もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

150430 メメント・モリ:今井雅之、末期の大腸がんと告白「病には勝てなかった…」

2015年04月30日 23時52分19秒 | 日記
4月30日(木): 

ご本人の無念な思いは想像に余りあります。本当に残念でもったいない役者さんです。最期の瞬間まで悔いなく生き切られることを衷心より祈念いたしております。時間差こそあれ、私たちも同じくあとを追う身であります。


今井雅之、末期の大腸がんと告白「病には勝てなかった…」オリコン 4月30日(木)18時9分配信
 大腸がんのため、出演予定だった舞台『THE WINDS OF GOD』を降板した俳優の今井雅之(54)が4月30日、東京・新国立劇場で行われた同舞台のゲネプロ前に会見を開いた。がん公表後、報道陣の前に初めて姿を見せた今井は「ギリギリまで自分の体と相談したんですけど、ドクターストップ、プラス自分でも舞台に立てない」と無念さをにじませ、病状が「末期がんのステージ4」だと明かした。
  会見に登場すると、報道陣に一礼。マイクを通じて「これが精一杯の声です」と、ややかすれた声で決断に至る経緯を説明し、「自分の判断で降ろさせてくれと(言いました)…」と目に涙を浮かべながら言葉を詰まらせた。続けて「本当にすいません、病には勝てなかった…」と頭を下げた。
 現在は、入院中でリハビリに励んでいるという今井は「CTスキャンをしたら大きい腫瘍が2つ、3つありました。かなり痛みもあるし、ほとんど歩けなくなって、声も出なくなった」と深刻さを告白し、抗がん剤治療も「2クール目に入った」と話した。
 今後について「静養して、筋力をつけていきたい」と神妙な面持ちで話すと、ファンに向けて「本当にこんなことになってしまいましたけど、僕は精一杯、この仕事を命がけで、やっていきますので、どうか応援よろしくお願いします」と呼びかけた。
 今井は、今年2月に行われた同舞台の制作発表会見で、昨年末に大病を患い、一時は「余命3日」とまで診断され、腸の緊急手術を行ったことを告白。舞台降板発表後には、自身のブログで「ホンマ悔しくて悔しくてたまりません!」と苦しい胸の内を露わにしていた。
 同舞台は、予定した15公演のうち5公演を中止。所属事務所によると、今井は5月下旬の公演に出演するために、体に負担のかからない程度の仕事とリハビリに励むとしている。
 今井の代役は俳優の重松隆志(41)が務める。今井から直接電話で代役を頼まれたという重松は、書面を通じて「いろいろな思いがありますが、今の僕には『Let's go for it!』、やるしかない」と力強く意気込んだ。

俳優・監督・作家・脚本家・演出家・芸能人・役者・映画監督・作家・脚本・エッセイスト 今井雅之(イマイマサユキ) 誕生日:1961年 04月21日. 星座:おうし座. 出身地:兵庫. 血液型:O

4 072 司馬遼太郎「翔ぶが如く (ニ)」(文春文庫:1972~76) 感想5

2015年04月30日 00時31分10秒 | 一日一冊読書開始
4月29日(水):

318ページ   所要時間 5:45   蔵書

著者49~53歳(1923-1996)。

本書第二巻を読むのは、最低でも2度目、ひょっとすれば4度目か?今回の最大の目標は、全十巻を読み切ることであり、そのためには1ページ30秒読みを徹底することだったはずだが、うまくいかないものだ。全盛期の司馬作品の盛りだくさんなサービス精神は圧倒的でつい立ち止りたくなる。また、あまりにもより道が多いので、ともすれば本筋を忘れそうになるのだ。付箋も慎むつもりが、鉛筆で線さえ引く始末。このままだと、また第四巻あたりで挫折しそうだ。

1873(明治6)年、太政大臣三条実美を通じて西郷渡韓の勅諚は下りた。遣外使節の一行は、バラバラに大久保、木戸、伊藤、岩倉と次々に帰国していた。彼らは皆、今西郷が渡韓して死ねば、征韓のきっかけとなり、日本は勝つだろう。しかしその後に、餓狼の如き列強の介入を招き、日本は窮地に追いやられる。今はその時期ではない。という考え方では、現実の世界を観てきた共通体験によって結束している。

しかし、誰一人として西郷の前に立ちはだかり火中の栗を拾おうとする者はいなかった。それぞれがその人間的大きさに応じて西郷との対決を避けていた。ここに、一人決意を持って西郷渡韓中止を目指して政治工作に奔走し始めたのが工部大輔伊藤博文である。維新の業火をくぐりぬけてきた伊藤は、同時に誰よりも欧米の介入を恐れる感覚を持ち、西郷渡韓の非を確信していた。

伊藤には西郷と渡り合う力はない。右大臣岩倉を抱き込んだ。西郷を止めるには、薩の大久保、長の木戸を参議に戻す必要があったが、いずれも固辞して受けない。大きな屋敷をお化け屋敷のように雨漏りもそのままに修理もしないで、質素過ぎる身なりで清貧を生きる参議・陸軍大将西郷の存在は、それだけで腐敗を深める新政府に対する大きな批判であった。伊藤の奔走を尻目に、西郷は勅諚が下りたことでことがなったとして一切の政治工作をしない。幕末、魔術の如き政治工作をやってのけた西郷は、自らが創った新政府に対しては木偶の坊の如く誠実であろうとしていたのだ。

また、新政府に対して隠然として巨大な影響力を保持していた島津久光からお家を売った裏切り者と罵られることは、西郷にとって死ぬより辛いことであり、西郷は自らの良き死に場所を求めていた。それが、遣韓大使として死に、朝鮮との戦争、その後の同盟によるロシアの南下を止めることであった。西郷の屋敷にはもはや政府の主流は訪れず、桐野利明少将ら薩摩の近衛兵たちの溜まり場になっていた。もはや西郷の耳には、政府内の主流的な正論は、西郷自身の主観的にも、物理的にもきちんと伝わらなくなっていた。

勅諚により決定的であった西郷渡韓の儀に対して、伊藤は三条太政大臣を籠絡して、事態をひっくり返す光明を見出すと素早く岩倉とともに大久保の参議就任を求めるが、これは事実上の首相就任、大久保政権樹立を意味した。大久保は、西郷と激突する覚悟を決めて遺書を残す。米国留学中の牧野伸顕に宛てた手紙には「将来の変」を予告しており、のち紀尾井坂の暗殺を予見している。大久保にとっても、西郷の前に立ちはだかるということは、刺し違えて死ぬということなのだ。大久保が立ち、木戸も立つ。伊藤の奔走により西郷方の参議の板垣退助、副島種臣も寝返る。

西郷有利の状況は徐々に変わり始め、西郷から大恩を受けている陸軍卿山県有朋は東京から身を引いて隠れる。

延引されていた太政官会議開催の日の朝、身なりを整える西郷のもとに太政大臣三条実美から「(会議に)欠席されたい」という手紙が届く。一瞥した西郷は、自ら三条邸に乗り込む。しどろもどろになった三条は「板垣が言ったことだ」と裏事情を吐いて、西郷に悲痛な思いを持たせる。

という感じで1873(明治6)年の征韓論争の事態の推移が、主役級以外に、旧旗本の娘千絵、土佐人大石円、反政府新聞を起こす薩摩人海老原穆ほか、様々な人々が描き出される。司馬遼太郎の描きだす世界は、重厚で奥行きがあり本格派である。読みだせば、やはり魅了されざるを得ない。

今年のNHK大河「花燃ゆ」で吉田松陰の妹を主人公に幕末ホームドラマをやるのは全くもってナンセンスで取り返しがつかない失敗だ。そもそも「花神」や「翔ぶが如く」で本格派の幕末大河を観ている人間にとって、公共電波の無駄遣いにしか思えない。俺は「花燃ゆ」は初回だけ見たが、あとは録画はしているが全く見ていない。イメージを汚されたくないのだ。

言っても詮無きことながら、「翔ぶが如く(ニ)」を読みながら征韓論争における影の主役伊藤博文の光芒を目にして、もしも幕末・明治を大河で取り上げるのであれば、「伊藤博文」こそ取り上げるべきだったと心の底から思った。今年の「花燃ゆ」で結局その可能性は大幅に減殺、当分先延ばしになったと思うととても残念だ。伊藤を取り上げれば、幕末の英国留学体験、高杉のクーデター、明治維新、征韓論争、明治14年政変、ドイツ留学、明治憲法、大津事件、日清戦争、三国干渉、立憲政友会、日露戦争、統監府、安重根による暗殺までまさに大河ドラマになるだろう。吉田松陰の妹をわざとらしく発掘する必要など毫末もないのだ。馬鹿馬鹿し過ぎる。

まあ、伊藤博文ほど激烈でボリュームのある生き方をした政治家は日本史上極めて珍しいと言える。描くならば大河ドラマでしか不可能だろう。そして、歴史認識の問題など相当に腹をくくって製作しなければならないだろうが、不可能ではないと俺は思うのだ。明治における朝鮮半島に対する認識など飾らず正直に事実は事実として描き、現代から見て問題もあったこと、その後の日本の歩みに対する影響など解説をきちんとすればよいのだ。

