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オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

モナリザ会

2016-12-13 | Weblog

12/13(火) 昨夕、前中央区議だったTAKAHASHIさんが主催し、月例開催の[モナリザ会」があった。今回は12月と云うことで忘年会を兼ねての開催。会場は定例の銀座のカフェ・モナリザから水天宮の台湾料理店「龍門」であった。会には三ヶ月ぶりの参加となった。

この会は、TAKAHASHIさんの応援団でもあるが、彼を介した異業種交流会である。地元でマンション開発をするデベロッパーから、不動産・保険・司法書士・建築業など多彩な面々が集い賑やかな会である。昨夜も四十人程が参加した。会費が安い、多彩なな方と出合える、いろんな話が聴ける場である。

                            

ビジネスにどうこうしたい、そんな考えは欠片も持ち合わせないが、他人の話を聴くのは悪くないので時折参加する。昨晩は悪徳ちゃんと呼ぶ不動産仲介業のマッチャンと一緒に出掛けた。幸いと云うか、不幸にもと云うべきか、主催者の奥から詰めて下さいに促され、一番奥の席に就いた。料理が供され、酒が廻った頃合いを計らって「一分間でお願いします」の指示で各人のスピーチが始まった。

                        

概ね、自分が何者であるか、仕事の内容などを話す。このスピーチを聞いて、大方は感心のある方の席に出向き、名刺交換や情報交流をするのが常。四十人近い参加者、それに酒が入っている。誰かがスピーチをしていても、隣近所との会話に忙しくて聴いていない面々や、騒がしい連中がいる。

昨夜もそうであった。立って話をしている人の声が聞き取れないことが間々あった。そして、最後に私の出番となった。暫く黙って立ったままで見回していた、おもむろに『諸君は、一向にひとの話を聴こうとしないね、話してる時はもう少し静粛にしたらどうかね。以上』とだけ言った。

嫌みな男であるあるが、本当はもう一言付け加えたかった。『そんなことじゃ子供の教育は出来ないよ』と。

こんな嫌みことを書いたが、楽しい会である。何人かの方と名刺交換をした。私の前隣、ということはマッチャンの隣になるが。その方は人財開発や音楽教育をビジネスとしている会社の代表。この会で一度会っている。その方がマッチャンに「NATURALさんには、以前会社案内やホームページを作ってもらいましたのよ」と・・・。『そろそろ全面更改しませんか?』などと茶々を入れたが、それへの反応はなかった。

もう七・八年前のことだが、某クライアントからの依頼で学割で制作をした案件のことである。その窓口になっていたのは黒田君だった。「黒田さんは元気でいらっしゃいますか?」と、訊かれた。私は黙って天井を指差し、それから応えた。『年が明けると二年になりますが、残念なことに亡くなりました』と伝えた。

「未だ若かったでしょうに・・・」、そんな会話を暫くした。そう云えば、年明けには黒田の三回忌を迎えるか、早いものだ・・・・。

ご婦人だが中々の酒豪のように見受けた。会がお開きとなってから、『人形町で一杯やりませんか』とお誘いすると、「いいですね」との応え。マッチャンと、何処にする?と。ローカーボ?、駅に近い「ちょっぷく」でどうかな?なんて。結局、我等が迷店「ちょっぷく」へと誘ったのである。

店に着くと、店長のYAMAちゃんが、「そこでいいじゃネェか」という、蚕棚のようなベンチ席となった。しかし、ここでどんな会話をしたのか覚えがないのだ。写真を撮っている、これを見る限りマッチャンはロクデナシの会話をしている気配が?オイラは真っ当な会話をしたんだろうか?

                      

                          マッチャンの左指先が怪しい! が、二人とも乗りがいいね!

多分、22時を過ぎた頃合いに『門限だ、引き揚よう』と、言ったはずだ。そして池袋だか所沢に帰ると言う客人を、東京駅までならタクシーが早いからと、交差点で車を止めて見送った。見送ったシーンの記憶は残っていた。私の帰宅は、23時過ぎであったろう。

然し、若しかしたら客になるかもしれない方を、「ちょっぷく」の案内でよかったのか? 気が利かないやつだ、と思われても仕方ないな。個人的には、食べたくも飲みたくもない状況だったからネ。自分本位、自己中心オヤジの鑑だな、俺って

帰宅すると、末娘のAZUSAが来ていた。AKIさんの写真を見せ、前夜のことを話てやった。が、でてきた言葉は「お小遣い頂戴」だった。このおおバカ野郎~

 

さて、与太話は程々にし、今朝の弁当に移ろう。残念なことに、今日も一つ弁当なのだ。

先ずは野菜ものだが、椎茸・小松菜・薄揚げの煮物。椎茸とチンゲン菜の炒めものは、牛小間炒めに添える。魚は、冷凍の塩秋刀魚。刻みネギの卵焼き。米二合は鍋で炊いた。簡略な紹介ながら、以上だった。

                          

 

 

 

 

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思い掛けずに・・・

2016-12-12 | Weblog

12/12(月) 昨日の午後、暇にあかせて有楽町の交通会館まで出かけた。目当ては、この会館のエントランスに出る野菜販売の出店狙いだった。一週間前、佐賀からこの場所にPRに来ていた齢若の知人を訪ねた。その折に、出店していた徳島産の椎茸を何気なく買った。処がこれが、滅茶旨の出来☆椎茸。それ以来、椎茸に拘るようになったのだ。

