もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

7 064 夏目漱石「吾輩は猫である (下)」(ポケット日本文学館:1905)感想4+

2018年05月30日 23時42分16秒 | 一日一冊読書開始
5月30日(水):  

341ページ     所要時間4:20     ブックオフ105円

著者38歳(1867慶応3-1916大正5:49歳)。

後半になると登場人物も、人間関係も概略わかってきて、時間をかけて読むと存外面白かった。漱石の場合には、深い真理の議論が笑い話の形をとって隠されている。時を置いてもう一度読み直してみようと思う。

本書の構造はストーリー自体にあまり意味はない。どこから読んでもよいし、どこで読み終わってもよいエピソード集的な本であった。巻末の佐藤泉氏の解説がなかなか良かった。

以下、ウィキペディアを部分的に修正掲載
【構成】第1話:「吾輩」は薄暗いところで出生したが、まもなく書生に遺棄され、教師の家に住み込む。人間について車屋の黒から、わがままで不人情で泥棒も働く不徳者であると聞き知る。
第2話:家に、寒月、迷亭、東風などが訪問し、好き放題のでたらめを言う。三毛子が死去し、吾輩は恋に破れる。
第3話:金田の妻が寒月のことを訊きに来て、寒月が博士にならなければ娘の富子と結婚させないという。
第4話:鈴木が金田の意向を聞いて、寒月の様子を探りに来る。
第5話:苦沙弥宅に泥棒が入る。吾輩はネズミ取りに失敗する。
第6話:寒月、迷亭、東風による恋愛談義、女性論。
第7話:吾輩は運動し、公衆浴場をのぞき見る。
第8話:落雲館中学校生徒が苦沙弥宅の庭に野球ボールを打ち込み、苦沙弥は激高する。
第9話:痘痕面の苦沙弥、八木独仙の東洋流消極哲学に感心。逮捕された泥棒を刑事と間違い頭を下げる。
第10話:古井が金田の娘に恋文を送り、退校処分にならないかと心配して苦沙弥宅に来る。
第11話:寒月は珠磨をやめ、故郷で結婚した。独仙、苦沙弥、寒月、東風らによる夫婦論、女性論。来客が帰ったあと、吾輩は飲み残しのビールに酩酊し、水甕のなかに転落して水死する。

※下巻は第8話から第11話までであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

180528 もう詰んでる状態なのに投了しないアベシンゾー。どうすれば総理大臣が国会でウソをつき続けられるのか?犯罪者だろ!

2018年05月28日 21時31分09秒 | 時代の記憶
5月28日(月):  

5月26日(土)報道特集 片山善博氏コメント:

公文書は、今日の国民の皆さんに説明をするという材料でもありますけども、後世の国民にちゃんとそれは説明する、という義務もあるんですよね。この時は、こういう理由で決めたんですよ、ということが明らかにされなければいけないですよね。

だから、後世への責任て言うことも肝に銘じていけなきゃいけないですよね。今まで繰り広げられているね、なんか、もうー、将棋で言うと詰んでる状態なんですけどお、それを潔く投了しないで、ずるずるずるずるまだひょっとしたら持ちこたえられるかもしれないと思って、やられてるのを見ますとね、あのー、世間も、もうちょっと白けてくるし、呆れてくるし…、、

一方では、そういうことが許されるんだと、そういう風な悪影響も与える可能性があると思うんですね。政治や行政ってのはね、やっぱりあのー、国民に範を示す、そういう立場の人たちですから、もっときちっと身を処さなきゃいけないと思いますけどね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7 063 夏目漱石「吾輩は猫である (上)」(ポケット日本文学館:1905)感想4

2018年05月27日 11時31分53秒 | 一日一冊読書開始
5月27日(日):  

424ページ      所要時間4:15      ブックオフ105円

著者38歳(1867慶応3-1916大正5:49歳)。

子供の時から幾度となく挫折してきた作品である。手元に492ページの新潮文庫があり、387ページのページの耳を折っている。ひょっとしたら終わりまで読み通したことがあるのかもしれないが、記憶にはない。「坊ちゃん」や「こころ」「三四郎」他「草枕」「夢十夜」などは読めている。

「吾輩は猫である」は漱石の代表作として、常にトップに紹介されて、「「坊っちゃん」とともに小学生でもこれぐらいは読めてもいいだろう」とされている。しかし、俺は挑戦するたびに高い壁を感じてきた。まず日本語が変である。漢字の当て字も、これまたひどい。

迷亭、水島寒月(寺田虎彦)、越智東風、虚子といった連中が、偏屈な苦沙弥先生宅に訪ねてきて、まさに国内外の現代過去および歴史、神羅万象あらゆる話題をとりとめもなく、ただただだべり続けて、そこに系統だったつながりがまったくない。しかもその話題のレベルたるや当時の時代背景を踏まえずとも、現代人から見てもただ事でなく高尚な内容から世間話の地口まで理解しがたい話題が延々と羅列、垂れ流しされ続けるのだ。

子供の時から、今に至るまで本書を読んで「面白い」とか「楽しい」と思ったことは一度もない。何が面白いのか!?内容のレベルの高さ、および結構膨大な量といい、これを漱石の代表作として子供向けとして紹介してきた連中に対して俺は悪意を覚えてきた。俺は、「今日の小説の自然な日本語を生み出した親は夏目漱石だ」と思っている。しかし、本書の日本語は、漱石の作品の中でも最も奇異な日本語であり、内容の話題性でも連続性に難があり読み難い作品である。

どうしてこの作品が<子供向け>の面白い作品とされてきたのか、俺が長年持ち続けてきた謎である。日露戦争後半の展開と同時並行的に雑誌に連載されていた事情もあるのだとは思う。当時の日本人にとっては、短編連載という形式で読むのに面白い書き方だったのかもしれないが、現代の日本人が一度に読む作品としては、むしろ現代人にとって一番読み難い漱石作品といえるのではないかと俺は思う。

正直、今回読んでいて、筋を追うことはできても、高等遊民の登場人物たちが展開する当時も今もレベルの高い教養に裏打ちされた数々の話題の面白さを味わうことはほとんどできていない。自分で言うのもなんだが、俺の歴史・文学・地理他の一般教養は、世間的にはそれなりに高いグループにいると自負しているが、本書中の話題の意味や意義は分かっても、限られた時間の中でそれを面白いと味わえることはほとんどなかった。

これを漱石のユーモア小説として、子供や若者に薦める大人たちに対して、俺は強い欺瞞を覚える。「お前ら、本当にこの作品を面白いと思ってるのか!?この嘘つき野郎たちめ!」と言ってしまいそうになるのである。ガラの悪い言葉を使ってすみませんm(_ _)m。

でも、まだ下巻341ページが残ってるんですよね・・・。

以下、ウィキペディアを部分的に修正掲載
【構成】第1話:「吾輩」は薄暗いところで出生したが、まもなく書生に遺棄され、教師の家に住み込む。人間について車屋の黒から、わがままで不人情で泥棒も働く不徳者であると聞き知る。
第2話:家に、寒月、迷亭、東風などが訪問し、好き放題のでたらめを言う。三毛子が死去し、吾輩は恋に破れる。
第3話:金田の妻が寒月のことを訊きに来て、寒月が博士にならなければ娘の富子と結婚させないという。
第4話:鈴木が金田の意向を聞いて、寒月の様子を探りに来る。
第5話:苦沙弥宅に泥棒が入る。吾輩はネズミ取りに失敗する。
第6話:寒月、迷亭、東風による恋愛談義、女性論。
第7話:吾輩は運動し、公衆浴場をのぞき見る。
第8話:落雲館中学校生徒が苦沙弥宅の庭に野球ボールを打ち込み、苦沙弥は激高する。
第9話:痘痕面の苦沙弥、八木独仙の東洋流消極哲学に感心。逮捕された泥棒を刑事と間違い頭を下げる。
第10話:古井が金田の娘に恋文を送り、退校処分にならないかと心配して苦沙弥宅に来る。
第11話:寒月は珠磨をやめ、故郷で結婚した。独仙、苦沙弥、寒月、東風らによる夫婦論、女性論。来客が帰ったあと、吾輩は飲み残しのビールに酩酊し、水甕のなかに転落して水死する。

※上巻は第1話から第7話までであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

180526 埒もないが、昨日の日本大学学長会見の感想⇒日本大学は、もはや大学ではない。やくざの巣窟。

2018年05月26日 11時35分09秒 | 日記
5月26日(土):  

すでに記者会見や報道その他で、アメフト前監督内田某の嘘つきが常務理事というNo.2の利権(金づる)を手放さないでしがみついている。また、週刊文春の記事を見て、No.1の”相撲”理事長が内田に輪をかけたやくざ同然の人間で、この二人で日本最大の大学を牛耳っているどうしょうもない構造もわかっている。

だからこそ、せめて学長ぐらいはまともであってほしい、と少しは期待していた。その日本大学の学長の人品の卑しさを目の当たりにしてもはや絶望すらしない、ただただ日本大学という<教育機関>に呆れるばかりである。まともな大人のいない大学なのだ。およそ大学と呼ばれる教育機関の実態がこういうものだというのは、さすがに知らなかった。

かつて象牙の塔と言われ、世間・世俗とは隔絶された学問の世界というイメージが、これほどにも失墜するとは、ある意味新鮮な驚きである。少なくとも日本大学は、大学という名に値しない何ものかである。そして、まともな大人のいないこの国の政府では、まともな指導・是正は不可能だろう。

まさに、知らんぷりのパチンコ理事長も、悪徳政治家気取りで日大病院入院を隠れ蓑にしている常務理事のアメフト前監督も、超遅れて出てきて謝罪会見の場で茶化した態度で人品骨柄の卑しさをわざわざ公表した大学学長も、みんなが同じことを考えている。「ほとぼりが冷める」のを待っている。「ほとぼりが冷めたら、すべては元通り。日本大学という名の得体のしれない何かの機関(集金マシーンか?)で、知らぬ顔で前の3人とその一味・手下らが蠢動し続けるのだ。

ただただ置き去りで犠牲にされるのは日本最大の7万人の学生たちと無数にいる使い捨ての常勤・非常勤の講師たちである。罰ゲームのように本当に嫌な風景を見させられている。今の日本で最も力のある大事な言葉は、しらを切ること、居直ること、無批判に従う子分で周りを固めること、弱い者いじめを恥じないこと、愛国心を叫ぶこと。そして、世間がそれに慣れて諦めてくれること。

本当に醜くて恥ずかしい、そして恐ろしい時代になった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

180524 133万PV超:【社説】アメフト問題 選手の悲鳴受けとめよ/【社説】選手説明翌日の日大会見 責任逃れだけが目立った

2018年05月25日 19時51分57秒 | 閲覧数 記録
5月24日(木):  記録ですm(_ _)m。ブログの開設から2420日。   

アクセス:閲覧 2,093PV/訪問者 421IP

トータル:閲覧 1,331,178PV/訪問者 341,960IP

ランキング:2,551位 / 2,824,365ブログ中   週別 3,936位
朝日新聞【社説】アメフト問題 選手の悲鳴受けとめよ  2018年5月25日05時00分
 将来を嘱望された選手が、なぜ悪質なプレーに走ったのか。どんな経緯があったのか。
 日大アメリカンフットボール部の選手が関西学院大学との定期戦で危険なタックルをして、相手選手にけがを負わせた問題は、収束・和解に向かうどころか混迷の色を深めている。
 最大の責任は、事態を甘く見て不誠実、非常識な対応をくり返してきた日大にある。
 22日に記者会見した選手は、監督やコーチの指示を受けて、故意の違反行為に及んだと打ち明けた。その内容や自らの精神状態を具体的に語り、関学側への謝罪の言葉を連ねた。
 これに対し、1日遅れて会見した前監督とコーチは、けがをさせることを目的とした指示はしておらず、誤解した選手に問題があるとの説明に終始した。
 主張がこうも食い違う以上、客観的な立場からの解明が必要だ。日大は遅まきながら第三者による調査委員会を設けるという。中立公正なメンバーを選任し、事情を知り得る他の部員からも丁寧に聞き取りをして、速やかに社会に報告すべきだ。
 危険プレーに対する見解を求めた関学に対し、日大は当の本人に話を聞くことすらせずに回答していたことも、選手が会見してわかった。こんな無責任な姿勢が許されるはずがない。
 二つの会見を通じてはっきりしたこともある。日大アメフト部がとってきた、いかにも時代遅れで閉鎖的な指導法だ。
 選手と監督が話をすることはめったになく、指示はコーチが伝える。問題の選手は突然、日本代表チームへの参加を辞退するよう命じられたが、理由は説明されない。選手の発奮を促すためと称して、練習に参加することも許さず、追い込む。
 こうした一方通行の手法がまかり通っているとは驚きだ。
 近年は、国内外に留学して、最先端の練習方法やコーチ術、医学知識を習得し、科学的な指導に取り組む例が少なくない。体づくりや技術だけでなく、ストレスをどう制御するかなど、心理面でも専門家と協力して選手を導く動きが広がる。
 これに比べると日大アメフト部の異様さが際立つ。ゆがんだコーチングは選手を、そしてチームを不幸にするだけだ。
 「もう大人なのだから自分で善悪を判断すべきだった」と選手に苦言を呈する声もある。だが学生にとって指導者の存在は極めて大きく、だからこそ、その責任は重い。これからの学生スポーツのあり方を考えるうえでも、背景までしっかり掘りさげた調査を求める。
毎日新聞【社説】選手説明翌日の日大会見 責任逃れだけが目立った  2018年5月25日 東京朝刊
 日本大に対する不信感が強まっていることを大学当局者はわかっているのだろうか。
 アメリカンフットボールの悪質なタックルを巡って日大前監督の内田正人氏と、コーチだった井上奨(つとむ)氏が記者会見を開いた。タックルした日大の宮川泰介選手が指導者の指示だったと認めた会見の翌日だった。
 宮川選手は、自身の会見では名前や顔を公表し、関学大に謝罪した。指導者の発言内容やプレーに至る経緯の説明は具体的だった。だが、内田、井上両氏はあらためて指示を否定した。
 井上氏は「つぶせ」とは伝えたが、けがをさせることが目的ではなかったと強調した。内田氏はボールを見ていたため、悪質なタックルには気づかなかったと語った。
 だが、それではつじつまが合わない。試合直後、悪質な反則を問われ「(自らの指示で)やれと言ったでいい」と、プレーを承知したような内田氏の発言が報じられている。
 また、内田氏は「(宮川選手は)よくやったと思う」と話したという。反則は試合開始早々にあり、宮川選手はわずか数分間のプレーで退場した。短い出場時間のどんなプレーを評価したのか問いたい。
 被害選手側からは警察に傷害容疑で被害届が出されており、内田氏や井上氏は共謀や教唆の有無を問われる可能性がある。その責任を逃れるため、「けが」という言葉に敏感に反応した印象は拭えない。
 日大の公式見解では、指導と選手の受け取り方に乖離(かいり)があったことを問題の本質と捉えている。もし乖離があったなら、語るべきは、それを引き起こした指導者のアプローチの拙さのはずだ。
 会見からは、強圧的な態度や言葉の圧迫による古い体育会気質の指導の構図も浮かび上がった。
 本来、学生を守る立場にある大学が、選手の会見翌日に、組織防衛の形で急きょ反論会見を設定した姿勢が常識から外れている。
 約2時間に及んだ会見を強制的に打ち切ろうとした司会の大学職員にも批判が集まっている。
 日大は第三者委員会で真相究明にあたるという。しかし、一連の対応を見ていると、中立性や信頼性を保てるかどうか疑わしい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

