山上俊夫・日本と世界あちこち

大阪・日本・世界をきままに横断、食べもの・教育・文化・政治・歴史をふらふら渡りあるく・・・

橋下維新の「教育基本条例案」は違憲・違法のしろもの

2011年08月27日 16時15分29秒 | Weblog
 橋下維新の「教育基本条例案」は違憲・違法な条例案だ。憲法第94条は「地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。」と定めている。条例が制定できるのは、あくまでも法律の範囲内なのだ。法をひっくりかえす条例は制定できない。
 ところが、条例案は「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」(地方教育行政法)をくつがえす内容となっている。
 地方教育行政法はこうなっている。一部抜粋しよう。

「 第三章 教育委員会及び地方公共団体の長の職務権限
 第23条 教育委員会は、当該地方公共団体が処理する教育に関する事務で、次に掲げるものを管理し、及び執行する。
 1 教育委員会の所管に属する第30条に規定する学校その他の教育機関の設置、管理及び廃止に関すること。
 2 学校その他の教育機関の用に供する財産の管理に関すること。
 3 教育委員会及び学校その他の教育機関の職員の任免その他人事に関すること。
 4 学齢生徒及び学齢児童の就学並びに生徒、児童及び幼児の入学、転学及び退学に関すること。
 5 学校の組織編成、教育課程、学習指導、生徒指導及び職業指導に関すること。
 (以下略)
 第24条 地方公共団体の長は、次の各号に掲げる教育に関する事務を管理し、及び執行する。
 1 大学に関すること。
 2 私立学校に関すること。
  第四章 教育機関
 (教育機関の所管)
 第32条 学校その他の教育機関のうち、大学は地方公共団体の長が、その他のものは教育委員会が所管する。」

 教育委員会は、行政委員会であり、合議制の行政機関だ。教育行政の一般行政からの独立を保障するためのものだ。政治権力が、そして軍部が教育を支配した過去の反省に立って打ち立てられた原則だ。橋下知事は、軍部支配はもうありえないのだから、教育行政の独立などもう必要ないと教育委員会制度そのものに攻撃をかけている。しかし、軍部の教育支配の前に天皇制権力の教育支配が土台としてあったのだから、戦後、教育の民主化の中で政治支配そのものを退けるために制度がつくられたのだ。まさに、橋下氏のような、独裁こそ理想の政治と叫ぶ権力が教育支配をしないために作られたのだ。
 「教育基本条例案」は知事・市長が個別の学校の目標まで管理統制する構造になっている。『朝日』の要旨によれば、まず、「知事・市長は、教委との協議を経て、学校が実現すべき目標を設定する」。つぎにその目標について「教委は知事・市長の設定した目標実現のため指針を作成し、校長に指示する」。それを受けた「校長は教委の指針をもとに学校の具体的・定量的な目標を設定する」となる。
 高校の場合知事が、小中学校の場合市長が目標をつくり、教育委員会・校長はそれを忠実に実行する臣下となる。
 法は、知事・市長が所管する教育機関は大学と定めている。その他のものは教育委員会の所管である。知事・市長が指図をしたり、目標を定めたりする余地はまったくない。橋下維新が狙うのは、法を完全にくつがえすものだ。知って違法行為をするものは直ちに辞めてもらうしかない。  
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橋下維新の狙い=究極のランク付け、学校つぶし、教育支配

