山上俊夫・日本と世界あちこち

大阪・日本・世界をきままに横断、食べもの・教育・文化・政治・歴史をふらふら渡りあるく・・・

学力を矮小化するな

2008年10月30日 01時48分44秒 | Weblog
10月28日の文章で、知事の発言と教育の諸問題について書いたが、書き残したことにふれたい。
 知事は、1年で大阪の学力を上げるといっている。人格の一部である学力、その学力の一部である例の学力調査の成績。これが上がるに越したことはない。だが目標に達しなかった場合、クソ教員のせいというのは目に見えている。なにしろ、今年の結果をみて「このざまは何だ。教員の給料を減らすのは当たり前」といったからもうわかっている。もし上回ったら、だれのせい?にするかも想像がつく。
 でも山積する大阪の教育課題を放置してテストの成績だけが上がるのか。上がったとしても他県も同様のことをしている。順位を問題にしているのだから、これはなかなかむずかしい。
 現在の学力問題で、気になることがある。それは、学力の向上が人格の完成につながらない傾向が一部で顕著になっていることだ。20年、30年も前は、学力がつくとともに、人格が向上するのは、いわば自明のことだった。勉強できる子が、クラスをまとめ、クラスのいい雰囲気をつくるのに貢献していた。担任の片腕だった。だが、今は、トップの成績の子が、そうでもなくなってきた。中学進学塾でわずか10歳のときから人をけおとしてのし上がる哲学?をたたきこまれ、勉強を道具視するようになる。9時半、10時に家に帰る電車に向かい、駅のホームを運動場代わりにかけまわる(遊んでいないから)。塾の宿題で忙殺され、学校を息抜きの場にする。すでにわかっているからと学校では勉強しない。勉強がわからず授業を遊ぶ児童と学校の勉強をないがしろにする児童がドッキングする。かつては担任の片腕だった児童がいまは正反対の働きをするとすれば、教師の負担は極限に達する。僅かのいきちがいが大きな傷に拡大するのは目に見えている。
 本来、学力がつくことは、知的な世界が広げることにつながる。自然についての認識がひろがる。社会の矛盾にも目がむくようになる。かつては豊かな家庭に生まれたものでも、社会の不正義、不公正、不平等に敢然と立ち向かう人が多く生まれた。人間的やさしさと、人権と言う言葉は知らなくともその精神を獲得していった。勉強の意味をねじまげるゆがんだ教育観・学力観がはびこり、こどもの人間成長をゆがめる傾向に危機感を覚える。
 だが、ゆがんだ学力は、人間的成長を阻害し、金儲けがすべてという人格的ゆがみを促進する。

だが人格形成(教育基本法では人格の完成)につながらない学力には肌寒さを感じる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする