12月23日(土):
昨夜「コウノドリ(第2シリーズ)全11話」の最終回を観終わった。そして録画を既に3回観直している。その前の第1回から第10回までは何度も何度も見直して、ほぼすべて10回近く見直している。ほとんどBGMのように流しているのだ。他にいろいろな番組があるのに、俺はこの3カ月「コウノドリ」ばかりを流し続けていたことになる。逆に言えば、そうやって見直すことができる内容の作品だったということだ。
第1シリーズでは、コウノドリを<知のドラマ>ではなく、<情のドラマ>だから何度でも見なおすことができる。故桂枝雀師匠の「<知>には記憶があるが、<情>には記憶がない。赤ちゃんを一度見たら終わりではなく、何度でも見たくなるのが分かりやすい例だ。そして、筋書きも結末もすべてわかっている<落語という芸>が成立する理由もそこにある。」と述べてられていることを紹介したが、今回の「コウノドリ2」もまさに前回シリーズを踏襲して、<情のドラマ>になっていた。
しかし、今回の「コウノドリ2」は、単なる<情のドラマ>ではなかった。「満を持して」という言葉があるが、まさに今回は「満を持して放たれた内容」だった。つまり、第2シリーズでは、一定の視聴率は約束されている中で、ただ単に視聴者に阿るのではなく、「医療」を扱う作品としての社会的影響力の大きさを強く自覚し、社会の無知・無理解を少しでも物語りを通して啓発していこうという<志>を前回にも増して強く感じた。
本作品を繰り返し見直しながら俺が感じた言葉を列挙すると、中心にある<情のドラマ>ということに加えて、医療者・医療現場の<志操>、<節義>、<患者本位>、<奥行きの広さ>、分野を超えたチームとしての<総合医療>の大切さ、そして自らの<無知>に対する<謙虚>と<学び>、そして<理想>であった。これらをまとめれば、
<損得を超えた価値観>の存在である。
書きながら気づかされるのは、このドラマが提示している世界観は、弱肉強食の肯定、弱者への責任転嫁と切り捨て、利益・能率第一、儲けて何が悪い!等の<新自由主義>を標榜する日本社会で、厳しい<現実?>の前で<損>だ、<能率>が悪いとバカにされ、貶められ、無理やり忘れさせられてきた大切な価値観の数々である。
別に、肩を怒らせて言うわけではないが、「コウノドリ」が提示してきた世界観は、まさに<新自由主義>、<グローバル>を標榜する<夜郎自大>な日本社会の風潮に対する真っ向からの<アンチテーゼ>であったのだと思う。心身を擦り減らしながら時にバーンアウトにまで追い込まれる患者本位の医師、助産師、看護師の存在、時に反発しつつもその医療者たちの良心を信じて人生の重大な決断を委ねる夫婦、そういった<理想>の世界を描きながら、優しいだけのドラマに堕さない、堕すことを許されない産科医療、救命救急医療、過疎の地域医療のまさに厳しい<現実!>が描かれている。
このドラマを、単なるお涙頂戴のドラマと考える視聴者は、自らの不明を恥じるべきだろう。第2シリーズでは、第1シリーズをずっと凌駕する<奥行き>と<厚み>と<使命感>への自覚を俺は感じた。ホームページに、新たに?厚生労働省とのリンクが貼られていたことにも、それがわかる。
そして、今回のシリーズの凄味は、それらのある種の教科書的<使命>を果たしながら、何度でも見直したくなる、見直すことのできる<情のドラマ>としてのクオリティーを維持するどころか、増幅して内容をより一層充実させていることだ。理由は恐らく2つ、主演の綾野剛には気の毒ではあるが、脇を固める俳優たちが今や主役クラスの一線級に成長して、それぞれが自らの持ち役を大きく成長させ、リアリティのある存在として活躍する広がりのある<群像劇>になったこと。コウノトリ先生は、いわば群像劇の中のナビゲーター的存在となった。そして、綾野剛は、その役目を見事に演じきった。次に、新しい登場人物の俳優たちが話の進行の中で違和感なく、個性的な役を演じきったこと、そして前回のシリーズで脇を固めた医師たちが効果的に順次表れて登場人物がどんどん増えながら物語り全体に<群像劇>としての厚みと広がりがいや増していったことである。これによって、今回新たに「コウノドリ」を見始めた視聴者だけでなく、前回シリーズを見ていた視聴者にとって堪らない最高のドラマになったのだ。初回に18トリソミーの赤ちゃんのナオトくんが2歳健診で登場したときには涙ぐんでしまった。
