もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

139冊目 百田尚樹「永遠の0(ゼロ)」(講談社文庫;2006) 評価5

2012年01月31日 06時22分24秒 | 一日一冊読書開始
1月30日(月):

589ページ  所要時間5:05

今日偶然、ブックオフで手に取り、「ああ、あの話題の本やなあ。105円で589ページか!。ちょうど速読の練習本にしてみたらいい感じやな」と、本当に軽い気持ちで買って読みだした。びっくりした!。大当たりである。はずれの日もあれば、こんな大当たりの日もあるのだ。

当初、新人の処女作で大したことはないだろう、戦争中の海軍ゼロ戦乗りと神風特別特攻隊の物語りであり、戦争美化になってるんじゃないか、うっかり騙されるんじゃないか、など余計なことを警戒しながら読んでしまった。3分の2までは、1ページ15秒で速読を実践し、細部は解らないなりに、作品の構造・展開は読み取れていた。しかし、残り3分の1以降で速読は崩れた。「どうもおかしいぞ、意外と掘り出し物の充実した良い作品になってるんじゃないか?」「ちょっと味わって読みたいなあ」と思い始めたら、完全にストーリーにはまってしまったのだ。

読んでいて、この作品は、浅田次郎の吉村貫一郎を主人公にした「壬生義士伝」の、吉村を知る人間に語らせることにより、吉村貫一郎の人物像を浮き彫りにするところ。主人公の宮部久蔵が、吉村同様、残された妻娘を一途に思い続ける、見事な最期を遂げた上で、死して妻娘のところに帰っていく点。斎藤一を思わせる特攻崩れの博徒の景浦が、愛憎強く挑みかかっていく点など、「壬生義士伝」に対するオマージュを感じさせられた。そして、作品の出来栄えの良さは、全く遜色ない高レベルなのである!。

とにかく、最後の3ページで、はからずも落涙してしまった。途中、何度も目元にぐうっとくることはあっても、まさか本を読んで落涙するなんて経験はほとんど記憶にないので少し焦ってしまった。イデオロギーを気にして、読んでしまったことを、強く後悔している。そもそもそんな、中途半端なちゃちな本ではないのだ。皆さんに、安心して、是非読んでほしい!とお薦めします。

物語は、2001年9月11日、NY同時多発テロが起こる。「犯人のイスラム原理主義者たちと、かっての日本の特攻隊は同じではないか。」という声が世間で出たりする。そんな中で、祖母が祖父と再婚する前に母を生んだ、祖母の最初の夫で真の祖父だった宮部久蔵とは、どんな男だったのか。1919年生まれ、1934年海軍入隊、1945年南西諸島沖で戦死。限られた情報しかない中で、祖父の真実の姿を求める旅が始まる。30歳?姉と26歳弟が、彼を知る老人たちを訪ね歩いて、60年前の歴史の闇に消えかけている人物の姿を追い求める。残してきた妻娘のために「死にたくない」、「命を無駄にするな」と公然と言い、「臆病者」と陰口をたたかれながら、一方で、抜群の戦闘機操縦技術の高さと、弱い立場の兵たちに限り無く優しく、時に臨んで判断能力の高さは誰もが認めざるを得ない。彼をよく知る者ほど、彼を敬愛し、尊敬し、真の勇気の持ち主だと言う。戦争という異常時の中で、妻娘への責任感と愛情を堅持し、自己を見失わず、確かな判断力と人間愛を維持できた希有な存在だった祖父の姿が明らかになっていく。そんな彼が、なぜ、日本敗戦の数日前に神風特別特攻隊としての死を選んだのか。

巻末の児玉清さんの解説も良かった。

※著者は「探偵!ナイトスクープ」構成作家としてより、伝説の人気番組「ラブ・アタック!」の“みじめアタッカー”の印象・記憶の方が鮮烈に残っている。私には、恥ずかしいことを面白がる精神を持つ若者がいる!、という衝撃的驚きの存在だった。

※もう、寝なければなりません。限界です。皆様、お休みなさいませ。

138冊目 森鴎外「山椒大夫・高瀬舟」(新潮文庫;1919~16)所収4作品  評価4

2012年01月30日 04時30分52秒 | 一日一冊読書開始
1月29日(日):4作品:70ページ  所要時間:3:10

◎一日一冊の規則の「付則:①今後、習慣維持のため、<一日一冊読書>の例外として、<作品集所収の名作短編など>は、<一冊扱い>とする。時間不足や体調不良のときには、積極的にこの付則を活用する。」を今回は、このルールに準拠して、4作品の読書を<一冊扱い>とする

※鷗外の文体は、恐ろしいほど現代的である。とても江戸時代生まれとは思えない。

◎『山椒大夫』(1914年;52歳)

35ページ  所要時間1:40

風呂で湯船につかりながらまったりとして読んだ。素朴な感動。安寿(14歳→15歳)と厨子王(12歳~)の姉弟物語。何の変哲もない素朴な昔話童話に思えた。逆に、このような昔話童話の<典型>を近代日本文学で生みだした、ということに価値がある作品なのかもしれない。

鷗外の昔話童話・物語り作家としての功績は意外と大きいのではないか。って言うか、俺が、今まで鷗外の作品を、ほとんど読んでこなかったのが悪いのだが…。

九州から戻らない父(陸奥掾(じょう)平正氏)を訪ねて母と二人の姉弟が、岩代(福島県)から旅に出る。途中越後で人買いに騙されて、母親は佐渡へ、姉弟(安寿(14歳→15歳)と厨子王(12歳~))は丹後の分限者山椒大夫に売られていく。奴(やっこ)・婢(はしため)として芝刈り、潮汲み仕事、もし逃げれば十文字の焼印で罰される。

二人揃って逃げるのは不可能と知ると、姉の安寿は、弟の厨子王を逃がすため自身を犠牲にすることを喜びとし、沼に入水して果てる。途中、寺の庇護などを受けてなんとか都に行き着いた厨子王は、母から姉へ、姉から弟へと受け継いだ霊験あらたかな守り本尊のお地蔵様の機縁で、関白藤原師実(白河院政期の政治家)の知遇を得る。そして、父の死を知るとともに、父平正氏の嫡子として元服して平正道と名を改め、丹後の国守に任ぜられる。

厨子王は、丹後の国守として善政を布き、人身売買を禁じる。山椒大夫は、奴婢を解放し、給料を払うことでかえって生産性を上げて富み栄える(*この辺は、鷗外による啓蒙的作為を感じる)。次いで、厨子王は、佐渡へ母を探しに行き、そこで襤褸を着た盲の婢が「安寿恋しや、ほうやれほ。/厨子王恋しや、ほうやれほ。/鳥も生あるものなれば、/疾う疾う逃げよ、逐わずとも。」とつぶやくのを聞く。

なんと言っても、姉の安寿が弟を思う心の健気さが痛くて切なくて印象的だった。そして、姉弟が時折受けた人の世の情けの有難さが心に残る作品であった。

◎高瀬舟(1916年;54歳)

15ページ  所要時間0:35

思い出せないほど昔に、読んだことがあった。

徳川時代、京都で遠島となった罪人は、夕暮れ、親類一人に付き添われ高瀬舟で大阪へと護送される。護送役の同心は、夜通し身の上を語り合い、悔やんでも還らぬ繰言を聞かされる。高瀬舟の護送は、同心仲間で、不快な仕事として嫌われた。

寛政頃、例のない珍しい罪人、弟殺しで遠島の喜助の物語。どこから見ても楽しそうに見える喜助を護送する同心羽田庄兵衛が不審がり、二人の間に会話が始まる。

両親を幼くして流行り病で亡くし、貧しさの中で弟と身を寄せ合うように生きてきた喜助は、今回の事件でお上からの僅か200文の下賜金に満足し切っている。弟を殺したのも、先に自殺を図った弟の苦しみから解放して欲しいという要求に応えざるを得なかったこと。同心庄兵衛は、これが罪になるのか、考え込んでしまう。