あの旨い椎茸が出てないかと探したが、なかった。代わりに大分と高知の椎茸を買った。それが今日の弁当の一品となる分けだが、そのことは後ほどに。

この日は夕方、武蔵小山駅に程近い小山台会館で「鷹番JVC]の都大会30年連続出場を祝う会と、応援する会の総会が開かれた。鷹番JVCを応援する会は、私がサラリーマンを辞めた同時期に、それまで休眠していた会を再発足させた。この会の事務局長を五・年勤め、その後後輩に委ねた。暫く会の活動が停滞していたが、この日の総会から新体制となった。これを契機に、会の趣旨である”物心両面からの支援”がチームになされるであろうと期待する。

鷹番JVCには我が家の末っ子、AZUSAが在籍していた。小学卒業は平成12年度である。そんな関係から、JVCとの関わりができた。AZUSAは、バレーボールの関係で広尾にある順心女子学園(現在は広尾学園に改称)に進み、バレ-ボール部に在籍した。その時、コーチとして鍛えてくれたのがAKIさん(ニュックネーム)と云うOGだった。

入学から直ぐにレギュラーとして使ってもらったので、AKIさんコーチの鍛え方も厳しかったであろう。が、僕らオヤジ連は試合の応援の度、ランチタイムに食堂や居酒屋に繰り込んでビールや焼酎を飲み、半ば酔っ払って応援をしていた。監督もコーチも、そんなオヤジ連を咎めることもなかった。他所のチームからは顰蹙ものだったようだ。

AZUSAが二年生になり新チームに切り替わる頃、慢性腎臓炎と診断され入院。それからプレーをすることは叶わなくなった。AKIMOTOコーチは、「私が鍛えすぎたので病気になったんじゃ」と心配してくれた。『そんなことは有りませんよ』と・・・。その後、AKIMOTOコーチは結婚してご主人の実家の蕎麦屋の女将になった。プロボクサーを目指していたという旦那さんも呼んで、お祝いを皆でした。子供も卒業し、何時しか音信も絶えていた。

昨晩、受付を済ませて席に行こうとすると「ARISAWAさん」と声を掛けられた。見ると、それはAKIさんだった。十数年前とちっとも変わらず、丸ぽちゃで若々しい笑顔がそこにあった。直ぐに分った、AKIさんとは分ったが、鷹番JVCの関係者ばかりの此処に何故居るの?

なんと、小学二年生の下の男子がこの秋から鷹番JVCに入ったとのことだった(女子のチームだったが男子も入れるようになったとか)。イベントや試合があると、親は準備やお手伝いに出る。それで、今日の参加メンバー表から私の出席知っていたとのこと。それにしてもAKIさんの住いは横浜なのだ。東横線で一本で来れるとはいいながら・・・。なんでも、どこかいいチームはないかと探していたら、ここを奨められたとのことだった。

「AZUSAはどうしてるの、写真はないの」と、訊かれたが『元気だよ、先月病院から病気は治った。と言われたそうだ。娘の写真なんか持つかよ』と応えたが、懐かしかったな・・・。あの時代のチームメートのことなど話をしたかったが、最下級性の親だ。細々とした手伝いがある、会話もそこそこに切り上げたのであった。

               

肝心の会の方は、現役やOG、その父兄たちと百人以上が集い、三十年の歴史を綴った映像が流れ、現役の子供達が歴代ユニフォームを着用しての紹介があった。百五十人以上のJVC卒業生となったと監督の挨拶。和気あいあいの会であった。本会での私の努めは、乾杯役。どこの世界も、乾杯要員になると、後は消えゆくのみだ・・・・。

 思い掛けない邂逅があり、懐かしい思いをした。『餓鬼のやるバレーボールなんぞに何でおれが顔を出さなきゃいけないん』と、嫌がったのはAZUSAがVBを始めた平成11年頃か、それから7~8年はバレーボールの世界、特にオヤジ達との交流が面白かった。然しそれも遠くなりつつある・・・・。

 

一夜明けた今朝の五時過ぎ、目覚めていた。暫く今日のメニューについて思案六方、というほどのこともないが考えていた。自分が食べるのじゃなくて、家人に食べてもらうのだ。弁当の大きさ、食材と味のバランスと、一応は考慮するがするだけのこと・・・。

今日は、フライがメインだ。それに椎茸を如何に使うか?てなことで、「椎茸カツ」の登場となる。それも二種の椎茸を比べる、そして椎茸ソテーも。先日の「焼き肉用牛」これも二枚だけ牛カツにする。牛焼肉と牛カツ、ホウレン草の卵とじ。

                             

お魚は粕漬けだが、頂戴した京粕漬けと自家製粕漬けの味比べと云う拘りようだ。比べるためには、同じ魚でなくちゃと、何れもサワラである。

椎茸は、なんと言っても先週の徳島の八万産とか云うのが圧勝だ。粕漬けの方は、遜色ないと思ったが・・・、これは他人の評価待ちか。

                            

今日明日と、弁当は一つ。その分だけ私の朝飯量が増える、という悲しい現実が待っていた・・・・。

 

 

 

 

 

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賑やかな宵&夜

2016-12-10 | Weblog

12/10(土) 前夜の賑わい大騒ぎから一夜明けた今日、二日酔だね~。昨夕、五時過ぎに越中のおじさんライダーMURAI君が、つづいてUSUI老が会社に来てくれた。二人を引き合わせ紹介した後、酒場へと向かった。

