1923年9月1日の関東大震災を機にくりひろげられた軍・警察・民衆による朝鮮人大虐殺から100年をむかえた。
「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れている」「朝鮮人が放火している」「暴動を起こしている」というデマにおどらされて朝鮮人を探しだし殺していった。その数は6000人といわれる。
1974年から虐殺犠牲者の追悼式典が日朝協会などによって続けられてきた。ところが今、歴史をねじ曲げ、否定する動きが激しくなっている。小池百合子都知事は就任翌年(2017)から追悼式典への追悼文の送付を拒否している。議会で問われて小池氏は「何が明白な事実かについては、歴史家がひもとくものだ」と虐殺の事実がいまだ明らかになっていないかのように事を歪曲している。
くわえて政府も同様の態度をとっている。松野博一官房長官は8月30日の記者会見で、朝鮮人虐殺について「政府として調査したかぎり、事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」とのべた。この説明は2015年の神本議員の質問主意書への答弁と一言一句同じことばのくりかえしだ。
ここにあるのは今の政府が100年前の帝国主義日本の植民地政策から何も変わっていないということだ。事実はいまだ究明できていないから、虐殺だといわれても政府としても東京都としても態度表明はできないというのだ。
日本人の中にはこのことについて認識が不十分な人が一定数いるのをいいことに、歴史をねじ曲げようとするあからさまなねらいがある。
「何が事実かは歴史家がひもとくもの」というが、歴史家の研究によって基本的事実はすべて明らかになっている。1960年代以降、姜徳相(カンドクサン)氏、松尾尊よし氏によって、公文書の発掘を含めて虐殺の真相究明がなされてきた。その他多くの研究者・市民の努力によって真実が明らかになった。いまだ暗闇の中にいるかのような妄言は通らない。事実を把握する記録が見当たらないというのは、権力犯罪を認めたくない者が逃れるための口実に過ぎない。
明白な権力犯罪、権力による大虐殺事件なのに、100年たっても事実はまだわからないといいつくろって逃げを打つ。戦前の暗黒政治を本質を今も受けついでいることを証明するような問題だ。
わたしは、100年たつのに大虐殺に国家としてけじめをつけず謝罪もしないのは、朝鮮人を再び殺すことになると思った。ところが今週の『赤旗日曜版』(9月3日)が「朝鮮人は三度殺された」の見出しで大特集が組まれていた。法政大学の愼蒼宇(シンチャンウ)教授が朝鮮人は三度殺されていると指摘している。1度は「虐殺の時」、2度は「事後処理における国家権力の隠蔽」、3度は「いま」。愼教授のくわしい論考は『前衛』9月号に載っている。ヨーロッパでは植民地支配の反省と謝罪に踏み出し、さらに奴隷制にも視野を広げている。ところが日本は、朝鮮植民地支配は合法的で正しいこと、見直すべきことは何もないとの態度だ。
戦争であっても6000人もの民間人虐殺は人道に反する戦争犯罪として責任を問われる。朝鮮人大虐殺は震災中とはいえ平時の日本国内での大虐殺だ。しかも軍と警察がその中心に位置して虐殺が成立した。未曽有の権力犯罪だ。ところが100年たっても、この大犯罪の真相究明をする気もないし、責任の追及もしない、被害者への謝罪も補償もしない。おそろしい国家犯罪を隠蔽し続けている。これで自由と民主主義の国だとよくいえるなと思う。中国のことを価値観を異にする権威主義国家で信用ならないと政府もマスコミもいう。たしかにその通りだ。自由も民主主義もない。加えて社会主義でもないし、中国の政権党は共産党を名乗る資格はもとよりない。中国の人権と民主主義を批判するなら、足元の日本の朝鮮人大虐殺を遅まきながらも、今から政府として調査をし(懇切丁寧な研究結果は山ほどある)、責任を明確にし、国家としての謝罪と補償に踏み出すべきだ。
政府が朝鮮人大虐殺に1ミリも踏み出さないのは、ここで責任問題と謝罪に立ち入ると、朝鮮植民地支配をいまも肯定している日本政治の土台を覆すことになるからだ。だが、植民地支配が正しかったといい張ることは21世紀の世界で孤立する道にはまり込むことになる。そのことがわかっているのか。
知らぬ存ぜぬで都合の悪い事は蓋をする。国民の多くが真相を知る機会が多くなっても、平気でごまかす。これではいつまでたっても内外ともに信頼される国には程遠いですね。情けない。