そして、<群像劇>として最高潮を迎えた最終回で、医療における<現実主義>を最も主張してきた、あのツンデレの優しき四宮先生(星野源)に能登半島の地域医療という最も<理想主義>的な選択をさせての過疎地に送り出し、助産師の小松さん(吉田羊)を病院外から妊産婦に寄り添う新たな施設の起ち上げに向かわせ、白川先生(坂口健太郎)をより高みを目指す大学病院へ送り、下屋先生(松岡茉優)はすでに救命救急の現場で不可欠な存在となりつつある。いわば、
主役の綾野剛と、ドラマの要(かなめ)の大森南朋を残して見事にこの<群像劇>は見事に解体されたのだ。しかし、それはペルソナ総合医療センターの世界が見事に<解き放たれた>とも言える、つまりバラバラになったのではなく、そのフィールド、活躍の場を見事に広げて見せたとも言えるのだ。
俺は「コウノドリ」は、第2シリーズでもう終わりだと思っていたが、
今回の終わり方を見て第3シリーズの可能性をほぼ確信した。スペシャル編を一本作るだけでは、もったいないほどの十二分な布石が打たれているのだ。「完結編」としての第3シリーズができても、何の不思議もないし、俺は是非観たいと思う。今回、このドラマを見ることによって俺自身本当に多くの<学び>を得たと思っている。本作品は、ある意味、どうしても必要な社会的使命をも担った、そして何よりも視聴者に何度も見直したくさせる<情のドラマ>、故桂枝雀師の落語のような噛めば噛むほど味わいのある、世の中(日本)に必要なドラマである。
俺がわざわざ指摘するまでもなく、
物語の展開から、テレビ局の側は第3シリーズの制作を意識しているだろう。もしも不安要素があるとすれば、「原作コミックがどこまで量的に仕上がっているのか」という問題だけだと思う。今後は、原作者の鈴ノ木ユウ氏をテレビ局が全面的に支えて、次のドラマに向けて妥協のない話し合いを深めて、視聴者に阿らない付け焼刃でない内容を作り上げていってほしい。
2年後?、今回の登場人物たちがよりパワーアップして、広い活躍舞台から「完結編」を作ってくれることを楽しみにしている。そのためには、シノリンを能登半島から呼び戻さないといけないが、それこそ「また理想ばかり言っちゃてダメだよね」「理想を言うやつがいなければ(世の中は)前には行けないからな」というサクラとシノリンのやり取りのようであって欲しいものだ。
最後に、俺は個人的には医療福祉士の向井 祥子役の 江口のりこさんが気に入っている。この人は、女“岸部一徳”に見えて仕方がないのだ。
第2シリーズってのは、やっぱり結構難しいと思うのだが、こんな風に嬉しい形で期待を裏切ってくれたのは、最近では中井貴一と小泉今日子のW主演の「最後から二番目の恋」以来である。でも、第3シリーズ「完結編」をこれほど期待した作品は「コウノドリ」が初めてかな? 心を残して終わらせる美意識もあるかもしれないが、「コウノドリ」では是非力を振り絞って、世の中の誤解、偏見、無知による幼稚な差別意識を少しでも払拭するために、もうひと頑張りしてもらいたい。
愚劣な独裁者の手先に成り下がっていながら、「受信料、受信料」と強権的に裁判で国民を脅迫しまくっている某国営放送も、「コウノドリ」ぐらいのレベルの高い作品をしっかり作ってからモノを言え!と言いたい。権力者にゴマをすりまくった超低レベルの大河ドラマ「花燃ゆ」や「おんな城主 直虎」を作っておきながら、強権的に「受信料」を誰かれ無しに取りまくろうとする姿は卑しくて、まさに片腹痛いわ!、と言いたい。