鷗外は、この作品で、財産の観念と欲望の満足の限り無さの問題、「死に瀕して苦しむものがあったら、楽に死なせて、その苦を救って遣るが好い」という安楽死の問題が取り上げられている。

◎興津弥五右衛門の遺書(1912年;50歳)

11ページ  所要時間0:45

以前から気になっていた作品。記憶違いでなければ、鷗外は、乃木将軍の明治帝への殉死に触発されてこの作品を書いたということだが。読んでみた印象は、何か漠然としているが、女々しい気がした

以前に読んだ「阿部一族」で殉死というのが、主君の許可を必要とする特別な名誉だということは解っているのだが。この作品を読んで、強いて感想を述べれば、細川忠興に殉死する弥五右衛門は、遺書の中で、興津家の来歴や、自分自身の人生を振り返り、手柄や受けた恩義などを面々とこれだけたくさん語り、その大きな流れの中で自分自身の死を意味あるものと位置付けなければ、やはり殉死という不条理・不自然な死では、死に切れなかったのかなあ…?、という感じだけである。あまり自信のある解釈ではないが、誰の意見も見ないで書いた俺自身の素朴な感想である。

◎普請中(1910年;48歳)

9ページ  所要時間0:10

鷗外のもとを、ドイツ人夫人(「舞姫」のエリスか?)が訪ねて来て、鷗外が「日本はまだ普請中だ」というシーンを読みたかっただけで読んだ。それにしても、内容は、背景がわからないので、何かうすい印象だけで終わった。

137冊目 宮部みゆき「理由」(新潮文庫;1998) 評価4

2012年01月29日 04時50分56秒 | 一日一冊読書開始
1月28日(土):

686ページ  所要時間3:40

ほぼ1ページ15秒ペースを維持できたが、終盤の種明かし場面では、ゆっくり読んでしまった。そこをきちんと速読していれば、おそらく所要時間は3:00までは短縮できたと思う。

内容については、

冒頭で、深川の簡易旅館「片倉ハウス」経営者の娘で高校生の片倉信子が、「荒川一家四人殺し」の殺人犯人と名乗る石田直澄46歳の宿泊を、石田本人の依頼で交番に通報する。しかし、石田は殺していなかった…。

東京都荒川区の高層マンション、ヴァンダール千住北ニューシティで「一家四人殺し」事件。被害者の四人は砂川信夫・秋吉勝子・三田ハツエ・八代祐司という全く赤の他人が家族になりすまして住んでいたことが判明。事件の背景には、裁判所の競売物件をめぐる占有屋の存在や、家族の様々な危機的あり様などの社会問題があった。

途中、入れ替わった四人のそれぞれについて、不幸な行き詰まった人生がボリューム豊かに解き明かされる。しかし、大きな構成は、かろうじて読みとれたが、細部は全くお手上げであった。ただ、終盤の種明かしでは、ペースダウンした分、この作品の面白みがわかった。

再度、ゆっくり味わって読もうとまでは思わないが、なかなかの出来栄えの社会派ミステリーだと思う。

遊書心得のリフレイン 2012.1.28.

2012年01月29日 04時25分05秒 | 閲覧数 記録
1月28日(土):

一日一冊遊書活動も、マンネリ化している。相当に疲れが溜っている。何よりも楽しくない。負担感ばかりになっている。

理由の一つは、どうしても「読む」ということに傾き過ぎて、線を引いたり、付箋をしたり、ページの角を折ったりしてしまうことだ。そのため必然的に1ページ1~2分かかってしまう。140ページくらいの本でも、2~3時間かかり、200ページを超える新書にすら、相当な覚悟を必要とする。まず、350ページを超える本には手を出せない。結局、本を手にすることが苦行・苦痛となり、現実に手を出せる範囲の本も限られてしまって、自由さを感じることができないのだ。

だからといって、1ページを15秒、見開き2ページを30秒とすれば、1時間で240ページ、2時間で480ページ、3時間で720ページに目を通せる計算になるが、それでは、言葉の断片は目に残っても、全体の意味は把握できないだろうし、何よりも「神は細部に宿る」、その細部の味わいや情報を割愛・放棄せざるを得ない

しかし、敢えて「それでも1ページ15秒の遊書(つきあい読み・速読)を積極的に取り入れるべきだ」と考える。速読力は、試みることを繰り返さなければ身に付かない。そして、速読力は、読書習慣維持のために、今後ますます重要になっていく。様々な情報をカバーする上で、守備型読書としての速読力はどうしても必要だ。

速読であっても、良書・テキストであるかの判断くらいは確実にできるので、内容が良ければ、何度でも再読を繰り返せばよいのだ。また、場合によっては、再読の際、線を引いたり、付箋をしたり、ページの角を折ったりの精読(=攻撃型読書)に切り替えればよいのだ

なかなか、速読・精読(遅読)の使い分け、塩梅は難しいだろうが、少なくとも、自由な読書生活を展開・維持するために、「速読を避けない!、積極的に速読に挑む!」という意識は大切なことだと思う。

※今日は、宮部みゆき「理由」(新潮文庫) 687ページを、1ページ15秒、見開き2ページ30秒の速読トレーニングのつもりで読んだ。

はじめは、どの程度の省略読みをするか定まらず、目の上下運動が、うまくできず苦しんだ。その後、一定のペースを感じ取り、ページ上で目の上下が少し円滑にできるようになった。すると、何故か?視力も安定して、少し読みやすくなった

ただ、目と頭に対する負担感は相当なもので、ほぼ1時間に1回の休息を取らないと、我慢できない感じだった。ゆっくり読む時には、何時間読み続けても大丈夫なのとは、だいぶん大きな違いがある。

理解という点では、大きな構成は、かろうじて読みとれたが、細部は全くお手上げであった。しかし、不完全な読書ではあっても、そのおかげでこの本と縁を結ぶことができた。完全な読書を望めば、結局一生この本と縁を結べなかっただろう。そこを、どう評価し、考えるかの塩梅が難しいが、肝心なところなのだろう。




136冊目 江藤淳「明治を創った人々」(NHK人間大学1992年7月~9月期) 評価4

2012年01月28日 05時38分04秒 | 一日一冊読書開始
1月27日(金):

142ページ  所要時間3:05

2度目。有名な評論家。書き出されている人物像に関しては、よく解って書いてるな、という感じ。こちらの持つイメージを崩されることはなく、新鮮な解釈に時折感心させられた。言葉の使い方に独特な臭みがある。目線が高く、権力や戦争に対する批判精神は感じられない。樋口一葉・森鷗外・夏目漱石など明治の文学者への論考は秀逸である。

目次:
第1章 明治という時代
第2章 勝海舟―江戸・無血開城の主役
第3章 西郷隆盛―敬天愛人の政治家
第4章 大久保利通―米欧回覧の果実
第5章 大隈重信―明治十四年の政変
第6章 伊藤博文―明治憲法の起草
第7章 福沢諭吉―独立国家の条件
第8章 陸奥宗光―条約改正の苦衷
第9章 小村寿太郎―ポーツマスの星
第10章 山本権兵衛―日露海戦の演出
第11章 樋口一葉―天才の開花
第12章 森鴎外―国家と「私」
第13章 夏目漱石―「孤独な個人」の宿命

「一葉の生涯は短かった。しかも、その才華が花咲いたのは短い晩年の一年数か月のことであったけれども、その文学はおそらく不朽であって、紫式部や清少納言の名前が日本が続く限り伝えられるように、樋口一葉の名前も不朽であろう。明治という時代が生み、明治という時代しか生めなかった樋口一葉の才能、その文学の価値は、あらゆる時代を超えて持続するに違いないと思われる。」

135冊目 加藤仁「定年後―豊かに生きるための知恵」(岩波新書;2007) 評価3

2012年01月27日 06時04分22秒 | 一日一冊読書開始
1月26日(木):

223ページ  所要時間2:30

著者60歳。何か軽い散歩をしているような感じの読書ができた。性急さ、強さはないが、じんわりと身にしみて感じさせてくれる良書である。今回は、評価3だが、内容の奥行きは深そうなので、「定年後」に向けて折に触れて読み返すことで様々な感慨を与えてくれる「テキスト」になりそうだ

