大学を卒業した後、狭き門をくぐり日本経済新聞社の入社試験に合格した。大阪本社で経済部の新人は3名の募集。宝くじに当たるようなものであった。
私は昭和33年に大学を卒業したが、当時は就職難の時代で目指したジャーナリストへの就職は難関であった。新聞不況の時代でもあり、公に新卒を受け入れたのは朝日新聞社、日本経済新聞社の大手2社だけで、それ以外の大手には公募がなかった。
たまたま当時は新聞記者を主人公とする恋愛映画が大ヒットして、新聞社の門は40人に1人といういう狭き門。
大手新聞社で新入社員を公募したのは朝日新聞、日経新聞の2社だけ。日経新聞でさえ大阪本社の経済部は新卒募集はわづか3人。宝くじに当たる確率であった。
学生時からジャーナリストを志望していたが、大学が英文科卒というのが門をくぐるのに効を奏した。日本経済新聞社では新人やベテランの差別は無く、自由に職場の開拓ができ、入社2年目に特ダネ賞を獲得した。新聞社の賞金は待遇が厚く、金額は大きかった。
職場はベテラン、新人の差別はなく海に放された魚のように自由に泳ぎまわった。
職場の空気は明るく先輩からも目をかけられ、関西経済圏を泳ぎまわった。本来が水泳が得意で、ジャーナリストは仕事として最適であった。
その後、株式相場の世界に引き寄せられ金融関係の仕事に身を投じた。
いまもジャーナリストの一人として毎日、PCと対じしている。