もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

190322 大阪ダブル選の本質:「法の穴つく政治家の暴走 中島岳志さん(政治学者・東京工業大学教授)感想5

2019年03月23日 01時23分42秒 | 時々刻々 考える資料
3月22日(金):  

真の<保守>とは何か。100分で名著オルテガ「大衆の反逆」に通底する内容が書かれている。

朝日デジタル <耕論>:法の穴つく政治家の暴走 中島岳志さん(政治学者・東京工業大学教授)
2019年3月21日05時00分

 「大阪維新の会」の大阪市長と大阪府知事が任期途中で辞め、それぞれが違う立場で選挙に立ち、事実上任期を延長する――。市長と知事がそのまま出直し選挙に出馬し、当選すれば任期は残り任期と同じです。この公職選挙法の規定は、首長側の恣意(しい)的な選挙を避けるためのものですが、今回の大阪の選挙は法の穴を狙った、いわば脱法的行為です。同時期の府議選や市議選も有利に運びたいというもくろみもあるでしょう。
 憲法や法律といった明文の規定で禁止されていないから、「民意を得れば良い」ということかもしれません。しかし、権力を持つ人の多くは保守派を自任しています。現行のルールの穴を見つけて、先祖たちが失敗を重ねながら築き上げてきた慣習や知恵を無視するのは、私に言わせれば保守ではありません。これは大阪だけの問題に限りません。現代政治の問題点が表れているように感じます。
 例えば安倍内閣が臨時国会を開かなかったことが典型でしょう。憲法53条で衆参どちらかの総議員の4分の1以上の要求があれば、嫌でも臨時国会は召集されなければなりません。ところが「何日以内に」というルールがないことを根拠に開きませんでした。
 異なる意見に耳を傾ける寛容な保守政治家が、してこなかったことです。最近の政治家は、「そんなこと法律に書いてないじゃないか」の一言で押し通す。慣習や暗黙知を平気で破っているのです。
 民主主義と立憲主義の対立という、現代日本にとって切実な問題もあります。民主主義は、今を生きる人間の多数が支持していることは正しいという考えに傾きがちです。それに対し、いくら今生きている多数が良いと言っても、憲法が権力を縛る、ダメなことがあるというのが立憲主義です。
 両者は簡単には合致しないのですが、「今生きている人」だけでなく、過去の人たちの英知と折り合いをつけるのが民主主義の知恵でした。保守と呼ばれる人たちには、「今」だけを特権化してしまうことは、おこがましいという謙虚さがあるはずです。
 保守思想家たちは「庶民」と「大衆」を区別してきました。庶民は、それぞれの居場所を持ち、異なる意見を持つ他者とも合意形成し、社会の秩序を保つ知恵を歴史的、集合的経験から得ている人々のことです。一方、瞬間的な熱狂、「炎上」などでうわーっと瞬間的に盛り上がり、また忘れていく根っこのない人々を大衆と呼んでいました。
 民主主義が大衆によって乗っ取られ、暴走することを心配していました。「違う意見の持ち主は壊滅させてしまえ」と言わんばかりの主張が保守と呼ばれる。そんな最近の風潮に憤りを感じています。(聞き手・池田伸壹)
    *
 なかじまたけし 1975年大阪生まれ。北海道大学准教授などをへて現職。著書に「中村屋のボース」「保守と立憲」など。


凡庸な悪について(ウィキペディアより)
中島はハンナ・アーレントの「凡庸な悪」が日本に蔓延していると主張している。その根拠は従軍慰安婦問題に対して疑念を持つことや植村隆による従軍慰安婦問題の誤報に対する不寛容さを示すことであり、日本人は正義と良心によって自己を問い直すべきであると主張している。

190224 ドナルド・キーン「戦後70年 今も続いている国民への忍耐押しつけ」(2015年)

2019年02月24日 11時53分34秒 | 時々刻々 考える資料
2月24日(日): 
毎日新聞戦後70年 今も続いている国民への忍耐押しつけ  2015年2月26日
鬼・怒鳴門(きーん・どなるど) ニューヨーク市ブルックリン生まれ。92歳。東日本大震災後の2012年に日本国籍を取得した。菊池寛賞、毎日出版文化賞など受賞。02年に文化功労者、08年に文化勲章を受けた。米コロンビア大名誉教授

ドナルド・キーンさんインタビュー
 お国のために我慢すること、お国のために死ぬことが、日本の伝統なのだろうか。若き日に「源氏物語」と出合った感動を抱き続け、日本国籍を取得した日本文学研究者のドナルド・キーンさんに聞いた。【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】

 米国海軍の日本語将校として、太平洋戦争に従軍しました。武器は取りたくなかった。だから、語学の能力を生かそうと思ったのです。1943年2月に海軍日本語学校を卒業し、日本軍から押収した文書の翻訳任務に就きます。ある日、小さな黒い手帳の山に行き当たりました。同僚たちは避けていた。なぜか。悪臭が立ちこめていたからです。それは死んだ日本兵たちが所持していた日記でした。血痕がついていたんです。軍事機密が漏えいする恐れがあることから、米軍は兵士が日記をつけることを禁止していました。日本軍は違いました。部下が愛国的かどうか、上官が検閲する目的があったのでしょう。
 「軍紀旺盛なり」。部隊が内地にいるころはまだ、勇ましい言葉で埋まっています。ただし、やがては南洋の最前線に送られる。輸送船団の隣の船が突然、雷撃を受ける。乗船していた部隊もろとも、海の藻くずとなる。戦争の現実に日記の調子が変わってきます。上陸したガダルカナル島(1942年8月〜43年2月の戦いで日本兵約2万800人が戦病死)はもちろん、南の楽園ではなかった。食糧はない、水はない。マラリアは流行する。米軍の爆撃は激しい。覚悟したのでしょう。最後のページに英語でつづっているものもありました。「戦争が終わったら、これを家族に届けてほしい」
 我々と同じ人間なんだ。戦時プロパガンダが伝えるような「狂信的な野蛮人」などではないのだ。胸を打たれました。従軍前はコロンビア大学で日本人教授(故・角田柳作氏)に師事し、日本の文化を学んでいました。それでも、中国大陸における日本軍の蛮行を聞くにつれ、日本は怖い国だと思うようになっていました。それが皮肉にも、自分が戦争に参加することによって、一般の日本人を知った。心から、彼らに同情しました。日本文学において、日記は一つの伝統的なジャンルを形作っています。平安朝の昔から、優れた日記文学が残されています。しかし、無名の日本兵たちが残した日記ほど、感動的なものはめったにありません。
 最初の玉砕となったアッツ島の戦い(1943年5月)に参加し、手りゅう弾を胸で破裂させて自決した日本兵の遺体を目にしました。沖縄戦(1945年3〜6月)では乗船した輸送船をめがけ、特攻機が突入してきました。なぜ、日本人は死を選ぶのか。ハワイ・真珠湾に設けられた捕虜収容所で出会ったのは、文学、映画、音楽を愛する日本人たちでした。彼らのためにレコード鑑賞会を開いたとき、敵も味方もなかった。ところが、そんな彼らは「日本には帰れない」という。ホノルルのハワイ大学の図書館で、日露戦争の資料を探し回りました。実はロシア軍の捕虜になった日本軍将兵は数多かった。それを教えたかった。「俺は将校だから、ロシア軍将校と同じようにウオッカを飲ませろ」などと要求したケースもあったそうです。
 捕虜になることは恥−−などということは軍部が強要した大うそです。戦争なのだから、命のやり取りは仕方がありません。しかし、相手に敬意を払うことはできる。能「敦盛」で源氏方の武将、熊谷直実は平氏の武将を一騎打ちで組み伏せるが、元服間もない自分の息子と変わらぬ若さと知り、見逃そうとしました。なんと、人間的でしょうか。味方が押し寄せてきたために熊谷は仕方がなく、敦盛を討ち取ります。その後に出家し、菩提(ぼだい)を弔うことを選ぶことになります。
 熊谷のような心を持たず、ひたすらに敵を殺すことを誇ることは、本当に恐ろしいことです。京都には(豊臣秀吉の朝鮮出兵で)切り落とした敵の耳を埋めた「耳塚」が残っています。これが武士ですか。「源氏物語」に魅了されたのは、そこに日本の美しさがあふれていたからです。西洋の英雄物語の主人公たちと違い、光源氏は武勇をもって、女性たちに愛されたわけではありません。彼が活躍した平安朝期にはたったの一人も、死刑になっていません。憲法9条を改正すべきだとの主張があります。現行憲法は米国の押しつけであると。しかし、忘れてはいませんか。この戦後70年間、日本は一人の戦死者も出さなかったではないですか。それならば男女平等だって、土地改革だって、押しつけではないですか。改めるべきなのですか。
 政府と軍部は都合良く、日本人の美徳である我慢強さを利用しました。作家の高見順(1907〜65年)は昭和20(1945)年の日記で「焼跡で涙ひとつ見せず、雄々しくけなげに立ち働いている」国民の姿を記しました。彼は敗北であっても、戦争の終結を望んでいました。戦争指導者は国民に愛情を持っているのだろうかと疑っていました。何やら、東日本大震災(2011年3月11日)に重なるものがあるように思えてなりません。あれほどの地震と津波に見舞われながら、互いに助け合う日本人の姿に世界が感動しました。けれども、国民は理不尽に忍耐を押し付けられてはいないでしょうか。
 杜甫(712〜770年)の有名な詩「国破れて山河あり」について、松尾芭蕉(1644〜1694年)は反論しています。山も河も崩れ、埋まることもあるではないか。それでも残るのは人間の言葉である、と。終戦直後の日本文学も言論統制が解かれ、一つの黄金期を迎えました。谷崎潤一郎、川端康成らに加え、三島由紀夫、安部公房などの新しい才能が咲き誇ります。
 東日本大震災の福島原発事故では放射能によって、国土の一部が汚染されてしまいました。しかし、国民の半数が反対しているにもかかわらず、世界中を震撼(しんかん)させた事故がまるでなかったかのように、原発再稼働の動きは進んでいます。戦後70年を迎え、言葉の力が再び試されています。

190110 池澤夏樹(終わりと始まり)三つの統計から見える日本 国の未来を食い物に 

2019年01月10日 22時39分35秒 | 時々刻々 考える資料
1月10日(木):  
朝日デジタル(終わりと始まり)三つの統計から見える日本 国の未来を食い物に 池澤夏樹
2019年1月9日16時30分

