山上俊夫・日本と世界あちこち

大阪・日本・世界をきままに横断、食べもの・教育・文化・政治・歴史をふらふら渡りあるく・・・

安倍首相、ついに、突然辞めた。国民は健忘症に陥ってはならない!

2020年08月28日 22時33分31秒 | Weblog
 安倍首相が8月28日、首相辞任を表明した。健康上の不安から辞任表明に至った。これに対して、一部、いさぎよい辞め方だという評価をする人がいる。物事を正確にとらえることを妨害する物言いだ。気をつけなければいけない。安倍首相のやったこと、責任を負うべきことにどう責任をとったかで評価しなければならない。
 安倍首相はリーマンショックから脱し、東日本大震災からの復興への上り坂、経済的に有利に時期に政権に付いた。アベノミクスなるものをふりまいた。もうあとかたもなく、アベノマスクに姿を変えた。安倍首相は、つねづね「悪夢の民主党政権」といって品のない悪罵をなげつけた。リーマン・大震災が悪魔の時代なら、コロナで経済・社会が崩壊したのは「悪夢の安倍政権」となる。
 200兆の莫大な国債発行を事実上日銀引き受けさせ、株高を演出し政権浮揚をはかった。将来に負荷を負わせながら短期的・私的な欲得につぎこむ。これはのちのち、「悪夢の安倍政権」と呼ばれることになるだろう。
 安倍政権は、地球儀俯瞰外交が売りだった。たしかに世界80ヵ国ほど夫婦で訪問した。外交費で相当な手土産をばらまいたことだろう。世界から忌避されているトランプにへこへこと取り入り、戦闘機、イージスアショア(撤回に追い込まれたが)押し付けられ数千億もの無駄遣い。
 痛恨の極みだといったが、拉致問題のやる気のなさは拉致被害者家族を裏切るものだった。安倍氏は対話を徹底して否定し、北朝鮮政府の瓦解、または転覆に期待する立場をとりつづけた。まじめに被害者をとりもどす姿勢ではなかった。むしろ、この問題がこじれた方が選挙に有利という態度だった。その典型が2017年衆院解散だった。
 「北方領土」問題も同様。プーチンと28回対談したというのが自慢。北朝鮮と違って、こちらはウラジミールと媚びを売り、経済援助に後ずさりして国際法的に正面から領土を論じる気迫もなかった。手玉に取られていた。
 過去の自民党政権と違って、安倍長期政治の悪質さは、政治の私物化が際立ったこと。森友・加計学園問題で象徴的にあらわれたお友達優遇政治。さらに桜を見る会でも、じつにせこい内容の私物化を数知れずやる。公文書隠ぺい、改ざんという民主政治の土台破壊を平気でおこなう。
 責任を痛感、説明を尽くすなどといいながらいっさい責任を取らない。その厚顔無恥は相当なものだ。辞任によって、これらは闇に葬ったまま以後責任を取らないのだろう。
 安倍首相で唯一よかったのは、憲法改悪が実現しなかったことだ。7年8か月は平和憲法にとって最大の危機だった。9条改悪を許さない世論と運動がついに平和憲法を生かし続けた。国民にとって、憲法闘争の7年8か月はじつに意義のある期間だった。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「三島由紀夫VS東大全共闘」を観た。ヘイト右翼と三島との大きな違いを感じた。