180524 一夜おいて、昨夜の日大アメフト関係者会見の印象。無反省で度し難き人々。

2018年05月24日 05時31分57秒 | 日記
5月24日(木)早朝5:30:

一夜おいて、昨夜の日大アメフト関係者会見の印象、端的に:

自己保身による「相手の成長のために」という恩着せがましくてウソっぽい詭弁の羅列。「相手の成長のために」という題目を並べれば、すべてがゆるされるという度し難い無反省と幼稚さ。そして、大学運動部指導者としては貧し過ぎる言葉と冷静さを欠いた態度(コーチ)と度し難き冷淡・冷酷さ(前監督)。

二人の指導者からは、自らがやってしまった<取り返しのつかない行動>の結果責任への自覚・覚悟がほとんど感じられなかった。少しでも逃げれる隙があれば逃げ出したいという卑しい心がにじみ出ていた。お為ごかしに「帰れるものなら帰ってきてほしい」と最後に繰り返していた(そんなこと今さらできるわけがないだろうが、馬鹿野郎!)のも、取り返しのつかないことをしてしまったことへの自覚の低さを表明していたにすぎない。

こんな下らない指導者によって、将来ある優秀な学生がその選手生命を奪われたというのはめぐりあわせの運が悪すぎたとしか言いえない。二つの会見を見ていて、日本大学の教育機関としてのどうしょうもなさがよくわかった。日大に未来はない!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7 062 森真一「友だちは永遠じゃない ─社会学でつながりを考える」(ちくまプリマ―新書:2014)感想2

2018年05月22日 22時19分45秒 | 一日一冊読書開始
5月22日(火):  

167ページ     所要時間1:15     ブックオフ108円

著者52歳(1962生まれ)。神戸市外国語大学卒業後、関西学院大学社会学部卒業。同大学院社会学研究科博士課程修了。博士(社会学)。現在、皇學館大学文学部コミュニケーション学科教授。専門は、理論社会学、現代社会論、消費社会論。現在は、日本の消費社会を「お客様」社会と捉える研究に挑戦している。「お客様」社会化が接客業の領域を越えて、医療・教育・介護・娯楽の領域にまで広がっていること、およびそれがもたらす暴力などの問題を分析中である。著書に、単著として『自己コントロールの檻──感情マネジメント社会の現実』(講談社選書メチエ)、『日本はなぜ諍いの多い国になったのか──「マナー神経症」の時代』(中公新書ラクレ)、共著として『変身の社会学』(世界思想社)、『常識の社会心理』(北大路書房)、『現代文化の社会学入門』(ミネルヴァ書房)などがある。

久しぶりに大ハズレの本を引いた。内容を論ずる気にもならない。下らなかったの一語に尽きる。「一冊分稼げてラッキー!」という気にすらならない。

【目次】第1章 「無縁社会」って本当ですか?(無縁社会という捉え方/つながりのきっかけが変わってきた/無縁社会説が見逃していること)
第2章 「一時的協力」で考えてみよう(一時的協力理論とは何か/人と人との協力のあり方/協力に協力してくれる存在)
第3章 集団・組織での一時的協力とは(一時的協力はいつも不確か/協力を持続可能にする工夫/集団における一時的協力の見直し)
第4章 一時的協力理論がひらく可能性(ほころびだらけでも大丈夫な社会/協力しないことの意義/集団の存在意義を獲得する)

【内容紹介】凝り固まって息苦しいように感じられる人間関係や社会も「一時的協力理論」というフィルターを通すとちょっと違った成立の姿が見えてくる。そんな社会の像やそこで考えられる可能性を想像してみよう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7 061 有川浩「図書館戦争 シリーズ①」(角川文庫:2006/2011)感想4

2018年05月22日 00時09分30秒 | 一日一冊読書開始
5月21日(月):  

400ページ     所要時間3:00      ブックオフ108円

著者34歳/39歳(1972生まれ)。高知県生まれ。

1ページ30秒では最初読み難かった。人間関係がよくわからない。口絵の解説と見比べながら、100ページほど進んでようやくキャストが把握できるようになった。いったん疲れて休憩したが、再度読み始めると1ページ15秒ぐらいで眺め飛ばしていけるようになった。一々の言葉のやり取りを気にせず、何が起こっているのかに気を付けるようにすれば話の展開が大体わかるようになった。