2011年08月27日 12時38分48秒 | Weblog
26日、府教委と私学団体、橋下知事の3者の会合が開かれた(『朝日』2011・8・27)。そこでは、府教委が今春の入試で募集人員を大幅にこえる合格者をだした私学を批判したのに対し、私学(有力私学)経営者側が「私立の入試は切り捨てを目的とするものではない」「私学の力を発揮し、募集人員を超える生徒もきちんと収容した」「(公立は)輪切り構造のなかであぐらをかいて、受験生を落とすだけの仕事をしている」などと述べたようだ。橋下知事は「公立からこれだけの生徒を奪ってくれて、私立の皆さんには感謝している。公立への刺激になり、公立に火がついた。」といった。
 今年の入試は異常だった。後期入試の府立全日制112校のうち、44校が定員割れになった。半分しか集まらない学校もでた。
 背景はこうだ。年収610万円の家庭まで私学授業料の無償化を拡大したことに加え、私学経常費助成を削減し、その上、生徒1人あたり28万円というやり方に変えた。この28万からさらに5000円ほどけずって積み立てる数億円を東大・京大等進学実績、甲子園出場実績のある学校に特別支給する。これまでは小さい私学には多めに助成してきた。小さくても同等の教育条件整備のためには金がかかるのを配慮して。
 09年度でいえば、生徒一人あたり助成額もっとも多い学校は57万円、少ない学校で14万円だった。生徒一人あたり配分額が多い20校は一人あたり平均41万円、1校約1億4000万円助成をうけていた。ところが橋下知事の予算配分は生徒一人あたり27・5万円の定額。平等なように見えて、究極の競争原理。その結果、上記20校は1校あたり1億円に減らされる。こうなるととにかくたくさん生徒をいれたほうが得をする。一人あたり助成額が少なかった有力20校は1校あたり約2億9000万円から約4億円に増える。府内の私立高校96校のうち多くは定員割れに苦しんできた。この橋下私学政策は徹底した弱肉強食で、有力私学を応援し、弱い学校はつぶすことを狙う。
 このやり方が、今春の入試を異常なものにした。有力私学を中心に、専願で定員を大幅上回って取るところがでた。急遽プレハブをつくったり、40数人学級にしたり、教育条件を無視して増員した。これまでなら、教育条件を改悪するような私学は次年度ペナルティが課された。ところが今年は、えげつないやり方をするところが橋下知事からご褒美がでる。もはや教育の世界とは思えない。小さい私学、定員割れをしても踏ん張ってきた私学も公教育を担ってきた。
 定員割れの府立高校が大量にでたことは、府教委の面目をつぶした。橋下知事の狙いは、公立私立とわず市場競争にひきずりこんで、負けた学校をつぶすことだ。22日に発表した橋下維新の会の「教育基本条例」の概要では、3年連続で定員割れをした府立高校は統廃合しなければならないとうたっている。維新はなんとしても統廃合したいので、府立の定員は変更してはならないということもいれようとしているようだ(22日の概要には含まれていないが)。
 橋下維新の会は、府立高校の学区の撤廃も打ち出している。150あまりの府立高校を徹底したランク付けをしようというのだ。そして目を付けた学校をつぶす。今でも、ランク付けによって多くの生徒が傷ついている。その傷をもっと広げる。傷つく子どもの気持ちを考えないものに教育を語ったり、携わったりする資格はない。これはゆずれない。
 維新は、学力調査データを市町村のみならず、学校別に公開しなければならないともいっている。なんで政治権力がここまで生徒をふみつけるのか。
 橋下知事の最終政治目標は、教育を支配することだった。一気にそれを成し遂げようとしている。これほど露骨に、しかも急激に教育支配をやろうとする政治家をわたしは知らない。
 
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独裁者が教育を支配する・橋下維新の会

2011年08月25日 12時27分53秒 | Weblog
 橋下徹氏は、6月29日、政治資金パーティで政治は独裁が一番といった。自分のパーティということで彼の本音が出た。「今の日本の政治に一番重要なことは独裁。独裁といわれるぐらいの力。これは僕は今の日本の政治に一番求められていると思う。」続けてこういう。「その代わりチェックも必要。チェックするのが議会であり、選挙でもあり、権力チェックの最強集団であるメディア。このバランスの中で、政治は独裁をしないといけない。」
 独裁者でも独裁礼賛はしないものだが、ほぼ独裁者になっている橋下氏が本気で独裁礼賛をしている。怖いことだ。この発言だけでも重大な政治問題になるはずだが、なんとこれを報じたのが読売、産経のみ。朝日、毎日は書かず。頭がぼけているとしかいいようがない。あるいは茶坊主。毎日は、数日おくれで夕刊編集長がコラムで厳しく批判した。議会は維新が議論を封じて採決をする。議会はチェック機関でなくされた、メディアは独裁者のちょうちん持ちばかり。独裁はテレビと共にやってくる。島田紳助の引退について、橋下氏は「知事になれたのは紳助さんのおかげ。紳助さんの番組がなければ、どう考えたって知事になれるわけがない」といった。そのとおりだ。その後は、さらに、テレビをフルに利用して(こびへつらうテレビを利用して)、議会も支配した。もはやどんな悪法でも通すことができる独裁者になった。これを放置していいのか。
 橋下維新の会が8月22日、「教育基本条例」「職員基本条例」の概要を発表した。はっきりいって、政治が教育を支配するための条例だ。独裁者が教育を好きなようにコントロールするためのものだ。自民党でさえここまではやらなかったしろものだ。
 これまでの地方教育行政法をひっくりかえす条例だ。地方条例は法の範囲内で制定できるはずだが、下位の条例が上位の法をくつがえすのだ。まったく違憲・違法な条例案だ。橋下氏は一応法律家のはずだが、これほど法を無視する法律家を知らない。
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府庁移転断念、与えた損失の責任をとれ