2020年08月28日 14時30分01秒 | Weblog
 第7芸術劇場で「三島由紀夫VS東大全共闘」を観た。おもしろかった。1969年5月13日、東大駒場の900番教室といってもわたしには縁のない場所だが、そこで1000人ほどを集めていくらかの入場料を取って討論を行った。これをTBSが収録し保管していた。その時の討論に加え、出演?していた全共闘や、三島の同志・盾の会メンバー、平野敬一郎ら文化人がインタヴューに応じるという形でつくられたドキュメンタリー映画だ。監督豊島圭介。
 発言した全共闘のなかでは、芥正彦という人が一番目立っていた。他のひとはまだわかりやすい言葉であったが、彼は当時のそういった人の中ではとびっきりのカッコつけだと思われる。自分の小さい子供を肩車して登場し、たばこを常にくゆらせ(三島もずっとたばこを手にしていた)、難解で観念的な用語を操って、三島を挑発する。もっとわかりやすく言えと注文を付けてもいいのだが、論理的には成り立っているかのように思わせる言葉の飛躍に対しても、三島は怒りもせず、丁寧に答えた。
 わたしの心に次第に入ってきたのは、三島の態度と言葉だった。共鳴するわけではないが、おもしろかった。
 三島は超優秀な生徒、学生だった。しかし体は小さく、虚弱だった。終戦半年前に召集されるも、肺浸潤の誤診?あるいは疑いによって兵役を免れた。このこともあって、虚弱だったことがコンプレックスになっていたようだ。戦後10年ほどして、ボデイビルに力を入れる。小柄ではあったが筋肉を纏った体になった。彼は肉体を見せびらかすようになる。全共闘の討論でも学生は長袖、ブレザー姿なのに、三島は黒の半そでシャツで肉体を誇示した。
 三島には1966年公開の「憂国」という主演映画がある。自らの作品を映像化したものだ。2・26事件で反乱軍鎮圧に回らざるを得なかった軍人夫妻が悩んだ末に自殺する物語りだ。映画では三島はその裸をいやというほど披露し、自殺する前のセックスシーン、切腹シーン、おびただしい流血が描かれる。三島の美意識全面展開だ。高校を出た直後のわたしはこれを見て、嫌悪感をもった。三島は、全共闘との討論でも、エロチシズムを語り、エロスは肉体的緊縛を含む束縛にあるといっていた。暴力を肯定する点では全共闘と意見を共にしていた。
 三島は右翼学生らと結成した「盾の会」という武装組織をつくり、自衛隊の体験入隊をくり返した。1970年11月25日、自衛隊市谷駐屯地の総監室にのりこみ、総監を人質にとって、バルコニーから自衛隊員に決起をよびかけるビラをまいて、アジテーションをおこなった。しかし何ごとかと集まった隊員からは賛同の声は全く上がらなかった。クーデターのまねごとに終わった。まねごとで終わることは想定内で、総監室で切腹自殺をした。同行した盾の会4人のうち森田必勝が刀で介錯をした。三島の首は総監室に転がった。森田も切腹し、他の者が介錯した。ふたつの首が転がった総監室の写真が週刊誌報道された。
 この年は安保条約自動延長に反対する70年安保の年だった。その盛り上がりに危機を覚えた三島が起こした行動だった。日本国内のほとんどの人の感覚とはずれた行動だった。
 全共闘との討論では、若者の批判や挑発に感情的に反発することなく、しっかり受け止めて、まじめに答えようとする姿勢が目立った。相手の矛盾をついてやっつけてやろうという姿勢はなかった。正真正銘の右翼、天皇主義者だが、討論が成り立つ、言葉の世界に信頼をおいている人だと思った。
 これは、現在のヘイトスピーチ右翼にみられる討論や言葉の世界が成り立たないヒステリックな人々(杉田水脈に代表的な人格)とは、三島は全く違う。相手の言葉をうけとめて意見をのべるのが対話、討論だが、昨今のネット右翼や、ヘイト右翼はこれがまったく成り立たない。いちおう学者の藤岡信勝などもそうだ。いまの右翼は行きつくところまで行ったということなのか。わたしが三島を取り上げようと思ったのはまさにヘイト右翼との違いに注目したからだ。
 三島は、全共闘との厳しいが同じ地平で討論したその1年半後に、言葉の世界に見切りをつけクーデターのまねごとに身をゆだねた。1970年の時代の風景からは考えられない行動だった。異様な風景だった。三島は、切腹にエクスタシーと美を感じて「憂国」を実演した。しかしその現場はグロテスクなものだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

育鵬社の教科書を大阪市、東大阪市が不採択に!

