を亡くした源氏は、改めて紫の上が比類ない、かけがえのない女性であったことを自覚し、喪失感に打ちのめされる。大事なことも何もできなくなり呆然とする源氏の代わりに夕霧が面倒を見る。源氏自身は悔恨と喪失感の中、ごく限られた訪問者の相手をし、人生を振り返って藤壺に始まり、多くの女性たちとの関係を思い出し、会っておきたい女性を訪ねる。紫の上を除けば、やはり素晴らしい女性は明石の上であった。

紫の上の一周忌、紫の上のいない春が来た。その後で源氏は出家して山に籠ったようである。どれぐらい経ったのか?源氏が籠った山の上に美しい紫色の雲がかかるのを見た明石の上が「源氏の院がお隠れになった」のを知る。本書、真ん中で紫の上が亡くなると、残りの半分は打ちのめされた源氏がただひたすら紫の上のことを思い続けるシーンで終始する。紫の上が如何に素晴らしい理想の女性であったか、そして決して幸せではなかったことが知らされる。

あさきゆめみし第I部 完



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151122 雑感:斎藤美奈子さん。辺見庸さん。健康になるためのブログ。

2015年11月22日 13時13分52秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
11月22日(日):

10月28日(水)

11月4日(水)

11月11日(水)
斎藤美奈子さんに賛成。憲法は日本の生命。なぜ人殺しをしてはいけないか。それは人間には生命を作れないから。今の憲法を変えるべきだと考える者は、その前に今の憲法よりも良いものを今の政治状況で、今の日本人に作れるのかを問い直すべし。アラブの春の後に民主主義は生まれず、混乱と軍事独裁政権が再生したことを思い出すべし。壊すことよりも、まず残すこと、生かすことを考えるべし。

11月18日(水):


辺見庸さんのブログから:
・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

最近、SEALDsの印象が急速に色褪せてきている。原因は、SEALDsではなく、民主党にある。若者たちに力を借りたいなら、最低限の礼儀として、民主党自身が先頭に立って闘う姿勢を示すべきだろう。若者の陰に隠れる国会議員の姿はあまりに見苦しく醜い。民主党は、恥を知るべきだろう。福山哲郎は、国会であれだけ大見得を切ったのだから、同じ京都、同じ松下政経塾の前原詐欺師を突き倒してでも、共産党を含めた野党共闘を実現して国民とSEALDsの若者たちとの約束を守るべきだろう。恥を知るのならば…。
健康になるためのブログ【やる気なし】「民主党参院選へSEALDsに協力求める」共産党の呼びかけには応じず、SEALDsの人気だけ利用する。  公開日: 2015/11/21
  「一方的に共産党が候補を立てないことは構わない」「候補者調整はするが互いに応援するようなことはない」など、共産党の連携提案に対して常に上から目線で、まともに応じる気はない。
  ただ、一方で「シールズの人気は欲しい」「戦争法廃止・安倍政権反対の人たちの票は欲しい」という下心は丸見えなのでそういった団体には異常に気を使う。
  上記の2点から見て、やはり民主党は「憲法違反の自公を本気で倒す」とか「立憲主義を回復する」と言ったことはまったく考えていませんね。口ではそう言ってますがただただ、自分達への票が欲しいだけ、野党第1党でいたいだけという姿勢を微塵も崩していません。
  ただ、これは想定内でもありますよね。今国会だって民主党は国民の声があまりにも大きくなって本腰を入れざるを得なくなって、参議院からようやく動き出しただけですもんね。
  ということで、僕は今の民主党の方針は「共産党の呼びかけには応じず、SEALDsの人気だけ利用して、野党第1党を確保」だと考えてます。でも、そのお大臣様のような態度は国民の声で変えることはできます。街宣などで民主党議員が来ていたらとっ捕まえて、「どうなってるんだ!」とどんどん追い込んでいきましょう。
  前回のシールズ東海での街宣でも今国会で一躍名を上げた民主福山議員が来てましたが、聴衆の反応は薄~いものでしたし、「野党共闘は、どうなってるんだ!」のヤジが飛んでいました。

