日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

日本語を理解する為に(その23)

2007-03-03 18:37:25 | Weblog
 余り知られていそうにないヨーロッパの言語だけ、「ありがとう」を書いてみました。
 ヨーロッパに行く時、これを知っていると、何かの時に、役に立つかも知れません。
 マルタ語は、イタリア語(グ゛ラッツィエ)と似ています。ルクセンブルグ語は、フランス語と同じです。オランダ語は、ドイツ語(ダンケ)と似ています。ポーランド語とチェコ語は、ジェンクイエンとジェンクイで、似ています。ベラルーシー語とウクライナ語とスロバキア語は、ジャークィとジャークユとジャクイェムで、少し似ています。
 ブルガリア語とマケドニア語が、ブラゴダリャとブラゴダラムでそっくりですし、スロベニア語とセルビア・クロアチア語が、フヴァラとフヴァーラで、そっくりですし、アイスランド語とノルウェー語とスウェーデン語とデンマーク語が、綴りも発音も、よく似ていることに気が付きます。
 アルバニア語、ハンガリー語、フィンランド語が全く違う感じに思えるのは、この「ありがとう」の言い方だけではありません。他の言葉も大いに違うし、文法が全く違っているのです。
 言葉は、歴史をも物語っています。

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日本語を理解する為に(その22)

2007-03-03 18:35:53 | Weblog
 英語が全く通じない国に行っても、少しだけでも、現地の言葉で話してみると、別の世界が開ける。「こんにちは」「ありがとう」を知っているだけでも、コミュニケーションの深さが全く違ってくる。下手な発音でいい、本を見てもいい、兎に角、何とか現地の言葉で話そうとしている姿こそ、最大のコミュニケーション手段なのである。
 今、関取の中で、エストニアやブルガリアやグルジアやモンゴルの人がいる。そんな国々の人達の言葉を少しでも勉強すると、益々、親しみが沸いてくる。

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日本語を理解する為に(その21)

2007-03-03 18:31:40 | Weblog
 ロシア語は、33文字あり、大文字も小文字も、その筆記体もある。
 大文字と小文字で、字が違っているのは、わずか4文字のみ。
 他の言葉にないのに、母音を、硬母音字と軟母音字に分けるのがある。つまり、前に短い「イ」を添えて、軟らかい口調で言うことを、軟音化するといい、その軟音記号(ミャーフキーズナーク)がある。 
 筆記体と活字体が大きく違う感じのものがある。特に、「T」の小文字は、英語のmに似ている。書き順も、少し、難しい。
 


 ロシア語の動詞変化は、やはり、他のヨーロッパ言語と同じ様に、6つある。
 第一変化と第二変化がある。
 又、「CR動詞」と言って、最後にCRが付く動詞があるが、ただ、それが付いているだけである。但し、母音の後では、少し違ってくるが。
 「オバケ動詞」と言って、オバケが化ける様に、変化する動詞がある。



ロシア語を学ぶ初心者にとっては、その発音の仕方で、まず、迷う。
 私達を「ムゥィ」、君を「ツゥィ」、君達(貴方)を「ヴゥィ」と言うが、発音が難しい。
 タイ語やハングル語やインドネシア語やトルコ語などの東南アジアでよく発音される、口を横に引いてイを言う形でウと言えば、それに近い発音になると思う。
 アクセントがあるかないかで、同じOの母音字の発音が違ってくる。
 彼(OH)は、オンであり、彼女(OHO)は、最後にアクセントがあるので、アナ一と言い、それは(ONO)も、最後にアクセントがあるので、アナ一(ONO)と言う。
 分かりにくいのは、正書法の規則である。何故、こんなことになっているのかなあ・・・。

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日本語を理解する為に(その20)

2007-03-03 11:58:51 | Weblog
 書き順であるが、ちゃんと決まっているものが多い。
 以下に、ミャンマー語やチベット語やシンハラ語やカンボジア語やハングル語やアラビア語でよく使われる文字の書き順を例として掲げている。
 ○を書くのも、ハングル語やアラビア語では、逆向きになるし、ミャンマー語とアラビア語が、同じ○にしても、始点が違っている。又、口の字を書くのも、ハングル語は、日本語と同じになっているが、ヘブライ語になると、全く書き順が違っている。



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日本語を理解する為に(その19)

2007-03-03 11:53:45 | Weblog
 上半分に、ギリシャ語の書き方を書いている。書き順が、ちょっと間違えそうになる。下半分に、ヘブライ語のアレ(L)フベ(B)ートと、その書き順、筆記体などを書いている(アルファベットでは、何になるかも記載している)。アラビア語もヘブライ語も、大文字小文字の区別はない。しかし、ギリシャ語には、英語と同じ様に、ある(アルメニア語にもある)。 