2011年08月20日 08時16分19秒 | Weblog
 橋下知事が18日(2011・8・18)、府庁本庁舎を埋立地の咲洲に全面移転させるのを断念したと発表した。だがWTCビルを第2庁舎として買収し、2000人の職員を移転させている。
 橋下氏は、移転案を否決されても同じものをまた提案し、こんど3度目を目論んでいた。だが専門家の意見の前に断念した。なにしろ3・11で関西で最大の被害を受けたビルなのだから。360箇所が損傷をうけ、エレベーターは全て止まり、5時間も閉じ込められた人がいたのだから。でも橋下氏は防災専門の河田・関西大教授の指摘に対して、考え方が古い、ビルの上階から津波をみて指示をだすなどと馬鹿なことをくりかえしていた。しかしようやく断念に追い込まれた。
 断念したことを潔いなどと提灯持ちをするうごきがある。とんでもない。長周期振動で甚大な被害を受け、防災拠点どころか救援される側にまわるということは、移転条例案が提案されたときに共産党議員団から指摘されていた。議会の意思としても防災の観点から否決した。
 それにもかかわらず、WTCビルを85億円で購入し第2庁舎として使っている。この庁舎を使い続けるには100億円もの抜本改修費がかかるであろう。橋下氏は大阪城の向かいの大手前庁舎を売却するつもりだったから、売却益どころか大手前庁舎の改修費70億円を支出しなければならず、合計すると大変な損害を大阪府に与えたことになる。重大な失政だ。責任をとってもらわなければおさまらない。
 わたしの友人の福井さんは、かねてより(3・11以前から)防災拠点にならない庁舎を買った責任を追求し、その費用を弁償させるべきだといっていた。このことが現実に求められることになった。
 昨日の「ちちんぷいぷい」という毎日放送の午後のテレビで、このことについて大学教授が、橋下氏が大阪府に与えた損害と失政の責任問題に言及した。高い支持率が怖くて責任追及しない雰囲気がつよいが、ここに至ってそれは許されないとも。もっともだと思った。
 橋下氏は、府庁の咲洲移転は関西復興の起爆剤だといってきた。アジアから企業を呼び込むと。しかしいいだしてから3年経つが呼び込みは完全に失敗した。なにしろ関経連や大阪商工会議所などの財界が、事務所を咲洲に移転するのさえ不便だとして拒否したのだ。身内でもそうなのだから、よその国の企業がきてくれるわけがない。起爆剤論はバブル崩壊後なんどもいわれ、ことごとく不発に終わった。それを2周遅れでやって、損失だけを与えて自爆した。
 損害を与えたことを追求しなければならない。
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野田佳彦財務相は辞任せよ

2011年08月18日 09時59分40秒 | Weblog
 野田財務大臣が、NHKの討論番組(2011・8・14)で、デフレ脱却のため需要を満たしていくうえで復興需要は「千載一遇のチャンスだ」と発言した。9日で辞任した松本大臣ほど下品な言い方ではないが、震災で苦しむ人々の復興への努力を、需要が足りなかったのを埋める役割を果たしてくれると捉える。被災者の立場に立たず、大資本家の立場むきだしだ。
 野田大臣はまた、15日の終戦記念日の記者会見で「A級戦犯と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではない」と主張した。野田氏の立場はA級戦犯を裁いた東京裁判そのものを否定するもので、サンフランシスコ講和条約にも反している。靖国参拝をくりかえした小泉首相でさえ、日本は講和条約で東京裁判を受諾しているといっている。当たり前のことだが。
 アジア諸民族2000万人、日本人310万人の命を奪った侵略戦争を計画・推進したA級戦犯が戦争犯罪人でなければ誰が犯罪人か。15年にわたる戦争はいいことだったのか。よその国に攻め込んで大量に殺したのは賞賛すべきことなのか。ひとり殺しても極刑になろうかというのに。侵略かどうかは、その戦争がどこでやられたかでわかる。日本が攻め込まれてやむなく戦った戦争ではない。そのような侵略戦争を免罪する歴史観を表明することは、大臣の立場と両立しない。直ちに辞任すべきだ。
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自然がすこしずつ復活している

