もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

160130 【東京社説】高浜原発再稼働 信頼を結べぬままに 【朝日社説】関電高浜原発 なし崩し再稼働に反対だ

2016年01月31日 00時29分09秒 | 考える資料
1月30日(土):

東京新聞【社説】高浜原発再稼働 信頼を結べぬままに 2016年1月30日
  絶対の安全などないという。だとすれば、大切なのは「信頼」だ。その信頼を結べぬままの関西電力高浜原発(福井県)再稼働。何をそんなに急ぐのか。
  何度でも繰り返す。
  原子力規制委員会をはじめ、誰も安全だとは言っていない。安全を保証するものはいない。
  万一の事故が起きても、原状回復はおろか、満足な補償ができる力は国にもない。ほとんど無責任体制のまま、立地する自治体だけの同意を免罪符のようにして、原発が再稼働されていく。
  これではまるで、無保険の自動車が人混みの中を高速で突っ走るようなものではないか。


◆お隣さんは口出すな
  あれから間もなく五年になる。福島の尊い教訓が、あまりにも軽視されてはいないだろうか。
  今月二十五日、滋賀県と関電の間で、高浜原発に関する安全協定が締結された。
  滋賀県は、原発が集中立地する福井県に隣接し、高浜原発の三十キロ圏内に一部が入る。
  福島の事故のあと、原発三十キロ圏内には避難計画の策定が義務付けられた。それほど危険な所にあるということだ。
  滋賀県の嘉田由紀子前知事は3・11後、原発事故の被害を受ける地域は原発の地元であるという「被害地元」という考え方を提唱した。
  ところが、結ばれた協定の中身は、異常時の通報や、核燃料や放射性廃棄物輸送の際の連絡義務が中心で、原発再稼働の事前協議に加わる「同意権」は含まれない
  新増設など重要な変更を事前に説明する義務もない。
  三十キロ圏内にかかる高島市なども、当事者扱いされてはおらず、通報内容などをその都度県に聞くしかない。

◆ちゃんと避難できるのか
  「安全」とは名ばかりの形式的な“通過儀礼”にとどまった。
  京都府は滋賀県より一足早く、昨年二月、同様の協定を結んだが、全国でただ一つ、原発から県境を越えた五キロ圏内、最短三キロという舞鶴市さえ、再稼働に関しては、沈黙を強いられる
  高浜原発で重大事故が起きた場合の住民避難計画は昨年末、政府に了承されている。
  高浜原発では今月十一日から三日間、関電社員らが重大事故を想定した対応訓練を実施した。しかし、住民参加の広域的な避難訓練をしないまま、原子炉が起動する。順序が違う。ぶっつけ本番でうまくいくとは思えない。
  たとえば、京都市では六万五千人を受け入れる。府内では二千台以上のバスが必要になる。混乱は必至である。そもそもバスが確保できるのか。
  はじめに再稼働ありき。政府も含め、ハードルを可能な限り下げたうえでの再稼働なのである。
  福島では、福島第一原発から三十キロを超える飯舘村の一部が、いまだ帰還困難区域のままだ。
  事故発生直後には、屋内退避の指示が出た二十~三十キロ圏の病院の入院患者や福祉施設の入所者の移送の際に死者が出た。容体が重くて動かせず、圏内に取り残された患者も多かった。
  原発事故の被害は広域に及ぶ-。私たちは十分思い知らされたはずである。若狭の“原発銀座”で重大事故が発生すれば、日本海の強風にあおられて、その影響は福島以上に遠く、広く、拡散する恐れがあるという。
  被害地元の声に耳をふさぐということは、福島の教訓を踏みにじることにならないか。
  そして安全神話が復活し、悲劇を再び招く恐れが増さないか。
  “無責任”あるいは“先送り”は、ほかにもある。
  使用済み核燃料を保管する高浜原発の燃料プールは、すでに約七割が埋まっている。
  最終処分場選定のめどは立っていない。
  関電は二〇三〇年に、福井県外で中間貯蔵施設を稼働させると言っている。
  しかし、本紙の全国調査では、中間貯蔵施設の受け入れを前向きに検討すると答えた知事は一人もいない。やがてあふれ出す核のごみをどうするか。

◆安全はまた二の次か
  高浜原発3号機では、核兵器に転用可能なプルトニウムを核廃棄物から取り出して使うプルサーマル発電を実施する。
  リサイクル計画が頓挫する中、すでにあるプルトニウムを減らすところを米国に示したいという国の事情もある。
  プルサーマル発電では、原子炉を停止させる制御棒が効きにくくなるという。安全性の検討が尽くされているとは言い難い。
  何度でも繰り返す。
  電力会社の台所事情と政府の思惑が最優先の再稼働。住民にとっては「危険」と言うしかない。


朝日の最後の2行は腰の引けた”逃げ”で、すべて台無しだが、問題点の備忘のために掲載する。朝日はダメだ。
朝日デジタル(社説)関電高浜原発 なし崩し再稼働に反対だ  2016年1月28日05時00分
   関西電力高浜原発3号機(福井県高浜町)が29日にも再稼働する。新規制基準の下では、昨年の九州電力川内原発1、2号機(鹿児島県)に続く。
  東京電力福島第一原発事故から今年3月で5年たつ。
  電力各社は全国43基の原発のうち25基と、建設中の1基について、基準適合審査を原子力規制委員会に申請した。川内、高浜に続き、四国電力伊方原発3号機(愛媛県)も、次の再稼働が見込まれている。
  事故の教訓がなおざりにされたまま、原発がなし崩しに動き出していく現状に強い危機感を抱く。高浜原発の再稼働に改めて反対を表明する。

 ■安全ないがしろに
  朝日新聞は11年7月の社説で「原発ゼロ社会」への政策転換を呼びかけた。
  事故前、日本は電力の3割近くを原発に頼っていた。原発を直ちにゼロにすれば、電力不足や電気料金の高騰で国民生活に深刻な影響が出ることが懸念されていた。
  日本は原発依存から脱し、再生可能エネルギー中心の社会を目指すべきで、それまでの原発の再稼働は安全が確保され、需給面で必要な場合に限ることを条件とした。
  高浜原発の再稼働にまず指摘したいのは、「安全第一」がないがしろにされていることだ。
  福島で私たちは「想定を超える事故は起きうる」という重い教訓を学んだ。
  福井県の若狭湾周辺には、廃炉中を含めて15基の原子炉がある。世界屈指の集中立地地域だ。災害などで複数の原発が同時に事故を起こせばどうなるのか。福島の事故が突き付けたこの疑問に、答えは示されていない。規制委の審査でも、ほとんど検討されなかった。
  福井に11基の原発を持つ関電は昨年、規模が小さく古い2基の廃炉を決めたものの、3基は運転開始から40年を超えて使い続ける方針を決めた。
  リスクを最小化する努力が不十分と言わざるを得ない。
  高浜は、ウランとプルトニウムを混ぜたMOX燃料を燃やすプルサーマル発電だ。安全性への住民の不安がより強いことも、忘れてはならない。

