もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

141230 我が目を疑う! 原発の新増設を求める狂気の読売新聞社説。ここまで国民を舐められるものか?

2014年12月31日 03時18分05秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
12月30日(火):

我が目を疑う! 狂気の読売新聞社説3/11の福島原発事故は何時終息したのか、事故の記憶・反省は何処へ行ったのか? orenoatamagahennnanoka,yomiurisinnbunngakurutterunoka ? 福島の被災地避難民の存在はもう済んだことなのか? 読売新聞は<棄民>を認めるのか? 読売新聞は、ここまで恥を忘れられるのか、完全にファシズム(権力と財界)の走狗になり果てている。

原子力人材育成 原発政策に新増設も加えよ
                       2014年12月30日 01時12分 読売新聞
 原子力発電所を円滑に利用していくには、技術の継承が不可欠だ。
 原子炉の新増設ができないままでは、訓練や活躍の場が確保できず、有能な人材は育たない。
 経済産業省の有識者会議「原子力小委員会」が、原子力政策に関する中間報告書をまとめた。
 委員会では、「新増設の必要性を明記すべきだ」などの声が相次いだが、報告書は、そうした意見を紹介するにとどめ、新増設の方針を打ち出さなかった。中途半端な内容と言わざるを得ない。
 一方で、報告書は、新増設を行わない場合の弊害を挙げた。
 米国の例を挙げ、「スリーマイル島原発事故以来、新増設を行わなかった結果、技術・人材が失われた」と指摘した。これにより、「製造技術だけでなく、原子炉のメンテナンスも、我が国に依存せざるを得なくなった」という。
 原発がエネルギーの安定供給、地球温暖化対策に貢献するとも明記した。新興国では電力需要の急増に対応して原発新設が活況で、日本の技術に対する期待は大きいことも強調している。
 こうした点を踏まえれば、政府は原発の新増設、建て替えへと歩を進め、資金支援制度など必要な施策を示すことが肝要である。
 東京電力福島第一原発事故後、原子力分野へと進む若者は減っている。電力会社や原発関連企業も採用を絞り込んでいる。政府が明確な方針を示していないため、将来を展望できないからだろう。
 東大や東工大、東北大など原子力研究の拠点大学が、文部科学省の補助を受け、今秋、福島第一原発の廃炉に必要な人材の育成に乗り出した。来年度からは、参加大学が増える見通しだ。
 だが、廃炉現場で働くだけが目的では、有能な人材がどれほど集まるだろうか。福島第一原発の廃炉作業を担う人材さえ確保できない恐れがある。
 福島第一原発では今月、4号機の燃料プールから燃料を取り出す作業が終了したが、これからの道のりはなお険しい。
 1~3号機は汚染が激しい。4号機以上の困難が予想される。政府と東電の計画では、廃炉完了までに30~40年かかる。
 強い放射線にも耐えられるロボット技術や、放射能汚染除去の新手法を開発せねばならない。
 福島第一原発事故の教訓を生かし、安全性を大幅に向上させた新型の原発を建設することで、産官学に幅広い人材を育てる。そうした原子力政策を確立すべきだ。


※原発技術そのものの制御不能・とりかえしのつかない回復不能、放射能汚染による国土喪失の危険さが置き去りだ。論理のすり替えが激し過ぎる! 詐欺だ!

ファシズムと手を組む「読売新聞」の異常さ、人心操作の危険さを指摘するために「140820 閲覧26万超え:何故、マスコミは、福島の子供を描いたアニメ「Abita(アビタ)」を報道しない!?」の記事をご覧頂けると幸いです。

141230 個人的な記録です。<恥ずかしい国>。今年を象徴する記事かな?

2014年12月30日 17時18分09秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
12月30日(火):

 私たちは、どんな時代を生きているのか。「現在」を象徴する記事の個人的記録です。戦後史の溜まりに溜まった膿が溢れる。膿が出切った先に、治癒があるのか、致命傷があるのか。つらい時代だ。
テレビでキャスターの言葉を“封殺”/(C)日刊ゲンダイ     有象無象の右翼大臣たち/(C)日刊ゲンダイ
「極右」お友達大臣ばかりの安倍新内閣に世界中が強い警戒感 2014年12月30日 日刊ゲンダイ
 「政治とカネ」「SMバー」……。疑惑とスキャンダルにまみれた問題閣僚を再任した安倍首相。国民をバカにしている証拠だ。しかし、しょせんは「極右」のお友達内閣である。マトモに機能しないだろう。
 何しろ、安倍首相を筆頭に19人の閣僚中、15人が「日本会議議連」に所属しているのだ。日本会議は愛国心教育や改憲、「自虐史観」の是正、戦後レジームからの脱却――などを掲げる日本最大の右翼組織。議連に所属していないのは公明党の太田国交相、宮沢経産相、上川法相、西川農相の4人だけだ。
 高市総務相はヒトラーを崇拝するネオナチ団体「国家社会主義日本労働者党」の代表と仲良く記念写真に納まり、山谷国家公安委員長も、ヘイトスピーチを繰り返している「在特会」の幹部とツーショット写真を撮っている。同じにおいがするのだろう。安倍内閣の閣僚の周辺には有象無象が集まっている。
さすがに、先進諸国は安倍政権に強い警戒感を持ち始めている。総選挙後、ドイツ国営放送は「安倍首相は国家主義的な目標を立法化するための勢力を得ようとしている」と懸念を示した。
 そもそも、いまの閣僚は、2014年9月の内閣改造の時、支持率アップのために女性を増やし、ライバルだった石破茂氏を取り込む目的で選んだ面々だ。ご都合主義の人事で成果を出せるわけがない。
 「何もできなかった内閣の顔触れがそのまま続くのだから、何かできるはずがない。戦後70周年に当たる2015年は、世界中が右翼政権である安倍内閣の動向に注目しています。安倍政権は『談話』を公表する予定ですが、歴史を修正するような右派路線を鮮明にすれば、海外からソッポを向かれますよ」(外交評論家・天木直人氏)


イヤホン外し反論封殺…またTVでキレた安倍首相の幼児性 2014年12月16日 日刊ゲンダイ
 「安倍も駄目だなこりゃ。印象最悪やん」
 「一国の首相の対応じゃないだろ」
 衆院選投開票の夜、テレビで相手の言葉を“封殺”した安倍首相に、ネット上で非難の声が上がった。
 問題になったのは、日本テレビ系「NEWS ZERO」の選挙特番でのやりとり。安倍首相は党本部からの中継で、選挙戦同様、今春の2%賃上げをアピールした。これに対し、村尾信尚キャスターが「安倍さん、中小企業のみなさんは賃上げの余力があるんですか?」と質問すると、安倍首相はいきなりイヤホンを外した。そして質問には答えず、「再来年の春も上がっていきます」と一方的にまくしたてたのだ。
 ひと通りしゃべると再びイヤホンをつけたが、「村尾さんみたいに批判しているだけでは何も変わらない」といちゃもん。村尾氏が「私は批判していません」と言うと、またもイヤホンを外して語り続けた。反論は無視して、言いたいことだけ言うという態度だったのだ。
 先月、TBS系の「NEWS23」で街頭インタビューを見たときと同じ、ブチ切れだった。都合の悪い質問には耳をふさぐ――。子供っぽいったらありゃしないが、選挙期間中、もうひとつ安倍首相には子供じみた言動があった。
 民主党の枝野幸男幹事長をターゲットに、「ありったけの日の丸の小旗を用意しろ。過激派の支援を受ける枝野幸男の地元に日の丸をはためかせるんだ」と幹事長室に命令したというのだ。枝野氏が過去に「国旗・国歌法案」に反対し、革マル派と関係する団体から献金を受けたことに執着する安倍首相は、偏狭なナショナリズムでつぶしにかかったのだろう。
 「お坊ちゃんの安倍さんは大学時代に議論した経験が少ないのでしょう。だからコミュニケーション能力が低い。一方、枝野さんは弁護士だから議論がうまく、相手の批判を巧みにかわすことができる。安倍さんはそんな枝野さんが憎い。だけど口ではかなわない。だから相手の弱点ともいえる日の丸で威圧しようとしたのです」(明大講師の関修氏=心理学)
 まるで子供の腹いせだ。今回の選挙の結果、こんな人物が長期政権に近づくのだから、どうしようもない。

141230  大学生の投書に同感 :“教育問題への取り組み”の特徴は「改革すると悪化する」である(池上彰)

2014年12月30日 13時59分53秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
12月30日(火):

 昨日29日(月)の朝日新聞の大学生の投書がよかった。どう考えても、この学生の声が真理だろう、と思ったので転載する。
高校時代は「知識重視」でいい
              大学生 河野真央(神奈川県 21)

 大学入試が、従来の知識重視型から面接などの「人物重視」に変わろうとしている。現在のシステムは、批判もあろうが、試験としては公平公正だと思う。
 プレゼンテーションや集団討論で選ぶと言うが、これらのスキルは大学に入ってからでも十分に身につく。高校時代は、それらの前提となるきちんとした知識を学ぶことの方が重要ではないか。
 一方、高2から実施される学力テストが大学入学に影響するとなれば、高校時代は今より勉強に縛られる。
 大学の良いところは多様性の中で自分の良さを見つけ、磨いていける点にある。面接の受けの良さや課外活動の実績の良い「いい子ちゃん」ばかりが受かりやすくなってしまうとしたら、その多様性も失われてしまう。


 これだけ格差社会が進行し、<貧困>問題が深刻化している日本社会の現状を考えれば、どんな高校生活を送れるかは、本人の努力にもよるが、家庭の経済的事情や母子・父子のシングル家庭、介護他、数値化できない様々な要因が大きく反映される

 端的に言って、家計を支えるためにアルバイトをしたり、働く親の代わりに弟妹の世話をすれば、生徒会活動も、クラブ活動も、HR諸活動も積極的にはできないだろう。数値化できる「学力」よりも「人物」という“あいまいな定義の言葉(拡大解釈可能)”を重視することによって、日本の教育は活力を失い、その水準は間違いなく低落することだろう。

 鳴り物入りで始まったAO入試(自己推薦入試)が、少子化の中、学生を確保したい大学側に利用されて、いま如何に無残な学力の大学生を大量に生み出しているか、という現状を思い返すべきだ。

 理念・理想に酔って、頭の中でマスターベーションするのは勝手だが、社会全体、また高校・大学の現場にその制度の運用能力があるかどうかをしっかり考えることが大事だろう。少なくとも20年ぐらい先を見通して可否を考えるべきだ。そして、答えはNo! だ。いたずらに学校現場に混乱をもたらし、社会全体の格差・階層の固定化が大幅に進行することになるだろう。もっとも、自民党の意図が質の高い教育の実現とは別にあるのなら、それは別途検証されるべきだが…。

4 034 池上彰「子どもの教育の「大疑問」」(講談社+α文庫:1999/2002) 感想4

2014年12月30日 01時39分14秒 | 一日一冊読書開始
12月29日(月):

