日本の心・さいき

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為になるかも知れない本(その50)

2007-03-25 06:26:17 | Weblog
○専門2年、6月10日(日)晴。(昭和48年、西暦1973年、今から約34年前の日記です。)
 長井恵子さんが田原恵子さんになった感じだった。彼女は昼3時ちょっと過ぎに来た。上は、水色で、下は、白色だった。彼女自身が作ったお菓子を持って来てくれた。彼女は、次は、来月の16日に又来ると約束してくれた。理性を持って彼女と共に成長して行かなければいけない。何か、信じられない感じだ。

*次兄から、次の様にアドバイスをもらっていた、「恋愛病にかかると、判断力がなくなる。そんな時は、時間と距離をおくこと。決して焦ってはいけない。一生のことだから。数ヶ月、時間と距離を置いても、それでも、自分の気持ちが変わらなければ本物の可能性がある。完全に突き放してしまうと、逃げてしまって元に戻れないから、必ず、連絡出来る様にしていて、逆に、相手が異常に追いかけて来ても、直ぐに100%応じる様なことをせず、時間と距離を置いて冷静に判断せよ!」と。専門過程で一番忙しい時だったので、1ヶ月に1回しか会わないことにした。しかし、毎日毎晩、夜の8時過ぎに電話を3分間必ずすることを約束して、それを1日も例外なく私は守った(連絡できそうにない日は、その旨を前もって必ず伝えていた)。

○専門2年、6月19日(火)晴。
 生理2の実習は、きつい。夕方6時に帰る人は一人もいなく、20時過ぎまで、皆、頑張っていた。0時過ぎまで頑張っている人もいた(教養部の時の物理学実験で、22時過ぎまでしていた人がいたが、それ以上であった)。多くの人が橋村病に罹患している。

 先輩の言い伝えでは、生理2に合格すれば、基礎医学は終わった様なものだとのこと。兎に角、橋村教授は、スゴイ学者肌の人で、自分の生理学を学ぶ100名の新しい学年の名前を毎年全部覚えていて、授業中抜け出したり、眠ったりした人は、バッチリ覚えている(生理2の場合は、殆どの人が皆勤で、授業中の私語は全くなく、皆真剣に聴いていた)。どんなに出来る学生でも、教授に不真面目と思われたら不合格になり、又、ある学生は、教授が家を移るというので、汗水たらして手伝ったが、見事に試験には落ちたそうで、出来ない人は何年経っても100%落とす人であった。
 この一科目の為に留年した先輩は多く、ある留年した学生は、生理学の本を枕にして毎日寝ていたという。以前は試験はなく、レポ一トと口頭試問だけであったが、このレポ一トが膨大で、殆どの人が、このレポ一トの為に何日も徹夜していた。つまり、本の丸写しは、即不合格で、生理学の基礎的なことを充分に熟知した上で、自分の頭で考え自分なりに考察を書かなければいけないので、その学生の真の実力が問われる訳である。
 出欠のチェックは極めて厳しく、授業中の始めと終わりに箱が回ってきて、決められた小さな紙に自分の名前とどこに座っているかも書いて入れ、それを生理2のおばちゃんが各人ごとに全部きれいに張って整理していた。
 この教授に対する学生の評価はさまざまで、学生をモルモットみたいに思っていると言う人や、鬼の橋村と言う人や、生理2ばかりが基礎医学じゃないと言う人もいたが、多くの人は、カントの様な正確さ(何月何日に何をするという計画を前もって先まで学生に知らせ、講義はベルが鳴って1分以内に始まり、ベルの鳴る1分前後に終わり、学生の質問には極めて快く、正確にていねいに答えていた)と学者肌に驚いていた。


(毎日、今も、小児の救急を続けている。それも、佐伯では、20時~21時まで、約20年間、毎日、した。今も、水曜以外は、19時半~20時まで受け付けて、毎日、土日祝は、殆ど自分が診ている。自分でも、この習慣は異常だと思っている。しかも、それをノートに今も(氏名、年齢、男女別、主訴、病名、現住所、重傷度を)記載し続けている。この調子だと、医者を辞めるまで、記録を執りそうな気がする(少なくとも、60歳までは、こんな感じで続けるつもりである)。
 看護学校での講義では、ベルが鳴って1分以内に始め、ベルが鳴る前後1分以内に終わり、前もって何月何日何をするのかの計画表をバチッと渡している。
 30年後に振り返ってみると、この2つの事柄は、恐らく、この当時に、その基礎が培われていたのかも知れない。)

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