 日本が少しずつ衰退してゆくという印象はどこから来るのか。
 平成が終わると聞いて振り返れば、この三十年はずっと微量の出血が続いてきたような気がする。フクシマの汚染水に似ている。
 経済について言えば、最初にあぶく景気があったがそれはすぐにはじけた。余禄に与(あずか)ってはしゃいだ人は国民の何割くらいいたのだろう。
 それ以来、政治は明らかに劣化、格差の拡大を止められなかった。倫理の面でも、現政権ほど虚言と暴言を放出する閣僚たちは記憶にない。これが今も一定の支持を得ているところがすなわち劣化である。
 災害が多かった一方、表立った戦争がなかったことは評価しよう。自衛隊はあちこちで戦場に近づいたけれど、まあそこまで。国内ではオウム真理教がショックだった。
 人々はSNSなどを通じて思いを述べるようになったが、それは思いであって考えではない。その結果、反知性主義が世を席巻し、世論はネトウヨとブサヨの二極に分かれた。
     *
 衰退という印象の理由の一つは高齢化である。出生率が下がれば国民の平均年齢が年ごとに上がってゆくのは小学生の算数でもわかる。しかし日本の政治はそれに対して何の対策も立ててこなかった。
 先進国はどこも似たような状況かもしれないが、出生率を保っているフランスのような国もある。ぼくはあの国に五年住んで、子供二人を学校に通わせ、育児支援の手厚さを実感した。あそこでは子を産んだからといって女性は職場を離れない。社会は女性に育児を押しつけて彼女たちの仕事力を手放す愚を犯さない。
 「公的教育費の対GDP比率」という統計がある。これによると日本は三・四七%で、百五十四カ国・地域中の百十四位!
 はじめ嘘(うそ)かと思った。
 最上位の北欧諸国は軒並み七%台。
 三十七位のフランスが五・四六%。
 五十九位のアメリカが四・九九%。
 いつから、どうして、日本はこれほど子供たちへの出費をけちるようになったのだろう?
 教育費は未来への投資である。江戸時代から日本人は教育に熱心で、それが高い識字率を生んだ。来日した外国人が、こんなに庶民が本を読んでいる国は他にないと驚嘆した。この知力が明治維新以降の文明開化の支えとなり、列強による植民地化を防いだ。教育は長期的な国力を養う。
 今、日本の教師たちは雑務に追われ、残業を強いられ、肝心の子供たちと過ごす時間を削られている。本来は最も創造的であるはずの仕事なのにその余裕がない。
 政府は大学を改革するとて「論文生産性」などとおよそ学問の本質と無縁なことを言う一方で、国立大学への補助金を毎年一%ずつ機械的に減らしている。百年後にはゼロになる。大企業があれば大学など要らないと言わんばかり。
 この教育費と似たような順位表を見た覚えがある。
 女性の社会進出を測る「ジェンダーギャップ指数」で日本は百四十九カ国の中の百十位。
(どなたか、この二つの統計の間の相関係数を算出していただけないか。)
 更に、「債務残高の対GDP比」という統計を見ると、先進国中で日本は二三六%と断トツの一位。アメリカの一〇八%の倍を超える。
 国債というのはつまり次世代からの借金である。一九五〇年代に月賦という販売法が登場した時、ぼくは不思議に思った。お金がないのにどうしてものが手に入るのか。金本位制がなくなったのと同じ原理で貯金箱がなくなった。信用という概念はわかるが、それが破綻(はたん)する実例も何度となく知ってしまった。
 『コーラン』は「孤児(みなしご)にはその財産を渡してやれよ」と言う。自分の子供を大事にするのは当然として孤児にも気を配る。
 今の日本のように怪しげな信用の上に立って借金を増やすのは、子供の資産の強奪ではないか。いずれ必ず到来する彼らの困窮を前提にして現世代が浪費を重ねているのではないか。
     *
 以上三つの統計から見えるこの国のかたち――
 出産や育児、教育の現場から遠いところに地歩を占めた男どもが既得権益にしがみついて未来を食い物にしている。彼らは日銀短観四半期より先は見ないようにしている。原発のような重厚長大産業に未来がないことを敢(あ)えて無視し、女性を押さえつけ、子供の資産を奪い、貧民層を増やしている。
 二〇一六年の「保育園落ちた日本死ね」というブログの言葉はこの異常な国家の姿への呪詛(じゅそ)だった。
 事態は変わっていない。

190102 リテラ:古市憲寿と落合陽一「高齢者の終末医療をうち切れ」論で曝け出した差別性と無知!

2019年01月03日 03時33分28秒 | 時々刻々 考える資料
1月2日(水):       二人の対談が掲載された『文學界 』2019年1月号(文藝春秋)  

昨年12月26日(水)の朝日新聞朝刊30ページ「文芸時評」(磯崎憲一郎)に指摘があり、付箋をして、この二人の主張に「お前ら舐めてんのか!」と強い違和感と怒りを持ち続けていた。以下の記事をサイトで発見して軽薄さと強い差別性を再認識したので掲載する。

古市には、若いのにもう権力にすり寄る百田某と同じ卑しさを覚えるし、落合は目がすでに逝ってしまっていて、人間らしい思考のできないサイコパスにしか見えない。この二人の意見は、今後見る価値はない、「こいつら、もう終わっている」と俺(もみ)は考えている。

古市は、アベ自民に阿諛追従することで、NHKなどに出してもらう便宜を得ているが、政権の犬として電波芸人に成り下がって、本来のアカデミズムの世界からどんどん外れていく。まともな大人の教養人からは相手にされない。焦って、その若さで一体どんなインチキな地位・虚名を得たいのか。本道を外れた外道が増えていく。

リテラ古市憲寿と落合陽一「高齢者の終末医療をうち切れ」論で曝け出した差別性と無知! 背後に財務省の入れ知恵が
              2019.01.01 古市憲寿と落合陽一「終末医療やめろ」論の酷さ リテラ
  2018年、注目を集めた男性若手論客といえば、やはり古市憲寿と落合陽一の二人だろう。古市は、テレビのコメンテーターとして発言が注目され続けたことにくわえ、小説も執筆。先日、芥川賞にノミネートされた。一方の落合も1月に出した『日本再興戦略』(幻冬舎)が10万部を超え、10月にリニューアルした『news zero』のコメンテーターを務めるなど、すっかり売れっ子にいなっている。1月1日未明の『朝まで生テレビ』にも揃って出演し、いつもの“上から目線”トークを繰り広げた。
  ところが、その二人がとんでもない発言をして、批判を浴びているのをご存知だろうか。古市と落合は、「文學界」(文藝春秋)2019年1月号で「『平成』が終わり、『魔法元年』が始まる」と題する対談を行ったのだが、このなかで、終末期医療、特に最後の1カ月の医療は金の無駄だ、社会保障費削減のためにやめたほうがいい、と主張したのだ。
  その酷さを知ってもらうために、まずは二人の発言を以下に詳しく紹介しよう。

古市 〈日本が民主主義国家である以上、社会保障費を大幅にカットできるかな。個人的にはかなり悲観的なんだけど〉
落合 〈背に腹はかえられないから削ろうという動きは出てますよね。実際に、このままだと社会的保障制度が崩壊しかねないから、後期高齢者の医療費を二割負担にしようという政策もある。議員さんや官僚の方々とよく話しているのは、今の後期高齢者にそれを納得させるのは難しくても、これから後期高齢者になる層――今の六十五歳から七十四歳の層――にどれだけ納得していただけるかが一つのキーになるんじゃないか、と。今の長期政権であればそれが実現できるんじゃないかと思うんですよね。〉
古市 〈財務省の友だちと、社会保障費について細かく検討したことがあるんだけど、別に高齢者の医療費を全部削る必要はないらしい。お金がかかっているのは終末期医療、特に最後の一ヶ月。だから、高齢者に「十年早く死んでくれ」と言うわけじゃなくて、「最後の一ヶ月間の延命治療はやめませんか?」と提案すればいい。胃ろうを作ったり、ベットでただ眠ったり、その一ヶ月は必要ないんじゃないですか、と。順番を追って説明すれば大したことない話のはずなんだけど、なかなか話が前に進まない〉
落合 〈終末期医療の延命治療を保険適用外にするだけで話が終わるような気もするんですけどね。たとえば、災害時のトリアージで、黒いタグをつけられると治療してもらえないでしょう。それと同じようにあといくばくかで死んでしまうほど重度の段階になった人も同様に考える、治療をしてもらえない――というのはさすがに問題なので、保険の対象外にすれば解決するんじゃないか。延命治療をして欲しい人は自分でお金を払えばいいし、子供世代が延命を望むなら子供世代が払えばいい。こういう議論はされてきましたよね〉
古市 〈自費で払えない人は、もう治療してもらえないっていうことだ。それ、論理的にはわかるんだけど、この国で実現できると思う?〉
落合 〈災害時に関してはもうご納得いただいているわけだから、国がそう決めてしまえば実現できそうな気もするけれど。今の政権は強そうだし〉
古市 〈社会保障費を削れば国家の寿命は伸びる。若い世代にはいい話だけど、それでも一人あたりの利益はとても少ない。だから社会運動も起きにくい〉


■古市、落合の「最後の1カ月の医療不要」を芥川賞作家が批判
  唖然とするしかない内容だが、こうした発言の問題点を最初に指摘したのは、芥川賞作家の磯崎憲一郎だった。磯崎は朝日新聞(12月26日)の文芸時評で二人の発言を取り上げ、これをきっかけにネットでも批判の声が広がっていった。
  磯崎は、古市が「胃ろうを作ったり、ベットでただ眠ったり、その一ヶ月は必要ないんじゃないですか」「大したことない話のはず」などと切って捨てていることに対し〈余命一カ月と宣告された命を前にしたとき、更に生き延びてくれるかもしれない一%の可能性に賭けずにはいられないのが人間〉として、二人を〈想像力の欠如〉〈想像力と、加えて身体性の欠如に絶望する〉と、痛烈に批判していた。
  磯崎の指摘は正鵠を射たものだが、しかし、二人の発言のひどさは、「想像力や身体性の欠如」というレベルですむ話ではない。
  古市と落合は、この「終末期医療カット」論がまるで、客観的根拠に基づいた冷静でプラグマティックな提言であるかのように語っているが、実際は、国家の役に立つ見込みのない人間を1カ月生きながらえさせるのはコストが合わない、貧乏人は延命治療を受けずに早く死ね、と言っているにすぎない。
 〈高齢者に「十年早く死んでくれ」と言うわけじゃなくて、「最後の一ヶ月間の延命治療はやめませんか?」と提案すればいい〉(古市)
 〈災害時のトリアージで、黒いタグをつけられると治療してもらえないでしょう。それと同じようにあといくばくかで死んでしまうほど重度の段階になった人も同様に考える〉(落合)
 〈延命治療をして欲しい人は自分でお金を払えばいい〉(落合)
 〈社会保障費を削れば国家の寿命は伸びる〉(古市)

  これらは、長谷川豊が大炎上した「人工透析患者は殺せ」発言や、杉田水脈衆院議員の「生産性がない」発言、そして相模原障がい者殺傷事件の植松聖被告と、同根の発想ではないか。

