もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

0083 重松清「卒業」(新潮文庫;2004) 感想4+

2013年06月30日 04時07分55秒 | 一日一冊読書開始
6月29日(土):

404ページ  所要時間6:05     ブックオフ105円

著者41歳(1963生まれ)。

本書では、4編(各100ページ)ともに,「ゆるす/ゆるされる」関係がテーマになっている。

*「みんな言うとるよ、お兄ちゃんの小説は優しい、って。こげな優しい小説書く作家さんは本人も優しいんじゃろうなあ、って」勝手に決めるなよ、と苦笑した。勝手に決めないでほしい、ほんとうに。(350ページ)

 作者自身にも「優しい小説を書く」という自覚があり、読者も「優しい言葉、まなざし」に触れたいと思っている。生ぬるいのかもしれないが、重松清の世界は作家と読者の共鳴・共感によって支えられているのだと思う。本書も、期待を裏切らない出来栄えであった。

1まゆみのマーチ
 母は、病的に歌を歌うことを止められず、小学校担任から厳しく指導(迫害?)を受け、不登校に追い込まれた妹まゆみを、どこまでも肯定し受け入れ、守り通した。母を、「妹を甘やかす」と厳しい目で見てきた出来のよい兄が、成人して息子の不登校に直面する。臨終の母を見舞い、母の子供を肯定し、とことん受け入れ守る姿に、自分の息子との関わり方を再考する。
*幸ちゃんが「困る、困る」というときは、自分が困るけん、そげん言うんよね―。おかしそうに笑いながら、母はまゆみに話した、という。44ページ
*「ひとに迷惑をかけるんは、そげん悪いことですか?」/先生がそれにどう応えたのかは知らない。78ページ

2あおげば尊し
 高校で信念を持って生徒を厳格に指導し、冷たく切り捨ててきた父は、校長会会長まで務めた名士だ。しかし、在宅介護中も、葬儀にも教え子はたずねて来なかった。予ねて、父の教師としての姿勢に強い違和感を覚えてきた小学校教師の息子は、死体に関心を持つクラスの児童に父の死にかけている姿を見せようとする。父はそれを許可し、「死にゆく姿をみせる」ことが父の最後の授業となる。それにしても、生徒の訪ねてこない教師は寂しい・・・のか? わからない・・・。

3卒 業
 14年前、26歳で自殺した親友の娘が、「父のことを知りたい」と訪ねてくる。当時、まだ母親のお腹にいたのだ。自殺をにおわす娘を見過ごせず、思い出を探すが案外と乏しい。自らも課長代理からリストラ出向を命じられ、給与の半減の憂き目にあい、「ひとは、どんなときに死を選んでしまうのだろう。略。コップの水は満杯になってからあふれてしまうわけではない。ほんのわずかでも、コップそのものが傾いてしまえば、こぼれる。276ページ」など考え込んでしまう。校舎の2階からダイブして入院した娘を救ったのは結局、義父の奮闘だった。七夕の夜、自殺した現場で、娘と一緒に亡き友の「供養」をする。

4追 伸
 「とんび」では、再婚せずに息子を育て上げた父親が主人公だったが、それより前に書かれた本作では、父親は妻の死後、再婚する。さらに癌で亡くなった産みの母が6歳の息子に宛てた「わたしの宝物の敬一へ」というノートが遺された。後妻に入った「ガサツな」ハルさんをどうしても息子は「お母ちゃん」とは呼べない。「お母ちゃん」の一言をめぐって息子とハルさんは修復不可能な対立に陥る。東京の大学に去ったあとは、故郷とハルさんを捨てるつもりで生きてきた。父が亡くなったあと、腹違いの13歳下の弟健太の計らいで、還暦を迎えたハルさんを訪ねる。そして、「お母ちゃん」は二人になる。人間関係はこじれると時間が掛かるものだ。血がつながっていなければ、こんなもろいものはない。


※年齢を理由にするには、少し早いが、日々の忙しさに追われてると、週末は寝たおさないとやってられない。必定、昼夜逆転になる。夜の9時に読み始め、未明の3時過ぎに読み終わった。感想を書く時間もあまりない。もうすぐ外が白み始めるだろう。明日、目覚めて、書き足せれば、また書き足そうと思う。
※6月30日、書き足しました。

0082 内田樹「先生はえらい」(ちくまプリマー新書;2005)感想4

2013年06月28日 01時33分41秒 | 一日一冊読書開始
6月27日(木):

175ページ  所要時間2:30      図書館

著者55歳(1950生まれ)。神戸女学院大学教授。

「先生」なんて立派である必要も、中身がある必要もない。万人に通じる「先生」なんていないし、必要もない。「先生」という存在を求める弟子がいれば、それで師弟関係は成立する。大事なのは、真理を求める弟子自身の心だけである。それさへあれば「先生」なんてものは、虚仮脅しでも、なんでも教壇に突っ立てるだけでよい。答えを出すのは弟子の仕事だ! 弟子が勝手に誤解を出せばよい。弟子の数だけ誤解がある。たくさんの誤解が生み出されることによって、かえって学問・文化は豊かになっていくのだ。たった一つの正解なんて下らないにもほどがある。

とまあ、こんなことを、20世紀で一番頭の良かったジャック・ラカンなどを引き合いに出したり、夏目漱石の『こころ』や『三四郎』の「先生」をみもふたも無く、ただの「中年のおっさん」として扱き下ろすことによって、少し上質にへそ曲がりな論を展開している。

理想の「先生」という考え方を真っ向から否定して、弟子が勝手に「先生」だと指定して自分の答え(誤解)を出せばそれでよいのだ、という脱力系の内容。フランス文学者的な洒落は感じた。それなりに面白かった。

6月28日(金)午前、追加。

沈黙交易(著者の好きな言葉か?)が、交易活動の原点であり、それは謎の意味不明なものの交換の繰り返しであり、原動力は利益ではなく、好奇心の連続パスである。サッカーのボールは、それ自体は無価値だが、パスを繰り返す行為自体に大きな意味がある。それは、コミュニケーション自体に意味があるということである。

コミュニケーションは、完全に分かってしまうと終わってしまう。「あなたの言いたいことは、分かりました」というのは、コミュニケーションを切りたいということ。逆にいえば、紋切り型の分かり切った明白な言葉を話し続けること(たとえば、儀式・儀礼の主賓の挨拶や、入試面接での模範解答など)は、聞き手の人格を無視する行為であり、聞き手を傷つける迷惑な行為である。

相手の言うことが理解できない時、かえって人はコミュニケーションを継続したいと感じる。同じ言葉が、全く反対の意味でとれる「あべこべことば」が洋の東西を問わず広く存在する(例えば「好き」;友達としては好きだけど、異性としては別に好きではない?)のは、それが誤解の幅を広げることによって好奇心を刺激し、コミュニケーションを継続し、深める効果がある。明晰さよりも誤解を生むあいまいさの中にこそ、新しい意味を広げるカギがある。

青年の前に、謎の存在として立つ「先生」という大人は、それだけで青年の精神を引き上げる力を持つのであり、内実はあいまいでとりとめないだけの「おっさん」であって、何の問題もないのだ。それにしても、著者の『こころ』『三四郎』の「先生」に対する評価は辛辣で、笑える。最後のまとめでは、能の「張良」が、自ら問いを発することの大切さを示すための例として、多少の脚色を込めて紹介されていた。


【目次】(「BOOK」データベースより)
先生は既製品ではありません/恋愛と学び/教習所とF-1ドライバー/学びの主体性/なんでも根源的に考える/オチのない話/他我/前未来形で語られる過去/うなぎ/原因と結果/沈黙交易/交換とサッカー/大航海時代とアマゾン・ドットコム/話は最初に戻って/あべこべことば/誤解の幅/誤解のコミュニケーション/聴き手のいないことば/口ごもる文章/誤読する自由/あなたは何を言いたいのですか?/謎の先生/誤解者としてのアイデンティティ/沓を落とす人/先生はえらい


130627 笑うべし!東京都。 ここは何国、今は何時代、私は誰? 頑張れ実教「日本史」教科書!

