もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

150330 一年前:3 084 内田樹「街場のメディア論」(光文社;2010)感想4+

2015年03月31日 01時59分41秒 | 一年前
3 084 内田樹「街場のメディア論」(光文社;2010)感想4+

3月30日(日):213ページ  所要時間 4:00   ブックオフ105円著者60歳(1950生まれ)。専門はフランス現代思想、映画論、武道論。1回目 2:30で読み...


150329 朝日には珍しい骨のある「安部批判」社説。筆者が宦官・去勢豚の幇間曽我豪でないのだけは明白だ!

2015年03月30日 00時04分01秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
3月29日(日):

こういう社説を読むと「やっぱり腐っても朝日新聞(しか購読できんなあ)」と思わせられる。

安倍政権の激走―「いま」と「わたし」の大冒険  2015年3月29日 朝日デジタル

 走る、曲がる、止まる。
 これは自動車の基本性能だが、政治におきかえてみても、この三つのバランスは重要だ。
 「この国会に求められていることは、単なる批判の応酬ではありません。行動です」
 先の施政方針演説で、野党席の方を指しながらこう力を込めた安倍首相。確かに、政権の激走ぶりには目を見張るものがあり、ついエンジンの馬力やハンドルの傾きにばかり気をとられてしまうが、最も注視すべきは、ブレーキだろう。

■ここでないどこかへ
 権力を縛る憲法。歴史の教訓。権力を持つものの自省と自制。メディアや野党による権力の批判的検証――。敗戦から70年の間、これらは日本政治のブレーキとして機能してきた。
 しかし安倍政権やそれを支える自民党の一部は、ブレーキがあるからこの国の走りが悪くなっていると思い込んでいるようだ。「行動を起こせば批判にさらされる。過去も『日本が戦争に巻き込まれる』といった、ただ不安をあおろうとする無責任な言説が繰り返されてきた。批判が荒唐無稽であったことは、この70年の歴史が証明している」。防衛大学校の卒業式で、首相はこう訓示した。国会では自衛隊を「我が軍」と呼んだ。
 「戦後レジームからの脱却」「日本を取り戻す」とは、ブレーキなんか邪魔だ、エンジン全開でぶっ飛ばすぜという冒険主義のことなのだろうか。
 「いま」がすべて。どこに向かっているのか、なぜそんなに急ぐのか、危ないではないかと問うても、いまこの走りを見てくれ、こんなにアクセルを踏み込める政権はかつてなかっただろうと答えが返ってくる。とにかく前へ、ここではないどこかへと、いま必死に走っている最中なんだ、邪魔をするのかと、あらゆる批判をはねのける。
 奇妙な論法が横行している。


■権力者のクラクション
 「八紘一宇(はっこういちう)」。もともとは世界を一つの家とする、という意味だが、太平洋戦争中は日本の侵略を正当化する標語として使われた。自民党の三原じゅん子女性局長は先日の国会で、そのような歴史的文脈を捨象し「日本が建国以来、大切にしてきた価値観」と紹介した。
 「わたし」を中心にものごとを都合よく把握し、他者の存在をまったく考慮に入れない。狭隘(きょうあい)かつ粗雑な世界観が、あちこちから漏れ出している。
 首相は昨年、民放ニュース番組に出演し、テレビ局が「街の声」を「選んでいる」「おかしい」などと発言した。先日の国会で、報道への介入と言われても仕方ないと批判されると「言論の自由だ」と突っぱねた。
 権力が抑圧してはならない個人の権利である「言論の自由」を権力者が振りかざすという倒錯。首相はさらに「私に議論を挑むと論破されるのを恐れたのかもしれない」「それくらいで萎縮してしまう人たちなのか。極めて情けない」とも述べた。
 ひょっとして首相は、最高権力者であるという自覚を根っこのところで欠いているのではないか。巨大な車にクラクションを鳴らされたら、周囲が一瞬ひるんでしまうのは仕方ないだろう。だからこそ権力は国民をひるませないよう、抑制的に行使されねばならない。首相たるもの「いま」「わたし」の衝動に流されるべきではない。
 情けないのは抑制や自制という権力の作法を身につけず、けたたましいクラクションを鳴らして走り回る首相の方である。

■不安社会とブレーキ
 そうは言っても、安倍政権が激走を続けられるのは、社会の空気が、なんとなくそれを支えているからだろう。
 長引く不況。中国の台頭。格差社会の深刻化。さらに東日本大震災、過激派組織「イスラム国」(IS)による人質事件などを経て、焦燥感や危機意識、何が不安なのかわからない不安がじわじわと根を張ってきた。
 国ぐるみ一丸となって立ち向かわなければやられてしまう。国家が最高のパフォーマンスを発揮できるよう、政府の足を引っ張ってはいけない――。そんな気分が広がり、熟議よりもトップダウン、個人の権利や自由よりも国家や集団の都合が優先される社会を、知らずしらず招き寄せてはいないだろうか。
 無理が通れば道理が引っ込む。「反日」「売国奴」。一丸になじまぬものを排撃する一方で、首相に対する批判はメディアのヘイトスピーチだという極めて稚拙な言説が飛び出す。
 昨今「メディアの萎縮」と呼ばれる事態も、強権的な安倍政権にたじろいでいるという単純なものではなく、道理が引っ込み、液状化した社会に足を取られているというのが、情けなくはあるが、率直な実感だ。
 ブレーキのない車のクラクションが鳴り響く社会。メディアが耳をふさいでやり過ごしてはならない。そしていま、この社会に生きる一人ひとりにも、できることはあるはずだ。

150329 朝日の外注記事は、まだ読み応えがある。コモンセンスを保つためにとても良い。

2015年03月29日 23時10分04秒 | 考える資料
3月29日(日):

(考論 長谷部×杉田)「我が軍」「言論の自由」…透けるものは
 2015年3月29日05時00分 朝日デジタル

 自衛隊を「我が軍」と表現した安倍晋三首相。これに限らず、戦後日本の政治が守ってきた「一線」を越えるような発言が目立つ。長谷部恭男・早稲田大教授と、杉田敦・法政大教授の連続対談は今回、一連の言葉から見える政治的な志向や思惑、そうした政権の姿勢がもたらす問題点について語り合ってもらった。

 ■発言で攻撃「自由すぎる首相」 長谷部/野党もメディアも反応に鈍さ 杉田

 杉田敦・法政大教授 耳を疑うような首相の発言が相次いでいます。

 長谷部恭男・早稲田大教授 自衛隊を「我が軍」と。菅官房長官も「自衛隊も軍隊の一つ」と追認しました。自衛隊は戦力には当たらないというのが、戦後日本の一貫した「建前」です。戦前・戦中の軍による国政専断の可能性を断ち切り、人々が自由に生きる空間を切り開いたことこそが、憲法9条の意義です。

 杉田 近年、「建前」は空虚な「見かけ」として否定的にとらえられることが多く、軽んじられています。しかし「建前」には、原則とか基本方針という意味もあり、重要です。物事は原則通りにはいかないが、だからといって原則が不要とはならない。原則を立てておかないと大きく道を踏み外してしまいます。

 長谷部 「日教組!」という答弁席からのヤジもなかなかです。首相の品格も国会の品位も関係ないと。「自由すぎる首相」です。

 杉田 行政を監視する役割をもつ国会で、首相と質問者の関係は口頭試問を受ける受験生と面接官のようなもの。受験生が面接官にヤジを飛ばすことは、ヤジの内容が事実か、事実誤認かという以前に、試験自体を否定する行為であり許されません。首相のヤジは、国会への侮辱と言ってもいい。なぜ不信任決議の話すら出ないのか。「自由すぎる首相」のもと、野党もメディアも「首相たるもの」「内閣と国会の関係とは」という根本を見失っているのではないでしょうか。

 長谷部 国会議員の国会での発言については、憲法で免責特権が認められています。全国民の代表として幅広く自由に議論を展開する必要があるからです。しかし、国務大臣は免責されないというのが憲法学界の通説です。国務大臣は政策遂行について説明責任を果たすために国会で答弁するのであって、一議員と同じ立場で自由に発言することは到底認められません。

 杉田 安倍さんは昨年、衆院解散を表明した当日に民放ニュース番組に出演し、街頭インタビューについて、偏っているという趣旨の発言をしました。これを国会でただされると「言論の自由だ」と。しかし、一般市民の意見に首相が反論することが人権なのか。それこそ市民の言論の自由を萎縮させかねません。

 長谷部 反論はしてもいいと思います。ただしそれは、言論の自由の問題ではない。あくまでも説明責任を果たす観点から行われるべきで、ましてや番組の編集権への攻撃という形でなされるべきではありません。放送法第1条には「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」とある。何が不偏不党かは、あくまでも各放送局が自律的に判断するという趣旨です。

 ■戦後日本の「建前」を損と認識 杉田/編集自律の「見かけ」壊す恐れ 長谷部

 杉田 政府与党は、情報の発信力において圧倒的に有利な立場にある。ゆえにメディアも含めて、ある程度、政府与党に対抗的であることが全体としての公平性につながる。政府側と、それに対する論評に機械的に同じ時間を割り振ることが「不偏不党」だというのは、実は偏った議論です。

 長谷部 編集の自律は、そうであるように見えるという「見かけ」もとても重要です。外部の人間が編集に実際に介入するのは論外ですが、首相が番組の編集に文句をつけたり、与党が「公平中立」を放送局に要求したりすること自体が、編集の自律の「見かけ」を壊す。そのリスクの大きさを、安倍さんは理解していないようです。

 杉田 一方、新聞には、不偏不党という要求は法的にはされていませんね。

 長谷部 すべてのマスメディアに法律でもって倫理を要求すると、権力が濫用(らんよう)するリスクがある。だからあえて人為的に放送と新聞を切り分け、放送には政治的公平性や論点の多角的解明を要請する。一方、新聞には旗幟(きし)を鮮明にして、自由闊達(かったつ)な言論活動を遂行してもらう。そうして全体として多様性を確保することを狙っていると思います。

 杉田 それぞれが「正しい」と思うことを発信し、議論したりせめぎ合ったりする中で公正性や公平性は形成されます。でも、安倍さんをはじめトップダウン型の国家を志向する人たちはおそらく、なぜそんな面倒なことをするのかと思っている。効率が悪いと。