■古市「お金がかかっているのは終末期医療」は本当か
  しかも、彼らが恐ろしいのは、こんな説を客観的な根拠も基礎的な知識も薄弱なまま、得意げに語っていることだ。
  そもそも、古市がもちだした「お金がかかっているのは終末期医療、特に最後の一ケ月」という説じたいがあやしい。
  たとえば、日本福祉大学の二木立・前学長が死亡前医療費についての検証をおこなっているのだが、様々な論拠を示しながら「とりたてて高額でも、医療費増加の要因でもない」としている。(「日本医事新報」2013年3月9日号「深層を読む・真相を解く(21)」)
  この論文によると、健康保険組合連合会「平成23年度 高額レセプト上位の概要」にある1000万円以上の月額医療費がかかった179件のうち、その月に死亡したケースはわずか15件(8.4%)。高額医療費の年齢分布も、もっとも多かったのは0~9歳の61件で、次は10~19歳の30件、未成年が全体の半数(50.8%)の91件を占め、60~74歳はわずか13件(7.3%)に過ぎなかったという。
  さらに、田近栄治・一橋大学名誉教授らによる「死亡前12か月の高齢者の医療と介護」(田近栄治、菊池潤「季刊社会保障研究」2011年12月刊行所収)という論文が、死亡当月まで連続して入院していた高齢者を対象として、入院開始月・診療月別の1日当たり入院医療費の実態を調査しているが、それによると、多くのケースで1日当たり医療費は入院開始月が最も高く、死亡当月にかけて1日当たり医療費が大きく上昇する傾向はほとんど見られないという。
  当然だろう。古市は死を目前にした高齢者が高額な抗がん剤か何かをバンバン使っているような妄想でもしているのかもしれないが、そもそも高齢で体力が落ちている状態では副作用のリスクがある高価な抗がん剤はほとんど使用できない。「治療」を目的とせず「緩和」「看護」が中心の終末期医療は治癒を目指す治療より金がからないというのは、素人でもわかる話だ。あるいは自己負担の高額なホスピスや民間医療とでも混同しているのだろうか。
  一方の落合もひどい。「災害時のトリアージの黒タグと同じ」「災害時に関してはみんな納得しているから終末期医療の早期打ち切りも実現できる」などと言っているが、大事故・災害など多数の患者がいる現場で治療の優先度を選別するトリアージの黒タグが示すのは「すでに死亡」「気道確保をしても呼吸がない」など明らかに救命や蘇生が不可能な状態だ。それと、終末期の患者とをいっしょにするなんていうのは、頭がどうかしているとしか思えない。
  いや、彼らの現実認識の欠如は、それ以前の問題だ。そもそも簡単に「最後の1カ月」になったら治療をやめるというが、「最後の1カ月」かどうかをどういう基準で客観的に判定するのか。
  最後の1カ月というのは、妊婦の臨月などとはちがい、事前に正確に計算・予測できるものではない。実際、余命1カ月といわれて、何カ月も、1年以上も生きたというケースもたくさんある。それを古市たちはあたかも「余命1カ月」と断定できるかのようなデタラメを前提に、自動的に医療を打ち切るシステムをつくれ、と言っているのだ。こんな恐ろしい話はないだろう。

■官僚や政治家に「高齢者医療カット」を吹き込まれた古市と落合
  ようするに、古市も落合も、えらそーなのは態度と口調だけで、語っている中身はペラッペラなのである。磯崎の言うように、社会制度が国民ひとりひとりの生命を左右するという視点がないのはもちろん、政治や社会の現状に対する分析も、さらには医療や経済の基礎知識すらない。そのうえで、ゲームの「シムシティ」でもやるように、机上の計算(しかも社会保障カットが景気に与える影響などを全く考慮しないずさんな計算)による効率だけを唯一の価値として社会制度を論じているのだ。
  そのレベルは、そこらへんのおっさんが居酒屋で語っている政治談義以下と言っていいだろう。
  しかも、最悪なのは、そのドシロウトの“勘違い上から目線”が政治家や官僚のプロパガンダにまんまと利用されていることだ。
  前述したように、古市は得意げに「財務省の友だちと検討した」として、「お金がかかっているのは終末期医療、特に最後の一ケ月」という説を開陳していた。だが、財務省が年金や医療費、生活保護費をカットする世論をつくりあげるために、日々、マスコミやジャーナリスト、学者に「ご説明を」とブリーフィングを行っているのは有名な話だ。しかも、財務省は2007年、実際に古市説のもとになるような「一年間にかかる終末期医療費=約9000億円」なる資料を公表。調査実態が不詳で金額だけを出したことから、高齢者医療費カットのためのミスリードだと批判を浴びている。
  にもかかわらず「財務省の友だちと検討」って、古市は自分がまんまと財務省に乗せられたことを告白しているようなものではないか。
  落合も同様だ。落合は後期高齢者の医療費を2割負担にアップする政策について「議員さんや官僚の方々とよく話している」と自慢げに語り、「今の長期政権であればそれが実現できるんじゃないかと思うんですよね」と、完全に高齢者の負担増を後押しする姿勢を示していた。
  実は、今回の古市や落合と同じような暴言をはいていた人物が過去にもいる。麻生太郎財務相だ。麻生は2013年、政府の社会保障制度改革国民会議で、余命わずかな高齢者の終末期の医療費について「死にたいと思っても生きられる。政府の金で(高額医療を)やっていると思うと寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらうなど、いろいろと考えないと解決しない」「月に一千数百万円かかるという現実を厚生労働省は一番よく知っている」などと発言、批判を浴びて撤回した。
  この麻生発言も財務省の入れ知恵という見方が有力だったが、今回、財務省は、麻生の代わりに古市と落合に、同じロジックを吹き込んだということだろう。政治家ではなく、人気の若手学者が“若い世代の代弁者”として高齢者切り捨てをあちこちで語ってくれれば、世論を誘導できる、そう考えたのではないか。
  そして、二人はまんまとそれに乗せられて、コストや経済効率を優先し、国家のために国民を切り捨てるグロテスクな政策を喧伝した。

  前述の二木氏の論文は麻生発言の際に書かれたもので、二木氏は研究上は「終末期医療費をめぐる論争には決着がついた」と判断しているとし、にもかかわらず一方で〈政治的には同じ誤りが何度も蒸し返されると、麻生発言を通じて、改めて感じました〉と締めているが、今回は古市と落合がまさに政治的な「蒸し返し」役を演じたというわけだ。
  もっとも、当の古市や落合は財務省や政権に踊らされていることになんの後ろめたさも、恥ずかしさも感じていないらしい。それどころか、自分が日本の政策に大きな影響を与えているかのように、政治家や官僚との交友を自慢げに語っている。

■古市憲寿と落合陽一はこれまでも差別的発言を連発!
  しかし、それも当然だろう。国家のコストのために国民を切り捨てるという思想は、古市と落合のなかにもともとあるものだからだ。
  二人はただの新自由主義者ではない。根っこにあるのはエリート主義と差別主義。平等や民主主義を邪魔なものと考え、前近代的な差別を肯定しつつ、弱肉強食の競争社会を志向する--。安倍首相や長谷川豊と同タイプの、もっともグロテスクなリバタリアンだ。
  実際、古市の過去のブス差別発言やハーフ差別発言、発表された2編の小説でも、その選民思想はかいまみえる。
  また、落合も『日本再興戦略』をはじめとする啓発本で、アカデミックなブランディングからは想像もつかないような、びっくりするほど頭の悪い差別的な日本社会論を連発している
 〈平等という点で、日本人に合わないのは「男女平等」です。日本ほど男女差別がある国は珍しいと思います。男女が合コンに行ったり、飲み会に行ったりすると、当たり前のように男性のほうが女性より多く払いますが、あれは性意識の平等感に反します。〉
 〈日本人は、同じ仕事をしたら、公平にお金を払うということには敏感です。しかし、飲み会では男性が女性より多く払う。これは平等意識が低いからです〉
 〈もうひとつ欧州発で日本には向いていないものがあります。それは「近代的個人」です〉
 〈個人に平等に権利を与えて、全員が良識ある判断をすると仮定して、一人一票を与えたものの、選挙をしてみたら、全員にとって価値のある判断にはなりませんでした〉
〈インドのカーストに当たるのは日本の士農工商ですが、日本は本質的にカーストが向いている国だと思っています。そもそも、士農工商という序列はよくできています〉
(すべて『日本再興戦略』より)
  賃金より飲み会の会計を重視し、合コンの支払いを根拠に男女平等は日本に合わないと主張。「個人」を否定し、カーストや士農工商こそが日本に向いていると差別制度を肯定する。その差別思想はネトウヨ並みと言っていい。
  古市憲寿落合陽一。おそらく二人はこれから、調子に乗って、さらに差別的な効率至上主義を全開にしていくだろう。
警鐘を鳴らす意味でも、本サイトでは、その思想の危険性について稿を改めて詳しく検証したいと考えている。(編集部)

180831 「ここにいる」私たち 国文学研究資料館長、ロバート・キャンベルさん【インタビュー】 ※LGBT差別問題

2018年08月31日 21時42分15秒 | 時々刻々 考える資料
8月31日(金):   「日本で普通に暮らす多くの人たちがセクシュアリティーについて議論を深めてほしい。丁寧に、しかしスピード感をもって」 

朝日デジタル【インタビュー】「ここにいる」私たち 国文学研究資料館長、ロバート・キャンベルさん
                                  2018年8月31日05時00分

  テレビでもおなじみの日本文学研究者、ロバート・キャンベルさんが今月12日、自身が同性愛者であることをブログに綴(つづ)った。誰もが「ここにいるよ」と言える社会に――。ネット上には今、共感の声が響き合う。キャンベルさんが疑問を投げかけずにいられなかった日本社会の「空気」とは。