260ページ  所要時間 2:20   ブックオフ108円

著者52歳(1950生まれ)。NHK「週刊こどもニュース」キャスター。 *偶然だが米原万里、内田樹も1950年生まれだ。

 2002年4月、「学校五日制」がスタート。土曜日も完全に休みになった。この年、5月出版された本である。

 本書を手にした時、12年前、所謂「ゆとり教育」元年に出された古さに一瞬迷ったが、「ゆとり教育」の失敗が明らかになり、見直しが叫ばれる今だからこそ、逆に参考になり、面白い読み物になるのでは? と考えた。それに「池上彰にハズレ無し」、わずか108円なら失敗しても腹は立たない。「読んでみよう」と思えたのも何かの縁だ、と思って買った。

 読んでみると、「教育の諸問題」を要領よく整理してあり、思っていた以上に読み易く、よくまとまっている内容だった。ページもさくさく進んだ。快調快調! 特に既に結論の出ている「ゆとり教育」部分は、本来の趣旨とその後の展開、結末がわかっているだけに格別の興味を持って読めた。ちっとも創造的でないお粗末な「総合的学習」の位置付けもわかった。

 “教育問題への取り組み”の特徴として「改革すると悪化する」と述べ、中学校で新たに導入された「観点別評価が、中学生のストレスの原因になっている」と指摘しているのは炯眼というべきだろう。

 文科省は学力について「可能性を学力と見る考え方」、「習得した能力を学力と見る考え方」、「創造性を学力と見る考え方」の内、最後の考え方を「新しい学力観」として重視している。ってか、「創造性を学力と見る」って、それどういう意味やねん?! 平等性を担保しながら、何様が、どうやって、そんな能力に占い師みたいに成績付けられるっちゅうねん。アホちゃうか!

目次:
第1章 日本の子どもの学力が低下している?: 
第2章 今、学校はどうなっているのか: 子供をしばる「新しい学力観」、「学級崩壊」、「義務教育」は誰にとっての義務?
第3章 ニッポンの学校は不思議なところらしい: 集団意識と「五人組」
第4章 学校で教える内容はこう決まる: 「学習指導要領」、「ゆとり教育」、「総合的な学習」、「教科書検定」、日の丸・君が代 
第5章 偏差値と通知表におびえる子:
第6章 先生はこうして生まれる: 日教組の方針転換、新任先生の組合離れ 
第7章 文部科学省と教育委員会: 上下関係が発生
第8章 PTAとは何だろう
第9章 学校給食は楽しみでしたか?: 「現代版食糧難」の時代の給食
第10章 「わかる授業」への取り組み
補章 世界の学校はどうなっている?: 米(チャータースクール)、英、独(入試がない!)、韓(日本と同じだが先行)

141227 閲覧数31万超え:報道ステーション古舘伊知郎の口癖「待ったなし!」が独裁政治を呼び寄せる!

2014年12月28日 15時54分37秒 | 閲覧数 記録
12月27日(土):記録ですm(_ _)m。ブログの開設から1176日。

アクセス:閲覧 650 PV/訪問者 129 IP

トータル:閲覧 310,017 PV/訪問者 116,398 IP

ランキング:日別 5,003 位/ 2,107,688ブログ中 /週別 8,529 位

 最近気になっていることに、韓国で「用日」という言葉が使われ始めていることがある。「反日」「嫌日」だが、日本との経済関係なしではやっていけないから、「嫌いな日本を利用してやろうぜ!」という意味だそうだ。この言葉は、ファシスト安倍晋三が使っている「戦略的互恵関係」という誠意、知性のかけらもない下劣な言葉の韓国版だ。俺の敬愛する韓国が、安倍と同じ低レベルまでわざわざ堕ちてきて、「戦略的互恵関係」を真似た「用日」という下劣な言葉を使うのが悲しい。「戦略的互恵関係」や「用日」と言う言葉には、隣国同士が「誠心の交わり」を結ぶ意志をを捨てる、品の無い意味しかないのだ。安倍晋三という戦後史70年の鬼胎(鬼っ子)の低レベルに合わせて、韓国までが愚劣・下品になることは、本当に情けなく悲しいことだ。

※昨日読んだ内田樹「街場の戦争論」から少しだけ抜粋してみた。

・鳩山首相は「外国の軍隊が占拠している土地を日本に返してほしい」という当然の希望を述べただけです。でも、「そういうことを言って日米同盟関係の信頼を傷つけたことによって日本の国益を損なった」というロジックが連日メディアを賑わしました。アメリカの国益を損なう人間は日本の国益を損なう売国奴だという奇妙なロジックに対して誰も「変だ」と言わないことが「変だ」と僕は思います。/田中角栄の日中国交回復のときにホワイトハウスは激怒しました。そのときにも「田中おろし」に動いた政治家や官僚はいました。でも、さすがに「田中はアメリカの国益を損なうことで日本の国益を損なった」というような疑似論理を振り回す人はいなかった。少なくとも僕は見たことがありません。でも、今はそのような疑似論理が大新聞の社説に堂々と掲げられている。これは従属国民マインドが完成した徴候だと僕は思います。104ページ

・あらためて確認しておきますが、独裁というのは行政府への立法権の委譲のことです。別に「私は今日から独裁者になった。逆らう奴はぶち殺す」とかそういうシアトリカルな宣言とともに始まるものではありません。もっと日常的で、もっと非情緒的なものです。立法権を負託されたと行政府が自己判断し、立法府がこれまでのようにのろのろ合意形成をしていたのでは緊急時に対応できないという無能の判定を受け入れたときに独裁は開始される。行政府の全能化と立法府の無能化は表裏一体なのです。そして、合法的な緊急避難から超法規的独裁制への移行の間にデジタルな境界線はありません。気がついたら、なし崩し的に民主性が終わっていた。そういうものです。/ですから、緊急事態についての法整備を考えるとき最優先に考えるべきことは、「気がついたらなし崩し的に民主制が終わっていた」ということにならないためにどのような手立てが講じられるかという点なのです。言いかえると、略、「緊急事態宣言が恒久化するせいで国民が受ける被害」が「緊急事態に対処できないせいで国民が受ける被害」よりも決して大きくならないようにするためにはどういう仕組みを作っておくか、ということなのです。略。憲法停止についてのただひとつの「頭を使う箇所」です。/略、緊急事態に対処できるような法整備というものは実は存在しません。128ページ


*報道ステーション古舘伊知郎の口癖「待ったなし!」が、前から気になっていた理由がようやくわかった。彼が、「待ったなし!」を連呼することによって、立法府である国会の存在をまどろっこしいという強迫観念が視聴者に刷り込まれていくのだ。「時間がない!」とせき立てられることによって国民(市民)は、立法府の議論を軽んじて、行政府の独断・暴走を受け入れる素地が社会全体に作り上げられるのだ。
 大事な問題は、「待ったなし!」の拙速ではダメなのだ! 国権の最高機関は、内閣ではなく、国会である!

・経済成長率の高い世界の国々のリストを見ればわかります。
 以下、2013年:1位南スーダン、2位シェラレオネ、3位パラグアイ、4位モンゴル、5位キルギス
 今の政権は経済成長のことばかり問題にして、定常的に確保されている国民資源については何も語らない。フローの話だけして、ストックについては言及しない。でも、日本は世界でも例外的に豊かな国民資源に恵まれている。たとえば、森林資源、水源、大気、治安、医療、教育、ライフライン、交通網、通信網そういうものが整備されているおかげで僕たちは無用の出費をせずにすんでいるわけです。/でも経済成長のためには「安定したストックがある」ことはむしろ邪魔になる。たとえば、日本は治安がよいわけですが、これを治安が悪い状態(たとえばテロのリスクがある状態)にすれば、人々は金を出して安全を買わなければならなくなる。略。シニカルな話ですけれど、どうしても経済成長したければ、それまで無償かそれに近い低コストで享受できていたサービスを商品化して史上で買うほかないようにするのがもっとも安直な方法なのです。248~250ページ


*そう言えば、アベノミクスと安倍自民がこの2年間めざしてきたことは、日本が長年蓄積、築き上げてきた当り前の国民財産を破壊してお金に換えることばかりだ、と俺も思う。

4 033 内田樹「街場の戦争論」(ミシマ社:2014)感想4 ※安倍のポチ曽我豪は朝日新聞編集委員を辞めろ!

2014年12月28日 00時14分50秒 | 一日一冊読書開始
12月28日(土):ファシズム安倍のポチ「曽我豪」は朝日新聞編集委員を辞めろ!朝日新聞購読者を惨めな気持ちにさせないで欲しい。俺は今、朝日新聞を購読することに自己矛盾を感じずにはいられない。毎日、惨めな思いで朝日新聞を読んでいる。

283ページ  所要時間 4:25   図書館

著者64歳(1950年生まれ)。

読みたくて仕方なかった本だったが、読後感は「悪くはないが、それほどでも…」だった。既読の「憲法の「空語」を充たすために」と内容的に重なっていたので、何か驚くべき内容というわけではなかった。もちろん著者は、保守的良識の人であり、書かれて内容には概ね納得がいくのだが、少しマンネリな感は否めない。

体調の所為か、読んだ直後に感想を書くのを怠けてしまい、結果、いま感想を書けない、と言うか、書く気力がない。

目次: ※コピペではない。
第一章 過去についての想像力:二十二世紀の日本の風景はどうなっているか/帝都の空は澄んでいた/日本人は戦争に負け、何を失ったか/「戦争は犯罪ではない」/失ったことの無自覚/「弱い現実」と「強い現実」/歴史に「もしも」を導入する/もしも一九四二年に…/なぜ「普通の敗戦国」になれなかったのか/ドイツとイタリアの負け方/フランスの負け方/戦前と戦後を架橋する「戦争主体」の不在/「主権の存する日本国民」という空疎な観念/「滅びた祖国」の立ち位置をとった文学者たち/言葉を拘束しているもの/宣言は「空語」である/喪主の資格
第二章 ほんとうの日本人:あったかもしれない戦後文学/主権国家の国民であることの気分/「戦後レジーム」とは/日本政府には政策決定権がない/外国人の支配に対する無感覚/従属国民マインドの完成/主権の回復/ありうべき大人
第三章 株式会社化する日本政治現代日本のバックラッシュ/安倍政権の政策「未来予測」/軍事的フリーハンドを得るために/緊急事態に対処できる法整備は存在しない/憲法の主務は、国のかたちを急に変えないこと/「時代遅れ」の改革案/なぜ時代錯誤的な憲法を望むのか/シンガポールをモデルにしないで!/日本の「意味のわからない行動」/アメリカが改憲を受け入れない二つの理由/アジアからも反発されない「限定的改憲」/「経済成長に特化した国づくり」など、ありえない/国家の目的は「成長」ではなく「生き延びること」/自分さえよければ日本なんか滅びてもいい?
第四章 働くこと、学ぶこと:仕事はあるのに求職者が来ない理由/仕事は仕事の方からやってくる/ご縁があれば天職になる/無収入の修業期間/弟子は「消費者」の大局的存在/生きる力の強い人/師からのパスはすべて「自分宛て」/体感の同期/身体的同期能力こそ人類の強み/たった一言で身体は変わる/身体で聴く/「届く言葉」と「届かない言葉」/「ないもの」を「あるかのように」/整えられた身体
第五章 インテリジェンスとは:支配層のクロスオーバーな連帯/歴史的スパイ「キム・フィルビー」事件/「清濁併せ呑む」のが諜報活動/機密が漏洩しないと戦争リスクは高まる?/特定秘密保護法はスパイによって立案された?/五輪招致成功の最大の理由は「憲法九条」/テロの標的になるリスク/無理やり経済成長するために…/危機の高まる政策ばかり押し進める政府/「平和モード」と「非常時モード」/カオス的世界の中に一筋だけ存在する条理の道/「どうしていいかわかる」人が生き延びる/生命を救う「語り口」/「非常時対応」能力とは/「バカ枠」のすすめ/「リーダー」でなく「フォロワー(技術者)」の育成を