大体の見当で話が急展開し、疾走していくのが気持ちよくなった。アニメを見ているようなイケイケ、ノリノリの展開である。あまり経験のない読書体験となった。非常に映像的な感覚は、強いてあげれば以前に読んだ「村上海賊の娘」がこんな感じだった気がする。

ある程度予想のつく展開でぐいぐいと引っ張られて最後まで行ってしまった。読後感は決して格調は高くないが、悪い感じはしなかったので感想4とした。丁寧に読めば…?とは思はない。丁寧に読むほどのものではないし、それでは最後までいかなかっただろう。今の俺には、それほど時間はないのだ。

著者が、映画「阪急電車」の原作者だと知って少し驚いた。作者が才能ある書き手であることはわかった。


【内容紹介】2019年(正化31年)。公序良俗を乱す表現を取り締まる『メディア良化法』が成立して30年。高校時代に出会った、図書隊員を名乗る“王子様”の姿を追い求め、行き過ぎた検閲から本を守るための組織・図書隊に入隊した、一人の女の子がいた。名は笠原郁。不器用ながらも、愚直に頑張るその情熱が認められ、エリート部隊・図書特殊部隊に配属されることになったが…!?番外編も収録した本と恋の極上エンタテインメント、スタート。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7 060 柏木惠子「子どもが育つ条件―家族心理学から考える」(岩波新書:2008)感想4

2018年05月20日 23時57分46秒 | 一日一冊読書開始
5月20日(日):  

229ページ     所要時間3:30      ブックオフ108円

著者76歳(1932生まれ)。千葉県生まれ。東京女子大学文学部卒業、東京大学大学院教育心理学専攻博士課程修了。教育学博士。現在、東京女子大学名誉教授。専攻は発達心理学、家族心理学

良識的で進歩的な内容の本である。その道の大家である著者が大きく風呂敷を広げて総合的に論じた印象を受け、新しい視点からの論も多くあった。部分的に是枝裕和や重松清のドラマのような味わいのあるページもあり、実際、本書中で山田太一「親にできるのは「ほんの少しばかり」のこと」(1995)が紹介がされていた。

本来であれば、感想5になるべきところだが、感想4に止めたのは、「言いたいことは十分に分かるが、それを我がことに置き換えた場合に、著者の考え方を全面的に信じて託せるかと問われれば、やはり託せない部分が残る」ことを否めないからである。

著者が善悪を決めつけてすらすらと述べている論に無批判に乗っかるのは容易いが、「本当にそうか?」と違和感を覚えるところも結構たくさんあった。「本来そうあるべきだろうが、実際はそうなってないだろう」という感じである。例えば、著者は赤ん坊は積極的観察学習者であるとしてゼロ歳児の保育園預けをプラス評価して見せる。つまり、乳幼児自身の学習能力を高く評価するのだ。

一方で、本書には全く触れられていないが、ノーベル経済学賞学者のヘックマンによる世界の貧困格差の是正において就学前教育の重要性を説く提議とは相容れない気がするのだ。環境を等しく整えたうえで、保育園などでの就学前教育を充実したグループと、手をかけなかったグループでは明らかに20代、30代など成人後の経済力・主体性などに格差が生じている。前者の方が自己肯定感も高いし、経済力もあるのだ。

著者の言うように、赤ん坊の学習能力の高さを侮ってはいけません、というだけでは「本当にそれだけでいいんですか?」という思いになり、とても任せきれない気分になるのだ。

著者の立ち位置は、わかるけど「ちょっとね…」って感じである。本書は決して読みにくい本ではないので、もう一度読み直すことがあれば、ひょっとすると感想5もあるかもしれない。感想4より下がることはまずない。

【目次】第1章 育児不安の心理(日本に顕著な育児不安ー「母の手で」規範の陰に/「子育てだけ」が招く社会的孤立/父親の育児不在という問題)/第2章 「先回り育児」の加速がもたらすものー少子化時代の子どもの「育ち」(変わる子どもの価値ー子どもを「つくる」時代の親の心理/「少子良育戦略」と子どもの「育ち」/「よい子の反乱」が意味するものー顕在化する親子の葛藤)/第3章 子育て、親子を取巻く家族の変化(「便利さ」は家族をどう変えたのか/変貌する結婚と家族/高まる家族内ケアの重要性)/第4章 子どもが育つ条件とはー“人間の発達”の原則からみる(“人間の発達”の原則と子育て/「子育て支援」から「子育ち支援」へ/子育てを社会化する意義)/第5章 子どもも育つ、親も育つー“生涯発達”の視点(子どもの育ちと親の育ち/急がれるワーク・ライフ・バランスの確立)

【内容情報】自己肯定感の低下、コミュニケーション不全の高まりなど、子どもの「育ち」をめぐって、様々な“異変”が起きている。一方、子育てのストレスから、虐待や育児放棄に走る親も目立つ。こうした問題の要因を、家族関係の変化や、親と子の心理の変化に注目して読み解き、親と子ども双方が育ちあえる社会の有り様を考える。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

180520 印象、激悪!日本大学はこの卑怯者と心中するつもりか?求められてるのは、「説明」責任だ!

2018年05月20日 13時53分31秒 | 時代の記憶
5月20日(日):

長い間、雲隠れしていた日大アメフト部の監督が、昨日のニュースに突然現れて、「すべての責任は自分にあるので辞任する」と言っていた。しかし、反則指示については説明を拒んだ。「すべての責任」という言葉に、「自分には責任はないのだが、間違いを犯した選手の責任も自分が代わりにかぶって責任を取る」と言ってるように聞こえた。一見潔い言葉に見えて、責任の所在をうやむやにするこれほど責任逃れの卑怯な言葉はない。求められてるのは、「すべての責任」ではなく、「説明責任」だ!しっかりと「説明」もしないで「責任」を取ることはあり得ない。「関学」を、「かんがくさん」と言ったり、「かんさいがくいん」と言ったりするのを見ながら、こいつは全く反省していないという気がして、いやな気分になった。

そして、今朝の報道を見て、俺の感じたことは間違っていなかったことを確信した。こいつは今も自分のことしか考えていない。責任から逃げることしか考えていない。日大の常務理事にしがみつき続ける気なのだ。この風景には既視感がある。モリ・カケ問題でうんざりするほど見させられ続けている部下や下の者に責任を取らせようとして、自らは責任から逃げ続けるアベ・アソウの姿そのものだ。日本大学にもアベ・アソウがいるのだ!と思うとうんざりする。俺の中で、日本大学の印象は完全に地に墜ちた。関東の伝統ある大学である日本大学は、こんな責任の取り方も知らない頭の悪い卑怯者のクズと心中するつもりなのか?