2020年08月27日 22時00分18秒 | Weblog
 育鵬社の中学歴史・公民教科書を前回採択した大阪市、東大阪市が不採択にした。8月24日の両市の臨時教育委員会議で決定した。大阪では、河内長野市、四条畷市、泉佐野市でも前回採択されたが、今回は泉佐野が公民だけ育鵬社を採択したにとどまった。
 安倍極右内閣全盛を背景に育鵬社採択の政治運動が吹き荒れ、全国的に採択が広まったが、良心の声が巻き返しを図り、大きな成果を得た。大阪では安倍極右を上回る維新政治の下、育鵬社からは大阪が全国最大のお得意先になっていた。 
 学問研究の成果を無視するような教科書を押し付けられた生徒はたまったものではない。それを使わされる先生は教育的良心をえぐられる毎日だ。いちおう文科省の検定を通っているとはいえ、学問的に検証したら間違いだらけの代物だ。わたしも展示会に行って、育鵬社版について一点だけとりあげて意見を提出してきた。それは教科書の最初の方に「クフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵と比べても仁徳天皇陵は世界一大きい王の墓だ」と戦前の教科書記述をそのまま書いている歴史偽造についてだ。仁徳陵と称する大仙古墳は世界一ではない。秦の始皇帝陵は発掘されてもいなかった戦前ならいざ知らず、1974年井戸を掘っていた農民が発見した地下宮殿の一部が発掘調査がすすみ公開されている。現地に行ったら腰を抜かす規模だということは多くの旅行者が知っている。またクフ王のピラミッドよりも仁徳陵が大きいというが、2・5トンの石を270万個も積み上げたことを想像する方が探求心をかきたてる。ギザの三大ピラミッドにはスフィンクスもある。これを無視するのはいただけない。ここのスフィンクスは、三大ピラミッドの中で二番目に大きく、形が一番きれいなカフラー王のものと言われる。するとカフラー王のピラミッドとスフィンクスは仁徳陵をはるかにしのぐ面積になる。
 21世紀に、事実にもとづかない復古的なイデオロギーを教科書に盛り込んで学校で広めようとは恐ろしいことだ。じつは、育鵬社の教科書は「地域の歴史を調べてみよう」というコーナーをつくっていて、大阪に6ページ、同じく採択してもらっていた横浜に4ページを割いて、取り上げているのだ。最大の両お得意様に媚びを売って今度もお願いしますということだった。わたしは全頁読み込めていなかったので、平井美津子さんの論文で知った。
 だが横浜も含めて良心の風が吹き渡った。
 そもそも歴史公民そして道徳の教科書だけを、なぜ学問的に調査研究する能力がない教育委員がでしゃばって決めるのか。最終的に決定権があるのは教育委員会議だ。だが、教育委員がすべての教科書を読んで、研究するのは時間的にも、能力的にも不可能だ。ところが、侵略戦争肯定・憲法改悪イデオロギーをもつ教育委員が過半数を占める市ではつぎつぎと育鵬社版が採択される事態となった。本来、教科書の取り扱い審議会に依頼があり、それが学校現場の調査員におろされ、意見を順にあげて、推薦する教科書答申がなされて、一位推薦の本が自動的に採択されるはずのものだ。
 ところが安倍氏や杉田水脈や稲田朋美ら極右の人々が、大衆レベルでは幸福の科学などの宗教団体の動員応援をえて勢力をひろげてきた。大阪では維新橋下氏、全国では安倍直系の市長が登場し、教育委員の過半数を入れ替えた。教育委員会議は教育の条理に立って議論する場ではなく政治イデオロギーを実現する場に変質した。
 現場や専門家の意見を聞く必要はない、教育委員が責任をもって教科書を選定するのだというなら、本当に公開の場でそれをやるべきだ。まずすべての本を読んだかどうか、どこがよくて、どこに問題あるのか詳細に述べるべきだ。それには歴史でも公民でも相当な学力と研究心がないとできない。育鵬社を押し込むために教育委員につけてもらったひとにそんな力があるはずもない。
 もうひとつ。もし歴史・公民・道徳の教科書を教育委員が専決的に決めるというなら、小中学校の全教科の発行されている全ての教科書を読み、調査研究して決定すべきだ。もちろんそんなことはしないし、できない。天才的な能力があってもできない。それぞれの教科の範囲も内容も深い。だから専門家、現場の力を借りなければできない作業なのだ。
 歴史公民道徳以外は現場から上がってきた答申どおりに決めながら、これら教科だけは政治的決定で押し通すというのは論理的に破たんしている。今回、全国的に、批判が強まり、そして当該教科書自体の質が批判に耐えられなくなったために育鵬社は採択されなかった。ここ10年のおそろしい事態が是正され始めた。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水道の温度が、なんと30度!