 ■住民守る「壁」薄く
  事故が起きた時の「最後の壁」である住民の避難計画も心もとない状況だ。
  高浜原発は避難計画の策定が義務づけられた半径30キロ圏に福井、京都、滋賀の3府県12市町が入り、17万9千人が暮らす。
  国の原子力防災会議は昨年末に、各府県がまとめた広域避難計画を了承した。30キロ圏の住民は最悪の場合、福井、兵庫、京都、徳島の4府県56市町へ避難することになる。ところが朝日新聞の調べでは、住民の受け入れ計画をつくったのは56市町のうち7市だけだ。大半の自治体が「施設や人員、物資を確保できるか」「放射性物質に汚染された車が入ってこないか」といった不安があると答えた。
  事故以前、日本には10キロ以遠の住民が避難する想定もなかったのだから、不安は当然だ。
  避難計画を実のあるものにするには訓練や検証を重ねるしかない。それなのに高浜は計画に基づく訓練が未実施だ。計画の実効性が確認されないまま、再稼働することを強く懸念する。
  30キロ圏の多くの自治体が住民の不安を受け、再稼働前の「同意権」を関電に求めた。だが関電は拒み、国も、立地自治体の同意さえあればいい、との姿勢を崩さない。
  これらの課題を置き去りにしたままの再稼働は、「見切り発車」というほかない。

 ■脱却への道筋議論を
  電力各社は原発再稼働を目指す理由として、需給面の不安や燃料費増大に伴う電気料金値上げの問題を強調してきた。
  事故5年を前に、状況は明らかに変わってきている。
  昨夏までほぼ2年間、原発はすべて止まったが、電力不足は起きなかった。火力発電所の点検を先延ばしするといった各社のやりくりに加え、節電意識の広がりも大きい。関電を例にとれば、販売電力量は事故前に比べ、10%程度減っている。
  電力自由化で、家庭も4月から電気の購入先を選べるようになる。電気を賢く使おうとする利用者の意識は、さらに強まるだろう。原発停止の負の影響とされた貿易赤字も、原油安で燃料費が下がり、縮小傾向だ。
  関電は「高浜原発が動けば料金を値下げできる」というが、再稼働の理由としてどれだけ説得力を持つだろうか。
  原発内のプールにたまっている使用済み核燃料をどこで中間貯蔵するかという難題もある。
  福井県の原発をめぐっては、再稼働を強く求める立地地域と、総じて慎重な消費地・関西との温度差も浮かび上がった。
  原発を長年引き受けてきた地域の理解なしに、脱原発社会への展望は開けない。国はもちろん、消費地も協力し、ともに未来図を考えていく必要がある。

160130 東京新聞:「負けずに生きた人の証しを」 ハンセン病の歴史継承進める宮崎駿さん

2016年01月31日 00時13分27秒 | 日記
1月30日(土):

アシタカの受けた呪いのあざもハンセン病からの着想だったとは、初めて知った。

東京新聞「負けずに生きた人の証しを」 ハンセン病の歴史継承進める宮崎駿さん 2016年1月30日 夕刊

元患者の佐川修さん(左)、平沢保治さん(右)とハンセン病の歴史を語る宮崎駿さん=東京都港区で(川上智世撮影)

  全国のハンセン病療養所で入所者の高齢化が進む中、差別に遭いながら強く生きてきた元患者らの証しを残そうとする動きが広がっている。三十一日の「世界ハンセン病の日」を前に、国立療養所多磨全生園(たまぜんしょうえん)(東京都東村山市)と交流のある映画監督の宮崎駿さん(75)がハンセン病の歴史の継承を考えるイベントで講演し、「生きる苦しさと、負けずに生きた人の記念碑をずっと残したい」と保存活動にエールを送った。 (石原真樹、谷岡聖史)
  宮崎さんは二十八日に港区で開かれた「ハンセン病の歴史を語る 人類遺産世界会議」に登壇した。
  全生園の近くに住み、たびたび園や隣接する国立ハンセン病資料館に足を運んできた宮崎さん。園は入所者が育てた三万本の木や納骨堂などの史跡、資料館について、人権を学ぶ場として永久保存を目指す「人権の森構想」を進めており、宮崎さんはその発案者。老朽化した寮舎の再現のために寄付も行ってきた。
  故郷に戻れなかった入所者の遺骨約二千六百五十柱が納められた納骨堂にも繰り返し訪れ、いつしか「両親や友人、恩義がある人のことも合わせて拝む」かけがえのない場所になった。
  初めて訪れたのは二十数年前、代表作「もののけ姫」(一九九七年公開)の構想中に行き詰まり、ノートを手に歩き回るうちにたどり着いた。入所者が植えた桜の巨木の生々しさに圧倒されて、その日は帰宅。後日あらためて資料館を訪問すると、療養所内で使われていた専用通貨などの展示品に衝撃を受けた。
  以来通う度に「おろそかに生きてはいけない。作品をどう作るか正面からきちんとやらなければ」と痛感したという。「無難にせず、『業病(ごうびょう)』と言われたものを患いながらも、ちゃんと生きた人をきちんと描かなくては」と決意し、ハンセン病患者を思わせる人たちを「もののけ姫」に描き込んだ。
  主人公の少年アシタカが受けたのろいのあざもハンセン病から着想を得たと明かし、「あざはコントロールできない力とむしばんでいくもの、両方を持つ。そういう不合理な運命を主人公に与えた。それはハンセン病と同じ」と言及。
「反応が怖く覚悟が必要だったが、(元患者の)みなさんが喜んでくれて肩の荷が下りた」と語った。
  宮崎さんの講演は、全生園の入所者で資料館で語り部をする元患者の佐川修さん(84)と平沢保治さん(88)の呼び掛けで実現した。佐川さんらは「ハンセン病患者は、国の強制隔離や社会の偏見で故郷や肉親を奪われながら、強く生きてきた。人権を尊重する大切さを伝えるため、自分たちがいなくなってからもこの場所を残せるように取り組みを進めていきたい」と話している。

<ハンセン病> 細菌の一種、らい菌による感染症。感染力は弱く、国内では現在新規の患者はほとんどいない。国は1907年に「らい予防法」の前身となる法律を定め、患者を全国の療養所に強制隔離する政策を取った。同法は96年に廃止されたが差別や偏見から社会復帰できない人も多く、元患者(2015年5月1日現在1725人)が全国14カ所の療養所で暮らす。平均年齢は83・9歳(同)。多磨全生園の入所者は今年1月29日現在で195人。
<もののけ姫> タタリ神ののろいをかけられた少年アシタカが、製鉄集落の人間にすみかを奪われた神々と人間との戦いに関わる中で、犬神に育てられた少女サンと出会い、自然と人間の共存を模索する物語。集落の奥で働きながら生きる全身包帯の人たちはハンセン病患者がモデル。


160130 高橋源一郎:SMAPの謝罪 暗黙のルールが潜む社会/難民から考える 「境界」とその先を見つめて

2016年01月30日 23時45分13秒 | 考える資料
1月30日(土):