  ――ブログの文章は、性的少数者であるLGBTを念頭に「生産性」がない、とした杉田水脈(みお)衆院議員の雑誌寄稿への反論でした。
  「僕自身は、自分のセクシュアリティーのために日本で不利益を受けた自覚はありません。ただそれは、僕が早くからすべての人に公言したわけではなく、周囲に伝えた時点ではすでに安定した社会的な立場にあって、失うものは多くなかったという現実があります。僕よりはるかに若い人たちはどうだろう。杉田氏のような思考は、性的指向を伝えられずにいる日本の若者たちを苦しめてきました。反論するには僕自身の立場や属性を伝えなければならないと思ったのです」
  ――大きな反響を呼びました。
  「ブログの掲載直後は、主眼ではない『ゲイ公表』の方がメディアで強調され、嫌だなと感じました。でも僕のホームページやSNSを通して、性的少数者の人たちから、『勇気をもらった』『カミングアウトをやめようと思っていたけど考え直してみたい』という言葉が届いて、さらに障害者や女性であるがゆえに前に進まない状況にいる方々からも、たくさんのメッセージをもらった」
  ――予想外の反応でしたか。
  「僕はカミングアウトについて斜に構えていたのかもしれません。今の日本で、僕の性的指向というリアリティーを伝えること自体に力があることを知りました。公表することで、自分に対するまなざしが変化し、細胞がシャッフルされるようなことが起きると想像する人もいるかもしれない。でもその後で、僕は少しも変わったようには見えないでしょう? 当事者もそうでない人もこのことを実感することが、社会を変える力になると思います」
  「一方で、僕自身は関わりを持てる範囲が広がるんじゃないかなという予感はあるんです。以前は無意識に自分の中に、外からの衝撃を和らげる『生け垣』のようなものを作っていたかもしれない。その心の中の膜が1枚とれたような感じで、今後の出会いでは、色んな話をもう少し深くできそうだと感じます」
    ■     ■
  ――そもそも、自身の性的指向への気づきはどう訪れましたか。
  「たぶん異性愛者と変わらなくて、12歳から15歳ぐらいの間に深まっていったような記憶はあります。母には面と向かって話してはいませんが、知っていました。僕の性的指向について一度もネガティブな顔をしたことはなく、見守ってくれました。家族の話を聞くと、母は僕の子どもを見たいという気持ちはあったようです。でも僕にはそれを言わなかった」
  ――1985年に来日して30年以上になりますが、特に周囲には言わなかったのですか。
  「うそはつかないけれど言って回ることもしませんでした。当時は、先生や先輩たちに正面から言うことはやっぱりできなかった。偏見や押さえつけられたためというよりは、怜悧(れいり)な計算です。プラスとマイナスを考えていた気がします。このまま進めば想像もしなかった扉の向こうへ行けるかもしれない、でも言えば閉じてしまうかも。少しずつ伝えられるようになったのは30代半ば、なんとか研究者として歩めると思ってからです」
  ――ブログでは性的指向について、「生を貫く芯みたいなもの」と書きましたね。
  「杉田氏の『嗜好(しこう)』、衆院議員の谷川とむ氏の『趣味みたいなもの』という言葉。いずれも脱着可能なアクセサリーのように表現するのを聞いて、じゃあ反論するならばどう言おうと考え、浮かんだ言葉です」
  「性的指向は、感性や共感の仕方といった『資質』に関わるようなものだと思います。その人が他者とどのような交流をして、恵みや痛みを受け、思いやりを持ってきたかという堆積(たいせき)が資質となり、人格に行き渡るようなイメージを持っています。なので外形もそうであるように、この指向だからこういう人だ、と即断ができないわけです」
    ■     ■
  ――日本社会は、性的少数者に対して排除的でしょうか。
  「いいえ、必ずしもそうではない。日本ではLGBTの人たちを積極的に排除はしない。ただその代わりに言挙げさせず、触れることもしない、目の前に現れないでほしいという空気があると思います。今までうまくやってきたので現状維持でいいじゃないかという人もいますが、僕は違います。様々な情報や知識が常に流れる時代なのに、日本では性的指向や性自認については『泥(なず)んでいる』、つまりそこだけ池の水が流れていないようです」
  「自分がたどっているのと異なる轍(わだち)を見ようともしない人たちが多い。社会的なことに『自分事』として関心も持たない。そういう空気がいっそう日本で広がるのを僕はとても危惧しています」
  ――そうした危惧も、カミングアウトのきっかけですか。
  「一つは米国の状況がありました。トランプ政権の誕生以降、政治的な支持を集めるために事実に背を向け、仮想敵を作って対立をあおることが行われている。そして、日本でも、国会議員が自身の経験をもとにLGBTについて根拠のないことを発信し、ネット空間に一部の人たちの『特権を認めるな』といった言葉が乱反射した。誤った情報でたきつけ、苦労を強いられている人たちが傷つく。そんな構図は米国と重なります」
  「今回は特定の党の国会議員からの発信でしたが、LGBTの課題を保守か革新かという不毛な二項対立に吸収させるべきでないと僕は思います。東日本大震災の後、日本では原発や代替エネルギーの課題が党利党略に利用され、右か左かの非常に狭い議論に閉ざされた。日本はエネルギー政策で新しい技術や国際競争力にもっとつなげられたはずなのに、とても大事な機会を逸してしまいましただからセクシュアリティーの問題は、超党派で議論してほしいのです」
    ■     ■
  ――そうした議論で分断状況をほぐすことは、口で言うほど簡単ではない気がします。
  「僕はその点では少し楽観的です。日本は、米国のように宗教や政党によって分断が固まった現状とは違うと思うのです。僕が物心ついた1960年代は、米国では黒人差別解消を求める公民権運動がさかんな時代でした。国の成立の下に重い過ちがあった。その国で育った者として、解消できることは、社会が気づいた時に早く解消した方がいいと言いたい。日本では性的少数者が弾圧されてきた歴史はありませんが、フラットに受け入れてきた時期もない。現在もです。今が変えるタイミングではないでしょうか
  ――どう変えるべきでしょう。
  「少子高齢化に相次ぐ災害と、日本社会は課題が多く、今後間違いなく変質していきます。その足腰をしなやかにするためには、やはり誰もが豊かな選択肢を持ち、自分の可能性を実現できる社会にしなければいけない。僕が敬愛する戦後日本の同性愛者の著作家には社会からの抑圧や否定を文化的な力に変えてきた人もいますが、そうした人たちはごく一部です。当事者の中には、自分が社会に適合していないと思うと、どこか自分を引いてしまって社会との接点を希薄にしてしまう人たちが多くいます。こういう状況の人たちを見て見ぬふりをするのは、社会にとっても政治にとっても失点です」
  ――ブログで「ふつうに、『ここにいる』ことが言える社会になってほしい」とも書きましたね。
  「経済的に厳しい家庭に食べ物を支援する山梨のフードバンクを取材した際、近所に分からないように『フードバンク』という文字のない箱で食品を送る様子を見ました。日本では、つらくても、世間のまなざしやいじめ、家族のことを気にして声を上げられず、窮状が可視化されづらい現状があります。これは貧困だけでなく、性的少数者や障害者でも同じです」
  「例えば、同性間でもパートナーが病気になった時に家族として支えることを認められ、婚姻が可能になって税制や法律上の立場で不利益を被らないようにするなど、一人ひとりが壁にぶつからずに充実して生きることができれば、社会で発揮できるポテンシャルは全く違ってくるでしょう。そうした個々人の望む自己実現ができることこそ、僕は『生産性』だと思います。ひょっとして、杉田氏は子どもを産むことにこの言葉を使っているのかもしれませんが、子どもを生産物とする捉え方自体に、僕はぞっとする。『生産性』という言葉を取り返したいのです」
 (聞き手・藤田さつき、二階堂友紀)
    *
 1957年、米ニューヨーク生まれ。専門は江戸後期から明治時代の文学。東京大学名誉教授。昨年、日本人パートナーと米国で法的な婚姻関係を結んだ。

180726 前原詐欺師のいる国民党は邪魔、消滅しろ!:【永田町の裏を読む】支持率低迷の野党はどう立て直して来夏の参院選を戦うのか 

2018年07月27日 00時13分02秒 | 時々刻々 考える資料
7月26日(木):      左から枝野幸男立憲民主代表、小沢一郎自由党代表、志位和夫共産党委員長(C)日刊ゲンダイ  

前原詐欺師と恥知らずにも同居する国民党は、早急に消滅しろ!
日刊ゲンダイ支持率低迷の野党はどう立て直して来夏の参院選を戦うのか 永田町の裏を読む  2018年7月26日 
  通常国会が終わって、自民党は安倍3選の是非を懸けた総裁選に向かうが、対する野党は来春の統一地方選、夏の参院選に向けて反転攻勢の態勢を取れるのだろうか。
  とりわけ問題は国民民主党の存在で、ともかくも野党第2党で、参院では立憲民主党の23議席をわずか1議席ながら上回る第1党でありながら、直近の共同通信調査では立民の支持率12.4%に対し0・9%、コンマ以下を切り捨てた日経の数字では同じく12%に対し1%と、全く存在感がない。野党の消息通に聞くと……。
  「国民民主自身もこのままでは先行きがないと見てかなり焦っていて、先日は玉木雄一郎代表が参院選に向けて『一緒に戦う旗印を明確にしたい』と呼びかけたが、立憲民主の枝野幸男代表に『現時点で政策のすり合わせは考えられない』とにべもなく断られてしまった。そりゃそうでしょう、国民民主が自分の旗印がハッキリしないのに、他党と一緒になって統一政策、スローガンを作ろうと言っても相手にされないのは当たり前だ」
  それでは、参院選に向けての野党の選挙協力、統一候補擁立は実現しないのか? 
「そんなことはない。小沢一郎がこのところ枝野や共産党の志位和夫委員長らに会って言っているのは、まず立憲民主と自由、社民が一緒になる。それでも衆院で4、参院では6(沖縄の2人まで入って8)しか増えないが、これが実現すれば岡田克也、江田憲司ら無所属の会の衆院13人も動くだろう。その“拡大立憲民主”と共産とが協議し、32の1人区の可能なところで統一候補を立てるというのが小沢構想」と彼は見ている。
  つまり、国民民主は相手にしない?
「おそらく、党としての国民民主とは組まずに、選挙区の実情によってはすみ分けをするだろう。国民民主の参院議員で選挙区で通ってきて来年改選を迎えるのは、愛知の大塚耕平代表や長野の羽田雄一郎元国土交通相ら5人ほどで、そこでは立憲民主も共産もあえて競合を避けるかもしれない」
  それにしても枝野も小沢も国民民主にずいぶん冷たいではないか。
「彼らから見れば、旧民進党の分解過程でいちばん右往左往して、原発推進賛成を条件に連合労組の組織支援をもらおうとした人たちが中心の党ですから。そうでないのに成りゆきで行ってしまった人は、いずれ立憲民主に合流してくるでしょう」
 さて、小沢工作の行方を見極めたい。
高野孟 ジャーナリスト
1944年生まれ。「インサイダー」編集長、「ザ・ジャーナル」主幹。02年より早稲田大学客員教授。主な著書に「ジャーナリスティックな地図」(池上彰らと共著)、「沖縄に海兵隊は要らない!」、「いま、なぜ東アジア共同体なのか」(孫崎享らと共著」など。メルマガ「高野孟のザ・ジャーナル」を配信中。