2020年08月25日 23時14分28秒 | Weblog
 体温を越える猛暑がつづいている。水道の温度が高くて、生ものをあつかう際に注意しないといけない。温水のスイッチを入れていたかな?とパネルを見ることがあいついだ。
 そこで、水道水の温度を測った。なんと30度。ちょうど30度だ。温水に近い。湯を沸かすのにガス代が少なくていい、なんて考えていたらことの本質を見失う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナ対策よりも住民投票、住民投票強行が民主主義だという吉村・松井

2020年08月24日 16時18分22秒 | Weblog
 吉村・松井氏は言い方を変えた。実にズルイ。コロナの赤信号がつかない限り住民投票をすると言って、間違ってもつかないように基準をゆるめた。ところが、臨時議会を始めてから、赤信号のいかんにかかわらず住民投票はすると態度変更をした。信号がつけば絶対やらないとまでは言ってなかったとごまかしをして。信用ならない連中だ。とにかく強行すると宣言した。
 二人が言うのは、住民投票をやるのが民主主義だというのだ。あきらかに議員や首長の選挙と混同している。議員や首長は任期があり、それが切れる前にやるのが選挙だ。やらないのは民主主義に反する。だが住民投票は誰かの任期が切れるからやるのではない。そこでの民主主義は、徹底した議論が保障されているかどうかだ。人と人の距離を保て、面と向かってしゃべるなというのがコロナのもとでの生活の新しいルールだといわれている。そこで、議論が保障できるかどうかが問題だ。もしそれができないなら、保障できるまで延期するのが民主主義だ。形式的に投票だけすれば民主主義だとは笑わせる。ファッショ的民主主義だ。
 一回きりだといった5年前は、説明会という橋下独演会は39回やった。今回は8回の予定だという。それもせいぜい数十人から百人の制限付きだ。前回は数百人から千人も詰め込んでやった。独演会のスタイルが大阪市廃止構想の真実を明らかにしたわけではないが、説明会をやるという姿勢だけでも今回とは雲泥の差だ。今回は議論をスルーして投票にもちこみたいというズルさだけが目立つ。ズルさのついでにやるのが未就学児への5万円、60億円の給付金だ。市幹部さえも「住民投票を意識した大盤振る舞いのばらまき」といわざるをえない。税金を党派的に使う、私にいわせれは事実上の「買収」だ。
 これら一連の動きを検証すると、吉村・松井氏らのやることが権力の濫用であり、民主主義を腐らせるものであることが明らかになる。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松井大阪市長、住民投票ねらいで未就学児に5万円給付!所得制限なし

