2月26日(木):
221ページ 所要時間 1:10 書店で立ち読み
著者63歳(1951生まれ)。専門は近代日本政治史、オーラル・ヒストリーの大家。
外の研修会の動員で講演会場に行ったが、すかすかの座席とやる気のない案内係の連中を見ていて「時間がもったいない」と思い、講師の話が始まるまで30分ほど近くの本屋に行った。面白そうな本がたくさん出ているが、どれも最低800円以上である。手が出ない。
本書を手に取り、日々考えていることに、最適の論者がまさに今を論じてくれている(2月14日発行)。野中弘務師匠が、安倍の11月解散を見抜いていたとの記述を見て、「さすがだ」と思いながら立ち読みを始めた。講演内容よりこっちの方が面白い。軽い語り口で書かれているので、だいたい書かれていることは頭に流れ込んでくる。結局、講演を聞かず、本書を終わりまで眺め読みし、本屋をぐるりと見て回って家に帰った。
内容紹介: 向かうところ敵なしに見える安倍政権。「二度目の総理」ゆえの大胆かつ緻密な政権運営を展開し、菅官房長官とのタッグで官僚・閣僚・マスメディアを巧みにコントロールしている。だがそうした「強さ」は本物なのか。実はバーチャルな気分に支えられた“蜃気楼政治"なのではないか。 戦後70年を迎え、安倍政権は本格的に「右」寄りイデオロギー政策に着手する。アベノミクスの行方は? 憲法改正の実現性は? 次なる総裁候補は? 日本を代表する政治学者が、戦後政治史の中に安倍政権を位置づけ、軽やかな語り口でその実像に迫る。本質を衝く鋭さと一気に読める面白さを併せ持つ「御厨講談政治学」、ここに開講!
(目次より抜粋)■「今のうち解散」を予見した野中広務/■東大コンプレックスがない菅さん/■「利益型」から「理念型」への移行?/■祖父・岸信介へのリベンジ/■党内では「部分的な合意」で支持を得る/■がら空きの自民党本部/■石破茂に野心はないのか?/■自民党興亡の60年――歴代宰相の政権運営/■小沢一郎と小泉純一郎――レールを敷いた二人の改革者/■この国はどこに行くのか―戦後70年と蜃気楼政治
・安倍をはじめ今の自民は「右寄り」だが「保守」ではない。変えることはするが、守るべきものを知らない。
・宮沢元総理は「解散権」はあっても、使ってはいけないものだ、と言っていた。
・安倍の政策を「夢」だと批判する民主党の方こそ国民の「夢を破った」反省をしていないのでは話にならない。
・今後第三次安倍政権で、菅官房長官の離反で行き詰まる可能性が高い。
・強い権力を維持するためには、きちんとした対抗馬が必要である。現在の安倍政権の「一強他弱」ですらなく、「一強他無」の状況は、政権にはかえってよくない。
・憲法改正というが、何をどう、どこまで改正するのかも分かっていない。
・安倍は「憲法改正」という名が欲しいだけで、その実に関心はない、というか理解していない。安倍の政策は、アベノミクスをはじめ、皆「蜃気楼」のように実体がない。実体がないから、批判もすりぬけていく。憲法改正も、実際にはすぐには国民の生活に何の影響も出ない。また、安倍自身が国民に「この改正で、生活に何の変化も出ない」と言うはずだ。「蜃気楼」のような政策に大きな影響が出るとすれば、大災害と戦争だ。そんな時、政府に都合よく国民を操縦するために新聞・マスコミの上層部を手なずけておくことが大事だが、実際既に恥知らずな朝日新聞曽我豪編集委員やNHK島田敏男解説委員のようなポチが増えている。
こいつらは「去勢された宦官が権力者との近さを威張って見せている」ような恥知らずの宦官ジャーナリストだ。
安倍政権の「蜃気楼政治」―取り戻す日本はどこにあるのか 御厨貴(東京大学名誉教授) 2015年02月26日 公開
これは「いつか来た道」ではない
では憲法改正でいったい何を「改正」するのか。「憲法改正一般」があるわけではありません。新しい憲法を制定するならば、全面改訂になるわけですが、そうではない。挙げられるのは憲法9条と環境権です。
近代国家になってから、日本は一度も憲法改正していません。だから手続きとして、衆参議員の3分の2以上の発議とか国民投票の過半数といったルールは決められていても、そこに条文だけをかけるのか、解釈もかけるのか、いっさい明瞭ではないのです。
憲法の体系を実現するために多くの付属法があります。憲法改正に伴う法律の改正までを判断対象とするのであれば、実務のレベルではとてつもない時間と労力を要するでしょう。
自民党が作成した憲法草案も、全体的な宣言文をつくっているのか、あるいは法律案のように変更の前後がわかるものをつくっているのか、極めて曖昧です。憲法改正のケーススタディがないため、そもそもどういう文案をつくっていいかわからないのです。
集団的自衛権も含めた軍事行使の話は、細かなケーススタディが付随してきましたが、憲法改正の議論のときには、そこまで細かい議論なしに「全権委任」になってしまうでしょう。
だとしても、9条を改正して「自衛軍を持つことができる」という条文を入れたことによって、では何が実体的に変わるのか。そこまで議論をしなければ改正の意味がありません。
岸信介が掲げた憲法改正は、9条を改正して日本が軍隊を持てるようにすることでした。当時は明らかに革新勢力が「自衛隊は違憲」と訴えて、違憲の存在があることに多くの人が疑問を持っていました。
吉田茂の「軽武装、対米協調」路線に対抗した岸の「自主憲法制定」「自主軍備確立」「自主外交展開」という主張は、その意味では逆に非常に理解しやすかった。