向かいながら、今日はオイラの誕生日でネ、明日が誕生日のYOSIOと二人で誕生祝をすることになってのよ、YOSHIOは仕事が終わったら来るだろうと今宵の計画を明かした。MURAI君が来てくれたので、彼と同郷で隣のHOSOKAWAも呼び出した。向かった店は「ちょっぷく」である。老がご指定する「高松」は、店主の同級会とかで貸切になっていたのだ。

この夜も「ちょっぷく」は満席状態が長くつづいていた。何時もなら、早めに切り上げて席を空けるのだが、この夜だけはそうはイカンザキ。老にシンちゃん(MURAIくんのことだ)、遅れてHOSOKAWA が参戦。富山組は田舎の中学校のことや知り合いの名前をだして、誰それがどうのや、実家や田圃の始末をどうこうと、田舎者どおしならではの話が尽きない。HOSOとシンちゃんの姉が同級生なので、シンちゃんはHOSOのことは少し知っていた。

昨年の秋、私はシンちゃんの実家に泊めて貰った。その折に、隣のHOSOKAWAの空き家になっている実家も見てきたのだ。二人とも立山町なので、平野部の田舎である。山の中の私の田舎とは趣がことなるが、過疎化は同じである。実家の始末、田畑の担い手と課題は同じだ。

そうこうするうちに、YOSHIOが到着。更に、HOYA兄いも参じた。騒がしく飲んでいると、常連のフナッシーとマッチャンも現れて「おめでとう」と云う。その頃には、相当酔いがまわっていたか・・・。今考えれば、フナッシ―も越中の産だった。確か、氷見だか高岡と聞いた。それにHOYA兄いも姐さん方から「しんちゃん」と呼ばれていたとのこと。いろんなことで共通点が有るのだが、飲んでいる間は全く思い出さなかった。

                         

HOYA兄いが暫らく席を外した、戻って来ると小さいながらも花束を持ってきた。「きもちきもち」と言いながら、グラスを持ってきてそれに刺した。気働きとフットワークの良さは流石。姐さん方から「しんちゃん、しんちゃん」と、かわいがられたのも頷ける。YAMAちゃんが、新酒をサービスで出してくれたが、これが利いたネ

                          

                          二人のシンちゃんと、お花

大いに盛りあがったが、そろそろ次の店に行かなくちゃ・・・、と「ローカーボ」に移動。この時は完全に出来上がっていたな。ローカーボのカウンターには、NAKAMURA大将・悪徳マッチャンと常連が、更に紅一点のチーちゃんの姿が。なんと、チーちゃんに奢ったもらった・・・ 。

この後から記憶が途切れているが、ローカーボから「セイジュ」へと六人で流れた。カラオケでも唄おうとなったようだ。セイジュのママさんには、私は一万円しか払ってない、六人で一万円じゃ、怒ってるかも・・・・。ここに一時間ほどかな?覚えてない。セイジュを出てから、YOSHIOと二人が残り、再び「ちょっぷく」に毎度った。

                            

「ちょぅぷく」を出る時に「帰りに来いよ」と、YAMAちゃんとチーフからきつく言われていたんだ。それだけは覚えてたんだな・・・。

戻ると、またしても白ワインと新酒が出たようだ、写真を見るとだが。それに、ケーキが用意してあった。ご丁寧に、オイラとYOSHIOの名前まで付いている。ローソクに灯が点いて吹き消したようだ。記憶にないが写真で見るかぎりそうなっている。そしてこれを食べたとのことだ・・・、これは今日のYOSHIOの証言だ。

                    

                       酔眼朦朧・・・・・・

とまあ、皆さんからお祝いをして頂き楽しく賑やかな宵から夜となったのである。人形町を離れられなくなるのも頷けよう・・・・。忘れていたが、昼間は誕生日ネタで悪徳チャンに、お茶と一人分のランチセットをYOSHIOと二人で馳走になっていた。

帰宅は当然午前さまであった。今朝は二日酔い、二日酔いながら朝飯を作り(オムスビ)、味噌汁とビールを飲んだである。鉄の胃腸か?

                            

 

 

 

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ポイントで・・・

2016-12-09 | Weblog

12/9(金) 今日の弁当は「焼き肉」がメインメニューだが、この肉は日ごろ使っているカードのポンイントで交感した肉なのだ。毎月のように過去分のポイント失効があるので、思い切って肉に好感した次第だ。それも、弁当用にしようと云う心遣いで・・・。

何種類かのカードを持っているが、日頃使うのは一つに絞っている。カードを持った最初のもので、当時勤めていたグループ会社のもので、その会社に出向した知り合いのセールスに付き合ってカードを持っ用になった。以来そのカードをメインにしているが、どうもポイントの交換率が悪いような気がする。加えて交換するものの種類も少ない。

 今回届いた野は、熊本産黒毛和牛「焼き肉用」300g(1パック)であるが、これの交換に必要なポイント数が1万だか1万2千ポイントだった。さぞや美味かろうと、期待したいよネ。それが昨日の朝届いた、二パックである。本音を云えば、箱明けて中身を取りだして思ったのは『これで1万ポンとか?』だった。

おまけに、熊本のどこぞの道の駅の店名がついている。要は、道の駅にあった品物、よくとっても道の駅に出す予定の品物と云うことだ。有難味も半減であろう。今更毒づいても、貧乏オヤジの遠吠えだが・・・。

前置きが長くなったが、今朝はその300gの肉を焼いて弁当にした次第である。相当高価な肉と云うことになるが?