俺の親父は、55歳で定年退職したが、今や定年65歳への移行期に入り、俺自身の定年は、まだまだずいぶん先である。但し、寿命(特に実働寿命)がそれだけ延びたとは言えないので、ある意味、第2の人生の出発についての選択の幅は、狭められているのかもしれない…。

内容構成は、各章の中に、見出しのついた、3ページずつのコラムが10~13掲載されている。コラムの中では、その見出しのテーマに沿った定年後を生きる人々のことが、短いコメントともにひたすら多くの事例として紹介されている。とにかく多くの事例を紹介することで、読者に何かの兆しや気付きをもたらそうという趣旨である。押しつけがましさは、微塵もない代わりに、「ああそんな風に生きることもできるんだ」「そんな風に考えられるんだ」「そりゃそうだよなあ」「そんな問題もありうるんだ」etc.といろいろと考えさせてくれる。特に、一つひとつの例は、割合簡単に記されているので、かえって余白を考える効果もある<知恵の書>である。よく考えた上で、何もしないのもよし。何かするのもよし。悠々と急げばよい、自由だ!、というのが感想だ。

目次:はじめに―安住の地位を求めて /第1章 ひとりの旅立ち /第2章 仕事を創る /第3章 たのしむ、学ぶ /第四章 家族を見つめる /第5章 地域社会の生きる /第6章 終の住処 /おわりに―花ひらく定年文化

「自信とは、たったひとりで困ったり、悩んだりする体験を乗り越えることによって生まれるものである。大勢で神輿を担ぐようにして、なにごとかを為したにしても、そのよろこびがどれほど自信につながるのか。定年後は、組織を離れた一人の人間として再出発をすることになる。そのときものを言うのが個人的な体験の蓄積であると、私は数多くの定年退職者を取材して教えられた。」

【八万時間という財産】「この数字を知ると、だれもがはっとさせられる。/二十歳から働きはじめて六十歳で定年を迎えたとすると、それまでの労働時間の総計は二千時間(年間労働時間)×四十年間=八万時間になる。この八万時間の報酬としてマイホームの購入、子育て、社内の昇進昇格をやってのけたことになる。/では、定年後はのんびりとすごすことにする。睡眠や食事、入浴の時間を差し引くと、一日の余裕時間は平均して11時間以上もある。八十歳まで生きるとすれば十一時間×三百六十五日×二十年間=八万三百時間である。つまり定年後の余暇時間は、会社で働いた時間とほぼおなじということになる。この“八万時間”によって、これからはなにを得ようとうするのか。/「この数字を知ったとき、ほんとうに驚きました。定年後を無為にすごしていられないという、焦りに似た思いがこみあげてきましたね」/こう語ったのは、団塊のサラリーマンである。会社が催す退職準備研修で講師から「八万時間」を説かれ、定年後の一日のスケジュール表を作成させられることになった。略。/おカネはちょっぴり、時間はたっぷり、というのが退職後の暮らしであるならば、時間がもたらす贅沢を大いに味わいたい。こう考えて、在職中には不可能だった思い切りのいい行動をおこす定年退職者は数多くいる。」ex.日本列島を歩いて縦断。四国八十八か所巡り。六十歳前後から中国語を学習して、七十歳を目前にして「通訳」資格を取得。語学、とりわけ中国語・英語学習への挑戦例が多かった。

【NOと言わない夫】「妻が「やってみたい」と言うことことに対して、絶対に夫はNOと言ってはならない。数多くの退職者の事例から、私はこの大原則を教えられている。略。/妻のたっての望みであれば、なにはさておき夫はYESと答えなければならない。」*この言葉に出会って、俺は粛然として背筋がピーンと伸びてしまった。「おっしゃる通り!、これこそ真実の知恵の言葉だ!」。

※この本の中には、子供がいない夫婦の事例もたくさん出ている。子どもに頼れない夫婦の事例も出ている。夫婦は結局、二人ぼっち、そして人間は最後は一人ぼっちだ。そんなことも、考えさせてくれる。

【家族介護を望まず】「在宅介護と家族介護を混同している人たちが、いまも数多くいる。それを親孝行であるかのようにうけとめて、一身に介護を引きうけてしまう家族が見うけられる。だが家族介護は、逆効果をもたらしかねない。略。/在宅介護は、家族介護とは異なり他人の協力を積極的に求める介護である。/デイサービスをはじめヘルパー派遣、配食サービス、通院のための移送サービスなど、行政が提供するサービスは、可能なかぎり活用した。自分が息抜きの旅行をするときなどは、認知症の妻を宿泊(ショートステイ)させてくれる小規模多機能施設も利用している。その在宅介護は六年目に入ったが、夫はそれほど疲れていない。」


134冊目 中馬清福「日本の基本問題を考えてみよう」(岩波ジュニア新書;2009)  評価5

2012年01月26日 07時17分30秒 | 一日一冊読書開始
1月25日(水):

218ページ  所要時間5:15

著者74歳。朝日新聞社入社、政治部員、論説委員主幹、代表取締役専務など歴任。現在、信濃毎日新聞社主筆。俺の周りにはもう見られなくなった元気溌剌としたオールド・リベラルの健在ぶりに久々に触れた気がする。日本の置かれている状況や課題について、戦後・現在・未来そしてグローバルな世界へと視野を広げつつ、「革新(立ち位置は、旧社会党~社民党の辺か?)」の立場から、気概に満ち溢れた切れ味のよい論評が展開されている。読んでいて、すごく共感を覚え心強い先輩の存在を発見したような思いになった。

ただ、テーマ的には、あまり楽しめる・面白い内容ではない。一般の高校生を受け手とするには、記述のニュアンスを分かるのに、少し高度過ぎる内容にも思えた。ジュニアを取って、「岩波新書」にした方が良かったかもしれない。そんなレベルだと思う。俺としては、心情的には、おおいに賛同しながら、「なかなか、今の時代では、伝わりにくいだろうなあ……。」と、若い読者相手に少々空回り気味の展開にも思えた。しかし、たとえ一過性の時流には乗れなくても、不易流行、真理は不変(普遍)だと、俺は信じている。

読んでいる途中、あまり面白くないので、「これは評価3かなあ…」と思ったりもしたのだが、著者の新聞記者としての一本筋の透徹した強靭な信念を感じさせられ、現場主義に徹した判断の確かさ、特に今日の福島原発事故を予見したような未来を見る目の確かさなどに驚かされて評価が上がっていった。そして結語で最後に、「こんな少数意見を人様に語ったところでなんになろう、相手が迷惑するだけではないのか……。/じっさい、連戦連敗なのです。自衛隊の海外派遣も、教育基本法の改悪も、改憲のための国民投票法も、いろんな機会を得て批判し反対もしてきました。でも、一本の筆は二本の箸に勝てないように、新聞記者の一人や二人が「もっと考えよう」と叫んだところで、いかほどのことがあるものか。それぐらい権力者は強く、巧妙で、執念深い。云々」と寂寥感とともに述懐するのを読めば、読んでいる俺も「その負け戦、あんただけにやらさへんで、わしらも同じ思いやっ!」とついついほだされて応援したくなって、評価5になったのである。勿論もともと内容的には十分充実していたのだが、俺の評価基準が、「面白いかどうか」が大きな割合を占めるので、途中までどうしても評価が低かったのである。その意味では、最後に、老新聞記者のお涙頂だいの浪速節にやられてしまったのかもしれない。

