もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

86冊目 青砥恭「ドキュメント高校中退―いま、貧困が生まれる場所」(ちくま新書;2009)  評価5

2011年11月30日 05時01分09秒 | 一日一冊読書開始
11月29日(火):

237ページ  所要時間3:45

 著者61歳。定年退職直後の県立高校教諭。はじめ「進学校は進路指導、底辺校は生活指導、でもその生活指導に乗らないで、生徒の半分が卒業までにやめてしまう高校も珍しくなくなってきている。高校中退した彼ら彼女らに行き場はない。大量の貧困層が再生産されている。」「そりゃ、高校中退も結構あるだろうな、俺も結構見聞きしてるよ。」「やめる彼・彼女の側に立って語り過ぎるのもなあ…、でも学校現場の、多くの生徒たちの中退に到る事例が臨場感と真実味があって、さすがは元現場の教師だな」と思っていた。しかし、半ばあたりを過ぎても変わらず、次から次へとあまりにも際限なく、さまざまな事例が、さまざまな深刻な背景で、あまりにもたくさんの実例として提示されていく。

 DV、離婚による母子家庭、未成年での性暴力被害、未成年出産によるシングルマザー、親の持つ教育資源の乏しさ(九九できない、漢字読めない、活字のない生活)、子どもの知的障害、親の知的障害・人格障害、育児放棄(ネグレクトは虫歯でわかる)、育児能力なし、親に捨てられる、児童養護施設etc.多くが複合型で現れる。ひたすら笑い事ですまされない事例がこれでもかと提示され続けると、「これは、一体どこの途上国の話なんだ。洒落ですまないぞ。」と心の奥が引きつってくるのを覚えた。「もう中退していく生徒たちや保護者の自己責任を批判・非難しても、この大量の貧困層予備軍が生まれてくる<現実>は、全く解決できない。もっと、根本的に日本社会全体の<貧困>対策の問題として捉えなおす必要があるぞ」と思い知らされる。  

 貧困層のさらなる貧困化と中間層の崩壊が進む中で、著者は「中退した若者たちの目から日本社会はどう見えるのか、それを考えながら一年が過ぎた。略。貧しさは人間を壊すことであることを知った。若者の貧困への処方箋は日本社会には今、何もない。しかし、私はこれからも、どうすれば貧しい若者に支援ができるか考えていきたい。」と著者は結んでいる。   

 貧しくても、頑張っている高校生も家庭も当然存在する。しかし、日本社会が階級化して、多くの貧困層を生み出していく大きな構造的流れの中で、自分自身と子どもの世代に可能性を拓く能力を保障すべき高校教育を放棄せざるを得ない多くの若者が生み出されている現実は絶対に看過できない。解決しなければいけない。さもなければ、日本に健全な未来はないと思う。

 だが、多くの日本人が余裕と自信を失っているのは、先日の大阪W選挙の結果でも明らかだ。橋下新大阪市長を悪いとは決して思わないが、全国学力テストの結果に異常にこだわる姿勢からは、中退していく高校生の貧困問題への理解ある取り組みは望めそうにない。全国で最悪とされる大阪市の生活保護受給率にも厳しいメスが入るだろう。それ自体は否定しないが、願わくば、そのメスが適切に処置され、社会の不公平感を少しでも減らし、一方で真に社会で支えられるべき弱者に対しては十分な配慮が払われることを祈りたいと思う。     

 ※この本を読んで、民主党が2010年度から実施した<高校授業料無償化>政策がどんなに意義深い政策であったかが、よく分かった。著者は、さらに<高校の義務教育化>まで踏み込め!と主張されている。    

 ※埼玉県では定時制、通信制高校に在籍する生徒の給食費一食への52円、及び教科書費補助予算をカットして、総額1500万円に満たない補助金を切ったそうだ。「定時制の生徒にとってこの補助がどれほど貴重な彼らを支える機会になっていたか!。このわずかな補助金のカットでどれほど意義深い教育的取り組みができたのか、埼玉県はしっかりと説明責任を果たせ!」と著者は憤る。    

 ※内容目次:<第一部 高校中退の現実>一底辺校に集中する高校中退:SA高校の苦悩/C高校の問題/大阪の底辺校とその背景/二中退した若者たちに聞く 13人にインタビュー/三子どもの貧困:貧困に直面する保育所/障害児通園施設で/子どもの貧困対策―学校と地域の連携は欠かせない/大阪府北河内地域の保育所 <第二部 高校中退の背景>四なぜ高校をやめるのか:やめる原因は複合的/文科省は高校中退をどう見ているか/やめた後から現実を知る/高校中退が人生の分岐点/五高校中退の問題点:なぜいままで高校中退が問題にならなかったのか?/特定の高校に集中する中退者/授業料減免と学校間格差/大阪の増え続ける授業料減免/授業料の減免者を減らしたい教育委員会/授業料だけではない公立高校の集金/高額な教育費用が家庭を襲う/囲い込まれる生徒たち/進む貧困層のさらなる貧困化と中間層の崩壊/六就学援助から中退へ:就学援助/就学援助率(貧困)と学力テストの平均点(低学力)には強い相関/不登校と貧困の新たな連鎖/増える中学の不登校、戦後の貧困時代を再現/七終わりに―労働、地域、そして若者たちの生きがいを結ぶ教育:子どもを貧困から守るために/貧しいとは選べないこと/低学力は生活能力の問題 /あとがき

 ※図書館で借りて読んだ本だが、私は今、アマゾンで購入を発注した。この本は、お金を出して買っても惜しくない!   