                            

牛肉の他には、小芋煮」と子供のような「ホタテバター炒め」「冷凍鯖の文化干し焼き」となった。其々に添える野菜はセロリや椎茸・長ネギなど。中でも椎茸には拘っている。先週の日曜日に交通会館で買った徳島の椎茸がバカ旨だったので、島根館で大きな椎茸を買ってみたのだ(値段は同じかな)。

                         

余談ながら、椎茸の軍配は、圧倒的に徳島に上った。身の厚さ、肉の詰まり方、食味の豊潤さ、徳島の椎茸は凄かったね。改めて、椎茸の奥深さを知った。これから椎茸道を学ばんといかんな。然しだ、目方で比べればちょっとした肉と同じか、高いのが椎茸なんだなこれが・・・。                       

牛肉はちょっと固い感じがした、おまけに筋のとこが一部残っていやがった。散々悪態をついたので、肉も拗ねたかもしんねぇな。味付けは塩胡椒、プルコギャンの二種類を試してみた。日山で買う、和牛切落とし880円/100gの方が、圧倒的に旨味があるね。これだと味付けは塩胡椒だけで十二分なんだ。

                            

斯様な次第で、文句たらたら独り言で今朝の弁当作りが終わった。今朝も土釜で飯を炊き、ちょいとオコゲで朝飯を食す。味噌汁を作るのを忘れていたか。菜は弁当の余り物を本各的なお味見を予ねて頂く。今朝は、お茶碗一杯の飯に留めた。

                                   

今朝は明け方前の、四時前から起きてしまったのだ。弁当の仕上がりも早かった。のんびり新聞を読んでるとこに長女が登場。皿に残った肉を「美味い」とか言いながらパクパク喰って行った。貧乏に育ったやつはいいね、なに喰っても美味いんだから・・・。

 

今夕、USUI老が来ることになっている。更に昨晩、越中のライダーMURAI君から電話が入った「明日の夜空いてる}?」と。空いちゃいないがおいでよ。皆で飲めば楽しいぜ、と云うと。来ることになった。老は富山博覧会で一近く富山に居たんで、話は合うだろう。この二人に加えて、YOSHIOに一杯やろうと言ってある。

YOSHIOは、明日が誕生日だそうだ。私より一日遅れなので、『二人で誕生会をやろうぜ、奢るから。”ちょっぷく”で』と約束をしている。YOSHIOの仕事は終わりが遅いだろう、多分。すっかり出来上がっての合流だな・・・・。

 

 

 

 

 

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遅ればせながらの・・・

2016-12-08 | Weblog

12/8(木) 昨夜は早目に家路について晩飯を作ることにした。食材を贖いに富山館と島根館を廻って、糀味噌・白味噌に昆布巻き蒲鉾と蜆と椎茸等を整へた。白味噌は来たるべきギンダラの味噌漬け用である。そして、コレド室町に売店を出したアナゴ料理の名店「玉ゐ」に寄って、一つだけ残っていた”太巻き”を所望した。買い物を終えて、日本橋から人形町まで戻ると、六時半になっていた。

帰るにはちょっと早い、そこで「ちょっぷく」で安ワインを二・三杯飲って行くことにした。店に入るなりYMAちゃん店長に『俺の帽子、買ってきたか?』声高に問うた。「其処に載ってるよ」と目の前で摘みを物色している客を指した。その客が、頭に載せているフェルトの帽子をチョイと上げて振り向いた。”なぎら けんいち”さんだった。

帽子と言ったのは、人形町通りのビルの一室で帽子のセールが昨日から始まっていたからのこと。夏場のセールで、YAMAちゃんが買った帽子を一つ貰っていたのだ。今度は冬用の帽子をと、云う意味である。が、丁度そこに何時も洒落たハット姿の”なぎらさん”が、居合わせたのだ。前に二度ほど、ここで飲んでいるので気安いと云えば気安い。

酒場をレポートして仕事になる”なぎらさん”から「毎晩飲んでるの?」と訊かれたので、控えめに『おおむねネ、安酒場で』と応えた。彼はひとあたりがいいので、居合せた客の求めに応じて写真を撮ったり、話をする。その姿を見て、芸人にならなくてよかった、ゆっくり酒も飲めねぇからなと思う私であった。

この夜は白ワイン、そして店長お奨めのボジョレヌーボを飲った。ボジョレの解禁日から、今年の良いと言っていたのが店長。それを聞いて、飲ませろと言ったが、漸く出てきたのだ。『どうせマイバスの安いのだろう」と云うと、ご名答だ。それでも、程々の渋みとこくがあって飲み易かった。

                              

ボトルを持って行こうとするので『ケチケチしないで置いとけ』と、後は手酌で注ぎ飲むのであった。三週遅れのボジョレとなった。三年ほど前まで、毎年ボジョレとドイツのスパークリングワインなどを取っていたが、それも止めてしまった。三年ぶりのボジョレ、ほぼタダノミか・・・・。

「なぎらさん、きてるぜ」の一報を入れたので、マッチャンとHOYA兄いも参じたが、オイラは一足先に失礼した。今夜は飯を作るのだと!

