徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「息もできない」―怒りと憎しみの果てに―

2010-07-05 16:00:01 | 映画

これはまた、衝撃的な、韓国映画の登場だ。
製作・監督・脚本・編集・主演の五役に挑戦したヤン・イクチュンは、1975年生まれだ。
この作品の強烈なリアル感を、「非情城市」の候孝賢監督は、ヌーベルバーグの時代のゴダールの「勝手にしやがれ」にたとえている。
パワフルというと聞こえはいいが、希望や喜びまでも悲劇と絶望に変えてしまうような作品だ。

ドラマは、暴力を描いて鮮烈だ。
よくまあ、こんな作品が生まれたものだ。
しかも、世界の映画祭映画賞で、25以上もの賞に輝いたというから解らないものだ。
登場人物たちが、傷だらけの心で訴えようとしているものは何だろうか。
この映画は、俳優として活躍しているヤン・イクチュン初の長編監督(デビュー)作品だ。

サンフン(ヤン・イクチュン)は、年上の友人マンシク(チョン・マンシク)の経営する、債権回収業者で働いていた。
暴力的な取立てだけでなく、ストライキを暴力で潰したり、屋台の強制撤去をしたり、その容赦ない仕事ぶりは、仲間たちをも震え上がらせている。

そんなサンフンが、姉の息子・甥のヒョンイン(キム・ヒス)のことは、かける言葉は乱暴だが、可愛がっている。
姉は、サンフンとは腹違いだ。
夫の暴力に苦しんで離婚し、まだ幼いヒョンインはいつも寂しい思いをしていたのだ。

ある日、サンフンが通りを歩きながら唾を吐くと、偶然そこに通りかかった女子高校生ヨニ(キム・コッピ)の胸元にかかってしまった。
気の強い女の子ヨニは、サンフンにひるまず文句をつけ、二人は喧嘩になった。
ヨニはサンフンに殴られて、気を失う。
しかし、ヨニが目を覚ますと、サンフンはまだそこに立っていた。
彼女が、気づくのを待っていたのだ。
ヨニは、サンフンにビールをおごらせる。
年は離れているものの、互いの中に、二人は何か引き合うものを感じ始めていた・・・。

物語の終盤、漢江の岸辺で、心を傷だらけにしたサンフンとヨニが、何事もなかったかのようなフリをしながら、肩を並べている。
ヨニの膝に頭をつけて、サンフンはその膝枕で仰向けに寝転がり、嗚咽をこらえている。
その中で、ヨニも泣いている。
・・・印象的なシーンである。
だが、ドラマ全編に渡って暴力シーン満載で、刺激が強すぎる。

家族の愛も知らない男と、愛を夢みた女子高生、この傷だらけの二つの魂の邂逅がテーマだ。
涙と笑いを全くといってよいほど排除した、痛ましいドラマだ。

偶然の出会いであったが、それは最低にして最悪の出会いであった。
そこから、狂った運命が動き始める。
「家族」という、逃れることのできないしがらみの中で、二人は生きてきていたのだ。
父への怒りと憎しみを抱いて、社会の底辺で生きる男サンフンと、傷ついた心を隠した勝気な女子高生ヨニ・・・。
この二人の求めあいは、純愛よりもさらに切ないものだ。

・・・韓国映画「息もできないは、ひょっとして、主人公の魂そのものではないのか。
物語はフィクションだが、映画の中に表現される感情には、寸分の嘘もないという。
回想のフラッシュバック、ふと挟み込まれる俯瞰ショットや脚本、カメラ、編集においても、長編デビュー作とは思えないエネルギーだ。
しかし、敢えていうと、映画としては技術的には未熟で、粗っぽい。
まだまだ、これから、先行き楽しみな可能性はある。

撮影に当たっては、打ち合わせもなければ、脚本の読み合わせも、リハーサルもない。
ワン・テイクの撮影には、さすがに俳優陣も面食らったようだ。(それはそうでしょう)
生の感情をカメラにおさめることが、この作品にとってとても重要なことだったと、監督は語っている。
それでいて、映画を製作するという才能とはどういうものだろうか。
海外での評価は非常に高い作品だが、それにしてもとにかく衝撃的だ。
いやはや、この映画の暴力シーンの多さには参りました・・・。