目次は:
第1章 この世は矛盾だらけだ:同級生はなぜ自殺したか。人間だけができること。矛盾退治の旅に出よう。死ぬな、死なすな。格差・差別に負けるな。得意技をもとう。人類は矛盾是正につとめてきた。
湯浅誠さんの『反貧困』(岩波新書)の<溜め>について、「有形・無形のさまざまなものが“溜め”の機能を有している。頼れる家族・親族・友人がいるというのは、人間関係の“溜め”である。また、自分に自信がある、何かをできると思える、自分を大切にできるというのは、精神的な“溜め”である。
第2章 経済の基軸が崩れはじめた:世界同時不況。サブプライムローン。新自由主義。市場原理主義の嵐が吹き荒れた。
第3章 穴があいた暮らしの安全網:働くことの大切さ。国の基盤を崩す事態。増える非正規雇用労働者。雇用自由化の流れ。不完全なセーフティネット。
第4章 憲法は暮らしのパスポート:自己責任と社会福祉。自己責任万能論。日本国憲法の強い信念。二十四条と二十五条。三十三条と三十四条。
第5章 改憲で暮らしはどうなるか:改憲国民投票法。古きよき日本の復活へ。自民党の新憲法試案。新しい責務とは。改憲の思考の特徴。ドイツ憲法を見てみると。
第6章 すべての原点は平和的生存権だ:敗戦直後の空気。南原繁と吉田茂。警察予備隊、保安隊、自衛隊。「保持を禁止している戦力にあたらない」。海外派遣の道も開かれた。平和的生存権。
第7章 日米同盟という言葉の危うさ:九条への畏敬とアメリカの圧力。不平等な安保条約。「日米同盟」の登場。集団敵自衛権とは。矛盾する三要素(憲法九条・自衛隊・安保条約)の存在。
第8章 「正しい戦争」なんてありえない:問題多い国連だけど……。安保理の存在意義。新しい戦争。空爆1万7000回。「人道的介入」肯定論。「正しい戦争」を認めると。/「新しい戦争」=紛争の当事者が国家ではなく「非」国家である。①国家対「非」国家ex.アフガニスタン戦争、②多民族国家内の内戦ex.旧ユーゴスラビアのボスニア・ヘルツェゴビナ紛争。→<人道的介入・空爆>は許されるか?=空爆の犠牲者も、罪無き民間人である。//「正しい戦争」でも、それによって殺された「罪なき人々」から見れば、とても「正しい」とは言えない。また、「正しい戦争」を容認すると、①先制攻撃論への誘惑、②過去の歴史の美化、侵略戦争の否定へと進む。//
第9章 ゲンバクとゲンパツをどうするか:ゆでられるカエル。核軍縮とNPT(核拡散防止条約)。核保有国はなぜふえる?。原発ブーム再来。再生可能エネルギーへの取り組み。食料を燃料にすること。
第10章 どんな日本、どんな世界にしようか:「国」か「くに」か。愛国心の条件。強制が大問題。公と私の関係。「くに」の再生へ。民主主義への過程は……。/「愛国心の持ち主には二種類ある。略。やたらと愛国心を口にしない人はホンモノ。まず国家があってその下に国民がある、そんな愛国心を説く人はニセモノ。個人と国家、その双方の独立を基盤に愛国心を考える人はホンモノ。ことさら特定の国にこび、事実上そこの従属国になっていながら、知らぬ顔をしている人の愛国心はニセモノ。これが私の識別法です。」

133冊目 溝口敦「暴力団」(新潮新書;2009年9月)  評価5

2012年01月25日 06時36分18秒 | 一日一冊読書開始
1月24日(火):

202ページ  所要時間4:00

著者69歳。テキスト

<まえがき>「現実には暴力団の実態を知る人が少ないことも事実です。江戸期や明治期の侠客、ヤクザのたぐいを知っている人でも、今現在、暴力団がどうなっているのかについては知るところが少ないと思います。暴力団は徐々に変化しています。バブル経済期に景気のよかった暴力団は今、相当な様変わりをしています。同じように暴力団を取り巻く環境も刻々と変化しています。/近い将来、暴力団は零落して四散し、いくつもの小さな組織犯罪集団に、つまりマフィア化への道をたどるだろうと思われます。すでにその変化の兆しは見え始めています。実際にマフィア化を自ら覚悟し、それを明言する暴力団幹部も増えています。/本書では、今の暴力団について、誰にでも分かりやすいよう、やさしく書くことを心掛けました。暴力団を美化せず、ことさら意地悪に書いてもいません。警察の言い分を自分の言い分にするような書き方もしていません。客観的に素直に書いたつもりです。/暴力団の入門書といっては誤解を招きますが、暴力団のあらかたについては本書を読むことで、一般の方々にも理解できるにちがいありません。/とりわけ怖いもの見たさの読者は大歓迎です。」全部読み終わった、私の感想は、この<まえがき>が真実であることを、証言します

1960年代後半から半世紀近く、山口組と暴力団を見続けて来た著名なノンフィクションライターが、「暴力団は構造不況業種で、もう行くところまで行き着いてしまった」、「そろそろ終わりだろう」と思いながら、<暴力団ものの集大成>のつもりで、「今現在、ぜひ読者が知っておいてよい情報、または必要と思われる情報をたくさん盛り込みました」と<あとがき>で記している。

読みやすく書かれてるが、これまでに著者が積み上げてきた膨大な経験知と情報から選りすぐりの内容と知恵が記されているのが、よく解り、無理な言葉が全くなく、自然な説得力があった。

図書館の本なので、線は引けないが、付箋をしたら新書がヤマアラシのようになってしまった。納得できる実のある知識が満載だったのだ

目次:
第1章 暴力団とは何か?
第2章 どのように稼いでいるか?
第3章 人減関係はどうなっているか?
第4章 海外のマフィアとどちらが怖いか?
第5章 警察とのつながりとは?
第6章 「半グレ集団」とは?
第7章 出会ったらどうしたらよいか? ※特に第7章だけでも、読む価値は十二分にある!!。 

著者が「暴力団に会ったことがない人は、会わずにすんで幸いでした。自ら進んで会うような人たちではないのですから。/たいていの場合、用事があれば向こうから連絡してきます。」とさらりと言ってのけるのを読むと、まさにこの本は我々読者にとって「転ばぬ先の杖」となると、私は感じた。

この本には、暴力団の論理、習性、実態、行動パターンなど詳述されるだけでなく、国内の「半グレ」という新勢力と比較したり、海外の「マフィア他犯罪集団」との比較により、理解を深める記述がなされている。     

※「実は、暴力団対策法は、警察と暴力団が共存共栄を図る法律ではなかったのか」と疑い、具体例を挙げつつ説明し、統計でも構成員と準構成員の総計は、微減でほぼ横ばいだ、と指摘する。一方で、「暴力団は生活するな、というに等しいから、都道府県の暴力団排除条例は暴力団対策法以上に、組員にとっては厳しいものなのです。」という指摘には、何か実のある学びを得た気になれた。    

※2011年8月の島田紳助の山口組幹部との交際による芸能界引退について語る。

※2010年11月の市川海老蔵殴打事件で有名になった暴走族、関東連合OBが、実は「半グレ集団」という暴力団に代わる新たな犯罪の温床集団であり、見過ごせない問題だったことを気付かせてくれた。     

※また、酒精の摂取と睡魔で、まとめられない。また機会があれば、明日にでも、もう少し読み易いように加筆・修正・整理します。ただ、一言だけ、「この本は、“買い!”ですよ!」とだけは、太鼓判で推薦します。とても読者の読みやすさにも配慮された本なので、まあ騙されたと思って読んでみて下され!。

132冊目 安田佳生「千円札は拾うな。」(サンマーク出版;2006)  評価1

2012年01月24日 02時27分44秒 | 一日一冊読書開始
1月23日(月):

158ページ  所要時間1:35

久しぶりに、ひどい目に遭った
。図書館のまじめなコーナーの一角にあり、少し捻った表題に引かれて、本の前の方をパラパラ見て、読みやすそうなので「ひょっとしたら掘り出し物かも」と思って借りた。著者は、ベンチャー企業?経営者で40歳。

読み始めて、「なんだビジネス本か…」と思ったが、引き返す時間はない。読み進めるにつれて、思わせぶりだが中身が無い。独りよがりで断定的、深みの全くない浅い内容が延々と続く。かなり後悔しながら、我慢して読み進めていった。

そのうちに、自分の頭の中が相当に混乱させられている、内容に対する強い拒否反応が出ていて、アラームがビービー鳴っている感じだった。最後までたどり着いて、なんの喜びも達成感もなかった。