読売新聞負傷選手の父親「チームが一新されるかは疑問」 5/20(日) 9:20配信
 関学大アメフト部の関係者からは内田監督の説明に疑問の声が上がった。
 日本大アメリカンフットボール部の選手による危険なタックルで負傷した選手の父親は、内田監督から謝罪を受けた後、読売新聞の取材に応じ「(監督の辞任表明で)一定のけじめをつけたと思うが、危険なタックルの原因ははっきりしていない」と話した。
 さらに「『すべて私の責任』という言葉も、選手が犯した過ちの責任を自分が代わりに背負うと言っているようにも聞こえ、モヤモヤした思いが残る。チームが一新されるかは疑問。連盟の調査で真実が出てくることを願っている」と語った。
 現在も社会人で競技を続けるOBの男性(26)は「今回の反則はアメフトが危険なスポーツだと世間に誤解させてしまう行為。内田監督はきちんと説明してほしい」と述べた。


日刊スポーツ内田監督辞任「誰も納得しない」日大関係者が断言  5/20(日) 5:00配信             
  羽田空港で報道陣に対応する日大の内田監督(撮影・野上伸悟)
  「監督辞任だけでは体質や体制は変わらず、問題解決はしない」。日大アメリカンフットボール部OBを含めた複数の関係者は19日、内田監督辞任だけでは事態は収まらないと明かした。監督はコーチ陣全員の残留を明言し、日大常務理事などの役職としての責任は別問題とした。関係者はラフプレーを容認したコーチ陣の総退陣に、内田監督が役職から離任しない限り解決にはならないとした。まだ部の存続危機に変わりはないと怒りを込めて話した。
  内田監督が6日の関学大戦後、初めて公の場に姿を見せた。「すべては私の責任」と謝罪はしたが、1人で全責任をかぶるつもりのようだ。ラフプレーの反則は監督指示とされるが、詳細は24日までの再回答でとした。その内容にもよるが、日大関係者は「これでは誰も納得しないし、解決にはならない」と断言した。
  今春のオープン戦では15人のコーチが試合登録していた。内田監督はコーチ陣の辞任については「考えていない」と全員残留させるつもりだ。関係者は「コーチもみんな辞めなければ体質は同じ」とあきらめ顔で話した。
  関学大戦で退場となったDL選手がベンチに戻っても、コーチは誰ひとり注意する様子はなかった。1人は話をしていたがヘルメットをなでるようなしぐさ。通常は最初の反則でベンチに下げて注意する。コーチもラフプレーを容認したと言え、監督指示でなかったとしても、指導する姿勢に問題がある。
  さらに関係者は根本的問題があるという。内田監督は人事担当の常務理事で、相撲部総監督でもある田中理事長の側近の1人。人事部長に運動部予算を握る保健体育審議会局長も務めるNO・2の座にいる。内田監督は役職については「それは違う問題ですので」と辞任の考えはないようだ。
  関係者は苦笑しながら言った。「監督を辞任しても院政になるだけ。もし総退陣しても、息のかかった後任を連れてくれば同じだ。役職、本体から離れなければ、部への影響力に変わりはない」。
  事実、日大の強豪付属高で長年指導してきたOBの監督が、4月1日付でアメリカンフットボール部のない付属高へ転勤となった。「人事を握っているので誰も何も言えない状況にある」。コーチから外れてから転勤となった日大職員のOBもいるそうだ。
  OBらの関係者は部員の今後、将来を心配する。名門の看板に傷はついたが、部の存続だけは願っている。ただし「内田監督が本体を離れない限り協力や支援する考えはない」とも話した。そうしたOBは多く、騒動の結末を注視している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

180518 132万PV超:【政治季評】忖度を生むリーダー 辞めぬ限り混乱は続く 豊永郁子  ※朝日新聞にも曽我豪というアベのアイヒマンがいる(もみ)