映画「千年の祈り」―哀しみの漂うあたたかさ―

2010-07-03 05:00:00 | 映画

異文化の中で生まれ、育まれた物語だが、はじめての公開はかなり前である。
ウェイン・ワン監督の、日米合作映画だ。
小さな映画に、主要な登場人物は三人で、アメリカの大学町が舞台だ。
物語には、大きな起伏はない。

ドラマティックとはいえない。
それでも、登場人物たちの心理は細やかに、的確に描かれている。
主人公である中国人の老父の哀しみや、アメリカで暮らす娘の孤独な心の動きを映し出している。
寡黙で、静かなドラマだ。

アメリカに留学し、大学の職員をしている娘イーラン(フェイ・ユー)の元に、はるばる北京から父親シー氏(ヘンリー・オー)が訪ねてくる。
娘は中国人の夫と離婚していて、いまは一人暮らしをしている。
父親は、そのことが気がかりでならなかったのだ。

父親はすでに妻を亡くしていて、「ロケット学者」の彼は、娘のアパートメントに滞在することになった。
父は、習い覚えたばかりの料理に腕をふるって、夕食を作ってやったりするのだが、娘の方は、いつも沈んだ顔で黙々と食べるだけだ。
彼女は、家にかかってくる電話に一喜一憂している。
父親の方は、娘があまり幸せでないことを察するのだが、その不幸の気配に胸を痛めても、それ以上のことは何もできない。

あるとき、外泊した娘がロシア人男性に送ってきてもらったところを、老父は目撃する。
彼は、男が誰なのか、きつい口調で娘にたずねる。
娘のイーランは、自分が離婚した経緯と男性のことを父に告げるが、父親には父親の哀しい過去があったことを知らされる。
娘には、父が自身の経歴に小さな嘘をついていたことへの、胸に秘めた哀しみがあった。

老父は、自身の持つ過去の深い傷と哀しみを語り始め、娘の哀しみと老父の哀しみが交錯する。
しかし、二人の哀しみが解け合うことはなかった・・・。

ヘンリーオーは、知的で物静かで、寡黙な老父を演じていて上手い。
イーランの住むアパートの近くの公園で、イラン人の老婦人と知り合ってのやりとりが面白い。
片言の英語と、母国語を話すイラン婦人の‘会話’が、どこかで通じ合っているから不思議だ。

老父は娘と共通の母国語を持っているのに、どこか心を通い合わせることができない。
それでいて、このドラマは血のつながった「父娘」の物語だ。
互いに愛し合っていても、どこかで、肉親の持つ哀しみを漂わせている。
それは、映画の最後のシーンまで変わることはない。
娘の住んでいた町を離れる列車の中で、窓の外に走りすぎる景色を眺める老父の表情には、安らかさがあったが・・・。

父は長い間、家族を守るために小さな嘘をつき続けていた。
それに気づいていた娘は、素直に心を開くことができない。
お互いを労わり思い遣る気持ちに何の偽りもないのに・・・。
この父娘の想いは、祈りにも似ている。

この、父娘の対立ともとれる背景には、60年代の文化大革命の影も見え隠れする。
科学者であった父が、実は文革のときに人に言えない体験をしていて、娘はそれをうすうす知っていたのだ。
個人に宿る歴史の記憶というものは、たとえ絆の濃い家族にも、亀裂をもたらすことがあるということだろうか。
アメリカに住む中国出身者が、家庭内に秘密や嘘があることは、よく聞かれる話だそうだ。

ウェイン・ワン監督映画「千年の祈りは、故郷を遠く離れた異国の地で向き合うことになる、不器用な父と娘の心理を綴った、しみじみとした小品だ。
香港出身の監督、中国人作家、日本人プロデューサーによるアメリカ映画だが、そういえば、日本の小津映画を髣髴とさせる物語のようにも見える。
言語を超えた普遍的な物語で、実は心やさしい愛のドラマと見ることもできる。
ドラマの中に、「中国には、枕をともにするには三千年祈らなくてはならないという言葉があるの」と、娘が不倫相手のロシア人男性に呟くように言うシーンがある。
タイトルの「千年の祈り」とは、そこからから来ている言葉である。


ああ涙のPK戦―惜敗、サッカーW杯―

2010-07-01 19:00:00 | 雑感

サッカーW杯決勝トーナメントは、延長戦でも決着がつかず、PK戦に持ち込まれたが、日本は1回戦で敗退した。
相手国のパラグアイは、世界ランク31位だから、日本(45位)より格上だ。
ベスト8も夢ではないといわれていただけに、期待をかけていたファンは多かった。