とここまで書いて来て、「やっぱり今のNHKには無理だな。伊藤博文という非常に魅力的な政治家を取り上げることを肝の据わらないNHKに求めるのは、女性にキンタマを求めるに等しいよな」と思えてきた。ああやっぱりこれからも伊藤博文は、出てきたとしても脇役で終わるのか…。

4 071 石原千秋「秘伝 中学入試国語読解法」(新潮選書:1999) 感想5

2015年04月29日 14時35分38秒 | 一日一冊読書開始
4月29日(水):

410ページ  所要時間 2:35   ブックオフ108円

著者44歳(1955生まれ)。成城大学文芸学部助教授。漱石研究家。

頭の冴えているうちに、縁結びの1ページ15秒読みを実行した。「本当に面白ければ次回また読み直せばよいのだ。」
結論から言えば当たりである。細かい事柄は、読みとれないが、どのようなことが論じられてるのか、著者はどう考える立場かは分かった。「この本は総体として中学入試から見た僕の学校論になっている。(著者:403ページ)

本書は、著者の一人息子が小学校3年生から塾に行き始め、家族一丸となって中学校受験を目指した経験をもとに書かれている。二部構成で、「第一部 僕たちの中学受験」では息子と取り組んだ受験勉強の日々が記録として書かれている。これが、随分と面白かった。塾の「じ」の字も知らない中から取り組み始めて、塾と家庭勉強のあり方を考え、夫婦で息子に教える限界が語られ、息子の偏差値に一喜一憂し、しまいには模擬テストの山張りを指南して偏差値71をとらせたり、東京の受験する進学校との相性や個性を論じたりする。一方で、学校という組織・制度に対する著者の考え方が、親という立場だからこそ言える赤裸々な歯に衣着せぬ形で開陳される。著者の教育制度を観る目は、本音ではあるが、非常に常識的で正鵠を射ている。著者の卓見のもとで教育制度の虚飾が剥ぎ取られて行くのは痛快でもある。

「第二部 入試国語を考える」では、息子の中学受験に付き合った勢いを借りて、開成や麻布他名門中学校の国語の入試問題の過去問を渉猟して、分類・分析を加え、正解解説を行っている。この第二部は、さすがに解答しながら読む訳にはいかないので、ザーッと眺めながら、時折立ち止まる感じで見通した。最近はやりの、解答部分が非常に充実してボリューム感のある入試問題集みたいである。一方で、そもそも入試問題をはじめ学校教育で行われる「国語」というのは、本質的に「道徳」であると喝破し、「自由に考えろ」「自由に書け」が実は、全く自由でないことが語られる。また、国語の入試問題に各学校の校風が反映されることを指摘する。俺自身は、多くの問題が皆、小学6年生が読むにはあまりにも長すぎることと、大変な記述問題が当然のように出題されていることに驚いた。

本書の値打ちは、“使用目的”によって大きく変わるだろう。普通の読者にとっては第一章が圧倒的に面白いが、中学受験を控えた子どもの国語力を伸ばしたい、少なくとも成績を伸ばしたいと考える親や先生には第二章を読み込めば大変役立つだろう。

*著者は息子の中学受験を正解だったと考えている。理由は:
①親が関わりにくい高校受験をしなくて済んだ。/②公立学校の「ゆとり教育」のせいで中学受験でも高校受験でも塾や予備校に行かざるを得ない。そして、前者の方が①の理由で良い。/③中高完全一貫制が増え続けて、選べる高校受験が極めて困難になっている。/④公立中学の内申書の問題。これは最悪の制度である。「ゆとり教育」とか「心の教育」などとお題目を並べても、内申書という制度がある限り、公立の中学校が「心の監獄」から解放されることはない。「心の教育」は心を点数化してはいけない。それは単に心に対するファシズムでしかない。
*塾はいい点数がとれなければ「できない子」にはなるが、「悪い子」にはならない。

目次:はじめに
第一章 僕たちの中学受験:僕たちの学校/受験が始まった/入試問題とはどういうものだろうか/塾と家庭/成城学園改革案/記述問題と自立/小学校の秋/受験生の秋/過去問と志望校/いよいよ入試本番/僕たちの中学
第二章 入試国語を考える:隠されたルール/「国語」の基本型/二元論で考える(内と外&境界)/「言葉」を読む/「自然」に帰ろう/トレンドを解く/「子供」であること/気持ちのレッスン/学校という空間/友情の法則/小学生には淡い恋がお似合いだ/兄弟という不思議な関係/親子は同じ人間になる
あとがき

・今度行われるはずの公立高校の入試改革では、略。これからは、「学校に気に入られること」という「心の牢獄化」が全人類的に求められることになるのだ。404ページ
・そんなふうに学校が何でも抱え込んでしまうと、学校は「人物」を評価するところだという「誤解」が広がってしまうからだ。略。学校空間の外部に生きる個性を殺さないためには、学校は学力だけを判定した方がいい。略。僕は「心の教育」に反対ではない。しかし、それは点数化されるべきではない。405ページ

150429 論じるのも馬鹿馬鹿しいが、内しか見られないKY民主党は「分裂」も要らない解散・消滅してくれ!

2015年04月29日 09時46分18秒 | 国家の信頼メルトダウン。民主党を打倒せよ
4月29日(水):

4月15日の記事で、
学生からは「野党第1党の民主党が安倍政権に代わる選択肢となっていない。党の展望についてうかがいたい」と逆に問われ、岡田氏は「魔法みたいに急に、民主党に対する信頼が回復することはない」と語った後、「少しずつ、失われた信頼を取り戻していくしかない」と述べた。
というのを読んで、「この男(岡田党首)は何を言ってるんだろう? 「何故信頼を失っているのか」原因を全く語っていない。原因を(わかってるくせに)明かさずに、少しずつ信頼を取り戻すもくそもないだろう。数だけを頼みにして、全く考え方の違う連中が野合していることが、<第二自民党>としか見られず、信頼を得られない、国民の選択肢たりえないのであり、ここは勇断をもって自民党と対峙する護憲・中道リベラルに舵を切るしかないのは明らかだろう」とあきれたが、馬鹿馬鹿しくてコメントはしなかった。

しかし、今朝の朝刊で、
集団的自衛権について、民主党は、安倍晋三首相のもとでの行使を禁じる方針を打ち出す一方、将来の行使をの余地を残すことで両派のバランスをとった。
のだそうだ。あきれて開いた口がふさがらない。誰のバランスをとるのが一番大事なんだ?! 岡田という男は、網膜はく離手術で忙しいとは言え、党首としての存在感がないにもほどがある。小沢一郎という大切な大黒柱を追い出す時の元気と空威張りは何処にいった。外見だけいかつくても中身が全く無いのだから、もう辞めてくれ。

 まず「安部晋三首相のもとで」と個人によって、国の行方を左右する重要政策に対する姿勢が変わるのは根本的にありえない。破綻している。ふざけ過ぎている。真面目さの欠片もない。有権者を愚弄するものだろう。安倍はいやだけど、他の少し耳を傾けてくれる奴が出てきたら憲法九条を破壊する集団的自衛権を一緒に認めてやってもいいよ。って馬鹿じゃないのか。 

 これはまともな政党が出す議論ではない。ガキか!松下政経塾の前原詐欺師や長島戦争屋の顔を立てなければいけないからこうなったのか? 「それなら割れろよ!」こんなに重要な根本政策をめぐって両方の顔を立てて、「ちょっと緩めの集団的自衛権容認でまとまりました」っていったい誰の顔色を見てるんだ。しっかりと向き合うべきは有権者だろう。

 「ちょっとゆるめの集団的自衛権、緩めの憲法九条破壊、緩めの原発再稼働、緩めのTPP容認。しかも消費増税では確固たる共犯者」である民主党が「これで党がまとまりました。めでたしです。参議院選挙はヨロピクネ!」って、どう考えても頭おかしいだろう。

 民主党は、消えてしまえ! 今の民主党が、ではない。もうこの政党の連中は数にだけしがみついてるだけで「なれ合いの積み木遊びしかできない」野合集団の烏合の衆でしかない。党改革も何も要らないから<民主党そのもの>が解散して消えてくれればいい。もうそれしかない。戦争の好きな右派は、自民党か、維新に拾ってもらえ。もとい、同じ考えの自民党や維新と組めばいい。

 少しでも民意に沿った選択肢を有権者に保障しようと思う者は、小沢・山本の生活、社民、古賀茂明の第四象限勢力と手を結ぶことだ。一旦自分自身を放下する覚悟を決めて必死で国民の生活を守る声を挙げれば、少なくともじり貧の犬死にだけはしないですむ。志ある方に向かいつつ天命に任せて闘うことだ。有権者は見ているぞ。

150428 沖縄の声&琉球新報【社説】:4月28日は沖縄県民の「屈辱の日」。この日、オバマに会う安倍の無神経

2015年04月28日 22時33分55秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
4月28日(火):