朝日デジタル(論壇時評)SMAPの謝罪 暗黙のルールが潜む社会 作家・高橋源一郎  2016年1月28日05時00分
  SMAPという「国民的」アイドルグループが、所属する事務所からの独立をめぐる大きなスキャンダルに巻きこまれ、テレビで「謝罪」をすることになった。その画面〈1〉をわたしは見た。
  沈鬱(ちんうつ)な表情の5人が並んで立ち、思い思いに、ときに口ごもりながら、「謝罪」のことばを述べた。いったい、彼らは、なんのためにそこにいて、誰に、どんな理由でそのことばを口にしているのか。どれもよくわからないことばかりだった。同時に、これは、わたしたちがよく見る光景であるようにも思えた。
  この「事件」に関して、即座に、おびただしい意見が現れた。たとえば。
  「SMAPの解散は昨夜までしょうもないゴシップだったのに、昨夜の会見を境に雇用者の圧力で被雇用者の意思が曲げられるとか、批判検証をしないマスコミとか、個人を犠牲にして感動を消費する社会とか、日本が抱える複数の問題がクローズアップされて一気に社会問題へランクアップしてしもうた」〈2〉
  ツイッター上に現れた、この呟(つぶや)きは、多くの共感を呼んだが、それほどに、人びとの関心は深かったのだ。
     *
  米ロサンゼルス在住の映画ジャーナリスト猿渡由紀は「こんな騒動は、アメリカでは絶対に起こり得ない」と書いた〈3〉。それは、「人気グループの解散も、タレント事務所の移籍も、本人たちがしたいならするだけのことで、当たり前に起こる」からだ。
  「日本の芸能界がサラリーマン式なら、ハリウッドは完全なる自営業式。タレントは、自分のキャリアを自分でコントロールし、その代わり、責任も、全部自分で持つのだ
  「アクターズ・スタジオ・インタビュー」は、アメリカの人気テレビドキュメンタリー番組でDVDにもなった〈4〉。名優を輩出する演劇学校へ赴いたスターたちが、そこの学生たちの前でインタビューを受ける。ポール・ニューマン、ロバート・デニーロ、メリル・ストリープ、等々。彼らの、ことばの多彩さと表現の巧みさに、いや、単なる俳優のことばを超えて、ひとりの生身の人間の人生の重みを伝えることばを持つことに、いつも驚かされた。それは、「自分のキャリアを自分でコントロール」し「責任も、全部自分で持つ」ことから生まれるものなのだろうか。
  神林龍は「解雇」をめぐる西洋と日本の違いについて、こんなことを語っている〈5〉。欧州では、「解雇」というものは「ソーシャル」なものと考えられている。つまり、「社会」に認められたルールに反してはいけないのだ。そして、その、認められたルールの下では、極端なことをいえば、「解雇」は「犯罪に近い行為とみなされる」のである。
  それに対して、「日本では解雇も基本的にプライベートな問題とされます。双方が和解したのなら問題がなかったことになってしまう世界」であり「こうなると第三者は何が起きたのかも分からず、その解雇がどのような規範に基づいてなされたのかを客観的に判断することが困難」になるのである。
  その上で、神林は、他の会社で起こった解雇であっても、自分たちとつながった同じ社会の問題、と考える欧州に比べ、しょせん他人事(ひとごと)と考えるわたしたちの国では、組合活動が沈滞するのも無理はない、とした。
      *
  SMAPの「謝罪」会見を見て、どこか同じ境遇を感じた会社員は多かった。華やかな世界に生きる彼らも、実は「事務所」という「組織」が決めた暗黙のルールに従わざるをえない「組織の中の人」だったのだ。
  雑誌「SWITCH」で藤原新也が、現代の若者たちの写真を撮り、インタビューをしている〈6〉。見応えも、読み応えもある特集だったが、とりわけ、福田和香子のものに、わたしは惹(ひ)かれた。
  「周りの友達と上手(うま)く馴染(なじ)むこともできないし、無理して合わせるのも変だよなと感じて」いた福田に、事件が起きる。「中学の家庭科の先生が『君が代』不起立をやって」左遷されたのである。その処分の後、校門の前に立ってひとりで抗議をしていた先生に「頑張ってね、応援してるよ」と声をかけられなかった福田は、その悔いを残したまま、やがて国会前のデモに行くようになる。けれども、そんな彼女の周囲にいた、以前からの友人たちは、離れていった〈7〉。
  それもまた、「謝罪」のために立ち尽くすアイドルグループのように、わたしたちにとって馴染み深い風景なのかもしれない。どちらも、この社会が隠し持っている暗黙のルールに違反したから起こったことなのだ。
  自分の「正義」に疑いを抱きながら、それでも、「危ういバランス感覚」で活動をつづける自分について、福田はこういっている。
  「下手に正義を掲げて突っ走ってしまったら、すごく偏った人間になってしまうから。半分靴紐(くつひも)がほどけていて、全力では走れなくてダラダラ歩いているぐらいのほうがいいのかなとも思う」
  自分の足元を見つめること。そして、それがどれほど脆弱(ぜいじゃく)な基盤の上に置かれているかを知ること。それでも自分の足で歩こうとすること。そんな場所から生まれることばを、わたしたちは必要としている。「組織」や「社会」にしゃべらされることばではなく、「自分の」ことばを。
     *
〈1〉SMAPの謝罪
〈2〉「こなたま(CV:渡辺久美子)」のツイートから
〈3〉猿渡由紀「『SMAP騒動』は起こらない」(ネット投稿、24日、http://bylines.news.yahoo.co.jp/saruwatariyuki/20160124-00053732/別ウインドウで開きます)
〈4〉アクターズ・スタジオ・インタビュー(日本版DVDは「アクターズ・スタジオ」)
〈5〉神林龍「西洋解雇規制事情」(POSSE29号)
〈6〉「特集:写真家の現在 藤原新也」(SWITCH・34巻2号)
〈7〉大学生・福田和香子と藤原新也の対談(同上)