85冊目 本川達雄「ゾウの時間ネズミの時間 サイズの生物学」(中公新書;1992) 評価5

2011年11月29日 05時08分46秒 | 一日一冊読書開始
11月28日(月):

230ぺーじ  所要時間3:30

3度目の挑戦。昨日のルールをもう破ってしまった…。前半は、何とか30秒を維持していた。特に、数式は苦手で跳ばしていたので眺め読みできた。後半、数式が減ると、俄然話が解かり易くなり、すると理解したくなり、気がつけば鉛筆で線を引き出していた。内容が面白くなると、かえって習慣維持のためのルールを破ってしまう、というジレンマから解放される道は無いものか…、まあ因果一如ってことで、毎日を精一杯生きるしかない。  

さて、本書は、生物学の名著として知られている本である。

※目次 1動物のサイズと時間=サイズによって時間は変わる;心拍数一定の法則/2サイズと進化=コープの法則;大きいことはいいことか?;島の規則/3サイズとエネルギー消費量=標準代謝量―基本的なエネルギー消費量;表面積と体積;3/4乗則―生命設計原理;人のサイズ・現代人のサイズ/4食事量・生息密度・行動圏=大きいものは大食らいか?;食うもののサイズ・食われるもののサイズ;ウシを食う贅沢―成長効率の問題;動物の生息密度;行動圏の広さ/5走る・飛ぶ・泳ぐ=サイズと速度;走るコスト;飛ぶコスト・泳ぐコスト/6なぜ車輪動物がいないのか=車社会再考;ひれvsスクリュー/7小さな泳ぎ手=鞭毛と繊毛;低レイノルズ数の世界;スパスモネームとレイノルズ数のトリック;拡散が支配する世界/8呼吸系や循環系はなぜ必要か=肺も心臓もない動物;ヒラムシはなぜ平たいか;ミミズはヘビほど太くなれるか?;呼吸系/9器官のサイズ=心臓と筋肉;脳のサイズ;骨格系/10時間と空間=生理的時間と弾性相似モデル;時間と空間の相関/11細胞のサイズと生物の建築法=細胞のサイズ;植物の建築法・動物の建築法/12昆虫―小サイズの達人=クチクラの外骨格―昆虫の成功の秘訣;気管の威力・脱皮の危険;食べる時期と動く時期―一生を使いわける/13動かない動物たち=サンゴと木―光の利用者;群体―ユニット構造の利点;流れの利用者/14棘皮動物―ちょっとだけ動く動物=ウニの棘とキャッチ結合組織;ヒトデの外骨格的内骨格;クモヒトデの自切とユニット構造;進化と支持系;棘皮動物の謎;棘皮動物のデザイン/あとがき  

バカみたいだけど、目次を打ち直してみると、改めて本書の内容の豊かさ・多彩さ・独創性・エッセー的面白さが思い出されて確認できた。読んでもらうしかないが、古典的名著だと思う。生物学ってやっぱり面白い!。大昔、共通一次試験で生物だけは100点だった。大きい動物は小さくなり、小さい動物は大きくなる、「島の規則」を日本人に当て嵌めて、エリートのサイズは小さく、庶民の知的レベルは高い、と言ったのは面白すぎる!。「木とサンゴは、考えれば考えるほど、非常によく似ている。」「棘皮動物とは動物学者を不思議がらせるようデザインされた高貴なる動物群である」など多くの面白い事例や風刺が効いている。

84冊目 伊藤 真「夢をかなえる勉強法」(サンマーク出版;2006)  評価3

2011年11月28日 04時07分31秒 | 一日一冊読書開始
11月27日(日):

223ページ  所要時間1:55

ライトな感じの本なので評価を3にしたが、良書である。無駄がなく、技術論・精神論ともに健全でバランスがとれている。読後感は良い。この手の勉強本では、実践的かつ最も良識のある書だろう。著者は東京大学卒業の年、2度目の挑戦で司法試験に合格した、疑う余地のないエリートだが、志操の高さと教育者としての自覚の高邁さからなのか、非常に謙虚で篤実さを感じさせる。この手の類書は無数にあると思うが、私は迷わず、この一書のみを手元に置けば十分である、と勧める。著者は48歳。真の法律家の養成をめざす受験予備校を経営する一方で、憲法精神の理想の普及に取り組む法律家である。酒精の勢いもあって、今、アマゾンで、中古本を注文を出した。  憲法で一番大切なことは、「基本的人権の尊重、国民主権、平和主義」ではなく、「個人の尊重」である。「自分の人生の目的は何か?  それはなぜか?  そのために何をしているのか?」「専門書を読む時には、ラインマーカーと色鉛筆を使え!」という教えは、前に読んだコミックの「ドラゴン桜」と全く逆の話になっている。俺自身は、線を引く派なので、伊藤先生を支持する。

原点確認&タイトル変更

2011年11月27日 20時26分52秒 | 閲覧数 記録
11月27日(日)

※こんなに時間のかかる読書をしていては、確実に挫折する。もちろん一日一冊読書が、そんなに長く続くとは考えていないが、今はまだしばらく続けていたい。

☆キーワードは、『 割り切って覚悟を決めること 』『 努力ではない! 』ということ。

◎一日一冊読書の原点:いろいろ失敗もしてきたけど、本を読むことだけは俺を裏切らない。必ず報いてくれる真実がある。同時に『遅読』は絶対ダメだ。年齢から来る焦り・諦めは、目に見える形で読んだ本の冊数がどんどん増えていくことによってしかやる気を維持できないことが明白だ。しかし、速く読むことのできない本がたくさん存在することも否定できない。ただ、速く読むことのできない本の認定をできるだけ制限して、『速読』による冊数をどこまで伸ばせるかが成否を別けるだろう。尚、良い習慣を維持する上で<完全主義>は『障害』である。「<完全主義>とは、<挫折>を合理化するための<一種の甘え>である」と考える。速読は守備型読書(趣味)であり、遅読は攻撃型読書(勉強)である。一日一冊習慣では、速読が原則であり、遅読はテーマから外れる。ポイントは、決して読みきろうとしないこと。こだわりを捨てること。覚えようとするこだわりを捨てること。どのような地平線が見えてくるのか。楽しみにして気長に実践すること。

◎読む速度の目安:①第一基準:速読技術習得のため=15秒前後/1ページを原則とする。
         ②第二基準:遅くても30秒/1ページまで。 
         ③もし、60秒/1ページを超えた場合:読書を中止する。

