山上俊夫・日本と世界あちこち

大阪・日本・世界をきままに横断、食べもの・教育・文化・政治・歴史をふらふら渡りあるく・・・

映画 「信さん―炭鉱町のセレナーデ」

2010年12月30日 15時39分30秒 | Weblog
 九条のシネヌーヴォで、小雪さん主演の「信さん―炭鉱町のセレナーデ」を見た。1ヶ月ほど前、NHKに小雪さんがでて、彼女自身のことや映画のことを語った。偶然その番組をみて、映画を見たいと思っていた。今日が最終日だった。
 監督は平山秀幸さん。1963年から70年ころの、まだ貧しい時代のとくに貧しい福岡の炭鉱町が舞台。小雪演ずる美千代は小学生の息子・守をともなってふるさとの炭鉱町に帰ってきた。洋服を仕立てて生計を立てる。いじめられた守を助けてくれたのが信一(信さん)だ。信さんは悪さもして親からせっかんを受ける。守の友人にいつもいじめられていた朝鮮人の子がいた。日本人には手を出すなという父親の教えを守って、この子はじっと耐えていた。
 守は高校へ行くが、信さんは炭鉱で働く。労働争議もあり、スト破りもある。信さんは守の美しい母に思いを寄せる。ところが炭鉱の爆発事故で多くが犠牲になった。信さんも亡くなった。炭鉱は閉山に追い込まれる。人生がもみくちゃにされる。友人の朝鮮人の子は高校でもいじめと暴力をうけたが耐えた。だが最後にいじめっ子をうちのめし、故郷を去る。人が去った町は商売が成り立たない。卒業した守と母も去る。
 小雪は田舎の炭鉱町ではとびぬけた美人だ。役者がそれぞれいい。小店をあきなう中尾ミエの役どころもいい。いい味をだしている。朝鮮人の父親が岸部一徳、信さんのは母が大竹しのぶ。いつもの大竹のイメージではなく、夫も子どもも炭鉱事故で失うという辛酸をなめつくす母を演じる。
 子役がまたすばらしい。地元の子どもたちだそうだが、昔の子どもをじつに自然に演じている。朝鮮の子の小学生時代と高校時代を演じた2人とも、民族差別への怒りを表にあらわさず、耐える生活をよく表現した。
 炭鉱町では目立った母子と友だちを中心に、時代の人間と生活をリアルに描ききった。リアリズムという言葉を思い出させた。漫画を原作にしたような大げさな映画が多い中で、久しぶりに心にしみる映画だった。
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乗鞍温泉で雪の露天風呂に入ったよ

2010年12月28日 09時20分33秒 | Weblog
 久しぶりに、年末のスキーに行ってきた。信州・乗鞍高原温泉スキー場だ。松本から梓川沿いに上高地のほうに行く。いくつものダム湖を越えて、上高地方面と別れをつげ、乗鞍・白骨方面へとすすむ。乗鞍のペンション村をすぎて右折すると白骨温泉だ。直進すれば乗鞍温泉スキー場につく。
 宿はスキー場へ2分くらいの「やまや」。1泊2食9000円の6畳部屋。3人で泊まったから、布団を敷くときは座卓を廊下に出さなければならない。民宿の風情だ。
 風呂は乗鞍岳から湧き出す源泉かけ流しだ。乳白色の硫黄温泉だ。硫黄のにごり湯は温泉にはいった~という感激がある。今度の乗鞍で、雪の露天風呂に初めて入った。夕方と朝の2回入った。
 そこで露天風呂報告。冬の露天風呂はやはりぬるい。夕方はゆっくり15分つかった。普通はゆでだこになってしまうが、ぬるいから出るに出られないのだ。1時間でも浸かっていられる。内湯にくらべて、竹筒から出る段階ですこし温度が下がっている。マイナス何度かの空気で湯船の温度はさらに下がる。湯船は1畳半くらい。
 朝の露天風呂がすばらしかった。夜に降った雪が風呂のまわりの岩にこんもりと積もっている。木の枝にも綿が乗ったように。遠くにある大きい木の枝の宿り木が杉玉のように見える。露天風呂に行くにはサンダルをはいて置石をあるく。置石にも雪が積もっている。裸のサンダル姿は人には見せられない。寒さで震え上がる。マイナス5度くらいか。細かい雪がさらさらと降っている。湯船にたどりついたらもう我慢できない。どぶん!と跳びこんだ。
 湯船の木枠にはびっしり氷が張りついていたのだが、湯がざざ~っと流れて溶けていった。湯の中から見ると、それでもまだまだ張りついている。湯の温度は? 夕方よりもっとぬるいように感じる。「首だけ出している雪の露天風呂」一首できた。頭に雪が降りかかる。乗鞍の雪はさらさらで水分が少ない。スキーでいえばパウダースノーだ。湯にも容赦なく雪が降る。温度が下がるわけだ。
 湯の中をもぞもぞうごいて、湯のそそぎ口の横に陣取った。でも温度はほとんど変わらない。そそぎ口の横で湯船の底に手をやると、ゴミがいっぱいあるではないか。それをひとつかみつかんで見ると湯の花だった。指でつぶすと湯が白くなった。硫黄の温泉の成分が一晩で沈殿してつぶつぶになったのだ。そういえば、どぶんと跳び込んだとき底からふわっと白い湯がわきあがった。自分の足もよく見えた。内湯では湯船の底まで見えた。もちろんにごり湯なのだが。おもしろくなって、底の湯の花をつぎつぎつぶしてはいずりまわっていると、なんと、湯に浸かった足も手も見えなくなってしまった。湯から手が出る寸前まで見えない。見事な白いにごり湯だ。
 これぞおすすめの乗鞍の湯だ。乗鞍温泉は旅館だけでなく、ペンションでも温泉だ。湯量の多さがこれを可能にしている。海抜1500メートルの高原だ。上のゲレンデは2100メートル。冬は寒いが、夏はさわやか、最高!
 