2011年08月16日 11時14分37秒 | Weblog
 帰省して電車から田んぼを眺めていたら、ところどころにコサギがいた。灰色で体がコサギより大きいアオサギもいた。兄に聞いたら、田んぼにおたまじゃくし、カエル、ドジョウ、タニシなどがふえてきたという。農薬を減らしてきた結果だ。ホタルが復活したのは10年以上前に聞いた。
 湖西線を通って大阪にもどる車窓から見ても、琵琶湖畔の田んぼにコサギがたくさんといえるほど、あちこちにいた。アオサギもいた。
 石川県には能登や加賀でもかつてはトキがたくさんいた。亡くなったわたしの母は、トキ色ということはを日常的に使っていた。トキが羽を広げたときにみえるうす桃色をさす。
 白鷺たちだけでなく、トキも戻れるように地道に努力をつづけてほしい。
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慰霊でなく追悼が正しい

2011年08月16日 10時33分52秒 | Weblog
 8月15日、政府主催の全国戦没者追悼式が行われた。政府主催だけあって、特定の宗教的立場に偏しない「追悼式」としているのは正しい。
 世間では、意図してか、せずかはわからないが、慰霊式というのが多い。追悼は死をいたむということだが、慰霊は霊を慰めるということだ。慰霊は特定の宗教的立場である。
 問題は、人は死んだあと霊あるいは霊魂が残るのかどうかにある。神道は霊を認める。仏教は霊を認めない。人は死んだら、仏になる。厳しい修行をした人が成仏するか、修行しなくても阿弥陀如来に帰依するだけで成仏するかは宗派による。死んでも霊が残るという考えが流布したことで、立場があいまいになって、慰霊ということを口走ってしまう仏教宗派もある。
 浄土真宗はこの点でははっきりしている。人は死んだら何もなくなる、霊魂は存在しないとはっきりいう。親鸞の教えでは悪人でさえ仏になるのだから、霊魂がさまようなどありえない。もちろん、科学的には霊魂は存在しない。
 霊は存在し、さまよう霊を慰めなければならないという宗教的立場をとっているとは思えない無宗教団体(町内会のような)でも、安易に慰霊式ということが多い。戦没者に限らず、さまざまな事故の犠牲者についても、「慰霊」碑が全国にあふれている。もうすこし厳密に考えたいものだ。
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屋敷林が消えゆく地方の風景

2011年08月15日 23時33分45秒 | Weblog
 昨日今日(2011・8・14~15)小松へ帰省した。居眠りをして金沢まで乗り越してしまい、普通電車で小松まで引き返すはめになった。車窓からぼんやり風景をながめていてあることに気づいた。金沢に近い野々市あたりでは新しい家が立ち並んでいる。みると全くと言っていいほど緑がないのだ。敷地がせまいといえばそうだが、大阪ほどではないのに。そうこうしているうちに農村地帯へと風景が変わる。だが、昔見なれた屋敷林がない。敷地の広い家でも庭木は植わっているが、屋敷林はない。
 実家に落ち着いて兄にそのことをたずねた。村でも大きい木を守り育てている家はごくわずかになったという。大きい木を切るか、上を切って背を低くしているという。兄も庭木は手入れをしてきれいにしている。でも伸び放題にして大きくはしない。
 屋敷林といえば富山県砺波の散村が有名だ。固まって村をつくっていないので、各戸が意図して屋敷林を育てて防風林とする。砺波でなくても、農村では昔から家の周りに杉やケヤキ、柿などの木を植えてきた。みな大きく育っていた。大きくなりすぎて切ってもかわりの木がすぐに伸びた。屋根よりも高い木があるのが当たり前だった。ところがいまは屋根の上に木が顔を出している家が少ない。寂しい限りだ。
 大きくなると手に負えない、落ち葉の掃除に手間がかかるなどの理由を兄はあげた。それはあるだろう。でもそれだけではない。思うに、木が自由に伸びていた頃は、家に垣根がなかった。今は農村でもみな大谷石の垣根で敷地を囲い、外に向かって境界を主張し、内では小さい世界を楽しもうとしている。だから、背の低い庭木が人気だ。
 中国では、敷地いっぱいに建物の壁がそそり立つ。庭は中庭として、完全に囲われる。京都の商家の坪庭も同じと言えよう。中国の邸宅の中庭は、空気も空も囲い込んでしまう。
 日本の農村の庭は全く開放的だった。わたしの小さい頃は、どこの家の庭でも勝手に入り、横切ることが許された。つくりも考えも開放的だった。今は農村でも庭は閉じられている。木の成長をコントロールしようとしない考えは、人間が自然と一体化する、自然の中に自分を置く考えに通じる。
 木が屋根を超えてどんどん大きくなるのを許さず、人間の目の届く範囲に、脚立で手の届く範囲に閉じ込めて愛玩するのは、農村文化ではなかった。こんなことを考えると、加藤周一が戦後早くに日本の庭について書いたものを参考にしなければならなくなってしまう。
 手入れされた木は確かにきれいだが、でもわたしは、木は自由に伸びさせたいと思うのだ。大阪の狭い我が家の庭に3本の大きい木がある。ロウバイとハクモクレンとイチョウだ。白木蓮と銀杏はもう3階の屋根を超えている。脚立などなんの役にも立たない。道路まで広がる落ち葉に気兼ねをする。でも、立て込んだ大阪の街並みでちょっとだけでも自然を感じられるのではないかと見守っているのだ。
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福島原発での作業員の被曝線量は別枠にするという東電