     ◇

朝日デジタル(論壇時評)難民から考える 「境界」とその先を見つめて 作家・高橋源一郎  2015年12月24日05時00分
  「LIVE! LOVE! SING!」という映画を観(み)た〈1〉。今年の3・11前日テレビで放映され、それを再編集したものだ。ヒロインは福島で被災しいまは神戸の女子高に通う女の子。彼女のところに、故郷に留(とど)まる同級生から、小学校の校庭に埋めたタイムカプセルを掘り起こしにいこうという手紙が届く。そこは原発事故の影響でいまも立ち入り制限地区だ。けれども、彼女は友だちを誘い、失われた町へ出かける
  故郷を失い、さまよい続ける彼女も「難民」のひとりと呼んでいいだろう。世界にはいま「難民」があふれ、彼らの受け入れをめぐって世界は厳しい分裂に直面している。そして、わたしたちの国は「難民」に冷たいという。だが、「外」だけではなく、わたしたちの中にも「難民」はいる、とこの映画は教えてくれるのである。
  観る者の心を烈(はげ)しく揺すぶるシーンが、映画の終わり近くやって来る。誰もいないはずの町に人びとが戻り、「祭り」を繰り広げ、こんな風に歌う。
  「3・11はなかったつもり、地震も津波もないつもり、日本はひとつであるつもり……」
  「難民」であるが故に気づくこと、それは何か。その問いが、自分は永遠に「難民」とは無関係だと思いこんでいる観客の胸に突き刺さるように思えた。
  日本語で小説を書くアメリカ人作家リービ英雄が、ドイツ在住で日独2カ国語で作品を書く日本人作家・多和田葉子とウィーンで対談をした〈2〉。テーマは「難民」や「移民」だ。
  ひとりの人間が別の国に行き、暮らす。そのために、別の言語を覚える。それはとても難しい。「難民」や「移民」は、懸命に、別の言語や文化を覚えねばならない人びとである。そういう人びとを、迎え入れる側の国の人びとは、たいへんだ可哀(かわい)そうだ、と思ったり、逆に、厄介だ迷惑だ、と排斥したりする。
  けれども、作家であるふたりは、とりわけ、「母語」ではなく、「外国語」で書くことを選んだ作家であるふたりは、そのどちらの考えにも与(くみ)しない。
  リービは「日本の国内から」は「外国人に日本語が書けるはずがない」という反応を、「逆に、アメリカの中で」は「なぜそのような周縁の国の言葉に魅(ひ)かれるのかと、ほとんど軽蔑のようなメッセージ」を受けた経験を語っている。
  もっとも自由な存在であるはずの「文学」でさえ、「国語」や「国家」という規範から自由になることはできないのか。だが、リービはいう。
  「僕は移民であることは、じつは、その国の人間になりきれないところに価値があるのではないかと考えます」
  それに対し、多和田はこういう。
  「わたしはドイツで幸せに生活していますが、文化に対する違和感は消えません。違和感を幸せととらえる感覚の持ち主だから幸せなのかもしれませんが
  実際に「難民」や「移民」が直面するのは過酷な現実だ。それにもかかわらず、彼らは単に「憐(あわ)れむべき存在」なのではない。そしてそのことに、歓迎する者も排斥する者も気づいていないのだ。彼らが内に秘めている豊かな「可能性」には。
    *
  安田峰俊は、難民、無国籍者、少数民族、暮らしていた国家が滅びた遺民、等々、「相対的に見て少数者」であり「多数者から利用されたり翻弄(ほんろう)されたり、都合のいい誤解や思い入れを一方的に押し付けられ」、国家と国家のすきまで暮らす人びとを「境界の民」と呼んだ〈3〉。
  知られていないことだが、日本には多くのベトナム難民が定住していて、関係者を含めると、在日ベトナム人は数万にのぼる、と考えられている。わたしたちのすぐそばに「難民」はいるのだ。
  あるとき、安田は、こんな光景にぶつかる。ベトナム難民の娘がベトナムに留学したいといったとき、なぜ彼女の両親は喜んだのか、とあるイベントで日本人の女子大生が訊(たず)ねた。彼らは、強権的な政治体制から逃れただけで、故郷である「くに」を嫌ったわけではない。安田は、なぜ、そんな簡単なことも、その女子大生は気づかないのか、と感じる。そして、こう思うのである。
  「『仮に自分が亡命者の立場なら?』という、それだけの想像をしてみることが、大多数の日本人にはとても難しい
    *
  わたしの大学には、韓国や中国からの留学生も多い。彼らに文章を書いてもらう。日本語で。もちろん、日本人学生のそれに比べ、多くは、ずっと稚拙だ。けれども、二つの世界(言語)を生きねばならない彼らの文章には、日本人学生のものにはない、なにかがある。そんな文章を朗読する。すると、日本人学生たちに、緊張が生まれる。「気づき」が生まれる。自分たちが、小さな世界、偏見の中で生きていることに気づくのである。その瞬間が、わたしは好きだ。
  音楽雑誌「ミュージック・マガジン」で高橋健太郎が、「SEALDs」の「コール」について、政治的にではなく、詳細に音楽的分析をしている〈4〉。高橋は、政治スローガンに過ぎなかったシュプレヒコールが、この夏、複雑なリズムの洗練の末に、新しい意味を持つに至った、その過程を追いかけた。古い政治のことばだった「コール」が、音楽の世界との「境界」で揺さぶられ、新しい意味を持つようになった。新しいことばは「境界」で生まれるのである。確かにそこは過酷な場所ではあるのだけれど。
    *
〈1〉映画「LIVE! LOVE! SING!~生きて愛して歌うこと 劇場版」(監督・井上剛、来年1月公開)
〈2〉リービ英雄・多和田葉子の対談「危機の時代と『言葉の病』」(世界1月号)
〈3〉安田峰俊『境界の民』(角川書店、今年2月刊)
〈4〉高橋健太郎「音楽的な感覚が吹き込まれた『コールを作る』という文化が、僕の心を躍らせる」(ミュージック・マガジン12月号)
    ◇
 たかはし・げんいちろう 1951年生まれ。明治学院大学教授。4年分の「論壇時評」計48本をまとめた著書『ぼくらの民主主義なんだぜ』が好評発売中。

160129 映画『阪急電車 片道15分の奇跡』(2011) 感想4+

2016年01月30日 03時35分40秒 | 映画・映像
1月29日(金):    

2度目だが、良い作品だ。作業しながらの横眼で眺め鑑賞だが、観終わった後の後味がよく、心が温かくなった。いい映画だと思う。キャストはほぼ完ぺきだ。脚本もとてもよくできている。

160129 一年前:150128時論公論でNHK解説委員の<ゲッベルス島田>はさすがだ。見え見えの権力すり寄り!

2016年01月29日 21時54分30秒 | 一年前
150128 時論公論でNHK解説委員の<ゲッベルス島田>はさすがだ。期待を裏切らない見え見えの権力すり寄り!
1月28日(水):書く気無かったけど、あまりに露骨な「時論公論」の視聴者を舐め切った解説を聞いていて備忘のためにも記しておく。 ↓安倍晋三の鮨友だち↓ 安倍の鮨友だちのN...


160129 民主党の自己陶酔ポスターの醜悪。室井佑月「とにかく、民主党の岡田代表にはがっかりだ」

2016年01月29日 21時06分34秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
1月29日(金):   
「民主党は嫌いだけど、民主主義は守りたい。そんなあなたへ。すぐに信じなくてもいい。野党として、止める役割をやらせてください。 民主党」この惨めったらしさはなんなんだ。AKB前田敦子の焼き直しにしか見えない。これを作っている人間の自己陶酔の醜さはもはや救いようがない。知的レベルを疑はざるを得ない!民主党は本当に発狂したのか?!こんな醜悪なポスターを作る暇があれば、戦争法を廃止する、立憲主義を回復する、そのために共産党と協力体制を築き、有権者にしっかりとした選択肢を提供することが先決だろう。それをせず、ピント外れなお涙頂戴の駄弁を弄するとは、もはやあきれ果てて、見下げ果てて、こんな野党第一党しか持てない俺自身が惨めになる。救いがたい醜さの自己陶酔ポスターに絶望を覚える。民主党は何もわかっていない!この汚らしいポスターを早く撤回・回収して、早急にやるべき野党共闘を実現しろ!バカ野郎!