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151122 ※韓国は冷静に(もみ)。  朝日デジ:【社説】歴史観の訴追 韓国の自由の危機だ

2015年11月22日 12時06分09秒 | 徒然・雑感
11月22日(日):

韓国は日本の歴史修正主義者に合わせて過剰に反応するべきではない。日本の低レベルなクズどもに合わせて、韓国側までもが国家として歴史の真実から目をそらして勧善懲悪、歴史の単純化、韓国の女性は純真無垢という虚像を創り上げ、その虚像から脱して歴史の真実に迫ろうとする研究者を断罪・弾圧してしまったのでは本来の韓国・朝鮮の人々が持っている植民地支配の被害者という大きな構造の主張の真実性を、かえって細部から崩してしまうことになる。

歴史修正主義者に対する最も正しい態度は、真逆の虚像を創り上げることではない。あくまでも冷静に歴史の真実を追求し主張し続けることだ。善の中に悪があり、悪の中に善がある。一筋縄でいかないのが歴史(“人の世”)の真実であり・現実だ。そこから離れて、空想の虚像を創り上げて引きこもってはいけない。自由な研究を妨げてはいけない。

歴史修正主義者は、歴史の世界における一種のテロリストだ。周りの人間が、慌てふためいて混乱し、我を忘れれば忘れるほど奴らの思うつぼなのだ。何が何なのかわからないようにぐちゃぐちゃにして「さて、何が真実なんでしょうね。お互いさま!」というのが、安倍晋三らの狙いである。確かにきちんとした反論すべき時には反論すべきである。しかし、その反論自体が虚像であってはただの水掛け論になってしまい、これも思うつぼになってしまうだろう。

まともな研究者でもない歴史修正主義者の主張によって、日本帝国主義の植民地支配によって韓国・朝鮮の側が受けた被害の歴史が誤魔化されることは断じてないのだ。日本のアカデミックな学者・研究者の見解は、「河野談話」と同様明確に、従軍慰安婦の存在と日本軍の関与を認めている。低レベルなクズどもに合わせて、韓国側が過剰反応によって自らを貶める必要はないのだ。

「 141127 「従軍慰安婦」問題を考える。高橋源一郎さん論壇時評&朴裕河(パクユハ)氏フェイスブック記事 」も読んで下さい。

朝日デジタル【社説】歴史観の訴追 韓国の自由の危機だ  2015年11月21日05時00分
  韓国の検察が、同国で出版された「帝国の慰安婦」の著者、朴裕河(パクユハ)・世宗大教授を在宅起訴した。旧日本軍将兵らの性の相手をさせられた女性たちに対する名誉毀損の罪に問うている。
  起訴内容は、元慰安婦らの告訴をそのまま認めた。著書には「朝鮮人慰安婦と日本軍は基本的に同志的関係にあった」といった表現などがあるが、検察はこれらを「虚偽の事実」にあたると断じている。
  また、言論や出版、学問の自由は憲法が保障する基本的権利だとしながらも、元慰安婦らの「人格権などを侵害し、学問の自由を逸脱した」と起訴理由をあげている。
  慰安婦問題をめぐり、当事者や支援者にさまざまな意見があるのはわかる。だが、史実の正否は検察当局が判断を下すべきものではない。ましてや歴史の解釈や表現をめぐる学問の自由な営みを公権力が罰するのは、きわめて危険なことである。
  朴さんが著書で論じている趣旨は、帝国主義が抱える女性抑圧の構造的な問題である。さらに、同志的関係にならざるをえないような状況に追い込んだ当時の日本の責任を厳しく追及してもいる。
  韓国ではこれまでも日本の過去の問題が関係する事案では、法律論よりも国民感情に流されるかのような捜査や判決があった。今回の判断の背景に、そんな要素は働かなかったか。
  この本をめぐっては元慰安婦らの仮処分申請を受け、裁判所も、一部を削除しなければ出版を認めない決定をしている。
  確かに慰安婦問題については実際の総数など、まだ不明な部分も多い。一方で、被害者の韓国人女性たちが90年代初めに名乗り出始めて以降、日韓を中心に研究が進み、徐々に慰安婦問題の実態がわかってきた。
  同時に明らかになったのは、慰安婦といっても、実に多様なケースがあったということだ。朴さんの著書はまさにその多様な側面に焦点をあてたが、韓国で広く語られる「純真で無垢な少女」という被害者像と必ずしも一致するわけではない。
  だからといって、研究者が成果を発表するたびに刑事事件で起訴されていたのでは学問は成り立たない。学説や発見、解釈は互いに検証し、批判や反論をし合うことで、研究が進展したり、淘汰されたりするものだ。
  異論の封殺は、自由に対する挑戦である。今回の問題は朴さん個人にとどまらない。韓国メディアは起訴を大きく報じていないが、自由を守る声が広がることを願ってやまない。
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151121 朝日デジタル:(耕論)もんじゅ漂流20年