ところが、現在はそんなにわかりやすい話はありません。憲法を変えようが変えまいが、事実上自衛隊は認められてきました。今やほとんどの国会議員が自衛隊の存在を認め、日米安保も認めています。そこは岸の時代とはまったく状況が違います。
違憲の存在ではないということは合憲です。合憲だけどあえて憲法に書く、改正することに、実態と条文との乖離を埋めること以上に、どんな意味があるのかという議論になります。
この件について、宮澤さんはこう話していました。
「憲法では禁じられているけれど、現実には存在している。その意味では、確かに憲法は変えなければいけないかもしれません。けれども世の中にはそういうこともあるんじゃないですか。それが政治の妙味でしょう」
既に存在し、みんながそれを認めている。だから変えることはない、という考え方です。この言葉は憲法改正を声高に唱えていた中曽根さんに対する皮肉でした。
だから、ここで勘違いしてはいけないのは、こうした安倍政権の動きに対して「いつか来た道だ」と批判することです。これは「いつか来た道」ではない。一度も日本が歩んで来なかった道です。
特定秘密保護法や集団的自衛権の論議でも「いつか来た道」論はありました。とくに秘密保護法のときは、治安維持法とパラレルで語る論調も新聞をにぎわせました。しかし、戦前の日本のような暗黒時代に戻るといった話では実はありません。
というのも、国民の誰もそんなことに賛同しないし、信じてもいません。それがはっきりしていればもっと広範な反対運動が起こります。
この憲法改正の動きは国民を1つの理念やイデオロギーに染めていくような話ではなく、もっと広く薄く気分で広がっていく拡散型の状況規定なのです。だから批判しようにも、相手がするりと逃げてしまうので、厄介な話でもあります。
なぜ「実体的には何も変わらない」のに憲法改正を行うのか
憲法改正は、そこから派生する問題が極めて多い。安倍さんはどこまで手を付けるつもりなのか。とにかく憲法改正の入り口まで持っていく手続きを進めるということでしょうか。
たとえば、まっさきに問題になるのは、憲法66条第2項の「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」という文民条項でしょう。当然、防衛大臣も文民でなければならない。もともと自衛隊は「軍隊」ではないので、この条項そのものが無用との議論がありました。
自民党が提起したように、憲法改正によって自衛隊を「自衛軍」として認めた場合、軍人が防衛大臣をできるのかという話になる。
憲法を改正しても、文民条項からいえば軍人は防衛大臣になれないはずですが、そこは論点になりえます。安全保障担当に類するポストが、もし特命でできて防衛庁の制服組がなれるという話になれば、それはそれで議論になるはずです。憲法改正は、こうした派生問題が多岐にわたるのです。
安倍さんは「戦後レジームからの脱却」の象徴として憲法改正を掲げます。
現在の憲法はアメリカからの「押し付け憲法」だから、日本国民が自主的に憲法を選び直す。すなわちアメリカ占領時は9条に盛り込めなかった「自衛軍を持てる」という条項を入れることによって、日本国家はようやくアメリカによって主権を制限された国家ではなく、完全な主権を回復した国家になる――。
憲法改正を1つの「象徴」として安倍さんが掲げているのなら、それはそれでわかります。もしそうならば、集団的自衛権の行使容認を閣議決定したことで満足した心境とたいして変わりはありません。
つまり憲法改正案を国民投票にかけるというところまでたどり着けば、それで満足するということです。そのときには、おそらく憲法改正によって「実体的には何も変わらない」と訴えるでしょう。
というのも、憲法を改正したことで私たちの生活に変化がある場合、おそらく国民は改正を認めないからです。実体は何も変わらない。集団的自衛権の議論もそれで突っ切りました。では、なぜ変える必要があるのかという議論に逆戻りします。
安倍さん流に言うと、この国の主権回復であり、ナショナリズムの涵養が目的です。
つまり憲法改正は実現へのハードルが極めて高い割には、われわれの生活には直接の影響を及ぼさない可能性が高い。憲法改正問題は突き詰めると、そこに行きつきます。
しかし、それで幕を閉じれば真正保守なり真正右翼は「まやかしの憲法改正だ」と怒るでしょう。集団的自衛権の論議でも、「なぜもっとちゃんとやらないのか」と怒っているわけですから。しかし、安倍流で言えば、これでいいとなります。
集団的自衛権行使については、安倍総理の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」で議論が進められました。しかし報告書の通りにはならず、換骨奪胎されたようです。ここで懸命に議論した人にとっては切ない成果かもしれません。
しかし政治とはそういうものです。当事者は歴史の1行に残るかどうかが関心事であって、実質論は二の次である。集団的自衛権を閣議決定で認めたという1行と、憲法改正で9条を変えたという1行によって安倍晋三の名前は歴史に残るでしょうから。閣議決定で安倍さんが「とりあえず決めた」と満足したならばそれでいいのであって、それが安倍さんのリアリズムでしょう。
実体的には何も変わらない憲法改正議論は、実はアベノミクスと同じで、どこか気分というか蜃気楼に似た政策です。