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なぜ自殺の事実をかくそうとするのか(府幹部職員自殺問題)

2010年12月22日 21時15分29秒 | Weblog
 ●なぜ自殺の事実を2ヶ月もかくしてきたのか。
 ●なぜ真相の究明をしようとしないのか。
 府幹部職員自殺問題では、重大な疑惑がある。府のトップたちは真相を知られたくないということがはっきりしてきた。わたしの前の記事のコメントでは、職員にはかん口令がしかれ、葬式にはでるなという指示がでていたそうな。
 知事はこれまでさまざまな問題、ささいなことまで口出しをしてきた。教育については、法的に知事の権限外で、教育委員会の専管事項だ。そこに越権行為の干渉をくりかえしてきた。大阪市制の中味にくちばしをさしはさみ、干渉をくりかえしてきた。小さいところでは、知事にどんどん意見を出して欲しいといいながら、率直に意見をいった平職員を新たに処分規定をつくって処分した。上司へのものの言い方が悪いから処分したのだといった。ささいなことで処分には値しないし、内部的に処理すればいいものを、あえてテレビの前でしゃべりまくった。
 この職員の上司への物言いが処分に値するなら、知事が他の組織とその長、例えば大阪市と大阪市長に対するものの言い方は厳罰に処すべきものだ。なぜなら、内部的発言より対外的発言のほうが責任、倫理ともに重いからだ。外部の組織に失礼な発言をしてもいいのなら、内部の発言のちょっとした逸脱などなんということはないし、処分はありえない。大阪府庁の常識は今や逆転したようだ。
 ひるがえって、今度の自殺事件はどうか。一人の人が自殺に追い込まれたのだ。9月14日の部長会議の議事録を読むと、知事が商工労働部長をきびしくやりこめている。ただ、声の調子は表現されない。しかし知事部局の人からの又聞きでは、部長は罵倒されたという。この部長が直接台湾出張の日程を担当した参事をよびつけて輪をかけた叱責をした。それがどうもその場にとどまらずに、何日にも及んだのかもしれない。事実はどうか。その挙句の自殺だ。家族の無念ははかししれない。
 不思議なのがメディアの動きだ。新聞は最低限のことを小さく報道しただけだ。テレビは首をすくめている。橋本氏の逆鱗にふれたら怖いから、知らぬ存ぜぬをきめこんでいる。完全な橋本茶坊主だ。こんなテレビからは放送免許を取り上げるべきだ。最近も夕方のワイドショーは大阪都構想で橋下を持ち上げている。
 もし、大阪の中学校でいじめ自殺がおこれば、テレビは現場におしかけ、インタビューをし、連日取り上げることは明らかだ。ところが府の幹部が死に追い込まれたことが隠されたままだ。
 このまま、封じ込めを許してはいけない。
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教員人事権委譲に異議あり