九時に帰宅、そこから蜆の味噌汁を作った。酒の後の、蜆汁はいいのだ  とばかりに。

 

今朝方の夢は面白いを通り越して魑魅魍魎の世界か。まったくもって妙な夢が最後にでてきた。このての夢を初めてみたように思う。で、簡単に紹介しょう・・・。

シーンはどこぞの河原か原っぱ、バーベキュのようなことをしていた。メンバーは私を含めて四人だったか。鉄板の上で焼いている肉らしきものを、誰がどこの部位を取るかでじゃんけんになった。勝った後輩が自分が食す部位を選んだのが、一番ふっくらとした部分で掌だった。一番最後になった私は指になった。

ナベ奉行ならぬ、焼き方奉行の私は『おーい焼けたぞ』と。声を掛けて、其々に分けた。指になっている私はそれを齧りながら「骨ばっかりだな・・・」と齧った。

食べているのは手、人間の手なのだ。それも私の左手なのだ。見ると、私の左手の手首から先は、なかった。が、痛くもなければ血も出ていない、手首から先がないだけ。尤も焼いている段階から自分の手であることを承知していたのだ。今、こうして自分の指先を見ても、たしかに肉はついてない骨っぽい。掌の方は豊かだねぇ~。

そんな夢から醒めて、弁当作りとなlった。今日は一人分、家人用だけである。今日の弁当も肉はなし、魚系が中心となった。余談ながら、明日は焼肉だぜ

小さなブリの切り身が二つ。これを酒・醤油の出汁に漬け置いてから、衣をまぶして炒め焼きにする。が、焼くのはこれが一番最後となる。その前に冷凍イカをバターソテー、付け合わせのシメジ・エノキ・サヤエンドウを先に塩胡椒味でソテー。

                          

冷凍の「ホタテシンジョウ」を捏ねて平たい団子状にし、これをフライパンで焼く。卵焼きを作り、ブリをソテーしてお仕舞。

                            

                          開戦記念日の丸弁当?

菜は余る、飯は炊き立てのほっかホカ。これじゃ飯を喰えと言われているようなものだ。この米は、粘りと甘さがあって美味い、これをちょっと固めに炊くのが好みなのだ。上手い具合に炊きあがった飯、好みの味付けをした菜がある。ついつい喰っちまうのが人情と云うもんだ。そんな訳で、ニ杯もご飯を頂いちまった。夢の影響なんぞ、全くないね・・・・・。

 

 

 

 

 

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シンプルなれど

2016-12-07 | Weblog

12/7(水) 記憶では明日の12月8日は、先の大戦が始まった日であるはずだ。軍民問わず、数多の犠牲者がでたが、既に七十余年もの過去になった。ニュースによれば、総理大臣として初めて真珠湾を訪れて献花をするとのこと。遅きに失する感はするが、私は歓迎する。過去は恩讐の彼方へ、相互平和の確たる礎になることを期待するのみ。

隣国とも斯様なことになればいいのだが、過去の歴史を蒸し返し相互不信の状況は未だ未だつづきそうである。諺にも、遠くの親戚より近くの他人と、頼りにし、なるのが隣近所のはずだが、そうならない例も枚挙に尽きない。半ボケの頭で考えるだけ無駄なことと、諦めるか・・・・。

個人的には、隣国の人々との友好親善、経済活性に些かの協力・支援をしてきたつもりであるが・・・・・。それも過去のことだ。

 

さて、今週のイベント第一回は昨夜であった。渋谷・宇田川町のとあるライブハウスに先週お会いしたアラフォ -情熱ドリームと云うチームだった- が、出演した。その前夜、ローカーボのカウンターでNAKAMURA大将からそのことを聞かされ『同伴しますよ』と、言った記憶が微かに残っていた。そして昨夕、大将から「何時に出ますか」と、連絡を貰ったのだ。

寒風の中を二人で渋谷へ、ライブハウスのある場所は宇田川町なので察しがついている。「奈加野」の前を通過しながら『何時も使う店ですよ、帰りにここで一杯やりましょう』と誘った。

肝心のライブの方だが、狭い会場には年嵩の面々が多かった。この夜の出演は四組か?情熱ドリームの出番は二番目、七時半からと予定されていた。チームの音楽&演出のSATO氏やリーダーのオネエサンに行き会い”こんにちわ”の挨拶を交わした。

暫くして最初の幕が上がった・・・・。どうみても小学の高学年、或いは中学生とおぼしきアイドルたちが、大音響のマイクを握って狭い舞台上でハネテ踊った。大将は「うちの孫もヒップホップをやるんだよ」と愉しげ(後から、あの音量と振動で腹が減ったと告白した)。大将の孫とさして変わらぬ年齢であろう。

それにしても、舞台の前で腕を振り、突き上げる客(ファン?)の年齢層はかなり高い。オイラは、こいつらはロリコンじゃねえかと思ったぐらいだ。まあ、ああして舞台にあわせて発散するのも、ストレス解消には役立つか。ストレスのないオイラには、無縁のことだが。

このステージの後が「情熱ドリーム」だった。アラフォチームの年齢は30代~60歳と紹介があったが、アイドル風の衣装が何かもの哀しく思えた。以前、TVや新聞の取材を受けたとのことなので、或いは覚えている方がいるかも。

歌と踊りを四曲だったか、三十分ほどのステージであった。前のチームとのコントラストか、もの悲しく思ったのはオイラだけだったらいいが。大将は、、このネタは三年使えると大喜びであった。 「おもしろうて、やがて悲しきアラフォかな」 詠み人知らず・・・・。

情熱ドリームの舞台が終わり、そくさくとここを後にした。目当ての奈加野まで、2~3分である。ここで、あれこれと話を聴きながら三時間近く居たか。稔りのある会話であった。帰宅は、23時を過ぎていた。

 

今朝の起床は6時丁度、今日は二人分の弁当ながら食材の方は乏しい。乏しい中で何を作るか?何時もコッテリしたものが多い、今日はシンプルにいこう!