〈週刊朝日〉室井佑月「とにかく、民主党の岡田代表にはがっかりだ」 2016年2月5日号
 民主党の岡田克也代表が、共産党に夏の参院選での“自主的降板”を促した。野党としてまとまろうとしない岡田代表に作家の室井佑月氏は呆れる。
*  *  *
  1月16日付の産経新聞によると、
  「民主党の岡田克也代表は15日、夏の参院選1人区の協力に関する共産党との協議について『現時点では特にない』と述べ、自らは協議を呼び掛けない考えを示した」
  そう都内で記者団に語ったらしい。ほんとかよ。
  「岡田氏は15日、BS朝日番組の収録でも『共産党が候補を出せば自民党を利する。野党が複数立てるのは愚策だ』と“自主的降板”を迫った。その上で『(野党統一)候補が共産党の支持を受けた結果、票を減らす可能性もある』と言い切り、『共産アレルギー』を隠そうとさえしなかった」
  とも書かれていた。証拠の残るテレビでもしゃべっているから、ほんとだわ。
  自民党じゃなく、なぜ共産党と戦おうとしている?「共産党が候補を出せば自民党を利する」って、それってあっち側がよく使ういいまわしじゃん。
  イスラム国(IS)の人質事件の時、「今安倍政権を批判するのは、ISを利するだけ」とかさ。テロが怖いっていっただけで、「テロに怯えることはISを利するだけ」と、ある著名人にいわれたっけ。
  安保法案に反対したときもそう。「そういう発言は、中国を利するだけ」だとか。
  なんでそうなる? ISと戦う有志連合に積極的にかかわることも、集団的自衛権を行使可能にすることも、いいことだけじゃない、デメリットの話もないと変でしょう?
  つまり、判断材料をもっとくれといってる。が、「……を利するだけ」という言葉に潰される。
  とにかく、民主党の岡田代表にはがっかりだ。
  戦争法を廃止する立憲主義を回復する、その2点の共通した意思で、安倍政権を倒そうとする野党がまとまるのはそんなに難しいことなのか?
  今後の選挙で、国民が示してほしいのは、そういったわかりやすい構図だ。
  岡田さんは共産党と組むと、民主党支持者で共産党が嫌いな人が離れると思っているみたいだが、民主党支持者で共産党が嫌いな人は何%くらいいる? そして、共産党とは絶対に組めないといっている議員は何人いる? そもそも現在、民主党の支持率は、自民党の支持率と比較にならない。多数を占める無党派層から票を集めることを考えなきゃ、絶対に勝てないっつーの。
  どうせなら、党内で公開討論会を開いてよ。戦争法廃止、立憲主義の回復、安倍政権打倒、多くの国民が望むそれらのことより、共産党が嫌いだからと瑣末なことをいっている議員の顔を見てみたい。

  それはいち有権者として、選挙のときの判断材料になる。
  あーあ、最大野党の党首である岡田さんがこんなんじゃ、恐ろしく強い安倍政権を倒すなんて、なんだか夜見る夢のような話の気がしてきたわ。そう感じ、振り上げた拳を下ろす人もいるんじゃないか。

160125 一年前:150125東京新聞を読むと、安倍晋三という存在が、本当に<ひどすぎる冗談(戯画)>に思えて

2016年01月25日 22時17分30秒 | 一年前
150125 東京新聞1月22日版を読むと、安倍晋三という存在が、本当に<ひどすぎる冗談(戯画)>に思えて来た
1月25日(日):※それにしても、さらに下の記事を読むと、なにかこう安倍晋三という存在が、本当に「最悪の悪夢」「ひどすぎる冗談(戯画)」に思えて来た。いくら頑張って選び抜いても...

160125 一年前:150125安倍自民の反知性主義は、国際社会では通じない。格差と棄民を生み、戦争を招き寄せ

2016年01月25日 22時14分07秒 | 一年前
150125 安倍自民の反知性主義は、国際社会では通じない。格差と棄民を生み、戦争を招き寄せる。
1月25日(日):後藤健二さんは手錠され鎖でつながれており、持っている紙の中には湯川遥菜さんの写真2枚が掲載されています。/左側には、首を切断され体の上に頭部を乗せられた状態の...

160122 59万PV超:タイトル下の言葉を変更しました。

2016年01月23日 15時32分30秒 | 閲覧数 記録
1月22日(金): 記録ですm(_ _)m。ブログの開設から1567日。

アクセス:閲覧 998PV/訪問者 169IP

トータル:閲覧 590,580PV/訪問者 169,707IP

ランキング:5,146位 / 2,374,507ブログ中 週別 5,361位

タイトル下の言葉を変更しました。これまでの
「菫程な小さき人に生れたし 漱石
 愛国主義は悪党の最後の隠れ家である」
から、
「年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる」(中井久夫)に変えました。
出典は、鷲田清一「折々の言葉」(2015/6/8)「若いころはいつ何をしたかを年代で覚えている。歳がゆくと、年代は正確に言えなくても出来事の順番はまちがえない。そして最晩年はほとんどの記憶が絵のように同じ平面に並ぶようになる。なんとも豪奢なことではないか。精神科医が、イギリスの作家E・M・フォースターの述懐から着想したことば。「徴候・記憶・外傷」から。

2016.1.20.Wed.

160122 朝日デジタル:(天声人語)民主党は「立憲民主党」と党名を改めてはどうか。首相の立憲主義観は?

2016年01月23日 01時10分02秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
1月22日(金):
朝日デジタル(天声人語)首相の立憲主義観は? 2016年1月22日05時00分
 民主党は「立憲民主党」と党名を改めてはどうか。評論家の佐高信さんが提案した。戦後、立憲を名乗る政党はなかったからと同調する声が出た。19日、「立憲政治を取り戻す国民運動委員会」設立の記者会見でのことだ▼委員会は小林節・慶応大名誉教授が呼びかけ、憲法学者の樋口陽一・東大名誉教授や俳優の宝田明さんらが名を連ねる。安倍政権が成立させた安保法制は違憲だとする立場から、立憲主義の大切さを発信していくという▼なぜ大切か。民主主義という仕組みは必要不可欠だが、十分ではない。歴史上、民主的に選ばれた政権が専制的な政治を始めた例は多い。人権の抑圧のように、時の多数派であっても決してしてはならないことを憲法で決めておき、民主主義の暴走を防ぐのが立憲主義だからだ▼委員会はまさに「立憲主義の否定、民主主義の暴走」と、安保法制を断じる。立憲主義を傷つけたと政権を批判する民主党に、佐高さんらが「立憲」を名乗るよう勧めるのは筋が通っている。党内にも昨年来、同様の声を上げる議員はいる。反応は出るか▼一方の安倍首相は昨日、改憲についてさらに踏み込み、「新たな現実的な段階に移ってきた」と述べた。そうは思えない。立憲主義とは何か。全ての前提となる議論が尽くされていないからである▼立憲主義は絶対王制時代の考え方だと首相は語ったことがある。そうした理解でいいか。首相の立憲主義観を重ねて聞く必要がある。詰めた論戦を野党に求めたい。


160121 朝日デジタル:(インタビュー)時流に抗う 作家・辺見庸さん

2016年01月21日 23時04分03秒 | 考える資料
1月21日(木):
朝日デジタル(インタビュー)時流に抗う 作家・辺見庸さん  2016年1月21日05時00分