◎1冊の読書時間:平日は1.0時間~2.5時間を原則とする。休日は、最大5.0時間ぐらいまでは許可する。

◎どう読むか?:①「読む」という行為に対するこだわりをどこまで抑えられるか。本を「読む(読み切る)」のではなく、毎日、限られた時間内で違った本(人格・世界観)と「つきあう」ことだと割り切ること。そしてその本の名前を記録(今はブログ)に残そう。②どうしてもじっくり読みたい本は、極力例外として少し冷却期間(1週間ほど?)をおいて、週末や休日に読み直し、それも1冊とカウントする。③漫画の中にも読んでみたい作品があるので、一日のノルマとしては0.5冊扱いをするが、カウントには入れない。

◎付則:①今後、習慣維持のため、<一日一冊読書>の例外として、<作品集所収の名作短編など>は、<一冊扱い>とする。時間不足や体調不良のときには、積極的にこの付則を活用する。②今回のルール徹底のため、ブログの名称を「一日一冊読書」を「一日一冊遊書録」と変更する。 

83冊目 I.モンタネッリ「ローマの歴史(藤沢道郎 訳)」(中公文庫;1979)  評価3

2011年11月27日 07時29分19秒 | 一日一冊読書開始
11月26日(土):

540ページ  所要時間9:20

二度目。知り合いに「すごく面白いローマ史の本がある」と紹介されて読んだ本。トロヤ戦争の生き残りアエネイスの遍歴に始まり、ロムルス・レムス兄弟によるB.C.753年ローマ建国からA.D.476年ゲルマン傭兵隊長オドアケルによる西ローマ帝国滅亡までの内容。確かにネットでも評判は良い。7年前に所要時間3:30で読んだ時はそれなりに楽しめて良かった。

しかし、今回の所要時間9:20については、長ければ良いとは限らない、ただただ苦痛なだけの失敗読書だった。ドッグイヤーどころか、鉛筆で線まで入れてしまった。もともと高校世界史レベルのローマ史は、ほぼ理解・記憶している。欲しいのは、肉付けや裾野を広げてくれる内容だったが、そういう情報のレベルに拘ろうとすると速度が落ち、理解力も落ちて結局欲しい知識も身に付かなかった。ゆっくりだと頭に残りやすいかと言えば、流れが無くなって理解も集中力も極端に低下した。どこまでも続く、終わりの見えない果てしない不毛の旅だった。

欲しかった聖山事件や十二表法、ホルテンシウス法、ハンニバルの記述などは案外とあっさり通過してしまい、<重装歩兵><ラティフンディウム>という言葉も出てこなかった。何か詳しい本の割にはメリハリが無くて物足りなくも合った。

一方で、カエサル以降の皇帝制の時代になると、皇帝の個性や人柄については、確かに面白く読めたり、印象が改まったりもした。特に、ディオクレティアヌス帝などは暴虐の専制君主というイメージが、意外と現実に根ざした立派な皇帝で権力に対する執着も無かった、ということで見直したりもした。ただ、あまりにも個人のゴシップ好きな事柄が、ややこしい家系を絡めた記述で展開するのには、それを理解しようと思うほど訳が分からなくなった。面白いローマ史というのは、この辺のことかとも思うが、ゴシップや細かい事象の中で、何か銘記すべき事の印象が喪われているのだ。

重要だったといわれるローマ時代の<銀行>ってどんな実態?。アウグストゥス、ティベリウス;カリグラ;ネロ;ヴェスパジアヌスの乱暴な善政;ネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス(最も偉大な皇帝)、アントニウス・ピウス、マルクス・アウレリウス・アントニヌスら五賢帝;コンモドゥス、カラカラ;軍人皇帝時代;ディオクレティアヌス帝国四分統治、コンスタンティヌスのキリスト教公認及び死後の帝国五分割、テオドシウス死後の東西分裂、ゲルマン民族大移動とフン族アッティラの侵入・崩壊。

速く読もうとしたが、カタカナの名前が同じに見えて速く進めない。ただ、ローマの皇帝たちが、必ずしも幸せな人生を送っているわけではなかった、というより不幸であったという印象を強く受けた。権力者イコール幸福ではない。また、無名の皇帝や、自称皇帝があまりにも無数に多くてびっくりしたのも事実だった。

何にしてもこの本は、一度読み通した後は、簡便な辞書として、今後その時々に必要な部分を開いて読むという使い方が良いのかも知れないと思った。           

82冊目 重松清「流星ワゴン」(講談社文庫;2002)  評価5

2011年11月26日 07時27分42秒 | 一日一冊読書開始
11月25日(金):

477ページ  所要時間6:20

ブックオフで買ってあった105円の文庫本が、10日ほど前に、紀伊国屋の入り口でワゴンに平積みされていた。「そんなに売れてるのか?」。読んでみると、平易な言葉に、深い味わいが込められていて、一気に長時間、読み続けても全く苦痛ではなかった。

私立受験に失敗し、いじめを受け不登校になった13歳の息子の家庭内暴力とテレクラに性の吐け口を求める妻との荒んだ生活、営業職をリストラされ再就職もうまくできない日々に疲れて、「もう、死んじゃってもいいかなあ」と思いつめた永田さん(38歳)の前に、5年前に交通事故死した橋本さん父子の乗る不思議なワゴン車オデッセイが現れる。

生と死の狭間を走るワゴン車に乗せられ、人生の岐路となった場所へ<思い残しをなくす旅>が始まる。そこに遠く故郷岡山県?の病院で癌による危篤の床にあるはずの父(63歳)が現れ、何故か自分と同い年38歳の姿で、チュウさん、朋輩として旅を共にすることになる。金貸しに転じ、成り上がりの力漲る父には、中学生頃から反感が芽生え、成人後は全くの絶交状態だった。しかし、目の前に現れた同い年の若いチュウさんは、元気で前向きだが、子どもの頃には見たことがないような気弱さ、自信のなさもみられた。チュウさんが現れたのも息子との断絶に対する深い思い残しによるものだった。永田さんは、本当の<現実>を変えることは不可能だが、過去の大切な分かれ道に立ち返り、思い残しをなくすために、もう一度やり直しをしてみることを繰り返す。

