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黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

棟方を追いかけよう~第5話

2024-04-23 | 日記

棟方の周りには、まさに綺羅星のような友人がいた。

そのジャンルは広く、その影響が彼の生涯に多大なる財産となっている。

 彼、「草野心平」もその一人。

 詩人。棟方と同じ東北人、明治36年㋄(福島県、現在のいわき市)出身。

 棟方が明治36年9月の青森県生まれ。

 「わだばゴッホになる」草野の詩から広まる。

 

    

 昭和49年 

  草野は棟方の生涯を讃えた「わだばゴッホになる」という詩を書いた。  

   表題のことばは、正確には棟方自身の言葉ではない…という。

   東北弁の一人称の「我(ワ)」に「だば」という

   「強調を表す青森弁の助詞」を付けたことで、草野は棟方志功という

    人間を一瞬にして浮かび上がらせた。見事な言葉の魔法である。

    詩人の力に敬服するばかりである。】    

                       別冊太陽 製作スタッフ言より引用

    

 

 同い年、東北の出身です。 とても仲良し・・・。

 こんなエピソードが

 一緒にインドに旅した際、右眼失明の草野と、左眼失明の棟方と

 「二人合わせしても一人分だな」と笑い合ったという。

      

 二人の付き合いは長い。

 棟方は宮沢賢治と親交があり、その宮沢の作品の紹介に尽力したのを

 きっかけに知り合ったのではないか…。と。

     

  *棟方は、宮沢賢治の詩「雨にも負けず…」にを手掛けている。

    

  しかし、草野の詩を棟方が作品にするまでには、その後、長い年月

 が経過する。

  はっきり二人の接点が残っているのは、草野の詩集「亜細亜幻想」

見返し画の依頼を受けた。が、この時はかなわなかった。             

 昭和31年に

 草野の連作の詩「富士山」の中から制作。       

 草野はこの作品に対して「棟方が勝手に作った」という。

 詩は一言一句、句読点一つで印象が変わってしまう言葉と文字の

 芸術だ。だから 自分の詩を「板」にすることに一抹の不安が

 あったのではなかろうか…と、草野は語る。

 しかし、棟方は、最大限の配慮を見せて見事に作品と一体化させた。

 

 これを機に、草野の詩をもとに「富獄頌」を制作。     

 翌年、詩画集【富士山】が岩崎芸術社から刊行された。

     

  「富獄頌」

      <表題の柵>

     

 

   <赤富士の柵>

   

 

  <三百の龍よの柵>

 

 

   <門扉の柵>

        

   <大天竜の柵>

 

   <青銅の富士の柵>

 

   <満天に海の柵>

 

   <黒むらさきの柵>

 

   <春の柵>

     

   <黒いさんてんの柵>

  

 

   第4話の中で~

   棟方が、茶席でベートーベンの第九。 を流す ♪♪♪ 

   追加でご紹介します!

   こんな板画もありました。昭和38年 木版 彩色

      <歓喜自板像 ・第九としてもの柵>

夢を喰うといわれる猿の木像を枕に、河井寛次郎、濱田庄司らの壺や茶碗、鎌倉の庭にある

朝鮮型の石灯籠や竜舌蘭、自分の分身ともいうべき板刀、大好きな撫子、桔梗、朝顔、ライラック

の花々などの中に、陶然として横たわったている

      

   

    分厚い眼鏡、板に鼻をこすりつけるような姿勢・・・

       ものすごい勢いで筆を走らせ・・・

          彫刻刀を動かす姿・・・

      時々、意味不明な 大きな声で 吠える? 

           そんな仕事ぶりが 目に浮かびませんか?

   

    こんな 写真もありました。

  

 

   志功さん!  どこから  あなた そんな エネルギーが出てくるの? 

          圧倒! 驚嘆!   敬意を表します・・・

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棟方を追いかけてみよう~第4話

2024-04-21 | 日記

画家というのは、自画像を残したくなるのはどうして?