2011年08月14日 12時34分59秒 | Weblog
 連日のように福島原発にかかわる報道をつづけている『赤旗』。今日(2011・8・14)のトップ記事に注目した。
 福島第1原発の作業に従事している労働者の被曝線量が「別枠」扱いされているというのだ。福島第1で働いた人が東電の別の原発で働く場合、福島での被曝線量が記載されず、被曝線量がゼロからスタートするのだ。労働者に取材して証言を得ている。東電は、赤旗の取材に「別枠は厚労省の見解をもとに実施した」というが、厚労省にはそんな文言はない。
 線量の限度をこえる作業員がどんどん出ると全国の原発運転に支障をきたすということで、労働者を使い殺しにしようというのだ。とんだもない話だ。
 徹底して追及しなければならない。
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福島原発での作業員の被曝線量は別枠にするという東電

2011年08月14日 12時34分59秒 | Weblog
 連日のように福島原発にかかわる報道をつづけている『赤旗』。今日(2011・8・14)のトップ記事に注目した。
 福島第1原発の作業に従事している労働者の被曝線量が「別枠」扱いされているというのだ。福島第1で働いた人が東電の別の原発で働く場合、福島での被曝線量が記載されず、被曝線量がゼロからスタートするのだ。労働者に取材して証言を得ている。東電は、赤旗の取材に「別枠は厚労省の見解をもとに実施した」というが、厚労省にはそんな文言はない。
 線量の限度をこえる作業員がどんどん出ると全国の原発運転に支障をきたすということで、労働者を使い殺しにしようというのだ。とんだもない話だ。
 徹底して追及しなければならない。
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シネ・ヌーヴォで映画

2011年08月14日 10時08分34秒 | Weblog
 大阪では、十三の第7芸術劇場とともに良心的な作品を提供し続けている映画館に九条のシネ・ヌーヴォがある。港区のとなりの西区にある。JR西九条ではない。地下鉄の九条だ。最近3本みた。
 ①成瀬巳喜男監督の1951年の作、「めし」。結婚5年の上原謙、原節子の夫婦の家に、20歳の姪が転がり込んできてさざなみを立てる。女性としての能力を発揮できず、家事にだけ追われる生活に不満を抱いた原節子は、実家の東京へ帰ってしまう・・・
林芙美子の原作(執筆途中に死去)だが、原節子主演でおしゃれな作品になっている。
 ②森繁久弥・淡島千景主演の「夫婦善哉」。1955年、豊田四郎監督作品(織田作之助原作)。1937(昭和7年)の大阪・船場のしにせの若旦那・柳吉(森繁久彌)が家を捨て臨時雇いの芸者・蝶子(淡島千景)とすごす生活。遊び人でだらしない柳吉をけなげにささえる蝶子。身を粉にしてかせいだ金を持ち出して帰らない柳吉。激しい喧嘩。それでも仲がいい。父や家に残した娘との確執。今よりはスカスカの感じの法善寺界隈が映し出される。昔の長屋風景もいい。ラストシーンは法善寺を片寄せあって歩く二人。雪が肩に積もる。時代は上海事変のときで、新聞は軍国主義をあおり、国民のあいだでも戦争熱が高まっていくのだが、映画はまったく別の世界を描く。したたかな庶民の日常を愛する。
 ③「黒い雨」今村昌平監督、1988年作品。井伏鱒二原作。1988年製作とは思えない。ロケ地の岡山の山村、バスやトラック、葬送の列などすべてが終戦直後のものだ。1950年代の作品のにおいがする。
 主人公のやす子は船で広島に向かっていたときに黒い雨に打たれた。市内で被爆した叔父夫婦に合い、3人で、黒こげの死体、皮膚が垂れ下がった腕を突き出して歩く人々の間を、ガレキを踏み越えながらさまよう。山村の叔父の家にたどりついて平穏をとりもどす。叔父の友人がつぎつぎと原爆症で亡くなる。叔父夫婦はやす子を嫁がせるために心を砕くが、被爆したことでうまくいかない。叔母も倒れる。やす子も発症する。やす子を静かに熱演した田中好子が印象的だ。今村監督の力量がしのばれる。音楽は武満徹。
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値段表のない店で夕食