2010年12月21日 01時23分11秒 | Weblog
 大阪北部の5市町(豊中、池田、箕面市、能勢、豊能町)は、2012年度から、小中学校の教員人事権を府から委譲させることで協議をすすめている(『毎日』2010・12・18)。橋下知事と池田、箕面市長らのグループですすめてきたことだ。
 教員の採用、異動などを独自に管轄するというのだが、制度の大変更だ。現状のどこに不備があって、委譲によってどこがどうよくなるのか。制度変更の肝心のこの点がまったく明らかにされていない。じつに奇妙な制度いじりだ。だれがこれをいいだしたのか。橋下知事だ。箕面、池田市長らだ。教育委員会はいい加減にあしらわれている。池田市長にいたっては、府立高校の広い土地を売り飛ばす計画をつくり、知事がこれを府の正規の会議にかけるというかつては考えられない異常なことまでやっている(「府立園芸高校を勝手に売り飛ばす計画」については本ブログの2010年3月、4月あたりに掲載)。
 教員採用を地域ごとにやるとすると、地域によって応募や教員の質に差が生じることはあきらかで、この点は、府の教育委員会議でも最大の問題点として指摘されている。住んでいる地域によって教育に差が生じることはやってはいけない。現在は、教員を府が一括採用することで、府下どの地域であっても教員配置に差が生じない制度になっている。ところがこれをいじろうというのだ。
 現状にいちじるしい問題点があって、変えればこう良くなるという肝心の点がさっぱりわからない。
 12月20日の『朝日』によれば、5市町の首長と教育長の会議があり、13年度から独自の採用をはじめる、委譲案を来年に府に提出し条例制定を求めることをきめた。会議後の記者会見で、豊中の浅利敬一郎市長は「教育をどうするかは、住民に身近な基礎自治体の役割だ。地域主権の第一歩を踏み出せた」、箕面の倉田哲郎市長は「箕面市内には府内で唯一、施設一体型の小中一貫校がある。独自採用で小中の教員免許を持っている人材がほしい」といった。
 これを読んで、わたしはあきれてしまった。大事な教育をもてあそぶのもいいかげんにしろといいたい。小中の教員免許をもっている人がほしいなら、府に事前に要求しておけば、より多くの人数の中から配当をうけることができる。箕面市で、教職員組合が市の教育委員会と交渉したときに、なぜ人事権委譲をするのかときいたら、「教員に地元に愛着をもってもらうため」と答えたということをきいた。現在でも愛着を持ってみながんばっている。言うに事欠いてとはこのことだ。小中の教員は、遠くへの転居以外は、同じ市内の学校を異動する。市の教育に生涯をささげる人がほとんどだ。
 『朝日』では、箕面市長の発言につづけて、「一方、小規模の自治体で教員人事権を持つと、教員の採用や年齢、男女比などで偏りが出る可能性がある。能勢町の中和博町長は『田舎の学校に果たして希望があるのか、という不安があった』と複雑な胸中を明かした。」という指摘もある。この指摘はもっともだ。
 教育行政に口だしする市長が目立つ。20年も前なら財政も豊かで、開発行政で好きなことができたのに、今は財政的にすき放題できないので、地方の権力者にとっては未開拓の分野=教育に手をつっこむことが魅力となっているようだ。なぜ未開拓かといえば、教育行政は法律によって政治の介入を排除しているからだ。それは、過去の軍国主義が教育を利用したことへの反省から、政治から独立させることが戦後教育の根本原則になってきたのだ。ところが橋下知事は、教育委員会を罵倒し、こんなものはいらないと攻撃をはじめた。彼がいうには、今は軍国主義が教育を席巻し、利用することはありえない、だから教育行政の独立の必要はないというのだ。一見、もっともだと思いがちだが、これは彼一流のレトリックだ。問題は軍国主義だけでなく、権力が、あるいは権力者が教育に介入し、支配することが間違いだとして排除しているのだ。子どもを育てる、人格の完成をめざすのは、教育の普遍的な原理に立ってのみ成しうることだ。その時々の政治家に指図されることは、教育の最大の不幸だ。橋下氏は、今は、軍国主義が介入支配する心配はないから、政治家が教育行政に口出しすることは悪くないというのだが、今は、軍国主義に代わって新自由主義が教育を支配しようと全国を徘徊している。教育の市場化、自己責任論と競争原理で教育を再編成しようというのだ。教育の平等は破壊される。曲がりなりにも公立学校で保障されてきた教育の平等が。府立高校で10校を特別扱いして、毎年2億円を投じる。その名前も、グローバル・リーダー育成高校のような名前にするらしい。これも橋下氏がいいだしたことだ。教育委員会も完全に振り回されている。府立高校の多くの家庭の子どもを明らかに差別している。
 人事権委譲の政治的な動きは、教育の必要から出たものではなく、すべての子どもに平等に教育をという理念を破壊するものだ。こんな道理のないことをやすやすと通してはいけない。
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教員人事権委譲に異議あり

