日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

為になるかも知れない話(その33)

2007-03-16 13:02:33 | Weblog
 クラスで作った文集「雑草」より
        I口A司作(現在泌尿器科医)
 題「小さな人生のドラマ」
 もう冬も近いある日、僕はふと思い立って家を出た。湊住宅のバス停から磯とそ線に乗る。25円払って子どもの遊びに使うような小さな粗末な切符を買う。天文館まで約15分、虚しさの中で車窓の外に行き交う人の群に目をやる。ああ、あの人たちは、何が楽しくて生きているのだろう。
 急ぎ足で歩いている人、バス停でバスを待つ人、人それぞれに様々な人生がある。みんなは、やはり幸福を求めて生きているのか。明日を生きる為に、今日を生きているのか。それとも、美しい死に場所を求めて生きているのだろうか・・・そんなことはどうでもいいのだ。僕の頭の中には、どこのパチンコ屋で打とううかということばかりである。この前はリンデンでやって200円ハイライト1個しか取れなかった。フォーカスは、この頃さっぱりだ。さあどこでしようか・・・。天文館の信号は、なかなか青に変わらない。もう風が冷たい。
 みんな講義に行っているのかも知れない。寝ている奴もいるだろう。中国語の勉強にいそしんでいる人いるだろう。そして、僕はたった一人天文館にいる。何が面白くてパチンコなんかするのか・・・。勝った時だって何故か素直に喜べないあの寂しい心、負けた時は尚更のこと、虚しさにどこか遠くへ行ってしまいたくなる。それなのに、又今日も僕は何となくここまで来てしまった。暇だから、それとも部屋にいると人生のそこはかとない大きさに負けてしまいそうだから・・・。うちひしがれた僕の心は、何かを求めていた。人間とは、何故に生きるのかという大きな疑問の中にあって、やっぱりチューリップの沢山付いた台が良かろうと思った。
 僕は、グラハンに行った。広い店だ。福岡にもこれほどの店はそうない。何しろ人の多さには驚く。この人達も今日一日パチンコに賭けているのだろうか。僕だってそうだ。生活費も残り僅か、仕送りの来る日まで、まだだいぶある。僕もおもむろに内ポケットから百円札を取り出す。例えそれがどんなことであっても、こうしてひたすら情熱を傾けることが大事なのだ。
 僕は、祈るような思いで百円札をカウンターに出す。ジャラジャラ・・・少ない。50個のこの軽さよ。もう、昼を過ぎるとグラハンでは、空いた台は殆ど残っていない。どの台も出そうにない。ずっと見て回る。ウロウロしているうちに玉を2個拾った。どうしてパチンコ屋にいると、こうもせちがらくなるのだろうか?いつもなら一万円札が落ちていても見向きもしまいが(?)。 
 皆たくさん出している。大きな箱を2つも貯めているのに、口を尖らせてブツブツ言っている人もいる。よし、僕も頑張るぞ!どこにしようかと迷ってもはじまらない。心を決めて腰を据えた。次々に打って行く。だが、パチンコの玉はそうたやすくは穴の中に入らないようにできている。チューリップは、蕾のままだ。あっと言う間に、昼食代が大きな穴の中に消えた。(もう百円・・・)(バカな、もうやめるんだ)(でも・・・)心の中で葛藤が始まる。しかし、勝利への誘惑が僕の手を内ポケットへと導く。もう百円、・・・、明日の昼飯を抜けば何とかなるさ・・・。僕は再び50個の玉を大事そうに持って台を探す。そして、打つ。
 左隣は中年のいやらしそうなおやじであまり調子は良くない。右隣は空いているが、その台は僕の嫌いなやつだ。僕は、どっかり座って玉を込める。ピンピンと玉がはずむ。てっぺんに入るとチューリップが2つ開く。信じられない程入る。サイドに入ると2段あるチューリップのやつがピラッと開く。そしたらもう2個入ることになる。
 あっという間に玉が増えてしまった(これは定量台になるかも知れない)。隣のおじさんが恨めしそうに見ている。非常に気になる。横目でにらみすえる。それでもまだジャランジャラン玉が出てくる(定量かも知れない)。隣の人が負けて帰る。ホッとする。しかし、いつの間にかあまり入らなくなってきている。今まであれだけ入っていたのに、不思議なほど玉がはじき始めた。不安と焦燥が僕の心に頭をもたげてくる。(入らない・・・おかしい・・・どういうことだ)
 下の受皿にまで一杯だったのに少しずつ減り始めている。時々、思い出したように入る。(少し休もう・・・)タバコを探す。音楽が初めて耳に入る。「長崎から船に乗り・・・」聞いたこともないような歌謡曲である。再び挑む。右隣に若い女が座った。ますます気が散る。その女性、顔を見るとウェーとなるような厚化粧、しかしどんどん玉を出す。ああ今更ながら隣でやれば良かったと思う。場内アナウンスが「調子は如何ですか、当店は皆様方からよく出る店と喜ばれて・・・」何が調子がどうだだ!台を叩いてやりたい衝動に駆られた矢先、「台はお叩きにならないように」とこうくる。
 あと30発入らなかったら台をかわろう。1、2、3、4、・・・28、29、あっ入った。15発出るから15を引いて14、15、16,・・・23あっ又入った。8、9、10おっチューリップが開いた。しかし、これがなかなか閉じてくれない。入りやすそうで入らない。イライライライラ、これではパチンコにかつ筈がない。僕の顔は青ざめ、次第に首がうなだれてくる。
 生きることの喜び、・・・ああこの金属音と人混みとタバコの煙の中に何の希望があるのだろうか。もう、今更ハイライトを取ることさえもできない。僕はそんな虚しさの中に全ての精力を使い果たした。全ての金属球をはじき終わり、思いドアを開けて外に出た。
 陽は幾分か西に傾いていた。それまで真青に澄み切っていた空がいつの間にか、淡い紅に変わろうとしていた。初冬の肌寒い風が空虚な僕の心に寂しさを運んで来ては去って行った。僕は今日も決心した。
 もう絶対にパチンコなんてしないぞ!!