2015年11月21日 22時41分01秒 | 考える資料
11月21日(土):
朝日デジタル(耕論)もんじゅ漂流20年  2015年11月21日05時00分
 1995年12月のナトリウム漏れ事故からほとんど動いていない高速増殖原型炉もんじゅ。運営の見直しが勧告された。20年もの漂流から何が見えてくるか。国家と技術のあるべき関係は。

 ■科学者たちの誇大妄想 吉岡斉さん(九州大学教授)
  もんじゅは、とっくの昔に無用のものになっています。
  もともと高ログイン前の続き速増殖炉は、ウラン資源節約のために始めた研究開発でしたが、技術の未熟さと建設費用の膨張から、1990年代初めには世界的に行き詰まっていました。
  それでも日本は推進したのですが、もんじゅのナトリウム漏れによる火災と、当時の運営主体だった動力炉・核燃料開発事業団(動燃)によるデータ隠しという不祥事が起きた。国民の不信が強まり、政府は計画の見直しを迫られました。
  97年末に出された原子力委員会の方針で、実用化に向けたもんじゅ以降の計画は白紙となり、高速増殖炉開発はゴールを失ったのです。
  にもかかわらず廃止をうたわなかったのは、国の核燃料サイクル政策自体の見直しとなるのを避けたかったからでしょう。非核保有国として唯一認められた核燃料の再処理という安全保障上の権利を、もんじゅ廃止に引きずられる形で手放したくなかった。
  ですが結局、もんじゅはその後もほとんど運転できずに今日に至ります。復活を模索する動きが執拗(しつよう)に重ねられましたが、振り返ってみれば政策が空回りしただけ。まるで「飛べない不死鳥」です。この20年だけでも、もんじゅ向けに投じられた国費は約3千億円になります。廃止を決めていれば避けられた。私は当時「もんじゅを博物館とし技術者は学芸員として再雇用して技術保存を」と提案しましたが却下されました。
  原子力にかかわる科学者や技術者は、新技術に挑戦し続けることが重要だと主張します。しかし、科学的言説は、第三者によって検証可能な根拠を伴うことが求められます。もんじゅには何もない。希望的観測を膨らませて語るだけでは科学と言えません。
  企業や投資家も、実用化を見通せない技術にお金は出さない。ですから科学者や技術者は、政府から研究開発費を引き出すために誇大妄想的な将来像を語りがちです。もんじゅはその典型でしょう。
  東京電力福島第一原発の事故で、原子力を巡る政治的・社会的環境は一変しました。20年前は原子力発電の是非そのものを議論するには至らなかった。今は違います。原発を再稼働したい安倍政権の下でさえ、簡単には動かせない。もんじゅはおろか、軽水炉を含めて原子力は今後、加速度的に衰退するでしょう。
  原子力規制委員会の勧告は厳しいようで政策の妥当性そのものには踏み込んでいない。運営組織を代えればいいという延命への逃げ道を与えたと見ることもできます。
  もはや誰も本気でもんじゅを動かせるとは思っていない。ここで廃炉を決め、核燃料サイクル政策も見直しの俎上(そじょう)に載せるべきです。(聞き手 論説委員・高橋万見子)
     *
 よしおかひとし 1953年生まれ。専門は科学技術史。内閣府原子力委員会専門委員などを歴任。近著に「技術システムの神話と現実」。

