徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「白夜行」―悍しき愛と憎しみの連鎖―

2011-02-01 09:00:00 | 映画



   これまで情感ある作品を手掛けてきた、新鋭川栄洋監督が、東野圭吾の愛憎の渦巻く長編小説を映画化した。
   もともと、原作でさえ主人公の主観描写がなされず、それでいて精巧に組み立てられた物語を映像作品に仕上げるのは、相当の困難を伴ったのではないか。
   ほの暗い、白夜のような人生を歩む男と女・・・。
   何を考え、何を思っていたかを明らかにしないままに、小説は読者の、そしてこの映画は観る者の想像力に委ねられる。






1980年(昭和55年)、ある廃ビルの密室で、質屋の店主が殺された。
決定的な証拠はなかった。
犯人は、どうやってその廃ビルの密室から出られたのか。
だが、事件は被疑者死亡によって、一応解決したかに見える。
しかし、担当刑事の笹垣(船越英一郎)はどうも腑に落ちない。
容疑者の娘で、子供とは思えない艶やかさを放つ少女の雪穂と、被害者の息子で、どこか暗い目をした、もの静かなな少年の亮司(高良健吾)の姿が、いつまでも笹垣のまぶたの裏から離れないのだった。

…数年後、大きく成長した雪穂(堀北真希)と亮司(高良健吾)だったが、全く面識のないはずの二人であった。
雪穂は華やかな世界へと高みを目ざし、亮司は目立たない平凡な世界へと身をひそめ、それぞれの人生を歩む反面、暴行事件や殺人事件などの不可解な出来事が、彼らの周辺に付きまとっていた。
それも、全く面識のないはずの二人の周辺で・・・。

・・・そして、刑事退職後も、真相を追い続ける笹垣自身も命を狙われ、19年前の驚愕の真実と、そこに結ばれた、固い絆の存在に思い至るのだった。

笹垣は、この物語の傍観者的な「語り手」である。
本作が映像化されるのは、連続ドラマ、韓国版映画に続いて三度目だし、舞台でも上演された。
原作者自身、小説の完璧な再現は不可能だと語っていたように、それは時間的な制約にとどまらず、主人公たちの、理屈では説明できない、負の感情そのものだったからのようだ。
だから、映像化されたこの作品の中での登場人物の行動も、常識では理解できないものだ。
それでも、原作の緊張感そのままに、本格派サスペンスを目指した作品だ。

迷宮入りしたひとつの殺人事件を起点に、昭和から平成への19年間に及ぶ、複雑な人間群像の渦巻く展開は、それこそほとんど淀みない。
だが、何故、どうしてという疑問は、絶えず脳裏を駆けめぐる。
映画は、心理描写なんかなくても、意味があるように伝わってしまうものだといわれる。
その意味たるや、どう感じ取ればいいのか。
観客の想像にまかせるというが、それは、悪く言えば、ときにこちらに投げられた監督の無責任みたいなもので、小説でもそうだが、どうも一種の体のいい逃げのようで、やりきれない時もある。

一体、二人に何があったというのか。
この作品では、作り手の仕掛けた罠のようで、その根源には「愛」と「憎しみ」があって、この「愛」と「憎しみ」がミステリアスなだけに、ドラマに混迷をもたらしているともいえる。

この深川栄洋監督の、映画「白夜行の画面は、終始限りなくモノクロームに近い。
「銀残し」という処理を施していて、そのフィルムの質感が、暗いドラマをさらにミステリー劇のように見せている。
時間の経過とともに、かつて純粋無垢であったはずの、あの少年と少女が成長し、それぞれが仮面をかぶったまま、暗い人生と虚飾の世界を生きていく。
主人公を演じる二人(堀北真希、高良健吾)も、個人のキャラクターについて、演技について熟考に熟考を重ねるほど思い悩んだと語っている。
ドラマの中で、この二人の接点は見えにくい。
そういう作品だけに、全編にわたって、もう少し整理された、丁寧な演出を望みたかったが・・・。
寡黙、沈黙、無表情、蔑視、平板で抑揚のない台詞・・・、それら登場人物の表情だけが、作品を引き締めている感じがする。
閉塞状況とも思われる世界に生きて、互いに成長した少年と少女は、俗世間への復讐と反抗の人生を選択せざるを得なかったのかも・・・。
物語の終盤、不気味な薄笑いを浮かべて悲劇的な結末を迎えるのだが、その亮司に向かって、船越英一郎演じる初老の元刑事は叫ぶ。
 「お前がどんな人間なのか、教えてくれ!」
そして、愛の不在、愛なき生の荒涼たる白夜をひとり歩いてきた、女の悲しみを演じて、堀北真希が際立っている。