 長谷部 メディアを含めた社会全体がトップダウン型の効率的な企業体になるべきだと。

 杉田 加えて、安倍さんの言動のベースには、メディアや野党に不当に攻撃されているという「被害者意識」があるようですね。「首相たるものメディアや野党の批判も甘んじて受けねば」などという「建前」に準じていても損だと。しかもそこが、一部の有権者の感覚とも共振している。戦後日本の「建前」に沿って過去の歴史を反省していたら、近隣諸国につけこまれ、日本は損をしている。本音を表に出すべきだと。

 長谷部 だから戦後日本の「建前」を凝縮したかのような村山談話や河野談話はいやだ、本音ベースの70年談話を、という思考の道筋になるのでしょう。

 ■タガ外せば歯止め失う 長谷部/「未来志向」は現実逃避 杉田

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。

 長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。

 杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。

 長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。

 杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。

 長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)

150329 日本人の退化が止まらない。2・26事件(1936年)頃に戻ってる。古舘伊知郎はもう辞めた方がよい。

2015年03月29日 18時08分01秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
3月29日(日):

 3月27日(金)の「報道ステーション」の騒動の一部始終は俺も観ていた。別に驚かない。古賀茂明が正しい。古舘は見苦しかった。そもそも古舘伊知郎にはジャーナリストとしての背骨が無い。この程度の中身の無い男の表情ひとつで一千万人前後の全国の視聴者が影響を受けて、さまざまなニュースに対するイメージの刷り込みが行われていることに俺はずっと違和感(怒り)を覚えてきた。

 最近では、鳩山元首相のクリミア訪問に対する彼がゲストと交わした賢しらな冷笑(そのくせ実は彼自身は自分の言葉を持っていないのもこちらに分かる)によって、一瞬にしてレッテル貼りが行われて、現実のクリミア半島そのものへの関心が失われてしまい、鳩山元総理が意味のない愚か者として印象付けられたのはひどかった。その後、鳩山元総理の行動の意義を説明する報道がネットやBSで流れたが、古舘は全く反省していない。ノーコメントだ。

 それでも辛うじて「報道ステーション」を見続けられたのは、古舘のような電波芸人の存在ではなく、少なくともNHKとは違うテレビ朝日の報道姿勢に対する一定の信用があったからだ。古舘伊知郎など辞めても全く惜しくない。もともと彼は筑紫哲也はもちろん、久米宏にも、大越にもなれない中身の無い小者の電波幇間だ。さっさと辞めちまえ!というのが俺の結論だ。

 それよりも俺が注目するのは、テレビ朝日が今後このドル箱ニュース番組(タイトルなんて何でもよい)枠でどのような報道姿勢を維持していくのかということだ。それは親会社の朝日新聞の購買層にも影響することだろう。大事なのは、古館ではなくテレ朝の報道姿勢自体である。何度も言うが、古館伊知郎なんて、どうでもいい!のだ。むしろNHKニュース9を辞めさせられた大越をスカウトしたら、もう少しましな番組になるだろう。大越の3月の報道姿勢は、別人を思わせるものがあった。

さらに続報! 古賀茂明が『報ステ』放送中・放送後のスタッフとのやりとりをすべて明かした!
 2015.03.29. リテラ

 元経産官僚・古賀茂明氏の『報道ステーション』(テレビ朝日系)爆弾発言について、本サイト・リテラはこれまで2本の記事を配信したが、さらに続報である。
 放送中に一体何が起きていたのか、そして、古賀氏はなぜ発言したのか。テレビ朝日の報道局員は、「報道フロアはもう騒然となってましたよ。報道局幹部は、激怒してましたが、番組のスタッフや局員からは、よく本当のことを言ったという称賛の声や、普通のことを言っただけじゃないかという冷静な声、激論はあってもいい、面白い、視聴率が取れるといった様々な声が出てました。幹部の前では言えませんけどね」と話す。局内も古賀批判一色ではないようだ。
 放送から一夜明け、古賀氏が、彼に非常に近い新聞記者に語った内容を我々は独自ルートで入手した(古賀氏本人に確認したところ「ノーコメント」ということだった)。
 生々しい証言のため、ほぼ全編を掲載する。

●あの時、スタジオでいったい何が起きていたのか!?
 僕と古舘さんとわーっとやり合って、CMに入りまして、そこで(番組の幹部W氏が)来るんですよ。「打ち合わせに無いことをしゃべるな」と言ってきたんです。だから僕は「えっ?」と驚いて、「打ち合わせしたこと以外は、しゃべっちゃいけないんですね、もう一回言ってください」と言ったら、「だから打ち合わせに無いことを言わないでください、古賀さん」と言ったから、僕はそれを紙に書いたんです。
『打ち合わせに無いことを喋らないでくださいと(番組の幹部W氏は)言いましたので、私はこの番組の中では打ち合わせたこと以外しゃべれなくなってしまいました』って、(CMのあと)最初にそれを言ってから、私はしゃべりますからと言ったんです。CM中のことです。
 そしたら(番組の幹部W氏)は、すごいあせっちゃって、「なんでそんなこと言うんですか」と言うから、だってあなたが今言ったでしょ、と。
 僕の立場としては言いたいことを全部言いたいけど、でも、それを言わないんだったら、何で言わないか説明しなければならないじゃないですか、と話をして、あなたは名前を出さないで裏でそういうふうに圧力かければすべて済むからいいですけど、僕は名前出してやっているんですよ、と。だからあなたも正々堂々と言えると思っているんだったら、名前を言っても何も困らないでしょうと言ったら、それは困ると言って。
 そして今度は何か「いきなりあんなことをしゃべるのはフェアじゃない」と言い出して。結局、(番組の幹部W氏は)その時に何を心配しているかというと、そういう「圧力がかかった」とか、あるいは「言うなとか言った」とか、そういうことを言われることだけを一生懸命気にしているわけ。というのが一回やりとりがありました。
 古舘さんが何で怒ったのかよくわからなかったんです。最初は。僕は、古舘さんのことを悪く言うつもりはなかった。それなのに古舘さんが急に怒ったんですね。それが、ちょうど古舘プロの佐藤(孝)会長の名前が出た時だったんです。もう顔色が変わったんですね。私がその名前を言ったとたんに。何か古舘さんは一生懸命に、それでも「正しいものを作っているんです」、とか言ったんです。
 だから僕は、全部、Mプロデューサーとかディレクターが一生懸命やったからで、そのプロデューサーを更迭しちゃってどうするんですかって話をしたんです。そしたら古舘さんは「更迭じゃない」と言ったんです。

●Mプロデューサーの更迭、コメンテーターの恵村氏、古賀氏の降板
(Mプロデューサーは)もう去年の暮れか年明け早々には異動を言われていたはずです。もちろん、古舘さんはそれを知ってました。一方、局側は、それを3月26日木曜日まで隠していた。何でかというと後ろめたいからなんですよ。
 古舘さんはとにかく僕に対して、前回出演したときに謝っているんですよ。謝った理由は何かというと、要するに「自分はわざと知らないフリをしてきました」と、Mプロデューサーが代わるとか、コメンテーターの恵村(順一郎)さんが代わるとか、僕も出さないということは、もちろん、彼だって知ってはいるんですよ。知ってはいるんだけどテレビ局側にはわざと聞かないで、知らないフリをしました、と。自分は単なる出入り業者に過ぎないから、とか卑下して言うんですよ。
 もちろん、彼には正式な意味での人事権はない。だけど実際は、これは、古舘プロダクションの関係者に聞いた話だけど、古舘氏の番組人事への事実上の影響力はすごく大きくて彼自身これまでもそれを行使してきたんです。形としては佐藤会長を通してかもしれないけど。それなのに彼はMプロデューサーも恵村さんも守らなかった。守ろうとして諦めたのではなく、最初から逃げたんです。だから僕のところに謝りに来たんです。
 楽屋に来て、「本当に古賀さん申し訳ありません」と頭を下げて、そしたら僕としたらもうどうしようもないですよね。だって、古舘さんはもう認めちゃっているわけですから。もう僕には何にも言う言葉がない。古舘さんはそういう方だったんだと扱うしかないな、と。要するに闘う人間ではなくて、ただ、自分の保身だけの人間なんだということだとわかったんです。
 それなのにあそこの場(27日生放送中)で、如何にも自分が戦っている、こんなに自分はがんばっているみたいなことを言い、且つ、(Mプロデューサーは)更迭じゃないと言い、公共放送を使って、自分の立場を守るために言わば嘘を言ったわけですよ。

●番組の最後、番組と古舘氏がやったこと
 番組の最後の最後で、古舘さんが「一部承服しがたいことがあった……」とか言いましたよね。一部承服しがたいというのは、他のかなりの部分を承服しているのか、よくわかりませんが、あの時は、最後に、お詫びの原稿が古舘さんのところに回ってきて、彼は、最後に何十秒でこれを読む、最後終わるぎりぎりでそれを読んで、番組が終わりというのを狙った。つまり、僕が反論できないようにした。
 それもおかしくて、その前の議論では、「もうこういう話をするのはやめましょうよ、視聴者に分からないんですから」と古舘さんは散々言っていて、私も、やめましょうと言って、ニュースの中身の話だけになったんですよね。それなのに、そういうように議論を切っておきながら、やりとりしたら自分が負けちゃうからなのか、一番最後の最後に、もう僕が反論できないような時間に言っているんです。だから全然言っていることとやっていることが違うんです。

●放送終了後、報道局長が仁王立ちで……
 そして放送が終わったらスタジオに番組幹部らが来て「おかしいじゃないですか」とずっと言いながら、私が楽屋に戻るのにもずっとついてきて、楽屋から出ると、通路の真ん中に仁王立ちした報道局長がいて、通路を通さない感じで、彼はおそらく僕にきっちり抗議した、と、周りに分からせようというのもあるのか、みんなの前で見せるように、「何であんなことを言うんだ」「あれはおかしいじゃないか、ニュースの中身と関係ないじゃないか」とかそんなことを色々言いながら、私についてきて、私は無視して、でもエレベーターまでついてきて、地下のハイヤーの乗り口までずっとついてきて、そういうことをずっと言うわけです。
 だけど、僕が途中から、あなたの仕事はこういうことが仕事なの? 違うでしょ、なんで(Mプロデューサーを)更迭したの?」と。
 そしたら報道局長は「更迭じゃない」と最初は言い張っていたんだけど、僕が「じゃあ、なんで(Mプロデューサーを)代えるの? 古舘さんにしても(Mプロデューサーを)代えたいわけじゃないでしょ。(Mプロデューサーを)守るのがあなたの仕事でしょ」と、ずっと僕は色々言ったら、報道局長は途中から黙ってしまった。完全に何も言えなくなっていました。