※馬鹿みたいだけど、目次を打ち直したら、8割方内容を思い出した。やっぱりけっこう良いこと言っている。第四章がいまいち面白くなかった。

141227 代表選で細野も岡田も同じ穴(第二自民党)の貉。民主党は変わる気がないのか。割れるしかない。

2014年12月27日 14時45分33秒 | 国家の信頼メルトダウン。民主党を打倒せよ
12月27日(土):

 昨日のニュースで、郵政関連三社の株式公開が決まったそうだ。いよいよ日本国民が営々と蓄積してきた国民財産が、アメリカのハゲタカ・ファンドに奪われる時が来た。小さなこととして自民党の言いなりになってきた大きな大きなツケを払わせられる時代が来た。弱肉強食で日本の社会が荒廃する時代の到来だ。

 民主党は、国民から「守旧派」として見放され、期待ではなく、すごく嫌われ果てている現実に全く向き合おうとしていない。「自民党の補完勢力は要らない!」という国民の声を「大きな音だね」として、気付くことから逃げている。亜流の自民党政治をめざすことが国民に受け入れられると思っている“振り”をしている。というよりも、本音を言えば、民主党は国民に振り向いてほしいのではない。国民の目先を変える、不満のガス抜き装置としての<第二自民党>の役割を自分たちが果たせると、財界・官界・アメリカから認めて欲しがってるにすぎない。彼らは、国民のことなんて考えちゃいないのだ。今の民主党の二大政党制に対する考え方は完全に間違っている。分かっていて、知らぬ顔で押し通そうとしてるのだから、安倍自民党と悪質さにおいては全く同罪だそこが国民の信用を得られない肝心かなめの理由なのに、それから眼をそむけてるのだから、民主党に未来はない! それは日本国および国民の不幸である!

 今、国民が本当に求めている政治が、小沢一郎の「生活の党」の「国民の生活が第一」のリベラル・社会民主主義路線(沖縄米軍基地県外移設も含めて「鳩山政権のマニフェスト」)にあることは、誰の目にも明らかだ。新自由主義・反知性主義・ファシズムの自民党との対立軸が「生活」、「社民」、「沖縄」の路線にしかないことは明白だ。だからこそ、反原発の山本太郎参議院議員は、「生活」と一緒になったのだ。これは、野合ではない!

 そして、この路線は、欺瞞のアベノミクスに対抗できる経済政策、原発に頼らない自然再生エネルギーの促進、一番重要な中国・韓国・アメリカとの外交関係を正常化する歴史認識(敗戦の自覚・平和の希求)、年金・医療・介護等社会保障の再建、弱者・マイノリティへの配慮、多文化共生、そしてこれらすべての根幹を支える「日本国憲法」を護ろうとする民意をくみ取る受け皿になることができるのだ。

 民主党の中の赤松や横路ら旧社会党系の勢力、組合の連合による支持勢力、市民運動出身勢力は、岡田につくそうだが、それで民主党が変わるとでも思っているのか??? それで清新な風を呼び、次の選挙で勝てるとでも思っているのか。勝つ気はあるのか? 70年の戦後史の剣が峰に立って一体何を守ろうとしているのか。結局、高齢な自分たちの政治生命の延命だけだろう。本当に、国民のことを思うのなら、堂々と党を割って、少数になってでも「生活」や「社民」、「沖縄」と手を組んで国民に明確な政治的選択肢を用意することにこそ政治生命をかけるべきだろう。

 ぶっちゃけていうが、民主党が政権政党になれたのは、菅直人が宿敵小沢一郎と握手するあの苦い薬をあえて飲む姿を見た国民の多くが、新生民主党に「賭けてみよう!」という気を起こさせたのだ。1月の代表選の一体どこにその覚悟と説得力があるというのか。細野が勝ったら「維新」と合体するそうだが、第二自民党が数合わせのためだけに第三自民党と手を組んだと言っても、何の新鮮味もないし、国民を置き去りにしたマスターベーションを見せられてるようでウザくて気持ちが悪いだけだ。

 維新と組みたい松下政経塾の連中は、勝手に組めばいい。それよりも、政治家としての出自の違う旧社会党系、労働組合系、市民運動系の政治家たちは、いまこそ山本太郎がやったことを手本として身を投げ出すつもりで「生活」と合体するべきだろう。小沢一郎が嫌いだなんて泣き言は聞きたくない。個人的な好悪は棚にあげるべきだ。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という。今はまさに、この国がファシズムに呑み込まれようとしている歴史的な危機だ。心ある政治家は、小沢一郎と握手して、「生活・山本太郎」「社民」「オール沖縄」と一緒になって、ファシズム自民に対する明確な対立軸を国民に政治的選択肢として提示すべきだ。

 安倍のファシズムから、「国民主権」を取り戻すための政治的選択肢を作ることこそ、今最も求められていることだ。俺は、1月の民主党代表選では、細野豪志を応援する。細野に勝ってもらって野田・前原・長島らが維新と合体すればよい。維新のようなポピュリスト政党とどうしても組めない人々が、あとに残って、党を割って、「生活」「社民」「沖縄」「亀井」と一緒になればよい。当初は小さくても、「国民の生活が第一」という選択肢には根っ子がある。明確に存在価値があるのだ。心配するには及ばない。国民を少しだけ信頼して欲しい。

室井佑月「今の自民党とおなじくらい民主党がイヤ」      週刊朝日 2015年1月2‐9日号

 作家の室井佑月氏は、第2自民党のようになってしまった民主党はバラけて活動して欲しいという。

*  *  * 
 今日は12月9日。あと5日で、衆議院選挙の投票日だ。大手新聞社の調査によると、自民が300議席超えになるんだとか。
 みなさんの多くは消費税増税に反対で、憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認に反対で、特定秘密保護法に反対で、原発に依存しつづけるのは反対だって、ほかの調査では答えているのに。
 景気のことを考えれば、自民しかない? ほんとうにそうなのだろうか。
 12月8日付の日刊ゲンダイの記事に「1ドル120円、株価1万8000円は同じでも07年と14年こんなに違う」という記事があって、なんでも総務省の労働力調査などによると、正社員は143万人減り、平均年間給与も29万円減、1世帯あたりの金融資産の中央値(ボリュームゾーン)も100万円減少したという。なのに、物価は上がっているしな。
 少数の金持ちも増えているみたいだが、明らかに多数の庶民の生活は苦しくなっている。しかし、多くのみなさんの投票先は自民党。もうわけがわからん。
 いや、わかっていることもあるか。野党が今のままだと駄目だ。
 私事であるが、自民1強の今の政治が怖いからといって、とりあえず勝てそうな民主に入れるという選択は、非常に苦しい。だって、今の自民とおなじくらい民主党がイヤなんだもん。
 政権交代後、仲間割れをはじめ、だんだん第2自民党のようになってしまった民主党。マニフェストに書かれていない消費税増税を決行し、原発問題についても最後はぐだぐだであった。自民以上にタカ派の人間もいるし。
 今後、民主党は、党として議席を増やすことなど考えず、安倍自民に近い思想の人と、社民や共産に近い思想の人と、さっさとバラけて活動して欲しいよ。有権者として、そのほうがわかりやすいから。
 この国には、白黒どちらかというようなわかりやすい対立軸があるではないか。
 次の選挙は、原発推進、集団的自衛権の行使容認、憲法9条の改正、TPP賛成の人たちがグループAで、それらすべてに反対の人たちがグループBといった具合にわかりやすくならないもんか。
 その際、共産党もグループBと共闘して欲しい。ほんとうのグループBは我々なんです、といわれた日には、またまたわけわからなくなる。グループAじゃないからB、有権者のことを考え、とりあえずそうしてくれ。勝った後に、さらなる党の色を強調すればいい。
 A対Bにわかれれば反対か賛成かを書けばいいだけなんだから、マスコミも「中立・公平」についてイチャモンをつけられづらくなる。イチャモンの恐れがなくなったマスコミは、本気で選挙へ行くよう国民に呼びかけられるわな。
 A対Bのガチ勝負。党首討論も6時間ぐらいやって欲しい。殴り合い寸前までさ。投票率はバツグンに上がると思うけど、いかが?

141226 ワシントン・パレードが米政府に「辺野古断念」を決断させる(高野孟:日刊ゲンダイ)

2014年12月27日 03時16分56秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
12月26日(金): ワシントン・パレードをやるなら、沖縄のために俺はカンパをしたい!振込口座を教えて欲しい。

ワシントン・パレードが米政府に「辺野古断念」を決断させる 永田町の裏を読む/高野孟
                   2014年12月25日 日刊ゲンダイ

 沖縄の翁長雄志県知事の誕生とそれに続く総選挙での同県全4区での「辺野古ノー!」統一候補の全勝という目覚ましい結果をもたらした下支えというか張本人は、今年7月に各界代表を幅広く集めて結成された「島ぐるみ会議」である(7月31日付本欄参照)。同会議の選挙後初の総会が那覇市内で23日に開かれるというので傍聴に行った。

 翁長知事が冒頭で挨拶に立ち「辺野古基地建設の撤回を実現する、これからの長期戦をみなさんと共に闘っていく」との決意を述べた後、オール沖縄の思いを全国に、米国に、国連を通じて世界に伝えていくための行動計画が提起され議論された。

 翁長知事は、来月に前知事の辺野古建設承認手続きについての検証チームを発足させ、その手続きに瑕疵がある場合は(あるに決まっているが)その承認を取り消しもしくは撤回し、国と法的に争う構えである。2~3月県議会での予算審議を終えるまでには「ワシントン駐在員事務所」を開設して米政府・議会・メディアなどへの直接の働きかけを開始し、4月以降には知事が沖縄各界の代表を率いて訪米して県としての外交交渉を行う。