2020年08月21日 15時27分40秒 | Weblog
 松井一郎大阪市長が、8月20日びっくり仰天の発表をした。コロナ経済対策と称して、0~5歳の未就学児に対してひとり5万円を給付するというのだ。大阪市廃止をねらう住民投票直前の10月末に配る。投票直前に「買収」まがいの大盤振る舞いだ。しかも所得制限を設けないという。大金持ち(お金が増えて困っている人)にも配るのだ。12万人に60億円配る。20万人程度の親を税金で「買収」するのだ。
 よその市でもやってるらしい。ただし、仙台市、堺市は新生児に5万円。新生児はお金がかかる。横浜市、川崎市は児童扶養手当の受給世帯に2万円だ。これも困っている人に対してだ。
 5歳までの子全員に、所得制限かけずは全国唯一、異例だ。「朝日新聞」では市幹部の「住民投票を意識した大盤振る舞いのばらまき」という証言をとっている。幹部でさえ批判的だ。それが常識というものだ。わたしはこれを、税金による「買収」だと思う。半沢直樹の「倍返し」ならぬ「買収」だ。
 ただし公務員の子どもは対象外だという。ということは0~5歳全員ではない。親の収入ではなく職業を問題にしている。子どもへの給付事業を親の収入ではなく職業で左右するのは初めてではないか。そこに正統性はあるのか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドキュメンタリー『沖縄戦』を観る。西本願寺が製作。

2020年08月21日 13時55分55秒 | Weblog
 コロナで遠ざかっていた十三の第7芸術劇場に久しぶりに行った。太田隆文監督の『ドキュメンタリー 沖縄戦』を観るために。ナレーションは宝田明さんだ。宝田さんの魂の叫びのようなナレーションが心に残った。
 米軍のフィルムと生存者の証言、専門家の解説とをたくみに組み合わせて沖縄戦の悲劇を教えてくれる。1500もの児童が学童疎開船で犠牲になった対馬丸。生き残った平良啓子さんの鮮明な記憶が実相を示す。嘉数(かかず)高地の戦い、司令部のあった首里城の攻防。さらに渡嘉敷島での集団強制死。集団自殺とはいわない。中学生以上は学徒隊に編入され、残ったのは老人女性乳幼児児童。乳幼児児童がみずから死を望むはずがない。役場から手りゅう弾を二個ずつ配られ一家一族で固まって爆死を強制された。知花昌一さんは読谷村のチビチリガマとシムクガマの事実を説明する。チビチリガマでは140名くらいのうち、80余名が鎌や包丁でのどを切り殺し合った。「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓が軍国教育で一般住民にも徹底された結果だった。一方1000人もが避難していた同じ村内のシムクガマではハワイ帰りの農民比嘉平治、比嘉平三さんがアメリカは民主主義、殺さないよと、壕内の人を説得して、米兵と交渉し、全員が生存をかちとった。
 県民の3分の1が死亡した沖縄戦の実相をあますところなく教えてくれる。2時間近い作品だが、圧倒的な迫力だ。いまこそ、すべての人が見るべき映画だ。私が見たのは終了間際だった。だが、これからも全国の良心的な劇場で上映されるだろう。機会を逃さずに見てほしい。
 この映画を製作したのが、なんと浄土真宗本願寺派だ。西本願寺だ。えらい。東本願寺も西本願寺も、日中戦争・アジア太平洋戦争で、親鸞聖人の教えになきことを教えと称して、侵略戦争に門徒を動員したことを深く反省して戦争責任の罪責告白をしている。その実践のひとつがこの映画だ。イラク戦争にも、集団的自衛権容認の戦争法にも反対した。ものを言わない教団もあるが、小泉・安倍政権を支えるために戦争の道にはまり込む教団もある。そういうなかにあって、西本願寺の『沖縄戦』製作は称賛にあたいする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安倍首相、侵略戦争への反省なき式辞