2011年08月14日 09時27分07秒 | Weblog
 どこにも遊びにいかず、うだる暑さを耐えるだけの夏。せめて外食をと、自転車ですぐの「ふる里」へ行った。この店はなんと料理に値段が書かれていない。伊勢えび入り舟盛りコースは4500円などと書いてあるが、個別の料理にはない。
 でも、ふんだくられる恐れはない。頼んだのは、家族3人で、中ジョッキ3、小1、カルピス酎ハイ1、皮はぎ1匹の造り、鮎の塩焼き3、かつおのたたき、たこの天ぷら、鯛のあら煮、どて焼2、冷や奴、だし巻き。皮はぎなどを注文すると最後にその頭の味噌汁がサービスで出る。全体として量は多い。しめて10800円だった。満腹になった。値段表はないけど安心して飲める店だ。
 「ふる里」は港区磯路2-1-8 06-6571-1160
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職員を整理解雇する条例をだすという異常な神経

2011年08月09日 17時57分20秒 | Weblog
 橋下知事が9月議会に、教員や職員を手軽に免職にする条例をだすという。今日(2011・8・9)の夕方のニュースや夕刊で報じられた。国家公務員はもちろん、全国でも1例もない異常な動きだ。
 君が代規律斉唱などの職務命令に3回違反した教職員を免職するほか、組織編成で過剰になった職員を分限免職にするリストラ規定を盛り込んでいるという。大阪府の文化行政は橋下のもとで見る影もなくなり、イルミネーションはつけるが文化の灯は消えた。さしづめ文化行政に携わる職員は整理するということになる。ただし既に文化行政は消滅しているので、これからだと他の組織が狙われる。
 学校では、今年の入試で意図的な知事の施策で府立高校の大幅な定員割れが生じた。これを利用して、次は学校をつぶしにかかるだろう。潰した分だけ教員を整理解雇するのだろう。
 でも、学校では正規の職員が足らず、大量の非正規教員がいる。なぜか。府が金を惜しんで定数通り採用しないからだ。知事部局でも正規がへらされ非正規職員であふれかえっている。にもかかわらず、整理解雇する条例をつくる神経が理解できない。
 民間でもJALの整理解雇は、労働者が裁判を起こし有利な裁判をすすめている。裁判長が法と道理、人道の立場に立つならJALの整理解雇は断罪されるだろう。整理解雇には4要件が必要だ。①会社を維持するため人員整理をする必要性があること、②解雇を避けるための努力がなされていること、③解雇される人間の選定基準に妥当性があること、④労働組合との十分な協議がなされ、納得を得る努力をすること。民間だから勝手に解雇できるわけではない。この4要件に照らせば職員の整理解雇などとんでもない。
 橋下さんは、10月に知事の座を放り出して、大阪市長なることを狙っている。知事と市長のダブル選挙で維新の会が占領しようというのだ。その選挙で公務員を甘やかしていいのかなどと公務員攻撃の大キャンペーンをやるのだろう。公務員攻撃が票をかすめる最大のテクニックだ。21世紀は公務員攻撃が選挙に勝つ秘訣になっている。その先輩が小泉だ。郵政選挙で27万人の特権階級を放置していいのかと攻撃した。民営にすればこの特権階級はいなくなるとまくたてた。財界大資本家の番頭である小泉首相がその利益のために郵政労働者を特権階級よばわりしたのだ。詐欺師よりもタチの悪い言動だった。しかしマスメディアはこの手法に何の批判もしなかった。
 大阪ではテレビも新聞も橋下ちょうちん持ちばかりだ。今日のテレビでも、芸人などを利用して持ち上げる。円ひろしは、当然じゃないですかというようなことをいう、別の芸人も少しはピリッとするなどという。見識のない芸人のおべんちゃらの役割はおおきい。そうだそうだという雰囲気をつくりあげる。
 法に違反する条例をつくろうという橋下と維新の暴挙を許してはならない。
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初めての巨大できもの