朝日新聞4月28日「声」欄: 沖縄のこと誤解してないか  無職 渡久地政弘(沖縄県 76)
 沖縄の基地問題について、次のような誤解はないか。
 ①沖縄は基地がなければ経済的に立ち行かない。
 この認識は間違いだ。県民総所得に占める基地収入は5%ほど。むしろ、基地返還後に経済が発展している。たとえば、沖縄県の調査によると那覇新都心地区の直接経済効果は、返還前の32倍。基地は経済発展の阻害要因だ。
 ②沖縄は基地があるため、政府から他の都道府県より多くのお金をもらっている。
 これも事実に反する。国庫支出金と地方交付税の合計額は全国17位、人口1人当たりでも全国6位(2012年度、東北の被災3県を除く)だ。突出して高いわけではない。
 私は、沖縄の全基地の撤去を求めてはいない。米軍基地が、日本国民全体の安全を保障しているのなら、全国で平等に引き受けるべきだと主張しているのだ。
 せめて普天間飛行場だけでも本土に移せないか。基地負担は73.8%から72.3%に微減するだけだが、この問題を国民全体で考え、「沖縄を基地の島にはしない」という希望を沖縄の若者たちに与えてほしい。

琉球新報【社説】「屈辱の日」63年 沖縄を政治的道具にするな  2015年4月27日
 あす4月28日は対日講和条約が発効した日。敗戦国の日本本土は主権を回復し、連合国による占領状態から独立を果たした。一方でこの日を境に沖縄、奄美を含む南西諸島が日本から切り離され、米施政権下に置かれ異民族支配が始まった。その後に繰り返された住民に対する弾圧、人権蹂躙(じゅうりん)、基地被害の源流となるこの日を沖縄では「屈辱の日」と呼んできた。
 ことしは条約発効63年で、沖縄の施政権が日本に移って43年を迎える。名護市辺野古では現在、沖縄の大多数の反対の声を無視したまま、米軍普天間飛行場移設の新基地建設が進む。多くの県民は今も沖縄の主権は切り離されたままだと思っている。
 政府は2013年、この日に「主権回復」を祝う式典を開催した。沖縄から猛反発を受け、その後は開催されていない。式典を挙行すること自体、安倍晋三内閣が沖縄の苦難の歴史を念頭に置いていないことを如実に示した。
 米軍は条約発効翌年の1953年4月、土地収用令を発令し、住民が暮らす土地を次々と強制的に接収し、銃剣とブルドーザーで家屋を破壊し住民を追い出して基地建設を進めた。
 辺野古移設作業では、翁長雄志知事が岩礁破砕許可の区域外でサンゴ礁の破壊が確認されたとして海底作業の停止指示を出した。しかし沖縄防衛局はすぐに知事の指示に対する不服審査請求と執行停止申立書を提出し、農水省が知事の指示の効力停止を決めた。
 このため現場の作業は継続されている。沖縄の民意を踏みにじったまま工事を強行している姿は米統治下の「銃剣とブルドーザー」と何が違うというのか。
 翁長知事は安倍首相との会談で辺野古移設について「自ら土地を奪っておきながら、老朽化したから、世界一危険だから、沖縄が負担しろ。嫌なら代替案を出せと言われる。こんな理不尽なことはないと思う」と主張した。沖縄が置かれている不条理な現状を言い当てた正論だ。
 安倍首相は日米首脳会談に関して「沖縄の基地負担軽減を進めると確認したい」と述べた。本気で負担軽減をするのなら、辺野古移設を断念するほかない。それをせずして「負担軽減」を叫んでも、沖縄を政治的な取引材料の道具にしたままの虚言にしか聞こえない。これ以上、沖縄が屈辱を味わう状態に置かれるのは我慢できない。

琉球新報【社説】日米首脳会談 正義への責任果たせ 辺野古中止で民意尊重を  2015年4月28日
 安倍晋三首相とオバマ米大統領が28日会談する。辺野古新基地の今後も話し合う見込みだ。
 現在、日米両政府が沖縄で進めていることは巨大な不正義、不公正、民主主義の否定である。
 両国が国際社会で発信すべきことは何か。言うまでもなく自由と平和と人権の擁護、民主主義の持つ普遍的価値であろう。
 それら全てを否定する野蛮な行為を両国は沖縄で進めている。沖縄の民意を尊重するのが民主国家の取るべき道だ。両首脳は新基地の強引な建設を中止し、正義への責任を果たしてもらいたい。

岩国から移転
 忘れてはならないのは、普天間飛行場を含め沖縄の米軍基地に沖縄側が自ら提供したものは一つもないという事実である。基地の接収は第2次世界大戦中の沖縄戦直後もあれば1950年代もある。それら全てが住民の意思に反して強引に、暴力的に奪取された。すなわちハーグ陸戦条約(戦時国際法)46条が禁ずる「占領下の私有財産没収」である。
 今は21世紀だ。だが米国はその国際法違反の状態を大戦から70年たった今も続けている。普天間飛行場は危険だから返還してほしいと求められたら、同じ沖縄の辺野古に新基地を造らなければ返さないというのである。これが巨大な不正義でなくて何であろうか。
 50年代に本土で米軍基地反対運動が起きると、本土の米軍基地は沖縄へ移転された。沖縄は米軍の強権的な占領統治下にあり、住民は抵抗の意思表示すら許されなかった。その時に移転してきたのが海兵隊である。それ以前、沖縄に海兵隊は駐留していなかった。沖縄の海兵隊は沖縄の人権を踏みにじる形で出発しているのだ。
 沖縄への不公正な扱いは日本政府も同様である。普天間基地をめぐり政府は「辺野古移転が唯一の方策」と強調する。県外移設は不可能という意味だ。だが普天間をホームベースとする第1海兵航空団は本土復帰後の76年に安倍首相の地元山口県の岩国基地から普天間へ移転してきた。本土から沖縄へは簡単に移転させるのに、逆は不可能というのである。
 政府は、16年前に沖縄も辺野古移転に合意したと言うが、それは「15年間だけ代替基地の存在を認める」というものだ。恒久的な基地に同意したことは一度もない。
 大統領も沖縄への民主主義適用を支持すべきだ。辺野古移転案が浮上して以降、沖縄の世論調査で反対は常に半数を大幅に超える。当事者の市長も市議会も、知事も県議会も反対派が勝利した。米国内の州で同じことが起きたら新基地建設などできないはずだ。

普遍的価値の体現
 戦後70年、沖縄は苦痛に耐えてきた。自己決定権の喪失、性暴力、人権抑圧、爆音、環境汚染など広範囲にわたる。米軍機の墜落は復帰後の43年で45回に及ぶ。部品落下や着陸失敗なども含めると事故は約600件もある。同じ沖縄に部隊を置き、飛行場を移すのは、この状態を今後も続けるということだ。これが何の解決にもならないのは誰の目にも明らかだ。
 今こそ正義を取り戻す時だ。辺野古新基地反対運動はガンジーにも似た非暴力に徹している。18年以上も続く抵抗は、マンデラ元大統領にも比すべき忍耐強さだ。人権と自由の尊重、民主主義という普遍的価値を体現しているのは、日米両政府よりむしろ沖縄の方であろう。両首脳はその事実を直視すべきだ。
 米軍駐留は表向きは日本防衛のためだが、日本のせいで戦争に巻き込まれていいとは思っているまい。まして尖閣という東シナ海の無人島のために中国と戦争するなどあり得ない。海兵隊駐留は一義的には在外米国人救出のためだ。
 そして武器弾薬・軍需物資を在外米軍で消費し、軍産複合体を潤すのが真の目的のはずだ。そんな既得権益のために巨大な不正義を放置していいのか。両首脳に問われるのはそのことだ。

150428 (記録)東京&朝日【社説】:防衛指針と安保法制 「専守」骨抜きの危うさ/平和国家の変質を危ぶむ

2015年04月28日 22時27分16秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
4月28日(火):

東京新聞【社説】防衛指針と安保法制 「専守」骨抜きの危うさ 2015年4月28日
 日米防衛協力指針の再改定と安全保障法制の整備により、自衛隊が海外で武力の行使をする恐れが高まる。戦後日本の「専守防衛」政策は根本から覆る。
 ニューヨークでの日米外務・防衛担当閣僚による安全保障協議委員会(2プラス2)。主要議題は自衛隊と米軍の役割分担を定めた「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」の再改定である。
 指針は一九七八年、日本への武力攻撃に備えて初めて策定され、九七年には朝鮮半島など日本周辺での緊急事態「周辺事態」を想定した内容に改められた。今回の再改定は十八年ぶりの見直しだ。