●テレビ朝日が古賀氏を訴えるとの見方も流れているが……
(訴訟してくるかどうか)それはわかりません。もちろんその可能性はあると思いますよ。だから、訴訟になっても絶対に大丈夫だというだけの証拠を揃えて、発言の内容もその範囲を絶対に超えないように事前に一言一句考えてましたし、相手の出方も複数のシナリオを考えてましたから。
 本当は、もう少し言えたんですけど、やはり古舘さんとの今までの関係を考えるとそこまでは言えませんでした。時間もなくなって、ガンジーの言葉をどうしても言いたかったから、あれ以上は言えませんでした。
 まあ、冷静に考えれば、そんなことをして、わざわざ寝た子を起こすようなことをするのが得なのかどうか、と考えるかもしれませんが。1週間も経てば、静かになりますよね。今のマスコミの状況では。

●古賀氏はなぜ、降板問題を告発したのか
 僕がなぜあの発言をしたかというと、最大のポイントは菅(義偉)官房長官が、僕を個人攻撃してきているんですね。菅さんが会見でやや間接的に、さらに記者らにオフレコで、僕のことと分かるような言い方で、頭に来たとか、放送法に違反しているのではないかとか、記者らに言っていて、それは耳に入ってきている。複数の記者がいるところでの発言なので、僕の耳にも入ることを分かった上での発言で、つまり、それは脅しになると計算して言ってきているので、それをやられているときに、私は黙れないんです、やっぱり。
 そこで私が黙っていたら、前にあったテレビ局への自民党からの圧力文書の時、テレビ局が何も抗議しなかったことと同じになってしまう。だから私は黙っているわけにはいかない。菅さんが脅してくるなら、私はそれを言いますからねと、だから申し訳ないけど私はああいうことを言わせてもらった。
 しかも、菅さん一人じゃ『報道ステーション』を転向させることはできないので、テレビ朝日の早河(洋)会長や古舘プロダクションの佐藤会長なども巻き込んでやっているという話も入ってくるわけです。
 でも、その戦いの中で、古舘さんは、ずっと下のほうにいるんですよ。古舘さんは早河会長に従うしかない立場に落ちているんです。だから、僕の戦いの中で、古舘さんは関係ないんです。
 僕は番組中に古舘さんに言ったんです。「僕は古舘さんを攻撃しているわけじゃないんですよ」と言っていたんですけど、彼は何故か最後まで私を攻撃しようとした。何故なのかなと考えました。自分がかっこ悪く見えるのが嫌だったので言い訳したのか。でも、彼のあの言い訳はかえって彼の姿を惨めなものにしてしまいました。
 あとは、佐藤会長や早河会長の手前、それはもう思いっきり反論しておかなければならないということだったのかな、ということくらいしか僕には思いつきませんでしたね。
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 以上が我々の入手した古賀氏の証言のすべてだ。この古賀氏の言葉を聞いて、『報道ステーション』のスタッフ、いや、他局も含めた報道関係者は、一体何を思うのだろうか。
(木庵 葉)

続報! 古賀茂明『報ステ』爆弾発言は菅官房長官の圧力が動機だった! 古賀批判は的外れ
 2015.03.28. リテラ

 27日の『報道ステーション』(テレビ朝日系)での古賀茂明氏の発言が大きな反響を呼んでいる。本サイトでも2ヵ月前に報道していた「官邸からの圧力による『報ステ』女性チーフプロデューサーの更迭と古賀降板」を裏付ける内容に、ツイッターで「報ステはだらしない」「古賀さん、よく言った!」「やっぱり官邸の圧力なのか」などの書き込みが殺到している。
 しかし、不可解なのが、その一方で古賀批判が盛り上がりを見せていることだ。その代表的なものが「官邸の圧力というのは古賀氏の被害妄想」という意見だろう。たとえば、池田信夫氏などはブログで「(テレビ局に対し)政治家が出演者をおろせなどということは絶対ない(あったら大事件になる)。」「彼は政治とメディアの関係を誤解しているようだが、報ステのような番組に政治家から圧力がかかることはありえない。」等と言っているが、政府がメディアに公式で出演者降板を申し入れたりしないのは当然。問題は、上層部や番記者、報道への抗議を利用した揺さぶり、さまざまなチャンネルを使った裏の圧力なのだ。池田氏らはこの間、安倍官邸が裏でマスコミに何を仕掛けてきたか、本当に知らないのだろうか。
 『報ステ』の古賀氏発言についても、菅官房長官は番記者を集めたオフレコ懇談ではっきりと「放送法違反」「免許取り消し」などをちらつかせて、プレッシャーをかけている。テレビ朝日上層部に対しては、番組審議会委員長の見城徹幻冬舎社長を使った揺さぶりもあった。
 まあ、池田氏の場合は政治スタンスからしてなんとしても現政権の圧力を否定したいだろうから当然としても、驚いたのは比較的リベラルだと思われたジャーナリストたちも古賀批判を口にしていることだ。
 ツイッターを見ると、『とくダネ!』や『Mr.サンデー』(ともにフジテレビ系)にレギュラー出演している『ニューズウイーク日本版』元編集長の竹田圭吾氏は「古賀茂明という人はテレビで発言する機会を与えられていることの責任と義務をまったく理解していない」とつぶやき、ジャーナリストの江川紹子氏も「公共の電波で自分の見解を伝えるという貴重な機会を、個人的な恨みの吐露に使っている」などと書き込んでいる。
 いったいこの人たちは何を言っているんだろう。古賀氏が言ったのは、「テレビ朝日の早河会長と、古舘プロジェクトの佐藤会長のご意向で今日が最後ということで。これまで本当に多くの方に激励していただいた。一方で菅官房長官をはじめとして官邸のみなさんからものすごいバッシングを受けてきました」という言葉だけだ。
 その後のやりとりは、キャスターの古舘氏から「ちょっと待ってください。今の話は私としては承服できません」「古賀さんがテレビ側から降ろされるというのは違うと思うんです」などと反論されたために、「ただ、古舘さんも言いましたよね、私がこうなったことに対して『僕は何もできなかった。本当に申しわけない』と」と応戦したにすぎない。

 古賀氏が言いたかったのは“降板”についての恨みつらみではない。発言のポイントは「官邸のバッシングで」という部分にある。それがより鮮明になるのが後半戦だ。安保法制を始めとする国会論戦についての感想を求められ、「国民的議論がないまま、アメリカの言いなりで先へ先へ行こうとしているのは、とんでもないことではないか」ときわめてまっとうな意見を述べた。そして、いま安倍政権が進めているのは(1)原発大国、(2)武器輸出大国、(3)ギャンブル大国――への道だと指摘し、自分でつくってきたという「I am not ABE」のフリップを掲げ、「これは単なる安倍批判じゃないんです。日本人としてどう生きるかを考える材料にして欲しい」「官邸からまたいろいろ批判があるでしょうが、菅さんも、陰でコソコソ言わないで直接、言ってきてください」とかましたのだ。
 ところが、ここでまた古舘氏が墓穴を掘る。「古賀さんのお考えは理解できますが、一方ではっきり申し上げておきたいのは…」と切り出し、過去に報ステが取り組んできた、原発再稼働への不安や核のゴミの問題、沖縄の辺野古の基地建設など、批判すべきところはしっかりやってきたと返した。すると古賀氏は、「そういう立派な特集をつくってきたプロデューサーが、(官邸の圧力で)更迭されるのも事実ですよね」と。古舘氏は「更迭じゃないと思いますよ。人事のことはわかりませんが」と応じるのが精一杯だった。
 古賀氏が一貫して言いたかったのは、圧力があっても言うべきことは言い続けなければならないということだった。最後はマハトマ・ガンジーの言葉を紹介し、人が自粛して言いたいことを言わないようになると、知らず知らずのうちに自分が変わってしまう。そして、本当に大きな問題が起きているのに気づかなくなってしまう。そうならないためには、圧力があっても言うべきことは言い続ける。「これを古舘さんにも贈りたいんです」と締めくくった。
 これを「私物化」だの「責任を理解してない」などと言うのは、それこそ、普段、番組に媚びて電波芸者を演じている自分たちを正当化したいだけだろう。

 また、一部ネットには「プロレスと同じでシナリオのあるやらせでは」などと書かれているが、これもありえない。すべてガチンコ、事前打ち合わせなしの“ゲリラ発言”だったのだ。
 実際、テレビ朝日内部は蜂の巣をつついたような状態となっていた。番組終了後、古賀氏の携帯に親しい知人が何人も電話を入れたが、呼び出し音が鳴るだけだった。実はこのとき、古賀氏はテレ朝報道局の幹部から約40分、吊るし上げをくらっていたというのである。テレ朝関係者はこう明かす。
「局幹部はみんな顔面蒼白でしたよ。番組終了後、4月人事で交代するプロデューサーやスタッフ、コメンテーターの恵村順一郎さんらを囲んだ送別会があったんですが、重要な関係者が顔を見せない。もちろん古賀さんも来ない。別室に呼ばれて“事情聴取”を受けていたんです」
 古賀氏はそこで「ニュースと関係ないことを話しては困る」「なんで事前に言ってくれなかったのか」などとなじられたという。だが、ここには古賀氏の深謀遠慮があった。というのも、前回「I am not ABE」とやったときは事前にスタッフにも相談し、フリップもつくってもらっていた。ところがオンエア後、首相官邸から抗議を受けたことで現場スタッフは上層部から「何で止めなかったんだ」と責められた。そこで今回は誰にも言わず、自前のフリップを用意して本番に臨んだ。これで、末端の責任が問われることはなくなった。
 古賀氏がここまでやらなければならなかったのには訳があった。親しい知人はこう打ち明ける。
「古賀さんのターゲットはズバリ菅官房長官です。番組中も何度も何度も繰り返し、菅さんの名前を口にしていたでしょ。菅さんは本気で古賀さんを潰そうと、裏で相当なことをやっていた。古賀さんだけではありません。安倍政権に批判的なコメンテーターを個人攻撃したり、逆に懐柔したりが目に余るようになってきた。一方、古賀さんの話によれば、テレ朝に対しても『(古賀氏の発言は)放送法違反に当たるかもしれない』と、免許取り消しをほのめかしながらプレッシャーをかけてきたと言うんです。これはもう看過できない。古賀さんはこう言っていました。『テレ朝には申し訳ないけど、ここで私が沈黙したら言論が権力に屈することになる。古舘さんら番組関係者は相談もなくいきなり言い出したので、私に裏切られたと思っているかもしれないが、時間が経てば理解してくれるはず』と。あれはいわば宣戦布告。戦いはこれからですよ」
 いずれにしても、スタッフの入れ代わった4月からの新生『報道ステーション』がどうなるのか、ぜひチェックをしていきたい。 (野尻民夫)

150328 東京新聞【社説】沖縄戦70年 再び捨て石にはできぬ  ※沖縄県民断固支持。普天間の辺野古移設反対

2015年03月28日 15時02分21秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
3月28日(土):

 自国民である沖縄県民を凌辱する安倍政権に対する怒りが、俺の中で背後にいるアメリカに対する怒りに転化してきている。安倍政権を承認・後押しするアメリカを全く信用できない。今急速に、<反米>意識が強くなってきている!