岡田監督は、ベスト4を狙うといきまいていたが、準々決勝には手が届かずに終わった。
試合5本のすべてを決めたパラグアイが勝ったが、日本の青いサムライたちが、8強入りを果たせなかったことについて、誰もが感傷的(?)になった。
ここまできたことへの、盛大な賞賛の声とともにだ。
それは、でもあまりにもセンチメンタルな光景ではなかったか・・・。

マスコミでさえもが、当初から岡田ジャパンの目標「4強」を打ち上げていたからだ。
しかし、勝負はすべて結果だ。
見ての通りだ。
日本サッカーが8強を争うには、世界の壁は厚かった。
ここは謙虚に省みて、あまりにも、レベルが違いすぎたということだ。

外国のメディアは、日本の熱狂とはうらはらに、今回の大会で最も退屈な試合のひとつであったとし、日本にもっと野心があれば結果は別のものなっただろうと、日本代表の不甲斐なさをあげているのだ。
ブラジルの民放テレビにいたっては、日本はひたすらパラグアイのミスを待ち続けるという、技術的に低いレベルにあったとまで言い切っている。

サッカーというスポーツは、守備だけで勝ちきれるほど甘くはない。
そんなことは分かっている。
確かに、攻撃への意識、執念において、戦術不足であったことは否定できない。
ある新聞は、試合ひとつ見てもパラグアイとは差があり、PK負けは必然だったと酷評している。
世界のトップレベルが、いかに高いところにあるかということではないか。
日本代表陣には、点を取って何が何でも勝ちに行こうという意識がどれだけあったか、もっと攻撃的な(!)サッカーを考えないと、世界のレベルには届かないのかも知れない。

・・・そんな風に見ると、日本代表陣に構造的な欠陥があったのでは・・・?などと、かんぐりたくなる。
ここは、感傷を超えて、今後将来に向けて冷静に考えなくてはいけない。

ともあれ、決勝トーナメント進出を果たしたことで、その経済波及効果は期待に反して、驚くなかれ約3000億円にものぼるといわれる。
これが、サッカーの威力か。
日本経済が、予期せぬ恩恵を受けることになれば、もう大いに褒められるべき快進撃だ。
それなりに、しっかりと効果に期待をしたいし、少しぐらいは喜びも・・・。
この不景気の中で低迷を続ける日本に、元気と希望を与えてくれるに違いない。

初の8強入りを逃した岡田監督も、選手たちと同じように燃え尽きたのか、今大会限りで代表を退くことを表明した。
このあとは、北の国(北海道)の住民になるのだそうだ。
彼は、戦いに100%の力を出せば勝てると言っていたが、結局「何かが足りなかったのだ」、そして「もうやることはない。これ以上日本サッカーを背負えない」と言って頭を下げた・・・。

日本の選手たちは、全力を尽くしてよく頑張って、よく戦った。
でも、何かが足りなかった。
16強入りしてよかったなどと、浮かれている場合ではない。
日本サッカー協会には、代表監督を4年ごとに代えて、すべてを丸投げするという、悪しき伝統(?!)があるというではないか。
日本のティームでは限界かもしれない。
いまの日本に、世界で戦えるようなティームを作れる指導者がいるだろうか。
次期監督を含め、多くの課題をかかえて、早くも4年後を見据えて動き出している。

日本の守備力は、かなり向上しているのではないか。
反面、南米の強豪国あたりと比べると、世界がいうように、いかにも攻撃力が幼い(?!)ように思える。
それに、指導力もだ。
試合後、岡田監督は、日本は得点力のあるティームじゃないなどと語っていたが、そういうティームにしたのは誰だったのか。

・・・駒野選手のPKは、無情にもクロスバーをたたいてしまった。
あの瞬間、日本中の誰もが「嗚呼!」と、思わず息をのんだ。
そして、長かった戦いは終わったのだ。
駒野選手は枯れるほど涙を流し、その目は腫れ上がっていた。
駒野よ、泣くな!
運がなかったのだ・・・。
その日本代表陣は、今日夕方帰って来た。
お帰りなさい。
岡田ジャパン、青きサムライたち・・・。

帰国直後に行われた記者会見は、当然のことかもしれないが、総じて元気がなかった。
早く立ち直って欲しいものです。(追記)