2013年06月27日 22時36分03秒 | 日記
6月27日(木):

すごいニュ-スを発見した。耳を疑う内容だ。あまりの夜郎自大の馬鹿さ加減に笑えてくる! <都教委>は自己を正当化するという超矮小な目的のために、東京都民の思想・信条の自由を侵害している。これでは、税金で運営されている都立高校に東京都民は子供を進学させられないじゃないか!<都教委>は、東京都民を<家畜>のように考えているのだろうか。学問の自由を得るためには授業料の高い私立高校に行かせるしかないじゃないか。どこの誰が、何時、住民の基本的人権に関わるそのような絶大な権限を一地方公共団体に与えたというのか? <都教委>って誰だ! 責任者の名前を出せ。

誰か、実教出版社の「日本史A・B」の教科書の手に入れ方を教えてくれ! 是非熟読勉強させて欲しいと思う。


<都教委>特定の日本史教科書使わないよう通知

毎日新聞 6月27日(木)15時1分配信

 東京都教育委員会は27日の定例会で、高校で使う特定の日本史教科書に国旗国歌法に関して不適切な記述があるとして、各都立高に「使用はふさわしくない」とする通知を出すことを決めた。高校の教科書は各校長が選定して都道府県教委に報告することになっており、選定に教委が事実上の介入をするのは極めて異例。通知に強制力はないが、都教委は「指摘した教科書を選定した場合は、最終的に都教委が不採択とすることもあり得る」としている。

 都教委が問題視しているのは、実教出版の「日本史A」と、来年度向けに改訂された「日本史B」。国旗国歌について「一部の自治体で公務員への強制の動きがある」と記載している。

 都教委は2003年、学校行事で日の丸に向かい君が代を斉唱することを通達で義務付け、従わない職員は懲戒処分にする厳しい対応を取ってきた。最高裁は11年、起立斉唱の職務命令を合憲と判断したが、12年の判決では「減給や停職には慎重な考慮が必要」との判断も示している。

 実教出版の日本史Aには11年度の検定で「政府は国旗掲揚、国歌斉唱などを強制するものではないことを国会審議で明らかにした。しかし現実はそうなっていない」との記述に文部科学省の意見がつき、後半を「公務員への強制の動き」などと書き換えて合格。文科省によると、日本史Aの全国シェアは約14%という。

 だが、都教委は昨年3月以降、各校に電話で「都教委の考えと合わない」と伝え、13年度の教科書に選定しないよう要求。採択の最終判断は都教委ができることもあり、この教科書を選定した高校はなかった。

 14年度から使う教科書を決める昨年度の検定では、同じ記述がある日本史Bも合格。都教委は不使用を徹底するため、今回は文書で通知することにしたという。都教委幹部は「『公務員への強制』という表現は明らかに間違っており、採用するわけにはいかない」と話している。

 実教出版は「そうした決定が出たとすれば大変残念だ」とコメントした。【和田浩幸、佐々木洋】

0081 池上彰「この日本で生きる君が知っておくべき「戦後史の学び方」」(文芸春秋;2013年3月) 感想4

2013年06月24日 01時01分50秒 | 一日一冊読書開始
6月23日(日):

253ページ  所要時間4:25(3日間)   図書館

著者63歳(1950生まれ)。副題は「池上彰教授の東工大講義 日本篇」である。

やはり、一冊の本を何日にも分けて読むのは、いまいち良くない。付箋はしてあるが、前に読んだ部分を忘れてしまっているのだ。そのことが自己嫌悪を呼ぶ。

はじめのページからパラパラと見直すと、面白さが少し蘇ってくる。戦後史は、何冊も読んでいるので、既知の内容が多く、今さら新しさに驚くことは無い。

しかし、「聴衆や、読者に面白く伝える言い回しや、具体的数値資料の使い方が巧みだ」と思う。カットするところは思い切ってカットして、掘り下げるべきところは、限られたページ数の中で思い切って掘り下げている。その意味では、他書との差別化が図られていて、手元に置いておきたい気にさせられる。

目次: ※コピペじゃないよ。
1 原子力   事故からわかる「想定外」のなくし方
2復興     どうやって敗戦の焼け跡から再生したのか?
3自衛隊と憲法  「軍隊ではない」で通用するのか
4政治     55年体制から連立政権ばかりになったわけ
5日米安保   米軍は尖閣諸島を守ってくれるのか?
6エネルギー  エネルギーが変わるとき労働者は翻弄される
7韓国     “普通の関係”になれない日韓の言い分
8教育     学校では教えない「日教組」と「ゆとり教育」
9高度成長   日本はなぜ不死鳥のように甦ったのか
10公害    経済発展と人の命、どちらが大事ですか?
11沖縄    米軍基地はどうして沖縄に多いのか
12全共闘   1968年、なぜ学生は怒り狂ったのか
13国土計画  日本列島改造は国民を幸せにしたか
14バブル   アベノミクスはバブルの歴史から学べるか
15政権交代  なぜ日本の首相は次々と替わるのか
あとがきに代えて  失敗の歴史から学ぶこと

※書き出したい情報は、機会があれば追加します。

*歴史的な出来事を、現代の視点から斬って捨てることは容易ですが、それでは歴史から学ぶことはできません。251ページ



0080 重松清「トワイライト」(文芸春秋;2002) 感想5

2013年06月23日 05時57分39秒 | 一日一冊読書開始
6月22日(土): 読み終わったのは、23日am4:30

391ページ  所要時間6:50     ブックオフ105円

 近頃、職場の人間関係でとても粗雑で嫌なことがあって気分が滅入っていた。重松清の作品を読みたくなった。

 著者39歳(1963生まれ)。  自分よりはるかに年下な時の重松清の作品を読むのは、少し屈辱だ。しかし、考えてみれば、高橋和巳は35歳で『邪宗門』を書き、漱石は49歳で死んだ。太宰は39歳で死んだ。啄木のような天才もいる。まあ35歳を過ぎて居れば、自分より年下もくそもないのだろう。むしろ、60歳を過ぎれば、作家も鋭さを失った出涸らしになるのかもしれない。

 重松清の作風の大きな特徴は、自分と同年代(多くの場合同年齢)を主人公に選ぶことが多いことだろう。そのため、作り事でない、当事者による非常にリアルな記憶と実感を読者に届けることができる。一方で、著者自身は年齢を重ねていくが、作品は1962~63年生まれの人々の各年代における<思惟の記念碑>として、また高度経済成長期以後の日本の社会・民俗・時代精神史の貴重な史料として別の意義も深めていく。それが、今後どの世代に対しても普遍性を持つことができるかが、一つの勝負だろう。結果は、俺にはわからないが、俺にとっては重松作品は癒しである。