 アラビア語の場合、コーランには、シャクルの記号が付けられている。しかし、アラブの人が普段書く場合には、しばしばシャクルが省略される。アラビア語の場合、28文字が、状況により、それぞれが4つに変化し(28×4通り)、さらに、シャクルも省略されているとなると、初心者には、難しい。 

 ヘブライ語(26文字に、文末に来ると、形が変わる文字が5つあるので、実際は、31文字になる)では、先のアラビア語の様に、4つも変化することはないが、筆記体と活字体の形が、大きく変化しているものが多く、それに、筆記体では、母音の発音記号であるニクダーが省略されている。

 赤の線で矢印でつないでいるのは、似た文字である。大きさだけが違ったり、長さだけが違ったり、曲がる方向がちょっと違ったりと、初心者には、難しい。 

 一番下に、熊本と書いているが、筆記体だけで読むとなると、例えば、コマムト、コマムツ、クマモツなどと、いろいろと読めることになる。ユダヤ人は、それで困ることってないのかなあ?


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日本語を理解する為に(その18)

2007-03-03 11:51:05 | Weblog
 ヘブライ語で書かれた旧約聖書の初めの文章である、「初めに神は天と地を創造した」なる文章、実際のヘブライ語では、以上の様に書かれている。
 「ベ(b)レ(r)シ(sh)ート バ(b)ラ(r)ー エラ(l)ヒーム エット ハシャ(sh)マイム ヴェ(v)エット ハアレ(r)ツ(ts)」

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日本語を理解する為に(その17)

2007-03-03 11:48:25 | Weblog
 ギリシャ語の挨拶は、フランス語やイタリア語と同じ様に、ブゥウォンジュール、ブゥウォンジョルノに当たる言葉は、「カリメラ」であり、ボゥウォンスワール、ブゥオナセーラに当たる言葉は、「カリスペラ」である。さようならは、フランス語では、オルヴワールであり、イタリア語では、アリヴェデルチであり、ギリシャ語では、「アディオ」である。大変ありがとうは、フランス語では、メルスィボクーであり、イタリア語では、グラッツィエミッレであり、ギシシャ語では、エフハリストポリーである。

 フランス語の気軽な挨拶のサヴァやイタリア語のチャオに当たる言葉は、「ヤス(複数の人には、ヤサス)」である。

 ギリシャ語のβの初めの発音は、ロシア語と同じく、Vの発音であり、δの初めの発音は、舌を噛んで有声にする発音である。

 ギリシャ語では、居酒屋のことを、「食べるな」と言う。しかし、正確には、tavernaであるが。

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為になるかも知れない本(その17)

2007-03-03 08:26:14 | Weblog
(平成19年3月3日記載)
 大学に入学しても、親は、特に、難関校を突破した大学1年生では、安心できない。
 つまり、今までの経過で、「人間関係欠乏症」の状態になっているかも知れないのである(私がそうであった様に)。
 人と友達になるのがおっくう、女性と話すと緊張してしまう、友達と騒ぎたくない、友達と一緒に何かを起こそうと思わない、自分に自信がない、人の目が気になる、・・・などである。その原因として、次の二つがあげられると思う。
 第一は、万事、勝ち負けや優劣を基準に育てられてきたからである。
 塾に通う(私は、通わなかったが)と、友達は皆ライバル。そして、大学入試の競争に勝つか負けるかが唯一の目標になる。勉強以外に、おけいこごとを始めても、周りの仲間が自分よりも上手か下手か、上達度がどうかが気になる。
 学習だけでなく、スポ一ツをするにしても、やはり、少しでも人よりも早く上達しようとする。
 負けることがいやで、負けると自尊心が強く傷つくので、敢えて何もしようとしなくなる。
 全ての面で本当に心の通い合う人間関係を体験しないで、競争の中で大学生になってしまったことが、大きな原因なのである。
 第二は、物事を万事、快と不快で区別する習慣になっていることである。
 深い人間関係を結ぶ為には、不快なことを超越する体験が必要である。例えば、自分の欠点を注意してくれる真の友人を持つには、不快な忠告にも耐えねばならない(親や配偶者だと、多くの人は、耐えられることが多いと思うが・・・)。
 人間関係で不快な思いをしたくないし、又、他人にも不快な思いさせたくないという、浅い次元でしか人間関係が結べないと、悩みを相談し合える本当の友人もできないし、本当に信頼し合える友人も出来ず、人間関係欠乏症に陥ってしまう。
 この二つの原因は、大学生自身の責任というよりも、受験本意に育ててきた親の責任、学校や塾(広くは、社会)の責任、それに、快的志向に偏った社会全体の責任といえるのではないだろうか。
 どうしたらいいのであろうか、・・・私が思うに、・・・自然の生き方に戻ること、つまり、「共生(調和)」と「知足の精神」を、小さい頃より、体得させることではないだろうか?!


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