 辺野古で頑張っている沖縄県民の運動に少しでも募金して応援したい。彼らの闘いは、我々自身の闘いだ。

 本土の人間は、そろそろ本気で沖縄と共闘する方法を考えるべきだ。優秀かつ熱いハートのある本物の政治家を支持する目を有権者が身につける必要がある。橋下徹のようなポピュリスト・ファシストでない本物の政治家を見つけ出して支えたい。野中広務氏のような政治家の再来を日本は欲している。

マハトマ・ガンジー:「あなたがすることのほとんどは/無意味であるが/それでもしなくてはならない/そうしたことをするのは/世界を変えるためではなく/世界によって自分が/変えられないようにするためである

【社説】沖縄戦70年 再び捨て石にはできぬ 2015年3月28日 東京新聞 

 沖縄の反基地闘争が知事を先頭に空前の高まりを見せている。本土の捨て石になった沖縄戦から七十年。再び犠牲を強いてはならない。
 名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前。新基地の建設に反対して座り込む人々の中に八十五歳の島袋文子さんがいる。
 地元の集落に一人で暮らす島袋さんは昨年夏から、雨の日も風の日も休まずに朝から座り込みに加わる。島袋さんにとって辺野古は、日本を再び「戦争のできる国」にしない闘いの最前線という。

◆血の泥水すする15歳
 ジュゴンが生息するサンゴ礁の大浦湾に沖縄防衛局の船が物々しく停泊する。その光景は、島袋さんに沖縄戦を思い起こさせる。
 先の大戦で沖縄は米国との本土決戦を遅らせる“捨て石”だった。
 一九四五年三月二十六日、米軍艦隊は沖縄本島西の慶良間諸島に上陸。猛攻撃によって、日本軍が組織的戦闘を終える六月二十三日までに全土を壊滅状態にした。
 日本軍は住民に軍と一体となった戦いを強いながら、スパイ行為を疑って方言を禁じた。手りゅう弾を配り、捕虜になるよりも「自決」を促した。肉親同士が手をかけての集団自決は沖縄戦の壮絶さを象徴する。餓死、病死者を含め、県民の四人に一人、約十五万人が犠牲になった

 十五歳だった島袋さんの古里、糸満市も激戦地となった。累々と死体が横たわる戦場を目の不自由な母の手を引き、十歳の弟を連れて逃げた。昼は木陰に隠れ、夜に移動した。のどが渇き夢中で水たまりの泥水をすすった。
 翌朝、その水たまりには血だらけの死体が横たわっていた。
 親子で身を潜めていた壕(ごう)を米軍に火炎放射で焼かれ、全身に大やけどを負った。捕虜となって命を取り留めたが、生涯足を引きずる傷が残った。

◆琉球処分の総仕上げ
 沖縄の戦後はこの悲惨な体験に報いるものではなかった。本土と異なる戦争が継続する島だった。
 一九七二年の施政権返還まで戦後二十七年間、米軍施政権下に置かれた。基地周辺ではレイプなど米軍犯罪が頻発。本土復帰後も治外法権は変わらず、平和や人権の憲法よりも日米安保条約や日米地位協定が優先された。ベトナム戦争ではB52爆撃機の出撃基地になり、湾岸、イラク戦争では海兵隊が沖縄から出撃していった。
 狭い県土に広大な基地がある。フェンスの向こうには迷彩服で銃を構える兵士の姿がある。沖縄には常に戦争が隣り合わせていた。
 宜野湾市の米海兵隊普天間飛行場の移設先として、辺野古に造られようとしているのは、二百年は使える最新鋭の基地だ。オスプレイを搭載する強襲揚陸艦が接岸できる軍港機能も備え、沖縄の軍事基地化はより強固になるだろう。
 沖縄に新たな基地負担を強いる計画に県民の怒りは頂点にある。
 仲井真弘多前知事を公約を翻して建設を認めたのは無効だと、昨秋の県知事選で落選させた。衆院選では全選挙区で反基地派を当選させた。翁長雄志新知事は作業停止を指示した。
 安倍晋三首相や官房長官は新知事に一度も会わず、掘削調査を強行する。沖縄の怒りに鈍感すぎないか。かつて自民党の幹部には沖縄への罪責感から思いを寄せる人が少なくなかった。
 野中広務元官房長官はたびたび沖縄を訪れ「沖縄を忘れることは、第二次大戦を忘れること。戦争の恐ろしさを忘れないためにも沖縄を絶対に忘れてはいけない」と語り、遺骨の一部を慰霊塔に納めてほしいと望んだ。そんな自民の心はどこにいったか。
 集団的自衛権の閣議決定と安保法制の整備によって、安倍政権は戦争のできる国に進んでいるようにみえる。辺野古に何がなんでも新基地を造る姿勢だ。
 那覇市在住の作家大城立裕さんは語る。「日本政府は沖縄の歴史に対する反省もなく、沖縄を軍事植民地のように扱い続ける。社会的差別は薄らいでも、政治に差別が残っている。辺野古の新基地は、明治以来の琉球処分の総仕上げだ」。百五十年続く差別と犠牲の歴史。基地の県外、国外移転が真剣に考えられてもいいのではないか。

◆両手を上げて抵抗
 沖縄戦で無念に死んでいった人や子孫の未来を思いながら、島袋さんは今日も座り込みに連なる。「国を守るだなんて言う人は、血の泥水をすすってから言ってごらん。自衛隊を戦場に行かせて、格好いいのか、面白いのか。その目で見てから辺野古に基地を造ると言ってごらん」
 沖縄戦で島袋さんは、大やけどを負った両手を上げて壕から投降した。今、その両手を上げ、基地建設のトラックの前に立ちはだかる。それは七十年前、十五歳の少女にかなわなかった抵抗の姿だ。

150327 朝日新聞:「ネット右翼」への対処法 小熊英二

2015年03月28日 02時35分46秒 | 考える資料
3月27日(金):

「ネット右翼」への対処法 小熊英二  3月26日 朝日新聞 朝刊紙面より
http://www.asyura2.com/15/senkyo182/msg/193.html 投稿者 ダイナモ 日時 2015 年 3 月 27 日 09:51:12: mY9T/8MdR98ug Tweet      

 ネット上の極右的言説が問題になっている。これについて、三つの視点から私見を述べたい。

 第一に、いわゆる「ネット右翼」の数を過大視すべきではない。2007年の辻大介氏らの調査では、その数はネット利用者の1%に満たない。調査時期よりネットが一般化していることを考えれば、この比率はもっと低下しているだろう。

 それでもこうした言説は、実数以上に大きく見える。その一因は、人数は少なくとも、活発に書き込むためだ。極端にいえば、全国で数千人が匿名で多重投稿しているだけでも、ネット上では多く見える。

 さらにこの種の言説は、特定の場所に集中的に書かれており、そこを閲覧すると数多く見える。また特定の問題や人物名で検索すると、やはり数多く見える。しかしネット上全体では、ごくわずかな数だ。

 それでも、この層にピンポイントで売れる本を出せば、ベストセラーになりうる。全体の1%でも、母数が1億人なら100万人だからだ。だが政党がそうした主張を掲げたところで、その政党の宣伝動画の再生数が数十万になることはあっても、得票率は数%にとどまるだろう。

 以上が第一だが、第二には、この種の言説の意図を真剣に考えすぎるべきではない。この種の書き込みの多くは、一種の「愉快犯」にすぎない。攻撃し、冷笑し、知識をひけらかすことで、注目を集めるのが目的だ。攻撃対象が動揺したり、むきになって反論したり、萎縮したりすれば、喜びはするだろうが、深い政治的意図があるわけではない。

 彼らの心理は、さして理解困難ではない。ある児童向け心理学書には、「きまった女の子にちょっかいを出す男の子」と並んで、「人の悪口ばっかり言う子」の心理がこう記述されている。「この子は、人から注目をあびたいのに、その方法がわからず、人の悪口を言うことしか思いつかないのかも」。お勧めの対処方法は、「つまらなそうな顔をして聞いていれば、そのうち言わなくなるかもしれません」である(村山哲哉監修『こころのふしぎ なぜ?どうして?』高橋書店、一部を漢字に置き換え)。こうした相手に反論は逆効果で、無視するのが一番だ。

 しかし第三に、ある意味で矛盾しているようだが、この種の言説の広がりは深刻な問題だ。個々の言説に大した意味がなくとも、その蓄積は、「ああいう発言をしてもいい」という空気を醸成するからだ。

 例えば、ある集団を内心で差別していても、口外はしないでいた人々が、差別的言説をネット上などで目にすると、「言ってもいいんだ」と思うようになる。政治家に同様の現象がおこれば、議会などで差別的言辞が公言されるようになり、やがて政策や外交に影響する。白紙状態からこうした言説に接し、それに染まってしまう若者も出てくるだろう。