 さて、今回の読書では、泣けなかったので感想4を考えていたが、最後まで読み通すと、著者の優しくて丁寧な人間観察眼に納得し、描き出された作品世界に満足してしまった。共感の一票を投じたい気分になったので、感想5である。まあ、必ずしも泣けなくてもよいのだ。

 内容は、27年ぶりにタイムカプセルを開けるために小学校の同窓生が集まったところから始まる。39歳という後戻り不能な人生の岐路を迎えた彼ら・彼女らはそれぞれに重大な局面を歩んでいるが、いずれも蹉跌を味わい、壁に直面して喘いでいる。
さらに、タイムカプセルには、40歳で不倫による情死を遂げた担任の女性教師からの思いもかけない「皆さんの四十歳はどうですか? あなたたちはいま、幸せですか?」という問いかけの手紙が入っていた。

 再会を果たしたあと、離婚の危機にある同級生夫婦に二次会に連れ出され、まさにDVを目撃させられる同級生たちのシーンから話は動き始める。彼らの関係は、ドラエモンの世界に重ねられ、「のび太」「ジャイアン」「静香ちゃん」「静香ちゃんの女友だち?」「ドラエモン」「スネオ」など小学校時代の役割分担が意識的に演じられる。

 この役割分担は、離婚危機の夫婦の当事者である「ジャイアン」が、ある種うざくて暑苦しい感じで作りだした分担であったが、その役割をなぞることによって、27年ぶりの同級生は、自然な立ち位置を得る。一方で当然のことだが、「ジャイアン」は、もはや「ジャイアン」ではない。しかし、結局このような関係を維持する上で、「ジャイアン」を演じ続ける人間が、とても大切な存在であることを、著者はわかっている。

 物語りでは、「ジャイアン」と「静香ちゃん」が夫婦となり、離婚の危機にある。しかも、「静香ちゃん」と「のび太」が実は小学校の時、両想いだったことを互いに知らず、27年後にそれを知ってしまう。「ジャイアン」も「のび太」も転職による転落やリストラに直面(明日は我が身か…)し、「静香ちゃん」はDVに苦しんでいる。「静香ちゃんの女友だち(実は、全く親しくなかった)?」は、独身の予備校古文講師で、若くに「古文のプリンセス」として一世を風靡したが、もはや落ち目である。それが突然、離婚寸前の夫婦の子供たちが転がり込んできて彼女たちの庇護者となる。みんな人生の大きな壁にぶつかっている。

 転勤族の子でみんなの記憶にほとんど残っていなかった「スネオ」は、B型肝炎が悪化し、入退院を繰り返し、肝硬変か、肝臓がんによる死と直面している。やや知恵遅れ気味でマイペースの「ドラエモン」は、緩衝材的存在でみんなを優しく結ぶつける存在。

 全くもって身勝手な同級生の夫婦に強引に巻き込まれ、振り回される理不尽に怒りながら、いつか本来の自分を取り戻しつつあることにも気付いていく登場人物たち。若くない39歳が、互いを手探りで探りつつ、その関係の大切さを自覚する。

  0048で読んだ秋元康の本で「僕にも「親友」と呼べる人が何人かいるのですが、彼らとの関係を考えると,“近さ“よりも“長さ”に比重を置いて考えてしまう。略。もしかしたら「親友」とは、同じ時代を生き抜いている者同士が、たまに声を掛け合うような関係のことかもしれません。今、隣にいなくても、また、どこかできっと会える、また、どこかで会いたいと思った友だちがいるとしたら、それは君の「親友」です。63ページ」と書かれているのを思い出した。この意味であれば、友だちのいない俺にも、実は親友がわずかだがいる。そして、親友とのつき合いでは、昔の関係の役割を守り、演じ続けることの大切さを再確認させてもらえた気がする。重松清の慧眼、恐るべしである。

※何分、読了したのが未明のam4;30なので、感想は上手くまとまらない。乱文御免。また、整理・加筆できればします。おやすみなさいませ。

0079 安田浩一「ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて」(講談社;2012) 感想3+

2013年06月21日 01時21分06秒 | 一日一冊読書開始
6月20日(木):

366ページ  所要時間3:25        図書館

著者48歳(1964生まれ)。雑誌記者。

「在特会」という名前は、知っていたが、下らない右翼系団体だろう、と関心を持てず放置してきた。今日たまたま、図書館で目にし、概略だけでも知れれば良いと思って手に取った。

 1ページ15秒を目標に、付箋を貼りながら流し読みした。2chの書き込みが、間違って集団化した勢いで外の世界に出てきた、という感じの想像していた以上に空疎で無自覚・無責任な団体だった。

 社会的に疎外された低学歴・不安定就労の人々による「承認欲求」がマイノリティ攻撃に転嫁した<団体による集団行動>である。彼らの発する差別的言辞は、背景にそれなりの思惟も覚悟も基礎的教養も全く存在しない。従来のルールを完全に逸脱した目立つためだけの検証なき過激?・破廉恥さであり、ブログ掲載を憚られる内容である。まさに、便所の落書き、パンツを脱いだ露出狂のような内容である。

それを支えているのは、社会全体のマジョリティの中に無自覚に薄く広がっている不安と差別感情である。非常に低レベルで底が浅い、スキだらけの露悪的顕示行動だけに、かえって草の根的で分厚い岩盤に支えられているようで、不気味である。

 著者の、取材能力は高いが、取材対象の在特会があまりにも愚劣で低レベル過ぎるので、本書の評価もあまり高く評価できない。

*在特会リーダー・桜井誠(偽名)の本当の名前は高田誠(1972年生まれ)。福岡県立中間(なかま)高校卒業。学校では、全く存在感の薄い存在だった。

*在特会とは、「在日特権を許さない市民の会」という名称で、「在日コリアンをはじめとする外国人が」「日本で不当な権利を得ていると」と訴えることで勢力を広げてきた右派系市民団体。インターネットの掲示板などで“同志”を募り、ネット上での簡単な登録ながらも会員数1万1000人を超える。朝鮮学校授業料無償化反対、外国籍住民への生活保護子宮反対、不法入国者追放、あるいは核兵器推進など、右派的なスローガンを掲げて全国各地で連日過激なデモや集会を繰り広げている。

*在日の“4大特権”とは:
①特別永住資格(当然の資格である!)
②朝鮮学校補助金交付(保障されていない!)
③生活保護優遇(こんな実態は存在しない!)
④通名制度(通名使うのは、厳しい差別のせいである!)  
※正直、すべてが全く無知でナンセンスな主張である!