結論から言えば、これはビジネス本ですらなかった。この本の通りにやれば、会社は間違いなくつぶれる、と思った。分類するならば、著者には悪いが、所謂「とんでも本」ってやつだと思う。繰り返して言って置くが、これは図書館のまじめなコーナーにあったのだ。そうであれば、当然それなりの本が並んでると普通に思うではないか…、とほほ。もう少し、内容を確かめて借りればよかったと、すごく後悔している。随分と、後味の悪い経験になってしまった……とほほのほ(涙)。

※念のため、アマゾンのレビューを見たら、評価3.5だった。これまた、私の頭の中は、???????…で一杯になってしまった。私には、評価1しか付けられません。私の頭が悪過ぎるのか?、世間様の目が高過ぎるのか?、このギャップにも、ただただ混乱させられてしまいました。

※さらに調べたら、この著者の会社、昨年倒産してました
 「msn 2011.3.31 14:53 就職活動コンサルティング会社のワイキューブ(東京都新宿区)が東京地裁に30日付で民事再生法の適用を申請したことが31日、分かった。帝国データバンクによると、負債総額は約40億円。社長の安田佳生氏は「千円札は拾うな。」などの著者としても有名だった。」 *納得はしたが、後味の悪さは変わらない…。


131冊目 池上彰「イラスト図解 経済ニュース虎の巻 」(2003年;講談社) 評価3

2012年01月23日 06時15分17秒 | 一日一冊読書開始
1月22日(日):

128ページ  所要時間4:30

池上さん53歳。2度目。今回、鉛筆でチェックを入れながら読んだ。確かに解り易く、経済ニュースの基礎的知識が、整理・解説されていた。もし、2004年頃に読んでいれば、確実に評価5だったと思うが、やはり8年の歳月は大きい、みずほ証券のジェイコム株誤発注事件、ライブドア・村上ファンド事件、サブプライム・ローン、リーマンショック、アメリカ経済の行き詰まり、中国経済の台頭、ユーロ危機、日本経済のGDP→GNI重視化、etc.が入ってないのが、今読むと、どうしても物足らないので、評価は3である。4年前の2008年2月25日所要時間2:00で読んだ時には、「実のある形でわかりやすい。」という感想で評価4だった。

「経済」は、「政治」以上に生き物だ!と、読みながらつくづく思った。しかし、各項目ごとに池上さんらしい気の利いた解説が展開していてとても好感の持てる良書であり、<テキスト!>と敢えて強調しておきたい。

目次:
デフレとはなにか/景気が悪いとはどういうことか/不良債権のなかみ/どんなときに倒産というのか/失業率はどうやって計算する?/経済成長はどうやって確認するか/産業の空洞化でなにがおきている?/どんどん変わる銀行の名前/金利とはなんだろう/消費者金融はなぜ元気なのか/金融のしくみ/生命保険会社はなぜ経営が苦しいのか/銀行はどうして貸し渋りする/なぜ公的資金を銀行に使うのか/日本銀行に預金はできるのか/日本銀行はどうやって紙幣を発行する/日本銀行の量的緩和のしくみ/インフレ・ターゲットってなに?/バブルとはなんだったのか/なぜ公共事業に税金を注ぎ込むのか/国債とはなんだろう/個人国債はお買い得?/国債の格付けとはどういうこと/身に公募債の登場/株とはなんだろう/株式市場のしくみはどうなっている/日経平均株価とTOPIX/空売りとはなにを売るのか/株式持ち合いとはどういうこと?/円高、円安がやっぱりわからない/外国為替市場はどこにある/ドルがなぜ基準になるか/ユーロとはどんなもの?/地域通貨はお金なのか/そもそもお金とはなんだろう//他に→経済ニュースのプチ歴史&プチ番付

※今、一番気になるのは、先進国中で最低の国債評価を受けている日本が、将来ギリシャ危機の如く、破滅に向かい、超円安に向かうのか、それとも同志社大学の浜矩子教授の言うように1ドル=50円の超円高の到来に向かうのか。誰かに、教えをこいたいということである。円安に行くのか、超円高に行くのか、誰か教えて欲しい!

それでは、酔っ払いながら、寝させてもらいます。お休みなさい。



130冊目 山崎豊子「運命の人(四)」(文芸春秋;2009)  評価5

2012年01月22日 07時19分39秒 | 一日一冊読書開始
1月21日(土):

282ページ  所要時間6:05

(一)~(三)が第4の権力、新聞マスコミが一体となって絡んだ「外務省機密漏洩事件篇(1971年)」、(四)は「沖縄篇」として読める。二つのテーマを統一するのに苦慮した著者は、最高裁での上告棄却、有罪確定後の主人公の弓成亮太を沖縄に流れ着かせ、そこで再生・住み着かせることでストーリーの一貫性を持たせることにした。この第四巻は、主人公弓成亮太の目を通した、沖縄の民俗・人情、そして戦前・戦後・日本復帰後、現在を描いたもの。第四巻だけで、沖縄が背負わされた早急に解決すべき宿命、所謂「沖縄問題」を分かりやすく取り上げた好著として読める。弓成が、沖縄で長年、取材活動をしながら、どうやって現金収入を得ていたのかは、終始ずっと疑問だった。ストーリーの都合ということで、一応は納得した。

◎沖縄宮古の伊良部島は竜宮みたいな素晴らしいところ。沖縄本島の海とは次元が違う。
チビチリガマの悲劇の詳細を記述:ガマ=“洞窟”。
沖縄戦:「おそらく日本人の中で沖縄県民ほど日本人たるべく努力し、その当時の最高の日本人たり得た国民はいないのではないかと思う。」「天皇の御真影を風呂敷に包んで、戦火の中を逃げまどった祖父が、本土出身の兵隊に誰何され、沖縄方言が通じないため、スパイ嫌疑をかけられた挙句、銃殺された口惜しさを語った肉親の証言だった。本土で御真影を抱いて非難した人が果たしていただろうか――。そこまで日本人たらんとした老人に云いしれぬ切なさを感じた。」「断末魔の戦場では、日本兵に壕を追い出され、“鉄の暴風”の中をさまよう者、食糧を取り上げられ餓死する者、沖縄方言が通じず、スパイ容疑で射殺される者、鳴き声が漏れるという理由で絞め殺される幼児たち……、兵隊も避難民も「人間が人間でなくなる」状態に追い込まれていた。/6月22日未明、守備軍牛島司令官は割腹自決した。この日を以って沖縄戦は終了したはずであるのに、牛島司令官は遺書によって「爾今、各部隊は各地において生存中の上級者これを指揮し、最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」と命を下した。つまり生き残った将兵は各地でゲリラ戦を続けて、最後の一兵卒まで闘い続けよというのである。停戦を決める責任者が不在となり、戦局が長びくことによって、米軍を沖縄に釘付けして、本土決戦の時間稼ぎをする作戦だったのである。その背景には沖縄県民に対する蔑視があったと云わざるを得ない。」※俺(もみ)は、牛島軍司令官だけは、赦せない。
◎鉄の暴風:沖縄師範学校の「鉄血勤皇隊」の悲劇の詳細「ひめゆり学徒隊」の悲劇の詳細を記述。
土地闘争:「戦時中、日本で唯一、地上戦が行われ、四人に一人が戦死したと云われている沖縄は、戦後も犠牲を強いられた。サンフランシスコ条約で日本本土と切り離され、米軍統治下に置かれると、米ソ冷戦を背景に米軍が沖縄の基地化を進めるため、1953年土地収用令を公布して多くの住民の土地を問答無用で取り上げた。」 「米軍将兵が、「沖縄はわが将兵1万4千人の戦死者後によって日本軍から奪い取ったものだ、三等国民に抵抗する権利はない」と家に火をつけ、無抵抗の抵抗を続ける村民をごぼう抜きし、荒縄で縛って毛布にくるみ、飛行機で嘉手納基地へ連行して、軍事裁判にかけた。罪名は公務執行妨害で実刑判決が下された。」「1955年といえば、本土ではもはや戦後ではないという言葉が聞こえはじめた頃であるのに、沖縄では敗戦のツケを背負わされた人々が、生活のすべてを奪われ、喘いでいたのだった。」
◎沖縄の闘牛、ガラス工芸、ブラジル移民、方言札、レとラの音階がない沖縄三線、沖縄民謡、琉歌
◎戦後、米兵に強姦された女性から生まれた“あいの子”女性謝花ミチの苦しみ(所謂、アメラジアン問題):死んだはずの母親は、精神病院に居り、小学生の時それを知り、会いに行ったら激しく拒否され、ほどなく母は死ぬ。
反戦地主の活動
◎1995年9月4日夜、沖縄駐留米軍海兵隊3人(20~22歳)による小学生女児(12歳)への拉致・暴行事件の詳細:引き渡しを拒否する米軍。日米地位協定の不平等(第17条5項)。沖縄のメディアの対応と本土メディアの無神経な対応の差。沖縄県民の怒り。多田(太田)知事、1997年までに期限切れとなる未契約米軍用地に対して、強制手続に伴う土地、物件調査への代理署名を拒否する意向表明。八万五千人の県民大会。普天間移設問題、本格化。
◎ワシントン米国立公文書館での利用者の様子の詳細描写。
2000年夏、外務省否定の軍用地復元補償費四百万ドルの日本側肩代わり密約裏付け 米公文書で証明される。琉球大学我楽政規教授(我部政明)、米国立公文書館で発見。→「まさか、今になって弓成さんの身の潔白が証明されるとは!しかも地元の流大の学者によって――」
◎2004年、沖縄国際大学構内、米軍ヘリ墜落事件:「民間地であるにもかかわらず、治外法権がたちまち出来てしまった異様な光景を、弓成ははじめて目のあたりにし、慄然とした。」→復帰後も変わらない状況。
◎平和の石礎
◎ラストの主人公の言葉「沖縄を知れば知るほど、この国の歪みが見えてくる。それにもっと多くの本土の国民が気付き、声を上げねばならないのだ、書いて知らせるという私なりの方法で、その役割の一端を担って行こうと思う。」