 ではどうするべきか。個人で逐一反論するのは、効率も悪いし、相手を喜ばせかねない。簡単な問題ではないが、一つの対処法は、ネット管理者に対応を要請することだ。

 例えばネット検索大手のグーグルは、「差別的な表現」や「個人や集団への暴力を助長または容認」するコンテンツを許可しないこと、通報があれば調査のうえアクセス停止の措置をとると公表している。グーグル本社のあるアメリカでは、こうした問題に対処してきた蓄積があるためだ。実際にアクセス停止になる事例が少なくとも、通報や警告が行われれば、「こんな発言は許されないのだ」と知らしめる効果はある。

 前述の児童向けの本には、こうも書いてある。「いじめっ子は、心がものすごく弱い」。「相手の心は弱いので、その弱点をつくように、こちらは心の強さで戦いましょう」。「はっきり、きっぱりと、いやなことは『いや!』『やめろ!』と言う。これは、心の強さがないとできないことです」。すべての日本の人々よ、強くあれ。

 (おぐま・えいじ 62年生まれ。慶応大学教授・歴史社会学。『社会を変えるには』『平成史』など)

150327 「宰相の おつむにおむつ したき日々」(もみ):今回NHK「坂の上の雲」は、前回とかなり違う。

2015年03月28日 01時13分13秒 | 徒然・雑感
3月27日(金):

 以前から今回のNHK・BS「坂の上の雲」43分×全26回シリーズは、最初の90分×全13回シリーズとは編集が違うような気がしていたが、先日の「第25回 日本海海戦(前編)」を観て「別物だ」と確信した。海戦シーンは半分近く新しいシーンだった。前回カットされていたシーンをたくさん観られて良かったという思いはあるが、同時に「前回の編集の方がすっきりとしていて良かった」と感じた。

 今回の編集では、戦争の生々しい残酷さとロシア・バルチック艦隊側の恐慌(パニック)状態を強調するシーンが大幅に増やされていた。しかし、どんなにむごたらしく戦闘シーンを強調しようとしても、現実の戦争の悲惨さを表現することは不可能だ。

 端的に言って、けが人も死体も血糊は塗ってるが、みんな五体満足なのだ。あり得ない!戦史を読めば、肉体をバラバラに引き裂かれたり、押し潰されたり、肉片になって飛び散っていたり、海軍のけが人・死体の状況は尋常ではない。それをリアルに描こうとすればするほどウソ臭くなる。むしろ、最初のシリーズのように抑制的に編集しておいた方がより、想像力を働かせる余地があると思う。

 それと、今回のシリーズの方が日本の勝利が過度に強調されている気がした。くど過ぎる気がした。まあこれも「国会の場で自衛隊を<我が軍>とのたまう総理大臣を頂いている」時勢を反映しているのかもしれないなと思う。要らぬサービス精神だ。

 ここで一句: 「宰相の おつむにおむつ したき日々」(もみ) / 「我が軍と おつむがおむつの 安倍晋三」(もみ)

※3月29日(日)ちょっと訂正:今日、最初のシリーズの「日本海海戦」を観直した。「海戦シーンの半分近く新しいシーンだった」というのは勘違いだった。新しいシーンは6分の1ぐらいだろうか?それよりも傷ついたロジェストヴェンスキ―提督が指揮権をネボガトフに移譲することを言い遺す重要なシーン等がカットされていた。全くというわけではないが、「別物だ」という印象と「前回の編集の方がすっきりとしていて良かった」ということは変わらない。
 新シリーズでは、放送時間が前回の90分から7~8分ずつ短縮された分、再編集の必要があり、その分だけ感興が削がれる場合があるようだ。

※改めてこの作品「日本海海戦」を、最後まで観てみて、白痴の安倍晋三やその馬鹿の歓心を買うことに余念のない「反知性主義」の取り巻き政治屋どもが観れば、こいつらの恥知らずな歴史修正主義の火に油を注ぐ危険性を覚えた。本当であれば、思う存分司馬作品を楽しみたいのだが、かくも政治屋のレベルの低いと、国民が要らぬ心配をさせられる。情けない時代だ。

150326 真実を探すブログ:福島の放射能汚染を描いた映画『A2-B-C』、急遽上映中止に!(イアン監督)

2015年03月26日 22時37分45秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
3月26日(木):
  言論・表現の自由が一番大事だ。
【これは酷い】福島の放射能汚染を描いた映画『A2-B-C』、急遽上映中止に!イアン監督「一方的に中止が決まった。検閲?自己検閲?」 http://saigaijyouhou.com/blog-entry-5978.html  2015/03/26 Thu. 01:37:50 真実を探すブログ

 福島原発事故の放射能で汚染された福島を描いた映画「A2-B-C」の上映が急遽中止になったことが分かりました。「A2-B-C」は数々の賞を受賞したドキュメンタリー映画で、「福島の現実を知る上で重要な作品」との評価を得ています。
 映画「A2-B-C」のイアン監督は自身のブログ上に、「検閲?自己検閲?」というタイトルの記事を投稿し、その中で突然に配給会社が映画の上映を打ち切ったと述べました。イアン監督によると、日本で映画を配給している会社が「A2-B-C」の公開を一方的に取り止め、2年以上も残っている上映契約も破棄したとのことです。
 2015年3月16日以降の上映は中止となり、イアン監督は「私を黙らせようとする企みがあっても、それは、私にますます大きな声を上げさせる結果になる」と怒りのコメントを投稿しています。

☆Censorship? Self-censorship? 検閲? 自己検閲?
URL http://ianthomasash.blogspot.ca/2015/03/censorship-self-censorship.html
引用: 

配給会社都合により、急遽「A2-B-C」上映中止せざるを得なくなってしまいました。
The Japanese distributor of 'A2-B-C' (WEBSITE), my documentary about children living in Fukushima, is cancelling all domestic screenings of the film. They are also canceling the contract to distribute the film in Japan, despite there being more than two years remaining on the agreement.
:引用終了

☆子どもたちの甲状腺問題はタブーなのか?~映画『A2-B-C』急遽上映中止に
URL http://www.labornetjp.org/news/2015/0322ian
引用:
福島の子どもたちの被ばく・甲状腺問題を描いたドキュメンタリー映画『A2-B-C』(監督=イアン・トーマス・アッシュ/米国)は、昨年レイバー映画祭2014でも上映され大好評だった。「福島の現実を知る上で重要な作品」と高い評価を受け、国内外で上映が進んでいる。ところが、イアン監督のブログによれば、日本での配給をしている会社(『A2-B-C』上映委員会)が一方的に配給を取りやめ、まだ2年以上残っている監督との上映契約も破棄し、3月16日以降の上映が中止に追いこまれた。いったい何が起きているのか。イアン監督は、3月14日付のブログ「検閲?自己検閲?」(英文)でこのことを発表した。イアン監督は「私を黙らせようとする企みがあっても、それは、私にますます大きな声を上げさせる結果になるだけのことだ、ということは、確信を持って言うことができます」と結んでいる。以下、本人の了承を得て転載紹介する。(レイバーネット編集部)
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<イアン・トーマス・アッシュ監督の3月14日付けブログ記事>
http://ianthomasash.blogspot.ca/2015/03/censorship-self-censorship.html

検閲?自己検閲?
●配給会社都合により、急遽『A2-B-C』上映中止せざるを得なくなってしまいました。
 福島に住む子どもたちについての私のドキュメンタリー『A2-B-C』の日本の配給会社 http://www.a2-b-c.com/ が、この作品のすべての上映を中止しました。さらに、契約期間が2年以上残っているにもかかわらず、日本での配給契約はキャンセルされてしまいました。
 この決定が、どこまで実際の検閲の結果なのか、どこまで自己検閲によるものなのか、私にはよくわかりません。将来的に検閲の問題が起こる恐れがあるということによる自己検閲なのではないか、という気がします。もしそうなら、秘密保護法の恐ろしい、広範囲に及ぶ影響の一例ということになります。この法律の影響を感じさせるのには、施行することは必要ではありません。この法律があるというだけで、人々は自己検閲をして、法案を作った連中が思い描いていたとおりの弾圧を自らに対してするのです。
:引用終了

☆映画『A2-B-C』予告編 (ユー・チューブ動画(2:01)あり。もみ)

☆映画 「A2-B-C」イアン・トーマス・アッシュ監督インタビュー (ユー・チューブ動画(5:30)あり。もみ) 

 イアン監督が言うように、これをキッカケに日本の放射能汚染と向き合わない姿勢に対して、更に声を上げるべきです。フランスで反テロ運動が盛り上がったのと同じ様に、この映画規制を皆に知らせて、抗議の声をドンドン増やしましょう!

 福島の放射能汚染問題を取り上げないメディアは多いですが、国民全員でそれに抗議すれば、方針を変えざるを得なくなります。今回の問題は表現規制などにも繋がる恐れがあり、このまま放置するのはあまりにも危険です。是非ともこの記事や情報を広げてください。


※追加です(もみ)
 東京新聞2014年7月4日夕刊  もう、お見事!東京新聞さん、偉過ぎです!

