オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

中村医師お別れ会・・・

2020-01-26 | 弁当

1/26(日)今朝の便で福岡から高知に戻った。昨日の午後に福岡・西南大学チャペルで挙行された故・中村 哲医師のお別れ会に行ってきた。僅かなご縁でしかなかったが、数年前にここ西南大学で師のインタビューに立ち会った思い出がある。

晩夏であったか初秋であったのか。陽ざしの強い日であった。インタビューの合間、学生食堂脇の休憩コーナーで一緒にタバコを吸った。その場所でタバコを吸おうと、お別れ会の前に行ったが、そこは禁煙の張り紙があった。

見事な松林を抜けるとチャペルが、ここもインタビュー後に中村さんの講演会があり入ったところである。そこの入り口には「中村 哲 医師お別れ会」の看板が立っていた。亡くなれたことを改めて実感させた。

会場には開会の一時間半前に着いたのだが、大きなチャペル席は既に満席で、会場のモニターが用意された大学の教室に入って見守ることになった。

早い時間に関わらず、地下鉄の駅から大学に向かう途中でお別れ会に向かであろうと思われる方々が大勢いたのだ。それにしても数多の人がお別れに来ており、師の人柄、功績の凄さに圧倒される。現代の偉人と云うしかない。惜しい方を亡くした無念の思いが人々を駆り立てるのであろう・・・。

百人以上入る教室が沢山用意されていたが、教室に入れきれない人々は外で待つしかない。途中から雨になっていた。

定刻の二時、会が始まり黙祷する。そしてペシャワール会村上会長、アフガニスタン特命全権大使、JICA会長。師のご長男とご長女から挨拶と報告があったが、無念と痛哭の思ひがひしひしと伝わってきた。私の隣の席に居る女性はハンカチを握りつづけていた。

献花が始まったのは会が始まってから一時間半を経過していた。我々が献花のチャペルに入ったのはそれから一時間後なっていた。後に未だ大勢の人が列をなしていた。

          

降り出していた雨に濡れながら会場を後にした。

本降りになった中、博多駅から久留米市に向かった。ボランティア活動の表彰や取材で縁ができて以来、長い交流がつづくJOJIMA女史のお見舞いと旧交を温めるために。

女史は子供の頃にポリオに患い、それ以来症状は徐々に悪くなっている。初めて会ったボランティア活動表彰の折は杖もなく歩けていたが・・・。今は部屋の中を車椅子で動くことしかできなくなっていた。

中村医師の取材前にTUGAWAさんと一緒に会った折は、車椅子ながらも久留米市内の焼鳥店を予約してくれて一杯やれたのだが。今回は外出が叶わぬので女史の宅に伺った。

相当悪かったそうだが、若干改善したと笑顔で車椅子姿で迎えてくれた。筑紫の銘酒を用意してくれていた。それを頂きながら、日々の暮らしや障害者支援の制度などと会話がつづいた。

まさに五体不満足ながらも、TOMOKOちゃんは明るく前向きに生きている。これから更に苦難があるだろうが、その心と大勢の友達に囲まれている。大丈夫だよ!。

福岡市内に予約したホテルのチェックイン時間が迫り、車を呼んでもらって大雨の中を駅に向かった。中村医師のお別れ会、妹分の女史との再会、福岡への短い旅は意義深いものであった。

今朝の福岡曇り空、八時半前に空港に入り、搭乗する頃には薄日が射してきた。来る時とは大違いに、朝の便はガラガラであった。途中雲の上を飛んでいたが、高知空港に降下を始めたころに仁淀川、そして桂浜・浦戸湾が望めた。東の方向に大きく旋回し、定刻に高知空港に舞い降りた。

           

安芸市内のスーパーに立ち寄り若干の食材を贖った。帰宅すると、USUI老は風邪だとのことで、声がおかしい。散歩は無理だねとなった。つい先日も風邪薬を飲み、よくなったと言ったばかりなのだが。少し動くだけで汗をかく、それが冷えて風邪の症状になるのか?。

洗濯機を回してから、従兄のカニの生簀まで散歩して餌(小魚)をやってきた。都会から来る友人には珍しかろうから、暫く生かしておきたいので。未だ十匹ほどが蠢いていた。然し、何時まで生きているやら・・・。 

今夜の夕食は「雑炊」に牛小間とチンゲン菜の炒め物。残っていた牛筋煮、肉ジャガ、ダイコンおろし、キビナゴの酢物&煮付けとなった。

            

 

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日々、野菜&野菜 | トップ | 穏やかな夜明け・・・ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

弁当」カテゴリの最新記事