2015年は、私にとってそれなりに充実はしていたが、つらい年だった。
3大ニュースの第1は、椎間板ヘルニアと帯状疱疹に見舞われたことだ。2月半ば左腰に激痛が走った。以後3か月、右向きでしか寝られない、上向き左向きにはなれない状態が続いた。近くの整形に通ったが、レントゲンでは腰椎の間隔は正常。別の病院でMRIを撮ったところ、椎間板ヘルニアと判明。椎間板がグニュッと突き出て神経をへこませている。このころ10メートル歩くと痛くて立ち止まってこらえる、また少し歩くという状態だった。手術でないと無理だと思ったが、手術しない保存療法が基本らしい。だが、左腰・左尻・左股関節が痛い。快方に向かったのは、4月半ば、みなと診療所理学療法士の潮田先生の治療を受けてからだった。ここで詳細は書けないが、治療方法をさぐるための型どおりではないやり方にびっくりした。6月半ばには、ふつうに長い距離を歩けるようになった。だが、左つま先が右足の半分しか持ち上がらない。力がない。左足親指がまったく持ち上がらない。つま先立ちをする力は右と同じだけあるが。最終的にはこれは後遺症として回復しないと確定した。潮田先生は8月末まで足首・親指回復の方法を試みたが、ここで治療を終了した。
いまはスロージョギングができる状態だ。いまも毎日、治療中とおなじく股関節・腹筋のトレーニングをつづけている。
椎間板ヘルニアは苦しんだ末になんとか回復したのだが、12月1日からとんでもないものが襲いかかってきた。帯状疱疹だ。口唇ヘルペスは若い時から疲れたら出ていた。だがこれは初めて。左半身、背骨から腹まで8センチ幅の赤い帯が斜めに走った。尾形光琳か友禅流しかという風景だ。ウイルスは薬で抑え、症状は「枯れた」状態になったが、重大な後遺症が残った。ウイルスが神経組織を破壊し、脇腹の腹筋すなわち腹斜筋への電気信号が送れない状態になった。腹斜筋は脇腹のコルセット状の筋肉で、これでウエストのくびれができている。ところがここに信号が行かなくなったので、腹斜筋はだらんと伸びだ状態になっている。だからウエストのくびれとは逆の、内臓が外にぐっと押し出した状態になった。左わき腹がボヨンと出たままだ。見苦しいことこの上ない。それよりも体全体が締まらない。困ったことに、左腰の一部に痛みがでてきた。あきらかに体のバランスが崩れてしまった、とくに腹斜筋がゆるんでいるので腰の筋肉バランスが崩れたのだろう。ここ数日、1日に何度も、ドローイングを中心とした股関節・腹横筋・腹斜筋トレーニングをしないと、抑えられなくなっている。
そんなこんなで、2015年は身体の異変に見舞われた年だった。神経の回復には数か月を要するそうなので、新たな腰痛の波を抑え込む自主トレをしながら、回復を信じるしかない。神経回復を助けるビタミンB12を処方してもらっている。
第2は、安保破棄大阪実行委員会の50年史を書く仕事に追いまくられた年だった。これは2014年から書いているのだが、思うよう進まず、今年は追い詰められて、この冬は少しの気のゆるみも許されない地点にいる。2月初めから印刷所へ順次出稿し、2月末にはすべて出し終わる予定だ。これは遅らせることはできない。他の執筆仲間と励まし合いながらやっているので必ずゴールにたどり着けると思ってはいる。でも35年分を担当しているので重荷であることは確かだ。大晦日時点で、あと6年分が未執筆だ。10年前に比べて、集中力、継続力の衰えがひどい。毎日のように自分を叱咤激励しないとつづかない。
第3は、橋下維新とのたたかいだ。5月17日の住民投票はひとつのテーマでの、縛りのない運動ができたこともあり、勝利できた。大阪都構想なるものを明確に否決した。一応、引退を言わしめる成果をあげた。秋の選挙ではさまざまな困難があり、敗北した。でも5月の勝利がなかったら、状況はもっと悪くなっていただろう。
5月住民投票への1か月は椎間板ヘルニアとのたたかいをしつつ、橋下独裁への異議申し立ての1か月だった。
2015年は、映画にもほとんど行かず、本を買うのも抑制し、いろんな荷物を背負ってなんとかここまできた。あと2、3ヵ月、自分をコントロールして目的に到達しなければならない。