◆地球規模に活動拡大
 指針は国会での承認が必要な条約とは違い、立法、予算上の措置を義務付けてはいない。しかし、それは建前にすぎない。過去の例では、九七年指針に基づく周辺事態法など、指針に沿って新しい法律がつくられているのが実態だ。
 米国との約束に基づき、日本政府が法整備を進める構図である。
 今回は、指針再改定の日米協議と並行して、安保関連法案づくりが進められた。与党協議もきのう実質合意に達した。五月十四日にも関連法案を閣議決定し、国会提出するという。指針再改定と安保法制整備は、安倍晋三首相の就任に伴って始まった、日本の防衛政策を根本から見直すための「車の両輪」だ。
 背景には中国の軍事的台頭とともに、安倍首相が掲げる「積極的平和主義」の下、自衛隊の軍事的役割を大幅に拡大し、活動地域も地球規模に広げる狙いがある。
 再改定された新指針には、日米両国の活動・行動がおのおのの憲法、法令などに従って行われることに加え、「日本の行動及び活動は、専守防衛、非核三原則等の日本の基本的な方針に従って行われる」ことも明記されている。

◆海外で武力行使に道
 専守防衛とは、政府答弁によると「もっぱらわが国土及びその周辺において防衛を行う」「相手から武力攻撃を受けたときに初めて防衛力を行使」することだ。
 海外での武力の行使を放棄した平和憲法に則した抑制的な安全保障政策でもあり、日本国民だけで三百十万人の犠牲を出した先の大戦の深い反省に立脚している
 しかし、新指針には専守防衛を逸脱する内容が含まれている。
 例えば、新たに項目を立てて明記された「日本以外の国に対する武力攻撃への対処行動」である。
 米国や第三国が武力攻撃された場合、日本が直接攻撃されていなくても、日本の存立が脅かされ、国民の生命や権利などが根底から覆される明白な危険がある場合、自衛隊と米軍が共同対処することを定めている。日本にとって「集団的自衛権の行使」である。
 協力して行う作戦例に挙げられているのは、自衛隊による米軍武器の防護や機雷掃海、敵を支援する船舶の阻止、後方支援などだ。
 首相は「受動的、限定的」な活動と説明してきたが、そのような作戦に踏み込めば、自衛隊も攻撃対象となり、応戦を余儀なくされる可能性は排除できない。敵側を殺傷したり、自衛隊側に犠牲者が出ることも覚悟せねばなるまい。
 政府・与党はそうした危険性をどこまで認識しているのか。憲法九条の下で許され、専守防衛にも合致する活動と言い張るのか。
 新指針にも明記された他国軍への後方支援にも懸念がある。「重要影響事態法案」と「国際平和支援法案」だ。
 周辺事態法を改正する重要影響事態法案は現行法から地理的制限を撤廃し、米軍以外も支援対象とする。武器・弾薬補給も可能だ。
 政府が日本の平和と安全に重要な影響を与える「重要影響事態」と認定すれば、自衛隊の活動範囲は地球規模に拡大する。平和憲法からも、極東を対象とした日米安全保障条約からも逸脱する。
 国際平和支援法案は、これまで特別措置法で対応していた「国際社会の平和と安全」の確保のために活動する他国軍への後方支援を随時可能にする一般法だ。
 国連決議などを必要とし、例外なき国会の事前承認が前提だ。戦闘現場では実施しないとの制限も付くが、戦闘現場は戦況によって刻々と変わる。専守防衛にそぐわない、犠牲覚悟の危険な任務だ。

◆戦後否定、認められぬ
 安保関連法案の内容は膨大、複雑、多岐にわたる。にもかかわらず、政府は新法は別として、現行法の改正案十本を一つの法案にして一括提出するという。高村正彦自民党副総裁は八月上旬までに、という成立期限まで明言した。あまりにも乱暴な進め方だ。
 海外で武力の行使をしないという、戦後日本の生き方を否定する安保政策の変更であり、慎重な検討が必要だ。安易に認めるわけにはいかない。重大な局面を迎えていることを自覚したい。


朝日デジタル【社説】日米防衛指針の改定―平和国家の変質を危ぶむ  2015年4月28日(火)付

 実に18年ぶりの「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)改定である。
 日米両政府が今後の安全保障政策の方向性を確認する新指針には、「切れ目のない」「グローバルな」協力がうたわれ、自衛隊と米軍の「一体化」が一段と進む。憲法の制約や日米安保条約の枠組みは、どこかに置き忘れてきたかのようだ。
 これまでのガイドラインは、1978年に旧ソ連の日本侵攻を想定し、97年には周辺事態を想定して改定された。今回はさらに、次元の異なる協力に踏み込むことになる。
 改定の根底にあるのは、安倍政権が憲法解釈の変更によって集団的自衛権の行使容認に踏み切った、昨年7月の閣議決定だ。それを受けた安保法制が今国会の焦点となる。
 その審議を前に、新指針には早々と集団的自衛権の行使が反映されている。自民党と公明党との間で見解の割れる機雷掃海も盛り込まれる。
 対米公約を先行させ、国内の論議をないがしろにする政府の姿勢は容認しがたい。

■戦後日本の転換点に
 「積極的平和主義」のもと、国際社会での日本の軍事的な役割は拡大され、海外の紛争から一定の距離を置いてきた平和主義は大幅な変更を迫られる。
 それはやがて日本社会や政治のあり方に影響を与えることになろう。戦後日本の歩みを踏み外すような針路転換である。
 その背景には、大国化する中国に対する日本政府の危機感がある。
 ――軍事的に日本より中国は強くなるかもしれない。それでも、中国より日米が強ければ東アジアの安定は保たれる。緊密な日米同盟が抑止力となり、地域の勢力均衡につながる。
 そんな考えに基づき、より緊密な連携機能を構築して、共同計画を策定。情報収集や警戒監視、重要影響事態、存立危機事態、宇宙やサイバー空間の協力など、日本ができるメニューを出し尽くした感がある。
 だがそれが、果たして唯一の「解」だろうか。
 中国の海洋進出に対して一定の抑止力は必要だろう。だがそれは、いま日本が取り組むべき大きな課題の一部でしかない。経済、外交的な手段も合わせ、中国という存在に全力で関与しなければ、将来にわたって日本の安定は保てない。
 軍事的な側面にばかり目を奪われていては、地域の平和と安定は守れまい。

■あまりにも重い負荷
 新指針が示しているのはどのような日本の未来なのか。
 まず多額の防衛予算を伴うはずだ。5兆円に近づく防衛費は自衛隊が海外での活動を広げれば、さらにふくらむ可能性が大きい。財政健全化や社会保障費の削減を進めながら、防衛費の大幅な拡大に国民の理解が得られるとは考えにくい。
 自衛隊員への負荷はいっそう重いものとなる。
 特に、戦闘現場に近づく活動が見込まれる陸上自衛隊には、過酷な任務が待ち構えている。海外で治安維持の任務にあたれば、銃を撃ったり、撃たれたりする危険がつきまとう。とっさの判断で現地の人を撃つ場面がないとは言い切れない。
 国際社会で日本の軍事的な関与が強まれば、それだけテロの危険も高まるだろう。
 近年は、警備の手薄な「ソフトターゲット」が攻撃される例が目立つ。外交官やNGO関係者ら日本人対象のテロを、より切実な問題として国内外で想定しなければならない。
 将来的には、過激派組織「イスラム国」(IS)との戦いで自衛隊が米軍の後方支援に派遣される可能性もゼロとは言えない。南シナ海では、すでに米軍が警戒監視などの肩代わりを自衛隊に求め始めている。

■問われる方向感
 メニューを並べるだけ並べながら日本が何もしなければ、かえって同盟は揺らぐ。米国から強い要請を受けたとき、主体的な判断ができるのだろうか。
 安倍政権の発足から2年半。日本の安保政策の転換が急ピッチで進められてきた。
 安全保障政策の司令塔となる国家安全保障会議(NSC)を創設し、国家安全保障戦略(NSS)を初めて策定。特定秘密保護法が施行され、武器輸出三原則も撤廃された。
 新指針では、「政府一体となっての同盟としての取り組み」が強調されている。政府が特定秘密保護法の整備を進めてきたのも、大きな理由の一つは、政府全体で秘密を共有し、対米協力を進めるためだった。
 安倍政権による一連の安保政策の見直しは、この新指針に収斂(しゅうれん)されたと言っていい。
 だが、国内の合意もないまま米国に手形を切り、一足飛びに安保政策の転換をはかるのは、あまりにも強引すぎる。
 戦後70年の節目の年に、あらためて日本の方向感を問い直さなければならない。

150426 一年前:3 094 和田竜「村上海賊の娘 上巻」(新潮社;2013) 感想4

2015年04月27日 02時54分55秒 | 一年前
3 094 和田竜「村上海賊の娘 上巻」(新潮社;2013) 感想4

4月26日(土):474ページ  所要時間 3:05     図書館著者44歳(1969生まれ)。今年度の本屋大賞の本である。本屋でもよく平積みされている。昨日偶然、図...