2010年12月21日 01時23分11秒 | Weblog
 大阪北部の5市町(豊中、池田、箕面市、能勢、豊能町)は、2012年度から、小中学校の教員人事権を府から委譲させることで協議をすすめている(『毎日』2010・12・18)。橋下知事と池田、箕面市長らのグループですすめてきたことだ。
 教員の採用、異動などを独自に管轄するというのだが、制度の大変更だ。現状のどこに不備があって、委譲によってどこがどうよくなるのか。制度変更の肝心のこの点がまったく明らかにされていない。じつに奇妙な制度いじりだ。だれがこれをいいだしたのか。橋下知事だ。箕面、池田市長らだ。教育委員会はいい加減にあしらわれている。池田市長にいたっては、府立高校の広い土地を売り飛ばす計画をつくり、知事がこれを府の正規の会議にかけるというかつては考えられない異常なことまでやっている(「府立園芸高校を勝手に売り飛ばす計画」については本ブログの2010年3月、4月あたりに掲載)。
 教員採用を地域ごとにやるとすると、地域によって応募や教員の質に差が生じることはあきらかで、この点は、府の教育委員会議でも最大の問題点として指摘されている。住んでいる地域によって教育に差が生じることはやってはいけない。現在は、教員を府が一括採用することで、府下どの地域であっても教員配置に差が生じない制度になっている。ところがこれをいじろうというのだ。
 現状にいちじるしい問題点があって、変えればこう良くなるという肝心の点がさっぱりわからない。
 12月20日の『朝日』によれば、5市町の首長と教育長の会議があり、13年度から独自の採用をはじめる、委譲案を来年に府に提出し条例制定を求めることをきめた。会議後の記者会見で、豊中の浅利敬一郎市長は「教育をどうするかは、住民に身近な基礎自治体の役割だ。地域主権の第一歩を踏み出せた」、箕面の倉田哲郎市長は「箕面市内には府内で唯一、施設一体型の小中一貫校がある。独自採用で小中の教員免許を持っている人材がほしい」といった。
 これを読んで、わたしはあきれてしまった。大事な教育をもてあそぶのもいいかげんにしろといいたい。小中の教員免許をもっている人がほしいなら、府に事前に要求しておけば、より多くの人数の中から配当をうけることができる。箕面市で、教職員組合が市の教育委員会と交渉したときに、なぜ人事権委譲をするのかときいたら、「教員に地元に愛着をもってもらうため」と答えたということをきいた。現在でも愛着を持ってみながんばっている。言うに事欠いてとはこのことだ。小中の教員は、遠くへの転居以外は、同じ市内の学校を異動する。市の教育に生涯をささげる人がほとんどだ。
 『朝日』では、箕面市長の発言につづけて、「一方、小規模の自治体で教員人事権を持つと、教員の採用や年齢、男女比などで偏りが出る可能性がある。能勢町の中和博町長は『田舎の学校に果たして希望があるのか、という不安があった』と複雑な胸中を明かした。」という指摘もある。この指摘はもっともだ。
 教育行政に口だしする市長が目立つ。20年も前なら財政も豊かで、開発行政で好きなことができたのに、今は財政的にすき放題できないので、地方の権力者にとっては未開拓の分野=教育に手をつっこむことが魅力となっているようだ。なぜ未開拓かといえば、教育行政は法律によって政治の介入を排除しているからだ。それは、過去の軍国主義が教育を利用したことへの反省から、政治から独立させることが戦後教育の根本原則になってきたのだ。ところが橋下知事は、教育委員会を罵倒し、こんなものはいらないと攻撃をはじめた。彼がいうには、今は軍国主義が教育を席巻し、利用することはありえない、だから教育行政の独立の必要はないというのだ。一見、もっともだと思いがちだが、これは彼一流のレトリックだ。問題は軍国主義だけでなく、権力が、あるいは権力者が教育に介入し、支配することが間違いだとして排除しているのだ。子どもを育てる、人格の完成をめざすのは、教育の普遍的な原理に立ってのみ成しうることだ。その時々の政治家に指図されることは、教育の最大の不幸だ。橋下氏は、今は、軍国主義が介入支配する心配はないから、政治家が教育行政に口出しすることは悪くないというのだが、今は、軍国主義に代わって新自由主義が教育を支配しようと全国を徘徊している。教育の市場化、自己責任論と競争原理で教育を再編成しようというのだ。教育の平等は破壊される。曲がりなりにも公立学校で保障されてきた教育の平等が。府立高校で10校を特別扱いして、毎年2億円を投じる。その名前も、グローバル・リーダー育成高校のような名前にするらしい。これも橋下氏がいいだしたことだ。教育委員会も完全に振り回されている。府立高校の多くの家庭の子どもを明らかに差別している。
 人事権委譲の政治的な動きは、教育の必要から出たものではなく、すべての子どもに平等に教育をという理念を破壊するものだ。こんな道理のないことをやすやすと通してはいけない。
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大阪府職員自殺封じ込めはかる橋下知事