【レイバーネット】覚悟する福島の母親たちの怒り~ドキュメンタリー映画『A2-B-C』  2014年5月26日 堀切さとみ
 5月24日、ポレポレ東中野でドキュメンタリー映画『A2-B-C』を観た。最高。福島の現実を知るにはこの映画が一番だと思った。
 10年前から映画制作をしているイアン・トーマス・アッシュ監督(日本在住の米国人)は、「こういう映画を撮りたいと思っていたわけではないし、福島に行きたいとも思っていなかった」「ただ福島の母親たちの怒りに心が動いた。母親たちの声だけでいい」と、ナレーションも音楽も一切なしで70分にまとめた。カメラの前で「私はA2(甲状腺にのう胞あり)」と言う女子高生。「ここは放射能があるから近づいちゃダメ」と促す少年たち。子どもたちは現実を見据えていた。
 私は警戒区域の双葉町に三度行ったことがある。いずれも5時間の累積線量が11マイクロシーベルトだった。映画に映し出される福島の小学校は、それより高い数値で登校が再開された。「立ち入り禁止」の表示がある学校に、子どもを通学させていいのかと憤る母親。「無断で撮影するな」という校長に対して、イアン監督のカメラは一瞬ぶれるが「その問題は大きくない。ホットスポットにいる子どもたちの健康問題の方が大きい!」と立ち向かう。
 映画に登場する母親たちは、カメラに向かって懇願しているようにはみえなかった。イアン監督がアメリカ人だからだろうか。福島で暮らしてきた自分自身が責任を負わずしてどうするんだという気迫のようなものを感じた。生き証人になろうとしている。唯一泣きながら語る女性のシーンが印象的だ。「逃げも隠れもせず、怒りましょう」と。「福島からただちに避難すべきだ」というのが安直に思えてしまうほど、覚悟し決意してとどまり続ける人の強さを垣間見た。
 上映後、松江哲明氏とスカイプをつないでイアン監督が対談。監督は「何かをせずにはいられないと、映画を観て感じてほしい。すべて国が悪いというのは簡単すぎる」。松江氏は「ポレポレにこの映画を観に来る人は既にわかっている人たち。本当に観に来なくちゃいけない人は、あえて観に来ないのだろう。この温度差を縮めたい」。この、知りたい人と避ける人との格差を縮めたのが『美味しんぼ』だったのかもしれない。だか らこそあれだけ紛糾したのか。
 イアン監督は言う。映画の中では力強く語っている人たちの中にも、現在は話すことを怖がっている空気があると。同感だ。怒りや疑問や不安を口にするだけで変人扱いされてしまうんだから、それに抗うのは大変なことだろう。この不自由さとの闘いが、今後も撮り続けるにあたってのテーマだという。それは撮影者だけでなく、被写体となる人々の課題でもあるだろう。風化させないために、何が出来るか考え続けたい。(ドキュメンタリー映画『原発の町を追われて』制作者)
*タイトルは甲状腺検査結果で、A1はのう胞無し。A2は有りで2次検査不要。BとCは2次検査要。映画は東京・ポレポレ東中野で公開中。全国順次上映予定。


4 063 オルダス・ハクスリー「すばらしい新世界 黒原敏行訳」(光文社古典新訳文庫:1932、2013訳)感想5

2015年03月26日 22時35分16秒 | 一日一冊読書開始
3月26日(火):

433ページ(本文372ページ)の内現在346ページ  所要時間 9:05(現在進行中)  図書館

→4月1日(水):本文372ページ  所要時間10:10(解説抜き)  図書館

著者38歳(1894~1963;69歳)。イギリスの作家。祖父、長兄、異母弟が著名な生物学者、父は編集者で作家、母は文人の家系という名家に生まれる。医者をめざしてイートン校に入るが、角膜炎から失明同然となり退学。視力回復後はオックスフォード大学で英文学と言語学を専攻し、D・H・ロレンスなどと親交を深める。文芸誌編集などを経て、詩集で作家デビュー。膨大な数のエッセイ、旅行記、伝記などもある。

裏表紙紹介:西暦2540年。人間の工場生産と条件付け教育、フリーセックスの奨励、快楽薬の配給によって、人類は不満と無縁の安定社会を築いていた。だが、時代の異端児たちと未開社会から来たジョンは、世界に疑問を抱き始め…驚くべき洞察力で描かれた、ディストピア小説の決定版!

 「4 048 立花隆「脳を鍛える 東大講義「人間の現在」」(新潮文庫:2000(1996)) 感想5」で「オルダス・ハックスレーの『すばらしい新世界』(1932)は、オーウェルの『一九八四年』よりもずっとすごい!」と書いてあったのがきっかけである。同じ未来のディストピアを描いた小説で、オーウェルの『一九八四年』(1949)よりすごいってどんなんだろう。その後、幸運にも図書館で本書を発見することになって読み始めた。

 あと少しだけページが残っているが、とりあえず書いておく。とにかく苦戦させられた。読みにくかった。坊主憎けりゃお袈裟まで、で翻訳者にも「下手なんとちゃうか?」と八つ当たりしてしまった。速読が全くできない。苦しい読書である。楽しくない。実は、1ページ5秒読みで終わりまで0:25で眺めてみたが、複雑で騒々しい世界が書かれてるとしか感じず、全く理解不能だった、次いで1ページ30秒読みで2:00かけて、220ページくらいまで読んだが、やはり物語りの構造がわかりにくい。それから読み直して6:40ってところだろうか。現時点で、どちらがすごいかは言えないが、どちらもすごい。

 強いて言えば、『一九八四年』が非常に政治的で“抑圧”志向の強い内容(まだ世界が統一されていない)なのに対して、『すばらしい新世界』はよりSF的、文芸的で“安定”志向の強い内容(もう世界は統一され切っている)だといえる。しかし、一見ソフトな“安定”の陰に大いなる“抑圧”が存在しているという意味では、むき出しの恐怖の『一九八四年』よりも『すばらしい新世界』の方が恐ろしいと言えるかもしれない。また、ハクスリーは、医学を勉強しているだけに科学的内容は、なかなか迫真性があった。まあ、どっちもすごい作品だ。比較の問題じゃないが…。 

 原作の著された西暦1932年の608年後である西暦2540年、「社会の安定性」という価値が絶対化された未来では、家族制度が解体され、科学の発展すら制限されている。あらゆる価値観が倒錯した世界が作りだされ、宗教も否定され、なぜか神に代わってT型フォード車の大量生産により自動車王と呼ばれたヘンリー=フォードが崇拝されている。そのため、原作のゴッドにあたる部分は、皆フォードという言葉が入る。たとえば、オーマイゴッド!は、オーフォード!となる。

物語は、フォード紀元(AF)632年(西暦2540年)のロンドン「孵化・条件づけセンター」の見学から始まる。「共同性、同一性、安定性」という究極の社会目標を実現するために、人間は母親の妊娠・出産によって生まれることを止めていた。その代わりに工場で、受精させた卵に一定のストレスを与えることで卵割を行わせ同じ遺伝子をもつ受精卵を増やす(ボカノフスキー法)、それを繰り返して最大で96人一卵性他胎児を生産可能となる。

受精卵は、まず雌豚の腹膜を内張りされたビンに着床され、1日8メートルの速度で267日、都合2136メートルのラインを移動する過程で、将来の階級ごとに、支配側のα(アルファ)、β(ベータ)、被支配側のγ(ガンマ)、δ(デルタ)、ε(エプシロン)で能力に差が出るように加工も行なわれる。

赤ん坊になってからも、被支配階級の子には本を見ると騒音、花を触ると電気ショックという根源的不快感をしつけ、さらに睡眠学習により各階級で自分以外の階級を嫌がり、自分の階級で良かったという意識を徹底的に植え付ける。

家族という概念は徹底的に破壊・否定される。たとえば、母・父・親、恋愛、一夫一婦制、出産など家族制度に関わる言葉はすべて卑語であり猥褻な言葉で目にしても口にしても耳にしてもいけない非常識な言葉となる。出産を否定された人間は皆、自分を生産してくれた工場の“ビン”を恋しがる。

 すべての苦痛・苦労の除去と快楽を与えることによる社会の安定を実現をめざす世界では、女子は生まれる前に不妊化されており、その上でフリーセックスが常識とする教育が徹底されている。多少の違和感は残るが「男女ともに特定の相手としか性交渉しないことは極めて恥ずべきこと」とされた。

 支配階級のαは、交通手段としてヘリコプターを常用し、被支配階級のγ、δ、εは製造過程で様々なストレス・刺激を与えて成長を抑制され、知能も低く抑えられていて自分たちのおかれている状況に一切の不満を持たない。

 キリスト教をはじめ、宗教が否定され、ゴッドの代わりになぜかフォードを唱え、十字架の代わりにT字架を切るという疑似宗教が成立していた。

 さまざまに施された医療措置・栄養補給・ストレスの無い生活の中で人間は衰えることの無い若々しい肉体のまま60歳までを生きて、死ぬ。死の定年制である。子供のころから、ホスピス病棟見学が行われ、死を恐れない意識が植え付けらている。

 社会や自身を不安定化するストレスや混乱に対処するためには、リアルに性的感覚を味わえる触感映画や特効薬として多用し過ぎれば命を縮めるが、適量であれば安全なソーマという快楽薬(まあ一種の麻薬・覚せい剤)などが十分に配給・保障されている。精神的に疲労したり、危機に陥れば、それに耐えるのではなく、さっさとソーマを飲んで永遠の快楽の時間を味わう。これを「ソーマの休日」という。
 フリーセックスやオージーポージー(乱交最高)の際にもソーマの服用は欠かせないものだ。
 とにかく読み難い小説だったが、その理由は明らかで、以上のように我々の常識をことごとくひっくり返した世界が描かれているために頭にストーリーが納まるのにすごくつっかえてしまい、読みがなかなか進まないのだ。ただ、この世界の構造、発想自体をのみ込むことができれば、物語自体は単純である。

人間製造工場(「孵化・条件づけセンター」)を中心にαの人々が起こす問題である。工場で働くレーニナは美貌の女性だが、多少の違和感をソーマで誤魔化して、フリーセックス(奨励されている)の日々を送っている。

 製造過程で障害があったと噂され、γ並みの背丈しかないできそこないαのバーナードは、多少の劣等感と他の人間たちとの共同・協力に違和感を覚える生活をしている。レーニナに恋心を抱くが、レーニナのフリーセックスが許せず、この世界のあり方にも疑問を抱いている。

 そんな中、レーニナと一緒に休暇を過ごせることになったバーナードは、二人で野蛮人居留地のマルパイス(旧世界の風習が残っているが、文字を知らず退行している)にいく。そして、リンダ(44歳)とジョン(16歳)母子に出会う。実はリンダは、同じ人間製造工場で生まれたβで、工場長トマキンとの性交渉によって居留地でジョンを生むが、取り残されてしまい、フリーセックスの習慣をもつため、野蛮人居留地の男たちと性交渉をしながら、ジョンを育てるが、旧世界の男の妻たちから売女として虐待を受ける。

 危険分子としてアイスランドにとばされかけていたバーナードは二人を居留地(旧世界)から連れ帰り、工場長のトマキンに逆襲する。ジョンから「お父さん」という卑語で呼ばれた工場長は罷免され二度と復帰できない。

