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家を継ぐことへの雑感。

2007-01-17 07:54:54 | Weblog
 医師の家は、又、家を継ぐ傾向にある。三人兄弟の私の場合は、父が教員だったが、別に、何になれとは一切言われなかった。自分の子ども達、誰も医師になろうとしなかった。それで、別に、抵抗はないのだが、ずっと医師の家系の所は、そう簡単に断念できない感じだ。医師だけでなく、芸の家系や職人の家系でも、跡継ぎは、大変だ。
 特に、三代目は。
 三代目のことわざに、「三代続けば末代続く」「将は、三代」「名家三代続かず」「家の身の上見るなら三代目の朝起き見やれ」とある。
 江戸時代の徳川将軍で、有名な人と言えば、初代の家康、三代の家光、八代の吉宗。
 その三代目の家光に付いて。
 その実態は、・・・・朝、6時に起床、大奥(そこには、3000人の美女がいて、そこに行けるのは、将軍のみ)で目を覚まし、中奥で髪を整えて、祖父家康に祈りを捧げ、8時に朝食。キスの焼物と汁とご飯で、特別に豪華なものではなかった。10時になると、表と呼ばれる間で、午前中一杯、政を執る。武芸に特に秀でた家光は、鷹狩りをよくしていた。夕食を摂り、湯殿で汗を流した後は、床入り。大奥のしきたりを作ったのは、家光の乳母である春日局。正室が住む御台所と別に、春日局が指揮を振る大奥で、多くの女性に囲まれて床に就いていた。
 長男は、乳母が育てるのが戦国時代からの習わしで、その乳母が春日局(かすがのつぼね)(お福)であった。体の弱かった家光には、膳には、七色飯なるものが与えられた。弟の国松が生まれると、両親の愛情は、弟ばかりに行き、両親も周囲の人も、跡継ぎは、才能・人物・人気で、国松と思っていた。そんな中で、家光がすがることの出来る人間は、春日局と妹だけであった。それまでは、長男であっても、世継ぎになるとは限らず、三人兄弟の父親にしても、長男は切腹、次男は養子で、三男の秀忠が後を継いでいた。
 しかし、家康の一言で、家光の跡継ぎが決まった。
 「国松、控えよ!長男であり、世継ぎである竹千代(後の家光)とその家臣となるべき国松は、自ずと区別されるべきである。」との一言で(徳川実紀より)。
 家康のこの配慮に付いて、いろいろな意見が言われているが、長男が家を継ぐとしたのは、恐らく、優秀さよりも今からのもめ事の方を恐れたからと推測されている。
 28年間もの間、将軍としての家光ではあったが、秀忠がいる間は、実権はなく、晩年も政治から離れていた。

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