物語全体に透明感があり、素敵な再生の物語・ファンタジーに仕上がっている。現代版『銀河鉄道の夜』だと思った。著者の人柄なのか?、登場人物の心の内面と変化が非常に丁寧に綴られ、物語り全体に人間を見捨てない優しさが溢れている。その安心感の中で、心に深く沁みるシーンや深く心を掘り起こされるような言葉がたくさん出てくるので、読み耽り、堪能し一気に読み上げることができた。

流星ワゴンの最大の奇跡は、現世に戻った主人公が、<思い残しをなくす旅>の記憶を喪っていないことだろう。これは、物語としては少し甘いが大きな救済だ。そして、読み手はなにも教訓を求めているわけではない。この救済ある終わり方で十分に癒され満足である。この本を読んで、損をすることは絶対にありません!と報告しておきます。    


※多くの心に沁みる言葉を、書き出して置きたいが、ごく一部だけ、載せて置きます。     
「大切な場所って、本当にたくさんあるんですよね。あとになってから、それに気づくんです」略「分かれ道は、たくさんあるんです。でも、その時にはなにも気づかない。みんな、そうですよね。気づかないまま、結果だけが、不意に目の前に突きつけられるんです」

「……ごめんなさい」「謝らなくていい」そんな必要はどこにもない。誰が悪いわけでもない。間違ってもいない。広樹は僕と美代子の喜ぶ顔を励みにしてがんばって、僕と美代子は広樹ががんばっているのを見るたびに嬉しくなった。幸せな家族だったのだと思う。我が家は幸せだった。幸せな日々を積み重ねながら、少しずつ不幸せな未来へと向かっていたのだ。

逃げたくなくて、負けたくなくて、学校での出来事を誰にも話さなかったすえに、広樹は、もっと深いところで逃げてしまう。略。「逃げてもいいんだよ。逃げられる場所のあるうちは、いくらでも逃げてもいいんだ」

許した―とは思わない。ただ、受け容れた。

現世で体を得た幽霊の健太くんが、喜び勇んで母親に会いに行ったシーン:健太くんが、歓声をあげて公園に駆け込んで行った時、再婚した母親が公園の「砂場で、よちよち歩きの赤ちゃんと遊んでました」。略。「健太はそのまま、走る向きを斜めに変えて、全力疾走ですよ」のシーンには思わず胸を衝かれてしまった。<よちよち歩きの赤ちゃん>とは、もう取り返しのつかない、元に戻らない<現実>の象徴そのものであるとともに、全く罪のない!存在なのだ。この作品の中で、もっとも辛くて悲しいシーンだった。

「どんなに仲の悪い親子でも、同い歳で出会えたら、絶対に友達になれるのにね」「……アホか、それができんのが親子じゃろうが」

「広樹のまなざしに、今夜は寂しさの影も感じた。ほっとした。ひとりぼっちでいたくないから、寂しさがある。広樹は、誰かとつながりたいという思いを捨て去っているわけではなかった。僕たちは、まだ終わっていない。」

81冊目 保永貞夫「太平洋のかけ橋 新渡戸稲造」(講談社 火の鳥伝記文庫;1984)  評価3

2011年11月25日 04時45分54秒 | 一日一冊読書開始
11月24日(木):

214ページ  所要時間2:15

小中学生向け伝記本。5千円札の肖像になった新渡戸稲造(1862-1833;71歳)について、以前から知りたかった。

結論から言えば、スペシャリスト(=専門家、特定分野に能力がある人)は覚えられやすいが、それぞれの分野で一流の仕事をしていてもジェネラリスト(=万能選手、多方面に才能、能力がある人)は記憶されにくい、ということ。日本で知られるよりも、むしろ西洋で高く評価されている。

幕末、南部盛岡藩士(賊軍)の家に生まれる。東京で学び、15歳で札幌農学校の第二期生となる(内村鑑三は同級生)。クラーク自身はいないが(日本滞在は8ヶ月のみ)、その精神の影響でキリスト教に改宗。東京帝大入学、1年で退学。「願わくば、われ太平洋の橋とならん」と志を抱いて、渡米、ジョンズ=ホプキンス大に学ぶ。ドイツに留学。米フィラデルフィアでメリー=エルキントンと結婚。

帰国後、農政学者(新渡戸の原点、日本で最初の農学博士)、農産業実践者(台湾総督府民政局殖産課長→サトウキビの改良・台湾糖務局長)・法学者・教育者(札幌農学校教授・遠友夜学校開校、京帝大・東帝大教授、一高のリベラル校長)・キリスト者(渡米後、クエーカー派に入る)・英文学者(カーライルなど)・ドイツ語教授・日本文化紹介者(世界から歓迎された『武士道』(1899→日露戦争にも影響か?米セオドア=ローズヴェルト大統領が絶賛!)著述以外に外国で無数の講演を行う)・外交家(国際連盟事務局次長、知的協力国際委員会(今のユネスコ)幹事長、太平洋問題調査会理事長→カナダで発病・死去)・ジャーナリスト(文部省の圧力に抗して雑誌での啓蒙・講演(今でいう市民大学講座)を続ける)・優れた国際人。 「愛の人」、「平和の大使」。     

クエーカー派は、一切の形式的な儀式を行わず、つつましく、まじめに生活し、絶対の平和を求める、という教義をもつ。きらびやかな服を着た者は、一人もいず、説教する壇もない部屋で、賛美歌も歌わず、ただ静かに腰掛けて、黙って頭を垂れている。時々、精霊を感じた者が、立って、簡単な話をするだけ。騒がしい牧師の説教や、儀礼を通してでなく、沈黙のうちに、一人ひとりが、ただひたすらに神を待つ。                                                          

80冊目 小熊英二「日本という国 よりみちパン!セ」(理論社;2006) 評価5

2011年11月24日 06時08分42秒 | 一日一冊読書開始
11月23日(水):