*少し前、金(京都朝鮮第一初級学校OB、36歳)は雰囲気の良い小ぢんまりとした居酒屋を京都市内で見つけた。家族的な感じが気に入って何度か通った。店主と気心が知れたと思ったときに、自分が在日朝鮮人であることを告げた。すると、それを境に店主はどこかよそよそしい態度を取るようになったという。
ある晩、酒に酔った店主が急に「君ら、日本に住まわせてあげてるんだから、もっと日本に感謝した方がいいよ」と金に向かって言った。
「何も言えなかったですよ。店主は優しそうな人でしたし、けっして僕に敵対するような言い方だったわけでもない。ただね、考えてみれば、その主張は在特会とあまり変わらないでしょ。叩きだせとかゴキブリだとか、そんなことは絶対に口にしない優しい人ではあるんだけれど、僕は在特会よりも、この店主のほうが恐ろしかった。損な主張が日常会話のなかで、さらりと出てくるところが、なんともやりきれんのです」
おそらく在特会はこうした人たちによって支えられている。いや、当人に支えている自覚がなくとも、在特会の側は、自分たちに無言の支持が集まっていることを知っている。
たとえ在特会がどんなにグロテスクに見えたとしても、「社会の一部」であることは間違いない。彼らは世間一般の、ある一定の人々の本音を代弁し、増幅させ、さらなる憎悪を煽っているのだ。
在特会とは何者かと聞かれることが多い。そのたびに私は、こう答える。
あなたの隣人ですよ――。
人の良いオッチャンや、優しそうなオバハンや、礼儀正しい若者の心のなかに潜む小さな憎悪が、在特会をつくりあげ、そして育てている。街頭で叫んでいる連中は、その上澄みにすぎない。彼ら彼女らの足元には複雑に絡み合う憎悪の地下茎が広がっているのだ。
そこには「差別」の自覚もないと思う。引き受けるべき責任を、少しばかり他者に転嫁しているだけだ。そうすれば楽だし、何よりも自分自身を正当化することができる。
私も、それが怖い。いや、私のなかに、その芽がないとも限らない。在特会について考えるとき、私がいつもヒリヒリと胸が焼けるような感覚を味わうのは、私のなかの「在特会的なるもの」が蠢いているからなのかもしれないと思ったりもするのだ。364~365ページ


目次: ※ウィキペディアからコピペ
1.在特会の誕生
過激な“市民団体”を率いる謎のリーダー・桜井誠の半生
2.会員の素顔と本音
ごくごく普通の若者たちは、なぜレイシストに豹変するのか
3.犯罪というパフォーマンス
ついに逮捕者を出した「京都朝鮮学校妨害」「徳島県教組乱入」事件の真相
4.「反在日」組織のルーツ
「行動する保守」「新興ネット右翼」勢力の面々
5.「在日特権」の正体
「在日コリアン=特権階級」は本当か?
6.離反する大人たち
暴走を続ける在特会に、かつての理解者や民族派は失望し、そして去っていく
7.リーダーの豹変と虚実
身内を取材したことで激怒した桜井は私に牙を向け始めた……
8.広がる標的(ターゲット)
反原発、パチンコ、フジテレビ……気に入らなければすべて「反日勢力」
9.在特会に加わる理由
擬似家族、承認欲求、人と人同士のつながり……みんな“何か”を求めている

0078 ユン・チアン「ワイルド・スワン 土屋京子訳(単行本・下)」(講談社;1993) 感想特5

2013年06月16日 19時27分20秒 | 一日一冊読書開始
6月16日(日):

389ページ  所要時間10:55     ブックオフ105円
 15日(土) 257ページ  6:35 第十五章~第二十三章
 16日(日) 132ページ  4:20 第二十四章~年譜

◎16日(日)の分:

 最後まで読み終わった感想は、深いため息とともに、すごい作品を読み上げたという達成感と20世紀初~1976年毛沢東の死・1977年小平の復権による「文化大革命の終わり」まで、教科書その他では知り得ない「中国」を知ってしまったということだ。

 この本を読んだ者と読んでいない者との間には、その<中国観>において、明確に深い断層ができると思う。「逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざり けり」の気分だ。こんなに影響力の大きな著作には、なかなか出会うことはできない。

 本書により、現代中国、否、前近代中国も含めて、「中華人民共和国」というこの前近代的国家・社会の有り様に対する理解・認識と、独裁者に利用されるイデオロギーの欺瞞と脅威に対する恐怖心について、後戻りできないような変化がもたらされる、と思う。

 エドガー・スノー著『中国の赤い星』などのプロパガンダ本で、毛沢東の虚像を刷り込まれた人たちには、本書は、ほとんど信じがたい内容だろう。

 俺自身、毛沢東の幻影からそこそこ解放されているつもりだったが、「ここまでひどかったのか…」と言葉を失うしかない。中国共産党という巨大な権力をもつ腐敗した組織の前では、著者の父のように信念を持って「理想の共産主義・共産党員」を追求する誠実な人ほど、進むべき道を見失い身の破滅に追い込まれていく。そして、その誠実な共産党員を「走資派」と貶めて陥れ、「批闘大会」等で追いつめていく「造反派」の愚劣な迎合主義者らも、結局不要になれば、「幹校」という労働キャンプの地獄に送られる同じ道を歩まされる。

 毛沢東という人間の命を何とも思わない権力闘争好きのただ一人の独裁者を除けば、すべての人々に身の安全の保証はない。如何なる高位高官の共産党員も例外ではないのだ。人口10億近い毛沢東の中国が、<麻原彰晃のオーム真理教>と重なって見えてくる。そこにあるのは、恐怖と猜疑心による支配であって、いかなる正義も正解も存在しない。

共産主義中国で「出身家庭」「階級敵人」などの厳しい差別がまかり通る不条理。


◎15日(土)の分:

 下巻は「文化大革命」の話が中心。紅衛兵も、毛沢東の陰で私怨による報復の限りを尽くす江青や「二挺(アルティン)」も、執拗に繰り返される糾弾のための糾弾の「批闘大会」に怯え保身と陰謀に明け暮れる共産党幹部たちも、「人民公社」の無知蒙昧な農民たちも、みんな、愚劣、愚劣、愚劣の一言しか出て来ない。そして、最も愚劣なのが皇帝・毛沢東だ。愚劣で陰険で邪な暗い印象ばかりを受けて、気分が晴れない読書だった。

 「走資派」は、走資派ではない。「走資派」とは毛沢東が権力を奪取するために粉砕しようとしている(良質な)共産党幹部たちのことである。無恥で野蛮な「造反派」と言う毛沢東の手先たちにより繰り返される「批闘大会」他の蛮行の中で、中国社会は急速に退化、荒廃していく。恐怖による毛沢東の権力奪取だけは確実に進んでいく。誰も、本当の正しいことを言えない社会になっていく。

 通常の歴史学習では得られない、その時代を生きた人間による証言である。たとえ、文化大革命で失脚した共産党幹部の家族の立場からの証言であり、一面的だと言う指摘が成立するとしても、これだけ知的で精緻かつ膨大な証言記録をまとめることは、やはりこの階層出身の著者でなければ残すことは不可能であっただろう。その意味で、まことに貴重な証言記録と言うべきだろう。

 しかし、特に下巻では読めば読むほど、毛沢東と毛沢東の中国を嫌いになる。「大躍進政策」と、「文化大革命」をしっかりと反省し、負の歴史であっても隠さず国民に学ばせることができない中国共産党一党独裁体制の中国に未来を感じられない。中国に未来がなければ、東アジアにも未来は無い。世界にも未来はない。