4 070 大島健二「家づくり解剖図鑑」(X-Knowledge:2014) 感想3

2015年04月27日 02時06分47秒 | 一日一冊読書開始
4月26日(日): 副題「イラストだからわかる快適な暮らしの仕組み」

171ページ  所要時間 2:30(入浴しながらマッタリ)  図書館

著者49歳(1965生まれ)。一級建築士。

1995年に独立して20年間の経験を、分類・整理し、家づくりに関心を持つ万人に見やすいイラスト・アイデア集として書かれている。イラスト図巻のような体裁で、文字数は極端に少ない。俺自身、風呂で入浴しながら付箋をして眺め読みをしてたら予期せずに最後のページまで行ってしまった感じである。

感想は、著者自身が、自分の20年間の実際の経験をもとに本書を編んだ、と言っている通りの内容であり、「個人の経験では絶対数が足りない。細かに設けられたテーマにも、とても良いのもあるが、一方で家づくりを目指す人間からすればピントはずれな腑に落ちない話が多かった。

価値が無いとは言わないが、もう少し読者を絞り、「すべてが実例」を強調するのではなく、自分が関わった以外の多くの事例を取り上げて、それらを論評するところにこそ20年間の経験を発揮して欲しかった。本書の場合、せっかく良い話もあるのに、全体としては何か目先を変えたイラスト図巻で売ろうとする、「売らんかな」の心が全面に出てしまい、惜しい感じがするのだ。

■目次
1章:快適な暮らしの仕組み:LDKはゆるやかにつなげたい/テレビの居住まいを考える/住まいの一部であるキッチン/半島型キッチンは万能選手/キッチンを自分仕様にアレンジ/LDKを通る子供部屋/屋根裏で想像力を育む子供部屋/住まいを丸ごと遊園地に/EV用吹抜け 今だけは競技の場/ほか
2章:家全体で考える:敷地と方位のズレを楽しむ/2階LDK お陽さまにカンパイ/1階LDK 地面に住まう贅沢/玄関で分ける2つの庭/快適+お得 地下の部屋/階段は間取りを左右する/窓は何のためにあるのか/もっと光を 家の奥まで明るく/心もつなぐ吹抜けがほしい/共有か分離か 二世帯住宅/家の広さは断面でつくり出す
3章:家の顔のつくり方:ヴォリュームでつくるモダンな家/屋根でつくる和風な家/格子でつくる和風モダン/外装材の特性を生かす/少し引いて奥ゆかしい和の玄関/バルコニー 考慮したいメンテナンス/ガレージも通風採光が欲しい
4章:片付く家のヒミツ:下駄箱と呼ばないで 玄関収納/重要なのは食品庫のみえる化だ/クローゼットにも通風採光を/壁面収納 大容量をスマートに/サニタリー収納は1枚の引戸/小上がりについてくる引出し収納/本棚は阿弥陀くじのごとく
5章:細部のこだわり方:上がり框がつくる住まいの顔/引戸は開いた時に真価を発揮/大きな窓は障子が似合う/奥行きある格調高い床の間/身近な浅くて広い床の間/あえて仕上げない天井の魅力/新築でも古材が醸す経年の美/ベンチはだらだらと過ごす装置/人も住居も輝かせる鏡の魅力/半歩進んだ賢く楽しい手摺/ほか

150425 一年前:140424 昨日23日、NHK大河「太平記(6)」(1991)見終わり、コンプリート!

2015年04月26日 01時02分33秒 | 一年前
140424 昨日23日、NHK大河「太平記(6)」(1991)見終わり、コンプリート!
4月24日(木):     この本は蔵書である。えへん!記さないと忘れるので、書きおく。4月2日(水)に図書館でNHK大河「太平記」DVDを発見し、5巻と7巻を借りて(C...


4 069 司馬遼太郎「翔ぶが如く (一)」(文春文庫:1972~76) 感想5

2015年04月26日 00時14分16秒 | 一日一冊読書開始
4月25日(土):

概要(ウィキペディア):1972年(昭和47年)1月から1976年(昭和51年)9月にかけ、「毎日新聞」朝刊に連載された。
薩摩藩士として明治維新の立役者となった西郷隆盛大久保利通。この二人の友情と対立を軸に征韓論・ 明治6年政変などを経て、各地で起こった不平士族の反乱、やがて西南戦争へと向ってゆく経緯と戦争の進行を、著者独特の鳥瞰的手法で描いた。「坂の上の雲」と並び、司馬作品中で最も長い長編小説で、登場人物も西郷・大久保以外に極めて多岐にわたる。中でも薩摩郷士の代表として大警視となった川路利良と、幕末期は西郷の用心棒として、維新後は近衛陸軍少将として薩摩城下士のリーダー的存在となった桐野利秋の二人が重要な位置を占めている。
初版単行本は、1975年(昭和50年)から翌年にかけ、文藝春秋全7巻が刊行。1980年(昭和55年)に文春文庫全10巻(新装改版2002年(平成14年)、解説平川祐弘)が出版された。
1990年(平成2年)のNHK大河ドラマ『翔ぶが如く』の原作となった(なお前半部は幕末期で、『竜馬がゆく』他の司馬作品が原作となっている)。ドラマ化に併せ『「翔ぶが如く」と西郷隆盛 目でみる日本史』(ビジュアル版文春文庫、1989年11月)が出版された。


323ページ   所要時間 3:55   蔵書

著者49~53歳(1923-1996)。

本書第一巻を読むのは、最低でも4回目である。近くでは2008年に読んでいる。ただ文庫本全十巻を通読できたことは未だない。第四巻までは読んだ記憶があるが、残る6巻は未読のままである。『坂の上の雲 全八巻』は最低でも二度通読しているが、『翔ぶが如く 全十巻』は、俺にとって未踏峰のままである。

大河ドラマ『翔ぶが如く』(1990年:第一部幕末編29話&第二部明治編19話)は観ているし、総集編は数え切れないほど繰り返し観ているので、「晋どん、ここらでもうよか」など内容は全部覚えている。本書は第二部明治編の原作になっていて、第一部幕末編は他の司馬作品をもとにした脚本家の創作である。西田敏行の西郷と鹿賀丈史の大久保は、これ以外考えられない程のはまり役である。また、加山雄三の島津斉彬がとにかく良い。俺の中の歴代大河ドラマ・ベスト5に入るすばらしい作品である。

本書を読む際、これまで途中で挫折してきた最大の原因は、全盛期の司馬遼太郎の長編作品の膨大な情報量と瑣末ですらあるその寄り道的な話の豊富さに真面目に付き合い、身になる情報として覚えておきたいなどとやたらがっぷり四つに組み合って圧倒され遅読となり、力負けして挫折するというパターンを繰り返してきたのだ。

今回はあまり体調はよくないが、付箋など抑制的にして、1ページ30秒のペースを墨守して読み通すことを最優先の課題とした。全巻いけるかは自信が無いが、とりあえず始めの一歩はできた。本書の内容については、素晴らしいの一語に尽きる。見も蓋もある歴史絵巻としか言いようがない。

島津斉彬の京都出兵計画は、薩長同盟、京都政権樹立、鳥羽・伏見の戦いと同じであった。

・完全に敗勢の西南戦争に際して:増田は落涙し、/「君たちは隊員であったから、西郷という人を知らない。自分はたまたま隊長役をひきうけたために、この一軍の軍議にも出た。西郷という人にも接することができた。あの人に接してしまえばもはやどうにもならない」/と言い、以下、増田は中津に永く語り伝えられたところの有名な言葉をのべた。/「かの人はまことに妙である。一日かの人に接すれば一日の愛生ず。三日かの人に接すれば三日の愛生ず。しかれども予は接するの日をかさね、もはや去るべくもあらず。いまは善悪を越えて、この上はかの人と死生を共にするほかない」/増田宋太郎というこの若者は、西郷の弁舌に打たれたわけでもなく、西郷の文章を多く読んだわけでもなかった。かれはじかに接しただけのことであり、それでもって骨髄まで染まるほどに西郷の全体を感じてしまったのである。 288~289ページ
 (俺自身、若い時、「もし西郷さんに自分の名を読んでもらったとしてら、この人のために死ねるだろう。」と考えていた時期が長くあった。今はどうか…、でも今であっても直接に西郷さんに接すればこの人と一緒に死ねるだろうと思う。そんな存在に出会えたことを喜びつつ。)

150425 内田樹師匠:New York Times の記事から。安倍訪米を前に

2015年04月25日 22時06分59秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
4月25日(土):

【内田樹の研究室】New York Times の記事から。安倍訪米を前に 2015.04.21

4月20日付け、New York Times の社説「安倍晋三と日本の歴史」を翻訳した。
訪米と上下院での演説を前にして、NYTは安倍首相に「彼の右翼的同盟者たちとの絶縁」を迫っている。一国の首相に、国益のために彼の政治的支持者たちを見捨てることを要求するというのはかなり踏み込んだ要求である。
官邸がこれを読んでどういう演説草稿を作文をしてくるか、NYTはそれを吟味するつもりなのだろう。
気に掛るのは、二度にわたって「曖昧な形容詞」「わかりにくい表現」を咎めていることである。そこに彼らの苛立ちを感じる。国内メディアなら、何を言っているのかわからない「玉虫色」の答弁はそのままスルーされるだろうが、NYTは首相が「何を言っているのかわからない」のは「ほんとうのことを言うとはげしい批判を引き起こすこと」を内心で思っているからだという推論をしている。
この推論に私も同意する。