 それと並行して、島ぐるみ会議は、まずは全国46都府県に衆参議員はじめ同会議の発起人・共同代表などの有力者を送り込む。沖縄の基地問題の解決は日本全体の安全保障と民主主義の未来に関わることであることをアピールする集会やシンポジウムを開き、各地方議会の支持を求めるキャンペーンを展開する。そして、知事の訪米とタイミングを合わせて、沖縄だけでなく本土の支援者や在米沖縄出身者を大挙動員し、米国の平和団体・環境団体とも協力して、米議会・ホワイトハウス前で数百人、できれば数千人規模のデモを行う「ワシントン・パレード」を計画する。

 翁長知事誕生の発端となったのは、昨年1月28日、当時那覇市長だった翁長を先頭に全市町村長・議会議長・議員が「オスプレイ配備撤回、普天間基地閉鎖、辺野古移設断念」の「建白書」を掲げて東京で集会してデモ行進し、それを官邸に突き付けた「東京行動」にあった。それを今度は米国の首都で、もっと大きな規模で再現しようというわけである。これが実現すれば、米メディアも大きく取り上げて、米政府を「辺野古断念」に傾けさせる大きなきっかけとなるに違いない。

 23日の総会が終わった後、島ぐるみ会議の中心幹部と懇談する機会に恵まれ、その席上、私自身も年会費1000円で同会議の個人会員になると共に、ワシントン・パレードには必ず参加したい旨を表明した。

▽〈たかの・はじめ〉1944年生まれ。「インサイダー」「THEJOURNAL」などを主宰。「沖縄に海兵隊はいらない!」ほか著書多数。



4 032 米原万里「不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か」(新潮文庫:1995) 感想 特々5

2014年12月26日 01時46分56秒 | 一日一冊読書開始
12月25日(木):

326ページ  所要時間 6:40   蔵書(2003年版:本体定価514円)

著者45歳(1950生まれ)。ロシア語通訳家。

 本書は、著者の15年間のロシア語通訳の経験をまとめて書き上げたものである。当時は、ソビエト連邦崩壊期であり、ゴルバチョフからエリツィンへと権力が奪取されていく時期でもあり、世界のニュースがソビエト、ロシアに集中している時期である。著者をはじめロシア語通訳は、完全に需要がキャパを超えていて、死に絶えようとするほどに忙殺されていた。

 そんな中書かれた本書は、サービス精神旺盛で、とにかく笑わせてくれる。本文中に「キンタマのしわを云々」といった類のシモネッタ言葉・エピソードが繰り返し堂々出てくる。でも、面白さを追求した本かと言うとさにあらず。この本ほど、ためになり、かつ他所で話したくなるような知識、逸話、冗談、小話に満ち満ちた本は最近読んだ記憶がない。通訳は否応なく言葉(遊び)の達人になる。通訳ほどスリリングで遣り甲斐のある仕事はない。「通訳と乞食(ママ)は三日やったらやめられない」

 本書は、通訳を志す人々、通訳に関心を持つ人びとに対して、本当に実のある入門書になっている、と同時に完成の無い職人芸としての通訳の真髄を披歴する書になっている。一見、よく似た行為に見える通訳と翻訳が如何に異なるものであるかが詳説された上で、通訳者にとって、翻訳活動を行うことが通訳技術向上に必要であることも述べられている。また、英米語一極集中に対して、それが如何に危ういことであるか。英語以外にもう一つ外国語を習得するべきだと警鐘を鳴らしている。また、「結局、外国語を学ぶということは母国語を豊かにすることであり、母国語を学ぶということは外国語を豊かにすることなのである。287ページ」と母語教育の重要性を主張する正統派である。俺は、本書の内容すべてに共感できた。その意味で、本書は、大いなる良識の書であると言える。

 すごく興味深くて、読み甲斐があるだけで感想は特5であるが、本書は、その上に俺をげらげらと笑わせてくれた分が加算されて、珍しい感想 特々5となった。本書には、筋の通った反骨と<哄笑文学>の要素が色濃い。「笑ってもらってナンボ。けど、弱いもんいじめはせえへんで!」というおおらかでどっしりとした精神が、繊細だけど図太い知性で覆われている。本書が処女作だなんて正直信じられない思いである。「米原万里に、ハズレ無し」の印象が出てきた。

 最後に、本書の中に、井上ひさし「吉里吉里人」の翻訳の可能性が論じられていたのにはのけぞった。「吉里吉里人」を読んでいた時、俺は「村上春樹よりも井上ひさしの方が、ずっと上だと思うが、井上ひさしの「吉里吉里人」だけは、外国語に翻訳されることはありえない」と嘆いていたものだが、まさか、その翻訳の可能性を論じる人間が存在するとは、驚き以外の何ものでもなかった。

 まあ、稀有なテキストである騙されたと思って読んでみて下さい。気の利いた小話を取得できますよ。そして、世間で小さな才を振り回して威張っている連中が本当に小さく見えます。例えば、百田某など。人間謙虚が一番!

目次:
プロローグ 通訳=売春婦論の顛末
第1章 通訳翻訳は同じ穴の狢か―通訳と翻訳に共通する三大特徴
第2章 狸と狢以上の違い―通訳と翻訳の間に横たわる巨大な溝
第3章 不実な美女か貞淑な醜女か
第4章 初めに文脈ありき
第5章 コミュニケーションという名の神に仕えて
エピローグ 頂上のない登山

4 031 米原万里「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」(角川文庫:2001) 感想 特5

2014年12月24日 03時55分57秒 | 一日一冊読書開始
12月23日(火):

301ページ  所要時間 5:05   ブックオフ108円

著者51歳(1950~2006;56歳早世)。ロシア語通訳者、翻訳家、エッセイスト、小説家。尋常の書き手ではない!

現在am3:30。明日のために寝なければと焦りながら、結局最後まで一気に読まされた。もう寝なければいけないので、何も書けないが、「1960年1月(10歳)から1964年10月(14歳)までの約五年間を、在プラハ・ソビエト学校の同級生との日々と30年後、3人の同級生の安否確認で再会を果たす物語り。著者にしかかけない作品。20世紀後半の東欧史とその中で数奇な運命をたどる友との再会が見事に描き出されている。

軽快に描かれているのに、安直なナショナリズムの薄っぺらな安っぽい見方を許さない、とても重層的で深くて多面的な見方・考え方が示されている。英語圏中心の見方に対して、本書のように明確にロシア語圏の立場を代弁し得ている作品は少ない。何よりも読み続けずにはいられない、テンポよく、スリルあふれるストーリー展開、最後まで読み終えた時の何とも言えない充実した爽快感は久しぶりの経験だ。著者の、力量は群を抜いている。

こんなに勉強になって、こんなに面白さが両立する読書は久しぶりだ。なかなか出会えない作品である。もっと書きたいがここまでで擱筆。

紹介文:「一九六〇年、プラハ。小学生のマリはソビエト学校で個性的な友だちに囲まれていた。男の見極め方を教えてくれるギリシア人のリッツァ。嘘つきでもみなに愛されているルーマニア人のアーニャ。クラス1の優等生、ユーゴスラビア人のヤスミンカ。それから三十年、激動の東欧で音信が途絶えた三人を捜し当てたマリは、少女時代には知り得なかった真実に出会う!大宅壮一ノンフィクション賞受賞作。」

目次:リッツァの夢見た青空 5/嘘つきアーニャの真っ赤な真実 87/白い都のヤスミンカ 191
解説 斎藤美奈子 294

4 030 佐藤優「交渉術」(文春文庫:2009/2011)感想5

2014年12月22日 01時39分28秒 | 一日一冊読書開始
12月21日(日):  

527ページ  所要時間 6:00    ブックオフ108円

著者49歳(1960生まれ)。元外務省ロシア・スクール、ノンキャリア官僚。2002年、鈴木宗男事件に連座して、512日間東京拘置所に拘留され、2005年執行猶予付き有罪判決を受ける。2009年、最高裁で上告棄却。仕事を本気で頑張り過ぎて、無能で臆病な外務省官僚たちから切られた人。

1ページ30秒めやすでページに目を這わせ、付箋しまくった。細かい部分を読みとるのは、困難だった。それでも著者の途方もないスケールに圧倒されて感想5である。もう少し時間をかけて味わえば、よかったとも思うが、残念ながら、そうすれば逆に最後のページまで到達できなかっただろう。速読法を身につけてない悲しさ。

「交渉術」というタイトルだが、内容は橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗、エリツィン、プーチン他、ゲンナジー・ブルブリスらとの北方領土交渉の内幕が、最前線で現実に携わった著者自身の超人的記憶に基づいて再現されている。その中では、キャリア官僚たちの生態も赤裸々に明かされている。

本書を通して、世間での評価とは異なる政治家や官僚たちの実像が描かれていて、俺自身の見方を改めさせられる部分も多々あった。特に、女ぐせの悪い橋本竜太郎のセクハラや中国女性のハニートラップに引っ掛かる話。辻本清美に「疑惑のデパート」と誹謗された鈴木宗男が非常に立派でロシア外交で力のある政治家であったこと。さんざん世話になっておきながら、一斉に裏切って鈴木宗男をたたき落とした外務省官僚たちの卑怯・卑劣さ。

辻本清美については、いろいろと読書を重ねるにつれて、市民派を語っているが、ものごとを表面的にしか見ないで、売名行為と他人を誹謗中傷することによってのし上がっていく側面が目について鼻持ちならない感じがしてくる。

もっと時間をかけて、内容を整理できれば、本当に数多くの考えるヒント、生き方・働き方のヒント、国際情勢を読み解くヒントが満載されている。書き出す時間も力もないのが残念だ。

とにかく佐藤優という著者は、規格外のスケールの知識人としか言いようがない。しかも、文章は読者を意識して手加減してくれてるので読みやすい。

目次:
1、神をも論破する説得の技法
2、本当に怖いセックスの罠
3、私が体験したハニートラップ
4、酒は人間の本性を暴く
5、賢いワイロの渡し方
6、外務省・松尾事件の真相
7、私が誘われた国際経済犯罪
8、上司と部下の危険な関係
9、「恥を棄てる」サバイバルの極意
10、「加藤の乱」で知るトップの孤独
11、リーダーの本気を見極める
12、小渕vsプーチンの真剣勝負
13、意地悪も人心掌握術
14、総理の女性スキャンダル
15、エリツィンの五段階解決論
16、米原万里さんの仕掛け
17、交渉の失敗から学ぶには
あとがき
東日本大震災と交渉術―文庫版のための増補

141221 朝日新聞【考論:長谷部恭男&杉田敦】。民主党再生の道は、鳩山政権の「包摂の政治」しかない!