180619 日刊ゲンダイ:作家・中村文則氏が警鐘 「全体主義に入ったら戻れない」 全く同感!感想5

2018年06月20日 00時58分31秒 | 時々刻々 考える資料
6月19日(水):  
日刊ゲンダイ作家・中村文則氏が警鐘 「全体主義に入ったら戻れない」 注目の人 直撃インタビュー
                             2018年6月18日 
  ウソとデタラメにまみれた安倍政権のもと、この国はどんどん右傾化し、全体主義へ向かおうとしている――。そんな危機感を抱く芥川賞作家、中村文則氏の発言は正鵠を射るものばかりだ。「国家というものが私物化されていく、めったに見られない歴史的現象を目の当たりにしている」「今の日本の状況は、首相主権の国と思えてならない」。批判勢力への圧力をいとわない政権に対し、声を上げ続ける原動力は何なのか、どこから湧き上がるのか。
  ――国会ではモリカケ問題の追及が1年以上も続いています。
  このところの僕の一日は、目を覚ましてから新聞などで内閣が総辞職したかを見るところから始まるんですよね。安倍首相は昨年7月、加計学園の獣医学部新設計画について「今年1月20日に初めて知った」と国会答弁した。国家戦略特区諮問会議で加計学園が事業者に選ばれた時に知ったと。これはもう、首相を辞めるんだと思いました。知らなかったはずがない。誰がどう考えてもおかしい。ついにこの政権が終わるんだと思ったんですけど、そこから長いですね。
  ――「現憲法の国民主権を、脳内で首相主権に改ざんすれば全て説明がつく」とも指摘されました。
  首相が言うことが絶対で、首相が何かを言えばそれに合わせる。首相答弁や政権の都合に沿って周りが答弁するだけでなく、公文書も改ざんされ、法案の根拠とする立法事実のデータまで捏造してしまうことが分かりました。この国では何かを調べようとすると、公文書や調査データが廃棄されたり、捏造されている可能性がある。何も信用できないですよね。信用できるのはもう、天気予報だけですよ。後から答え合わせができますから。安倍首相の言動とあれば、何でもかんでも肯定する“有識者”といわれる人たちも、いい大人なのにみっともないと思う。
  ――熱烈な支持者ほど、その傾向が強い。
  普通に考えれば、明らかにおかしいことまで擁護する。しかもメチャクチャな論理で。この状況はかなり特殊ですよ。この年まで生きてきて、経験がありません。
■安倍政権が知的エリート集団だったらとっくに全体主義
  ――第2次安倍政権の発足以降、「この数年で日本の未来が決まる」と警鐘を鳴らされていましたね。
  これほどの不条理がまかり通るのであれば、何でも許されてしまう。「ポイント・オブ・ノーリターン」という言葉がありますが、歴史には後戻りができない段階がある。そこを過ぎてしまったら、何が起きても戻れないですよ。今ですら、いろいろ恐れて怖くて政権批判はできないという人がたくさんいるくらいですから、全体主義に入ってしまったら、もう無理です。誰も声を上げられなくなる。だから、始まる手前、予兆の時が大事なんです。
  ――そう考える人は少なくありません。総辞職の山がいくつもあったのに、政権は延命しています。
  安倍政権が知的なエリート集団だったら、とっくに全体主義っぽくなっていたと思うんです。反知性主義だから、ここまで来たともいえますが、さすがにこれ以上の政権継続は無理がある。森友問題にしろ、加計問題にしろ、正直言って、やり方がヘタすぎる。絵を描いた人がヘタクソすぎる。こんなデタラメが通ると思っていたことが稚拙すぎる。根底にはメディアを黙らせればいける、という発想もあったのでしょう。
  ――メディアへの圧力は政権の常套手段です。
  実際、森友問題は木村真豊中市議が問題視しなかったら誰も知らなかったかもしれないし、昨年6月に(社民党の)福島瑞穂参院議員が安倍首相から「構造改革特区で申請されたことについては承知していた」という答弁を引き出さず、朝日新聞が腹をくくって公文書改ざんなどを報じて局面を突き破らなかったら、ここまで大事になっていなかった。一連の疑惑はきっと、メディアを黙らせればいい、という発想とセットの企画のように思う。本当に頭の良い、悪いヤツだったら、もっとうまくやりますよ。頭脳集団だったら、もっと景色が違ったと思う。
  だいたい、メディアに対する圧力は、権力が一番やってはいけないこと。でも、圧力に日和るメディアって何なんですかね。プライドとかないのでしょうか。政治的公平性を理由にした電波停止が議論になっていますが、止められるものなら、止めてみればいいじゃないですか。国際社会からどう見られるか。先進国としてどうなのか。できるわけがない。

 10カ月ぶりに保釈された籠池夫妻は「国策勾留」を訴えた(C)日刊ゲンダイ

モリカケ問題は犯人が自白しない二流ミステリー
  ――安倍首相は9月の自民党総裁選で3選を狙っています。
  これで3選なんてことになれば、モリカケ問題は永遠に続くでしょうね。安倍首相がウソをつき続けているのだとしたら、国民は犯人が自白しない二流ミステリーを延々と見せられるようなものですね。
  ――北朝鮮問題で“蚊帳の外”と揶揄される安倍首相は外遊を詰め込み、外交で政権浮揚を狙っているといいます。
  “外交の安倍”って一体なんですか? 誰かが意図的につくった言葉でしょうが、現実と乖離している。安倍首相が生出演したテレビ番組を見てビックリしました。南北首脳会談で日本人拉致問題について北朝鮮の金正恩(朝鮮労働党)委員長が「なぜ日本は直接言ってこないのか」と発言した件をふられると口ごもって、「われわれは北京ルートなどを通じてあらゆる努力をしています」とシドロモドロだった。あれを聞いた時、度肝を抜かれました。この政権には水面下の直接ルートもないのか。国防意識ゼロなんだ、って。
  ――中国と韓国が北朝鮮とトップ会談し、米朝首脳会談が調整される中、日本は在北京の大使館を通じてアプローチしているだけだった。
  ミサイルを向ける隣国に圧力一辺倒で、あれだけ挑発的に非難していたのに、ちゃんとしたルートもなかったことは恐ろしいですよ。それでミサイル避難訓練をあちこちでやって、国民に頭を抱えてうずくまれって指示していたんですから。安倍首相は北朝鮮の軟化をどうも喜んでいない気がする。拉致問題にしても、アピールだけで、本当に解決したいとは思っていないのではないか、と見えてしまう。拉致問題で何か隠していることがあり、そのフタが開くのが怖いのか。北朝鮮情勢が安定してしまうと、憲法改正が遠のくからか。
■萎縮して口をつぐむ作家ほどみっともないものはない
  ――内閣支持率はいまだに3割を維持しています。
  要因のひとつは、安倍首相が長く政権の座にいるからだと思います。あまり変えたくない、変えると怖いなという心理が働いたりして、消極的支持が増えてくる。政権に批判めいた話題をするときに、喫茶店とかで声を小さくする人がいるんですよね。森友学園の籠池(泰典)前理事長の置かれた状況なんかを見て、政権に盾突くと悪いことが起こりそうだ、なんだか怖い……という人もいるのではないでしょうか。マスコミの世論調査のやり方もありますよね。電話での聞き取りが主体でしょう。電話番号を知られているから、何となくイヤな感じがして、ハッキリ答えない、あるいは支持すると言ってしまう。ようやく、不支持率が支持率を上回るようになってきましたが、正味の支持率は今はもう、3~5%ぐらいではないでしょうか。
  ――政権批判に躊躇はありませんか。
  政権批判をして得はありません。ハッキリ言って、ロクなことがない。でも社会に対して、これはおかしいと思うことってありますよね。僕の場合、今の状況で言えば、そのひとつが政権なんです。この国はこのままだとかなりマズイことになると思っている。それなのに、萎縮して口をつぐむのは読者への裏切りだし、萎縮した作家ほどみっともないものはない。
  歴史を振り返れば、満足に表現できない時代もあった。今ですら萎縮が蔓延している状況ですが、後の世代には自分の文学を好きなように書いてもらいたい。それには今、全体主義の手前にいる段階で僕らが声を上げる必要がある。これは作家としての責任であって、おかしいことにおかしいと声を上げるのは、人間としてのプライドでしょう? それに、今の情勢に絶望している人たちが「この人も同じように考えているんだ」と思うだけでも、救いになるかなと思うんです。いろんな立場があるでしょうが、僕は「普通のこと」をしているだけです。(聞き手=本紙・坂本千晶)
なかむら・ふみのり 1977年、愛知県東海市生まれ。福島大行政社会学部卒業後、フリーターを経て02年、「銃」でデビュー。05年、「土の中の子供」で芥川賞、10年、「掏摸〈スリ〉」で大江健三郎賞。14年、ノワール小説に貢献したとして米国デイビッド・グーディス賞を日本人で初めて受賞。16年、「私の消滅」でドゥマゴ文学賞。近未来の全

180421 野田総務相「女性を甘く見た日本、様々なひずみが発生」 ※首相候補として支持してます!(もみ)

2018年04月22日 02時29分48秒 | 時々刻々 考える資料
4月21日(土):    © 朝日新聞 野田聖子総務相
朝日新聞デジタル野田総務相「女性を甘く見た日本、様々なひずみが発生」  2018/04/21 19:30
■野田聖子総務相(発言録)
 国会にいると「この世に女性はいないんじゃないか」というような会合ばかり。これまでの日本は私たち女性の力を甘く見て、あてにせずに突っ走ってきたから、様々なひずみが発生している。
 日本で仕事をちゃんとやっていくには「男でなければならない」「男以上にやらなければならない」ということを背負わされている。政治と国技館(大相撲)は男の仕事だが、両方ともいま揺らいでいる。
 私たち女性は大変な目にあってきた。あまりにも大変な目にあう人が多くてまひしてしまっているが、これからの日本は多様性(が大切)だ。女性、障害者、高齢者、外国人、性的マイノリティー。そうしたマイノリティーの最大派閥である女性が、しっかりとした制度の下で幸せを実感できれば、他の人たちにもいい流れができる。いま起きていることは厳しい、不幸なことが多いけれど、世の中を大きく変える力を持っている。(岐阜県下呂市の講演で)

180408 朝日新聞:【社説】道徳の教科化 矛盾の色ますます濃く

2018年04月09日 00時07分44秒 | 時々刻々 考える資料
4月8日(日):
朝日新聞【社説】道徳の教科化 矛盾の色ますます濃く  2018年4月8日05時00分
  小学校ではこの春から、中学校でも来春から、道徳が「教科」になる。検定教科書を使うことが義務づけられ、教員による評価も始まる。
  朝日新聞の社説は一貫して教科化に疑念を示してきた。最近の動きを見ると、その思いはいよいよ強い。
  文部科学省は、価値観の押しつけではなく「考え、議論する道徳」をめざすという。趣旨は理解できる。しかし、それは子の成長や地域の実情を踏まえた独自の教材と、授業の工夫で十分できるはずだ。いや、多面的・多角的なものの見方を養うという目標に照らせば、その方がずっと理にかなう。
  指導要領は「礼儀」「節度・節制」など約20の徳目を定めていて、教科書はすべてを取りあげなければならない。昨春の小学校用の検定では、「伝統文化の尊重や郷土愛」の要素が足りないと指摘された出版社が、物語に出てくるパン屋を和菓子屋に変えた。しゃくし定規ぶりに多くの人が驚き、あきれた。
  細かな条件を満たさないと国がOKしないのでは、創意も面白みも損なわれる。そんな教科書で「考え、議論する道徳」はどこまで実践されるだろうか。
  もうひとつの柱である評価も大きな問題をはらむ。
  心に優劣をつけることになるとの懸念を受け、文科省は他の教科のような数値ではなく、教師による記述式を採ることにした。他の生徒との比較や、徳目ごとの評価もしないという。
  しかし、先月末に検定を通った中学の教科書には、決められた徳目ごとに1~4などの段階で、生徒に自己評価させる欄を設けたものが目につく。また、出版社や各地の教育委員会は、教員向けに評価の文例集をせっせと作っている。
  人の心の内には、教師でも軽々に足を踏みいれるべきではなく、だからこそ内面の成長や変化を読み取ることは難しい。評価をせざるをえなくなった現場のとまどいと混乱が、こうした動きに表れている。
  そもそも道徳の教科化は、いじめ問題が理由とされた。多くの者が同調するからいじめは起きる。なびかぬ強さを培う授業が大切なのに、成績がつくとなればそれを気にして、先生が望む「答え」を推し量る気分が児童生徒に広がりかねない。
  教科書の使い勝手はどうか。評価は子にどんな影響を与えているか。真に成長を手助けする授業になっているか――。
  教員や父母らの声を聞いて問題点を探り、現場に即した見直しを柔軟に進める必要がある。