2010年12月19日 08時51分04秒 | Weblog
 職員の自殺問題が14日の府議会総務常任委員会でとりあげられ、議会後、知事は「こまやかな配慮にかけていた」「僕の組織運営のやり方が何らかの形で影響していたことは間違いない」と殊勝なことばをならべた。
 ところが、15日、批判をした自民党宗清議員の発言に対し、知事は報道陣相手に「何も調査していない一方的な発言」と激怒したそうだ。さらに謝罪や発言の撤回をもとめる考えを示したという(『朝日』2010・12・16)。議会終了後、「いいかげんな発言で、釘を刺しておかないと。調子に乗りすぎる」と憤ったとも。
 調子に乗りすぎているのは、橋下氏自身ではないかとおもう。法律に違反しほうだいの教育行政への介入はじめ数限りない。
 前日はしおらしい態度をとったかと思えば、一転して、翌日は猛烈な攻撃に出た。つぶしにかかったのだ。突っ込まれると自身の地位が危うくなると察知して、いつもの手法に出たのだろう。
 議員が議会で発言したことに、激怒して謝罪を求めるなど尋常ではない。ことは幹部職員の自殺問題だ。知事・商工労働部長のパワハラと思われる事態のもとでの自殺だ。その問題点を指摘して、逆に怒鳴られるとは。
 ねらいは、ここで激怒することで、マスコミをけん制することにあるのは明らかだ。まずテレビは震え上がって、見ざる・聞かざる・言わざるを決め込むだろう。
 知事は、報道陣に「部局にも確認し、色んな状況を踏まえたうえで指示を出していた」というのだが、どういうことだ。なら、なぜ、すすんで公表しなかったのか。
 議員は何も調査せずに一方的な発言をしていると激怒したのだから、心ある議員は精力的に調査をしてその結果を発表すべきだ。
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橋下知事のパワハラによる職員自殺

2010年12月15日 21時30分53秒 | Weblog
 12月15日新聞各紙に、大阪府参事が10月に自殺していたことに関し、府議会で問題になったことが報じられた。橋下知事は、記者に「ご遺族には本当に申し訳ない。僕の組織運営のやり方が何らかの形で影響していたことは間違いない」とのべた。
 橋下氏の台湾出張を担当した商工労働ぶの参事が自殺したのだが、部長会議で橋下知事が杉本部長を罵倒し、これをうけて杉本氏が担当参事をさらに罵倒したことが原因で自殺したことは間違いなさそうだ。。
 パワハラにたえかねた参事が自殺に追い込まれたということだ。この件は10月初めの事件であるにもかかわらす、2ヶ月も隠蔽されてきた。そうとう黒い背景がある。ひとりの命にかかわることだ。問題を公に明らかにすべきだ。
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御堂筋の銀杏並木で気づいたこと 北半分・南半分で木の勢いが違う

2010年12月12日 21時24分26秒 | Weblog
 今日(2010・12・12)く教研の帰り、Mさんと別れたあと、御堂筋の銀杏を今年はまだ見ていなかったので、車で難波まで走った。
 昨日からライトアップをしているということで、テレビでも宣伝していた。夜は光がきれいなのだろうが、昼の、コードをぐるぐる巻きにされた銀杏の姿はいたいたしかった。もうほとんど葉はおちていた。北久宝寺町あたりでライトのぐるぐる巻きはおしまいのようだった。
 博労町あたりからは、銀杏の体が解放されたような感じだ。そう思いながら走っていくとあれっ!と思った。銀杏の葉がまだ元気なのだ。落葉してはいるが、まだ半分は残っているという印象だ。御堂筋北半分は、ライトアップの電線を巻く作業で木がいたぶられて葉も落ちてしまったのではないかと推測するのだが、これは間違いだろうか。
 この推測が正しいなら、ライトアップがきれいだなどとうかれているのは問題だ。だいたい、図書館以外の文化施設は基本的につぶす政策をとりながら、ライトアップが文化だと勘違いしているようなことに踊らされているようではなさけない。
 ところで、わが家の銀杏の木は、いま一番きれいだ。葉の中心部が黄緑で、周りが黄色だ。一番生き生きした黄葉だ。もっともきれいなときで、わたしはこの黄色がすきだ。とくに朝日に映えるときがいい。これが葉全体が黄色になり、山吹色から、やや黄土色がかってくると落葉のときを迎える。
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教研集会に参加