2014年12月21日 14時22分10秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
12月21日(日):

 【日刊ゲンダイ】

 今朝の朝日新聞朝刊の【考論:長谷部恭男(早大教授)&杉田敦(法大教授)】がとても良い。長谷部先生、初めて読んだ時は、朝日の記者と大人気ない喧嘩をしていて、「どうかな…?」と思ったが、その後の発言は僭越だが、なかなかどうしてしっかりしている。安倍自民を「保守ではなく、おっちょこちょい」と評するなど洒落っ気もあってとても良い。月一回の杉田先生との【考論】はいつも楽しみにしている。

 今の朝日新聞は、編集委員に曽我豪のような“安倍様のポチ”を抱えるなど、社と記者の力量が随分と落ちている。一方で、アウトソーシング(外注)の投稿・対談記事は充実している。外注記事で、社の気骨を何とか維持しているというのも情けない限りだが、この外注記事がなければ、俺はとっくの昔に朝日に限らず新聞購読自体を止めているだろう。

 今回の【考論:与党大勝と低投票率 衆院選から見えたもの】も良かったが、特に後段のやり取りが、心に響いた。今の民主党は、党再建を目指して、細野だ、前原だ、岡田だと、昔の名前ばかりが先行しているが、いずれも「<第二自民党>を目指す」方向性では、何も変わっていない。安倍自民を「観念的」保守だと批判した前原の民主党は「現実的」に総選挙で大敗したではないか!もうそろそろ目を覚ませよ! その路線では、ダメなんだよ! 

 国民が求めているのは、自民党の<分断の政治>に対抗する、「国民の生活が第一の<包摂の政治>」だ! これ以外には、国民の期待に応える民主党再生の道はない。「維新」という<第三自民党>と一緒になりたい奴らは、さっさと一緒になればよい。その代わりさっさとしてくれ。時間をかけるな、遅すぎる!

 そして、残った人々は、いっそ小沢さんの「生活」や「社民党」、さらに「オール沖縄」などと一緒になって、真の国民目線に立ち、歴史修正主義を明確に否定して、侵略戦争を認め、中韓・米との信頼回復に努めて、バランスある外交を回復し、東北の震災被害、福島原発の被害ときちんと向き合って、福島・沖縄・障害者他弱者・マイノリティを<棄民>化しない、人間本位の社会の構築に向けたビジョンを明示してくれれば、新鮮さとともに多くの国民に明確な政治的選択肢を提示することになるだろう。

 「立派な国に住めて、おまえらは幸せだ。感謝しろ。そして、お国のために生命・財産を差し出せ」という安倍自民の<国家主義>に対して、「幸せだと思える人がたくさんいる国こそが、良い国なのだ」として国民の福祉を第一に考える<リベラル・社会民主主義>の政治を回復して、政治的選択肢として国民に提示すればよいのだ。

 難しいことではない。2009年の鳩山由紀夫内閣のマニフェストと首相施政方針演説(本ブログのカテゴリー「考える資料」に掲載中)にもう一度立ち戻って、国民に再度「国民の生活が第一」の理念を掲げてくれさえすればいいのだ。そして、この次政権を取り戻したときには、霞が関の官僚やアメリカとの関係でもう少しずる賢く立ち回り、簡単に約束を反故にしたり、政権放棄しないことを国民に少しだけ丁寧に説明してくれればいいのだ。鳩山民主には高校授業料無償化政策など見るべき政策は、確かにあったのだ。

 2009年の鳩山内閣の政策は、確かに一度は国民の間に周知徹底され、支持されたのだ。もう一度勇気を持ってこの政策を盾にして、明らかに自民党とは違う政策を国民に提示してくれればよいのだ。そのためには、自民党と比べて何の新味もない「維新」と合流することを中止して、逆に「維新」内のリベラル勢力を吸収して、「生活」、「社民」と連立を組むのが理想だが、「生活」、「社民」との連立に反対する勢力とすっきりと袂を分かって、2009年の鳩山政権のマニフェストを掲げて、新しい「民主党(名前は何でもよい)」を旗揚げすればいい。繰り返すが、国民が求めているのは、自民党の<分断の政治>に対抗する、「国民の生活が第一の<包摂の政治>」なのだ!

 この際、<第二自民党>の野田汚物や前原詐欺師、長島戦争屋のグループには、お望み通り、すっきりと<第三自民党>の「維新」と合流してもらった方が良い。さもなければ民主党は、いつまでたっても国民の目から信頼できない<国民欺瞞の泥船>にしか見えない。次回の選挙も必ず負ける。間違いない。同じ負けるなら、未来のある負け方をすべきだ。あと、労働組合の本分を忘れた「連合」は、何を考えているのだろう。分からない…?。いずれにせよ、しっかりと新しい「民主党(名前は何でもよい)」を支えるべきだろう。

(※120929② 懐かしき鳩山総理大臣「施政方針演説」(2010年1月29日)  2012年09月30日 00時00分27秒 | 考える資料

【考論:与党大勝と低投票率 衆院選から見えたもの】      2014年12月21日05時00分 朝日デジタル

 14日投開票の衆院選は与党が大勝し、安倍晋三首相は長期政権に向けて足場を固めた。長谷部恭男・早稲田大教授(憲法)と杉田敦・法政大教授(政治理論)の対談では今回、記録的な低投票率となった選挙から何が読み取れるのかを語り合ってもらった。

 ■「無難にお任せ」消費者感覚 杉田/棄権の影響、有権者気づかず 長谷部

 長谷部恭男・早稲田大教授 衆院選直後に実施された朝日新聞の世論調査で、自民党が大勝した理由を二択で聞いたところ、「安倍首相の政策が評価されたから」は11%だけ。「野党に魅力がなかったから」が72%と圧倒的でした。低投票率の理由は「投票しても政治は変わらないから」が43%と最も多かった。
 杉田敦・法政大教授 有権者は政策よりも、「安定感」で自民党を選んだかのようです。これは、自分たちと意見が近い政治家を代表として議会に送り込むという、政党政治本来の姿とは違う。とりあえず無難な「業者」にお任せという消費者感覚です。
 政治の根幹は、限られた財源を何に使うか、つまり、パイをどう分けるかにあります。パイの分け方次第で社会は変わり、得する人も損する人もいる。自分の場合はどうだろうかと考え、より望ましい政策を掲げる政党に投票する。それが政党政治です。ところが自民党は今回、昔のように経済成長でパイを大きくできると訴えた。そして有権者も、パイが大きくなれば、分け方はどうあれ、その分け前にあずかれると期待した。これは分け方をめぐる政治を見えなくする、一種の脱政治化です。選挙戦術としては成功しましたが、先送りされた問題はいずれ露呈するでしょう。
 長谷部 与党の「熱なき大勝」と、戦後最低の投票率。これはやはり、選挙制度の影響が大きいと思います。自公の議席が定数の3分の2を超えたことを「多すぎる」と思っている人は59%。小選挙区比例代表並立制は、好みの政党に投票したり、入れたい政党がないと棄権したりしていると、思わぬ結果を招く。多くの有権者はまだそのことに気づいていないのではないでしょうか。
 杉田 しかし、そもそも消費者的な有権者には、特定の政党や候補者とつながる意識が低い。だとすると、制度の特性に気づいたところで、どこかを勝たせすぎないように戦略的投票をしようとか、投票に行こうという動機は生まれないのではないでしょうか。
 半数近い人が棄権しているのは極めて深刻な事態ですが、お任せでいいという消費者に、商品を選びに店に足を運ぶべきだと説いても、通じにくいでしょう。

 ■「何とかなる」の意識、根強く 長谷部/野党の役割、はっきりしない 杉田

 長谷部 日本の有権者は、憲法と市場という、政治に外側から枠をはめる二つのメカニズムへの信頼が高いのかもしれません。権力の均衡と抑制をはかる日本国憲法に任せておけば、極端な政治は行われないはずだ。市場メカニズムに任せておけば、効率的な富の配分が達成されるはずだ。自分たちが真剣に考えたり動いたりしなくても、きっと何とかなるはずだと。
 杉田 憲法や市場への信頼なのか、従来言われてきた「お上意識」なのかはともかく、「何とかなる」という漠たる感覚は確かにあって、それが、脱政治化に寄与しています。
 そこで、野党の役割をどう考えるかです。有権者は、野党はブレーキ役だけ果たせばいいと思っているのか。それとも、可能なら政権交代を望んでいるのか。どうも判然としません。
 長谷部 有権者の思いとは関係なく、政権交代は必要です。自らの権威主義的な体制の方が効率的だとアピールする中国に対して、日本が「我々の政治システムの方が優れている」と言うためには、政権交代がないといけない。民意によってチームを代え、別の政策を試すことができるのだ、これは権威主義的な体制ではできないだろうと。
 杉田 しかし現実はそう簡単ではありません。自民党に対抗する軸を見つけられない理由は、野党の無能さだけではない。経済がグローバル化し、一国の政治にできることが限られている中で、斬新な経済政策はなかなか打ち出せない。有権者にしてみれば、「だったら自民党でいいじゃないか」と。
 長谷部 とはいえ、違いがないわけではない。民主党政権時代の高校の授業料無償化が典型です。成熟した民主主義社会では、そうした細部を見つつ、政権交代を通じて中長期のバランスをとり続けるしかない。新しい人を出す。そこから新しいアイデアが生まれる。それを失ったら、デモクラシーの明日はありません。

■弱い部分に冷たい社会 杉田/「包み込む政治」提示を 長谷部

 杉田 気になるのは、生活が苦しい中で、人びとの関心が目の前の経済に集中していることです。エネルギーのあり方や財政赤字の解消など、負担を伴う長期的な問題は無視されがちです。皮肉なことに、改憲を目指す安倍さんたちにとっても、この国民の意識は「悩みの種」かもしれない。石原慎太郎さんも引退会見で、憲法に国民の関心がないと悔しがっていましたし、彼が率いた次世代の党は2議席しか獲得できませんでした。
 長谷部 日本の有権者にとって、ナショナリズムの優先順位は決して高くないということでしょう。
 杉田 ただ、極端なナショナリズムに向かうかは別にしても、人々が不安と不満を抱え、社会の弱い部分に冷たくなってきていることは否定できません。
 苦しい時には「横」や「下」と連帯するよりも、自分より「上」についていき、「おこぼれ」を期待するということでしょうか。パイの偏った分け方を変えるべきなのかもしれないのに。
 長谷部 「囚人のジレンマ」と呼ばれる状況と似ています。みんなで協力しあえば、全員がほどほどの利得を得られるはずなのに、切り離されたまま各自の利害だけ考えて行動すると、みんないいように扱われる。そのジレンマから抜け出すには、お互いに連絡を取り合い、共通の利益の獲得を目指して協力すればいいのです。私たちは独房に入れられているわけではないのですから。
 杉田 そうした連携や協力を社会に広めるのが政治家のひとつの役目ですが、いまは逆に、分断をあおる政治家の方が人気を得がちです。不安の時代だからか、リーダーシップのあり方が劣化している。逆説的にも、アベノミクスがもし成功したなら、政治のあり方も変わるでしょう。
 長谷部 良くも悪くも、政治はイメージです。相手が「分断の政治」なら、こちらは「包摂の政治」でいくと。そのイメージをクリアに提示できる政治家が出てくれば、政治の消費者を再び主権者に変えることができるかもしれません。
 杉田 朝日の世論調査では、首相が進める政策について「不安の方が大きい」が52%。「この道しかない」と笛を吹く羊飼いに、全幅の信頼を寄せているわけではありません。
 長谷部 そうですね。羊飼いに「白紙委任」した羊の運命はどうなるか、それは有権者の側も、十分わかっているでしょう。 =敬称略