180401 東京新聞:【社説】麻生財務相発言 このレベルの大臣では

2018年04月01日 14時55分18秒 | 時々刻々 考える資料
4月1日(日):
東京新聞【社説】麻生財務相発言 このレベルの大臣では  2018年3月31日
  麻生太郎財務相が「森友の方がTPP11より重大だと考えているのが日本の新聞のレベル」と述べた問題は、これまで多々ある暴言の域を超えている。改ざん事件の責任をとり身を引いたらどうか。
  国のトップ官庁で公文書改ざんという前代未聞の不正を許した大臣としての責任をみじんも感じていないかのような傲慢(ごうまん)さである。
  事実誤認に基づく氏の発言は毎度のことだが、当事者意識を全く忘れ、報道機関をおとしめるような暴言は看過できない。
  麻生氏は二十九日の参院財政金融委員会で、学校法人「森友学園」をめぐる新聞の報道姿勢に不満をまくしたてた。
  米国を除く十一カ国による環太平洋連携協定(TPP11)が八日に署名されたことについてのやりとりの中で、麻生氏は「日本の指導力で、間違いなく、締結された」と強調。「茂木大臣がゼロ泊四日でペルーを往復しておりましたけど、日本の新聞には一行も載っていなかった」と発言した。
  続けて「みんな森友の方がTPP11より重大だと考えているのが日本の新聞のレベル」と述べた。
  しかし、茂木敏充経済再生担当相が出席した署名式の開催地は、ペルーでなくチリである。署名式の記事は、本紙を含め大手各紙が九日付夕刊や翌十日付朝刊で詳しく報じている。
  三十日の同委員会で批判が相次ぐと、麻生氏は「森友に関し、公文書を書き換える話は誠にゆゆしきことで遺憾の極み。軽んじているつもりは全くない」「森友と比較したのがけしからんという点については謝罪させていただきたい」と釈明に追われた。
  だが、釈明すれば済む問題ではない。公文書を改ざんし、国会で虚偽答弁を繰り返したことはTPP11と同じく重大事である。
  「新聞が一行も報じていない」といった虚偽(ポスト真実)を平気で多用したり、TPP11に比べ大したニュースでもない森友問題を報じ続ける新聞の方がおかしいといった印象操作を繰り返す。
  「ナチスの手法に学べばいい」と発言したこともあるように、国民は簡単にだますことができる、政治家は国民をだましてもいいと考えているのではないか。国民の納める税金を差配する要職を任せるには、とても値しない。
  「平成の政治史に残る事件」(自民党の小泉進次郎筆頭副幹事長)である。地位に恋々とせず、国民のために潔く、速やかに辞任したらどうなのか。

180312 古賀茂明「森友文書“改ざん”で白旗 霞が関崩壊を止めるには安倍総理退陣しかない」

2018年03月12日 19時34分30秒 | 時々刻々 考える資料
3月12日(月):  

俺は国民・市民に対して、息をするように平気で“見え透いたウソ”をつき、“茶番劇”を続けられるアベとアソウ何か空恐ろしい異様な生き物に見える。 奴らは明らかに人間として異常である。それが国の権力を握っているのはやはり異常すぎる状況だ。スガを追加!

AERA dot.古賀茂明「森友文書“改ざん”で白旗 霞が関崩壊を止めるには安倍総理退陣しかない」〈dot.〉   3/12(月) 7:00配信

※著者:古賀茂明(こが・しげあき)/1955年、長崎県生まれ。東京大学法学部卒業後、旧通産省(経済産業省)入省。国家公務員制度改革推進本部審議官、中小企業庁経営支援部長などを経て2011年退官、改革派官僚で「改革はするが戦争はしない」フォーラム4提唱者...

  財務省はついに近畿財務局の森友学園問題の決裁文書“改ざん”を12日に認めるという。朝日新聞が書き換えた疑いがあるとスクープを報じたのは3月2日。それから1週間後の9日、近畿財務局の森友問題担当部局の職員が自殺したことが報じられた。亡くなったのは報道の2日前だったという。
  本件で、関係者が最も恐れていたことが現実のものとなった。
  同じ9日、佐川宣寿国税庁長官が辞任した。森友問題に関連した国会対応に丁寧さを欠き審議の混乱を招いたこと、行政文書の管理状況について様々な指摘を受けていること、今回取りざたされている文書の提出時の担当局長だったことの3つの責任を感じて辞職を申し出たという。
  辞職自体は遅すぎた感もあるが、佐川氏は前から辞職を申し出ていたという報道もある。おそらく、辞めたくても辞められなかったのだと思う。
  安倍総理も麻生財務相も口をそろえて、森友学園への土地売却には問題がないと強弁し続け、佐川氏の国税庁長官昇格人事を「適材適所」だと繰り返し答えている。最高権力者と自分の組織のトップが国会でそう言うのだから、佐川氏には辞める理由が見つからない。理由を職務以外で探せば、健康上の理由くらいだが、それでは、仕事ができないほど体が悪いということになり、しばらくは天下りができなくなる。
  それでも、当初は、そのうち世間も静かになるのではという微かな期待も持っていただろう。しかし、事態はどんどん悪化していく。これだけ長期にわたり世間の注目を浴び、「極悪人」であるかのような扱いを受ければ、家族に申し訳ないという気持ちにもなるだろう。さすがに「もういい加減、辞めさせてくれ」という気持ちになっていたのではないか。
  それに、これ以上居座ると心配なことが出てくる。過去の答弁が虚偽だったという動かぬ証拠が出てくれば、退職できても、退職金をもらえなかったり減額されたりするかもしれない(もちろん、退職後でもそういうリスクはあるが、その程度は事実上小さくなる)。
もちろん、本人に聞かない限りわからないが、普通の人ならそういう心理状態になるだろうという推測である。
  そんな苦境の中で近畿財務局職員自殺の一報が入った。佐川氏もさすがに、心理的に相当なダメージを受けたことだろう。これ以上職にとどまるのは無理だ。そう思って自ら辞職を申し出たのか、あるいは、安倍総理と麻生財務相が、改ざん問題で追い詰められて、このままだと佐川長官を国会に出さない訳にはいかなくなると懸念して、このタイミングで辞職させたのか。おそらく、後者の要素が強いのではないだろうか。
  辞職すれば、その時から民間人だ。国会に参考人として呼ばれても、拒否することができる。忙しいとか体調が悪いと言えば、何の問題もない。証人喚問されれば拒否はできないが、民間人を呼ぶにはハードルが高い。
  佐川氏は、司法当局に居所を登録しておけば、どこかに雲隠れしても問題にはならない。安倍総理も、これで佐川氏への追及をかわすことができたと安どしているかもしれない。

■“自殺”を誘発する権力者
  実は、森友問題を追っているマスコミ関係者の間では、佐川氏、あるいは、改ざん問題や国有地値下げの核心を知る職員が“自殺“するのではないかという懸念の声があった。不謹慎なようだが、飲み会などでは、よくその話が出るのだ。現に、過去の疑獄事件でもそうしたことはよくあった。心配されるのは、重要な人物の証言が得られなくなって、事件の真相が闇に葬られることだ。最悪のケースでは、自殺の連鎖が起きることもある。
  “自殺”というのは、文字通り自ら死を選ぶという場合と自殺に見せかけた他殺の場合がある。自ら死を選ぶ場合でも、権力者によって、そうするしかない状態に追い込まれてそれを選ぶという場合も多いだろう。
  いずれも権力者の犯す罪である。
  政治権力を握る者は、その権力を守るためには異常なまでに残酷なことをすることがある。それは歴史が証明している。もちろん、誰もがそういうことをするわけではない。「権力」に固執し、その「権力」を行使することに無上の喜びを感じるタイプの政治家がそういう罪を犯すのだ。
  今回の佐川氏の辞任と近畿財務局職員の自殺は、官僚による、同じ森友学園問題への対応である。一人は生きながら逃げる道を選び、もう一人は死の世界に逃避する道を選んだ。対照的ではあるが、共通することがある。
  それは、時の権力者を守るための犠牲になったということだ。
  一昨年くらいから、官僚が安倍政権を守るために、あるいは安倍総理の意向を忖度して不正を行うケースが頻発するようになった。大きな事件だけでも、南スーダンの日報隠ぺい問題、森友学園に続き加計学園問題、ペジー社のスパコン詐欺事件、厚労省の裁量労働データ捏造など、まるで官僚機構は悪の巣窟であるかのような印象さえ与える。この他にも表に出ない不適切な行政は数えきれないくらいあるのだろう。
  それくらい、今、日本の行政は腐敗しきっている。もはや「崩壊」という言葉を使いたいくらいだ。
  その原因は何か。
  安倍総理自身がどう考えているかにかかわらず、今、霞が関では、安倍首相に逆らうことは役人としての“死”を意味するかのように受け取られている。逆らえば、昇進がなくなり、左遷は当たり前、さらには、辞職してからも個人攻撃で社会的に葬られる恐れもある。逆に、安倍首相に気に入られれば、人事で破格の厚遇を受ける。
  霞が関の官僚のほとんどが違憲だと考えていた集団的自衛権を合憲だと考える官僚を法制局長官に置き換えた人事は、象徴的だった。あんな禁じ手を使われたら、官僚は、安倍首相に媚びようと必死になる。
  文科省で、退職後ではあるが、安倍政権の政策に異を唱えた前川喜平前文科次官の個人情報がリークされて御用新聞の読売がそれを記事にしたことも官僚たちを震え上がらせた。安倍首相が如何に容赦なく自分の敵を叩き潰すかを目の当たりにしたからだ。
  もちろん、これらは氷山の一角だ。
  こうした言動を日々見せつけられる官僚の目には、安倍総理は、尋常ならざる権力者と映る。
  一方、安倍総理が関心のない事項については、官僚は何でも好き勝手にやりたい放題が許されている。だから、触らぬ神に祟りなしで、安倍政権の悪政には一切異を唱えず、安倍総理の関心事には、条件反射的に最大限忠誠を尽くす。そして、トラブルを起こさず何事もなければ、官僚利権の天下り拡大などにせっせと励んで、事務次官の覚えをめでたくしようと考える役人が非常に増えてしまった。
  かくして、霞が関は、「崩壊の危機」に瀕しているのだ。