3大ニュースの第1は、椎間板ヘルニアと帯状疱疹に見舞われたことだ。2月半ば左腰に激痛が走った。以後3か月、右向きでしか寝られない、上向き左向きにはなれない状態が続いた。近くの整形に通ったが、レントゲンでは腰椎の間隔は正常。別の病院でMRIを撮ったところ、椎間板ヘルニアと判明。椎間板がグニュッと突き出て神経をへこませている。このころ10メートル歩くと痛くて立ち止まってこらえる、また少し歩くという状態だった。手術でないと無理だと思ったが、手術しない保存療法が基本らしい。だが、左腰・左尻・左股関節が痛い。快方に向かったのは、4月半ば、みなと診療所理学療法士の潮田先生の治療を受けてからだった。ここで詳細は書けないが、治療方法をさぐるための型どおりではないやり方にびっくりした。6月半ばには、ふつうに長い距離を歩けるようになった。だが、左つま先が右足の半分しか持ち上がらない。力がない。左足親指がまったく持ち上がらない。つま先立ちをする力は右と同じだけあるが。最終的にはこれは後遺症として回復しないと確定した。潮田先生は8月末まで足首・親指回復の方法を試みたが、ここで治療を終了した。
いまはスロージョギングができる状態だ。いまも毎日、治療中とおなじく股関節・腹筋のトレーニングをつづけている。
椎間板ヘルニアは苦しんだ末になんとか回復したのだが、12月1日からとんでもないものが襲いかかってきた。帯状疱疹だ。口唇ヘルペスは若い時から疲れたら出ていた。だがこれは初めて。左半身、背骨から腹まで8センチ幅の赤い帯が斜めに走った。尾形光琳か友禅流しかという風景だ。ウイルスは薬で抑え、症状は「枯れた」状態になったが、重大な後遺症が残った。ウイルスが神経組織を破壊し、脇腹の腹筋すなわち腹斜筋への電気信号が送れない状態になった。腹斜筋は脇腹のコルセット状の筋肉で、これでウエストのくびれができている。ところがここに信号が行かなくなったので、腹斜筋はだらんと伸びだ状態になっている。だからウエストのくびれとは逆の、内臓が外にぐっと押し出した状態になった。左わき腹がボヨンと出たままだ。見苦しいことこの上ない。それよりも体全体が締まらない。困ったことに、左腰の一部に痛みがでてきた。あきらかに体のバランスが崩れてしまった、とくに腹斜筋がゆるんでいるので腰の筋肉バランスが崩れたのだろう。ここ数日、1日に何度も、ドローイングを中心とした股関節・腹横筋・腹斜筋トレーニングをしないと、抑えられなくなっている。
そんなこんなで、2015年は身体の異変に見舞われた年だった。神経の回復には数か月を要するそうなので、新たな腰痛の波を抑え込む自主トレをしながら、回復を信じるしかない。神経回復を助けるビタミンB12を処方してもらっている。
第2は、安保破棄大阪実行委員会の50年史を書く仕事に追いまくられた年だった。これは2014年から書いているのだが、思うよう進まず、今年は追い詰められて、この冬は少しの気のゆるみも許されない地点にいる。2月初めから印刷所へ順次出稿し、2月末にはすべて出し終わる予定だ。これは遅らせることはできない。他の執筆仲間と励まし合いながらやっているので必ずゴールにたどり着けると思ってはいる。でも35年分を担当しているので重荷であることは確かだ。大晦日時点で、あと6年分が未執筆だ。10年前に比べて、集中力、継続力の衰えがひどい。毎日のように自分を叱咤激励しないとつづかない。
第3は、橋下維新とのたたかいだ。5月17日の住民投票はひとつのテーマでの、縛りのない運動ができたこともあり、勝利できた。大阪都構想なるものを明確に否決した。一応、引退を言わしめる成果をあげた。秋の選挙ではさまざまな困難があり、敗北した。でも5月の勝利がなかったら、状況はもっと悪くなっていただろう。
5月住民投票への1か月は椎間板ヘルニアとのたたかいをしつつ、橋下独裁への異議申し立ての1か月だった。
2015年は、映画にもほとんど行かず、本を買うのも抑制し、いろんな荷物を背負ってなんとかここまできた。あと2、3ヵ月、自分をコントロールして目的に到達しなければならない。