写真・図版
「テクノロジーは後退できないが、政治は退歩することがある。いま、その最中では」=東京都内、堀英治撮影

 彼らは本気だ。安倍晋三首相は、夏の参院選で改憲勢力による「3分の2」の議席を目指すという。一方で、国会前を埋めたあの夏の熱気はいまも残っているのだろうか。岐路となりそうな2016年を私たち一人ひとりは、どう生きるべきか。権力と個人の関係を問い続ける作家、辺見庸さんに聞いた。

 ――夏には参院選ですね。改憲が争点になりそうです。
 「まったく関心がないといったらうそになるけど、どちらかというと悲観的ですね」

 ――と、言いますと?
 「仮に安倍政権に退陣してもらったとしても、そのあとに何かが良くなるというのが見えません。安保法制で次のレールは敷かれてしまった。描いているのは、憲法をもっと融通無碍(ゆうずうむげ)なものにする緊急事態条項ですよね」

 ――大規模災害などに備えるための条項だとしても要らないものでしょうか。
 「ひょっとしたら、いまは安倍政権の退陣を求めているような勢力さえも、そういうレトリックに乗ってしまうんじゃないでしょうか。例えば尖閣諸島、あるいは北朝鮮をめぐる動きしだいでね。全体として翼賛化していくかもしれないと見ています」

 「ぼくは、未来を考えるときは過去に事例を探すんです。むしろ過去のほうに未来があって、未来に過去がある。そういうひっくり返った発想をしてしまう。いまの局面をなぞらえるとしたら、すべてが翼賛化していった1930年代じゃないですか? 南京大虐殺が起きた37年前後のことを調べて、つくづく思いました。人はこうもいとも簡単に考えを変えるのか、こうもいとも簡単に動員されるのか、こうもいとも簡単に戦争は起こるのか――と。現時点で、もう37年と同じような状況に入っているのかもしれません」

 「戦争法(安保法)なんて、突然降ってわいたみたいに思われるけど、長い時間をかけて熟成されたものですよね。A級戦犯容疑の岸信介を祖父に持つ安倍(首相)は、昭和史をいわば身体に刻み込んだ右派政治家として育ってきたわけでしょ。良かれあしかれ、真剣さが違いますよ。死に物狂いでやってきたと言っていい。何というのか、気合の入り方が尋常じゃない。それに対して、野党には『死ぬ覚悟』なんかないですよ。これからもそうでしょう。だから、やすやすとすべてが通っていくに違いない。むっとされるかもしれないけれども、国会前のデモにしても『冗談じゃない、あんなもんかよ』という気がしますね」
     ■     ■
 ――とはいえ、国民の声の大きさは、あなどれないのでは?
 「安保法制なんて、周辺事態法を成立させてしまった1999年から決まりきったことじゃないですか。日本が攻撃を直接受けていなくても、『有事』には米軍に物資輸送などの支援を可能にする法律です。あのときはいまの何倍も『これはやばいな』と焦りました。ぼくらが常識として持っていた戦後の民主主義、あるいは平和的な時間の連続といったものに、はっきりと割れ目が入った。この割れ目は広がるに違いないと直感しました。その後は、もう既定の事実です」

 ――SEALDs(シールズ)のような若者の行動は新鮮に映りましたが。
 「若い人たちが危機感を持つのは理解できます。ただ、あれは『現象』だとは思うけど、ムーブメント(運動)とは考えてません。まだスローガンみたいな言葉しか言えてないじゃないですか。ぼくはそこに何も新しいものを感じない。もっと迂遠(うえん)で深い思想というか、内面の深いところをえぐるような言葉が必要だと思います」

 「例えば米国や欧州でのサミット(主要国首脳会議)に反対するデモは、資本主義のあり方そのものに反対している。あまりにもむき出しで、びっくりしちゃうんですけどね。日本とは『怒りの強度』が全然違う。なぜ、国会前デモのあとに行儀良く道路の掃除なんかできるんでしょうかね」

 「安倍政権が現状をこれ以上悪くすることへの反発というのはあるでしょう。しかしどこか日本的で、むしろ現状維持を願っているような感じがしますね。例えば、日々食うにも困るような最底辺層の怒りや悲しみを担ってるわけじゃない。なかにはそういう人もいるでしょうけど、全体としては『何としても社会そのものを深いところから変革したい』という強いパッションが見えないんです」

 ――極端に言えば、いまの自分の暮らしが保たれることだけを願っているように見えると?
 「そういうことです。『怒りの芯』がない。それは言葉の芯とともにどこかに消失してしまったんでしょう。この傾向は70年代から幾何級数的に進んできたと思います。市場経済の全面的な爛熟(らんじゅく)って言うんでしょうか、それとともに言葉が収縮し、躍動しなくなったことと関係あるかもしれません」
     ■     ■
 ――市場経済と言葉が、どう関係するのですか。
 「この社会システムが必要なのは購買者・消費者としての人間であって、怒る人間とか変革する人間ではないということだと思うんです。『人間』を締め出していると言うんですかね。疎外ということです。ぼくらは歴史をつくる主体だと教え込まれて生きてきたけど、果たしてそうであったのか。歴史の主体ではなくて、歴史の対象なんじゃないでしょうか」

 「60年代には、抵抗とか反逆は美的にいいことだという価値観がありました。いまの若い人たちは全然違うようですね。表現の仕方は、我々の世代が目を白黒させるようなとっぴなものであっても全然構わない。ただ、それが時代のダイナミズムになっていくとは予感しえないんです。むしろ、悪い方に予感してしまう。何か他国による武力攻撃のようなことがあった場合、新しい国家主義的なものを簡単に受け入れてしまう可能性はありませんか? それに抗するバネがないでしょう。危ういものを感じますね」
     ■     ■
 ――ご自身はファシズムに抗(あらが)えますか。
 「ぼくの父親は1943年から中国に出征しています。法的プロセスによらない中国人の処刑などに、おそらく父親も直接、間接に関係したはずです。それを我々の先祖の時代の愚挙として片づけることはできないんですよ。記憶に新しい父親があそこにいた。そこに仮説として自分を立たせてみて、『じゃあ、自分だったら避けられたか』と問うてみるんです。あれだけ組織的な、誰もが疑わずにいた天皇制ファシズムと軍国主義のなかで、ぼく一人だけが『やめろ!』と言うことができたか。それは一日考えても二日考えても、到底無理だと言わざるを得ません。そういう局面に自分を追い詰めていく苦痛から再出発する以外にないと思うんです」

 「メディアに携わる人間もまた、よるべなき流砂のなかで手探りするしかありません。個のまなざしを持ちえるかどうか。そこだと思うんですよ。従来型の予定調和の記事を壊していくことじゃないかな」