そんな訳で先ずは煮物から。大根&油揚げに小松菜の煮物を一番先、じゃねぇ二番目に仕込む。一番は、土釜炊きのご飯だった。

ついで、日曜日に仕込んだサワラの粕漬けと鮭を焼く。そしてフライパンが出てきて、身が厚い椎茸とホウレンソウのバターソテーを。この椎茸がまっこと旨い、もっと買っときゃよかったと思ってるぐらいだ。

                          

最後にオムレツ風の卵焼き。具は、シメジ&タマネギスライス&ベーコン少々をバターソテーしたもの。

                    

以上であったが、昨日の残り飯をバター焼きめしと云う塩梅にした。チャーハンにしようと思ったが、卵が切れてしまったのだ。長女の弁当は、この焼飯と土釜炊き立て白飯の二色弁当にした。今日の菜はシンプルだが、味付けの方はかなりしっかりしているはずだ・・・。

                          

 

今週のイベントは、金曜日のUSUI老の登場と、YOSHIO&MASANORIの合同大パーティin「ちょっぷく」かな?

 

 

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猿も木から・・・

2016-12-06 | Weblog

12/6(火) 「上手の手から水が漏れる」とか「弘法も筆のあやまり」とか、猿も木から落ちるって云う諺があるらしいが、今朝の弁当で手慣れた一品で失敗をしてしまった。オイラも弘法大師なみになったのか、それとも猿の方か・・・。今朝の一品が悔やまれる。

昨夕、予定より一時間ほど早くに地球市民の会事務局長・IWANAGA君が人形町に着いた。迎えに出てそのまま懇談となったが、スタートは「うまし」と云う店。五時半とサラリーマンの出動には早い時刻ながら、店のカウンターに奥に悪党不動産のマッチャンが鎮座していた。この前の来客は五時であったが、その時もマッチャンが一人で座を占めていた。

『オイオイ、真面目に仕事したらどうだね。こんな時間から飲むようじゃ、相当儲かったのか、諦めたかだぜ』と、一言たしなめた。すると「ポチを連れて散歩なんです。洗濯が終わるのを待ってるとこなんですよ」と言い訳した。ポチと呼んでいるのは、専ら洗濯物を入れているカートの愛称。彼は週一回程度しか自宅に戻らないので、100m程先の「ちょっぷく」の前に在るコインランドリーの常連さんなのだ。

IWANAGA君とゆっくり話ができると思っていたのだが・・・・。マッチャンは話好きだからネ、三人囃子になっていた。そんな最中、IWANAGA君が新事業を始めると云う。地球市民の会の事業として佐賀でゲストハウスをやるというのだ・・・・。それはいいのだが、個人のサポータを募っているが残り五十口(五十万円」が未だだとのこと。

要は一口協力をしてほしい、そんなところである。『もっと早くに言ってくれればな。今日、佐賀のふるさと納税で、君のとこ指定で寄付をしたとこだぜ。』と応えた。が、とはいいながらも折角の志だから若干だが協力はするよ。と、応じることにした。

こうして年末には何かと物入りがつづく。こうなりゃ、平和島や中央競馬会に預けてあるお宝を、利息をたっぷりと頂いて戻してもらう必要があるな・・・・・。

「うまし」から「ローカーボ」へと移動、丁度そこにNAKAMURA大将が居合せた。佐賀もん同志を引き合せたのは云うまでもない。最後は「ちょっぷく」で白ワインと、何時ものコースを辿ってお開きにした。帰宅は23時40分と、十時の切り上げを時間をオーバーしたのは云うまでもない。

 

今朝は体が重い、脳味噌の働きが鈍い。されど弁当は作る。不味いことに起床時間が七時になっちまった。飯を炊かなくちゃならいが、電気釜では間に合わない。連日、土釜の出番となった。弁当二つと晩飯用も含めて三合の米を炊く。

菜の方は、タラコ焼きと小松菜の卵とじ、豚バラと茄子味噌炒め、最後に手掛けたのが「ピーマの肉詰め焼き」であった。この最後の一品ピーマン肉詰めが、こともあろうに失敗作となったのだ。

                           

時間のこともあり、急いてはいたが・・・。手慣れた肉詰め焼きを失敗するとはねぇ~、思いもしなかったよ。原因は、挽肉を十分に練り込まなかったに尽きるだろう。だから、焼きの途中の裏返しで肉が剥がれたと推測している。失敗とは云え、食べれないことはないが、見栄えがねぇ~。土釜で炊いたご飯の方、これは完璧な炊き上がりだっただけに

                             

急いではいけない、急いてはことを仕損じる、の諺どうりだった。

 

 

 

 

 

 

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カニ飯

2016-12-05 | Weblog

12/5(月) 週末の土曜日は久々に平和島でボート遊びに興じた。が、乏しいお小遣いを減らしただけで終わった。それでも、短い時間とは云え非日常の中で過ごせたのはよかった。

夜は、小僧の相方の両親と地元で食事会。この日、小僧は漸く家を出て婚約者と住むことになった。入籍は年が明けてからとのことだが、自分たちがいいと思うようにするだけのことだ。所詮は自分で、自分たちで生きて行く人生なのだから・・・・・。これで、朝飯の残りを喰うやつが居なくなった。

日曜日は会社に出た後、有楽町の交通会館に寄った。佐賀からNPOへの「ふるさと納税」のPRで、地球市民の会事務局長IWANAGA君が来ていると連絡を貰っていたためだ。佐賀のNPO関係者がチラシを配り、返礼品の試食などを勧めていたが、IWANAGA君の姿はなかった。訊くと、別件で来ていないとのことだ。