世界のどの画家でも同じように自画像を残す。

絵を描くということの始まりが「自画像」なのだろうか?

いままで多くの画家についてブログにも掲載してきた。

 揃って、自画像が登場する。

幼少期から、晩年まで。

生涯、数十点もの自画像を描き残す画家もいる。

 以前に紹介した「ゴッホ」もそうだ。

     

やっぱり、志功もゴッホを追いかけたのか?   

     

画法の変化とともに、自分の顔も変わるからなのか?

それとも、その時代に「生きている証」として描くのか。

いつも興味を持って眺めているの自画像なんだが。

棟方志功も同じように感じる。

彼の場合は、紹介したように~彼流の画法

 板画、油絵、倭絵、書入り

自画像にも大いに変化ある作品を残している。

 

 探し出した・・・作品を眺めてみましょう。

とてもユニークで楽しく、ほほえましい!

絶対的芸術作品の「柵」とは違って…ほっとする瞬間です。

   

      彫り、描く…ねぶた調

     

     板に彫る…こんな格好で、の蓑先が見えるの?

         

 

      

          黒を彫る

      

        墨がはみだす

      

       油絵で描くと…?

      

         筆で洒脱な線

      

      

   凄い、凄い !

  海外でも彫り続ける彼・・・

 

  アメリカに行ったとき

      <ハドソン河の自画像>

 

 

  眼鏡越しにぎょろりと眼をむく棟方。強い意志を感じさせる表情。

  志功は、板画による自画像を「自板像」と呼んだが・・・

  50代の半ばまで「自板像」をほとんど残していない。

   この作品以降、海外に出るたびに自板像を描いていく。

 

 棟方に興味を持って調べ始めると・・・

  ほんとうに多彩な方だと感心するばかり。

 

 こんな話も。

 下戸だった志功は、茶を好んだ。 という。

 一日に何回も、仕事の切り替えどきに、少しの甘味と一緒に薄茶を

 一、二服。声を掛ければ、家人が即座に茶をたてる。

  結構、威張ってるなぁ~…「お~い、お茶 」? 今、こんなCMも。

 

昭和11年 民藝運動の同人として迎えられ、初めて京都の河井寛次郎邸に

滞在したときに覚えた習慣である。

河井家に伝わった安来流の茶の湯の流れが棟方家に繋がった。

茶道とは、「五感」(茶碗の温もり、色、香り、味わい、呑みきりの音)

一連の動作がこれである。

       

昭和30年 裏千家の機関誌「淡交」の企画で、棟方邸で「実験茶会」が

開かれた。茶人でない素人が茶の心だけで茶会を開くという試み。

棟方はアトリエを茶室に見立て、

 西村伊作、 草野新平、  檀一雄らを招いて

 画家・陶芸家       詩人         小説家

  

自ら点前座についた 。

          実験茶会点前風景 荻窪自邸画室 

    

 

         「雑華堂胸肩井戸碗々楽游亦極道図」

               木版・彩色

     

 

 棗と茶筅は黒田辰秋の作。 

          

 茶碗は柳宗悦から拝借した大井戸茶碗「山武士(山伏)」

       

亭主がおもむろに茶筅を構えたところで

ベートーベンの第九交響曲「歓喜の歌」が流れるという趣向。

    

棟方一流の演出といえよう。

この後、棟方は、江戸大和遠州流の始祖小堀権十郎政尹旧蔵という

井戸茶碗を入手し、「胸肩井戸」と名付けたこの茶碗を自慢にした。

        

現在は日本民藝館の収蔵になっている。

               (この記事…別冊太陽から引用しています)

 

  まぁ、才能の独り占め・・・・天は、二物を与えず ?