2018年05月19日 12時18分10秒 | 閲覧数 記録
5月18日(金):  記録ですm(_ _)m。ブログの開設から2414日。   

アクセス:閲覧 1,227PV/訪問者 316IP

トータル:閲覧 1,320,349PV/訪問者 339,679IP

ランキング:4,113位 / 2,823,325ブログ中   週別 4,463位
  ※朝日新聞にも曽我豪というアベのアイヒマンがいる(もみ)
朝日新聞【政治季評】忖度を生むリーダー 辞めぬ限り混乱は続く 豊永郁子 2018年5月19日05時00分
 アイヒマンというナチスの官僚をご存じだろうか。ユダヤ人を絶滅収容所に大量輸送する任に当たり、戦後十数年の南米などでの潜伏生活の後、エルサレムで裁判にかけられ、死刑となった。この裁判を傍聴した哲学者のハンナ・アーレントは「エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告」を執筆し、大量殺戮(さつりく)がいかに起こったかを分析した。
 前国税庁長官・財務省理財局長の佐川宣寿氏の証人喚問を見ていて、そのアイヒマンを思い出した。当時、佐川氏ら官僚たちの行動の説明として「忖度(そんたく)」という耳慣れない言葉が脚光を浴びていた。他人の内心を推し量ること、その意図を酌んで行動することを意味する。私はふと、アーレントがこの日本語を知っていたらアイヒマンの行動を説明する苦労を少しは省けたのではないかと考えた。国会で首相の指示の有無を問いつめられる佐川氏の姿が、法廷でヒトラーの命令の有無を問われるアイヒマンに重なったのである。
     *
 森友学園問題――国有地が森友学園に破格の安値で払い下げられた件、さらに財務省がこの払い下げに関する公文書を改ざんした件――については、官僚たちが首相の意向を忖度して行動したという見方が有力になっている。国会で最大の争点となった首相ないし首相夫人からの財務省への指示があったかどうかは不明のままだ。
 アイヒマン裁判でも、アイヒマンにヒトラーからの命令があったかどうかが大きな争点となった。アイヒマンがヒトラーの意志を法とみなし、これを粛々と、ときに喜々として遂行していたことは確かだ。しかし大量虐殺について、ヒトラーの直接または間接の命令を受けていたのか、それが抗(あらが)えない命令だったのかなどは、どうもはっきりしない。
 ナチスの高官や指揮官たちは、ニュルンベルク裁判でそうであったが、大量虐殺に関するヒトラーの命令の有無についてはそろって言葉を濁す。絶滅収容所での空前絶後の蛮行も、各地に展開した殺戮部隊による虐殺も、彼らのヒトラーの意志に対する忖度が起こしたということなのだろうか。命令ではなく忖度が残虐行為の起源だったのだろうか。
 さて、他人の考えを推察してこれを実行する「忖度」による行為は、一見、忠誠心などを背景にした無私の行為と見える。しかしそうでないことは、ヒトラーへの絶対的忠誠の行動に、様々な個人的な思惑や欲望を潜ませたナチスの人々の例を見ればよくわかる。
 冒頭で紹介したアーレントの著書は、副題が示唆するように、ユダヤ人虐殺が、関与した諸個人のいかにくだらない、ありふれた動機を推進力に展開したかを描き出す。出世欲、金銭欲、競争心、嫉妬、見栄(みえ)、ちょっとした意地の悪さ、復讐(ふくしゅう)心、各種の(ときに変質的な)欲望。「ヒトラーの意志」は、そうした人間的な諸動機の隠れ蓑(みの)となった。私欲のない謹厳な官吏を自任したアイヒマンも、昇進への強い執着を持ち、役得を大いに楽しんだという。
 つまり、他人の意志を推察してこれを遂行する、そこに働くのは他人の意志だけではないということだ。忖度による行動には、忖度する側の利己的な思惑――小さな悪――がこっそり忍び込む。ナチスの関係者たちは残虐行為への関与について「ヒトラーの意志」を理由にするが、それは彼らの動機の全てではなかった。様々な小さなありふれた悪が「ヒトラーの意志」を隠れ蓑に働き、そうした小さな悪が積み上がり、巨大な悪のシステムが現実化した。それは忖度する側にも忖度される側にも全容の見えないシステムだったろう。
     *
 このように森友学園問題に関して、ナチスに言及するのは大げさに聞こえるかもしれない。しかし、証人喚問を見ていると、官僚たちの違法行為も辞さぬ「忖度」は、国家のためという建前をちらつかせながらも個人的な昇進や経済的利得(将来の所得など)の計算に強く動機づけられているように感じられ、彼らはこの動機によってどんなリーダーのどんな意向をも忖度し、率先して行動するのだろうかと心配になった。また、今回の問題で、もし言われているように、ひとりの人間が国家に違法行為を強いられたために自殺したとすれば、そこに顔を覗(のぞ)かせているのは、犯罪国家に個人が従わされる全体主義の悪そのものではないか、この事態の禍々(まがまが)しさを官僚たちはわかっているのだろうか、と思った。
 以上からは、次の結論も導かれる。安倍首相は辞める必要がある。一連の問題における「関与」がなくともだ。忖度されるリーダーはそれだけで辞任に値するからだ。
 すなわち、あるリーダーの周辺に忖度が起こるとき、彼はもはや国家と社会、個人にとって危険な存在である。そうしたリーダーは一見強力に見えるが、忖度がもたらす混乱を収拾できない。さらにリーダーの意向を忖度する行動が、忖度する個人の小さな、しかし油断のならない悪を国家と社会に蔓延(はびこ)らせる。 すでに安倍氏の意向を忖度することは、安倍政権の統治の下での基本ルールとなった観がある。従って、忖度はやまず、不祥事も続くであろう。安倍氏が辞めない限りは。
     ◇
 とよなが・いくこ 52歳(1966生まれ)。専門は政治学。早稲田大学教授。著書に「新版 サッチャリズムの世紀」「新保守主義の作用」。

   アベのアイヒマン 曽我豪
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

180518 一年前:170517 「ジャーナリスト同盟」通信:売国奴首相の心臓が止まる!<本澤二郎の「日本の風景」(2608)

2018年05月19日 01時37分12秒 | 一年前
5月18日(金):

ふと思う。民主主義の反対は何だろう? ヒトラーは、ワイマール憲法下の民主主義から生まれた。ファシズム、独裁政治は民主主義の反対概念ではない。そして今、日本で児戯に等しいウソを国民の前でつき続けている能無しが”総理”の座にしがみついている。20代・30代の馬鹿が支持しているために支持率が落ちないので辞めさせられないのだそうだ。

これはもはやファシズムの再現である。この国はいつからこんなに愚劣な国になり果てていたのか。バカも休み休みにしろ!

170517 「ジャーナリスト同盟」通信:売国奴首相の心臓が止まる!<本澤二郎の「日本の風景」(2608)
5月17日(水):  「ジャーナリスト同盟」通信:売国奴首相の心臓が止まる!<本澤二郎の「日本の風景」(2608) 2017年05月17日<籠池爆弾がさく裂>  一心太助流......
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7 059 チャールズ・チャップリン「チャップリン自伝―若き日々 中野好夫=訳」(新潮文庫:1966/1981)感想4

2018年05月19日 01時16分33秒 | 一日一冊読書開始
5月19日(金):    

317ページ    所要時間3:25     ブックオフ108円

著者77歳(1889~1977:88歳) チャップリンが生まれたのは、日本の憲法ができた年(明治22年)である。第一次世界大戦の始まった年(1914)に彼は25歳である。

本書は1966年版の自伝の内、最初の3分の1が、1981年に「My Early Years」のタイトルで再出版されたものである。従って、最後までいってもチャップリンは20代半ばである。

まともな読書ではない。眺め読みである。だが、良い読書体験にはなった。チャップリンが、早くに父に死に別れ、母も精神の病に倒れ、兄とともに貧民院や孤児院を転々とする極貧の中で、10代で旅芸人一座で稼ぎ、イギリスのあちこちをまわり、フランスにも行き、アメリカに渡り、一度目はうまくいかず、イギリスにもどり、再度アメリカにわたって映画と出遭う。

決して聖人君子ではなく女遊びもするし、出演契約の駆け引きで吹っ掛けもするが、生きるのに精一杯で懸命に道を探す中で映画に出会う。それはあまり幸運な出会いではなく、当時の映画の常識は、チャップリンの感覚や考え方とはずいぶん離れていた。しかし、そのことは逆から観れば、チャップリンの映画に対する考え方が如何に斬新で彼が未開拓な可能性に満ち満ちたフロンティアの前に立っていたかを示すものであった。

初めのうち、理解されないまま不遇であったチャップリンは、何とかして自分の演技、ギャグ、笑いを映画に盛り込もうとするがことごとく阻まれていたが、偶然に機会に例のだぶだぶズボンに蝶ネクタイ、山高帽にちょび髭のキャラクターを急ごしらえで作った後、しばらくして映画会社の彼に対する態度が変わり始める。あとでわかることだが、チャップリン出演の映画の注文が伸びていたのだ。

その当たり役を得た20代半ば以降のチャップリンの映画界での出世の速さは一気呵成であった。西海岸から東海岸への5日間の列車の旅の先々で彼を大歓迎する人の群れの中、ニューヨークに着いたチャップリンは年額67万ドル(20億円ぐらいか?…)の契約を結ぶというところで終わる。

まだ、「モダンタイムス」や「街の灯」や「独裁者」など彼の代表作といわれるものは一切出てこない。あくまで本書では彼の子供時代から世に出るまでの話だけが出ているに過ぎない。訳者の中野好夫が言うように、残り3分の2も読めれば読みたいと思うが、とにかく彼の人生の出発点の惨めさと波乱万丈ぶり、そして絶望することなく自らの才能だけで一気にかけ上がった見事さが印象的だった。