2020年08月16日 11時37分38秒 | Weblog
 2020年8月15日の全国戦没者追悼式での安倍首相の式辞は最悪のものだった。広島長崎での式辞と合わせて考えるとその思いはつのる。
 天皇の「おことば」は「過去を顧み、深い反省の上に立って」としているのに、安倍首相の「式辞」には、「反省」の言葉はない。これだけは言いたくないという気持ちだ。安倍首相は、日本の侵略、先制攻撃によって始めた戦争を「あの苛烈を極めた先の大戦」と災いが降って湧いたかのように、いかに日本が悲惨な目に合ったかをいいつのる。だが、より苛烈だったのは日本に侵略されたアジア諸国ではなかったか。そこに正義はあったか、国際法はあったか。彼は「苛烈」のなかに広島長崎、沖縄も含めるが、どれだけ冷たい対応をしてきたか。
 安倍首相は、これまでかろうじて組み込んできた「歴史に謙虚に向き合い」「歴史を直視し」という文言を葬り去った。植民地支配や侵略戦争への反省を投げ捨てた。1995年の村山首相の談話で築いた憲法の精神を最終的に葬った。
 安倍首相は、日本人の犠牲者に「御霊(みたま)安かれ」と祈るという。天皇はあくまでも「心から追悼の意を表し」と憲法にのっとった言葉を発しているのに、首相は霊魂をなぐさめるという特定の宗教的立場を国の行事に持ち込む。憲法違反だ。仏教では、とくに浄土真宗に至ると霊魂の存在を明確に否定する。憲法は当然、政教分離原則だ。
 おまけに安倍首相は、「積極的平和主義の旗の下、世界が直面しているさまざまな課題の解決にこれまで以上に役割を果す」と「積極的平和主義」なるものを「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」という文脈の中でもちだす。これは憲法の「恒久平和主義」とは似ても似つかない正反対のものだ。安倍首相の造語だ。憲法が否定している集団的自衛権を行使して自衛隊の海外派兵を進めて行こうという戦略だ。
 安倍首相はこの式辞を周到に準備して、憲法の精神を骨抜きにした。一方、広島・長崎でのあいさつはコピペと揶揄されたように心のこもらない、被爆者に寄り添うといいながらその実、核廃絶の願いを踏みにじったあいさつだった。
 広島・長崎のあいさつと戦没者追悼式の式辞は、力の入れ方は雲泥の差だが、悪い方向に誘導する点では響き合っている。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

香港警察、民主活動家・周庭さんらを逮捕

2020年08月12日 11時52分03秒 | Weblog
 香港警察は、10日、周庭さんら民主活動家10人を逮捕した。国家安全維持法違反だという。国家分裂、政府転覆、外国勢力と結託などの罪をつくりあげて逮捕だ。政府批判は、民主主義、自由の出発時点からの中心事項だ。中国も、民主主義推進をいう。だがその内実は中国風民主主義だ。批判を許さない、賛同民主主義だ。中国も国連人権規約を批准している。だが中身を理解せず、人権規約にのっとった行動に対して処罰する。
 国家安全維持法は、日本では治安維持法(1925~1945)に相当する。治安維持法は国体批判すなわち天皇主権を批判すると最高刑が死刑だった。裁判によらず、特高警察によって私的に死刑にされた人がたくさん出た。
 中国は社会主義でも何でもなく、経済は超格差資本主義の強権国家だ。中国共産党は共産党を名乗ることの正統性はみじんもない。
 12日、周庭さんは一応釈放された。だが自由が保障されたわけではない。あまりの国際的批判を前に少しかわそうとしているだけだ。香港の議会で審議もしていない国家安全維持法を習近平政府は押し付けた。国際公約(条約)をくつがえし、一国二制度を破壊した。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安倍内閣、「黒い雨」原告勝利判決に対し控訴。3日前の「被爆者の方々に寄り添いながら」心にもないごまかしの言葉