*ナベツネが取材協力者になっている。外務省の秘密主義の傲慢さ。

129冊目 脇田晴子「室町時代」(中公新書;1985) 評価3(5)

2012年01月21日 04時26分26秒 | 一日一冊読書開始
1月20日(金):

261ページ  所要時間1:30

著者51歳。一昨年(2010年)、文化勲章受章。評価3は、ひとえに私の力不足で、本当の価値は5である。    

この本を、なぜか私は2冊持っている…。しかも、長年本棚の肥やしとして、読んだことがなかった。

それなりに人生を忙しく生きてきた中で、この本と付き合うには、鉛筆を持って、ポイントをチェックしながら10時間はかけないと太刀打ちできない、のが分かっていたのだ。ちなみに、そんな本が我が家の本棚には、売るほどたくさんある。「馬鹿だなあ…」と思いながら、ついつい買ってしまうのだ。         

歴史が好きで、特に日本史が好きなのだ。司馬さん風に言えば、「『室町時代』という背表紙の文字を見ただけで、私の中では、すでに詩が始まっている…」という感じで、読める見通しもないのに、歴史関係の本が、どんどん溜まっていくのだ。    
今日、家に戻り、読む本を「何か無いか」と探していて、同じ本が2冊仲良く並んでいるのが目にとまった。最も脂の乗った51歳の学者が、それまでの研究の、総決算として取り組んだ本である。手も足も出ずに跳ね返されることだけは解っていたが、「こんな機会でもなければ、死ぬまで御縁を結べない」と思い、手に取った。   

但し、いつものように、やみくもに読むのではなく、多くの同様の歴史本に今後取り組む練習・たたき台にでもなればよいと、「1ページ15秒(見開き2ページ30秒)眺め読み」、すなわち、読み切る(理解する)読書ではなく、「一日に一人の優れた人格(小説家、学者(文系・理系)、宗教家、記者、碩学、英雄、聖人、etc)にお付き合いいただく栄に浴すること」が目的で、読み切ることに拘らない<遊書(付き合い読書)>の原点に戻るということだ。   

実際にその速度で読み始めると、勿論日本史の基礎知識は持ち合わせてるので、どういうことを問題にしてるのか、ある程度は漠然と分かるが、「神は細部にこそ宿る」のであり、その意味では、全く歯が立たなかった。ただ、久しぶりに中世日本史の専門用語満載の文章に触れて気持ち良かった、と書きたいところだが、速読を意識して30分以上眼球を上下に速く動かし続けると本当に目が回ってきて気分が悪くなり、休みを入れざるを得なかった。 

目次:
序章 室町時代の特質
「「有徳人」と乞食に代表されるような室町時代の時代的特色はどこから生まれてきたのであろうか。それは鎌倉中末期から全国的規模で、農村にも浸透しはじめた商品経済が、中世の伝統的な庄園制社会をくずしはじめたことによる。本書は、このような商品経済の影響による変化が時代を規定していると、考えて、それに焦点をあてて、「室町時代」を見ようと試みたものである。」
第1章 東アジア世界のなかの日本
 1、日明貿易の仕組み
 2、将軍権力の確立
 3、貿易の政治性
 4、貿易の実態
 5、日明貿易・倭寇・密貿易
第2章 土倉と徳政
 1土倉・酒屋・日銭屋
 2、高利貸業者の掌握
 3、土一揆と私徳政
 4、分一徳政令と徳政免除
第3章 変貌する畿内と諸国
 1、豊作飢饉と地主制の成立
 2、小経営の存立基盤
 3、京と諸国
第4章 自治を高める都市と農村
 1、自検断の村々
 2、職種別結合の座の成立
 3、自治都市の成立
 4、差別された人々の集団
結びにかえて―戦国・近世への展望   

鎌倉時代は、何やら古代の尻尾が付いていて霞がかかっている、それならいっそ平安時代までいった方がが面白い。一方、戦国は見飽きたし、江戸は逆に近代的過ぎて、多様過ぎるのと、通俗時代劇で見飽きたしまった。やはり、「室町時代がいい!」。領主(土地)支配中心の時代から、商品流通、貨幣経済、産業の多様化、東アジア貿易へと何か、世の中の構造が、根っこから、静かに確実に、変わって行くのに、表面の政治は超ユルユルで和むか、と思えば6代将軍足利義教のように「おいおい、なにしなはんねんな?、もうー、あきまへんがなー!」と突っ込みを入れたくなるようなシビアーな悪御所が出たり、人の世虚し応仁の乱で、大義も何もなく、ただ私利私欲で戴く人間(義視と義尚)を入れ替える「とりかえばやものがたり」のしまりの無さ、そして何よりも土一揆・国一揆・一向一揆で庶民が本気で領主と闘い始め、富を蓄えた堺や博多の自治都市、祇園祭を担って一変させた京都の町衆の心意気、なにか人間の欲望がむき出しになり、<乱れに乱れてるのに豊穣な時代>が、室町時代である。私は、この時代が好きなのだ。

しかし、大河ドラマで「室町時代」は、随分冷遇されている。1994年の「花の乱」は、主役の市川団十郎がプーで、ダメだったが、1991年の「太平記」では、あまりの出来栄えの良さに毎週日曜日齧りつく様にして観ていた。「南北朝正閏論は、NHKはん、どう描かはりますねん?」、「後醍醐天皇はやっぱりええでえ!、そやけどなんで正成の言うことちゃんと聞いたらへんのや」、「あんなに仲の良かった尊氏と直義兄弟やったのに、<観応の擾乱>は厳しいなあ」「陣内さんの佐々木道誉、洒落てて、いかしてる!」、終わった後も、録画した「総集編」は、何十回も見直してほとんど頭に入っている。

