オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

逝し人たち・・・

2020-03-28 | 弁当

3/28(土) これまで生きてきて、親しかった方や敬愛した方と、数多の人との別れがあった。皆さん彼岸へと旅発たれたが、そのひとり一人の優しさに生かされてきたことになる。

天気が悪いこんな日は、そんな人たちとのことを思い出し反芻する機会になる。若かった頃は、己の至らなさも分らぬままに過ごしてきたが、数多の心優しき人との出会いで生かされてきたと、そろそろ幕を下ろす時期になって実感する次第だ。

出会いの中には、長い長い交流を重ねることができた方。たった一度や二・三度しかお会いしていない方もある。が、心に残る。

昨日、宮城まり子さんを送る会が「ねむの木学園」で催されたことを今朝の新聞で知った。宮城さんにお会いしたことは一度しかない。が、その一度のことを今も鮮明に覚えている。

それは未だサラリーマンをしている時代のことであるが。当時、社内向けの社会貢献活動の啓発誌の発行人をしており、ねむの木学園と宮城さんに取材のお願いに上がった時である。

世田谷区上野毛にあるお宅に伺った。多摩川沿いに広がる段丘に建つ閑静なお宅の門柱に、宮城さんと並んで吉行さんの名前が掛かっていたのが印象に残っている。

その日、前日にドイツから帰国したとのことで発熱し、臥せっていると秘書の女性が応対してくれた。が、申し訳ないのでお目にかかってお詫びしたいと申しております。とのことで、休んでいる部屋に案内されたのである。

数段の階段を下りて伺った部屋で、宮城さんは布団の中に臥せっていた。色白の面の宮城さんは布団の中から頭を上げられて「折角のお約束なのに、こんなことで申し訳ありません」と詫びられ「NTTの皆様には日ごろからご支援を頂き感謝しております」と言葉を次いだ。

折り正しい姿勢と、色白の面。畳に敷いた布団に臥せった姿に上品なピンクのパジャマの色が印象に残っている。

福祉活動にその生涯を費やした宮城まり子さんのご冥福を祈ります。合掌。

 

昨年十二月の中村 哲氏の突然の悲報、そして宮城 まり子さんの訃報。個人的な交流があったわけではないが、共感するお二人であった。

一方、二月に逝去した土田征雄君と、三月に逝去した山田正明さんとの交流は長い。

お二人がガンと云う病で闘病されたこと、二人ともゴルフが好きで病気に負けまいとプレーを続けていたことも共通している。

十年近くもゴルフから遠ざかったままの私は一緒にプレーする機会がなかった。身体的な事情があったとはいえ、それが残念である。

土田君とはNTTアドと云うグループ会社で一緒になった。元バトミントンの一流選手とのことで、スポーツイベントのディレクターになるべく出向してきた。

が、広告業界にあっては素人同然の彼は苦労が絶えなかったであろう。私が営業部長をしていたクライアントの、女子ゴルフトーナメントの運営が彼の初仕事であったから。

「土田を潰すな」と、我がスタッフに指示したことであった。その彼と組んで、トマス&ユーバ杯のバドミントン国際大会の運営をしたのは一年後か。彼の経験と人脈が大いに発揮されたのは云うまでもない。

ADと云う会社で出会ってから早や三十年近くなるが、彼との付き合いは専ら仕事とゴルフ、偶に酒場であった。私がサラリーマンを辞めてからも交流は絶えなかった。

数年前の我が誕生日、ケーキを提げて会社が在る人形町に来てくれたことがあった。「どうしたんだ?」と云うと、誕生日だと分かったのでとの応え。BLOGを見ていたんだ!。

真面目な男であった、我が後輩に似合わず生真面目であった。母校のバドミントン女子部の監督をしたが、大学のバトミントン部長が我が学友と云うよりは、下宿仲間という偶然まであった。

膵臓癌から肝臓への転移と、大変な思いをしたでろうが弱気な面を見せなかった。最後の電話は昨秋であったろうか「ゴルフ場からの帰りです。それなりに元気にしてます」であった。土田征雄君のご冥福を改めて祈る。合掌!。

 

山田正明氏との交流は、次の機会に記したい。

 

 

 

 

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