2020年08月12日 10時23分15秒 | Weblog
 安倍内閣は、「黒い雨」訴訟広島地裁判決(2020・7・29)について、高裁に控訴する方針を固め、直接の被告である広島県・広島市に押し付けた。県・市は国に控訴断念を申し入れてきたが、裁判に補助参加している国に押し切られ、屈服した。
 原爆の熱線で燃え上がった広島の街から灰やすすが上昇気流で7~8千メートルまでまいあがり、積乱雲をつくって激しい雨を降らせた。放射能を含んだ雨で、降雨地域の人は被爆した。黒い雨は広島長崎だけではなかった。大阪大空襲でも、6月15日の空襲で黒い雨が降った記録がある。ただし放射能は含まれていない。
 政府はこれまで、大雨地域だけを被爆者手帳交付の地域にしてきた。地裁判決は、認定地域外の原告84人全員を認定すべきだとした。これに対し、厚労大臣は地裁判決は科学的でないといったが、周辺部の小雨には放射能が含まれていないという科学的証拠でもあるのか。
 広島・長崎の式典で安倍首相は「被爆者の方々に対しましては、保健、医療、福祉にわたる支援の必要性をしっかりと受け止め、原爆症の認定について、できる限り迅速な審査を行うなど、高齢化がすすむ被爆者の方々に寄り添いながら、今後とも、総合的な援護事業を推進してまいります」(8月9日)と述べたが、じつにそらぞらしい。安倍氏がよく言う「寄り添いながら」は、寄り添ったふりをしながら足で蹴り上げることを意味している。高齢被爆者をムチ打つ政府の態度は許せない。


放射能を
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

核兵器禁止条約発効まであと6か国。核禁条約反対にこり固まった安倍首相

2020年08月10日 16時51分31秒 | Weblog
 8月6日、9日の広島・長崎の原爆の日に寄せて、核兵器禁止条約の批准書が4つの国から国連に届けられた。8月6日にはアフリカのナイジェリア、ヨーロッパのアイルランド、南太平洋のニウエから、9日にはカリブ海のセントクリストファー・ネービスからだ。50ヵ国で発効するので、あと6ヵ国となった。署名批准するなという妨害行動が核兵器国からやられているもとで、ようやくあと少しというところまできた。中満泉・国連事務次長が8日、核兵器禁止条約発効に向けて「締約国で具体的な準備をしていく段階となった」と発効への見通しを述べた。さらに「日本国内で議論を深めてほしい」と日本政府に要望した。しかし、安倍首相に議論を深めるような度量も見識もないことがここ数日で改めて明らかになった。なさけない限りだ。
 広島、長崎での被爆75周年の式典で安倍首相がのべたあいさつは、いつもと同じ、心に響かないものだった。しかも内容が悪い。核兵器禁止条約が締結され、発効まであと数か国という段階にあるにもかかわらず、核兵器禁止条約という言葉自体を使わない。この言葉を発することが忌まわしいと言わんばかりの態度だ。
 被爆者代表との会談でも記者会見でも、「核兵器廃絶というゴールは共有しているが、条約は我が国の考え方とアプローチを異にしている」と発言している。だが、この言い方には欺瞞があるように思う。ゴールは共有しているがアプローチが違うだけだというのならば、ちがうアプローチへの敬意、あるいは違うアプローチも認めつつともに連携するという姿勢がでてくるはずだ。安倍首相の発言・態度にはそういったものがまったくない。核兵器禁止条約への徹底した否定、嫌悪というものがあふれている。核兵器禁止条約の名前も言いたくない、実際言わないというのは、筋金入りだ。
 安倍首相はあいさつで、「立場の異なる国々の橋渡しに務め」るといってきた。橋渡しとは、「直接、交渉する方法のない両者の間に立って仲を取り持つこと」(「新明解国語辞典」)だ。日本政府は、安倍首相は、これまで3年間、どのような橋渡し実戦をしてきたのか。首相は一度も語っていない。
 核兵器保有国は核廃絶の立場ではない。保有国ではないが核の傘に入っている国も核兵器容認だ。一方、核禁条約を国連総会で成立させたのは122ヵ国の力だ。この両者の仲をどう取り持つのか。安倍首相が、核兵器の高性能化や使いやすい小型核兵器開発をくい止めるためにどう発言し、行動したか。聞いたことがない。ゴールは同じだがアプローチが違うだけというなら、アメリカなどが核廃絶の立場に立つように説得しなければならない。だがアメリカにはすり寄るだけで正面からものを言ったためしがない。
 「橋渡し論」は、安倍首相自身が核兵器容認の側にありながら、それをごまかす「だましの論」だ。
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉村・松井の「イソジン研究」政治パフォーマンスに異議

