12月28日(水):
568ページ 所要時間7:00 結論を先に言っておく。「めちゃめちゃ面白かった!」の一言に尽きる。
※大学の頃から、なぜか高橋和巳を身近に感じていた。「我が心は石にあらず」を読んだが、労働運動にピンとこなかった。「憂鬱なる党派(上)(下)」「堕落」は買ったが読めず終い。小説では、挫折したが、「孤立無援の思想」「現代の青春」「わが解体」「人間にとって」などのエッセイ集は、折に触れて目を通し、いつもお守りのように持ち歩いたり、座右に置いていた時期が長く続いた。記憶違いでなければ、大学紛争で立て籠もる学生たちが、同じ世代の高卒の機動隊員たちを蔑む罵声を浴びせるのを聞いた高橋和巳が、その歪んだエリート意識に深く失望したり、象牙の塔たる京都大学の教授選考会で強烈な差別がまかり通る現実を暴露し糾弾するのを読んで「この人は、本物のインテリ(知識人)だ!」と共感していた記憶がある。
その延長で、「邪宗門(上)(下)」2冊を買ってあったのだ。しかし、その難解そうな印象と読むのが遅い負い目と、上下1150ページを超える分量に圧倒されて、気になりながら、15年以上、本棚の肥やしとして死蔵していた本だった。
今回の一日一冊読書(風前の灯だが…)の勢いと、東大の先生方が高く評価しているのを知って、一度は挑戦してみようという気になったのだ。
文庫裏の紹介文「たとえ天国の眼前にあろうとも、一人の餓鬼畜生道の徒あるかぎり我らは昇天せじ……現世で世直しは可能なのか。ありうべき世を求めて権力と相対峙した新興宗教団体“ひのもと救霊会”の誕生から壊滅に至るまでの歴史と夢幻の花をこの世に求めて苦闘した人々を描いた壮大な叙事詩」
今回も深く味わうことなど考えていては絶対に読み通せない。「吉里吉里人」読破の時と同様、1ページ30秒眺め読みの戒律を課して取り組んだ。ただ、終盤あまりの面白さに、30秒を守れなかった。
話の展開は、三部構成。序章を経て、第一部が1930-1932年(昭和恐慌~五・一五事件)、第二部は1940年(日中戦争泥沼化)、第三部は1945年(敗戦,GHQ占領期)で戦前・戦中・戦後の大本教弾圧をモデルに創作した<ひのもと救霊会>をめぐる群像小説。
開祖=行徳まさ(出口なお?)/教主=行徳仁二郎(出口王仁三郎?)/教主夫人=行徳八重/教主長女・次女=行徳阿礼・阿貴/堀江駒・菊乃・民江/植田文麿・克麿兄弟/浮浪児(遍歴・苦学を経て三高生となる)=千葉潔/佐伯医師/有坂卑美呼/高倉佳夫看護士(元医師)etc. 三行(歩行・誦行・水行)・四先師・五問・六終局・七戒・八誓願なる要諦、「子種の夫はあっても、魂(みたま)の夫などこの世にあると思うな」
神道系新興宗教団体の成立と信者・民衆との結びつき、昭和大恐慌、小作争議、労農問題、戦前・戦中の新興宗教やプロレタリア労働運動に対する国家の弾圧・統制、天皇諫暁、宗教と性、女性の解放(ジェンダーなんて言葉は当時存在しない)、教姉教弟制(性的関係含む)、新興宗教の“世直し”とプロレタリア労働運動との近似性と接近、法廷での治安維持法違反をめぐる宗教論争、戦時下の教団分裂、五・一五事件青年将校の挫折・転落、教団壊滅;炭坑労働者の実態と悲惨、戦時中のミクロネシア・ポナペ島での布教、宗教と差別、ハンセン病患者の隔離された世界での性の問題、戦時中の大阪の貧民窟での医療、禅寺での公案とカニバリズム(貧困で餓死した母親の肉を食べた千葉潔)の対決、宗教におけるユーモアの精神・笑いの精神の大切さetc.