    志功さんは いくつ与えられたのかねぇ~

    いや、いや 少し 不公平感出て参りました。

 

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棟方を追いかけてみよう~第3話

2024-04-20 | 日記

棟方志功の業績の数々を追いかけていますが…

 気がついたこと。

なんと多彩な人なのか。 

あれもこれも、手がけながらどれも一流

棟方志功の作品を大きく分けてみると…4種類だ。

1.板画

 志功は自分の版画「板画」といい、板の命を大切にすると

 いう想いから板(いた)という字を使った。

 幅26mに達する世界最大の作品から縦横約6㎝の小さな作品まで

 創っています。

          <門世の柵>

 

 

 ◆棟方志功の作品のタイトルに「柵」というのが付いている。

  最初は、これ何に・・・意味は?

  志功が考える「柵」は、たくさんのお寺を巡り、願いをかけて歩く

 「お遍路さん」が、ひとつひとつのお寺に願いを込めて収めていく

  <お札>があります。

 そのお札のように、志功は作品の創作に当たって願いを込めて

 「人生の道しるべとして、柵を打つように」という意味から

 板画作品の題名の最後に「柵」という文字を付けた。と言う。

 

 2.倭画 

  板画のような彫刻刀ではなく、筆に日本画用の絵の具をつけて

  描いた作品です。板画でもそうですが、棟方さんが使う色は、

  どこかで見たことがありませんか?

  そうです。志功さんが大好きなねぶたの色づかいに似ていますね。

         <青森ねぶた柵>

 

 

3.油絵

  棟方志功は画家を目指すきっかけとなったのが油絵。

   ほら、例のゴッホの「ひまわり」の絵。

  板画家として成功してからも、自由に楽しみながら描き

  続けました。

           <薔薇>

     

 4.書

小さい頃から字が上手だった志功が書く文字は、白い紙に

  黒い墨が飛び散って、元気いっぱいです。

 芸術の書は「キレイな形にこだわるのではなく、心の中から

 飛び出すような気持で書かなければいけない」と棟方さんは

 言っています。

          <乾坤>

         

 

倭画にこんな作品が

        <御二河白道之図>

昭和26年 高岡市の飛鳥山善興寺住職・飛鳥寛栗の依頼により描いた

富山時代の最後の作品。「二河白道」は浄土宗の重要な逸話。

底知れぬ水(善意)と燃える火(怒り)に阻まれ立ちすくんだ時、釈迦に

示された道の先に阿弥陀仏の声を聞く。煩悩を振り払い一心に進めば彼岸

に達する意。

棟方は「白道」を墨で一気に描き下し、逆に一般的には黒衣で表される

旅人の姿を白衣で表した。

説話の本質を棟方なりに熟慮し捉えた渾身の作品。

 

 

大原の話の続きに~ 

時代は進みますが…昭和38年と43年に「乾」「坤」合わせて横幅27m

いう世界最大級の版画となった「大世界の柵」を作らしめたのも大原だった

倉敷国際ホテルの壁面に、木版画による作品

  向かって右半面には「栄航の柵」、左半面には「慈航の柵」という副題

が付けられている。上下2段の板壁画として現在もホテルロビー壁面におさめ

られている。約60cm角の板木72枚を、鎌倉のアトリエの芝生に並べ、板木

に直接絵付けをした。

 大世界の柵・乾 <人類より神々へ> 昭和38年 

 大世界の柵・坤 <神々より人類へ> 昭和44年

 大阪万国博覧会の日本民藝館に出品した。

 38年 板の「乾坤頌」を「大世界の柵・乾 <人類より神々へ>と改題。

乾坤合わせて2図を完成させた。

 「森羅万象をいままでの仕事いっさいをこめて表現した」と棟方は語る。

 

 昭和39年の東京オリンピックは日本の景色を変えた。

 東海道新幹線が開通、高速道路も続々とつながり、高層ビルやホテルも

 急増。倉敷国際ホテルもその一つで、翌年の開業に向け大原総一郎の

 肝いりで、棟方はその制作依頼を受けた。

     倉敷国際ホテルの開業竣工式での大原総一郎    

         

          

       玄関ホールの「乾坤ー人類より神々へ」

     