下巻目次:  ※コピペではない。

第十五章「まず破壊せよ、建設はそこから生まれる」
    文化大革命はじまる(1965年~1966年)
第十六章「天をおそれず、地をおそれず」
    毛主席の紅衛兵(1966年6月~8月)
第十七章「子供たちを『黒五類』にするのですか?」
    両親のジレンマ(1966年8月~10月)
第十八章「すばらしいニュース」
    北京巡礼(1966年10月~12月)
第十九章「罪を加へんと欲するに、何ぞ辞無きを患へんや」
    迫害される両親(1966年12月~1967年)
第二十章「魂は売らない」
    父の逮捕(1967年~1968年)
第二十一章「雪中に炭を送る」
    姉、弟、友だち(1967年~1968年)
第二十二章「思想改造」
    ヒマラヤのふもとへ(1969年1月~6月)
第二十三章「読めば読むほど愚かになる」
    農民からはだしの医者へ(1969年6月~1971年)
第二十四章「どうか、ぼくの謝罪を聞いてください」
    労働キャンプの両親(1969年~1972年)
第二十五章「かぐわしい風」
    『電工手冊』、『六つの危機』、新しい生活(1972年~1973年)
第二十六章「外国人の屁を嗅いで芳香と言うに等しい」
    毛沢東の時代に英語を学ぶ(1972年~1974年)
第二十七章「これを天国と呼ぶなら、何を地獄と言うのか」
    父の死(1974年~1976年)
第二十八章 翼をこの手に(1976年~1978年)

エピローグ

訳者あとがき / 年譜

*毛沢東は生来争いを好む性格で、しかも争いを大きくあおる才能にたけていた。嫉妬や怨恨といった人間の醜悪な本性をじつにたくみに把握し、自分の目的に合わせて利用する術を心得ていた。毛沢東は、人民がたがいに憎みあうようしむけることによって国を統治した。ほかの独裁政権下では専門の弾圧組織がやるようなことを、憎み合う人民にやらせた。憎しみという感情をうまくあやつって、人民そのものを独裁の究極的な武器に仕立てたのである。だから、毛沢東の中国にはKGBのような弾圧組織が存在しなかった。必要なかったのだ。毛沢東は、人間のもっとも醜い本性を引き出して大きく育てた。そうやって、倫理も正義もない憎悪だけの社会を作りあげた。しかし、一般の民衆ひとりひとりにどこまで責任を問えるのかとなると、私にはよくわからなかった。
 毛沢東主義のもう一つの特徴は、無知の礼讃だ。毛沢東は、中国社会の大勢を占める無学文盲の民にとって一握りの知識階級が格好のえじきになることを、ちゃんと計算していた。毛沢東は正規の学校教育を憎み、教育を受けた人間を憎んでいた。また、誇大妄想狂で、中国文明を築きあげた古今の優れた才能を蔑視していた。さらに建築、美術、音楽など自分に理解できない分野にはまるっきり価値を認めなかった。そして結局、中国の文化遺産をほとんど破壊してしまった。毛沢東は、残忍な社会を作りあげただけでなく、輝かしい過去の文化遺産まで否定し破壊して、醜いだけの中国を残していったのである。359~360ページ

0077 池上彰「この社会で戦う君に「知の世界地図」をあげよう」(文芸春秋;2012年11月) 感想5

2013年06月15日 01時54分43秒 | 一日一冊読書開始
6月14日(金):

255ページ  所要時間3:05      図書館

著者62歳(1950生まれ)。副題は「池上彰教授の東工大講義 世界編」である。 

「池上彰にハズレ無し」は今回も実証された。特に本書は、読者を退屈させない示唆に富む内容の新しさとコンパクトさで久しぶりに出色の出来栄えだと思う。素直に面白かったし、満足である。借りた本なので、犬耳も線引きもダメなので、付箋だらけになった。

目次: ※コピペじゃないよ。
1 科学と国家 実は原爆を開発していた日本
2 国際情勢  世界地図から見える領土の本音
3 憲法    日本国憲法は改正すべきか?
4 金融    紙切れを「お金」に変える力とは
5 企業    悪い会社、優れた経営者の見分け方
6 経済学   経済学は人を幸せにできるか
7世界経済  リーマン・ショックとは何だったのか?
8社会保障  君は年金に入るべきか
9 メディア  視聴者が変える21世紀のテレビ
10 宗教    オウム真理教に理系大学生がはまったわけ
11 社会革命  「アラブの春」は本当に来たのか?
12 アメリカ  大統領選でわかる合衆国の成り立ち
13 中国    なぜ「反日」運動が起きるのか
14 北朝鮮   金王朝”独裁三代目はどこへ行く
15 白熱討論  君が日本の技術者ならサムスンに移籍しますか?

*(貨幣のない物々交換の時代、貨幣の代わりをしていたのは、)日本では稲や布でした。/稲はかつて「ネ」と発音されていました。「これは、どれくらいのネと交換できるのか」などとやりとりをしているうちに、「これのネはどれくらい」となって、値段の「値」という言葉になりました。/また、布は紙幣の「幣」の字として残っています。57ページ

人がなかなか合理的に行動できないケースでいうと、サンクコストもそのひとつです。略。「ここでやめたら、これまでの3000万円が無駄になる。事業は続行しよう」という判断は、良くありますね。/でも、うまくいっていないプロジェクトですから、事業を続行したら、さらに2000万円が無駄になるかもしれません。略。人は、つい過去の支出つまりサンクコストに引っ張られて、損失を拡大しがちなのです。94ページ

年金の本質は「保険」である! 略。では、年金は何のリスクに備えたものなのでしょうか。これは、「長生きのリスク」に備えたものなのです。略。「長生きしたのに蓄えがなくて生活できない」という状況のことです。略。/ところが年金保険だけは、多くの人が「もらえないと損」と考えてしまいます。本来は、もらわないで済めばありがたいはずなのですが。年金保険だけが、「生きていれば受け取れる」という点で、「もらわないと損」と考えてしまうようになっています。121~122ページ

*(年金の積立方式は、インフレに弱いので、)1973年度から、賦課方式の要素が強まりました。現役世代が払い込む保険料を、その時点での高齢者に年金として払う仕組みです。124ページ

*なぜテレビ番組は54分に終わる? 略。54分でもCMは6分ですが、6分番組なら、CMは2分入れられます。合計で8分のCMを入れられるようになったのです。1時間の枠を、54分と6分とに分割することで、CMの放送時間を2分増加させることができたのです。135ページ

毛沢東の大躍進政策の愚行の説明は出色。196~197ページ

*(紅衛兵たちは)信じられない行動にまで出ました。交通信号の赤が止まれの印であることに文句をつけたのです。「赤は共産主義の色であり、前に向かって進めという意味だ。赤で止まれはおかしい」と主張し、交差点の赤信号で止まらないように指示を出します。このため交通事故が相次ぐようになりました。200ページ

*ソ連が作りあげた金日成伝説:ソ連は(ソ連軍大尉の)金成柱をトップに据えるに当たって、「キム・イルソン伝説」を利用しました。日本が支配していた当時、朝鮮半島には「キム・イルソン」という将軍が、略、いつも日本軍を打ち破る常勝の将軍だとされていました。そこでソ連はこの伝説を利用。金成柱に金日成と名乗らせ、北朝鮮に凱旋させたのです。213ページ ホン・ギルトンみたいなやつか?