2010年12月12日 20時33分53秒 | Weblog
 12月11日、12日と箕面の箕面観光ホテルでおこなわれた組合(府高教)の教育研究集会に参加した。記念講演は朝日新聞記者の伊藤千尋さんの「憲法を活かして社会をかえる―世界68カ国を取材して」だった。バイタリティあふれる人だった。演壇の前に出て、下を向くことなくしゃべりつづけた。アフリカ沖カナリア諸島の9条の碑のはなし、露店で憲法の本を買うベネズエラの母のはなし、8歳の少年も憲法裁判をおこした平和を輸出する国コスタリカのはなし、米軍基地をなくしたフィリピン、エクアドルなどのはなし、いずれも9条の国日本が行動に移すべきことばかりだった。元気をもらった。
 そのあとの問題別分科会は「平和・人権・国際連帯の教育」にでた。国連子どもの権利委員会に大阪からだけでも26本のレポートがだされ、2010年6月11日、委員会は日本政府への3回目の勧告を採択した。勧告の内容は多岐にわたるもので、橋下の教育介入と全面対立するものを含んでいる。これから勉強しなければならない。
 12日の教科別分科会は社会科にでた。これも高いレベルものだった。
 インターネットでみて、社会科分科会に当日参加した青年もいた。この人は、非常勤講師をこの秋からはじめたばかりだという。例によって、手作り、手に取る教材の陳列紹介もあり有意義な会だった。
 帰り道、分科会でいっしょだったMさんと私の車で大阪まで帰った。Mさんは60歳すぎて定時制で教職についた異色の人だ。Mさんは、若いときは安定した職についていたがそれをなげうって演劇のみちにすすんだ。役者として生きてきたが、生活がなりたたなくなって、11年間トラック運転手をしてきたが、一念発起、大学で教員免許をとり、この春から社会科教員となったのだ。
 60すぎて人生の大転換をはかるその勇気に脱帽。もちろん橋下「改革」で賃金が大幅カットの講師生活では飢え死にしてしまう。だから昼は障碍者関係の別の仕事をしているという。毎日授業準備にも時間がかかり大変な生活だ。Mさんとは夏の支部教研で知り合った。教育労働者になったら教職員組合にすぐに入るという姿勢は、すべての教員が見習うべきものだ。組合にはいって、教研にも参加する。夏にいろいろ話して、そのご私の教材を参考資料として見てもらったりしていた。
 そんなこんなで、車の中で、これまでの波乱の人生をきかせてもらった。淀屋橋の駅でMさんを見送った。
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大根おろしの味

2010年12月10日 03時08分27秒 | Weblog
 昨日、昔からの友人の荒西さんが学校を訪ねてきてくれた。なつかしいHさんもいっしょだった。荒西さんに葉っぱのついた大根を一本もらった。Hさんには大福をいただいた。昔話に花が咲いた。
 その後、試験問題二種類のうちなんとかひとつを印刷までこぎつけた。解答用紙ふくめ3枚ずつ折って袋に入れ、6時半には金庫に納めた。
 家に帰って、もらった大根を食べた。大根そのものは小ぶりだったが、葉はすごく伸びていた。葉を2センチくらいに切って、炒めた。大根は一部を千切りに、キュウリをほそ切りに、蟹カマの切れ端ばかりをあつめたパックをほぐし、木綿豆腐をややほそ切りにして二つの皿に分けた。ひとつはマヨネーズ(渡辺徹さんおすすめのキューピー赤キャップ)であえた。もう一皿はコショウをふり、ごま油をかけた。ごま油だけなのに、こちらの方が塩分を感じる。カニカマの塩分なのだが、人間の味覚の感じ方はおもしろい。
 大根は大部分、おろしにした。新鮮で水分たっぷりの大根だ。醤油もかけずに食べた。これがなんともなつかしい大根の味だった。辛味たっぷり。最近の大根はすべて青首大根で辛味がほとんどない。多くの人に好まれる味に統一している。でもものたりない。久しぶりに昔なつかしい大根を味わえてうれしかった。荒西さんありがとう。
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東京でゴッホ展を観て都市の品格を考えた

2010年12月07日 08時48分59秒 | Weblog
 5日の日曜日、東京六本木の国立新美術館で「ゴッホ展」を観た。このために東京にいったのではなく、「森田俊男先生を偲ぶ会」に出席するために行ったついでに観た。
 美術館がいっぱいある上野ではなく、六本木にあるのにびっくり。国立の新しい美術館ができていたのにもびっくり。たくさんの人にもびっくり。地下鉄乃木坂駅から直結している。東京ミッドタウンがすぐそこにある。
 あらためて東京には美術館、博物館、図書館が多いことにおどろいた。これこそが都市の品格を決める。京都しかりだ。ここで思い出されるのが大阪だ。橋下知事になって、文化的にどんどん貧しくなっている。橋下知事は、国際児童文学館、文化情報センター、特許史料の博物館の廃止あるいは廃止予定、さらに図書館に攻撃の矛先を向けている。先日も、大阪府と大阪市の二重行政が悪い、その例として図書館をあげ、府立と市立の中央図書館が二重にあることが財政の無駄で大阪が沈滞した原因だといった。彼の発言は威勢がいいだけで、中身には疑問符がつくことが多い。これもそうで、府立中央図書館は、かつては中之島にあったが、今は東大阪市にある。全くの事実誤認だ。中之島図書館はビジネス資料中心の図書館に特化している。もしかして、中之島図書館を廃止して市場に投げ出そうと考えているのかもしれない。さらに昨日、橋下さんは、「大阪ほど、しょぼい街はない」と声を張り上げたようだ。だが文化的貧弱こそ、しょぼさの極みだ。橋下さんは、学生時代、そして弁護士になってからも、金にばかり執着していた。産経新聞のかつての連載にあるし、樺島弁護士もその点を批判している。彼は、文化には理解がない。大阪はわいざつな街、ギャンブルやキャバクラなどどんどん受け入れる、カジノの上がりで教育、福祉を、といった。大阪の品格はもっと下るだろう。
 東京の文化施設の豊富さにはびっくりする。それというのも国立の施設があることが分厚さをつくっている。橋下流にいけば、無駄だ、国立があるなら都立の美術館や図書館は廃止せよということになる。でもそんなことをする都市には魅力はない。橋下さんは、美術館は二重だからなくせとはいわない。なぜか。市立天王寺美術館はあるが府立美術館はない。じつは美術館的機能ももっていた文化情報センターはもう廃止した。府立弥生歴史博物館はつぶされる寸前までいったが今は何とか止まっている。でも廃止をねらっている。
 