著者35才。買った当時は、ほとんど気にならなかったが、読んでみて、著者の年齢と作品のレベルの高さとの落差にボー然とするしかない。白川静に私淑する中国文学専門の学者である著者が、全く異なる様々な世界・世間の現状・歴史に対して、35才という若さで、どうしてこんなに緻密・詳細、リアルな記述表現ができるのか…。青年のわずかな人生経験と頭の中の知識・想像力だけで可能なのか…。日本的な簡素で枯れた表現ではない、登場人物一人ひとり、しっかりと人格を与えられた群像が縦横に動きまわり、その時代の社会・世相をまるごと表現しようとする重厚かつ執拗なエネルギーを感じさせる。なによりも引き込まれるような面白さがある。眺め読みですら、これだけすごいのだから、丁寧に再読すればどうなるのだろう…。どんな驚きと発見があるか、と思ったりもする。
ドストエフスキーやトルストイ、山崎豊子を思わせる。主人公たちだけでなく、その時代の、その社会全体を描き切ろうとするタイプの作家だ。山の木を描くために、山全体を描きだすタイプに思える。
しかし、下巻585ページにいつ挑戦できるかは、未定です…。
568ページ 所要時間7:00 結論を先に言っておく。「めちゃめちゃ面白かった!」の一言に尽きる。
※大学の頃から、なぜか高橋和巳を身近に感じていた。「我が心は石にあらず」を読んだが、労働運動にピンとこなかった。「憂鬱なる党派(上)(下)」「堕落」は買ったが読めず終い。小説では、挫折したが、「孤立無援の思想」「現代の青春」「わが解体」「人間にとって」などのエッセイ集は、折に触れて目を通し、いつもお守りのように持ち歩いたり、座右に置いていた時期が長く続いた。記憶違いでなければ、大学紛争で立て籠もる学生たちが、同じ世代の高卒の機動隊員たちを蔑む罵声を浴びせるのを聞いた高橋和巳が、その歪んだエリート意識に深く失望したり、象牙の塔たる京都大学の教授選考会で強烈な差別がまかり通る現実を暴露し糾弾するのを読んで「この人は、本物のインテリ(知識人)だ!」と共感していた記憶がある。
その延長で、「邪宗門(上)(下)」2冊を買ってあったのだ。しかし、その難解そうな印象と読むのが遅い負い目と、上下1150ページを超える分量に圧倒されて、気になりながら、15年以上、本棚の肥やしとして死蔵していた本だった。
今回の一日一冊読書(風前の灯だが…)の勢いと、東大の先生方が高く評価しているのを知って、一度は挑戦してみようという気になったのだ。
文庫裏の紹介文「たとえ天国の眼前にあろうとも、一人の餓鬼畜生道の徒あるかぎり我らは昇天せじ……現世で世直しは可能なのか。ありうべき世を求めて権力と相対峙した新興宗教団体“ひのもと救霊会”の誕生から壊滅に至るまでの歴史と夢幻の花をこの世に求めて苦闘した人々を描いた壮大な叙事詩」
今回も深く味わうことなど考えていては絶対に読み通せない。「吉里吉里人」読破の時と同様、1ページ30秒眺め読みの戒律を課して取り組んだ。ただ、終盤あまりの面白さに、30秒を守れなかった。
話の展開は、三部構成。序章を経て、第一部が1930-1932年(昭和恐慌~五・一五事件)、第二部は1940年(日中戦争泥沼化)、第三部は1945年(敗戦,GHQ占領期)で戦前・戦中・戦後の大本教弾圧をモデルに創作した<ひのもと救霊会>をめぐる群像小説。
開祖=行徳まさ(出口なお?)/教主=行徳仁二郎(出口王仁三郎?)/教主夫人=行徳八重/教主長女・次女=行徳阿礼・阿貴/堀江駒・菊乃・民江/植田文麿・克麿兄弟/浮浪児(遍歴・苦学を経て三高生となる)=千葉潔/佐伯医師/有坂卑美呼/高倉佳夫看護士(元医師)etc. 三行(歩行・誦行・水行)・四先師・五問・六終局・七戒・八誓願なる要諦、「子種の夫はあっても、魂(みたま)の夫などこの世にあると思うな」
神道系新興宗教団体の成立と信者・民衆との結びつき、昭和大恐慌、小作争議、労農問題、戦前・戦中の新興宗教やプロレタリア労働運動に対する国家の弾圧・統制、天皇諫暁、宗教と性、女性の解放(ジェンダーなんて言葉は当時存在しない)、教姉教弟制(性的関係含む)、新興宗教の“世直し”とプロレタリア労働運動との近似性と接近、法廷での治安維持法違反をめぐる宗教論争、戦時下の教団分裂、五・一五事件青年将校の挫折・転落、教団壊滅;炭坑労働者の実態と悲惨、戦時中のミクロネシア・ポナペ島での布教、宗教と差別、ハンセン病患者の隔離された世界での性の問題、戦時中の大阪の貧民窟での医療、禅寺での公案とカニバリズム(貧困で餓死した母親の肉を食べた千葉潔)の対決、宗教におけるユーモアの精神・笑いの精神の大切さetc.
著者35才。買った当時は、ほとんど気にならなかったが、読んでみて、著者の年齢と作品のレベルの高さとの落差にボー然とするしかない。白川静に私淑する中国文学専門の学者である著者が、全く異なる様々な世界・世間の現状・歴史に対して、35才という若さで、どうしてこんなに緻密・詳細、リアルな記述表現ができるのか…。青年のわずかな人生経験と頭の中の知識・想像力だけで可能なのか…。日本的な簡素で枯れた表現ではない、登場人物一人ひとり、しっかりと人格を与えられた群像が縦横に動きまわり、その時代の社会・世相をまるごと表現しようとする重厚かつ執拗なエネルギーを感じさせる。なによりも引き込まれるような面白さがある。眺め読みですら、これだけすごいのだから、丁寧に再読すればどうなるのだろう…。どんな驚きと発見があるか、と思ったりもする。
ドストエフスキーやトルストイ、山崎豊子を思わせる。主人公たちだけでなく、その時代の、その社会全体を描き切ろうとするタイプの作家だ。山の木を描くために、山全体を描きだすタイプに思える。
しかし、下巻585ページにいつ挑戦できるかは、未定です…。
それと、俺が感動するのは、大半が論理的部分の中での
人間的感情の表出だ。もう一度読んでみたい。