141220-3 永続敗戦論からの展望(白井 聡)=メールマガジン「オルタ」より

2014年12月20日 18時23分01秒 | 考える資料
12月20日(土):

本も読まずに、後ろめたいが、卓説に触れて今の日本の立ち位置を確認しておきたい。

永続敗戦論からの展望       白井 聡

 本年三月に、私は『永続敗戦論――戦後日本の核心』(太田出版)と題する著作を上梓した。本書が提起する「永続敗戦」という概念が着想されるにあたり、「二つの起源」を挙げることができる。

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■『永続敗戦論』の執筆動機
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 ひとつには、二〇一〇年の鳩山由紀夫政権の崩壊劇である。普天間基地を国外ないし沖縄県外に移そうとして政権は倒れた。この事件は、本質的に言えば、「アメリカの意思」と「日本国民の意思」のどちらをとるか取捨選択を迫られて、前者をとらざるを得なかった、ということだ。アメリカによって間接的に解任されたと言ってもよい。ところが、鳩山政権の末期、メディアはひたすら鳩山氏の政治手法の拙劣さや性格に攻撃を集中させていた。

 鳩山氏の人格が実際のところどうであれ、この国ではメディアを筆頭に国民が「我が国の首相は外国の圧力によってクビになった」という出来事の客観的な次元を全く認識しようとしないということ、これが退陣劇において露呈した事態にほかならなかった。つまりは、誰が政権を担おうが、米国の意向という枠内から逸脱するような「政権交代」は土台不可能であるという厳しい現実、この客観的次元を見ないようにするために、政治家の人格云々というお喋りに、人々はうつつをぬかしていた。

 この誤魔化しは、八・一五を「終戦の日」と日本人が呼び慣わしていることと全く同じである。「敗戦」を「終戦」と呼んで敗北の事実を曖昧化する。「敗北の否認」である。そして、鳩山政権崩壊以後、菅政権、野田政権と続いたが、政権交代直後に掲げられた諸政策は次々に後退し、あれほどの期待がかけられた「政権交代」の意味は、不明瞭になってゆく。

 これもまた、「政権交代の不可能性」の露呈にほかならないが、そこで国民の憤懣はこの不可能性をつくり出しているものに向かうのではなく、民主党の非力・無能力へともっぱら向けられた。そしてついには、「大多数の国民の意思」は蔑ろにされ敗れたという事実は自覚されないまま、自民党へと政権は戻って行った。かように「政権交代の失敗」は、「敗北の否認」に浸透されている。

 第二のきっかけは三・一一、とりわけ福島原発の事故だった。原発の重大事故に際して電力会社がひどい振舞いをするということは、私にとって想定内だった。「想定外」だったのは、「安全神話」を守るための努力すらもきわめて不十分であったこと、そして国家と市民社会の事故への反応であった。国家の次元に関して言えば、SPEEDIのデータを国民には秘密にしながら米軍には流していたということをはじめとして、要するにこの国の体制は「国民の生命と安全を守る」ということに基本的に関心がない、ということがわかった。大江健三郎は、中野重治の言葉を引いて「私らは侮辱のなかに生きている」と語ったが、この言葉は全国民の置かれている状況を的確に言い当てたものであろう。

 この国の権力構造は、まさしく「侮辱の体制」であることが明らかになった。ところが、怒っている人は少ない。絶対数では少なくはないが、相対的には少ない。東京でのデモの参加者は、大規模なものでは10万人以上にも上るといわれているが、首都圏の人口は全部で3000万を軽く超えている。自分の生命をほとんど直接的に脅かされた――風向き次第では首都圏は深刻な放射能汚染に見舞われたはずである――というにもかかわらず、行動によって抗議の意思表示をしている人はたったこれだけ(人口の1%にも届かない)なのである。

 私はここに、日本人の生物としての本能の破壊を見る。しかも、原子力がこれだけの不祥事を起こしてしまった、「王様は裸だ」と誰もが知ってしまったのに、いまだに原発批判はかなりの程度タブーであり続けている。芸能界はその典型である。大学も大差はない。財界については言うに及ばず、脱原発を掲げる経営者もそれなりの数がいるものの、経団連をはじめとする主流派は、臆面もなく引き続きの推進を求めている。つまり、腐敗しているのは国家だけではない。市民社会もまた同じである。

 「三・一一以後の光景」を体験してわかったのは、この国の国民は奴隷の群れだということだ。このことがわかったとき、震災前から考えてきたことと震災後の光景が一貫したものとしてつながった。「敗戦」を「終戦」と呼び変えることによって、一体何が温存されたのかが見えてきた。

 あの戦争の時代、国民は全体として軍国支配層の奴隷にされたわけだが、その構造は基本的なところで持続してきたということが見えてきた。このことは、大部分の日本人にとって、主に冷戦構造と戦後日本の経済的成功のおかげで見ないで済むようになっていた。この構造を私は「永続敗戦」と名づけた。敗戦の事実を誤魔化しているがゆえに、敗戦をもたらした体制が延々と続いている。

 現在の社会・政治情勢を語る上で第二次世界大戦における敗戦という出来事を引き合いに出すのは、何とも迂遠な議論に聞こえるかもしれない。しかしながら、あの敗戦を総括できなかったことが、現代日本社会の在り方、この社会の権力の存在様態を現実的に、かつ強力に規定していることは厳然たる事実である。その意味で、敗戦は「過ぎ去らない過去」であり、この点を清算しない限り、この社会に良き展望が開けることは絶対にあり得ない。

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■「永続敗戦」の構造
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 「敗戦の終戦へのすり替え」がなされなければならなかった最大の理由は、敗戦の責任を有耶無耶にし、敗北必至とあらかじめ分かっていた戦争(対米戦)へと国民を追い込んで行った支配層が、戦後も引き続き支配を続けることを正当化しなければならないという動機であった。

 この策動は、玉音放送において「降伏」や「敗北」といった表現が慎重に避けられたことから早くも開始され、東久邇宮内閣の「一億総懺悔」という標語の提示に見られるように、明確な意図を持って推進されたと言えよう。こうした流れの果てに、敗戦したことそのものが曖昧化され、「敗戦ではなく終戦」というイメージに、日本人の歴史意識は固着してゆく。そもそも敗戦していないのであれば、誰も責任を問われる道理がなくなるのだから、実に見事な(!)論理である。

 こうしたからくりは、言うまでもなく、日米合作によって成立した。非常に限定された形でしか戦争責任を追及せず、戦前の支配層を戦後の統治者として再起用する一方、左翼をはじめとする批判者勢力の力を抑制するという方向性は、「逆コース」以降顕著になるアメリカによる「民主化」の基本方針であり、それは、明瞭なかたちをとり始めた冷戦構造における日本の位置づけによって必然化されたものであった。

 こうした経緯を経て戦後日本の権力中枢が再編成されたことを鑑みれば、その体制が対米従属を基幹とする、半ば傀儡的なものとなったのは当然の事柄であった。保守合同による自民党結成(1955年)におけるCIAの資金提供という事実に典型的に見て取れるように、戦後日本の保守政治の根本は半傀儡的政権を通した間接統治であった。

 CIAの援助によって成立した政党がほぼ一貫して政権を握り続けてきたという一事をとっても、「敗戦」は今現在に至るまで継続している。ゆえに「永続敗戦」という概念こそ戦後という時代を指し示すのに好適であると私が確信する所以があるが、問題は、このことが大多数の国民にとって意識の外にあるということである。

 こうした忘却ないし無意識化を可能にした第一義的なファクターは、戦後日本の経済復興・高度成長という経済的成功であっただろう。ソ連や中国といった連合国=戦勝国よりも明らかに高い生活水準を達成した戦後日本人にとって、あの敗戦は「負けるが勝ち」のエピソードと化す。これによって「敗戦」の「終戦」への転換は国民の意識にとってリアリティそのものとなった。

 しかし、いかにこのすり替えが意識における現実となったとしても、欺瞞は欺瞞でしかない。その代償が、際限のない対米従属である。すでに述べたように、戦前からの連続体としての戦後の支配層は、米国の許容と承認のもとに統治してきた以上、太平洋の向こうに頭が上がらないのは当然である。かつ、彼らは親分への隷属を否定してみせなければならない。

 隷属こそは敗戦の証拠なのだから、敗戦を有耶無耶にするためには、隷属の事実が否認されなければならない。「真の独立」だの「戦後政治の総決算」だの「戦後レジームからの脱却」だのといった似たり寄ったりのスローガンが同一の政治勢力から飽きもせず繰り返し発せられるのは、以上の事情からである。これらの勢力から一線を画していた鳩山由紀夫元首相ですら、首相辞任にあたって「私は外圧により敗れた」とは言わなかった。「われわれは、負けたのであり、負け続けてきたのであり、負けている」という憂鬱な真実は、戦後日本政治において公言できないトラウマにほかならない。

 かように戦後日本社会は「敗戦」を意識の外へと追い遣ってきたが、このことを裏書きしたもう一つの要素は、対アジアへの姿勢である。対米関係において敗戦の帰結を無制限に承認していることと引き換えに、対アジアに対する敗戦は全力で否認されなければならない。このことが、戦後補償や歴史認識の問題をめぐって繰り返し軋轢を引き起こしてきた。ゆえに、対米従属とアジアでの日本の孤立という二つの事柄は、コインの両面であるとみなされなければならない。アジアにおける米国の最重要パートナーという地位があるからこそ、アジア世界では孤立していて一向に構わないという態度が可能となる。

 しかしながら、この体制はすでに限界に直面している。以上の構図は冷戦構造とアジアにおける日本の経済力の突出性によって可能になったものにほかならないが、北朝鮮問題を除いて冷戦構造はとうに崩壊し、経済は衰退した。そのとき、敗戦の誤魔化しによって封じられてきた問題が、すべて吹き出てくる。

 その代表が領土問題であり、沖縄の米軍基地問題にほかならない。尖閣諸島をはじめとする領土問題に解決の目途が全く立たない理由は、その本質が国民に、否、外国当局者においてすら理解されていないという事情に求められる。その本質とは、現代日本の抱える領土問題が第二次世界大戦の敗戦処理の問題であるという事実である。

 ゆえに、これらの領土問題の処理は、カイロ宣言、ポツダム宣言、サンフランシスコ講和条約といった日本が受け入れた(敗戦により受け入れざるを得なかった)諸外交文書の文言によって原則的に規定される。この事情から見れば、日本政府が掲げる「固有の領土」論には相当の無理があるとみなさざるを得ないのだが、このことは敗戦を意識の外に追い遣った国民には、ほとんど理解されていない。こうした現状は、敗戦を否認し、「あの戦争は負け戦ではない、単に終わったのだ」という歴史意識を国民に刷り込んできたことの結果にほかならない。