 本題のゴッホ展にもどろう。展示作品はとても多かった。われわれが知っている明るい色調のゴッホの絵は、短い生涯の末期のものだ。わたしが注目したのは、農民の労働と生活を描いた一連の素描作品だ。彼は、ミレーの「種を蒔く人」に強い影響をうけたらしく、種まく人の素描が何枚もあった。土を掘る人の絵も多くあった。よくみると農夫は木靴をはいている。貧しい農夫一家のじゃがいもだけの夕食風景を描いたものもあった。ひきつけられた。
 有名な「自画像」が二枚あった。彼が住んだ「アルルの寝室」とその絵を元に寝室が会場に再現されているのにも目を引かれた。黄色い背景に青いアイリスを描いた「アイリス」もいい。額にはいった「アイリス」の複製画がほしいなと思ったが、6万数千円もするので当然やめた。
 肝心のフィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890)のことをあまり書かないまま終わることにする。前段だけで時間かかり疲れてしまった。
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映画「月あかりの下で」

2010年12月04日 09時44分16秒 | Weblog
 映画「月あかりの下で~ある定時制高校の記憶~」を十三の第7芸術劇場でみた。4年間にわたって撮影をつづけた貴重な記録映画だ。ドキュメンタリーなのだが、みごとなドラマになっている。教室と生徒の生活がドラマなのだ。重い生活を背負った生徒とそれをあたたかく、辛抱づよくささえる先生。平野先生の40人の入学生の4年間持ち上がりのクラスの記録だ。また学校の4年間の記録だ。
 だがこの浦和商業高校定時制は廃校にされる。2008年3月末をもって70年の歴史を閉じた。廃校反対運動に生徒・卒業生が奮闘した様子も映されている。教育委員会の人情味のない対応も暴かれている。
 社会の底辺の重い生活課題を背負った生徒をじっくり育て上げてきた定時制高校をなぜつぶすのか。正当性はみつからない。
 第7での上映はおわったが、自主上映はこれからもあるだろう。ぜひみてほしい映画だ。この映画をとりあげてくれた第7芸術劇場に感謝したい。
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北風で銀杏の葉は

2010年12月04日 09時28分00秒 | Weblog
 昨日、十三の映画館にいったのだが、午前中はいい天気だったのに、昼ごろから暗くなり、映画のあと帰る頃には強い北風で、街路樹の銀杏の葉が道路を埋め尽くし、また舞い上がっていた。街路樹の銀杏は相当葉が落ちてしまった。十三公園の銀杏も、北野高校の銀杏も随分落ちていた。なかにはスカスカになっている木もある。
 若い木がしっかり葉を蓄えているということでもないみたいだ。若い木の方がほとんど散っている感じもある。ゆっくり散って、ながく楽しませてほしいものだ。
 一方、わが家のせまい裏庭の銀杏はどうかというと、まだまだ緑で元気だ。正確には黄緑だ。なぜ違いがでるのだろうか。街路樹では土の部分が1メートル四方程度なので、弱いのか?でも土ばかりの公園の銀杏も黄色で相当散っている。だからわが家の銀杏がまだ黄緑の理由がわからない。
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白木蓮の葉がほとんど散った

2010年12月03日 09時22分43秒 | Weblog
 家の前の白木蓮の黄葉した葉がほとんど散った。以前は枝にびっしり付いていたのに、最近の風と雨ですっかり落ちてしまった。残っているのは、伸びた小枝にそれぞれ4、5枚。今にも散る寸前という風情で、かろうじてしがみついている。たらり、という感じだ。
 向うが見えないほど茂っていたのに、青空が完全にすけてみえる。枝と、垂れた葉っぱと、青空。冬の景色だ。
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ふしぎな頭痛と歯痛の体験