            3階から眺めた作品

  

            一面に展示した作品

 

        大原総一郎と棟方志功、魂の交わりが 大作を生む。

 

 

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棟方を追いかけてみるよ~ 第2話

2024-04-18 | 日記

この棟方志功の板画について続けていますが、皆さん

 倉敷の「大原美術館」はご存じですよね。

 

その大原家と棟方志功との関係を少し覗いてみましょう。

      

倉敷市の歴史は大原家と共にある。と言っても過言ではない。

元々大地主だった大原家だが、七代目大原孫三郎氏の代で現在の倉敷

の姿が整った。倉敷紡績が発展のためにと考えた結果が、病院、学校

銀行などなど様々な形で町の繁栄を促していった。

日本最初の私立美術館であり西洋美術館でもある大原美術館が開館

したのが昭和5年。

その孫三郎を父とする大原総一郎は棟方志功と深い関係にあったのです。

      

 昭和11年に東京・駒場の「日本民藝館」が開館できたのも

 孫三郎からの寄付あってのことだった。

 その半年前、民藝運動の一番若い同人として無明け入れられたのが

 棟方であった。

 開館記念展で大広間の壁画を飾った棟方の「華厳譜」の中の数点を

 柳宗悦イギリスのバーナード・リーチに送り、ロンドンの画廊に

     

 展示したそれを外遊中の大原総一郎が認めていたという数奇な経緯

 があるのです。

 

少し遡りますが、昭和13年、

欧州各国の繊維工場視察の旅から帰った総一郎の基調を祝う園遊会で

棟方は初めて総一郎とまみえた。

 その前日、孫三郎の計らいで、棟方は茶席に招かれた。

「息子が棟方さんのことを大好きで、なにか書いてもらいたい

  と言っています。初めに襖絵を描いてくれませんか」

「僕の部屋全体に描いてほしい」と言った総一郎は

「思想の燦然とした若い意欲が、その人の身体に光っているような」

青年だったと棟方は回顧する。

         襖絵「御群鯉図」

      

この時の依頼で昭和14年暮れ、大原邸の襖に絵を描くこと許された最初の

画家となった棟方だったが、以来、毎年のように倉敷を訪ね、大原家に

質量ともに豊かな作品を残している。

 

        大原総一郎の想いを形にする志功

   「御群鯉図」 昭和15年頃 墨画淡彩 襖15面 

   父・孫三郎の秘書夫婦が墨を磨るための水を汲みに行っている間に、

    棟方が一気に描き上げたという伝説が残っている。

    どうです、今にも襖から飛び出してきそうだ・・・・

     

  

  

  

 

 昭和25年 大原は富山市東岩瀬に新工場を開設した。

 社運をかけての大事業であった。この時大原は「新製品ビニロン開発に社運

 を賭けるこの気持ちを作品にしてほしい」と、棟方に作品制作を依頼した。

 ベートーベンの「運命」に主題を取り、ニーチェ著「ツァラトゥストラ」

 全文を入れた四図の組み合わせである。

 棟方自身、「運命」を賭ける思いで制作にあたり、板に直接、下絵も描かず

 に彫り上げたと言われている。

 

       

  一部拡大

    「集めたる蜜蜂のごとし ・・・

         斯くしてツァラトゥストラの没落は始まりぬ」

  

 

 大原は棟方の本質を鋭く見極め、時には厳しい言葉で浮ついた棟方を戒めた。

 棟方は棟方で、大原が求める精神性の高い課題によく応えた。

 両人の関係は単なる支援者と画家という枠を大きく超え、互いを高め合う

 奥深いものであった。

            

  

 

  「玉 琢かざれば器を成さず 人 学ばざれば 道をしらず」

                    (昭和19年 倉紡記念館 墨書彩色・襖4面)