【内容紹介】*突然声の出なくなった母の代役として五歳で初舞台を踏み、母の発狂、父の死、貧民院や孤児院を転々とし、ついに地方まわりの一座に拾われて役にありつく――あの滑稽な姿、諷刺と哀愁に満ちたストーリーで、全世界を笑いと涙の渦に巻き込んだ喜劇王チャップリンの生いたちは、読む者を興奮させずにおかない。神話と謎につつまれたその若き日々を、みずからふりかえって描く。/*ロンドンの薄汚れた劇場で、母の代役として五歳で初舞台を踏んだチャップリン。母の精神病院収容、継母の虐待、アル中の父の死…度重なる苦難に襲われ、救貧院・孤児院を転々とした少年は旅回りの一座で子役にありつく。やがてコメディアンの才能を見出され渡米すると、草創期の映画界に引き抜かれ、夢のような日々が始まった。大スターまでの階段を一気に登りつめた「喜劇王」の前半生。

【著者情報】チャップリン,チャールズ(Chaplin,Charles)
1889-1977。ロンドン生れ。両親とも芸人。母のヴォードヴィルのカーノー一座と共に渡米。1913年キーストン喜劇映画会社に入り、浮浪者スタイルや、笑いと涙、風刺と哀愁に満ちた作品で卓越した評価を受ける。’52年赤狩りで米国を追われ晩年はスイスに居住。’75年3月には英国王室から大英帝国勲章第二位(ナイト・コマンダー)を授与される。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

180515 日刊ゲンダイ:鈴木邦男氏が明言 「私は愛国者」「国のため」と声高に言う人は偽物 ※すごく当たり前のこと!(もみ)

2018年05月15日 22時33分42秒 | 時代の記憶
5月15日(火):   「今の政権には反省がない」と鈴木邦男氏(C)日刊ゲンダイ
日刊ゲンダイ鈴木邦男氏が明言 「私は愛国者」「国のため」と声高に言う人は偽物 注目の人 直撃インタビュー 2018年5月14日 

本当に自信があれば謙虚になれるはず
  世の中が右傾化しているといわれる。安倍政権を支持する勢力には、排外主義をあらわにする極右的な思想の持ち主も少なくない。政権側も右翼的な政策を推し進めてきた。安倍政権の5年間で日本はどう変わったのか。今後、どうなるのか。民族派右翼の重鎮、「一水会」元最高顧問の鈴木邦男氏に話を聞いた。
  ――安倍政権や、そのコアな支持層は果たして「右翼」なのでしょうか。保守というより反動のようにも感じますが。
  今の政権には反省がない。歴史を見る目がないというか、直面する勇気がないんでしょう。それは保守的な態度ではないと思います。例えば、東京裁判を見直すという。見直してどうするのか。もう一度、戦争をするとでもいうのでしょうか。
  ――ヘイトスピーチや排外主義的なデモも目立つようになりました。
  僕は日本が好きだけど、そんなに立派な国だとは思っていない。どうしようもない失敗もしてきましたからね。それでもこの国が好きだと思うのが本当の愛国心ではないですか。今は政権中枢が率先して「侵略も虐殺もなかった」と過去から目をそらし、歴史をフィクションで糊塗しようとしている。民族間の憎悪をあおり、韓国や中国をバカにした本が書店に並ぶ。韓国を褒めたり、日本政府を批判すれば、非国民のように叩かれる。そんなものは愛国心でも何でもありません。
  ――安倍政権イコール国ではないのに、ちょっとでも政府を批判すると、国賊扱いですからね。
  しかし、「国のため」とか「私は愛国者」とか声高に言う人は偽物だと思いますよ。そういうのは、心の中で思っていればいい。行動を見て、周りが判断すればいいのです。外に敵をつくって支持を固めるのは、運動家の常套手段。政府や政党がそれをやるべきではない。
  ――この春から、小学校で「道徳」が教科化され、道徳心や愛国心に成績がつけられます。どうやって愛国心の有無を判断するのでしょう。
  愛国心に右翼も左翼もない。周りに迷惑をかけず、人に優しくしている人が一番の愛国者です。無理して「日本は素晴らしい」と言わなくてもいいと思う。物を贈る時も「つまらないものですが」と言ったり、愚妻や愚息という言い方をするのが日本の精神ですよね。本来は謙虚な文化なのに、今は自分で自分を褒めてしまう。自国のことも「愚国」「弊国」くらい言ってもいいのにね。会社だって、弊社と言うでしょ。本当に自信があれば、謙虚になれるはずですよ。
  ――そういうことを言うから、「自虐的だ」と右翼界隈から目の敵にされる?
  僕は母が宗教団体の「生長の家」に出入りしていた関係で、青春時代は生長の家の運動に情熱を燃やし、今の日本会議の連中とも一緒に学生運動をやっていた。対立して追い出されたけど、今はよかったと思っている。あのまま日本会議にいたら、視野狭窄になっていたでしょうね。
  ――日本会議の運動は、左翼に対する敵視が凝縮されたものに見えます。鈴木さんも「サヨクに転向した」と批判されていますね。 
  右でも左でも、同じ考えの人が集まると暴走する。批判は排除され、過激なことを言う人が支持を集めます。アナキストの竹中労の「人は弱いから群れるのではない。群れるから弱くなるのだ」という言葉を聞いた時、僕は最初、意味が分からなかった。「何言ってるんだ、弱いから群れるのだろう」と思っていた。でも、やはり群れるから無力になるんだということが分かってきた。
  ――日本会議は安倍政権を支える一大勢力基盤だといわれ、集団的自衛権の行使容認も、憲法改正も日本会議の悲願だと聞きます。
  彼らは「三島事件」の絶望を味わっている。三島由紀夫が憲法改正を求めて自衛隊に決起を呼びかけ、後に自決したことがトラウマになっているのです。安倍政権の間にしか憲法改正のチャンスはないから、何としても成し遂げなければならないという強迫観念があるのでしょう。