安倍首相が「何を言っているのかわけがわからないこと」を国会で言っても日本では誰も咎めない。同じ手口がアメリカ議会で通じるかどうか。官邸はいま秘策を練っている最中だろう。

記事はここから↓
 日本の安倍晋三首相の来週の訪米はいくつかのレベルで重要である。彼は上下院で演説する最初の日本の首相となる。
  彼とオバマ大統領は共同防衛行動の促進という最重要課題について進展があったことをアナウンスするとみられている。可能であれば、第二の論点、貿易問題についても言及するかもしれないし、おそらく第三の難題であるアジアにおける中国の影響力増大についても議論すると予測されている。
 どういう文脈での訪米であるかも重要である。
  今年は日本が第二次世界大戦に負けて70年目に当たる。ある意味で、この訪米は戦後日本のめざましい再生と、アジアにおける安定の基盤となったかつての敵国との堅固な同盟関係を奉祝することを意図している。
  しかし、訪米の成否は日本の戦時の歴史について、すなわち戦争遂行の意志決定、中国朝鮮半島の暴力的な支配、さまざまな暴虐、何千人もの女性を奴隷化し性奴隷あるいは「慰安婦」として戦時売春宿で強制労働させていた事実などに安倍氏がどの程度誠実に直面するかにかかっている。
  これらの問題はとうに決着を見ているはずであった。歴史問題が決着を見ていないのは主として安倍氏と彼の右翼の政治的同盟者たちが歴史に疑念を呈すばかりか、それを書き換えようと企て、アジア地域の緊張を高めているという失策がもたらしたものである。
  安倍氏はこれらの論点について降伏の日である8月15日に多くのことを語るであろう。しかし、彼の議会での発言は重要なシグナルを発信することになる。
  安倍氏のナショナリスト的見解と競合する政治勢力からのプレッシャーはこれらのデリケートな問題についての彼の判断に影響を及ぼしてきた。彼は公的には戦争について遺憾の意を表し、性奴隷制を含む侵略の過去についての謝罪を履行すると述べている。しかし、コメントに曖昧な形容詞を付け加えることで、彼は謝罪を真剣に引き受ける気がなく、むしろそれを洗い流そうとしているのではないかという疑惑をかきたてている。
  彼の政府は歴史を改竄しようとする企てによってこれまでも繰り返し問題を起こしてきた。
今月、韓国と中国は、日本の文科省が中学の教科書出版社に対して、領土係争中の島々と戦争犯罪を含む歴史的事実の記述を、より曖昧な政府の公式見解に合致させるよう書き換えを命じたことを批判した。去年は、安倍政府は日本が性奴隷化した女性たちについての1996年の人権レポートの書き換えを国連に求めて失敗している。
  日本の右派は彼らの国が戦後アメリカとその同盟国によって不当に中傷されてきたと信じている。日本はすでにその軍国主義的行動と蛮行について十分な償いを済ませていると信じているという印象を安倍氏は与えてきた。そんなことよりもアジアにおけるアメリカの対中国政策を支援し、グローバルな責任を果すことのできる21世紀のリーダーとして彼の国を基礎づけることを優先させようとしている。
  しかし、日本がその過去についての批判を退けようとする限り、今以上の大きな役割を引き受けることができるようには思われない。明仁天皇と彼の家族たちは首相よりずっとよい範例を示している。最近の談話の中で、あきらかに安倍氏を批判する意図で、皇太子は未来の世代に「正しく歴史を伝える」ことの必要性について言及した。
  安倍氏とオバマ氏が拡大された日米の防衛協力の新ガイドラインについて最終合意に達し、TPPについての実質的な進展があれば、ワシントンでの日米会談は実りあるものになる可能性がある。成否はひとえに安倍氏が彼の右翼的支持者たちを振り切って、アジアの安定を脅かすのではなく、アジアの安定を強化できるようなトーンで語ることができるかにかかっている。日時: 2015年04月21日 16:22 | パーマリンク

150425 安倍様の産経新聞、アメリカ様の前に何も言い返せず、言われ放題。嘘言は真実に勝てず。 

2015年04月25日 11時16分02秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
4月25日(土):

 国内では無責任な言いたい放題、傍若無人、安倍様の産経新聞も、アメリカ様の前では何も言い返せず言われ放題の借りてきた猫状態。言い返そうにも、日本国内では嘘言を弄しているだけなので国際社会で事実を突きつけられれば何も言い返すことができないのは当たり前。これが安倍様のメディアの正体。俺がいつも歴史修正主義者のバカ連中に対して思っているのは「おまえが今言ってることをヨーロッパやアメリカ、中国、韓国で同じことを堂々と言えるのか?!」ということだ。「言えるならば、少しは認めてもいい」と思えるが、外国特派員協会の会見からも逃げまわって、所詮狭い日本の中だけで安全な立場に身を置いて、アカデミックでなく、ただ情緒的に権力に擦り寄る目的で吐かれる言葉を到底信用できないし、「恥知らず!」としか思えないのだ。

日本非難決議主導のホンダ氏に聞く 私が否定的なのは首相の政治姿勢 産経新聞 4月25日(土)7時55分配信

【ワシントン=加納宏幸】2007年の慰安婦問題での日本非難決議を主導したマイク・ホンダ米下院議員が22日、産経新聞のインタビューに応じ、安倍晋三首相に慰安婦への謝罪を求めた。ホンダ氏らは21日夜、連邦議会の本会議場で特別演説を行い、韓国人の元慰安婦、李容洙氏らが傍聴する中、同様の要求を行った。

 --日本に対して否定的な感情を持っているのか
 「私が否定的なのは安倍首相の政治姿勢に対してだ」
 「私たちは米国流のやり方、民主主義社会を信じる。そして自ら(の歴史)について教え、学んでゆく。安倍氏は日本の人々にそれを教えようとしない。日本では子供たちにアジアで何が起こったかを教えていない」

 --教えている
 「いや、教えていない。アジアで日本軍が何をしたのか教えているのか」

 --そうだ。南京事件についても教えられている
 「日本人は何人が殺されたと思っているのか。10万人、あるいは20万人以上だろうか。日本軍によって女性、子供、乳児まで多くの人々が殺された。慰安婦について教えているのか。彼女たちは拉致された。強制的にだ

 --軍が強制連行したという証拠はない
 「だが、慰安所を設置したという軍の記録はある

 --(慰安婦問題をめぐる)河野洋平官房長官談話、(日本の植民地支配と侵略に関する)村山富市首相談話は謝罪ではないか
 「しかし、安倍氏は何度も言い方を変えている。そのような人をどうすれば信じられるというのか

 --首相は村山談話を支持すべきか
 「彼は歴史に対する責任を受け入れるべきだ。教科書の記述を変えず、子供たちに教えるべきだ。なぜ米国の教科書を変えるためにお金を使うのか」

 --教科書の記述に根拠がないからだ。29日の上下両院合同会議での首相の演説に何を期待するか
 「安倍氏は、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)などの良い事柄について話すだろう。だが、彼が民主主義世界の指導者になりたいのなら、責任を受け入れるべきだ」
 「慰安婦問題は人権問題であり、安倍氏が(女性の活用を進める)ウィメノミクスを言うのなら慰安婦問題を認めるべきだ」

 --合同会議で謝罪すべきだと考えるのか
 「そうするのなら良いことだし、私も満足だが、彼はそうしないだろう」

150424 リテラ:村上春樹が原発推進派を徹底論破! 15万人の人生を踏みつける“効率”に何の意味がある?

2015年04月24日 22時06分56秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
4月24日(金):

 最近、安倍の「この道しかない!」という言葉が、「俺と一緒に死んでくれ!」と聞こえるようになってきた。はっきり言っておく。「絶対に嫌です!」「おまえ一人で死ね!」
 川内原発の再稼働を考えると「日本上空には偏西風が吹いていて、川内原発で事故が起これば大量の放射能が日本列島を舐めまわすように拡散していく」という斎藤美奈子のコラム記事が思い出される。
【本音のコラム】 原発立地の問題 斎藤美奈子 (東京新聞 2014年4月30日)
 広瀬隆さんの講演録を読んでいて、シンプルかつ重大な事実に今さらながら気がついた。
 日本列島の上空には偏西風が吹いている。九州や四国に上陸した台風の進路予想図を思い出していただきたい。必ず北東方向(地図上の右上方向)に進みますよね。
 原発事故で放出された放射性物質が拡散する経路もこれと同じ。現在、再稼働に向けて最優先で安全審査が進められている川内原発(鹿児島県)は、九州の南西部(地図上の左下)に位置しており、ここで事故が起きたら日本列島をなめるような形で放射性物質が全国に拡散するのは必至。
 四国の西端(地図上の左端)に位置する伊方原発(愛媛県)で事故が起きた場合も、瀬戸内を死の海に変え、やはり被害は全国に及ぶだろう。九州の北西部に立つ玄海原発(佐賀県)や山陰地方の真ん中あたりにある島根原発(島根県)の事故は日本海を直撃する。
 どこに立地していようと原発が危険なことに変わりはないけれど「よりにもよって、なんでこんな場所に建ててんだ!」な思いを強くする。
 福島第一原発から漏れた放射性物質の8割は太平洋に流れたという。それでも避難者は13万人超。13日の伊方町長選でも27日の衆院鹿児島2区補選でも原発の再稼動は焦点にならなかった。西日本の原発立地地域の責任はことのほか重いのに。(文芸評論家)