ついでだと、徳島の椎茸や秋田の比内鶏のガラなどを買って帰った。全ては弁当の為であったが、この日は「セイコカニ」を食すことになっていた。セイコと云うのは、越前カニのメスのことだ。メスカニは小さいので、専らカニ味噌を食す。これが美味いんだよナ。小さいののに、これが近年値上がりをしている。

師走となり美味しくなったろうと、金沢に住む義妹に頼んであったようだ。義妹が、土曜日に福井の港町まで出かけて送ってきたのだ。旨かったねぇ~、実に。気の毒なことに頼んだ方の家人は、ここ何年もカニやエビが駄目になっている。蕁麻疹が出るようになったのだ。

美味いものは一人で喰うのが私の主義だが、家人は子供達に連絡をしていた。そんなことで私の取り分が減ってしまった。カニを喰いながら『やっぱ、カニ飯を炊かなきゃ』と、宣言したのであった。カニ飯を炊くのは毎年のことなのだ。

この夜には間に合わない、炊くのは翌朝の今朝となる。カニ飯も家人は食さない、弁当にも入れるなと云うが、、白飯は別にあったので土釜で「カニ飯」だ。牛蒡の笹掻と薄揚げを刻む。酒・醤油・塩に、カニの足で採った出汁で炊いた。分葱とショウガを刻み薬味にする。

弁当用の菜は、小芋の煮っ転がしと冷凍塩秋刀魚、冷凍のコロッケをを揚げるついでに、鶏と牛蒡の唐揚げ。前日に買った厚みのある椎茸とホウレンソウをバターソテーする。以上であるが、仕上げになった頃に、次女から家人に電話が・・・。

                         

「カニご飯取に寄れないから、帰りに寄るからとっといて」とのことだとか。次女は同じ沿線に住み、銀座まで通っている。昨夜、『明日はカニご飯だぜ、弁当取に寄ったら』と、冗談に言った。処が当人は、すっかりその気になっていたようだ。食いしん坊だねぇ~。『しょうねぇな、俺が会社まで弁当を届けるよ』と、言ったのである。

二合半ほどカニ飯を炊いた。小僧もいないし、長女は夜勤明けで弁当は要らない。家人も食べないのだ。誰かに喰わすしかないのだ。長女にも電話し、食べに来るように伝えた。なんとか消費しないと・・・・、美味い飯なんだから?

と云うような週明けの朝であった。

                        

茹でてから、一番出汁で煮た小芋は美味しかった。椎茸のソテーも、身が厚くて旨味充分であった。勿論「カニ飯」は最高さ。苦労して小さなカニの足の身をほじくったのだから・・・。

 

今夕、IWANAGA君と会うことになっている。彼が形町まで来るとのことだ。さ~て、安酒場に案内するか・・・・。

 

 

 

 

 

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忘年会

2016-12-02 | Weblog

12/2(金) 愈々忘年会の時期となった。昨夜は「東京黒潮会」と云う、在京の県出身者の集まりの総会&懇親会だったが、忘年会のようなものだった。参会者は三十人程だった。会場となったのは、中目黒駅から直ぐで東急線沿いの目黒川を前にした「大樽」と云う店。同郷のオーナーで安いのが取り柄、大衆酒場である。が、目黒川の花見時期にはいい店なのだ。

ここの二階座敷で宴会となった。隣り合わせた出版プロデューサのTANIMURA氏に著作権の扱いについて教えてもらい、左隣の若い幹事KAWAKITA君からは、或るデザイン案件について相談をされた。『安いものはやらんことにしてるけど、相談には乗るよ』と、大口をたたいた。来週、来社いただくことになった。

会長の挨拶が有り、新加入会員紹介、各自の自己紹介が済んでから、ひと足先に失礼をした。この間に飲んだのはビールと日本酒、食したのは竹輪・土佐天一切れ、海老フライ一つであった。で、始発の日比谷線にて人形町まで戻った。と云うのも、この夜「ローカーボ」貸切でNAKAMURA大将の東京事務所移転祝いが行われていたのだ。

NAKAMURAさんとこは、京橋にあった東京事務所を人形町に移転した。当社から100m程の「高松」ビルの五階へと。そのお祝いと云うので、遅ればせながら駆け付けた次第。店に着くと、立ち飲みまでいるほど賑わっていた。佐賀・本社のスタッフも上京してのお祝い会なのだ。

当社のAOKI君も出席していたので、彼の席を横取りして座った。マッチャンやHOYA兄いと、常連たちも飲み放題ですっかり出来上がっている。そんな中に、アラフォの踊りと歌のチームを立ち揚げたと云う、姐さんと音楽&演出の兄いが居り、暫く話し込んだ。

朝日新聞で紹介されたという記事をみせられ、ステージで踊っている姿をスマホで見せられた。ひと言『商売にならんだろうねぇ~』と云うと、「そうなんですよ」と応えた。そこから、ビジネス化に向けてのレクチャーをしたが・・・・。貧乏オヤジの言うことだ、何のご利益もねえだろうな。

一時間ほどしてお開きになり、HOYA兄いと「セイジュ」でカラオケとなったのだが・・・・。珍しくセイジュの奥のBOX席が満員だった。忘年会の二次会らしき若い連中が十名程で騒いでいた。兄いが二曲。、イラは唐獅子牡丹を唄っただけで引き上げる。奥の客が煩くて敵わなかったのだ。バカヤロ-!静かにしろ、歌は演歌だ!と言いたかったが、この夜はセイジュ繁盛の為に控えた。大人だからね

で最後は、「ちょっぷく」で白ワインを啜ってのご帰還。24時45分に学芸大学に着いた次第。ホームの椅子で眠りこけなくてよかったよ。

そんなことで、今朝は二日酔い気味だった。それでも弁当オヤジの使命だけは忘れない。

今日のメニューは「トンカツ」と「イカのバターソテー」に、冷凍の塩秋刀魚を焼き、最後に定番の卵焼きで〆た。今日はお二人様分であった。

                         

豚ロース二枚を揚げ、カットイカとシメジをニンニクの小片で香り付けしたバターでソテーし、キャベツの千切を用意した。それだけのことなので、弁当オヤジとしての充実感はなかった。愈々、リタイア後の『飯処』開業を真剣に考えるかな?