2011年08月09日 16時24分47秒 | Weblog
 7月のやけつく太陽の下で、甲子園への夢を追って舞洲球場などに応援にかよっていたら、左の頬におおきな出来物ができた。親指の第1関節から先ほどのものがほっぺたに盛り上がっているという図だ。以前からそこには米粒ほどの脂肪のかたまりがあった。あとで病院に通うことになるのだが、脂肪の袋に菌が入って化膿したのだ。
 わたしは脂肪がどんどんたまって大きくなったのかと思っていた。でも1週間やそこらで急に膨らむのも変だとはおもった。このままいくとこぶとりじいさんのようなおおきいこぶになると思った。遠からず、こぶをバッサリ切り取ることになるのだと思っていた。
 湯河原の研究会でも変に思われていただろう。色が白かったので脂肪のかたまりとおもったのだが、やがて赤茶色に熟してきた。いや、やばい。
 皮膚科へいったら近くの外科へ行けという。この皮膚科はジンマシンで苦しんだとき随分世話になった。この医師も当日、体の調子が悪くて目が回っていた。診察を途中で打ち切って自身がベッドに寝込んでしまった。
 いわれたとおり外科病院に行って、穴を開けて膿みを絞ってもらった。両の親指でギュウギュウ絞られたのは痛かった。看護婦さんに汚かったですかと聞いたら、「汚かった、たくさん出ました」といわれた。次の日も絞り、さらに穴にピンセットを差し込んで、ひっぱりだした。穴にガーゼを入れてふたをした。毎日消毒とガーゼの交換にかよって1週間以上になる。今週には治るといわれた。でも頬にでかいガーゼをしてスーパーにいくのは少し恥ずかしい。
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痴漢冤罪のために懲戒免職―21世紀日本の暗黒―