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棟方を追いかけてみるよ~

2024-04-17 | 日記

15話まで続いた「板画に咲く」から離れて、戦後の棟方の活躍と

 残された名作の数々を追いかけてみたくなった。

 読者の皆さんも、もうしばらくお付き合いお願いいたします。

 2023年発刊 「別冊太陽」掲載の中から「写真」、「文章」を一部 抜粋引用しております。

昭和20年

 ㋄、富山県西栃波郡石黒村法林寺に疎開

       光徳寺の分家の家を借用することになった。

   棟方はその家を「躅飛閣雑華堂」(ちょくひかくざっつけどう)

   名付けている。

   

「雑華堂」は棟方の堂号である。富山県と石川県の県境にそそりたつ 

医王山を背景にした里山で、金沢へと続く「殿様街道」と呼ばれた古道

は、その近くに石堂のあるあたりはお気に入りの散歩コースだったという。  

㋄25日 東京大空襲で代々木山谷の住居を焼失し、ほとんどの板木が

灰燼に帰した。

 

昭和21年

この年の暮れ棟方は町はずれの田圃の中に家を建てた。

生まれて初めて持つ自邸である。

 棟方は土地を「愛染苑」(あいぜんえん)、

 住まいの画室を「鯉雨画斎」(りうがさい)と名付けた。(アトリエ)

  

   アトリエで揃った家族と友人

  

    

        アトリエとして使っていた八畳間。 

 板戸には滝を登る鯉や鯰、亀まどが描かれている。

 床の間には、柳宗悦による「ドコトテ 御手ノ真中ナル」の軸が掛けられている。

 

 囲炉裏のある居間。 疎開時は大切に持参されたみちのく民藝の大霰釜

 かけられている。

 棟方は家族六人でここに六年余り生活した。

 文化芸術関係者が多く訪れ、囲炉裏のある部屋で夜通し語り合った。

   

 

 トイレの壁に観音菩薩を描くことは棟方の習慣だったが、

 「鯉雨画斎」でも最初に筆を揮ったのは「厠観音」だった。

   

  今も残る画斎の厠観音は訪れる人の目を楽しませてくれる。

 

 戦後第一作の<鐘渓頌>

京都五条にある陶芸家・河井寛次郎氏の「鐘渓窯」の名をかりて

師恩に対する感謝の念を込めた戦後初の作品。

        

 「鐘渓」とは河井のことで、棟方は河井に対して「鐘渓之神」

 の大書を贈った。(昭和29年)

 また、河井寛次郎自らの設計により建てられた自宅と陶房。

 登り窯は河井亡き後の7年後に遺族の手により一般公開されている。

 記念館が落成した際に、記念館の揮毫が棟方志功

  

    生涯に出会える人はほんの一握りである。

    同じ時代に生まれ、しかも出会うことのできた奇跡ー。

    今も二人は泉下で喜びあっているに違いない。

               (河井寛次郎記念館学芸員)の言葉

 棟方志功における師というと、まずはその作品に対しての美的、

仏教的指導を与えた柳宗悦であることは誰もが認めるとこであるが、

ものづくりとしての作家の在り方、心情、そして共感、喜びを

同一線上で共有できたのは、この河井だったのかもしれない。

 

棟方はその河井に対し、戦後すぐ、

 つまり富山県福光に疎開してすぐに、二十四柵からなる

「鐘渓頌」と題した河井を讃える板画作品を残している。

 

現実汚濁の此岸から中岸を経て、理想郷の彼岸に達する道程を

24の像で表した。「白地模様に黒い身体」

「黒地、または黒っぽい地模様に白地模様の身体」という規則的な

構成だが、一点一点それぞれに独自の世界を持っている。

黒の地に人体の輪郭、顔、乳、臍などを白い線で彫り込む表現は

この作品から始まった。

  <倭桜(やまとざくら)

    

  <此岸(しがん)

    

    <若栗(わかくり)

    

    <朝菊(あさきく)

    

 

   この年の10月 この<鐘渓頌>の作品で日展岡田賞受賞

 

 

 

 

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続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。