ここまで書いたので、ついでに、もみさんの歴代大河ドラマ・私的ベスト10を紹介させて頂きます。

第1位1977年「花神」
第2位1991年「太平記」
第3位1992年「翔ぶが如く」
第4位1987年「独眼竜正宗」
第5位1995年「八代将軍吉宗」
第6位2000年「葵徳川三代」
第7位1980年「獅子の時代」
第8位1978年「黄金の日々」
第9位1979年「草燃える」
第10位2002年「利家とまつ」
他の力作:1997年「毛利元就」
1976年「風と雲と虹と」
1993年「琉球の風」&「炎立つ」
1994年「花の乱」
2008年「篤姫」
etcである。
他にも概ね、1990年代までの作品は粒ぞろいだった。改めて順位付けするとなると、結構難しい。1位~4位は、ほぼ鉄板だが、それ以下は気分によって上下しそうである。

こうして振り返れば、一目瞭然で1970年代~90年代のNHK大河ドラマは、骨太の開拓者精神に富む制作を成し遂げていた!!!、ということが分かる。NHKには、現在の視聴者に迎合し、阿る制作では結局、後世に評価される仕事は残せない、ということと、資料収集・時代考証的に困難ではあっても、「飛鳥・白鳳」、「奈良・天平」、「平安(弘仁・貞観、摂関政治、院政期)」、「室町」、「大正」、「暗い昭和前期」などを、NHK自らが発掘して歴史のスタンダードを創造するんだという気概を持って欲しい

顔よりも、演技力で勝負して下さい。顔や、嘘くさいスウィーツストーリーもすぐメッキが剥がれます。日本の歴史は、視聴率の取れる「戦国」と「幕末」だけでは断じてない!、ということを、率先して表現して下さい。    

と、ここまで書いてきて、俺が、本書の内容に、ほとんど触れていないことに気が付いた。ただ、分かって欲しいのは、たとえ歯がたたない内容の本であっても、歴史の本は、これだけ歴史への溢れる思いを喚起する力があるということだ。    

現在、酒精を相当に摂取しており、本書の内容については、後日少しでも補足したいと思います。   

※今回の文章は、分類上、『読書記録』というよりは、『日記』で掲載させて頂きます。  

それでは、皆様、「歴史好きの人たちは、この指とまれ!」ってことで、お休みなさいませ。

128冊目 正村公宏「ダウン症の子をもって」(新潮文庫;1983(2001))  評価5

2012年01月20日 04時31分59秒 | 一日一冊読書開始
1月19日(木):

254ページ  所要時間3:25

著者52歳、専門の経済学および戦後史の著書多数。重度のダウン症で生まれてきた次男隆明くんの養育をめぐり夫婦で書き続けた、はがきサイズのノート80冊にのぼる『連絡帳』の記録を基に記された本。随分昔から存在は知っていたが、読めずにきた。読後感は、「読む機会に恵まれて本当に良かった。本当に世の中に必要な本ってあるんだよな」ってこと。評価は、普通に読めば必ず5である。

内容は、個人の経験を通して、障害者福祉のあるべき姿を考え、ノーマライゼーション(正常化)とは何か、を普遍的に論じたもの、ということができる。

しかし、この本の味わいと説得力は、別にある。著者は、つらいことは、つらいと素直に書いているが、それがじめじめせず、カラリとした感じで書かれているのだが、逆にそれが真実味を覚えさせるのだ。ひとつには、80冊にのぼる『連絡帳』で、事実とともに、その時々の瞬間の思いが正確に再現されている。そして、その時々の瞬間の思いというのは、目の前の焦眉の問題を解決することに追われている、所謂「それどころではない」状態であり、またわが子への親としての愛しみしかないのだ。著者の妻に対する謙虚な感謝と協力への意志も気持ちが良い。

「障害」者をわが子に持ち、自らを犠牲にして愛しみ献身し続ける親は、決して少なくないだろう。しかし、その大変さをきちんとした記録と言葉で伝達し、あるべき障害者福祉・福祉社会の姿を提言・発信できる親は希有である。本書は、そのような希有な著者により書かれた希有な名著だと思う。

読んでいて、何度か、目元がぐっとなることがあった、また非常に示唆に富む言葉が具体的事実とともに散りばめられている。ノーマライゼーションの解説など以外にも、読み直すごとに味わい深い真実の声に触れ、新しい発見に出会える奥行きのある本だと思う。

※ここまで書いて、「感想になっていない」虚しさを覚える。「是非読んで下さい。絶対に良い本ですから!」というのが正直なところである。 

◎「「自立」は、障害児を抱えた親にとって、最も切実な問題であり、一貫した主題である。親たちは、何とかして子どもたちが「自立」できるようになることを願い、格闘をつづけるのである。/しかし、「自立」という言葉は、機械的に理解されてはならない。もし、ここにいう「自立」を、一般的な意味における「自活」の実現と理解してしまうならば、障害のより重い子どもたちは、療育の対象からさえ切り捨てられてしまうことになりかねない。略。/障害の子にとっての「自立」とは、ある達成された状態を意味するのではないと私は思う。それは、この子たちの「可能性」を求めるたえまない努力の方向を意味しているのだと私は考えている。/私は、そうした私の気持ちを、略、「可能性の哲学」と呼ぶことにしている。私は、「可能性の哲学」こそが、障害者福祉の基本思想でなければならないし、もっと一般的に「福祉社会」の基本思想でなければならないと思う。いや、それは、私たちの社会がより人間的であるための基本的な要件なのではないかと私は考えている。」    

◎「現実には、単一の「障害者問題」あるいは「障害者福祉」などというものは存在しない。略。その障害の内容や程度は、まったく一人一人違う。略。/障害者自身にとっても、また、障害者を家族にもっている人々にとっても、実は、一般的な障害者問題などというものは存在していない。彼らにとっては、毎日毎日、それとの格闘をつづけなければならない具体的な生活上の問題があるだけである。/そして、その生活上の問題なるものが、きわめて多様であり、個別的である。略。/それを具体性において把握するならば、その多様性と個別性にほとんど圧倒されかねないのが現実である」   

◎「徒競争になると、まっすぐ駈けていくことができずに、とんでもないほうへいってしまう子も出てくる。会場はどっと笑う。この子たちとのあいだにしっかりした心のつながりのある親たちの集まりのなかでは、おかしいときにみんなが腹を抱えて笑っても、この子たちを馬鹿にしたと取られることはない。そのカラッとした雰囲気は、私の気持を開いてくれた。/彼らをよく観察し、その力をたしかめ、可能性を発見し、一歩一歩前進させ、そのことによって、彼らに自信を持たせること。そのために、何をしたらよいかを工夫すること。/それ以外にはないのだ。この子たちの世界には、一等賞、二等賞、三等賞というのはありえない。誰がいちばん速く走ったかではなくて、誰がいちばんそれぞれの持つ可能性を出しきったかが問われるべきなのである。ときには、いちばんあとから走った子にいちばん大きな拍手が送られなければならない。」

127冊目 落合恵子・佐高信「50歳われらの戦後」(岩波ブックレット;1945) 評価3

2012年01月19日 05時01分22秒 | 一日一冊読書開始
1月18日(水):

62ページ  所要時間2:25

◎ちょっと疲労が溜り過ぎて、まとまった読書をする気力が持てない。以前に「良い習慣を維持する上で<完全主義>は『障害』である。『<完全主義>とは、<挫折>を合理化するための<一種の甘え>である』と考える。」を再度確認して、短い読み物を探したら、出てきたのがこのブックレットである。  

二人は、1945年1月に4日違いで生まれた同い年。二人の人生は、そのまま日本の戦後の歩みになる。(1867年生まれの漱石、子規、秋山真之の人生が明治日本の歩みと重なるのと同じである。)16年前、50歳同士で対談形式で語り合った内容は、二人の考え方・生き方を自然に表わし、二人が生きた世相も語られている。     

この本を当時買った時は、はるか年上のリベラル・アカデミズムの先輩方の遠い昔話と思っていたはずなのだが、17年ぶりに改めて読むと、二人の生きた時代に、俺の人生と時代の記憶が、ほとんど重なっていて、十分すぎるほど想像(イメージ)と共感が湧くのが意外な驚きだった。     
年齢を重ねるほど、若い時の年の差の実感が減殺されて無くなっていくというのは、本当だ。断わっておくが、俺は二人よりも随分年下だ!。60年安保の時には、この世に影も形も存在していない!。けれども、安保闘争・衆院強行採決の話は、俺にとっては生々しい記憶だ。このブックレットの中の話は意識の上では,俺にとって、同時代史なのだ。    