2011年08月01日 16時28分20秒 | Weblog
 全国民主主義教育研究会の42回湯河原大会(2011・7・28~30)に参加して、横浜の高校教員が痴漢の犯人に仕立て上げられ、有罪とされ、あげくに懲戒免職、教員免許もとりあげられたという事件を知った。
 冤罪被害者は河野優司さんという社会科教員だ。『推定有罪・それでもあきらめないボクと家族の物語』というパンフレットを買った。パンフレットといっても147ページの立派な本だ。読み出したら怒りがこみ上げてきて最後まで読んだ。そのため翌日の研究会は一瞬居眠りしてしまった。
 刑事裁判の原則は「推定無罪」だ。疑わしきは被告人の利益に、つまり疑わしい程度では罰してはいけない、有罪が立証されるまでは無罪だ。ところが、この21世紀の日本は刑事裁判の99・9%が有罪となり、「推定有罪」、疑わしきは罰する、有罪の立証がないのに有罪にするという、真昼の暗黒の社会なのだ。映画『それでもボクはやっていない』は現実なのだ。
 勤続30年の横浜市立高校の教員・河野さんは、2006年1月15日(日)AM10:40、横浜高島屋地下食品売り場で二人の女性に痴漢行為をしたとして逮捕され、25日間留置された。
 一人目の女性は子供の手を引いていた。そのジーパン姿の女性の股間をすれ違いざまに右手でなで上げたということでの逮捕だ。しかし河野さんは右手にバッグを持っていて、そのような行為はできない状態だった。さらに、地下売り場には河野さんの娘さんがアルバイトをしていて、弁当を買うついでに娘さんの顔を見ようと思って高島屋に行ったのだ。娘さんが働いている近くで痴漢をする人がいるだろうか。検察官は最初から「やったと言って楽になれ」の一点張り。4通調書がつくられたが、右手にバッグを持っていたことと、娘がアルバイトをしていることが、河野さんの抗議によってようやく調書に付け加えられたのが最後の調書だった。それまで河野さんに有利なことは主張しても書いてくれなかったのだ。明らかな違憲違法。
 検察官が検察官なら、裁判官も裁判官。ひどい裁判だ。日曜の高島屋地下は混雑していた。ところが、裁判では被害女性の主張=現場は空いていたとされ、河野さん側が日曜の高島屋の混雑を撮影したビデオは証拠として採用されない。ガラガラのところで痴漢ができるのか。河野さんの弁護団の調査で痴漢現場の向かい側の店で試食販売をしていた店員さんは痴漢の騒ぎは知らないというのだ。一人目の女性は混雑で肩がぶつかったので記憶しているが、二人目の痴漢被害者については河野さんは全く認識していない。
 横浜地方裁判所(木口信之裁判長)は、2006年10月12日、執行猶予月の懲役4ヵ月を言い渡した。「被害者」の供述以外、有罪の証拠はひとつもなく、逆に無罪を推測させる状況証拠がいくつもあるにもかかわらず、変転をした「被害者」の供述は信頼性があり信用できるが、「被害者」の供述と相いれない被告人の供述は信用できないと、バッサリきりすてて有罪としたのだ。真相を究明することは念頭になく、被告人は有罪だとの思い込みでことを裁断するだけだ。あらゆる証拠をあつめて事実を認定するのではなく、有罪にするには都合の悪い被告人の証言(「右手にバッグをもっていて痴漢などできない、娘の働く近くで痴漢をするはずがない、痴漢行為は断じてやっていない」)や、証拠(「被害者」のいうのと違って現場は混雑していた=「被害者」の証言の信用性がない、現場向かいの試食販売の店員の痴漢騒ぎはなかったという証言)は採用しなかった。つまり検察の論告をなぞっただけの判決なのだ。
 横浜高等裁判所での控訴審は、2007年3月28日、初公判。だが高橋省吾裁判長は初公判で結審、次回判決を宣言した。あまりの暴挙に弁護団は抵抗したが、1回だけ弁論を行なって、4月23日判決公判となった。判決は、罰金40万円の有罪。事実を調べる気はまったくない。本件犯行は計画的でなく、前科がなく、執行猶予がついたとしても公立高校の教員の職を失う可能性が高いので、地裁判決は重すぎ、罰金刑にしたというのだ。一方で、判決では「被告人は、被害者らに対し、何ら慰謝の措置を講じていないのであって、被害者らが被告人に対する厳重処罰を望むのも当然である。さらに、被告人は、捜査段階から一貫して本件各犯行を否認し、被害者らが嘘をついているなどと不自然、不合理な弁解に終始しているのであって、反省の情は見られない」という。河野さんはひどい取り調べ、25日におよぶ留置にも耐えて、一貫して無実を叫び続けている。それをさして反省の情がないというのだ。やっていないものは反省しようがない。検察官は「認めろ、認めても大した罪にはならん、すぐ帰してやる」とさんざん懐柔をした。裁判官は検察官と同じ立場に立っている。
 最高裁に上告したが、最高裁では公判が開かれることはない。ある日突然、判決が送付される。2007年11月6日、最高裁第2小法廷(今井功裁判長)の「本件上告を棄却する」という判決が届いた。有罪が確定した。
 11月29日、横浜市教育委員会により懲戒免職処分がなされた。懲戒処分に関する情報開示を請求してもろくに公開しない。処分を決定した教育委員会議は、いっさい議論なしに原案の通り了承とした。懲戒免職は働く者には死刑にも匹敵する極刑だ。無実の人を何の審議もせずにあっという間に免職にする。これが権力というものの姿だ。
 検察には有罪の立証責任が無いに等しく、逆に無実を主張する被告人には無実を主張するだけでは100%有罪になってしまうので、無罪であることを立証しなければならないという逆転した事態があるのだ。しかも裁判所によって証拠は恣意的に選定される。申請された証拠はすべて採用した上で審理をすればいいのに、被告に有利な証拠は却下される。これでは、戦前の暗黒裁判と同じではないか。民主憲法はどこへいったのか。
 河野さんは、それでもあきらめないといっているが、この本を読んだ私は絶望的な気持ちになった。河野さんは、横浜市立高等学校教職員組合の役員をし、現場で授業をしながら副委員長もした人だった。
 
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