地域の新日本婦人の会のニュースに投稿した記事を紹介します。
「核兵器の非人道性を訴えつづけた日本被団協にノーベル平和賞」
日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)が、10月11日、ノルウェー・ノーベル賞委員会から2024年ノーベル平和賞を受賞しました。
その授賞理由は被団協の活動と役割を高く評価しています。
「核兵器のない世界を達成する努力、また目撃証言を通じて核兵器が二度と使われてはならないということを身をもって示してきたことによって平和賞を受賞する。」
被団協のたゆみない努力が、「核廃棄の使用は道徳的に容認できないとの悪の烙印を押した。」
「ノーベル賞委員会は一つの励まされる事実を認めたい。それは、過去の80年近く1発の核兵器も戦争で使用されていないという事実である。」
核廃絶を願い署名にとりくんだすべての人の喜び
被団協のノーベル平和賞受賞は、「核兵器の危機から女性と子どもの生命をまもります」と5つの目的のひとつに掲げてきた新婦人にとって大きな喜びです。
新婦人は、1978年の第1回国連軍縮特別総会に向けた「核廃絶署名」(新婦人分49万)、86年から2000年までの「ヒロシマ・ナガサキからのアピール署名」(1000万)、2016~20年の「ヒバクシャ国際署名」(165万)まで核廃絶の署名運動を中心にすえてとりくんできました。
2016年、被爆者の平均年齢が80歳を超えたとき、最後の大きな運動をと、核兵器を禁止する条約をすべての国に求める「ヒバクシャ国際署名」がとりくまれましたが、この中で2017年、核兵器禁止条約が国連で採択されました。
これを受け、「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)にノーベル平和賞が贈られました。今度の受賞は草の根の被爆者の運動への授与です。
核兵器禁止条約を敵視さえする自民党政府
衆院選挙中の討論会で、ノーベル平和賞受賞を機に核兵器禁止条約に日本も加入すべきだと迫った日本共産党田村委員長に、石破首相は「われわれは『核抑止力』に頼っていることは間違いない現実だ。いい悪いの問題ではない」と核兵器禁止条約を拒否する姿勢を示しました。条約の締約国会議へのオブザーバー会議への参加についても、触れない形で拒否しました。
石破首相は「核共有」まで主張しており、その「核抑止」論は、被爆国の首相としては到底認められないものです。
そもそも「核抑止」は、いざとなったら核兵器を使うぞという脅しをかけて相手を抑えるものです。この立場に立つ限り、核兵器はずっと持ち続けることになります。岸田前首相は広島出身だということで、核兵器所有国と所有しない国との「橋渡し」をするといっていましたが、石破首相はそれさえもいわず、「核共有」に執着しています。もちろん、岸田氏も核の傘の下から持たない国に手招きをしても信用されず、なにも橋をかけられませんでした。
国連が、核兵器は道徳的に容認できない悪魔の兵器だとして絶対的に否定したのは、被爆者の訴えそのものです。
核兵器禁止条約は、使うことはもちろん、脅しに利用することも禁止しています。「核抑止論」を乗り越え、否定しています。被爆者の思想が条約になりました。
「新婦人しんぶん」11月2日号に新婦人の会員でもある日本被団協事務局次長の児玉三智子のインタヴューが載っています。
児玉さんの被爆の体験記憶は胸を打つものです。
7歳の時に爆心地から4キロの木造校舎で、経験したことのない閃光と爆風におそわれ、気がつくと左半身にたくさんのガラス片が突き刺さっていました。
迎えに来たお父さんに背負われ、家に帰る道中は「地獄」でした。全身が焼けただれた人、真っ黒い炭のようになった赤ちゃんを抱き、ひどいやけどを負ったお母さん、爆風で飛び出した内臓を抱えた人たちが逃げまどっていました。
親戚のお姉ちゃんは家にたどり着いた3日後、いとこのお兄ちゃんは、被爆から1か月たったころ、目の前で突然、大量の血の塊を吐き出して亡くなりました。
児玉さんのその後の人生は、いつも「被爆」の重石、差別がのしかかり、就職や結婚、日常生活でも苦しみの連続でした。
もっともつらかったのは、2010年以後、娘さんががんで亡くなり、2人の弟さんも骨髄腫などのがんで亡くなったことです。専門医によれば放射能による遺伝子の傷によるものでした。
核兵器の非人道性をこれからも伝えていくと児玉さんは語っています。