 だが、冷戦構造の崩壊以降、構図は全面的に変化した。アジアにおける日本の経済力の突出性は相対化され、それに伴い、アジア諸国が以前はグッと呑み込んでいた日本への不満を隠さなくなった。そして、米国にとっての日本の位置づけも当然大きく変更されることになった。もはや、日本は無条件的に庇護されるべき第一の同盟者ではない。むしろ、TPP交渉において見て取れるように、自身が衰退するなかで、収奪すべき対象へと新たに位置づけられるのは当然の趨勢である。

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■戦後の終わり
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 こうした事柄はすべて、「戦後の終わり」を告げている。無論、「戦後の終わり」という観念は新しいものではない。これまでも、多くの知識人が説得力のある論理で、「戦後の終わり」を論じてきた。しかし、それらが本当に大衆的な感覚として根づいたかといえば、かなり疑問が残る。これはある意味で「気分」の問題であって、知識人の議論は、それが鋭いものであっても、「気分」自体を変えられるわけではない。

 やはり、「戦後」が決定的に終わってきたのは、ゼロ年代あたりから、つまり「格差社会」がしきりに指摘され「一億総中流」が明白に崩れてきた時代においてである。というのは、「戦後日本」を形容する最も支配的な物語は「平和と繁栄」であったからだ。ゼロ年代から「繁栄」に、明白に翳りが見えてきた。言い換えれば、「みんなの気分」がはっきり変わってきた。

 そしてそのあと隣国との対外的緊張が高まりを見せ始め、もう一つの「平和」の方も危機へと向かうに至る。東日本大震災はこうした状況下で発生したのであり、「関東大震災によって大正時代は実質的に終わった」という歴史を思い起さずにはいられない。

 つまり、震災と原発事故によって、いよいよ気分としても「戦後」が終わった。なぜそう断言できるのか。それは、ひとつには「戦後民主主義」の虚構性がはっきりと暴露されてしまったことが挙げられる。すでに述べたように、この国の政府は「民主政府」ではない。国民主権は、建前としてすら存在しない。

 こうなると、「戦後とは民主主義と平和を大事にしてきた時代だ」という国民の大部分が同意してきたコンセンサスが崩れてくる。ゆえに、社会が急速に「本音モード」に入ってきて、「平和と繁栄」の物語によって覆い隠されてきたこの社会の地金が表面に噴出してくることになる。それを代表するのが、原子力基本法やJAXA法への「安全保障」の文言の取り入れであり、その先には憲法第九条の実質的な廃止があるだろう。

 それでは、その「覆い隠されてきた地金」、日本社会の本音とは何なのか? それこそが、「俺たちはあの戦争に本当は負けたわけじゃないんだ」という「敗戦の否認」にほかならない。これまでは、敗戦国だということを一応建前としては認めてきた。「お前らは戦争に負けただろって言われて本当は違うと思うけど、まあいいいか。俺たちは平和で豊かだし。負けたからには押し付けられた民主主義を一応信奉しているふりもしなけりゃいけないなあ」。この建前は、「繁栄」が崩れれば、一挙に崩壊する。「まあいいか」では済ませられなくなって、「本当は違う」という本音が爆発的に噴出し、「民主主義を信奉するふり」もかなぐり捨てられることになる。

 こうした「気分の変化」には、大局的な背景がある。いま述べてきた「戦後の終わり」は、国民の意識や感情といった領域の問題であり、国民の主観的次元に属する。これとは次元を異にする客観的次元での「戦後の終わり」がある。それは、先にも簡単に触れたように、国際的関係のなかでの日本国家の立ち位置にかかわる。この次元において、二つの意味で「平和と繁栄」の時代としての「戦後」はすでに終わっている。

 ひとつには、「繁栄」を支えてきたアジアにおける日本の突出した経済力が、中国の台頭によって相対化されたことが挙げられる。かつての中国は、日本の「敗戦の否認」に対し、不快感を持っても、国力差への配慮からそれを表面化させることを控えてきた。今日こうした遠慮をする必要はなくなった。

 もうひとつは、すでに二〇年以上が経過したが、冷戦構造の終了である。これによって、日米関係の真の基礎は変更された。冷戦構造があったからこそ、日本の高度経済成長は可能になったことを鑑みれば、この構造こそは戦後の根幹をなしていた。そして、冷戦が終わった以上、アメリカは日本をアジアにおけるほぼ無条件のパートナーとして庇護してあげる必要はもはやない。

 ゆえに、アメリカにとって日本は、助けてあげるべき対象というよりもむしろ収奪する対象に変ってくる。そのことを露骨に告げているのがTPP問題である。それにもかかわらず、冷戦崩壊以降、「日米関係のより一層の緊密化」というスローガンが結局のところ優ってきて、今日ますますそうなっているのは、異様な光景である。真の基礎は変わっているのであるから。

 こうして真の基礎が変わるなかで、「暴力としてのアメリカ」の姿が、見える人にははっきりと見えてきた。あの戦争で日本を打ち負かしたところの「暴力としてのアメリカ」である。戦後直後、一九五〇年代には砂川闘争に代表されるように、「暴力としてのアメリカ」の姿は、多くの国民の視界に入って来ざるを得ないものだった。しかし、その後、六〇年安保という危機を乗り越えて、「アメリカ的なるもの」は国民生活のなかに広く深く浸透しつつ、その過程で暴力性を脱色されて文化的なものへと純化されてゆく。だからと言って、アメリカそのものが暴力的でなくなったわけではない。依然として「暴力としてのアメリカ」であった。

 ただし、その暴力が日本へと向くことはなく、ベトナムやイラクへとそれは向けられていた。ゆえにわれわれは、それを見ないで済ますことができてしまった。「ウチに向かってくるんじゃないからいいや、さあどうぞ、大人しく基地も提供しますから、よそのどこかで暴れてきてください」、という態度を日本はとり続けた。「暴力としてのアメリカ」の「暴力」が日本に向けられるかもしれないということはそれこそ「想定外」であり、そのために、そのような事態が現実に起こっているのにもかかわらずそれを認識できないのである。

 無論、いま述べた構図に当てはまらないのが沖縄である。そこでは復帰以前も以後も一貫して「暴力としてのアメリカ」のプレゼンスがはっきりとしていた。ゆえにいま、沖縄は日本の本土に対する強烈な批判者になっているのと同時に、唯一物事の客観的次元を把握できる立場にいる。これに対して、日本社会の大勢は、沖縄のメッセージを理解していないし理解しようとしてすらいない。よくて、「可哀そうに」とか「申し訳ない」くらいにしか思っていない。つまり、他人事なのだ。ここで見落とされているのは、今日の沖縄の姿は、明日の本土の姿であるということにほかならない。

 このように、「戦後」を支えてきたものは、客観的に変わってしまった。にもかかわらず、この国の社会は、この「終わり」を受け止めることができていない。「敗戦の否認」を代表するような政治家を選挙で首相に推しあげて、「成長神話よもう一度」の夢に酔っているのだから。ある意味で、永続敗戦の構造はいま純化しつつあるのだといってもよい。だがそれは、「終わりの始まり」に直面した社会が示している一種の痙攣的な反応だ。結局のところ、いつかは受け止めるほかない。それがソフトランディング的に実行されるか、破局的事態を通じてなのか――それが問題である。

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■またしても「敗北の否認」
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 現代の情勢分析として以上のような議論を『永続敗戦論』では展開したが、本書刊行前後から現在までで目についた本論に関わる事態を、いくつか指摘しておきたい。いずれの事象も本書で私が示した構図が真実を抉ったものであることを証明している。その意味で、私の分析家としての力量は証明されたと言えるわけだが、そのことを喜ぶ気には到底なれない。なぜなら、これらの「証明」は、永続敗戦レジームが依然として継続しているだけでなく、純化さえしており、出口を見つけることが全くできていないことを、物語っているからである。

 最初に挙げたいのは、2月の安倍首相訪米である。迎えたオバマ大統領の冷遇ぶりは際立っており、ほとんど嫌悪感を隠さなかったと言ってよいだろう。『永続敗戦論』において私は、安倍の掲げる「戦後レジームからの脱却」が本気で追求されるならば、米国は「傀儡の分際がツケ上がるのもいい加減にしろ」という強烈なメッセージを送ってくることになるだろうという趣旨のことを書いたが、果たしてその通りとなった。

 加えて、6月に行なわれた習近平・オバマ会談は、長時間に及び、実に対照的なものとなった。この米中首脳会談についての日本の大メディアの報道ぶりは、「永続敗戦レジーム健在なり」を見事・無残なまでに証明するものであるように、私には見えた。すなわち、会談の詳細な内容を知る術はないにもかかわらず、米中の利害・政策対立の表面化を盛んに言い立てる報道が目立った。「米中は永遠に対立していなければならない、そうでなければ日本が米国のナンバーワン・パートナーであり続けられないから」、という報道ならぬ主観的願望の吐露が各紙の紙面を覆った。哀れと言うほかない。

 第二には、排外主義の跋扈である。いわゆる「在特会」の活動が先鋭化し、東京・新大久保、大阪・鶴橋といったコリアンタウンでの示威活動が日常化するという状況が現出した。ヘイトスピーチを堂々と行なう彼らの姿は、醜悪極まりなく、衝撃的でもあるが、彼らが戦後日本社会の必然的な鬼子であることは強調されるべきである。戦前の日本において、朝鮮半島出身者をはじめとする植民地出身者は、暗に差別してよい存在であった。現在、彼らもまた同等の人権を認めなければならないのは、敗戦の結果である。

 ゆえに、レイシストたちの行動は、実に端的なやり方による「敗戦の否認」なのだ。同等な存在として在日コリアンが存在していることは、日本の敗戦の「生きた証拠」である以上、彼らはそれを全力で否定しようとする。「われわれは負けてなどいない、だから奴らを差別する、そうする権利をわれわれは持っている」。これが、彼らのヘイトスピーチにおけるメタ・メッセージにほかならない。そして、恐ろしいことに、このメッセージの最初の部分、「われわれは負けてなどいない」という部分は、国民のマジョリティに浸透した意識である。

 ゆえに、レイシストが自分たちの運動を「国民運動」と称していることは、根拠なきことではない。したがって、単なるリベラリズムやヒューマニズムによってはこの運動を解体することはできず、批判者は「戦後の核心」としての敗戦の問題に遡る必要がある、と私は考える。

 最後に、福島原発事故の処理とオリンピック(2020年)招致の問題を挙げておく。汚染水の処理問題という事故処理の初歩の初歩が、すでに事故処理を破綻の淵に追い込んでいる。『永続敗戦論』のなかで、この国の「無責任の体系」がこの未曾有の事故を処理できるのか疑問である、という危惧を表明した。不幸にも、この危惧は的中してしまった。この不安を覆い隠すように、オリンピック招致の空騒ぎが演出され、しかもそれは実現してしまった。「永続敗戦」の基本は、「敗戦の否認」であり、「失敗・敗北を認めないこと」にある。要するに、当事者たちは、いまだに原発事故の深刻さを観念的に否定したがっているわけである。こうした意識に基づく実践の帰結がどのようなものとなるのか、私は考えたくもない気分にしばしばとらわれている。         (筆者は文化学園大学助教・社会思想・政治学専攻)

141220-2 室井佑月のまっとうなお話 : 権力の犬、朝日の曽我豪は編集委員を辞めろ!安倍に拾ってもらえ!