村上春樹が原発推進派を徹底論破! 15万人の人生を踏みつける“効率”に何の意味がある?
http://lite-ra.com/2015/04/post-1047.html 2015.04.23. リテラ

 村上春樹が原発反対の意志を明確にし、大きな話題を呼んでいる。
 村上は昨年、ネット上で読者の質問に答える期間限定サイト「村上さんのところ」を開設したのだが、そこに寄せられたある質問メールに対する村上の回答が大論争となっているのだ。
 メールの主は38歳の男性。「原発NO!に疑問を持っています」と題して、村上にこのような質問をぶつけた。
 「私自身は原発についてどう自分の中で消化してよいか未だにわかりません。親友を亡くしたり自分自身もけがをしたり他人にさせたりした車社会のほうが、身に迫る危険性でいえばよっぽどあります。(年間コンスタントに事故で5000人近くが亡くなっているわけですし)」
「この先スーパーエネルギーが発見されて、原発よりも超効率がいいけど超危険、なんてエネルギーが出たら、それは止めてせめて原発にしようよなんて議論になりそうな、相対的な問題にしかどうしても思えないのですがどうでしょうか……」
 いやもう聞き飽きた、このセリフ。この質問者の疑問は、福島原発事故以降、百田尚樹、ホリエモン、ビートたけし、池田信夫、町村信孝前衆院議長、ミキハウス社長……原発推進派の人間たちがしょっちゅう持ち出してくる論理、いや、へ理屈の典型だ。「原発事故で死者は出ていない」「交通事故の死者のほうが多いから、原発のリスクは自動車のリスクより小さい」「毎年数千人の死者を出している自動車を廃止せよとは誰も言わないじゃないか」……。
 しかし、この一見もっともらしい“へ理屈”に対して、村上は丁寧に反論している。
 まず交通事故死についても対策が必要と前置きしたうえで、〈しかし福島の原発(核発電所)の事故によって、故郷の地を立ち退かなくてはならなかった人々の数はおおよそ15万人です。桁が違います〉と、原発事故の被害の大きさをあらためて指摘。
 つづけて「死者が出ていないからたいしたことない」という論理に疑問を投げかける。
〈もしあなたのご家族が突然の政府の通達で「明日から家を捨ててよそに移ってください」と言われたらどうしますか? そのことを少し考えてみてください。原発(核発電所)を認めるか認めないかというのは、国家の基幹と人間性の尊厳に関わる包括的な問題なのです。基本的に単発性の交通事故とは少し話が違います。そして福島の悲劇は、核発の再稼働を止めなければ、またどこかで起こりかねない構造的な状況なのです。〉
 原発事故の被害を矮小化することなく、交通事故とは次元がちがう問題であることを原則論として語るだけではない。従来の村上春樹では考えられないことだが、「再稼働を止めなければ」と現実の政策にまで踏み込んで批判しているのだ。
 ネットなどではこの村上発言に対して批判も飛び交っている。そのほとんどは、「死亡者と避難者を比べるのはおかしい」「原発も自動車も絶対に安全とは言えないから、経済的な観点を無視できるはずがない」などというもので、まったく反論になっていない。
 そもそもよく読めば、その回答は村上発言のなかにあらかじめ含まれていることが分かるはずだ。
 〈それだけ(15万人)の数の人々が住んでいた土地から強制退去させられ、見知らぬ地に身を寄せて暮らしています。家族がばらばらになってしまったケースも数多くあります。その心労によって命を落とされている方もたくさんおられます。自死されたかたも多数に及んでいます。〉
 「数」の問題でいえば、15万人もの人が人生の基盤を奪われるという死に匹敵する甚大な被害を受けている。「死者が出ていない」というが、直接の死者がいないに過ぎず、いわゆる「原発関連死」は決して少なくない。……と、いったん原発推進派の議論の土俵に乗り、「数」の問題にも、「死者がいない」論にも明確に反論している。
 そのうえで、本質は「数」の話ではなく、「国家の基幹と人間性の尊厳に関わる包括的な問題」と述べているのだ。「死亡者」の「数」の比較に還元することは、あたかも客観的で冷静な分析を装っているが、その実、被災者・避難者の人生という“質”や、国土が世代を超えて汚染される“時”の議論を隠蔽し、問題を矮小化している。
 この「隠蔽」と「矮小化」が何者によってなされるのか。村上はその犯人をハッキリと指摘する。
 〈「年間の交通事故死者5000人に比べれば、福島の事故なんてたいしたことないじゃないか」というのは政府や電力会社の息のかかった「御用学者」あるいは「御用文化人」の愛用する常套句です。比べるべきではないものを比べる数字のトリックであり、論理のすり替えです。〉
 そう、「政府」であり「電力会社」であり、その息のかかった「御用学者」に「御用文化人」だと。そして、「比べるべきではないものを比べる数字のトリック」「論理のすり替え」と、彼ら原子力ムラが国民をだましてきたやり口を喝破する。
 さらに、原発再稼動肯定派が大義名分とする「効率」という言葉について、こう問いかける。
 〈効率っていったい何でしょう? 15万の人々の人生を踏みつけ、ないがしろにするような効率に、どのような意味があるのでしょうか? それを「相対的な問題」として切り捨ててしまえるものでしょうか? というのが僕の意見です。〉
 実は、村上は以前にも海外で、この「効率」という観点について、反対意見を表明したことがあった。それは2011年6月9日、スペインのカタルーニャ国際賞授賞式で行われたスピーチでのこと。村上は東日本大震災と原発事故に触れてこう言った。
 〈(福島原発の事故は)我々日本人が歴史上体験する、(広島・長崎の原爆投下に次ぐ)二度目の大きな核の被害です。しかし今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。私たち日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、自らの国土を損ない、自らの生活を破壊しているのです。
 どうしてそんなことになったのでしょう?(略)答えは簡単です。「効率」です。efficiencyです。原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を抱き、原子力発電を国の政策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました(略)。
 まず既成事実がつくられました。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくなってもいいんですね。夏場にエアコンが使えなくてもいいんですね」という脅しが向けられます。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。
 そのようにして私たちはここにいます。安全で効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けたような惨状を呈しています。〉
 ここには、春樹文学のひとつの特徴と言われるもったいぶったレトリックや気の効いた比喩は皆無だ。当時、このスピーチは国内でも大きく報道されたが、「政治家らが曖昧な説明しかしないなか公人としての貴重な発言」と評価する者もいた一方、「海外でなく日本国内で言ってほしい」と物足りなさを感じた向きも多かったことは記憶に新しい。
 しかし、もともと、村上春樹といえば、社会や政治などの“巨大なシステム”と距離を置こうとする主人公を作品のなかで描いてきた作家だった。団塊の世代でありながら同世代の作家たちとは一線を画し、学生運動や政治からは一貫して距離をとっていた。デビューから1980年代までの彼の作品は、文芸評論家などから「デタッチメント(かかわろうとしない)」文学とも呼ばれていた。ご存知のとおり、村上が社会的出来事を作品のなかに反映させ始めたのは、1995年阪神淡路大震災、オウム地下鉄サリン事件などが相次いでからである。
 とりわけ、ノーベル文学賞候補と目されるようになった2000年代後半頃から、村上はますます社会的・政治的発言を行うようになっていった。09年エルサレム賞授賞式での「壁と卵」スピーチは有名だが、その他もアメリカやオーストリアのインタビューで積極的に日本社会について語っている。もっとも、それらはみな海外でのことであり、依然として国内メディアでは発言に慎重だったことから、「ノーベル賞へのアピールだろ」などと揶揄されることにもなったのだが。
 しかし、そんな村上がここに来て、日本国内へ向けて大々的に社会的・政治的発言をするようになったのである。これはひとつの変化と捉えてよいだろう。
 前述の特設サイトでの回答だけではない。今月半ばから、共同通信が配信した村上のロングインタビューが毎日、東京、神戸、西日本新聞など、複数の新聞社に掲載された。そこで村上は、国際情勢について、〈「テロリスト国家」を潰すんだと言って、それを力でつぶしたところで、テロリストが拡散するだけです〉と断じ、日本の歴史認識の問題でも明らかに安倍政権を牽制するような発言をしている。
 〈ちゃんと謝ることが大切だと僕は思う。相手国が「すっきりしたわけじゃないけど、それだけ謝ってくれたから、わかりました、もういいでしょう」と言うまで謝るしかないんじゃないかな。謝ることは恥ずかしいことではありません。細かい事実はともかく、他国に侵略したという大筋は事実なんだから。〉
 簡潔ながら、説得力のある言葉である。これらの村上の発言についてさっそく百田尚樹が「そんなこと言うてもノーベル賞はもらわれへんと思うよ」などと、ノーベル賞へのアピールかのように揶揄していたが、そうではないだろう。村上春樹はおそらく本気だ。
 「政治」からも「本気」からも最も遠いところにいた村上春樹が、国内でここまで踏み込んでいるということは、やはりこの国が相当に差し迫った危機に直面していることの証なのではないか。
 いや、ひょっとすると、村上は、かつて自身が描いてきた小説の主人公のような人たちへ向けて、発信し始めたのかもしれない。「原発推進派も反原発派もどっちもどっち」「権力批判も大概にしないとかっこ悪い」という“かかわろうとしない”態度のままで本当にいいのか考えてみてほしい──もしそれが村上の思いであるのならば、是非今後も、様々な局面で発言を続けていってほしい。(酒井まど)