■「忖度の連鎖」で改ざんする官僚の性弱説
  今回の文書改ざん疑惑が事実であったとしたら、それは、近畿財務局が、一連の忖度行為の一環として自発的に行った結果だと考えても不自然ではない。
  一方、これだけの重大な不正を働くのはリスクが大きすぎると考えて本省の指示を仰いだ可能性も十分あるし、その前に本省の方から指示がなされたことも考えられる。さらには、官邸からの指示だった可能性も否定はできない。
  今後は、文書改ざんについて、誰の責任かという点が大きな議論になるだろう。しかし、改ざんについて本省の指示ないし承認があったかどうかは問題の本質ではない。ましてや、本省の関与が証明されなければ、現場の不祥事で終わりという考え方は採ってはいけない。
  なぜなら、この問題は、森友側へ破格の安値で土地売却を行ったことから始まったからだ。その時点では、安倍昭恵総理夫人の力が働いたのは明白だ(財務省の官僚は他省庁の役人より格上。ノンキャリはキャリアよりもはるか下の存在。年次も1年違えば虫けら同然と言われるほどの序列社会。その中で、経産省のノンキャリの課長補佐クラスの当時の昭恵夫人秘書・谷査恵子氏からの問い合わせに、財務省のキャリアの管理職が丁寧に文書で回答するのは異例中の異例。昭恵夫人案件だったからそれが可能になったことは霞が関の官僚100人に聞けばほぼ全員がそうだというはずだ)。
  そして、その後は、「忖度の連鎖」で、最後はこの改ざんという不正に行きついた。そう考えれば、改ざん行為はそれだけを独立の不祥事として扱うのではなく、森友疑惑の一環として位置付けるべきである。
  いずれにしても、ここまで書いたことでおわかりいただけると思うが、官僚は、自分たちの立場が危なくなると、意外と愚かな行動をとってしまうということだ。
  これは当たり前のことかもしれないが、官僚というのは、「聖人君子」でも「悪人」でもない。「普通の人」である。そして、「普通の人」について当てはまるのは、「性善説」でも「性悪説」でもなく、「性弱説」だと私は考えている。
  つまり、官僚も弱い人間だ。自分の地位や所属する組織の存立を脅かすような事件を前にすると、普段はまともな思考をする人でも、尋常ではない不正をする誘惑に勝てなくなる。その時は、良心も、賢明な判断力も、正義を貫く勇気も全て消え失せてしまうのだ。
  したがって、官僚の「弱さ」を利用すれば、権力者が、霞が関全体を「不正遂行マシン」として使うことも可能になる。逆に言えば、最高権力者は、そうしたことを生じさせないように自らを律し、逆に官僚の良いところを際立たせるような指揮をとらなければならない。
  そうしたことを念頭に置いたうえで、仮に、今回の事件がこのままうやむやにされて、安倍政権が続くとどうなるか考えていただきたい。
  官僚たちは、安倍政権の強大さをあらためて思い知るだろう。その結果、安倍総理の歓心を買うためにその意向を忖度して不正まで行う。さらに不正を正そうとすることは身を滅ぼすことになると考えて、見て見ぬふりをする。そして、総理が関心をもたない大部分の行政分野で、せっせと自分たちの利権拡大に励む。
  この国の行政は停滞ではなく後退し、腐敗はその極に達するであろう。
  それを避けるためにはどうすればよいのか。もはや、微修正で済む段階ではない。
  安倍総理が退陣して、正義と公正を実現する気概を持った新たなリーダーを選び直すこと。日本の行政機構を救うには、それしか選択肢がないのではないだろうか。

180215 高校の新指導要領案について

2018年02月15日 21時48分01秒 | 時々刻々 考える資料
2月15日(木):
朝日(社説)高校指導要領 木に竹を接ぐおかしさ  2018年2月15日05時00分
  「多面的・多角的な考察」が全体の基調なのに、こと愛国心や領土問題となると政府の立場を強く押し出す――。2022年度から実施される高校の学習指導要領の改訂案は、木に竹を接いだような内容だ。
  これまでの「現代社会」を再編した新科目「公共」は、目標に「自国を愛し、その平和と繁栄を図る大切さについて自覚を深める」をかかげる。
  「地理歴史」の目標にも「日本国民としての自覚、我が国の国土や歴史に対する愛情」を深める、と明記された。
  国際協調の大切さにも言及してはいる。しかし、いまの指導要領の「良識ある公民として必要な能力や態度を育てる」といった記述に比べると、かなり踏み込んだ表現である。
  教科を学ぶうえで大切なのは、学問的・客観的な事柄について理解を深め、追求する姿勢を養うことだ。そこに人の内面に関わる問題を紛れ込ませるべきではない。再考を求める。
  小中学校の「道徳」をめぐっても同様の議論があった。それでも道徳の評価は教員によるコメント方式だが、公共や地理歴史は点数制だ。まさに心に点数をつけることにならないか。
  この疑念に対し、文部科学省は「知識の理解や考察力を評価し、内面は問わない」と言う。であるならば高校現場にその趣旨を徹底するべきだ。
  領土問題に関する書きぶりを見ても、たとえば「尖閣諸島は我が国の固有の領土であり、領土問題は存在しないことも扱うこと」などとなっている。
  政府見解を知識として生徒に伝えることは大切だ。だが「これを正解として教え込め」という趣旨なら賛成できない。相手の主張やその根拠を知らなければ、対話も論争も成り立たない。他者と対話・協働して課題を解決する。それが新指導要領の理念ではなかったか。
  いま、政権批判や在日外国人の存在そのものを「反日」と決めつける風潮がはびこる。それだけに、日本の立場をひたすら強調する方向での記述の変更には、危うさを覚える。
  全体のボリュームは現行要領のざっと6割増しになった。取り上げる題材や実験例などを細かく書き込んだためだ。経験の浅い先生も増えており、丁寧な説明が求められる面はある。しかし細かく書けば書くほど、現場の裁量や工夫は狭まる。
  新指導要領がめざすのは、主体的に考え、行動できる若者の育成だ。ならば、もっと生徒と教師を信じ、その自主性に任せていいはずだ。
毎日社説 高校の新指導要領案 「探究する授業」の創造を  2018年2月15日 東京朝刊
  議論を中心に思考力を育む。だが教える内容は減らさない。この難題に高校は取り組むことになる。
  文部科学省が、2022年度から実施する高校の新学習指導要領案を公表した。今回は9年ぶりで、55科目中、新設や見直しが27科目に上る大幅な改定となる。
  新指導要領案では「思考力・判断力・表現力」の育成を重視する。従来の知識偏重からの脱却が狙いだ。
  そのために全ての科目で「主体的・対話的で深い学び」(アクティブ・ラーニング)による授業改善を求めている。新設科目でも、それを象徴する「古典探究」や「日本史探究」などが設けられている。
  20年度から実施される「大学入学共通テスト」は思考力や表現力を重視する方向だ。今回の改定はそれも見据えた大きな改革といえる。
  昨年改定された小中学校の指導要領も同様の理念が掲げられている。小学校から大学まで、日本の学校教育を貫く大きな理念の転換である。
  気になるのは、学校がその理念を受け止め、知識を基に議論して学びを深める授業を作れるかどうかだ。
  新指導要領案は、総じて教える内容を削減していない。英語の単語数は最大で700語増えてもいる。
  アクティブ・ラーニングは、準備も授業も、手間と時間がかかる。知識を身につける時間も必要だ。
  教員が今の授業時間でこなすことができるのか。生徒が消化不良になるようでは意味がない。
  新設科目では、18世紀以降の日本と世界を関連付けて学ぶ「歴史総合」や、主権者教育に力を入れる「公共」などが必修で設けられる。
  これらは、現実の国際問題や政治的テーマを扱う。教え方に迷う教員もでてくるだろう。研修などで教員の力量を上げる努力が不可欠だ。
  さらに、授業の指針になる教科書など、教材も工夫が必要だ。アクティブ・ラーニングにおける生徒の評価も多様な視点が求められる。
  文科省は、指導要領の解説書を作り、授業を先取りする研究開発校での実践で理解を広めていくという。
  もっとも、その授業モデルの提示が、教員の裁量をしばるようでは逆効果だ。指導要領はあくまで標準であり、現場の創意工夫こそが生徒に響く授業につながる。
東京【社説】高校の指導要領 社会に通用する力を  2018年2月15日
  グローバル化や高度情報化、少子高齢化の流れが速い。不確実な時代を生きる力をどう身に付けるか。高校の新しい学習指導要領案が公表された。大学受験のための教育から抜け出すことが肝要だ。
  文部科学省は昨年度の小中学校に続き、高校の現行指導要領をほぼ十年ぶりに改定し、二〇二二年度から順次導入する。高校と大学の教育を円滑につなぐための「高大接続改革」の一環でもある。
  これまで高校と大学の教育は、入学試験という障壁で隔絶されてきたといえる。大学は知識偏重の入試を課し、高校はその傾向と対策に振り回されがちだ。
  かつて全国各地の高校で進学実績を優先させるあまり、大学入試とは無関係として必修の世界史や情報科などを履修させていなかったことが発覚した。生徒の卒業認定を巡って政治問題化し、校長の自殺が相次いだ。
  高校が単なる受験勉強の場になっている実態が露呈した事件だった。指導要領を改定しても、教育に対する現場の心構えが変わらなくては再び空回りしかねない。
  選挙権年齢にとどまらず、成人年齢そのものを世界標準の十八歳に引き下げる動きがある。高校は予備校ではない。社会の担い手を育て上げるという本来の役割と責任を自覚し直さねばならない。
  大学もその成果を的確に把握する入試の在り方を工夫し、多様な個性を伸ばす環境を整えてほしい。高校までの教育の流れを断ち切るような入試は自重すべきだ。
  高校の新指導要領の案は、小中学校と同様に主体的に学びに向かう態度を養うことを重視する。
  そのために大切なのは、生徒の「なぜ学ぶのか」という素朴な疑問に対して気づきや示唆を与える授業だろう。よく耳にする大学受験に必要だからという皮相的な動機付けでは血肉になるまい。
  その意味では、日常の暮らしや現実の社会が抱える諸課題と、学ぶべき事柄との関わり合いに着目して多面的、多角的に考えさせる場面が多いのは望ましい。
  もっとも、生徒に主体性を持たせるべく、講義から討論や発表を取り入れた授業への転換が求められる。教師の負担は大きい。手厚い支援が欠かせない。
  最も気がかりなのは、小中学校から連続して道徳教育の強化を促す点だ。道徳は科学ではない。自国に対する愛情の大切さを説きつつ、領土や歴史を学ばせては危うい。社会を担うには、批判精神をよく培うことこそが大事だ。

180120 孫崎享 外交評論家:口約束の「日韓合意」見直しを拒否する安倍政権の非常識 日本外交と政治の正体

2018年01月21日 03時01分58秒 | 時々刻々 考える資料
1月20日(日):  

日刊ゲンダイ 孫崎享 外交評論家:口約束の「日韓合意」見直しを拒否する安倍政権の非常識 日本外交と政治の正体 2018年1月19日  
  読売新聞社が世論調査を実施し、慰安婦問題を巡る2015年12月の「日韓合意」について、韓国政府からの追加要求には応じないとする日本政府の方針を「支持する」と答えた人が83%に上った、と報じた。私にとっては全くの驚きである。
  日本政府の方針を「支持する」と回答した人のどれくらいが、「追加要求」の内容を知っているのだろうか。具体的な内容を知らずに「追加要求」という言葉が独り歩きしているのではないだろうか。
  韓国側が公表した新方針は次の通りだ。
①日本政府が拠出した「和解・癒やし財団」への基金10億円は韓国政府の予算で充当する。
②韓国政府は合意に関して日本政府に再交渉は求めない。
③ただ、日本側が自ら、国際的な普遍基準によって真実をありのまま認め、被害者の名誉と尊厳の回復と心の傷の癒やしに向けた努力を続けてくれることを期待する。
  日本国民は、この韓国の新方針のどの部分が遺憾だと感じているのか。
  安倍首相は「合意は国と国との約束で、これを守ることは国際的かつ普遍的な原則だ。韓国側が一方的にさらなる措置を求めることは、全く受け入れられない」と言っている。しかし、この発言は国際的常識からいえば正当性はない。
  前提として民主主義国家とは何かを考える必要がある。民主主義とは政府が国民の意思を反映し、実施することである。大統領選挙や国会選挙で政権が代われば、当然主要政策は変更される。米国のトランプ大統領は大統領就任後、TPP合意からの離脱を宣言した。そしてさらに、北米自由貿易協定からの離脱も検討している。ところが、関係国が「過去の合意を守らない」とトランプを非難しているのかといえば、していない。