189ページ  所要時間4:00

著者44歳。4年ほど前に読んだ本の再読。その時の感想は「憲法九条を変えようとする自民党など保守政治家・右翼・靖国参拝の連中とアメリカ!が如何に偽りで信用できないか!。日本に駄目だしの本。/憲法九条の真の価値と意義を具体的に教えてくれる。アジアの国々に対する戦後保障を誤魔化してアメリカにしがみついている愚。冷戦の終わりと日本経済の停滞が重なる!」(2008.1.10)というものだった。

再読してみて、基本的な感想は変わらないが、外的環境があまりにも変化し過ぎている!。小泉・安倍の自民党政権に絶望していた4年前と異なり、イラク特措法失効、米海軍給油特措法失効、政権交代して民主党政権となり、アメリカも好戦的なブッシュ共和党政権から想像もしなかった黒人のオバマ民主党政権となり、リーマンショックEUのユーロ崩壊による世界的自由主義経済体制の危機の露顕、中国の強烈な軍備拡張と膨張主義の顕示による尖閣諸島への確信犯的侵犯行為、国家の行方を左右するTPP参加問題及び東アジア・東南アジア地域の海洋の安全保障関与へのアメリカの強い意志表明(中国に対する牽制!)、そして何よりもマグニチュード9の東日本大震災及び想像だにできなかったチェルノブイリ級の福島第一原発事故、そして被災者救済保護と無責任な東京電力の賠償責任問題、まもなく日本の原発全停止ととりあえず火力でつないで自然エネルギーの模索など、国内外の状況の変化があまりにも大き過ぎて<隔世の感>がある。

冷戦後の戦後保障・アジア諸国との信頼関係の強化問題、米軍基地縮小(思いやり予算)問題など大事な問題意識が、全く深められないままに、目前の焦眉の問題に政府も国民も気を取られる。この状況の中で、本書を自分なりに丁寧に読み込みながら、既に大きな状況的パラダイムの変化の中で、4年前と同じ気分で、本書の内容にあいづちを打ちにくかったというのが事実である。思えば、4年前の状況ですら、平穏・平和に思えて懐かしい。 

※ただ、だからこそ、本書の価値は、時代が取り組むべき本当の課題をきちんと記録した著書として、<必ず立ち返るべきテキスト>としての役割を持つと考える。本書は、決して14歳の読者に向けられたものではない。むしろ、日本に住む分別ある大人を相手にして書かれている。馬鹿な読み手は著者に「左派」の論客という愚にもつかないレッテルを貼って満足するかもしれないが、断じてそれは誤解だ。著者の実証主義的事実を踏まえた論説は、緻密な事実に基づく座標軸があって、右翼の批判も意に介さない軸足の全くぶれない説得力と勇気ある発言である。

著者の主張は、いつか必ず再び重要な問題として復活するだろうが、しばらくはお休みということになるのだろう。この著者は緻密な調査・研究・洞察で信頼するに足る実証的評論家である。左翼・左派なんて情緒的レッテルは、ゴミ箱に捨ててしまえ!。現状をありのままに分析・解説してくれているのだ。

俺はこの著者を支持することで、俺自身の矜持を大切にしたいと思う。何やら、本来の著作の内容に、十分言及できなかったのは遺憾だが、どうかご勘弁下さい。さらに酒精の摂取による乱文もご容赦下さい。それにしても私たちは、何という変化の激しい時代に生きているんでしょうね。わずか4年ですよ…。 

※是非、大人の方に本書を読んで頂きたい。お願いします。



79冊目 山田大隆「心にしみる天才の逸話20 」(ブルーバックス;2001) 評価4

2011年11月23日 08時19分34秒 | 一日一冊読書開始
11月22日(金):

334ページ  所要時間5:55

天才科学者たちの人柄、生活、発想のエピソード。4年前に読んで良かった本の再読。眺め読みに失敗、しかし長時間かけて読み切れたのは内容が面白かったおかげ。著者は高校の物理・化学の先生、きっと楽しい授業なのだろう。一部を除いて誰でも知っている天才20人の知っているようで知られていない人物伝集。天才といっても必ずしも幸福な人生とは限らないのも魅力。とにかく良書である!。

ニュートン:批判を許さない恐怖政治は陰惨でアカン!ex.フックの業績抹殺;イギリスの科学を100年遅らせた大罪。
アインシュタイン:ADHD;真理は単純!簡潔な論文。
湯川秀樹:本のあいだで迷子になる家で育つ!羨まし過ぎる。
キュリー夫人:200ベクレル被曝で白血病死;女性科学者の地位を大きく向上させる!
ファラデー:電磁気学発見者なのに謙虚;この人の人柄好き。
エジソン:ADHD;交流送電の良さを知りながら直流送電にこだわって、借金かかえてGEから追放。
ラボアジェ:質量保存の法則、科学反応式の導入;失敗がない天才中の天才;徴税請負人裁判の実態は、革命家マラーの私怨による有罪でギロチンに死す。50歳。
ダーウィン:遅筆鈍牛ただのおっさんで終わったかもしれないが、尻に火がついて『種の起源』著す。
野口英世:蛇毒と梅毒の研究で実績;アメリカで大成功した野口を日本の医学会は頑として認めない。業績よりも学歴、学閥、血統を重んじる日本の医学会の息のつまるような閉鎖性にうんざり;黄熱病はウイルスであり、光学顕微鏡の細菌学では無理。
ジュール:熱の仕事当量決定実験36年、微細温度オタク
メンデル:生物学者とは桁違いの数学(確立・統計)能力で大成功、でも死後16年の再発見まで誰も解かってくれない。
ワット:理学(物理・化学)では最初の発見が大事だが、工学では改良による実用性向上・普及者が評価される;高圧蒸気機関を考案した後進の天才トレビシックを潰して外国で物乞いにまで落としたのはアカンやろ!
パスツール:ジェンナーの種痘法を参考に、狂犬病ウイルスを知らないまま論理的にワクチンを作ってしまう科学哲学・科学的思考法のすごさ;約50℃で一分間加熱の低温殺菌。
ライト兄弟:理論よりも優れた職人のアイデアが勝る!スミソニアン協会の学者たちは恥を知れ!
メンデレーエフ:相対性理論に匹敵する業績、ノーベル賞を授与されないのは、全く不当!シベリア流刑のインテリたちが家庭教師。
ガリレイ:自然世界を始めて数学で記述した研究スタイルは、近代科学の出発点;ローマ教会の謝罪は1992年、遅すぎるやろ!でもヨハネ・パウロ2世は尊敬してます。
ガウス:非の打ちどころのない天才の中の天才、しかも穏やかで充実した一生。77歳。あやかりたい。
ゲーデル:数学の「不完全性」「限界」を証明した数学者;生涯通じて強迫神経症で極度の被害妄想、最後は病院の食事に毒が入っていると食事拒否、栄養失調で餓死。71歳…。
ボルツマン:エントロピー増大の法則解明;被害妄想的傾向で最後は躁鬱病の極度の悪化で自殺。娘が3人もいるのに、天才なのに…。62歳。
北里柴三郎:第1回ノーベル医学生理学賞は人種差別で取れず、日本に帰れば、緒方正規の「脚気病原菌説」を批判したことで帝大医学部閥から追放され、福沢諭吉の援助で伝染病研究所設立、大きな成果を上げたが、またもや帝大医学部の圧力で辞任、再度福沢の援助で北里研究所と、慶応大学医学部設立に尽力、初代医学部長となる。東京帝国大学医学部の権威主義には軽蔑と腹立ちしか湧かない。特に、緒方洪庵の息子の緒方正規が元凶とは残念過ぎる!
 