 新世界で生まれたのに、旧世界で出産・子育て、フリーセックスを繰り返し、女たちから虐待を受け、加齢により醜く太ったリンダは、新世界では嘲笑・忌避されるが、ジョンの存在は珍重され、ミスター野蛮人(サヴェッジ)として人気の的になる。政敵を追い落とし、ジョンの保護者となったバーナードは劣等感から解放され、自らの優位さに自信を深めるとともに新世界への違和感を失って俗物化するが、上層部からは警戒される。

 やがてジョン自身が自らの意志をもって新世界を批判を始めると風向きは変わる。ジョンに同調するヘルムホルツ(バーナードの友人)は、ジョンと共に世界統制官評議会のムスタファ・モンド閣下(西ヨーロッパ駐在統制官)と論を戦わせることになる。オーウェルの『一九八四年』で言えば、黒幕主役のオブライエン的存在だろうか。

 キリスト教の廃棄、シェークスピア・文化の廃棄、職字の制限が行われた新世界に対するジョンの唯一の武器は、旧世界の地下聖所に残されていて、リンダから受け取ったシェークスピア全集から獲得した「ことば」であり、「どうして差別のもとになる人間製造を行うのか、みんなαにすれば良いはずだ!」と抗議する。

 しかし、ムスタファ・モンドは、「(シェークスピアの)他にもある」と言って旧約・新約聖書他を示しつつ、「これらの言葉はもう古い」と否定し、さらにαだけのキプロス島実験の失敗、九年戦争の経験をもちだして、社会の安定性維持こそが至高の重大事であり、そのためには能力差と差別意識を社会に組み込むことは欠くことができないと説く。

 さて、ラスト26ページで物語りはどう展開するのか。

4月1日(水): 残る本文26ページを、1:05で読んだ。解説は、読まず。

 文明生活を拒否したジョンは、共同生活を離れ、ロンドン郊外の人の来ない灯台に住み、孤独な禁欲的生活を送ろうと努力する。しかし、美しいレーニナのイメージがジョンを苦しめる。情欲と闘うために、叫びとともに自らの体に何度も鞭を打つ。しかし、その一部始終を触感映画の巨匠に撮影され、上映され大変な人気を博し、黒雲の様に群がり寄ってくるヘリコプターの見物人の群れ。繰り返される中で、レーニナが現れ、彼女を鞭打つジョン自身、見物人たちのフリーセックスの波がオージーポージー(乱交最高)となる中で我を忘れてフリーセックスをしてしまう。

 前に「実は、1ページ5秒読みで終わりまで0:25で眺めてみたが、複雑で騒々しい世界が書かれてるとしか感じず、全く理解不能だった」と書いていたが、<騒々しい世界>というのは当たっていた。ある程度、それなりに読みとれていたということかな?

 ソーマの眠りから目覚めて、自らの犯した情欲に身を任せた罪を思い出して、ジョンは絶望する。それでも押し寄せる見物の人々の群れ。灯台のドアを開けて中を覗き込み、「ミスター野蛮人(サヴェッジ)!」と呼びかけるが、中には宙に浮いて右へ左へと揺れる日本の足が見える。

※なんともしょぼい終わり方だった。ジョンの抵抗は、単なる見せ物、道化に終わった。 まあ、とりあえず読了である。

※本書では、シェークスピアや聖書を本歌取りする知識のひけらかし表現、レーニンやダーウィン他当時の有名人をもじった名前など天才がレベルの低いスノッブを気取ってるような読み難さがあった。また、作品全体のベースに、当時(1932年)の著者の人種差別意識が大きく反映されているのも気になった。今書けば、人種差別作品として糾弾を受けるような内容が多かったのは事実だ。オーウェルの「1984」と並んでディストピア作品の双璧ともいうべきこの作品が知名度において圧倒的に劣っている最大の理由の一つは、この人種差別的表現の多さと、当時の人々にはよく受けたかもしれない内向きのスノッブな表現の多用によるものと思われる。「1984」にはそういう部分が少なかった。立花隆は本作を強く推奨しているが、俺自身の感覚としては「1984」の方が好きだ。ただ、本作も映画『マトリックス』のモデルの一つのような気がする。何にせよ1932年の作品としては破格の早熟な作品だと言える。

150325 週刊金曜日:大手新聞やテレビキー局の上層部「メシ友」の実態――安倍内閣を支えるメディア

2015年03月25日 23時33分33秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
3月25日(水):

大手新聞やテレビキー局の上層部「メシ友」の実態――安倍内閣を支えるメディア
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150324-00010000-kinyobi-soci  3月24日(火)11時19分配信 週刊金曜日

 「昔ならとっくに内閣が吹っ飛んでいる」と言われるほど不祥事が続くが安倍晋三内閣は倒れない。昨年からすでに3人の大臣が辞任し、閣僚らも「補助金迂回献金」とも言える金を任意の企業・団体から受けている。
 本来ならば役職の任命責任を問われて内閣総辞職に至ってもおかしくはない話だ。だが安倍首相は危機に陥るどころか、2月19日の衆院予算委員会では質問中の玉木雄一郎衆院議員(民主)に対して本筋と関係のないヤジを執拗に飛ばし、身内の大島理森委員長に注意されるありさまだった。このように“やりたい放題”でも安泰なのはなぜか。要因の一つに挙げられるのが、大手メディア(特に新聞社とテレビ局)の追及の甘さだ。
 山本太郎参院議員は昨年12月24日、「安倍首相の『会食』に関する質問主意書」を政府へ提出した。この文書で山本議員は〈安倍首相は第二次安倍内閣発足以降、全国紙やテレビキー局といった報道各社の社長等の経営幹部や解説委員、論説委員あるいは政治関連担当記者らとの「会食」を頻回に行っている〉とした上で、〈政権のトップとメディア関係者の親密な関係、政治家とメディアの癒着が、報道の中立公正公平、不偏不党の観点から批判の対象となる〉などと指摘した。
 2013年1月から15年1月にかけて、安倍首相とメディア上層部らとの会食は実に60回を超える。新聞各社に掲載される日々の「首相動静」を丹念に拾うと浮かび上がる事実だ。
 新聞社やテレビ局には「総理番」記者がいる。安倍首相は実質的に日本の“最高権力者”だから、言動は逐一チェックされる。しかし、その記者の上司らは首相の元へ頻繁に通い、酒食を共にしているのである。各社は「情報収集のため」などと説明するが、首相の意見を知るだけなら番記者の取材で十分だし、高級料亭で飲み食いする必要はない。「本音を聞き出すには酒も必要」といった主張も欧米メディアからはバカにされている。
 そもそも上層部と首相が「メシ友」の状態で、容赦なき批判ができるのかどうかも疑わしい。


【「首相動静」が示す事実】
 安倍首相との会食がもっとも多いのは(株)読売新聞グループ本社の渡邉恒雄会長・主筆で、確認できただけで15回におよぶ。首相のご意見番気取りだろうか。次は(株)フジテレビジョンの日枝久会長で9回、大半はゴルフだ。
 『朝日新聞』『毎日新聞』『産経新聞』は歩調を合わせたかのように各6回で、全国のローカル紙にニュース配信する「共同通信」は4回、「時事通信」は8回となっている。『日本経済新聞』は2回で、『東京新聞』は1回だ。「動静」にはこの他、社名記載のない懇親会も複数回、記録されている。
 こうしてみると、やはり回数が多いメディアは政権追及が甘いという関係性が見えてくる。
 『読売』は政権に無批判な「自民党広報紙」となっているし、『産経』も、フジサンケイグループとしてかねてより自民党寄りだ。深刻なのは、『読売』には全国で17社もの関連テレビ局・ラジオ局があり、それらも本社と同じ論調となり、政権批判をしないことだ。
 『読売』と対峙することが多かった『朝日』も、昨年の日本軍「慰安婦」報道記事取り消しや、福島第一原発事故の「吉田調書」をめぐる記事取り消しなどの後から妙に弱腰だ。批判記事も扱いは小さく、インパクトに欠けることが多い。「補助金献金問題」に火をつけたのは『毎日』だが、現時点で政権を追いつめる勢いの追及はない。『東京』は質・量共に圧倒的な政権批判調の紙面作りだが、発行部数の関係もあり、孤軍奮闘の感がある。
 先述した玉木氏へのヤジ問題では、安倍首相の非論理性や、批判されるとムキになる幼稚さが明らかになった大手メディアは早急に権力者との「メシ友」をやめ、本来の責務である権力監視の姿勢を鮮明にしなければ、やがて、信頼は完全に失われるだろう。 (本間龍・著述家、3月13日号)

150324 一年前:3 080-2 堤 未果「(株)貧困大国アメリカ」(岩波新書;2013/6) 抜き出しノート

2015年03月24日 22時22分45秒 | 一年前
3 080-2 堤 未果「(株)貧困大国アメリカ」(岩波新書;2013/6) 抜き出しノート

3月24日(月):気になった内容の一部を書き抜いてみました。*「これも原発議論と同じで、GM(遺伝子組み換え)作物推進派は反対派の意見をまるっきり無視するか、非科学的だ、情...


150324 一年前:3 080-1 堤 未果「(株)貧困大国アメリカ」(岩波新書;2013/6) 感想 特5

2015年03月24日 22時21分39秒 | 一年前
3 080-1 堤 未果「(株)貧困大国アメリカ」(岩波新書;2013/6) 感想 特5

3月23日(日):278ページ   所要時間 7:20  アマゾン598円(348円+送料250円)著者42歳(1971生まれ)。どうしても読みたかった本である。図書館...


150324 安倍・菅の恫喝にNo!「ジャーナリスト同盟」通信=点火した反安倍デモ<本澤二郎「日本の風景」

2015年03月24日 21時52分00秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
3月24日(火): 安倍・菅の恫喝にNo!

点火した反安倍デモ<本澤二郎の「日本の風景」(1945) 「ジャーナリスト同盟」通信

<沖縄から東京へ> 
 東京からのインターネット情報は、点火した反安倍デモを伝えてくれている。中国や韓国のテレビは、それを大きく報道しているようだ。腐敗したNHKに代わって、CCTVやKBSが奮戦してくれている。「日本人も本気で立ち上がるかもしれない」という期待を印象付けている。うれしい悲鳴だ。これも沖縄県民の怒りが、焼けぼっくいにマッチを吸ってくれたお陰だ。東京では、3月22日の反安倍デモに1・4万人が結集した。これは反岸の60年安保を上回っている規模だろう。がんばれ沖縄・東京!