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為になるかも知れない本(その32)

2007-03-16 07:03:09 | Weblog
○教養2年、2月20日(日)晴。
 昨日、熱が39度5分もあって、田畑内科に行った。Aが僕の様子を見に来てくれた。隣の桂さん(既に社会人で、囲碁初段で、時々、囲碁を指していた)が、サンドイッチを持って来てくれた。隣の女の娘(沖縄の娘で、鹿児島大学教育学部で、雪が降った時、喜んで外に出てはしゃいでいたが、その後、彼女も風邪を引いてしまっていた)、お茶漬けを持ってきてくれた。今日は、38度8分あった。アスピリンを飲むと37度に下がって、又、上がる。こんな時、恋人でもいれば、気兼ねしなくていろいろ頼めるのになあと思った。

○教養2年、3月15日(水)晴。
 110単位(満単)、しかも、60中、40が優で、特に語学は、25単位中、優が20。次が、H嬢(熊本高)の104単位で、A(鶴丸高)とS嬢(鶴丸高)の100単位だった。この時、単位不足で教養から専門に上がれない人が10人いた。
 道端で、○○君と会った。彼とは自動車学校で知り合っていた。彼は、医学部目指して二浪していたが、大学を行くのを諦めて、就職していた。何たる相違。心の底から喜べない、複雑な心境だった。

○教養2年、3月29日(水)曇。
 2時からテニスの練習に行った。N間嬢(鶴丸高)と対戦して、4:3でやっと勝った。「乱打では差がないが、試合になると、Nは強い・・・」と松田は言う。そんなNに勝てた。(Nの高校も先輩の蔵屋嬢は、西医体のチャンピオンになっていた。蔵屋嬢は、臨床の腕も素晴らしく、鹿児島市立病院での専門3年生前の春休みの実習では、現在宮崎医科大学の池ノ上克先生がまだアメリカにいて不在中の時で、私は、蔵屋ドクターから、新生児に関していろいろと教えてもらった。その後、5つ子が生まれて、日本中を騒がすことになったが)


 大学受験では、同じ事の繰り返しで、はっきり言って、新鮮味がなかった。それに反して、自分にとっては、大学で学ぶ科目は、新しいことの連続で、面白かった。元々地学が好きだったし、語学も好きだったので、地学やフランス語やラテン語などは、楽しく勉強できた。文系の科目は、あまり難しいと思わなかったが、理系の科目、特に、大学の物理は難しく、講義も難しかったが、物理学実験に関しては、生物実験や化学実験(テキストは、全て英語で書かれていた)よりも、はるかに難しいと思った。今までの記憶の頭では全く解けない感じで、自分の頭で考えて、レポートを書くしかなかった。深夜までかかる人はざらで、翌日もしている人もいた。レポートが一度にパスすることは少なく、再再度、再再再度返されている人もいた。
 物理学実験では、二人ペアーで実験をするのだが、自分と組んだ相手が、阪大工学部卒の人で、優秀だった為に、後ろ髪を引かれる感じで、皆の目を気にしながら、夕方5時過ぎに、早々と帰っていた。





*ドイツ語は、医学部では、8単位必修(追試もあったが)だったが、その習得は、それなりに厳しかった。鬼の○田とか魔の○枝とか言う先生がいて(3単位)、魔の○枝先生の場合は、毎回、ベシュライベン(書き取り)をしていて、それが点数の半分になっていた為、本番の試験では、諦めて、受けない人もいた。教養2年後期のあるドイツ語試験では、先の鬼と魔の二人の先生以外に、講義でしたこととは全く関係ない感じで、辞書持ち込み可で、実力試験を課す先生もいた。
 教養2年の前期終了で、既に8単位習得した人は、1割足らず、そんな人は、人知れずに、ドイツ語を真剣に勉強してきていた人と思われる。(ドイツ語学習は、月刊雑誌のマインドイチよりも、NHKテキストの方がいいと私自身は思っていた)
 当時は、高校での大分県と鹿児島県の受験体制の締め付けは異常と言うべきもので、それに反して、宮崎県と熊本県の締め付けは緩く、それが、そのまま、大学教養部医学部でのドイツ語習得状況に出身県別に如実に現れていた。

http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20060802/4

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