0076 重松清「エイジ」(新潮文庫;1999)感想3+

2013年06月14日 00時42分53秒 | 一日一冊読書開始
6月13日(木):

463ページ  所要時間2:20     ブックオフ105円

著者36歳(1963生まれ)。

中学2年生の二学期、街に出没していた通り魔は、妊婦さんを襲い、流産させてしまい、警察に捕まった。そして通り魔事件の犯人は、同じクラスの同級生だった。マスコミが押し寄せ、学校は鎮静化に浮足立つ。少年たちは、自分は関係ないと割り切る、被害者の立場に立つ、自分が原因ではないかと考える。 

そしてエイジは、自分もいつ「キレる」かわからない、と恐れ、見えないナイフで周囲の人間を切りまくる。やがて犯人と、ほぼ同じ経験をするが、そのことで「自分は彼とは違う」という確信を持つ。「同化することで、異化できる(藤原和博)462ページ」RPG(ロールプレイングゲーム)的作品。

 ってことらしいが、今日は時間がないので本読みを諦めそうになっって、「どうせなら、読めないよりも、ひどい読書でもやってしまった方がましだ。良い本ならまた別の日に読み返せばいいさ。」ってことで、1ページ15秒の眺め読みでpm9:30から11:50まで読んだ。

粗筋は辛うじて拾えたが、全然味わえなかった。もちろん泣けなかった。重松清語録に収録したいような言葉も散見したが、山本周五郎賞受賞作品を味わえないのは、ひどく残念な思いだ。しかし、読書習慣を維持するには、これもひとつの読書として受け入れるしかない。感想3+は、じっくり読めば、4+以上になると思う。

※重松清の性愛描写は、とてもエロチックだ。

0075 雨宮処凛・小森陽一「生きさせる思想 記憶の解析、生存の肯定」(新日本出版社;2008)感想3+

2013年06月12日 01時10分01秒 | 一日一冊読書開始
6月11日(火):

206ページ  所要時間2:30      図書館

雨宮処凛33歳(1975生まれ)・小森陽一55歳(1953生まれ)

内容的に何か違和感を感じた。雨宮処凛さんはいつもと同じで共感できてとてもよいのだが、小森陽一の雨宮に対する復唱的言説にどこか高い所から見下ろす教条主義的な臭いを感じた。言ってることに決して反対ではない。むしろ大いに賛同できる内容なのだが、何か既視感のある嫌味・臭味・不快感が気になった。

「新日本出版社」をウィキペディアで調べると「日本共産党関連の雑誌や書籍を多く発行している。」とあった。「やっぱり、そうか!」である。我ながら、自分の「共産党嫌い」にはあきれる。自らの完全なる無謬性に立って、多くの市民運動を否定、対抗組織を作って妨害・攻撃を繰り返してきた日本共産党が、今さら<連帯>の仮面を被って近づいて来ても、やはり馬脚は現れる。

大人気ないと言いたい奴は、勝手に言えばよい。俺は、かつての日本共産党が犯した悪質な市民運動潰しに対する怒りを忘れられない世代なのだ!昔は、元気だった日共系組合幹部は、今や組織防衛に汲汲として、能面のような無表情で陣取りの一角にしがみついているだけだ。何の良識も存在感もない。

 小森陽一の冗舌とも言える正論のオン・パレードに、付箋も付けたし、後で書きだそうと印も付けたが、堂々とし過ぎてる言葉に「自分は答えを持ってる存在だ」という傲慢を覚えたのだ。言葉の裏に、苦渋がないと、俺には違和感が残る。教条的御託宣には共産党的嫌味を覚えてしまうのだ。

【目次】(「BOOK」データベースより)
1 「九〇年代」から今が見えてくる(「ちびまる子ちゃん」と競争/「人生ごと人質に」とられて ほか)
2 暴力と思考停止の世界で(「それをお前らが言うなよ」と/書くことで自分をすくい上げて ほか)
3 貧困の蔓延と人々が精神を病む国(教育課程からの排除と背景/「不登校その後」と「氷河期」と ほか)
4 無条件に生存を肯定する運動(根本的にひっくり返す言葉/自分を肯定できないと怒れない ほか)

※俺の日本共産党に対する拒否感・アレルギーが先に立ってしまい、本書の内容の良い所を紹介できず、すみません。機会があれば、再度良い部分を書き出して紹介したいと思います。今日も、とても忙しくて草臥れた一日でした。もう寝ます。お休みなさいませ。


0074 ユン・チアン「ワイルド・スワン(単行本・上)」(講談社;1993) 感想 特5

2013年06月09日 20時21分46秒 | 一日一冊読書開始
6月9日(日):

378ページ  所要時間10:00    ブックオフ105円
 2日(日) 120ページ  3:20
 8日(土) 106ページ  2:20
 9日(日) 152ページ  4:20

 内容は、類書のない著者(娘)による当事者(祖母、母、父)からの直接聞き取りによるドキュメントである。俺にとって既知だと思っていた中国近現代史の知識が如何に薄っぺらく表面的で全く歯が立たないかを思い知らされる衝撃的で新鮮な読書となった。

 それだけに、流し読みは通じない。面白くて仕方のない内容だが、結構疲れる。しかし、立ち止れば最後までたどり着けない。きつい読書だった。覚悟が必要なので、下巻(1965~1978)をいつ読めるかは未定だ。

 著者40歳(1952生まれ)。四川省生まれ。ロンドン在住、ロンドン大学で教鞭をとる。

 20世紀初めから、1978年まで、激動の中国を生きた(曾祖母1888-1955)、祖母(1909-1969)、母(1931- )、著者(1952- )3代(4代)の女性の物語り。

 娘を出世の道具と考え、祖母に纏足をほどこし、満州軍閥の将軍の妾(イータイタイ)として出世の糸口をつかんだ曾祖父は、権力を握り、自らも二人の妾を持つ(但し、最後はすべてを失う)。将軍の妾となり、母を生んだ祖母に安息は無く、将軍の死とともに母を連れて逃げ出す。

 40歳近く歳の離れた漢方医夏先生と再婚するが、反対する夏先生の長男はピストル自殺する。代々の家を出て、祖母との生活を選んだ夏先生との錦州での生活は、日本人の支配する満州国、日本敗戦後は国民党勢力、次いで共産党勢力の支配へと激しく変転を繰り返す。そんな中でも、母は才気ばしって活動的な子ども時代と青春期を送る。

 共産党による統治が安定する頃、17歳の母は、共産党幹部であった27歳の父とめぐり逢い、中国の伝統には無い対等な男女関係による革命的結婚を果たす。しかし、共産党は母に幸せな結婚生活を与えてはくれなかった。著者の父は、故郷の四川省に配置換えを願い出、党の許可を得て、二人は国民党の残党が大勢残る四川省へと行く。途中、母は最初の流産をするが、父はかばってくれない。

 四川省で共産党幹部となった父は、幹部であるが故にかえって身内や母に対して冷たく・厳しく接する。この辺で、昔、読んだニム・ウェールズ「アリランの歌」やN.オストロフスキー「鋼鉄は如何に鍛えられたか」の共産党闘士の物語りを少し思い出してしまった。

 姉や著者が生まれ、弟たちが生まれても、共産党幹部の父や、共産党員である母は、子どもたちに十分に接してやれる暇がない。幼い弟は、乳母を母と思い、母を怖がって母を嘆かせる。

