12月15日(日):
夢の中で何十年も前に戻って、大学院生のKさんと激しく議論していた。学部生の俺からすれば雲の上の人だが、高層雲ではなく、低層雲で手は届くところにいた人だ。今は某旧帝大の教授となっている。議論というより「俺は何をどうすればよいのか」「どうすれば良かったのか」を激しく訴え、尋ねていたようだ。専門の基本文献の名前も行き交っていた。細かなやり取りの内容は、夢なので思い出せない。俺が今、この世に残せるものはないか、心残りはないか、と焦り始めていることだけはよく分かった。
俺にとって親元を離れた4年間の大学生活は何もわからないうちに、苦しみと後悔ばかり多くして終わった。幸い、専門をある程度活かせる仕事に就くことができて今日に至るが、今の自分の目から見て若い頃の自分に対して、安心しなさい、本をたくさん読みなさい、そしてもっと自由に広い視野を持って挑戦的な勉強をしても良いんだよと助言をしてやりたくて仕方がないことがある。
以前「老いを生きる」というインタビューで
養老孟司が、90歳を過ぎた老人が死に臨んで、「死にたくない」と泣きわめいていた話を例にして、「この人はこんな年になるまで納得のできる生き方をしてこなかったんですね」と、その不覚ぶりを批判していた。そして、「体や頭の動かない老いに直面してからではもう遅い。そうなるまでに自分の人生に納得のできるようにどう生きておくのかが大切なんですね」と言いながら、養老自身は、東大教授職を定年よりも随分早く50代で退官した、と話していたのを思い出した。
目先の生活に追われて、近視眼的に無駄な生き方をしている
。もっと「自分の死」を意識するところから、優先順位を考えて生きなければいけない。たしかに俺は焦っている。何か意味あるものをこの世に残したい。その何かとは、何だろう。焦っていながら、その内容については深く考えられずにきた。
理由の一つは、俺の精神状態があまり良くないために、日々の仕事でのつまらない心労に余裕をなくしていることだろう。
現在の職場は、昔と違って職員の関係が細分化され、目糞鼻糞に無理やり上下を付けて職員の分断がはかられている。一方で、実際に何もやることが無いのにのさばっている補助者の連中がいる。その連中が無神経に幅を利かせて威張っている。「昔は良かった」は禁句だが、そういう職場の嫌な部分に目を向けずにすんだ、またはそういう嫌な部分よりも大きな闘いに目を向けられる元気が自分にあった頃は良かった、とは言えるだろう。
昔、地域の自主的夜間学校に韓国語を教えてもらいに行っていたことがある。市民活動家や学校の先生や韓国からの留学生や一世のハラボジのソンセンニムに教えてもらいながら、アジュマ、アジョシ、ハルモニ、ハラボジが、互いに韓国語を教え合う場に身を置き、共に学ぶ夜間学校がとても居心地が良かったのを思い出す。年齢も、国籍も、職業も、生い立ちも全く異なる人たちが、まったく競争と縁のない形で、「韓国語を学びたい」「韓国語を教えたい」という思いだけで、「みんな頑張って来てるよな!」とお互いを尊敬し合いながら、出入り自由な優しい知的空間を形成していた。自発性に裏付けられたコミューン、「有るのが当然でいて、有ることが奇跡である場所」があったのだ。もう一度、そんな場所と結びつきたいと思う。
次に、やっぱり自分の本を書くことだろうか。先日の夜、俺の嫌いな保守派の百田尚樹氏が講師になって、売れる本を書くためには、「1冊の本を書くために最低200~300冊の本を読まないといけない」と言っていた。正論だろう。でも一方で、そんなにたくさんの本を読む時間は俺にはないし、宮沢賢治や太宰治はそんなにたくさんの本を読むことで名作を書いていたのだろうか、と考えれば、答えは当然否だ。司馬遼太郎気取りの百田氏が言っているのは売文(ばいぶん)としての本だろう。別に俺は売れる本を書きたいわけではない。自分の人生を振り返る本を書きたいとは常々思うのだ。
あと何だろう。俺が死んだあと、家内が寂しい、肩身の狭い思いをしないようにしておくことと、もう少し外国旅行をしたいので体力を維持することだろうか。
※今朝の朝日新聞の百田尚樹氏の「小説家という職業を一口で言うなら」のコメントは、桂枝雀師匠のコメントのほぼ丸真似である。この人は、剽窃癖があるのだろうか。何故ひと言、昔、落語家の桂枝雀師匠が話していたことですがね、と言えないのだろうか…?