2010年12月03日 02時00分32秒 | Weblog
 11月に入って右の頭に軽い頭痛が始まった。わたしは頭痛持ちではないので気になっていた。でもとりたててどうこうということはなかった。
 ところが、1週間してからボーっとした痛みはこめかみに集中するようになり、すぐに右のあごのちょうつがいのところに、そして右奥歯の痛みへと移動した。11月9日の夜中寝ていたら歯の痛みが頭を突き抜けた。びっくりして起き上がった。たまらず、バッファリンを2錠飲んだ。我慢していると1時間ぐらいで効いてきて、やがて眠りについた。このときから1日に2回、あるいは3回バッファリンを飲むことになる。
 いままで、歯痛は経験したことがなかった。むし歯はいっぱい持っているが、それぞれ治療してきたので、歯の痛みは知らなかった。でも突き抜ける痛みにつづいて奥歯の重い痛みは我慢できなかった。歯を磨いても水が浸みて痛かった。治療した虫歯が内部で悪くなって神経にまで触ることになったのか、もしかしたら抜いてもらわないとだめなのかと覚悟した。
 大正区のわかば歯科に行った。頭を固定して、ぐるりとレントゲンを撮った。その後、すぐ呼ばれた。すると、治療をした歯に新たなむし歯は発生していないと、先生が言うのだ。えっ、どういうことだ。そういえば、わかば歯科に向かうあたりから、不思議に痛みはなくなっていた。痛いはずの歯に機械でシューと風を吹きかけても浸みないし、コンコンとたたかれても痛くない。割り箸をかみなさいといわれてかんでも痛くない。不思議だ。
 先生は、様子を見ましょう、一週間後にまた来てくださいといった。痛み止めをもらって帰った。3回分だった。
 その後、また歯痛がつづいた。でも突き抜けるような痛みはなく、重い痛みだった。もらった薬はすぐなくなり、家の置き薬のバッファリンを飲んだ。でも1日に2回ですんだ。1週間後、また、わかば歯科にいった。もちろんむし歯ではなく、痛みも軽くなっていたので、特に治療はしないことになった。むりやり削ることはしないほうがいいということで。痛み止めは多めにお願いした。
 その後、11月21日の日曜日あたりには、痛みから完全に解放された。こめかみも、ちょうつがいも痛くない。頭は快晴になった。
 むし歯でもないのに歯が痛む。頭にはじまり、こめかみ、ちょうつがい、そして歯へと痛みが下りてきて重くなる。だが20日間で、不思議に痛みが飛んでいった。
 不思議な体験だった。歯科へいって、虫歯はないといわれて、考えたのがこういうことだ。つまり、この痛みはストレスから来た痛みではないかということだ。ああ、そうなのだと納得がいった。
 6月に学校の「研究紀要」の担当の先生に論文を寄稿することを約束し、7月から準備をすすめていた。テーマは、「陸軍現役将校学校配属令による教練の強化と学校統制」だ。いくつかの学校百年史をしらべ、関係の研究書や論文を入手した。国立公文書館で興味深い史料も見つけることができた。文科省の中にある国立教育研究所もたずねた。研究論文としてのオリジナルな部分を出せるという思いもあった。でも、作業はスイスイとはすすまなかった。うじうじとして無為に過ごした休日も多かった。
 中間試験が終わったあと、10月末には必ずと担当者にいいながらも、31日の日曜日はむなしく過ぎた。思い返せば、その頃から頭痛が始まったのだ。学校でも、3年生のクラスの中に授業に集中しない状況があったこともひとつの要因だった。
 苦しみながらも、痛み止めをのめばすっきりしたので、薬にたよって論文の作業をすすめた。提出できる見通しがついた11月21日には、不思議と痛みが飛んで、頭は快晴になった。祝日の23日の深夜には、文字の点検整理もおえて、翌日版下を提出した。学校の数十人の職員以外にはほとんど広がりを持たない研究紀要だが、それでもいい加減なものを出すわけには行かないので、がんばった。その過程で体験したことだった。
 頭痛持ちではなかったので、初めてといっていいような、じつにうっというしい痛みの体験だった。それが、ストレスからきていることも驚きだった。わたしはストレスには強いという自信があった。うまく切り替えることができた。でも今度はまいった。
 今度の体験で学んだことがある。それは、子供たちのなかで、学校でのストレスから朝起きれないとか、おなかが痛くなるという形で症状があらわれるということは充分理解していたが、自分で体験をしたことで身にしみてわかったということだ。ストレスには強いと思ってきた人間でもそうなのだから、重圧や困難に対する経験のまだ少ない子どもたちには現れやすいのだと実感で理解した。
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