  国際的な約束には、順守の重いものから順に「条約」「署名文書の作成」「口頭約束」がある。「日韓合意」は公式文書の作成は行わず、両外務大臣が記者会見を開いて発表するという形式で行った「口頭約束」に過ぎない。この程度の合意について、「合意は国と国との約束。順守は国際的かつ普遍的な原則。韓国側が一方的にさらなる措置を求めることは、全く受理できない」という認識は国際的な常識から大きく逸脱している。
  そもそも韓国国民の重大関心である慰安婦問題を、日本の一政権が「最終的、不可逆的合意」ができると考えているのが間違いなのだ。

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公式文書すらない日韓合意、韓国の見直しを非難する安倍首相のほうが異常で非常識 孫崎享(Business Journal)

180109 半歩前へ:日本が戦場でも構ないと「平和ボケのタカ派」!米国が北朝鮮に対し軍事力を行使=日本で死傷者400万人程度(日刊ゲンダイ)

2018年01月09日 21時06分51秒 | 時々刻々 考える資料
1月9日(火):

半歩前へ日本が戦場でも構ないと平和ボケのタカ派!   2018/01/07 21:59 

▼日本が戦場でも構ないと平和ボケのタカ派!
  日本は先の大戦で壊滅、焦土と化して以来、一度も戦争に巻き込まれたことがない。とても幸せなことだが、そのおかげで今の世代は戦争の「怖さ」「残酷さ」を知らない。
  戦争は劇映画やゲームでしか知らない。その結果、米中戦争を半数近くが支持すると言った。日本が攻撃され、血みどろの戦場となっても構わないというのだ。正気で言っているのか?
  軍事評論家の田岡俊次日刊ゲンダイに以下を寄稿した。田岡は、このバカどもを「平和ボケのタカ派」と呼んだ。
**************** 
  昨年12月20日、読売新聞に掲載された日米共同世論調査の結果には仰天した。米国が北朝鮮に対し軍事力を行使することについて、米国では支持63%、支持しないが32%、日本では支持47%、支持しないが46%、と報じられていた。
  米国が北朝鮮に対し武力行使をすれば、北朝鮮は滅亡必至だから自暴自棄となり、核ミサイルを韓国、日本に向けて発射する公算は極めて高く、米国防長官J・マティス海兵隊大将(退役)は「第2次世界大戦後、最悪の惨事となる」と述べた。
  米軍の攻撃の発進基地、補給拠点となる在日米軍基地だけでなく「死なばもろとも」の心境で最大の報復効果を狙い、東京を核攻撃する可能性も高い。
  その場合、水爆弾頭なら被害半径は約7キロ、昼間なら死傷者は400万人程度と計算される。
 
  北朝鮮は米国東海岸を射程に入れるICBM「火星15」の試射を11月29日に行ったが、大気圏に再突入する際の高熱で、戦時に核弾頭を入れる先端部分が分解した様子で、まだ実戦配備に至っていない。
  このため米国のタカ派議員から「ICBMが完成する前に北朝鮮を壊滅させ、米国人の命を守るべきだ。他国の人命にかまってはおれない」との論が出て、「米国第一」を唱えるトランプ大統領もそれに一定の理解を示している。
  これは冷酷な説だが、米国にとっては合理性もあるだけに、米国人の63%が支持するのも仕方ない。
  だが日本人の47%がそれを支持するのは、北朝鮮が日本を核攻撃することを望むのと同然だ。北朝鮮はほぼ日本全域を射程に入れる「ノドン」約300発、核弾頭は約30発を実戦配備しているとみられ、即時発射が可能なものも開発している。
  武力行使を支持する日本人は「米軍が一挙に北朝鮮の核ミサイルを破壊する」と思っているかもしれないが、北朝鮮北部、中国との国境に近い山岳地帯の谷間に掘った無数のトンネルに隠されている移動式発射機の位置を精密に知ることは困難だ。
  偵察衛星は約90分で地球を南北方向に周回し、時速約2万7000キロだから、1日約1回、北朝鮮上空を約1分で通過する。固定目標は撮影できるが、移動目標の監視は不可能だ。
  米統合参謀本部は下院議員16人の質問主意書に対し、11月4日文書で回答。「北朝鮮の核兵器は地下深くに保管されており、全てを確実に破壊するには地上侵攻が唯一の手段」と述べた。
  航空攻撃やミサイル攻撃で弾道ミサイルの一部を破壊できても、相手は急いで残った物を発射するだろう。相手は通信・指揮系統を複数、多様化しているだろうから、それを麻痺させるのも容易ではない。
  政府はミサイル防衛に「万全の備え」と言うが、実はイージス艦は「SM3」ミサイルを各艦8発しか搭載していない。不発や故障もあるから1目標に2発を発射するのが普通で、4目標にしか対処できない。
  短射程(約15キロ)のパトリオットPAC3も1地点に発射機2両が各4発を積んでいるから8発だ。ミサイル防衛は形ばかりにすぎない。
  この状況で、米軍の武力行使を望むのは、戦争を現実のこととして考えない「平和ボケのタカ派」が47%もいることを示している。
  (以上 日刊ゲンダイ

180102 牧太郎の青い空白い雲:646 安倍首相に読ませたい「日本国憲法の手本・民権数え唄」

2018年01月03日 04時00分23秒 | 時々刻々 考える資料
1月2日(火):
サンデー毎日 牧太郎の青い空白い雲 646 安倍首相に読ませたい「日本国憲法の手本・民権数え唄」    2017年11月21日
  安倍1強独裁政治を徹底批判する「安倍首相に読ませたい」シリーズの第5弾は、「民権数え唄」。千葉県は銚子の民謡「大漁節」の「一つとせ~」のメロディで、スタートする。
  一つとせ~ 人の上には人ぞなき 権利に変わりがないからは コノ人じゃもの
  二つとせ~ ふたつとない我が命 捨てても自由の為(ため)ならば コノ厭(いと)やせぬ
  三つとせ~ 民権自由の世の中に まだ目のさめない人がある コノ哀れさよ
  四つとせ~ 世の開けゆくその速さ 親が子供におしえられ コノかなしさよ
  五つとせ~ 五つに分かれし 五大洲(しゅう) 中にも亜細亜は半開化 コノ悲しさよ
  六つとせ~ 昔思えば亜米利加の 独立したのもむしろ旗 コノ勇ましや

  「数え唄」の作者は明治初期の民権壮士・植木枝盛(えもり)(1857~92)。この「数え唄」が主張するのは自由平等、主権在民……極めて政治的だが「何か」に似ていないか?
  そう、これは戦後誕生した「日本国憲法」にそっくりなのだ。
    ×  ×  ×
  「植木枝盛」とは、どんな人物だったのか?
  土佐藩士・植木直枝(小姓組格、4人扶持(ぶち)24石)の嫡男として安政4年、土佐(現在の高知市)に生まれた。8歳から習字を学んだ頭脳明晰(めいせき)。征韓論政変に触発されて、明治8(1875)年、19歳で上京。慶應義塾の「三田演説会」に頻繁に通い、福澤諭吉に師事した。
  筆が立つ。『東京日日新聞』(現在の『毎日新聞』)などを舞台に、「自由民権」運動を展開。国会開設を要求し、民権理論の普及に生涯を懸けたが、なぜか36歳の若さで病没してしまった。言うなれば「明治初期のリベラル派ジャーナリスト」ということか。
  彼にはもう一つ「歴史的文書」が残されている。「東洋大日本國國憲按(とうようだいにほんこくこっけんあん)」である。「大日本帝国憲法」が発布(1889年2月11日)されたより早く、彼は「憲法」を作っていた。
  調べてみると福澤諭吉の日本最初の実業家社交クラブ「交詢社(こうじゅんしゃ)」などが68の「私擬憲法案」(私的に考える憲法案)を作っているが、その中で、植木枝盛が起草した220条の「國憲按」(1881年)が最も民主、急進的。自由平等だけでなく、国民の抵抗権や革命権などを定めていた。150年近く前に、市民の側に立った憲法案が存在した。意外だった。
  「天皇主権」を目指す明治政府からすれば、「人民主権」の思想は邪魔だったのだろう。1887年に発布・施行された保安条例で、私擬憲法を作成することは禁じられ、政府主導でプロイセン憲法をもとに大日本帝国憲法が誕生した。
    ×  ×  ×
  安倍さんに、歴史から消された「民権数え唄」「東洋大日本國國憲按」を読んでもらいたいのは、彼が「日本国憲法はアメリカの押し付け!」と主張するからである。本当に日本国憲法はアメリカ人が作ったものなのか?
  大日本帝国が第二次大戦で連合国に降伏。連合国軍総司令部(GHQ)は大日本帝国憲法の改正を日本に求めた。幣原喜重郎内閣は意図的に改憲作業をサボっていたが、マッカーサーは「このままではソ連の横槍(よこやり)が入る」と心配して、「天皇を権力のない象徴にする方針」を示し、極秘にGHQ案を作成した。そこまでは間違いない。
  しかし、そのベースとなったのは、この「東洋大日本國國憲按」を参考にした日本人作成の憲法草案だといわれている。
  そこにある「日本人民ハ思想ノ自由ヲ有ス」「日本人民ハ如何ナル宗教ヲ信スルモ自由ナリ」などは、そのまま、日本国憲法に採用された。そればかりか、「選挙権の男女平等」「不服従の権利」「死刑廃止」まで明記していたのだ。
    ×  ×  ×
  安倍さん、勉強してくれ!
  日本国憲法はアメリカ人だけの発想ではない。「天皇主権ではなく人民主権!」と主張したのは、「民権数え唄」「東洋大日本國國憲按」の明治人だった。
  そうそう、植木枝盛は、明治25年、第2回衆院選を前に胃潰瘍の悪化により36歳で死去しているが、いまだに毒殺説がある。
  権力者を徹底批判するには「覚悟」が必要なのだろう。
  太郎の青空スポットは、今号はありません。

 『毎日新聞』夕刊にコラム「大きな声では言えないが…」を連載中(大阪本社版を除く)

まき・たろう:1944年生まれ。毎日新聞に入社後、社会部、政治部を経て『サンデー毎日』編集長に。宇野宗佑首相の女性醜聞やオウム真理教問題を取り上げる。現在、毎日新聞客員編集委員。ブログに「二代目・日本魁新聞社」がある (サンデー毎日12月3日号から)

150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)