 ――それは私たちも日々、努めているつもりです。
 「では、これはどうでしょう。昭和天皇が75年10月31日、国内外の記者50人を前に会見をしました。そこで戦争責任について尋ねたのは英紙タイムズの記者です。天皇は『そういう言葉のアヤについては(中略)よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます』と答えた。広島の原爆については地元民放の中国放送の記者の質問に『気の毒であるが、やむを得ないこと』と答えている。朝日や毎日、読売はそんな質問をしていません。むしろ意識的に避けてあげたのでしょうか。しかも天皇の言葉に激しく反応してやしない。別に強制されたのではなく、ぼくたちはそういうことをやってしまうわけです」

 「01年のアフガン空爆のとき、朝日は社説で『限定ならやむを得ない』と書いた。それに抗議の声を上げた記者がいたことを、ぼくは知っています。あれは別に全社挙げての民主的な討論を経て書かれるわけじゃないですよね。しかし、それは違うんじゃないかって執拗(しつよう)に言い張ると『困ったちゃん』みたいに扱われる。場違いなわけです。ただ、場違いなことが、どれだけ大事なことかという気がします。ささやかな抵抗のほうが、国会前での鳴り物入りのデモよりも頭が下がります」

 「そうしたことを冷笑し、馬鹿扱いすることが、時とともに組織や社会をどれだけ悪くしていくことでしょうか。コンフォーミズム(大勢順応主義)の傾向はますます、きつくなっている。だから場違いなことを試みるってことこそ大事なんじゃないかな。衆議に従って、ではなく緊急動議的に発言していく勇気って言うんでしょうか。勇気なんて、あんまり好きな言葉じゃないけどね。おずおずとした発言でいい。かっこ悪く、ぶつぶつでいい。自分がそういうことに直面したときに、果たしてどれだけ誠実でいられるかという問題だと思うんです」    (聞き手・磯村健太郎、高重治香)
     *
 へんみよう 44年生まれ。元共同通信記者。「自動起床装置」で芥川賞受賞。近く、日中戦争から今に至る日本の闇をつく「増補版1★9★3★7」刊行。

160120 一年前:150120歴史を知らずイスラエルに与する安倍自民の反知性主義の妄動は、国際社会で通じない

2016年01月21日 00時20分17秒 | 一年前
150120 歴史を知らず軽率にイスラエルに与する安倍自民の反知性主義の妄動は、国際社会では通じない。
1月20日(火):「つぶやき」では収まらなくなったので、率直な感想を記す。 「イスラム国」のこんな簡単で直接的な影響・反応も読めないで、軽率に仲裁役を気取りながら、イスラエル支...

160119 センター世界史B試験を解いてみた。所要時間41分、95点(2問×)だった。 日本史は満点!

2016年01月19日 21時45分43秒 | 日記
1月19日(火):

日本史100点(全問正解:昨年91点、3問×:一昨年97点、1問×)、所要時間 0:55(一昨年 0:53) 去年の雪辱を果たした!

世界史 95点(2問× :昨年93点、3問×:一昨年98点、1問×)、所要時間 0:38(一昨年 0:31)  おおきにまあまあ!

昨日の日本史Bに続いて、今日世界史Bのセンター試験を解いてみた。今回は全く自信がなかった。知らなかったり、忘却していたりがたくさんあって、確信をもって解答できない問題があまりにも多かったのだ。80点を切ることも覚悟していた。しかし、当てずっぽうの解答がことごとく当たって、結局例年通りの点数になった。ラッキーなのか、よく分からない。「こんなことでいいのかあ…」というのが正直な感想だ。

あと、相変わらず日本史の出題と対照的に解答にほとんど時間を要さない。一目直感で解いていけるのは例年通りだ。

今年は昨年より「やや難」で、平均点は3~5点下がるのではなかろうか。昨年の65.64点を参考に61~63点ぐらいになると思う。

160118(考論 長谷部×杉田)「止める力」持つ参院選 :改憲の「初手」? 緊急事態条項は必要か

2016年01月18日 23時27分11秒 | 考える資料
1月18日(月):

朝日デジタル(考論 長谷部×杉田)「止める力」持つ参院選 2016年1月10日05時00分

 夏に参院選を控える今年。安倍晋三首相は年頭会見で、憲法改正について「参院選でしっかり訴えていく」と述べた。長谷部恭男・早稲田大教授(憲法)と杉田敦・法政大教授(政治理論)の連続対談は今回、憲法改正の動きや選挙の意義を語り合う。3年目に入った対談は今後も、民主主義とこの国の行方を考えていきます。

 杉田敦・法政大教授 新年早々、国会が開かれ、7月の参院選に向けた論戦がスタートしました。改憲勢力が、憲法改正の発議に必要な3分の2以上の議席を獲得するかどうか。大変重要な選挙になります。

 長谷部恭男・早稲田大教授 参院選だけだと政権選択選挙にはなりませんが、「止める選挙」にはなり得ます。憲法改正だけではない。昨年成立した安保法制に基づき自衛隊を派兵する場合は、国会の承認が必要です。承認には衆院の優越はありませんから、参院の多数で止められます。

 杉田 ただ一方で、「選挙がすべてじゃない」ということも、改めて強く言っておかなければならない。選挙で権力を得た側は、争点化されなかった問題についても白紙委任されたかのように振る舞う。そんなことは許さないというのが昨夏、安保法制に反対した人たちの声でした。それを「やっぱり選挙だ」に完全に切り替えてしまうと、「選挙がすべて」の側に有利な土俵しか残りません。

 長谷部 現在の選挙制度では、各党派の得票率と獲得議席数との間に大きな格差が生まれます。自分の真心だけに従って投票したり棄権したりすると、とんでもない選挙結果をもたらす。「止める」ためには真心を脇に置いた戦略的な投票行動が必要です。その構えが有権者には求められていると思います。=敬称略

(考論 長谷部×杉田)改憲の「初手」? 緊急事態条項は必要か  2016年1月10日05時00分

 憲法改正の議論で最近よく語られるのが「緊急事態条項」だ。安倍晋三首相も8日の国会答弁で「極めて重く大切な課題」と述べ、有力な改正項目に挙げている。長谷部恭男・早稲田大教授と杉田敦・法政大教授は対談で、この条項新設をテコにした改憲論にひそむ問題から、政治と社会の現状を解きほぐしログイン前の続きていく。

 ■「国民守れぬ」まやかしでは 杉田/仏テロ、正確な事実把握を 長谷部

 長谷部恭男・早稲田大教授 今夏の参院選で「3分の2」のハードルをクリアし、憲法改正に着手したいというのが安倍政権の狙いでしょう。その「初手」として取りざたされているのが、大災害や戦争の際の政府・国会の権限や議員の任期を定める緊急事態条項の新設です。

 杉田敦・法政大教授 何でもいいからとにかく憲法を変えたい、災害やテロを理由にすれば国民の理解が得やすいという発想が背景にあることは明らかです。そもそも、憲法に緊急事態条項がないと国民の安全を守れないといった主張には、大いなるまやかしがあるのでは。

 長谷部 そうですね。たとえば昨年11月、パリで発生した同時多発テロを受けて、フランスで非常事態宣言が発令されました。改憲派はこれを奇貨として、日本国憲法にはそのような規定がない、この欠陥を埋めねばならないという議論を仕掛けていますが、事実を正確に把握しないといけない。