1949年、中華人民共和国成立。

1953年、スターリン死去。毛沢東とソ連の確執の始まり。

1957年、共産党の真のリーダーは、中国だと思い込んだ毛沢東の「百花斉放」→「引蛇出洞」の企みに乗せられる人々。

1958年、魔の「大躍進政策」開始。土法炉による製鉄。人民公社設立。

1959年~1961年、大飢饉で三千万人(推定)が浮腫を発し、餓死。共産党員としての志操堅固であった父も、さすがに共産党のあり方に疑問、疑念を持ち人が変わり「革命意志衰退」とひはんされる。毛沢東を批判した彭徳懐元帥の失脚。毛沢東第二線へ引く。劉少奇国家主席と小平党総書記による中国立て直し。

1963年、毛沢東崇拝運動始まる。共産党幹部の子どもとして「省委大院」という特別な居住地に住み、高級幹部の子弟が集まる「貴族学校」に通う著者も毛沢東崇拝に染まっていく。これが劉少奇と小平を狙い撃ちしてるとは誰も気づかない。

 上巻はここまで、下巻は1966年の文化大革命で、まず父が拘禁され、両親への迫害が続く話からであるようだ。大雑把にあらすじを書いただけだが、本文では当時の中国の生活・習慣・風俗・伝統などが具体的に広範囲にわたって語り尽くされている。中国では人間の振れ幅が非常に大きい。膨大な数の人間が、さまざまに悲惨な死に方、末路を遂げる。まさに幸福は皆似ているが、不幸は多種多様である、その上激流となって人間をのみ込んでいくのだ。

 下巻を早く読みたい気もするが、前述の通り、かなりきつくてしんどい読書になりそうなので、いつ読めるかわからない。

 著者がロンドン在住であることが、毛沢東と中国共産党に対する厳しく正鵠を射た批判を可能としている。それにしても、毛沢東と中国共産党は、事実を知れば知るほど嫌いになる。特に、毛沢東の手口は、現在の北朝鮮やカンボジア・ポルポト派と本当によく似ていると思った。北朝鮮なんて、毛沢東のおもちゃ版みたいなものだ。

 毛沢東を批判できない中国共産党独裁政権は、自己批判能力のない政権である。この政権は、倒されて民主化されるべきだと思うが…、大き過ぎて正直どうなっていくのがよいのか、分からない。はっきりしていることは、この政権は、市場経済化した分だけ自由化したが、腐敗の度合いも1960年代よりも恐ろしく進んでいる。その腐敗の言い訳に、対日政策を利用しないで欲しい、ということに尽きる。中国が、正常化することは、世界の5分の1の人間が正常化することなのだ。

*(共産党では)上司がいい人か悪い人かで、下の者の運命には天と地の差がある。226ページ

*毛沢東は、自分の権力を守るためにさまざまな策略をめぐらした。これは、まさに毛の得意分野であった。毛沢東は宮廷政治における権謀術数を記録した数十巻にのぼる『資治通鑑』を愛読しており、略。実際、毛沢東の支配は中世の宮廷に置きかえて見るのがいちばん理解しやすい。取り巻きや廷臣が、まるで魔法でもかけたように毛の言うなりになった。毛沢東はまた、『分割統治』の達人でもあり、オオカミに出くわした時に他人を楯にしようとする人間の本性をたくみに操る天才だった。310ページ

*美しい花を抜くのは、私も嫌だった。でも、毛主席をうらむ気はなかった。それどころか、花を抜くていどのことで落ちこんでいる自分が情けなく腹立たしかった。そのころの私は「自己批判」の習慣がすっかり染みついていたから、毛主席の指導に逆行するような感情の動きに気づいたときは自動的に自分が悪いと考えるようになっていた。第一、そんな感情を抱く自分が恐ろしかった。他人に相談するなど、論外だった。私は自分の誤った感情を押し殺し、正しい考え方を身につけようと努力した。こんなふうにして、私はたえず自分を責めてばかりいた。/自己審問と自己批判は、毛沢東の中国を象徴する習慣だった。自分の心をさぐり、誤りを正して、もっと良い人間に生まれ変わるのだ、と私たちは教えられた。だがほんとうのところは、自分の考えを一切持たない人間を作るのが目的だったのである。376ページ。

上巻目次: ※コピペではない。
第一章「三寸金運」
    軍閥将軍の妾(1909年~1933年)
第二章「ただの水だって、おいしいわ」
    夏先生との再婚(1933年~1938年)
第三章「満州よいとこ、よいいお国」
    日本占領下の暮らし(1938年~1945年)
第四章「国なき隷属の民」
    さまざまな支配者のもとで(1945年~1947年)
第五章「米十キロで、娘売ります」
新生中国への苦闘(1947年~1948年)
第六章「恋を語りあう」
    革命的結婚(1948年~1949年)
第七章「五つの峠を越えて」
    母の長征(1949年~1950年)
第八章「故郷に錦を飾る」
    家族と匪賊の待つ四川省へ(1949年~1951年)
第九章「主人が高い地位につけば、鶏や犬まで天に昇る」
    清廉潔白すぎる男(1951年~1953年)
第十章「苦難が、君を本物の党員にする」
    母にかけられた嫌疑(1953年~1956年)
第十一章「反右以降、口を開く者なし」
    沈黙する中国(1956年~1958年)
第十二章「米がなくても飯は炊ける」
    大飢饉(1958年~1962年)
第十三章「だいじなだいじなお嬢ちゃん」
    特権という名の繭のなかで(1958年~1965年)
第十四章「「父よりも、母よりも、毛主席が好きです」
    毛沢東崇拝(1964年~1965年)

130606 同感!転載。5日付朝日新聞朝刊「声」欄「一切の証拠書類 軍は焼いた」無職 森田恒一(益田市 96)

2013年06月06日 23時29分53秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
6月6日(木):

ジョーユー橋下が弄する詐欺的詭弁に対して、我々を正気に戻してくれる「王様は裸だ!」の声として、6月5日「声」欄に掲載された以下の投書を転載する。


「一切の証拠書類 軍は焼いた」無職 森田恒一(島根県益田市 96

 旧日本軍の慰安婦問題で強制連行を直接示す資料は見つからなかったというのが政府見解のようだが、私はこの問題がいつまでも続くことが不思議でならない。私は敗戦間近に招集された元兵士だが、書類一切が焼却されたのを知っているからだ。下っ端の2等兵だったので、強制連行や慰安婦の書類など見たこともない。しかし敗戦で、何もかもあらゆる軍の証拠書類が隠滅されたのは確かだ。

 1945年7月、現在の北朝鮮にある部隊に入隊。8月に参戦したソ連の大軍に包囲された部隊は降伏を決めた。その前夜のこと。大きな穴を掘り、部隊が持っている全ての書類を投じ、油をかけて燃やした。

 このような証拠隠滅は各地の軍部隊、政府機関で行われたのではないか。それなのに、見つからなかったと言い張ることに何の意味があるそれよりも慰安婦の方が生きておられる間に証言を聞き、対応する方が先決ではないか


130601 日露戦争の山は、やはり旅順攻防戦だ!!

2013年06月02日 02時52分18秒 | 日記
6月1日(土):

 日をまたいで仕事をしながら、2日(日)未明、NHK「坂の上の雲」第三部「旅順総攻撃」「二〇三高地」を観ている。よくもまあテレビドラマでこんな桁外れのすごい作品を作ったものだ。映画でもあり得ないレベルの作品だと改めて思う。そして、児玉源太郎は、やはり格好良さ過ぎる!

