父親の忘れかけていた日常と、娘にとっての忘れられない時間・・・。
親子の触れ合いを優しく見つめて、ソフィア・コッポラ監督が描く新境地だ。
実際の父との思い出や、二児の母である自身の経験が投影されている。
人生を見つめなおす、ヒューマンドラマではあるが・・・。
ハリウッドの映画スター、ジョニー・マルコ(スティーヴン・ドーフ)は、LAにあるホテル“シャトー・マーモンド”で暮らしている。
毎日フェラーリを乗り回し、パーティーでは酒と女に溺れ、セクシーなポールダンサーを部屋にデリバリーする生活である。
彼のそんな日々は、表面的な華やかさとは裏腹に、実は孤独で、空虚なものだった。
ある日、彼のもとに、前妻と同居する11歳の娘クレオ(エル・ファニング)が訪ねてくる。
久しぶりに、娘と過ごす時間は、親密で穏やかななものであった。
ジョニーがまだ寝ている間に、朝食の支度をするクレオ・・・。
卓球、プール、読んでいた小説の話、それは本来の父であれば、父と娘が触れ合うごく普通の風景であった。
クレオと別れる日がやってきた。
ジョニーは、クレオとの別れ際になって、ようやく娘に傍らにいてやれなかった自分を謝った。
ひとりきりで帰ったシャトーの部屋は、いつもとまるで違っていた。
やがて彼は、自堕落な生き方が置き去りにしてきた、大切な何かに気付いていくのだった・・・。
このアメリカ映画「SOMEWHERE」で、これまで「ロスト・イン・トラストレーション」をはじめ、少女たちのうつろう心を繊細に映し出してきたソフィアが、次に描いて見せたのは、娘との触れ合いをきっかけに、ここではないどこかへと人生を歩きだす、不器用な父親の姿なのだ。
父フランシシス・コッポラとの思い出を、娘クレオの視線と重ね合わせて、父の優しい想いを綴る、パーソナルな物語だ。
だが、現代社会の、孤独感や悲劇をとらえようとした作品と見受けられても、どこかゆるい。
この作品、ヴェネチア国祭映画祭金獅子賞受賞作品と聞いても、いまひとつピンと来ないのだ。
物語が展開する中で、親権をめぐる争いに発展するような、人工的なメロドラマは一切ない。
大きな、ドラマティックな出来事は必要ないというのが、どうやらソフィア・コッポラ監督の言い分のようだ。
映画を観て、希望を感じられればそれでいいというのだが、どうも物足りない気持ちだった。
作品の出来栄えがどうしようもなく悪い、というほどでもないのだけれど・・・。
仲の良い夫婦がいて、その間に娘がいるという設定ではなくて、女の子というのは、両親がよりを戻してくれることをいつも心から願っているはずで、人間の心の移り変わりを通して、家族の絆を描いているわけだ。
詩的な哀しさに、優しい笑いを背景に、静かな切なさが映画のアクセントといったらいいか。
ただ、スクリーン上で観る父娘の関係に、十分な説得力やインパクトが感じられるかというと、そうでもない。
スティーヴン・ドーフの、ハリウッドでの自堕落な“生活”を、なんとなく格好よく描きすぎているきらいも感じる。
一方で、汚れない瞳でみずみずしい11歳の娘を演じる、エル・ファニングが天使のように見える。
これはとてもよかった。
でも、ヒューマンドラマの意欲作のわりには、やや不完全燃焼の作品だ。
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私にとってあまりリアリティのないお題ではありますが・・・,まあ,そういうリアリティのなさが何となくいいんでしょうねー。
わかりませんけれども・・・。
ソフィア監督の体験が投影されているとなれば、この作品作りは、そんなに難しくはなかったでしょうね。