 ■幽霊を飼うようなもの 高村薫さん(作家)
  もんじゅの計画段階では石油危機もあり、資源小国として新しいエネルギー源が必要だったし、高速増殖炉という最先端の科学技術に夢を託したい。その発想は理解できるんです、半世紀前なら。
  しかし、状況は刻々と変わります。事業や計画は当然、常に見直さなければならないのにそれができず、走り出したら止まらない。なぜか。日本の官僚機構には事業を評価し責任を取るシステムがないからです。だから見直す理由がない。時代状況に合わなくなっても事故を起こしても、採算がとれなくなっても。
  政治が見直しを促すべきですが、その意志も能力もないまま、全く実現する見通しのない巨大プロジェクトが意味もなく続いてきました。この国の20年、30年先のことをまともに考えていないということです。もんじゅは幽霊を飼っているようなものですね。あたかも生きているかのように皆で守っている。
  装置が落下するなど、お粗末な事故も続きました。人間はロボットではないから必ずミスする。東京電力福島第一原発でも、事故から4年以上たつのに汚染水の処理すらできていない。そんな現実が私たちに突きつけているのは、原子力という技術は人間の手に余るということです。
  昔は、技術と人間の身体はつながっていました。機械化されてもかろうじてつながっていましたが、コンピューター制御になり、現場の技術者は山のように出てくるデータと自分がやっている作業とを正確に関連づけるのが難しくなってしまいました。
  近づけない、見られない、データを通して知るのみ。原子力はまさに、人間の身体と切り離された巨大技術の典型です。技術と人間の身体感覚の関係でここまでならなんとかなる、という限界を超えてしまった怖さがあります。
  技術と人間の関係も見極めて決断する、そういう英知を政治家が持つべきですが、それが無理ならせめて、総額1兆円もの税金を投じて何一つ動いていない、そのことにおそれおののくべきでしょう。
  国民の側も「もんじゅ、何それ」では? 加担している部分がないとはいえません。
  小説「神の火」で丸腰の人間による原発テロを描いたのは、湾岸戦争で米国の地下貫通型爆弾が砂漠の防空壕(ごう)の厚さ5メートルの天井を突き破ったことがきっかけでした。ミサイル技術も進んでおり、1メートル程度のコンクリートなどひとたまりもない。そんな状況で原発を動かしていることの危うさに気づかないのか、という思いでした。
  国の防衛をいうなら、日本海側にずらりと並んだ原発をどうするんだと。持ってはいけない施設になったんです。ただ、廃炉のためにも技術を絶やしてはなりませんが。(聞き手・辻篤子)
     *
 たかむらかおる 1953年生まれ。商社勤務を経て90年に「黄金を抱いて翔(と)べ」で作家デビュー。直木賞選考委員。最新作は「空海」。
 ◆キーワード
 <もんじゅ(福井県敦賀市)> ウランとプルトニウムを燃料に、消費した以上のプルトニウムを生み出す高速増殖炉の原型炉。建設と維持管理に約1兆円が投じられた。原子力規制委員会は今月、運営主体を日本原子力研究開発機構から代えるよう文部科学相に勧告した。
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151119 一年前:4 024 渡井さゆり「「育ち」をふりかえる」(岩波ジュニア新書:2014) 感想5

2015年11月20日 00時55分09秒 | 一年前
4 024 渡井さゆり「「育ち」をふりかえる」(岩波ジュニア新書:2014) 感想5
11月17日(月): ※副題「「生きてていい」、そう思える日はきっとくる」  221ページ  所要時間 3:10    図書館著者31歳(1983生まれ)。児童養護施設など...
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150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)