※どの人物についても、興味深くて、誰かに話したくなる気にさせる逸話が用意されている。初期のノーベル賞が欧米白人社会中心のもので、白人系でもロシア人、あるいは東洋人など非ヨーロッパ系の受賞がいかに困難であったか、また発見事実や、道具の発明・開発へ与えられ、「理論」にはなかなか与えられなかった。1949年の湯川秀樹の受賞は、東洋人として初であるだけでなく、真に「理論」への授与でも初であった。

78冊目 玄有宗及「禅的生活」(ちくま新書;2003)  評価4

2011年11月22日 05時02分38秒 | 一日一冊読書開始
11月21日(月):

237ページ   所要時間5:00

47歳の禅僧の著者が冒頭いきなり「(生きにくい世の中で、)私に言えるのは、今の私が、なぜ生きるのが楽なのか、ということだけだ。もしかするとそれは年齢のせいかもしれないが、私としては「禅」のお陰だと思っている。略。今改めて考えると、自分の過去のすべてが、この本を書くためにあった。略。少しでも、一人でも多くの人に楽で元気になってほしいのである」と書かれていた。

そこまで言ってくれるなら、「是非救って頂きたい」と思った。しかし、流し読みできる本ではなかった。疲労から繰り返し襲ってくる眠気・睡魔と延々闘いながら、なんとか一応最後まで目を這わせた。

著者は、難しい禅の教えを、できるだけ解り易さを意識して書いてくれている気がする。内容的にも良書だろうと思う。ただ元々が一読でスッキリ解かる類いの本ではないのだ。今回は、この本との出会いの日ということで、「野狐禅」は困るが、今後折りに触れて開き、線を引いて、付き合っていこうと思う。

<禅語録>には、憧れ半分と、ご都合主義的な詭弁に思える部分への嫌悪半分だったが、著者が「禅は、世界の根源をカオス(渾沌)と見るタオイズム(道教)の嫡流にあたる」と言明していて、少し目からウロコが落ちた。本来の仏教での位置付けは気になるが、ちょうど老荘思想への興味も湧いてきていたので、しばらくこの本の禅語録及び解説とお付き合いをさせて頂こうと思った。

「拈華微笑」、「どうしても習慣によって頻繁にあける抽斗が決まってくる。略。愚痴の抽斗。略。怒りの抽斗。略。実際に現れる自己は理性でも感情でもなく、習慣によって動くのだし、思考も習慣どおりしている。禅はそう考える。」「一無位の真人」、「うすらぼんやり見る練習」、「犬にも仏性はあるか→趙州は有・無両方を答えた!」、「父母未生以前の本来の面目」、「隻手の音声」、「絶対矛盾的自己同一」(西田幾多郎)、「眼横鼻直」、『十牛図』、「仏に逢っては仏を殺す」、「因果一如→因果に落ちず、今を楽しむ」、「人間、到る処青山あり」、「百尺竿頭に一歩を進む」、「回向返照」、「風吹けども動ぜず天辺の月、雪圧せどもくだけ難しかん底の松」etc.とにかく無数に<禅語>なるものが溢れている。

※著者の『私だけの仏教』(講談社+α新書』は相当に読み込んで随分ためになっている。

※私は、NHK「こころの時間」の村上光照師のビデオ2本と、正眼僧堂(谷耕月師)の臘八大接心(ろうはつおおぜっしん)を撮った「行」のビデオを持っている。これらは、私にとっては宝物である。気分が不安定な時にずいぶん助けられた。数え切れないほど見直してきた。

番外 戸部けいこ「光とともに…~自閉症児を抱えて~(7)(8)(9)」(秋田書店;2004&2005) 評価3

2011年11月21日 04時29分34秒 | 一日一冊読書開始
11月20日(日):漫画は、ノルマとしては0.5冊扱い。

(7)257ページ  所要時間2:00  評価3

どうもマンガまで、読むのが遅くなっている。小学校高学年編。光くん、5年生。越川に左遷された光くんの父は、FA制度で復活。障害者雇用率(1.8%)達成のための特例子会社「じゃぱネットきのこ園』設立に取り組み、光くんの将来の自立・就職について考え始める。光くんは、AAPEP(青年期・成人期心理教育診断評価法)という検査を受ける。