0073 山岡淳一郎「医療のこと、もっと知ってほしい」(岩波ジュニア新書;2009) 感想5

2013年06月01日 01時07分52秒 | 一日一冊読書開始
5月31日(金):

202ページ  所要時間2:30        図書館

著者50歳(1959生まれ)。ノンフィクション作家。

はからずも「神様のカルテ」著者夏川草介のペンネームの元になった人が、長野県佐久総合病院院長の夏川周介氏であることがわかった。「神様のカルテ」の著者は、自らを佐久総合病院に集うその他大勢の医師の一人として位置付けているのだろう。単なる思い付きのペンネームではなく、佐久総合病院へのオマージュ(敬意)が込められた名前であり、作品だったのだ。

また、佐久総合病院は、そのような敬意を払われるにふさわしい特別な医療活動を展開しているのだった。ドクターヘリを擁する高度先端医療と地域密着医療の両立しがたい「二足のわらじをはく」総合病院として活動を続けているのだ。これは、医療の責任問題などに及び腰な大学病院では真似できない実践である。

高度な医療は必要だが、それだけで患者が救われるわけではない。重篤なホスピス患者を自分の家に帰すことによって、最期を人間らしく送り出すことを保障することも医療の重要な役割だ。それを佐久総合病院の「地域ケア科」は、実践している。在宅ケアのプランが練られ、「退院調整会議」が開かれて、在宅でのホスピスが実現する。滋賀医科大学卒の黒髭ドクター、北澤医師が味があって良い。現代の新出去定のように、彼の目には、患者の姿とともに、医療をめぐる日本社会のさまざまな矛盾や問題が映っていることだろう。地を這いながら、高い天空を見上げ続ける姿にロマンを覚えると言えば叱られるだろうか。

*救急救命士が行える「特定医療行為」は「心肺停止状態の傷病者」に対して、と定められている。本来は心肺停止状態に陥らせないために薬剤投与や気管挿管などをするはずなのに…。「縦割り」の壁がしぶとく残っているのだ (34pe-ji )

患者本位に立つ医療者の活動を阻む縦割り行政の壁、救命措置をめぐる医師と救命救急士の壁。在宅ケアをめぐる介護師と看護師の壁、患者から見れば一連の処置として、まとめてやってくれる方が絶対に自然であり負担が少ない医療について、ここまでは介護師、ここからは看護師、ここからは医師と縦割り行政による(無自覚な?)分断が患者を苦しめ、現場の医療者を縛り続ける。有機的取り組みが阻まれる一方で、医師不足、看護師不足に拍車が掛かるという不条理さが、在宅ケアなどを望む患者とそれを支えたいと思う医療者を追いつめる。

*北澤医師の言葉「そう、それ。僕は、最後まで、その人らしく生きてもらうために寄り添って、生活を支えようと思ってる。病名が先にくる患者としてではなく、世界でたった一人の、その人の、その人らしく生きてもらうこと。それが在宅ケアの目的やね。人生最後の坂道だけでは見えない、その人らしい山あり谷ありの人生模様や、世のなかでの役割がわかってきたら、同じ人間として深い共感が湧いてくる。そこが医療者には大切だと思うな」64ページ

介護は精神的にも肉体的にもハードです。患者や家族から不平不満をぶつけられることもあります。いくら使命感に燃えていても、気持ちが萎えそうになります。たまったストレスを解消しなくては、介護士の仕事は続けられません。70ページ。

一方で、第3章「なぜ医者になるの?」では、医学部学生や研修医たちの悩める姿にあまり共感できなかった。わざわざフィリピンレイテ島の医療学校SHSまで行かなければ、医療の原点を見いだせないのだろうか? また、出てくる医学部生らが皆医者の子であるのにも少し白けた。医者らしい悩みをもつ余裕も二世でないとダメなのか。途上国の医療従事者は、自国の人々に直接尽くしたい半面、他国に出稼ぎに出て10倍の稼ぎをあげて、自国に仕送りをしたい、という思いに引き裂かれている。近年の日本の東南アジア諸国からの医療者受け入れは、そのような矛盾をはらんでいるのだ。

第4章「医療の土台『国民皆保険』」は、正直本当に勉強になった。コレラ流行下での三菱高島炭坑坑夫虐待事件に端を発し、医者の内務官僚後藤新平による1892年「疾病の保険法」とい画期的演説、日清戦争後の帰還兵23万人に対する一斉検疫の断行、1922年「健康保険法」成立。その後、1938年「国民健康保険法」成立により、政府が農民や自営業者の保険加入に本格的支援を始めたが、その背景に、強い軍隊を必要とした当時の大陸侵略戦争があったことは、忘れてはならない。敗戦後、保険加入率は一旦落ち込むが、1961年に「国民皆保険」が実現する。しかしその後も多種多様な保険組合の統合が進まないという問題をはらみつつ、所謂小泉改革の悪政の中、混合診療の全面解禁論が展開されて、日本の医療制度が破綻しそうになった。日本は、最も大切なものをここでも失いそうになっていたのだ。

最期のキューバの医療制度は、覚えておくべき価値がある。

それにしても医療改革、医療をめぐる議論は、「どんな社会を望むのか?」という大変大きな議論になると再度思い至らされた。

■目次 (コピペです)
はじめに
第1章 ドクターヘリ
佐久総合病院/「農民とともに」/ドクターヘリ出動!/「じぶんだけが大変なわけではない」/救急医療の現実/フライトナースの役割/看護師の仕事/ドクターヘリと救急医療の現状/生命の値段/救急医療を守るために
第2章 地域医療の最前線
  地域密着医療の第一線/地域ケア科のカンファレンス/訪問診療/看取りの心得/奇跡のおじいさん/コタツの上の手づくり料理/在宅ケアの目的/貴重な時間/訪問看護士と介護福祉士の仕事/佐久総合病院の再構築/どんな医療がのぞまれているか/病院機能の分化問題
第3章 なぜ医者になるの?
  医師が足りない/遠くが見えない/産科が直面する危機/医師集約の功罪/新臨床研修制度/医学生と病院のお見合い/医学生は都市出身者ばかり?/ショッキングな事件/ある日,医者になろうと決めた/医学部浪人生のボランティア体験/ボートに打ち込んだ医学生時代(一~四年生)/地方の大学病院の現実に直面(五・六年生)/マッチングに奔走/やりがい/フィリピン国立大学医学部レイテ分校/海外への頭脳流出/スマナ・バルア医師の体験/地域との信頼感/恩に報いる/SHSを訪ねる日本の医学生たち/クリオン島での出会い/患者の人生に係わる/メディカルスクール
第4章 医療の土台「国民皆保険」
  お金からみる医療/病院に行けない!/保険料を滞納すると・・・/国民の生存権/公的な支えあい/高島炭鉱の惨状から/公的な制度で社会を支える/健康保険法の施行/医者どろぼう/国の強兵策/世界に誇れる宝/医療保険制度の破綻/アメリカの保険制度/命にいくらかけられる?/膨らんでいる医療費/マイケル・ムーア監督とキューバの医療/ファミリー・ドクター/キューバのラテン医学校/アレイダ・ゲバラ医師
あとがき

※今日は、本は読めないと思っていたが、読書習慣のつなぎにと思って手にした本書は意外と当たりだった。

150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)