150423 朝日デジタル:今の日本の立ち位置を簡潔に整理してくれる藤原帰一さんの卓説

2015年04月24日 01時29分34秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
4月23日(木):

 朝刊に安倍晋三の宦官去勢豚曽我豪のコラムが出ていたその部分だけ新聞を折って目に入れないようにしてやり過ごしたが、朝からとても気分が悪くなった。何様か知らないが、安倍のポチのコラムなどもう目にするのも穢れであり、完全無視である。朝日新聞は、購読者を選ぶか、権力の犬を選ぶか、冷静になって考えろ。朝日にわずかでも矜持が残されてるならば、答えは自明だろう。

朝日デジタル(時事小言)自尊と自虐の間で 批判拒めば改革ならず 藤原帰一 2015年4月21日16時30分 

 いつからのことだろうか。書店の店頭、新聞記事、あるいはテレビ番組で、日本の良さを伝えるものが目立つようになった。日本で開発された優れた商品のなかに日本人のDNAを読み込むような議論に触れた人は多いだろう。
 その前には、日本への批判を自虐として拒む態度があった。日中戦争と第2次世界大戦における日本軍の行動に批判を加えると左翼だとか自虐史観だなどと形容されるようになってから久しい。歴史観の問題だけにとどまらず、政府の政策への批判が自虐として退けられるようになった。日本人の誇りを求める文章や映像は、自虐の対極としての自尊願望の反映とみることができるだろう。
 たまたま国籍が同じだという理由だけで会ったこともない人たちと自分が一体であると考え、自虐や自尊を論じる根拠は疑わしい。だが、自分の帰属する集団を肯定したいという願望は、ほとんど人情のようなものだ。私自身も、生真面目で責任感のある人たちが日本に多いと感じてきたし、その一員であることに誇りを持って生きてきた。個人としての自分ばかりでなく自分を含む集団に美点を求めることが誤りだとは思えない。
     *
 とはいえ、その社会の抱える問題に関する批判を自虐として退けてしまえば、ただ現実を肯定するだけに終わり、悪くすれば無為無策を招いてしまうだろう。そして敢(あ)えて言えば、日本社会が大きな変革に成功したのは日本国民の美化ではなく、その抱える問題に目を向けた時であった。
 東アジアで植民地獲得を模索する欧米列強に独立を脅かされるなかで進められた徳川政権の解体と明治維新は、日本の統治を根本的に変えなければ文字通りの国難に立ち向かうことができないという自覚に支えられた体制改革であった。敗戦と占領という厳しい条件の下で進められた戦後改革も、破滅的な戦争に日本を導いた軍国主義とは異なる政治体制と経済制度を新たに実現しようという意思があったからこそ行われた。占領下とはいえ、占領軍による強制などに決して還元することのできない日本国民の主体的な選択がそこにあった。
 維新や敗戦ばかりではない。戦後70年の間にも、体制を刷新する時代はあった。高度経済成長が2回の石油危機によって覆った1970年代はそのひとつだろう。企業は雇用の安定と引き換えに賃金の抑制を労働組合に求め、石油危機の影響が産業部門によって大きく異なるなかで政府は経済の構造改革を遂行し、対立を繰り返してきた与野党も経済危機を打開するなかで提案された改革には協力を惜しまなかった。その結果、先進工業国のなかで日本はいち早く不況から脱却し、欧米諸国を凌駕(りょうが)する経済成長を達成することになる。
 石油危機への対処を支えたのは、日本の抱える課題や弱点を自覚し、それに正面から取り組む姿勢であった。敗戦後の再建を担った世代は、日本が欧米を凌駕する高度経済成長は当然であるなどと考えるような楽観的観測を持ってはいなかった。石油危機の時代を振り返って驚くのは、日本の政治家、官僚、企業経営者、さらに労組の指導者が日本の政治経済が抱える弱点を的確に自覚していたことである。
 課題を認識していたから対処も早い。石油危機後の再建は自尊や自己肯定ではなく、日本の制度の弱点に目を向けるリアリズムがあったからこそ可能になったと言ってよい。
     *
 日本経済の優位が続き、ジャパン・アズ・ナンバーワンなどという自己肯定が広がった80年代になると、70年代まで共有されていた日本の現状に対する厳しい認識、リアリズムが失われてしまう。欧米に学ぶ時代は終わった、これからは日本がモデルだなどという元気な発言があふれるなか、対処すべき課題から目が逸(そ)れていった。楽観の代償は無策と長期不況だった。各国でバブル経済が破綻(はたん)し、製造業や金融で大きな改革が進むなか、短期間に景気が回復するという楽観が強い日本では改革が遅れ、20年に及ぶ不況を招くことになった。
 ようやく日本経済が成長を取り戻し、政治的にも安定政権が生まれたことを私は歓迎する。だが、日本社会や政府への批判を自虐として拒むような態度には賛成できない。そのような自尊の追求は日本の抱える課題の認識を阻み、自己肯定のなかで無為無策に陥る危険があるからだ。
 自己肯定への願望は政府ばかりでなく、社会のなかにも広がっている。だが、自尊は思い上がりにつながり、思い上がりと慢心は停滞をもたらす危険がある。いま日本に求められるのは、問題の発見を自虐として退けるのではなく、改革の前提として批判を受け入れる態度だろう。(国際政治学者)

4 068 池内了 文/小野かおる 絵「親子で読もう 宇宙の歴史」(岩波書店:2012) 感想3+

2015年04月24日 00時59分31秒 | 一日一冊読書開始
4月23日(木):

249ページ   所要時間 2:05   図書館 定価3024円(本体2800円+税)、高価な本である。

著者68歳(1944生まれ)。専門は宇宙論・銀河物理学、科学・技術・社会論。

 20年前(1992年)に書かれた旧版「宇宙はどんなふうにはじまり、星や銀河、地球や生物は、どのようにして生まれたの?名著「お父さんが話してくれた宇宙の歴史」(全4冊)が1冊になって復活。」内容は、この間の新しい発見を踏まえている。

 今日は、職場で同僚の心無い言動に少し強く反発し、「ああ、また敵を造ってしまった」と嫌な気分を引きずって家に帰った。「今日も読めないのかな…」と思う一方で、「本を一冊読めば、一冊分の心の平安を得るが、逆も真なり。読めない日があまり続くと心に虚ろができた気分になり、落ち着きがなくなる。他人に偉そぶりたいのではなく、自分の心に充電するために本を読み重ねたい」との思いが強まり、先日図書館で手にした子ども向けの本書を、1ページ15秒ペースで読むことにした。付箋も抑制気味にした。

 親子の対話形式なので、とばして読める部分も多く、最後までたどり着けた。読後感は著者の本の常で、すっきり、爽やかである。感想3+だが、好著である。職場の嫌な気分をしばし忘れられた。印象的だったのは、もう分かっているつもりだった多くのことが意外とまとまった知識として整理されないままでしか頭に残っていないことを気付かされたことだ。特に、137億年前のビッグバン直後の宇宙の様子や46億年前の地球誕生後の大気の組成の変遷や、生物の海から地上への挑戦が思っていたよりも随分最近だったこと、大陸移動も新しくパンゲア大陸(?)もせいぜい4億年前など、自分が意外と分かっていなかったことがわかった。そして、子ども向けレベルで語り下ろされた「宇宙と地球の歴史」は興味深く、とても心地よかった。

■目次:はじめに
1 ビッグバン:宇宙のなりたち/ビッグバン宇宙
2 銀河のたんじょう:銀河と星/銀河のはくぶつ館/みんな星のこども
3 生きている地球:地球のたんじょう/地球はじゅんかんそうち/動く地球/地球のかんきょう
4 生命のひろがり:生命って,なんだろう/生命のたんじょうと進化/海から陸へ/サルから人間へ,そして……

・10光年でも、ロケットにのって10万年もかかるんだ。ホモ・サピエンスの歴史暗い長い時間だよ。略。そんなに時間がかるんだから、宇宙人が、よそのわく星へ行けると思うかい? だから父さんは、宇宙人はいるけれど、UFOに乗ってやってきたというのは、ウソっぱちだといってるんだ。 246ページ

150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)