 今回の非常事態宣言は法律を根拠にしたもので、憲法に基づくものではありません。確かにフランス憲法16条は、非常事態に際して大統領に権限を集中すると規定していますが、要件が非常に厳しいため、ドゴール政権下で1度発動されただけです。

 杉田 憲法ではなく、法律で対応していると。そのほかの国はどうですか。

 長谷部 英国にはそもそも憲法典がないので、すべて法律で対処しています。米国憲法には、戦争中は人身保護令状の執行を停止できるという条文があるくらいで、緊急事態条項は置かれていない。置いているのはドイツです。

 連邦制国家のドイツは、立法・行政権限が州と連邦に分かれているので、緊急事態では州の権限を連邦に吸い上げる必要があるためです。その点、日本は十分に中央集権的なので、立法が必要ならさっさと国会を召集すればいい。憲法に緊急事態条項を設ける必要はありません。

 杉田 同感です。第一、緊急事態が起きてからあわてて法律を作っているようではだめでしょう。必要な法律はあらかじめ作っておけばよい。災害についてはすでに災害対策基本法があり、首相は閣議にかけたうえで「災害緊急事態」を布告し、政令で緊急措置がとれるようになっている。

 対テロの観点では、2001年9月の米同時多発テロを受けて自衛隊法が改正され、自衛隊や在日米軍の施設が攻撃される恐れがある場合には、自衛隊が警護出動できます。

 長谷部 緊急事態に備えて、さらなる自衛隊法の改正を検討する余地はあるかもしれません。

 ■憲法でなく法律で対応を 杉田/参院の「緊急集会」で十分 長谷部

 杉田 いずれにしても緊急事態には、憲法ではなく法律で対応すべきです。ただ、憲法に緊急事態条項を設けて、国会の関与を明記しておかないと、かえって首相や内閣の暴走を許してしまうのではないか、という懸念も一部にはあるようですが。

 長谷部 その懸念はむしろ逆で、憲法に手をつける方が危うい。憲法に緊急事態条項を新設する意味があるのは、最高裁の判例が現在認めている以上に、国民の基本的人権を制限する権能を、政府や国会に与える場合だけです。

 しかしそれはまさに、かつてドイツのワイマール憲法が採っていた制度で、ナチスに悪用されたことは周知の事実。緊急事態を理由に停止された基本的人権は元には戻りませんでした。安倍政権の副総理は「ナチスの手口に学んだらどうか」と言った方ですが、そんな制度を本当に導入していいのかという話です。

 杉田 そもそもなぜ、日本国憲法には緊急事態条項がないのでしょうか。

 長谷部 ないことはない。憲法54条には「衆議院が解散されたときは、参議院は、同時に閉会となる。但(ただ)し、内閣は、国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることができる」とある。

 それで十分だというのが、憲法制定者の理解だったと思います。緊急事態に際して法律を作る必要があるなら国会を召集する、衆議院が解散している場合は、参院の緊急集会で対応すればいいと。

 杉田 しかし改憲派はいま、参院の緊急集会では不十分だと強調しています。たとえば、衆院議員の任期満了ギリギリに震災が起きたら、選挙ができず任期切れで衆院議員がいなくなってしまう。だから、憲法で任期を特例的に延ばすことができるよう定めておかなければならないと。憲法改正の「初手」は、任期の問題に絞ってもいいという声すら、自民党からは聞こえてきます。

 長谷部 選挙はやればいいじゃないですか。第2次世界大戦中の1942年も、日本は総選挙をやっています。そもそもなぜ、緊急事態が起きた時に国会議員がいないと困る、ということが強調されるのか不思議です。

 緊急事態が起きたら、首相や内閣が、いまある法律を使ってなんとか対処するしかない。事が起きてから、「あ! この法律をすぐに作らないと対処できない!」ということが本当にあるのか。もしあったとすると、そんな「穴」に気づかずに放置していた政府や国会の能力的欠陥で、憲法の欠陥ではありません。

 ■「非立憲」の流れ、一段と 杉田/国の方向決める参院選 長谷部

 杉田 そもそも現代においては、「通常」と「非常」の明確な線引きがきわめて難しくなっています。誰が、いつ、どこでテロを起こすか分からない。いわば通常の中に非常が織り込まれている現状において、非常事態、緊急事態にばかり注目して国民の基本的人権を制限していくと、通常の生活までもが圧殺されかねません。

 長谷部 その通りです。だから、まっとうな立憲主義国家では、緊急事態法制を実際に運用する際に、裁判所による監視と抑制の仕組みが必ず採り入れられている。憲法に緊急事態条項を置いているドイツの憲法裁判所は、国家の存立に関わる高度に政治的な問題については判断を回避するという「統治行為論」はとらず、とにかくすべてを審査します。

 日本で、必要性が乏しいにもかかわらず、緊急事態条項を憲法に置きたいのであれば、裁判所の権限の根本的な強化をあわせて憲法改正に盛り込み、「統治行為論」を無効化しなくてはなりません。同時に、最高裁の裁判官人事への政治介入を防ぐための措置も検討されるべきです。憲法に「内閣で任命する」としか規定されていない現状のまま、首相や内閣に「非常大権」的なものを与えるわけにはいきません。

 杉田 私たちの不安の種はいろいろあります。パリの同時多発テロがあり、北朝鮮が核実験をした、大災害もいつ起きるか分からないとなると、「国民の安全を守るために、憲法に緊急事態条項を新設する」といった主張に動かされやすい。しかし緊急事態対応というものが、元々はらんでいる危険性を常に見据えておかなければなりません。

 昨年、安保法制に反対したり、立憲主義の重要性を訴えたりする声があれほど大きくなった最大の理由は、権力の暴走に対する歯止めがなくなってしまうという危機感だったと思います。憲法に緊急事態条項を新設することは、この国の「非立憲」のステージがさらに一段上がることを意味します。

 長谷部 だからこそ、夏の参院選は「止める選挙」、裏を返せば「進める選挙」になり得るということを意識する必要がある。「立憲」か「非立憲」か。選挙結果はこの国の方向性を大枠で規定することになるでしょう。たとえ、有権者がそんなつもりで投票したわけではなかったとしても、です。=敬称略   (構成・高橋純子)

160118 センター日本史B試験を解いてみた。所要時間56分、100点だった!

2016年01月18日 22時41分03秒 | 日記
1月18日(月):

今年は久しぶりにノー・ミスで100点だった。

例年のことだが、多角的に考えさせる良問が多く、史料問題も豊富、問題の量もたっぷりだったが、全体的にはつまらないひねりを控えたオーソドックスな出題に徹した印象である。教科書をしっかりと読み込み、過去問で解答練習をした受験生であれば、例年よりも「やや易」で安心して回答をできたのではないだろうか。平均点は昨年比で3~5点上昇するだろう。昨年の62点を参考にすれば、今年の平均点は65~67点ぐらいだろう。

近現代史で「オリンピック」をテーマに8題も出題されたのには多少驚いた。

俺としては、満点でちょっとホッとした。満点で当たり前、ミスして満点を逃せばプライドが傷つくってのも精神衛生上よくないなあ、と思いつつ今年も解いてみたのだった。

150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)