2014年12月20日 18時20分30秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
12月20日(土):

 室井佑月さんのとても心に響く正論をお口直しに紹介する。安倍政権のポチ、朝日新聞「曽我豪」編集委員よりも遥かに格調が高い文章だ! 朝日新聞社は、曽我豪を編集委員から辞めさせろ!

室井佑月 「この道しかない」に従うのは楽かもしれないけど〈週刊朝日〉
dot. 12月19日(金)16時11分配信
 作家の室井佑月氏は、「この道しかない」という言葉に恐怖心を抱くという。
*  *  * 
 この言葉を聞いて、怖いと思うのはあたしだけだろうか。
「この道しかない」というからには、別の道はない、もしくは考えないってことだろう。引き返せないって意味もあるかもしれないな。
 主語が不確かである人間の言葉ならば、絶対的な100パーセントの正解はないのではないか。なのに、「この道しかない」、そう言い切ることに恐怖を感じる。
 たとえば、戦争時、命をかけて敵の中に飛び込むとき、飛び込む人は「この道しかない」と思っていたかもしれない。思っていたかもというより、思わされていたかも。
「この道しかない」、この言葉には、思わされる側と思わせる側がいるのだろうか。
 先程の例でいうと、「この道しかない」と思わせた側は、戦後、上手く立ち回って生き残り、偉くなっていたりして。
 いいや、それだけじゃないか。自らそう思い込む人もいるな。自らの人生において「この道しかない」と思い込むのは、その人の勝手だ。自分の人生をかけてその言葉を発するのなら。
 けど、この言葉を多くの人間への呼びかけとして使うのはどういうことなのか。
 公的年金の積立金約130兆円の半分を、リスクの高い株式市場に投じる。株だもの、失敗し大損することだってある。
 そのとき「この道しかない」といっていた人たちは、我が身を削ってあたしたちになにかをしてくれるんだろうか。
 この国のエネルギーは原発しかないといっている人たちは、ふたたび福島第一原発のような事故が起きてしまったとき、あたしたちの財産である、事故前の綺麗な国土に戻せるんだろうか。健康被害にあってしまった人たちに、どう責任を取るつもりなのか。
 結局、少子高齢化のこの国において、今後、年金制度を維持してゆくのは難しいのだし、絶対に安全である原発もこの世にはない。
 原発のコストが安いというのも嘘だし、製造業が海外に逃げてしまうというのも嘘だ(日本の電気代は高い。それがイヤな企業はもう逃げていっている)。
 ならば、人間の知恵でその先を考えればいい。
 社会福祉に金がまわらないというなら、さっさと予算の組み替えをしたらいい。議員の数を大幅に減らすなどしたらいいじゃん。
 原発に代わるエネルギーの開発をしたらいい。けれど、そうはならない。
 世の中の流れを大幅に変えると、損をする人がいる。今の流れで、地位を得て、金儲けをしている人たちだ。
 そういった人たちは、あたしたちに「この道しかない」という。世の中の流れが変わってなるものか、ってところだろう。
 彼らが提示する「この道」、なにも考えず従うのは今、楽かもしれない。が、その先が地獄であっても、命を失うことがあっても、「自己責任」といわれておしまい。 ※ 週刊朝日  2014年12月26日号


141220 安倍政権の鮨友だち、朝日新聞曽我豪編集委員の恥知らずなごま擦りヨイショ記事「ザ・コラム」

2014年12月20日 18時19分43秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
12月20日(土):

 曽我豪編集委員の気持ちの悪い「ザ・コラム」を掲載する。当時、読んでいて、「安倍勝利の選挙結果を予見し、安倍の個利個略の解散を批判するのでなく追認した上で、先回りして安倍政権にエールを送っている」ようにしか感じられなかった。安倍の抜き打ち解散の批判ではなく、(不当な!)選挙による結果については国民が責任を負うのだと言っている。曽我豪編集委員は、完全な安倍晋三の“ごますりポチ”だ。これは権力に擦り寄る朝日新聞の批判精神の衰退を見せつける内容だ。権力に阿る新聞社は、存在価値がない。金を払って読む価値がない。

 朝日新聞社が、もし矜持をもって(購)読者からの信頼を回復しようと思うのであれば、安倍晋三に尻尾を振って、一緒に鮨を食うような誇りの無い編集委員を辞めさせるべきだ。
 今のところ、読売・産経よりマシだから我慢して朝日を購読し続けているが、これからは情けない惨めな気分で朝日を読み続けることになるだろう。でき得れば、新聞社としての最低限の矜持を守って、権力と距離を維持して、読者の信頼を裏切らないで欲しい。

 まあ、日付も含めて、よく読んでみてもらいたい。これを権力者に対するヨイショ記事と言わずして、何と言う! 当時、このコラムを読んで、「してやったり!」とニターっと笑うのは、安倍晋三ひとりだけだっただろう。他の読者は、シラーっとした白けた気分になるだけだ。国民はそれほど馬鹿じゃない。少なくとも、この記事は、朝日新聞社自身が、朝日新聞の購読者を馬鹿にして、高みから見下している記事と言う他にないだろう。
 読者を蔑ろにする新聞社は、結局、<第二読売新聞>になるということだ。民主党政権が、倒れた最大の原因が野田汚物による民主党の<第二自民党>化であったことを思い出せ! <第二読売新聞>に用はない!

(ザ・コラム)総理の解散 祖父の眠れぬ夜、真意は      曽我豪
                        2014年11月29日05時00分 朝日デジタル

 安倍晋三首相の衆院解散に合わせるかのように、その祖父の本は店頭に並んだ。
 「岸信介証言録」(原彬久編著 中公文庫)である。
 別の編著者による「岸信介の回想」(伊藤隆 文春学芸ライブラリー)も先月、発売された。ともに「昭和の妖怪」と呼ばれた政治家の喜怒も哀楽もあらわなオーラルヒストリーが展開されるが、こと解散断念の一件に関しては「証言録」が詳しい。
 「実は、いまでも残念なことの一つなんだけれども、(新条約の)調印直後に衆議院を解散すべきであったと思うんです」
 ときに政権発足からほぼ3年が経過した1960年1月。訪米して新日米安保条約に調印し、アイゼンハワー大統領との会談を終えて帰国した直後のことだ。
 「総選挙になれば絶対勝つという確信をもっていました。選挙に勝利して議会に臨んだら、議会がいくら騒いだって、国民が新条約を支持しているではないかということになるんです。……あのとき解散をやっておけば、あんな騒動はなかった」
 それなら、なぜできなかったか。
 「党内の調整にあたっていた川島幹事長がどうしてもこれに賛成しなかったんだ。……選挙にあたって党内が不統一では勝ち目がないといって、川島君がどうしても解散に賛成しなかったんです」
 よほどの後悔だったのだ。首相時代の苦しい決断の記憶を聞かれて、もう一度繰り返すほどだ。
 「樺(かんば)事件があってアイゼンハワーの来日を中止したときだね。私が眠れなかったのは、このときと、いま話に出た(新条約調印直後の)『解散』断念の時だ」
     *
 こういうことだ。
 新条約に対して極めて厳しい反発が予想されるからこそ、あえて自ら争点にして国民に信を問う。多数が得られれば、それをテコに国会を正面突破できよう。ところがあろうことか、腹心の川島正次郎幹事長に背かれ勝機は去った。そして、東大生・樺美智子さんを死に至らしめた安保の騒動が現出した……。
 安倍首相はこの祖父の故事を十分に吟味していたらしく、政権発足直後から折にふれて側近や閣僚に語っていた。試みに、証言録にある新条約という言葉を消費増税の先送りとアベノミクスに代えて――あるいは集団的自衛権の行使容認を付け加えてもいい――読み直してみればよい。今日の政局状況にそのままあてはまってしまう。
 違いは今回、9月に石破茂氏から代えた谷垣禎一幹事長が首相の判断を尊重し結束して対応すると言い続けて背かなかった点だが、これは逆に、祖父の失敗から教訓を得たと言うべきなのだろう。
 いや、安倍首相が証言録を深く読み込んだのであれば、今回の決断がさらに重い意味を持つことが自覚されていたはずだ。なぜなら祖父は、解散断念の下りのひとつ前のところでこう回顧しているのだから。
 「私は、いつまで(総理を)やるとか、長期政権を狙うとかいうような考えは初めからなかったですよ。仕事をしたい、つまり安保を何とか解決すること、もう一つは憲法調査会をして『改憲をしなければならない』という結論を出させる、ということでした」
 解散断念により祖父が本当に失ったものは、安保国会の万全の乗り切りとか当面の政権の安定とかでなくて、憲法改正への道筋だった。眠れぬ夜の真相はそれだ。
     *
 ひとつ、想像を加える。
 今回の解散により、次の衆院議員の任期満了は2018年12月になる。そして、安倍首相の任期は、2期6年の自民党総裁任期に照らせば同じ18年の9月である。
 二つの政治日程は、偶然と思えないほど近接している。
 今回の衆院選に勝利すれば、来年9月の総裁再選はおそらく揺るがず、ならば途中で参院選が1回あるものの、安倍首相にとっては、2期6年の長期政権への展望が大きく開けてくる。
 それだけではない。想像をたくましくすれば、それこそ本願の憲法改正を争点にして、任期切れの前にもう一度の解散により信を問う展開さえ、論理的には想定できるではないか。
 したがって、この節目の衆院選の真の争点は、そうした長期戦略を可能にするか否かまで含めた安倍政権そのものの評価であるべきだと思う。解散の大義やアベノミクスも大事な論点ではあろうが、そもそも総選挙の本質と妙味は政権選択にこそある。
 堂々の論戦が首相にとっても本望なはずだ。解散を断念した岸元首相は、反安保のデモを前に「私は声なき声にも耳を傾けなければならない」と語るほかなかった。他方、解散を表明した安倍首相は「成長戦略を国民とともに進めていくためには、どうしても国民の声を聞かなければならないと判断した」と宣言したのである。
 それはその通り。まさに審判は、われわれ有権者が一票に託す声に任されたのである。声なき声は今回、あり得ない。
(編集委員)


今回の総選挙で、「堂々の論戦」なんて、安倍自民は全くしてないじゃないか!! 52%という戦後最低の投票率で、村尾キャスターの常識的レベルのインタビューすら、拒否して国民の見ているテレビでイヤホンを外してしまう狭量で知能の低い安倍晋三に、この朝日の編集委員は「世襲のロマンを感じろ!」と読者に強要しているのだ。朝日新聞に、わずかでも矜持が残っているのであれば、こんな恥ずかしいコラムを書いた編集委員を辞めさせるべきだ。それとも、これからもこの権力のポチを<朝日の顔>ですと掲げ続けるのですか?! それなら朝日新聞の読者の誇りは、間違いなく踏みにじられて失われるだろう。


150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)