(8)257ページ  所要時間1:30  評価3

小学校高学年編。光くん、まだ5年生。母に逃げられ、父にDV・ネグレクトを受け、その父も亡くして児童養護施設に預けられた沖君との再会。沖君は施設内で暴力的いじめにより肋骨を折る大怪我をしており、いじめている子も施設職員の暴力を受けていた。世代間で引き継がれる暴力の連鎖を断つ必要がある。光くんの父や児童福祉課が動くことで事態の解決につながるが、こんなことは今もどこでもありうるという関心を持つことが必要なのだろう。障害者110番、権利擁護センター、オンブズマン。2004年12月「発達障害者支援法」成立。大切な情報が、それを本当に必要としている人に伝わっていない。大人もだが、子どもに対して行き届いていない。頼りにできる大人が、一人でもその子についてくれているかどうか、ただその点で人生が大きく変わっている気がする。


(6)257ページ  所要時間1:50  評価3

小学校高学年編。光くんが、やっと6年生になった。新しいクラスは、一般クラスの3年からADHD(注意欠陥多動性障害)の井口亮太くんとLD(学習障害;今回は読み書きにつまずくディスレクシア)の金本つばさくんが編入してきて、自閉症の3年生ほんだみうちゃんと合わせて4人のクラスになっている。編入組の2人の母親は納得していない。担任も若い男の赤松先生に交代。この赤松先生、前任校でモンスターペアレントにやられた傷が癒えず、頭は良いが、被害者意識が強くて保身的姿勢で固まっている。何よりも自閉症について学んだ上で「こうあるべき」「がまんも大切」「甘やかしはいけない」の確信犯的思い込みの持ち主。子どもたちの多様さに柔軟な対応をすることを自ら拒否している以上、学級運営がうまく行くわけがない。郡司先生のときと同様に、また一から保護者たちの努力が繰り返されねばならない。細やかな教育的配慮の理解できない俗物校長の存在も相変わらず最悪である。つくづく学校という組織も流動的で当たり外れが大きいなあと思う。2007(平成19)年度から特別支援教育が本格実施される予定。  ※それにしても、この作品は、いつになったら終わりへの見通しが立つのだろう…。

77冊目 井上ひさし「吉里吉里人(下)」  評価5

2011年11月20日 07時12分51秒 | 一日一冊読書開始
11月19日(土):

520ページ  所要時間7:55

上・中・下、1500ページを読み上げた時に、頭に浮かんだ言葉は<比類ない小説!>の一言だった。本当に、日本(いや、世界でもか?)のフィクション(作り話)として比類ない作品だった。

今は、「読んで良かった」という達成感と満足感に浸ることができている。すごく多彩で楽しい遊園地で思う存分に遊ばせてもらったような、山にたとえれば剱岳に登ったあとの「よく登れたものだなあ、でも楽しかった!」という感じの気分だ。

巻末の由良君美(って誰?)の「これだけ、ふんだんに言葉遊びを野放図に展開しながら、これだけ生真面目な法律論、国家論、単一民族日本という迷信批判―ひいては標準語とか正しい日本語とかいう愚かな文学圧殺的思考批判を一方において主張しえた作品は、戦後日本に、この作品以外に見当たらないのも事実である。」という解説は適切な評価だと思う。

何か文学的冒険、サーカスを二流・三流作家が人寄せのためにするのでなく、そんな必要のない、大御所作家が必要もないのに何故か読者のために最高難度のぎりぎりの試みと業(わざ)、サーカスを披露してくれているのを感じて有難さを覚えた。昔読んだ『四千万歩の男』全五巻も「すごい!」と唸らせられたが、こちらは話が中途で完結しなくて残念だった。

閑話休題、下巻の話。体調があまり良くなかったせいか、1ページ30秒の原則はすぐに崩れた。行けども行けども着く当てのない苦しい旅路となった。

当初、話の内容も気のせいか、いまいち盛り上がらない。物語をまとめに入る頃合を見ているのか?、上巻や中巻ほどのテンションの高さはなかった。「ちょっとネタ切れなのかな?」と思っていたら、とんでもない!、終盤から「寝た子を起こす」ように日本国家権力側からの攻勢が強まり、風雲急を告げ、ただでさえ奇想天外な物語なのに、その上にとんでもない荒唐無稽な展開を重ねて、話が一気にグローバルな<志(こころざし)>をもって展開し始める。

目を話せない状態で読者を引付けるだけ引付けておいて、最後はこの吉里吉里国という<ユートピア>の独立が如何に薄氷を踏むような状況の中で推し進められていたのかを、日本国家権力及び少数民族の独立問題を抱える列強大国のザラリとした触感とともに急転直下、読者に思い知らせる形で終わる。

長鼻(ボンネット)型の国会議事堂車バスがのんびりと国内(村内)を走るファンタジーは、実は命懸けと表裏一体だったのだ。  

※ちなみに1500ページ読み終わって、経過した時間は2日間のみである。でも、不自然さは感じなかった。というより、感じるヒマが無かった。

76冊目 森鴎外「阿部一族」(旺文社文庫;1913)  評価4

2011年11月19日 06時57分44秒 | 一日一冊読書開始
11月18日(金):

49ページ  所要時間1:55

◎良い習慣を維持する上で<完全主義>は『障害』である。「<完全主義>とは、<挫折>を合理化するための<一種の甘え>である」と考える。「今後、習慣維持のため、<一日一冊読書>の例外として、<作品集所収の名作短編など>は、<一冊扱い>とする。」