自由のない自主憲法より、自由のある押し付け憲法
  ――現政権が目指す憲法改正についてはどう考えていますか。
  僕は、安倍首相の憲法改正には反対です。本来、憲法には夢や理想が必要なはずなのに、思想性もなく、ただ戦前に戻ろうとしているように見える。戦争であれだけの犠牲を払ったのに、教訓を生かせず、軍備を増強して国民の人権を抑圧するなんて愚かすぎます。僕は現行憲法は米国による「押し付け憲法」だと思っていて、自主憲法の制定には賛成だけど、自由のない自主憲法より、自由のある押し付け憲法の方がずっとマシだ
  ――改憲派は家父長制の復活を目指しているように感じます。
  夫が働き、妻は家に尽くして、子どもを産み育てるという戦前の構図をつくりたいのでしょう。個人の自由を抑圧するこのシステムは、為政者にとって都合がいい。そのうち選挙権も一家で一票という形にしたいのかもしれない。そういう家の集合体を統治するのが「国家」という大きな家であり、トップの言うことに国民は従うべしという考え方です。
  ――道徳を教科化するなど、愛国心を植え付ける教育方針も、国家への忠誠心を養うためですね。
  実は、三島由紀夫は自死の2年前に朝日新聞で「私は愛国心という言葉が嫌いだ」と書いていました。「愛というなら分け隔てないはずで、《人類愛》というなら分かるが、《愛国心》というのは筋が通らない。愛国心は、国境で区切られてしまう」というのです。三島は徴兵制にも反対していて、「国防は国民の名誉ある権利であり、徴兵制にすると汚れた義務になる」と言っていた。50年前の三島の言葉は、今の我々に向かって言っているように感じます。

歴史を学ばず反省がないから戦前に戻ろうとする
  ――愛国心は、上から強制するものではないということですね。
  韓国や中国に敵愾心を抱くとか、ヘイトスピーチの類いなんてのは愛国心とは別物です。1905年、日本が日露戦争に勝利した際、全権代表としてポーツマス条約の締結に臨んだ小村寿太郎外相は、賠償金も取れない勝利で帰国後に批判されることは分かっていた。しかし、「ここで戦争を終結させられるなら、帰国して殺されてもいい」「売国奴と罵られてもいい」という覚悟があった。こういう人が本物の愛国者でしょう。ところが、日本は日露戦争に「勝ったこと」にしてもらい、一等国に仲間入りして舞い上がってしまった。それで、ロシアよりはるかに強い米国に戦いを挑んでいった。愚かですよね。
  ――戦争を知らない世代ばかりになって、「戦争だけはしてはいけない」と言う政治家も減っているように感じます。
  反省がないから、戦前に戻ろうとする。慰霊は当然ですが、歴史を検証してただすのは危うい。天皇陛下は激戦地をめぐる慰霊の旅をなさっています。憲法も守っている。保守を名乗る人々が「憲法改正で天皇陛下を国家元首に」などと主張するのは、陛下のお気持ちをおもんぱかっているとは思えない。むしろ、ないがしろにしているのではないか。
  ――安倍政権が終われば、戦前回帰を望むような妙な空気は消えるのでしょうか。
  仮に安倍首相から次のトップに交代しても、自民党政権の間は“強い明治”への回帰路線は変わらないでしょう。国民もそれを求めているのだと思います。
  ――国民が求めている?
  自信を持てない人たちは、国家が強くなれば自分たちも強くなるような錯覚を抱いている。それで、「中国や韓国は許せない」と拳を振り上げたり、ゲーム感覚で「北朝鮮をやっつけろ」と戦争をあおるようなことまで言い出す。政治家は、そういう国民受けを狙って、強い言葉で隣国や外国人を非難するようなことを言えば愛国者として支持されると思っている。お互いの相乗効果で、憎悪にまみれた偽物の愛国心が幅をきかせているのが現状ではないでしょうか。
(聞き手=本紙・峰田理津子)
▽すずき・くにお 1943年福島県生まれ。早大政経学部卒。学生時代から右翼運動に関わり、72年に民族派右翼の「一水会」を結成。99年まで代表を務めた。著書に「新右翼<最終章>」「失敗の愛国心」「言論の覚悟 脱右翼篇」など。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

180514 全面支持! 【政治断簡】私たちは、黙らない 編集委員・高橋純子

2018年05月14日 23時56分05秒 | 時代の記憶
5月14日(月):   
朝日新聞【政治断簡】私たちは、黙らない 編集委員・高橋純子  2018年5月14日05時00分
 あっそうなのデベソなの。
 出典は今もってナゾだが、幼き頃、くだらん屁理屈(へりくつ)をこねると母にこういなされた。
 「はめられて訴えられているんじゃないかとか、ご意見はいっぱいある」
 あっそうなのデベソなの。
 「セクハラ罪っていう罪はない」
 あっそうなの副総理なの。
 無知であることは罪ではないが、無知に開き直る無恥は罪、ましてや政治家であれば大罪であると、私は思う。
 2008年、首相に就任したかの氏は所信表明演説で、「この言葉よ、届けと念じます」と初々しく前置きし、語った。「日本は、明るくなければなりません。(略)わたしども日本人とは、決して豊かでないにもかかわらず、実によく笑い、ほほ笑む国民だったことを知っています」
     *
 それから10年。この国は、暗い。実によく冷笑し、嘲笑し、無恥な者が威張り散らす陰気で陰険な空気に覆われている。政治家が率先して範を垂れ、せっせと種をまいてきた結果である。
 セクハラという人権侵害に対し、明確に自分の言葉で謝罪しないばかりか、加害者をかばい、被害を告発した側に非があるかのごとき発言を続ける。そのようなむちゃくちゃを、この国の最高責任者は我関せずと放置している。
 かくして社会に垂れ流されるメッセージは。
 逆らっても無駄だ。
 お前たちは無力だ。
 物理的に暴力を振るわれているわけではない。なのに力ずくで抑え込まれたような、口をふさがれたような、恐怖と屈辱が身の内で膨れる。
 「1億総活躍」だと。
 「女性が輝く社会」だと。
 ちゃんちゃらおかしくて、ヘソで茶を沸かしてしまったではないか。
 ぶぶ漬けでもどうどす?
     *
 女という性への抑圧は、至るところに転がっている。黄金週間、たまたま立ち寄ったインテリア店で、はたと目に留まったピンク色のスリッパ。甲の部分に刺繍(ししゅう)がしてある。「I’m Yours」。私は、あなたのもの……。カップル仕様なのだろうか、深緑色の方は「You’re mine(あなたは私のもの)」だ。
 もちろんピンクの方を履く男性もいるだろう。わかっている。それでもピンクに課された「私はあなたのもの」にぎゅううと胸が痛んだのは、1週間前、私は私のもの」という訴えを聞いたからだ。
 東京・新宿駅東口の広場。「私は黙らない」というイベントで、学生や主婦、女性も男性も次々マイクを握った。
 レイプされた経験を語った彼女。この問題は男と女の闘いではなく、共に立ち上がらなければと言った彼。それぞれの声は時に怒りに震え、涙にぬれ、それでも、前に向かってまっすぐに放たれる。自らを鼓舞するため。傷つけられた誰かを励ますため。共に笑える社会を築くため。
 私はもう黙らない。あなたは何も悪くない。あなたは決してひとりじゃない
 私たちは黙らない。声を上げることをあきらめない
この国にはびこる冷笑と嘲笑を打ち破る。いつか、必ず。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)