オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

弁当納め

2016-12-28 | Weblog

12/28(水) 仕事納めとか竿納めとか、はたまた納棺などと云う一区切りを納めと人はいう。ならば、今朝の私は「弁当納め」と云うことになる。平成28年の弁当作りが終わると云う、区切りだ。

その区切りの日なので、何か気の利いたものをと考えるのが人情だ。が、残念なことにいつも通りの変哲もない弁当になっていた。今朝のメニューは自家製の粕漬けから「ホタテ」となった。そして、ギンダラの照り焼きと云うお魚系。肉系は「豚生姜焼き」、煮物は「鶏&大根・人参の旨煮風」、野菜と云えば生姜焼きに添えるマッシュルーム・スナップ、キャベツ・シメジのソテー。とってつけたような卵焼き、以上である。

                           

長女は夜勤だと云うので、夜食弁当にしろと連絡。そうでもしなければ、菜が余って困るのだ。かくして、弁当納めの儀を無事に終えたのであった。

                           

 ― 振り返れば・・・ ―

今年の仕事納めとなるが、この一年を振りかっても後には何もない。何も生まず、形造らず空しく過ぎていった時間の残像が尾を引いているだけだ。

確かに、新年には今年のやるべきテーマを示した覚えがある。二つの具体的な戦略ビジネスと、体質改善に向けた上流工程の仕事に舵を切る為の取り組み。リサーチとビジネスフレームの研究を。個別やミーティングの場で、進捗や課題について何度か話してきたつもりだが・・・・。

新しい芽生えの手応えがないばかりか、ルーチンともいえる仕事の気掛かりの多さよ。他人任せの虚しさをしみじみと感じる仕事納めである。

昨夕、友人のO社長と二人での忘年会。奈加野のオヤジが闖入する前に話していたのは「退け時、引き時」である。私よりも数歳若い彼も、後継をどうすればいいのか悩むと云う。老いていく己を自覚すると、それが、後継をどうするかが課題となる。ましてや私の如きは、己の能力さえないのだ。だからこそ、方向を指示するのだが・・・・・。

                               

これ以上虚しいことを繰り返しても何も生まれない。再生の道さえ創れない男は、姥捨て山ならぬ爺捨て山だろうが海だろうが、捨てて貰うに限る。が、誰もそんな親切はしてくれない。自分で其処に行くしかない。それが、今年を振り返った結論。考えれば考えるほど己を虚しゅうする大晦日、と云うお粗末。

とは云いながら、正月の夢に吉祥を見出し、来春は大いなる船出となるやもしれない 乞うご期待。一年間、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

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