                             

 

今夜も高知県人の会の忘年会が在る。それも「奈加野」でだ。N社の県人会なのだ。この会は、土佐弁と日本酒が飛び交い、まともに付き合ってると翌日に響くのだ。明日のボート遊びの気力・体力を消耗しないようにせねば、今年最後のボート遊びだろうから・・・・。

 

 

 

 

 

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崖っぷち・・・

2016-12-01 | Weblog

12/1(木) 昨夜の帰宅も21時30分と早かった。昨夕の会は、6時30分から東京駅八重洲の駅前にある中華店だった。横須賀の単身寮に居た時代のメンバー六人と、いつもお世話になっていた食事処「埼玉家」(現 天まる)の先代夫妻を迎えての懇談会であった。「天まる」には、10月初旬の人形町パトロール隊〝三浦半島の旅〟で顔を出している。

当時のことや、現在の暮らしなど話題は尽きない。国立博物館でボランティアを始めたUENOさん、中学生の家庭教師をやっているNAWAさん、現役ながら平塚の在で一反の畑を耕しているMITUHASHIさんと、それぞれに元気な暮らしぶりであった。オイラの方は、夜な夜なの酒場通いと、折々のボート遊びなのでつまびやかなことは言わなかった。と云うよりも、あの真面目集団には通じない・・・。

埼玉家のご夫妻に、清寿軒のどら焼き(この店は、幕末からの老舗  らしい)と、吾輩手作りの新鮮無農薬の柚子酢をお渡しした。まざわざ横須賀からのお出まし、これぐらいのことはしなくちゃなんねぇ。

二時間飲み放題で、料理が八品で6000円(税別)と格安?とのことで幹事役のミッチャンが予約した店であった。料理の方は、こんなものだろう…値段相応だ。やけに愛想のいい婆さんが、埼玉家のオヤジの格好を誉めたので、一同が湧いた!

「秀宴」とか云う店であったが、窓越しに向こうの路地の看板が目についた。それが、懐かしきサントリーBAR「グリン」の看板だった。グリンには、先代のママさんがやっていた頃にお世話になった。かれこれ二十年近くも通った店であった。この店で馴染になったメンバー五人に、ママさん姉妹とで「竹林の七賢人会」なんて名付けた飲み会をやっていた時代もあった。

ママがなくなったのは、僕が横須賀に勤務していた時だ。同じ会社の大先輩、岩淵 清さんと一緒に葬儀に出た。その岩淵さんも、三年前の春に癌で亡くなった。その年の年賀状に「奈加野で一杯やろうよ」と添え書きがあったが、果たせなかった。カラオケで唄うようになったのも、グリンであった。思い出が一杯詰まっている店なのだが・・・。

今は息子のJUNちゃんが受け継いでいるはずだが、足はすっかり遠ざかったままだ。それでも昔の看板のままにつづいているのを見ると嬉しい。ママの名は小河喜美子だったか、その母の時代から店がつづいている。歴史のある店なのだ。宴会の帰りに寄る手もあったが、何しろ満腹で飲める状態じゃなかった。何時かまた、顔を出す日も来るだろう・・・・。

今夜も明日の夜も、宴会がある。そんなこともあり、八丁堀駅まで歩きメトロに乗った。前夜につづき、早い帰宅であった。

早くから蒲団に入ったが、今朝の目覚めは七時になっていた。夜中に目覚めないのはいいことだ。それでも夢をみていた、楽しい夢じゃないが。高い崖の上から腹這いになって河底を覗いていた。一緒に覗いているのは某銀行のOBのヨッチャンだった。高いな~、ここ崩れるとやばいぜ。なんていって、平地に下がって会話をしていた。「銀行のやつで、崖から落ちて死んだのがいるんだ」なんて、ヨッチャンが言っていた。

そんな夢が目覚める前のこと。高い崖のシーンが何故夢に出てきたか。目覚めてからそれを考えていた、思い至ったのは寄居の鉢形城のことだった。この城は、荒川の崖上に建っていると本で読み、城址を写真で見ている。一度訪ねてみたいと思っている。そんな思念が、この夢になったであろうと結びつけたが・・・・。崖っぷちを歩いているような人生だ、それを思えば夢のこともさもありなん・・・か。

と云うことで、今朝の弁当作りは遅くなってしまった。幸いにも、長女は今日も休みとのこと。弁当は、一つだけだ。

「牛小間炒め」に、ピーマン・シメジ・タマネギ炒めを添える。魚は鮭焼き、小松菜の卵とじ、パスタサラダはポテト・人参などと一緒にする。

                           

いとも簡単な弁当であるが、量だけは十分である。家人曰く「今日のお弁当は軽めにして」だった。なんじやぁい!

                            

 

 

 

 

 

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