◎寛永18(1641)年細川忠利の死に際した殉死をめぐる事件を舞台に、武士の意地の張り方、考え方、生き様を描いた作品。先ず「<殉死>には、主君の許可が必ず必要であり、許可無き<追腹>は犬死である。」「殉死すべきはずの者が、主君の許可を得られず生き残った場合、生き恥をさらすことにつながる。」それが阿部氏当主阿部弥一右衛門に起こる。陰口や噂などで恥を受けたと感じた阿部弥一右衛門は、犬死になっても追腹切って意地をとおさねばなならぬ。許可無き追腹には、許可を得た殉死との間で、特に残された遺族の一族の待遇で大きな差が出る。その差自体が遺族の一族には大きな屈辱である。新藩主の代で、その処置の差に不満を表明することは、それ自体大きな罪であるが、主君への忠義と武士としての意地では、ひとかどの武士であればあるほど意地に傾く。弥一右衛門の嫡子権兵衛は、旧主の一周忌に髻を切って出家するという面当てがましい所業に出る。経験の浅い新藩主細川光尚は、恩をもってうらみに報いる寛大の心持ちに乏しく、家臣の自らへの批判的所業に、武士らしい切腹ではなく、縛首(しばりくび)に処す。縛首にせられた者の一族が、何の面目あって生きていけよう。残された阿部一族は、本家屋敷に立て籠もり、藩からの討ち手を待つ。この時、討ち手になった藩士にも、武士としての名分と意地がある。特に表門を任された竹内数馬は、藩から殉死すべきを生きながらえた者と考えられていたことを知り、恥辱をはらす為に始めから討ち死にを決意し、その通りに死ぬ。阿部家の隣に住む柄本又七郎は、長年の親交から阿部一族に深く同情し、妻女に見舞いをさせた上で、当日は討ち手として一番の手柄をあげてみせる。この作品の目的は、殉死にまつわる理不尽を近代人の目から賢しらに批判することではない。そういった理不尽をも含めて、当時の武士社会とそこで生きる武士たちの緊張感と意地と生き様を「大正の世」に再現してみせることだったのだと思う。のち4代将軍家綱の時代、“寛文の二大美事”の一つとして、「殉死の禁」が定められるまでには、今だ、しばらく時がかかる。  ※これは、乃木大将の殉死事件に触発された作品である。。
"

75冊目  脇田修「織田信長 中世最後の覇者」(中公新書;1987)  評価3

2011年11月18日 04時38分04秒 | 一日一冊読書開始
11月17日(水):

179ページ  所要時間2:50

随分昔に読んだ本の再読。眺め読みはつらい。著者は織豊時代の専門家。24年前の内容は、新鮮味には多少欠ける。小説的脚色はないが、一般に知られている信長に関するエピソードなどは簡潔だがほぼ遺漏無く記載され、真偽に関するコメントも付されている。将軍義昭や正親町天皇との間合いの取り方に、信長は意外なほど神経を使っている。一番恐れた武将は武田信玄、一番苦しめられたのは摂津石山本願寺。一向一揆に対する「根切り」の憎悪は尋常ではなく、階級的な感情といいうる異質なもの。既に右近衛大将となっていた平氏を名のる信長がめざすのは、関白・征夷大将軍・太政大臣のうち、太政大臣だったはず。自らを神と仰がせたというフロイスの記録には懐疑的。小歌「死のふは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの」を好んだ。えり銭令による貨幣流通統制の不安定さ解消は失敗、貫高制が近世の米による石高制になるのは仕方が無かった。信長を<近世最初の覇者>とする通念に対して、<中世最後の覇者>と見ることで、「信長の人間の新しさや政策における革新性を十分に認めたうえで、なお彼が中世の枠組みをこえることはできなっかった、ということを書きたかった。むしろそれによって、信長のおかれていた状況のきびしさやむずかしさがあきらかとなり、そこでたたかう信長の偉大さや残酷さも描ける」と述べ、中世の信長と近世の秀吉の断層の大きさを強調する。著者は、研究者として太閤検地、刀狩、兵農分離他、近世社会を創り上げた秀吉の業績を信長とは次元の違う高さで評価しているようだ。最後に、もし信長が天下平定していた場合を夢想する。「信長は中世の在地領主制を否定しないし、都市自治や座組織も存続させているが、中世数百年の歴史と信長の出身階層を見るならば、その方がはるかに自然である。むしろ秀吉のように兵農分離をやって侍を農村から切り離し、都市に移して「鉢植え」の境遇においたことのほうがよほど不思議で、ヨーロッパ封建制と比べても大きな違いとなったのであった。したがって信長が生きていれば、彼は太政大臣となり、武家の棟梁として、権力の専制的性格を強めるであろうが、社会としては、よりヨーロッパに近い発展を遂げ、絶対王政(!)へむかったのではないか。武士の自立性も高く、町人の市政における発言権もつよい、いうならば、日本のタテの社会的な構造にも影響を与えたのではないか、と思ったものである。」長い引用だが、ベースとなっている著者の思いを記す事にした。

74冊目 池内了「科学の考え方・学び方」(岩波ジュニア新書;1996年)  評価4

2011年11月17日 04時02分07秒 | 一日一冊読書開始
11月16日(水):

209ページ  所要時間2:40

図書館でふと手にした15年前の科学啓蒙書。著者は52歳。テキスト。良書だった。全くちんぷんかんぷんという訳ではないが、眺め読みで内容を十分に理解することは無理だ。手の届かない部分も含めて、ゆっくり線を引いて読みたくなったが、公共物だし、時間も無いので諦めた。気になる部分に付箋をつけたところ、本がハリネズミのようになった。目次:はじめに/一私にとっての科学:私が科学者になった理由。研究の仕事とその魅力。/二科学の考え方:科学の出発点。科学研究の進め方。/三科学はどのように生まれたのか:最初の科学。中世の「科学」。「科学革命」の時代。/四現代科学と科学者を考える:現代科学の到達点。現代の科学の特徴。現代科学が不得手な問題。科学・技術・社会の問題。科学者の責任と倫理。/五 二一世紀の科学と人間:地球環境問題。新しい科学技術と私たち。/六未来を担う君たちへ   ※三の「科学史」は楽しい。「1週間が7日」はBC1800年のバビロニア人の宇宙観。ギリシア人の優秀さ!。デカルトの演繹論。ベーコンの帰納的推論と実証主義。数学が科学の言語。  ※四と五での、「何が分かっていないかを正直に話すこと」が科学者の責任であり、不可能な地震予知を研究費のために可能な如きに言う地震研究者を激しく指弾する。著者は科学研究に対してあくまで謙虚であり、未来への責任の重さへの畏怖と倫理の重大さを強く説く。  ※15年前の記述内容はややレトロだが、さすがに15年後の現在を見通す目の確かさも評価されるべきだと思った。どうも俺は、この著者に好ましい印象を持っているようだ。

150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)