<反岸の60年安保上回る反安倍の15年安保>
 歴史は繰り返す。反省のないところには、盲目の政治が支配する。結果、同じことが繰り返されることになる。安倍暴走政治に対して、いまや反安倍の15年安保である。
 60年安保デモは、安倍の祖父・岸反動内閣に対して、学生・市民の怒りが爆発したものだ。特に学生が激しく抵抗した。これに労働者・野党が加わった。岸は防衛庁長官の赤城宗徳に「自衛隊出動」を命じたが、赤城は懐に辞表を入れて、これを拒んだ。
 赤城は戦前、南京大虐殺の地を視察しており、筆者の取材に大虐殺の証拠を語ってくれた人物でもある。宇都宮徳馬とは旧制水戸高の同窓で知られる。当時学生だった加藤紘一は、国会デモに参加、反岸を叫んだ。この加藤を大平正芳はかわいがった。加藤は今も大平政治を貫いているが、加藤が育てようとした谷垣禎一は、加藤を裏切って、今北京にいる。

<極限の平和市民が抵抗するJR東の車窓の反安倍広告>   
 ネット情報によると、JR東の電車の窓に反安倍広告が貼ってあるという。こんなことは、過去に聞いたことがない。
 思うに、平和憲法を擁護する義務のある政府や議会人が、あろうことか平和憲法に真っ向から違反する政策を強行している。「解釈改憲」どころではない。
 日本は戦争しない、出来ない憲法を70年保持して、それによって平和と繁栄を手にした。それなのに、憲法に違反して自衛隊を海外に派兵させて、戦場に立たせるというのである。
 他方、3・11によって原発の安全神話は消えた。それなのに、再稼動させるのだと息巻く安倍である。思いつめた市民が作った反安倍広告ではないか。

<9条ノーベル平和賞推薦運動も忘れないで>
 反安倍デモの同士諸君に訴えたい。9条をノーベル平和賞に推薦する運動も忘れないで訴えてほしい。
 今の日本はNHKをはじめ新聞テレビは、平和憲法の守護神ではない。政府・財閥にコントロールされていて、真実を報道しない。本来であれば、1・4万人デモで政権は崩壊する。だが、違う。新聞テレビはこの反安倍デモを小さく報じて、国民を欺いている。
 このままでは来夏の参院選、来秋の改憲国会とその後の国民投票でごまかされてしまう。
これの阻止は、9条にノーベル平和賞を受賞させることしかない。他の手段はない。安倍の野望を封じる方法はこれしかない。
 日本国民の熱い思いをノーベル委員会・ノルウエー大使館に、そして韓国や中国へと波及させるのである。9条死守が、アジアの平和と安定に不可欠なのだから。日本の再軍備・軍国主義化と、その後の核武装阻止のために、9条はますますその役割を増大させている。
 東京と沖縄の同士諸君に心から敬意を表したい。
2015年3月24日記

150324 【社説】東京新聞「県に従い作業停止を」、琉球新報「新基地停止指示 知事判断に正当性あり」

2015年03月24日 20時37分02秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
3月24日(火):

 恫喝官房長官 の「この期に及んで云々」の妄言に信じられないほどの怒りを覚える。その言葉を言うべきは、菅よ、お前じゃない。沖縄県民だ! アメリカは本当に「安倍政権と同類のグルだ」という印象を日本国民・市民や国際社会に与えてもいいつもりなのか。オバマの印象もすごく悪いぞ!

 頭を下げて、自己修正できない安倍晋三と菅恫喝官房長官は政治をする者として重大な欠陥を持っている! としか言えない。一事が万事、国際社会でも日本の孤立化は際立って行く。

【社説】辺野古基地調査 県に従い作業停止を 2015年3月24日 東京新聞

 それでも安倍内閣は、米軍基地の新設に向けて作業を強行するのか。沖縄県の許可区域外で岩礁を破壊した可能性が高いという。翁長雄志知事の指示に従い、海上作業をいったん停止すべきだ。
 安倍内閣が名護市辺野古のキャンプ・シュワブ沿岸部で進めている米軍基地新設に向けた作業は、あまりにも乱暴ではないのか。
 翁長氏はきのう、沖縄防衛局が海底掘削調査のために投入したコンクリート製ブロックがサンゴ礁を損傷した可能性が高いとして、県が海底調査を実施してあらためて指示するまでの間、すべての作業を一時停止するよう指示したことを明らかにした。
 指示に従わなければ、海底の岩石採掘と土砂採取など、岩礁破砕に関する許可を取り消すことも検討する、という。
 政府側は「現時点で作業を中止すべき理由は認められない」(菅義偉官房長官)として、指示に従わない方針のようだ。
 菅氏は常々「法令に基づいて粛々と対応する」と述べているが、県の指示も法律や県の規則にのっとった法的手続きだ。安倍内閣が日本は法治国家だと自負するのなら、まず県の指示に従い、作業を停止させるべきではないか。
 安倍内閣が辺野古での作業を進める根拠としているのは、公約に反して米軍普天間飛行場の県内移設容認に転じた仲井真弘多前知事による埋め立て許可である。
 しかし、仲井真氏は昨年十一月の県知事選で、県内移設反対を掲げた翁長氏に敗れた。前回当選時の公約を破った仲井真氏に、県民は厳しい審判を突き付けたのだ。
 続く十二月の衆院選でも、沖縄県内の全四小選挙区で県内移設を掲げる自民党候補は敗北した。
 にもかかわらず、安倍内閣は県内移設を拒む沖縄県民の民意に向き合おうとせず、翁長氏と政権首脳との面会も拒み続けている。抗議活動中の市民を逮捕、排除してまで作業を進めようとする。そんな法治国家がどこにあるのか。
 翁長氏が会見で指摘したように県民の理解を得ようとする政府の姿勢は「大変不十分」である。まずは安倍晋三首相の方から沖縄県民に歩み寄るべきだ。

 在日米軍基地の約74%が沖縄県に集中する現状は異常だ。普天間飛行場返還のためとはいえ、その負担を同じ県民に押し付けていいわけがない。基地負担を極力減らし、日本国民が可能な限り等しく分かち合うために力を尽くす。それが政治の仕事のはずである。

<社説>新基地停止指示 安倍政権は従うべきだ 知事判断に正当性あり 2015年3月24日 琉球新報

 目の前に横たわる不条理に対し、冷静に法理を尽くし、粛々と是正を求める権限行使である。沖縄の尊厳を懸けた安倍政権との攻防は新たな局面を迎えた。
 名護市辺野古への新基地建設に向け、国が投入した巨大なブロック塊がサンゴ礁を破壊している問題で、翁長雄志知事は沖縄防衛局に対し、海底ボーリング(掘削)調査など全ての海上作業を30日までに停止するよう指示した。
 作業停止を拒む政府に対し、翁長知事は「腹は決めている」と述べた。埋め立て本体工事の基盤となる岩礁破砕許可も取り消される公算が大きくなった。

「主権」はどこへ
 翁長知事は安慶田光男、浦崎唯昭の両副知事と共に会見した。新基地建設阻止に向けた不退転の決意を県内外に示す狙いがあろう。
 「沖縄のことは沖縄が決める」。われわれは地方自治の原則に根差した知事の決断を強く支持する。
 問題を整理しよう。国は新基地建設に抵抗する市民を排除するため、埋め立て海域を取り囲む臨時立ち入り制限区域を設けた。その上で、埋め立てを承認した仲井真弘多前知事から昨年8月に岩礁破砕の許可を得た。
 広大な臨時制限区域を示す浮標灯を固定する重りとして、沖縄防衛局は海底に最大160キロの鋼板アンカー248個を設置したが、大型台風で120個が流出した。
 消えたアンカーの代わりにしたブロック塊の重量は10~45トン、低く見積もっても当初のアンカーの62~280倍に及ぶ。環境保全に背を向けた常軌を逸した対応だ。
 埋め立て海域とは関係ない海域で巨大なブロックがサンゴ礁を無残に押しつぶしている。「無許可行為」が確認されれば、岩礁破砕許可取り消しなどを命じることができる。知事の作業停止指示には環境破壊を防ぐ法的正当性がある。
 一方、県は臨時制限区域内で、サンゴ礁の破壊の有無を調べる立ち入り調査を申請したが、米軍は「運用上の理由」を挙げ、不許可にした。
 だが、沖縄防衛局は連日、潜水調査を実施しており、運用上の理由は成り立たない。防衛省や外務省は県の調査実現の仲介さえしようとしない。狭量な二重基準が極まっている。
 安倍政権と米軍が気脈を通わせた県排除の構図だ。日本国内の環境を守るための調査さえかなわないなら自発的な「主権喪失」と言うしかない。安倍晋三首相が国会などで連呼してきた「主権」は沖縄では存在しないかのようだ。

低劣な品格あらわ
 「全く問題はない」。沖縄の基地負担軽減を担当しているらしい菅義偉官房長官はこの日も硬い表情で断定調の「全く」を再三口にした。強気一辺倒の物言いには、沖縄を敵視する響きがある。
 見たくない現実から目を背け、都合のよい事情だけ取り入れて強がり、恫喝(どうかつ)する。仲井真前知事による埋め立て承認にすがりつき、沖縄の民意を問答無用で組み敷くことしか打つ手がないことの表れだ。子どもじみた心性が際立つ。民主主義の価値を損なう政権の低劣な品格が映し出されている。

 沖縄の民意は「普天間固定化ノー、辺野古新基地ノー」だ。掘削強行や人権無視の過剰警備など、安倍政権のやることなすことが沖縄社会の反発を強める悪循環に陥っている。「辺野古移設か、固定化か」という脅しも沖縄に基地を押し込める差別を助長している。
 普天間飛行場は戦後、米軍が民有地を強制接収して造った。奪われた土地にできた基地を動かす先がなぜ県内なのか。かつて県内移設を認めていた県民も根本的な疑念を深め、今は総じて7割超が反対している。普天間飛行場を抱える宜野湾市でも民意は鮮明だ。昨年の県知事選と衆院選で危険性除去を訴えた仲井真前知事と自民党現職は大差をつけられた。
 民主主義を重んじる正当性は沖縄にある。安倍政権は工事停止指示を受け入れるべきだ。追い込まれているのは政権の側である。


150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)