それにしても、50歳というのは意外と元気で若々しい。二人の対話では、落合恵子さんの方が、言葉の切れ味が優れていた。評論家と、実践家の違いだろう。佐高さんは、厳しい言葉を吐くが、言葉の切れ味では及ばない。 二人ともよい言葉を発しているのだが、ちょっと眠気に抵抗できない。  

後日、良い機会があれば、内容から抽出掲載したいと思います。それでは、皆様ー、オサラバエー。


※内容の抜粋を作ってみました。


◎佐高:戦争体験より戦争にいたる過程、つまり戦争になだれ込んでいく過程の戦前体験を語ってほしい。略。戦争中の体験は書かれたり語られているけれど、なぜ、そこまでいってしまったのかというところがない。
 落合:ありのままの素材でいい。略。若い人はいつ、どのようにして、軍国主義・軍国少女になっていったのか。そのとき、自分たちはいかなる教育を受けたのか、情報はどういうふうなかたちでみんなに届いていたのか、毎朝開く新聞にはなにが書いてあったのか。

◎佐高:今の日本の、とくに企業社会において憲法というのは守られていない。略。憲法番外地の状況を教えないで憲法だけを教えると、あたかも、いまの社会で憲法がすべて守られているみたいな錯覚を与える、それで生徒のなかで憲法が空転していく。

◎落合:つらさのなかで、より自分よりも下のものを想定していってしまう人たちだったんだなあ。略。屈折した差別があるのですね。少数派の側に身を置いてもさらに少数派に対するもうひとつの差別意識がある。

◎落合:「平等」という言葉は、口当たりがよいけど、ときにとっても怖い言葉で、人をフラットにしちゃう、人間のちがいを認めないような響きがないとは言えない。むしろ「対等」のほうがいいんじゃないかと書いた記憶がある。略。ちがいを尊重し合ったうえで対等である。権利においては平等という基本のうえに、ちがいを認め合う対等観は成立する。ちがいを認めない社会がどれほど人間を息詰まらせているか。

◎佐高:急流があって、それをまっすぐ渡ろうと思っても流される。でも、まっすぐ渡ろうと思わなければもっと流される。略。弱者への痛みとかいうのはもち続けなければもっとおかしくなる。略。全共闘の人たちってのはなんか非常に割り切れてて違和感をもつ。
 落合:それは全共闘だけではなくて、あらゆる運動体がイズムを実現しようとするとき陥りやすい罠じゃないかな。割り切れたつもりにならなかったら、どうにも運動が進まない。でもそうしてしまうことによって、運動が本来いちばんだいじにしているはずだった個であるとか、個の尊厳をどっかで切っていってしまう。運動のための個になって、個が見えなくなってしまう。
 佐高:対等と平等のちがい、対等をふまえない平等に流されていってしまったていう戦後民主主義の弱さ、民主主義教育の弱さみたいなのがあったんでしょうね。

◎落合:(31歳で<クレヨンハウス>をつくったことについて) 理念を語ることも大事だけど、具体的なスペースを作ることも同時にやらないと、文化的なムーブメントは弱い、という実感があったから。略。欲しいものがないのなら、自分がつくるしかないと。

◎佐高:ウソをつくことと、疑うことと、逃げること、これが庶民の抵抗の三つの武器だといった人がいるんだよね。だから逃げるっていうのはけっこうひとつの手段でありうる。一揆のとき逃散ってあったでしょう。
 落合:私も、どちらかというと、「逃げること」ができない性格だけど、とどまることによってキバを抜かれ闘えなくなってしまうこともたくさんあるのよね。略。英語圏で、例えば、子どもたちに虐待されそうになったりしたとき、こういうふうに考えて、自分を守ろうというのがある。「NO GO TELL」。イヤ、って言いなさい、逃げなさい、信頼しているところへいって全部打ち明けなさいって。略。耐えているあいだに人間の可能性が枯れていってしまう

◎落合:(昭和が終わった日について) 日本中がなんかふしぎなエアポケットに入ったあの時期ね。
 佐高:去年(94年)、北朝鮮の金日成が亡くなったときにあらためて思ったんですが、スゴイ号泣したりして非常にわかりやすかったけど、あれと同じことを日本はやっているんだよね
 落合:同じですよ。金日成葬儀の中継等を見て、「気持ち悪いですね」とか「だから北朝鮮は……」とか、核疑惑とくっつけて、批判していた人もいたけれど、日本のメディアも、同じことをやってたんですよね
 佐高:陰と陽の違いだけでね。


※もみ:橋本大阪市長を支持している人たちは、彼の安直な大衆操作の手法にただ簡単に乗せられているのか、乗せられている振りをして世の中を少しでも揺さぶろうとする知恵の発露なのか。いずれにせよ、民主主義社会の重要なコアの部分に取り返しのつかないキズが付けられないで欲しい、と思う日々です。





    

126冊 後藤昭「新版 わたしたちと裁判」(岩波ジュニア新書;2006) 評価4

2012年01月18日 05時53分48秒 | 一日一冊読書開始
1月17日(火):

214ページ  所要時間6;30

著者56歳、一橋大法学部教授。2度目。4年前の2007年11月15日に読んだ(所要時間3:00)時は、「テキスト。面白かった。裁判自体が法を創造していく行為である。司法に対する考え方や接し方が親切に述べられている。」と評価5だった。しかし、今回は、途中まで評価3にするつもりだった。第5章「裁判と法」は面白かったが、評価5は付けられなかった。

4年前と俺の何が変わったのか?: まず読むのがしんどかった。民事訴訟、刑事訴訟、訴訟でない裁判他、裁判・訴訟等の手順・手続きについて、詳細・丁寧に説明されているのだが、体調によるのか、詳細な記述によるのか?リズムに乗れず、流し読みができなかった。しかし、本質的な理由は別に有る。結論から言えば、「体制側の<雲上人>が書いた、批判精神に乏しい本だ!」と感じてしまったのだ。例えば、「被告人が犯人であることがはっきりと証明されない限りは、無罪の判決をしなければなりません」と言って「疑わしきは被告人の利益に」と臆面もなく簡単に述べているのをみて、「裁判官にも当りハズレがあるという事実や、痴漢冤罪をはじめ日本の刑事訴訟の有罪率99.9%の現実を全く問題視する様子がない」「代用監獄という現実は、当分変わる見込みはありません」と平気で言い放っているのにも驚いてしまったのだ。

裁判員制度についても、準備・推進する側の中心メンバーの著者には、映画監督の森達也さんが言った「裁判員制度が、非常に大きな問題をはらむ<死刑制度>と深く関与するのは、未整備カーで高速を走るようなもので、あまりにも危険な問題をはらむ!。」という根本的矛盾を伝えようという姿勢が全く見えない。

高校生向けの本だとは言え、司法が抱える本質的な矛盾に目をつむり、裁判の性善説的効用を力説するが、現実の不条理に目を向けさせない姿勢に強い不満を感じた。そうして観れば、著者の文章は、一事が万事、高校生たちに、遠い先の現実感のない良いことばかりを描いて見せて、その影に黒々と広がる矛盾や不条理をあまり語らない、批判的精神の乏しさばかりが目について白けてしまったのだ。そのため、「詳しく・丁寧だけど、上っすべりな内容」に思えて、何か強く白けてしまったのだ。

決して、著者を否定する気はない。非常にバランス感覚に富んだ、教科書などを執筆する学者だとは思う。ただ、庶民の、現場の、視点が足りない気がするのだ。著者に対してどうしても机上のお上品な虚妄を感じてしまうのだ。 

特に、第5章の「裁判が法律を基準に行われるだけでなく、裁判が法を作る働きもあること」も紹介したのには、大いにうなづいた

150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)