「わたしに会うまでの1600キロ」(2015年)で話題になった、ジャン=マルク・ヴァレ監督の最新作である。
事故で妻を亡くした一人の男の喪失と再生の物語だ。
しかしこの作品は、これまでよく見られるような、単なる再生の物語とはひと味違っている。
愛していたはずの妻を亡くしたというのに、主人公は少しも悲しくない。
悲嘆の代わりに、自分の周囲にあるものを全て壊すのである。
精神の危機に瀕した男は、奇怪な行動をとる。
現実を逃避する男の、心の軌跡を追う怪作(!)だ
デイヴィス(ジェイク・ギレンホール)は、富も地位もあるウォールストリートのエリート銀行マンだ。
ある朝、突然の交通事故で美しい妻を失った。
しかし、その突然の出来事にも、彼は一滴の涙も見せず、悲しみを感じない。
自分が全く無感動になってしまったことに気づいた彼は、義父フィル(クリス・クーパー)から、「車も心も修理は同じだ。点検して、組み直すのだ」という言葉をきっかけに、周囲のものを片っ端から壊し始めたのだった。
冷蔵庫、トイレの扉、妻のドレッサー、パソコンと・・・、やがて妻と住んだ自宅までを分解し壊し始めるのだった。
一方妻の葬儀の後で、ひょんなことからデイヴィスは、ひとりで息子のクリス(ジューダ・ルイス)を育てるカレン(ナオミ・ワッツ)と出会う。
カレンは生意気なクリスを持て余し、クリスも学校で浮いていた。
そんな彼らとの出会いが、デイヴィスを大きく変えていく・・・。
ジャン=マルク・ヴァレ監督のアメリカ映画「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」は、驚きと衝撃の連続である。
主人公の感情の変化と設定が、「永い言い訳」(2016年)という映画に似ている。
だがこの作品では、あらゆるものの破壊と分解に執着する男の姿はほとんど狂気に近い。
現実にはまずありえない話であり、物語の主人公としてはフィクションならばそれもあるのかなと、しかしとても感情移入できるものではない。
空虚なデイヴィスがあらゆる実感を失った人間のように、普通の暮らしから外れて破壊活動に没頭し、仕事も放り出し、身なりにも無頓着となり、自身が壊れていく。
反面、常識や秩序から解放されて、何とデイヴィスはかつての妻との過去も見つめ直すことになる。
ドラマは、根底から男の人生を覆す勢いだ。
そのデイヴィスと接触しながら、カレンとクリスも居場所を見つけていく。
ドラマには共感できない部分が多いが、シングルマザーとその息子との交流シーンには愛おしさが漂い、デイヴィスをを加えて不思議な関係性が生じていく。
デイヴィスにとっては、自分の人生を逆照射してくれる親子の存在で、もともと無関係に見えた二つの世界が繋がっていく構造だ。
人間の心を理解したかったら、車のように解体して組む直すことを本当に実行しなければならない。
これは隠喩(メタファー)なのだ。
そう考えて理解するほかない。
人生は、すべてをゼロにしたところから再出発できるのだ。
主人公を演じるギレンホールの鬼気迫る演技は、特筆ものだ。
でも、正直こういう作品に付き合うのはかなり疲れる。
原題のタイトルは「DEMOLITION」(破壊、解体という意味)で、これなら意訳するより直訳のままでよかったのではないかという気がする。
映画を観て素直にそう感じた。
[JULIENの評価・・・★★☆☆☆](★五つが最高点)
次回は韓国映画「哭声/コクソン」を取り上げます。
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