2020年08月05日 12時28分21秒 | Weblog
 8月4日、大阪の吉村・松井コンビが、イソジンなどのうがい薬でコロナの陽性率が減少したと「研究」成果をにぎにぎしく発表した。
 ポピドンヨードを含んだうがい液で1日4回うがいした人の唾液のPCR検査をしたところ、4日目で陽性率は9・5%に減った。うがいをしなかった人は40・0%に減ったという。府立のはびきの医療センターの松山晃文センター長らが宿泊療養している軽症・無症状の患者41人を半分に分けて行った研究だ。
 すでに研究者が論評しているが、やはり疑問がある。一番は、研究の発表の仕方だ。医学研究発表が、なんで維新府・市長の政治パフォーマンスとしてやられなければならないのか。まず、論文にまとめてしかるべきところに発表する、その際事前に査読を受ける。
 うがいをしなくても40%に減ったというのにわたしはおどろいた。イソジンでさらに減った。では、普通に水でうがいをしたらどの程度減るのか。研究者がすでに指摘しているが、研究というなら、うがい液でうがいした人としなかった人の比較ではなく、うがい液と水うがいとの比較をしなければ研究として成り立たないのではないか。松山氏らは、もう少し研究方法を吟味して慎重にすすめるべきだったのではないか。吉村氏らにあおられて、功を焦りすぎたのではないかと思う。調査対象も大幅に増やして、もういちど腰を据えてやってほしいものだ。
 次に、医学研究を政治ショーのように仕立てた吉村氏らのやり方にはへきえきする。本来なら論文で松山氏らが発表すべきものを、テレビを呼び込んで、イソジンはじめうがい液をずらっとならべてテレビのショーとして仕立てた。案の定、うがい液はすぐに薬店薬局から消えた。転売目的もある。株式市場が開いているときに記者会見をやったために、すぐに影響が出た。少なくとも市場が閉じたあと会見すべきだ。じつに非常識だ。つながりのある人たちがインサイダー取引に走っていないか、検証する必要がある。
 効果が薄い場合の責任について記者に問われた吉村氏は、「僕が責任を取るのは研究結果」と答えた。研究結果の責任は当該研究者にある。なにを勘違いしているのだ。人の研究を横取りするような発言だ。吉村氏がとるべきは政治責任だ。このような政治ショーに仕立てたことからくる政治責任だ。
 5月5日の旧「大阪モデル」にはじまって、7月3日の新「大阪モデル」そして8月4日「うがい液発表ショー」だ。国が何の基準も持たない中での旧大阪モデルは意味があった。しかし新大阪モデルはとにかく信号がともりにくくする、大阪市廃止住民投票を実施するために絶対に赤信号は出ないものに改変した。感染拡大をくい止めるための信号が、住民投票への道を清めるためのものにすり替わった。そしてうがい液だ。これで吉村、くわえて松井市長も同席させて(府立病院だから関係ないのに)、住民投票への足場を固めようとの魂胆だ。
 テレビももう少し、ジャーナリズム精神をもってほしい。あいかわらず吉村持ち上げだ。新大阪モデルの政治臭ふんぷんのいかがわしさは公然と掘り下げるべきだ。アベノマスクの疑惑を掘りだしたように、GOTOキャンペーンの腐敗を暴いたように。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする