たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

白山神社の祭神

2022-06-13 05:45:39 | 白山神社
話が少し外れますけど、高蔵神社磐座が、彦坐王の来る前から地元の人の信仰の対象になっていたことが分かって、いろいろ納得することがあります。

まず、彦坐王たちが見つけたのではなく教えてもらったということ。よく考えるとその方がしっくりきますよね。

と言うことは、非常に仲が良かったことになります。ですから、後にサタヒコが大宮諏訪神社から

犬山に向かうことはためらいが無かったのでしょう。

伊勢に行くときも船を建造する場所を提供してもらってる。

さらに、先発隊が伊勢までのルートを調べに行っていると思いますけど、その水先案内を

誰かがやっているのでしょう。推測するに、その人は東之宮の被葬者の子ではないかと思います。

春日井の高蔵神社に行く途中の祠  その15 赤郷遺跡に書いています。



なぜ、高蔵神社磐座に行く途中の祠があの場所にあるのかは、彦坐王の御霊を地元ファミリーの

一員にするためなのではないだろうか?そう考えると納得がいくのですけどいかがでしょう?

それと、サタヒコ(ここではオトヨになります)がマシキトベを妻にしたのは、

大縣神社が出来た年ではなく、伊勢に行く前と考えたほうがピタリと来ます。



そろそろ、本題に入りましょうか。

もう一度、春日井の白山神社の事を考えると、

石川県の白山本宮(白山比咩神社)の別れで、本宮の出来た翌年には春日井に出来ています。

これは非常に関係が深いということでしょう。

祭神は
伊弉冉尊(イザナミノミコト)、
菊理姫命、
大巳貴命


それでは、本宮の白山比咩神社の祭神はというと、

白山比咩大神(しらやまひめのおおかみ)=菊理媛尊(くくりひめのみこと)、
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、
伊弉冉尊(いざなみのみこと)

大巳貴命と伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が入れ替わっています。

(大巳貴命=サホヒコ 、伊弉諾尊=たぶんサタヒコ 伊弉冉尊=(たぶんアジサハヒメ)


???なんで?

良くわかりません。久しぶりに妄想をしましょうか・・・へへ;

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
前にも書きましたけど、サタヒコが鏡と勾玉を伊勢に持っていく途中、犬山で船を作るのですけど

その間に、天叢雲剣を春日井の白山神社の所に運び、倭姫により(倭姫は霊感?のある巫女です)

彦坐王の御霊を天叢雲剣に移しました。

その時に、鏡に宿っていたサホヒコ=大国主と、勾玉に宿っているアジサハヒメ=アメノウズメ

の御霊を彦坐王に会わせに連れて来たのじゃぁ無いかな?

そして、そこに祠を建てて祭神にします。彦坐王は、途中の祠に移動するのでここにはいません。

菊理媛尊はどうなっているのか?・・・それは今後考えます・・・←おいっ!

以上で、妄想を終わります。。。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白山1号墳(白山神社)の被葬者は誰?

2022-06-12 05:44:18 | 白山神社
まだ、古墳かどうかも確定されていないのに被葬者を探すのは不謹慎かもしれませんけど、

あえて、考えてみます。

まず、高蔵神社磐座(春日井市)からのレイラインがあることから、サタヒコが尾張にやって来た

以降の時代です。4世紀と推測します。

高蔵神社磐座


そして、前方後方墳とすると、東之宮古墳の被葬者(尾張大印岐「おわりのおおいみき」と考えます)
と近い関係ではないだろうか。

以前、春日井市の高御堂古墳の被葬者は、東之宮古墳の被葬者の息子ではないかと書いています。

古墳の大きさもほとんど同じです。

高御堂古墳は、墳長約63メートル。  こちらの古墳も、約70m。似ています。

ちなみに、東之宮古墳も約72メートルあります。

近くには、田縣神社がありますけど、そこの祭神はサタヒコの子なので、前方後円墳でなければならないのでその人物ではありません。

とすると、高御堂古墳の被葬者の兄弟と考えるのが一番確率が高いでしょう。

つまり、サタヒコの妻(マシキトベと考えます)の兄弟になります。

ならば、サタヒコか率いるレイラインの測量者が仕事をしてもおかしくはありません。



東之宮古墳の被葬者の兄弟もしくはその近くの人物とも考えましたけど、

レイラインの測量者との関係を考えるとその確率は低くなると思います。

これまでの流れで思うことは、この場所の人と犬山の人達は同じ血筋かもしれないということ。

どちらが本家なのかは分かりません。

ですが、この地の人が高蔵神社磐座を崇拝していた。その場所をサタヒコの父親の彦坐王に

教えた。同時に砂鉄のある場所も知っていて教えたのかもしれません。

そう考えると、この地の人と彦坐王はかなり親密な関係だったと思われます。

ですが、高蔵神社磐座のある場所はすでに地元の人の聖地であるため、彦坐王の墓は

砂鉄の取れた場所、つまり春日井の白山神社のある場所に作った。



彼らの聖地に作るわけにもいかなかったのでしょう。

その後、サタヒコが強大な勢力を持ち、尾張にやってきて、しかもマシキトベを妻にしたので

その聖地のある場所、つまり途中の祠に一時墓を作り(現在の通夜になるそうです)後に

東谷山に移した。そう考えるとピタリとくるような気がします。

途中の祠



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白山1号墳(白山神社)行ってきました~♪

2022-06-11 06:49:12 | 白山神社


白山1号墳(白山神社)
愛知県丹羽郡大口町下小口1丁目

一の鳥居からは、80mぐらいあります


古墳の上にある神社です。


そういえば、方々津神社も尾張戸神社も古墳の上にありますね。





うしろから


西には、かつての五条川のあとの低い場所が確認できます。
その多くは今も水田になっています。



資料館があったので、いろいろと説明がされていました
















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白山1号墳

2022-06-10 13:38:39 | 白山神社


白山1号墳(白山神社)
愛知県丹羽郡大口町下小口1丁目

参考にさせてもらったHPはこちらです。

もう一か所

驚きました。弥生時代からすでに人が住んでいたようです。

そうそう、レイラインがあります

春日井の高蔵神社の磐座からの夏至の日の入りのラインです


白山神社(白山1号墳)を通ります。


このラインは、サタヒコ達が測量したのでしょう。少しの誤差もありません。

でも、それよりも前の時代からここに人が住んでいたことは、その人たちもレイラインを意識して

ここに居た可能性があります。

すでに、春日井の磐座は信仰の対象になっていたと考えられます。

高座山の山頂からの日の出が見える位置と、旧五条川が交差する場所がこの場所になります。

驚いたのが、以下の説明です。引用します

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第1号方形周溝墓は,中心に土器が埋められており,骨壺のような役割を果たしていました。首が細く,胴が広がる黒褐色の土器で,東三河から浜松あたりでつくられた,いわゆる輸入品です。(このあたりの土器は赤いのが特徴。)紀元後50年ごろと推定されます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この近くは、良く通るのですけど訪問したことがありません。出かけてみようかな。。。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白山神社

2022-06-09 13:29:10 | 白山神社
春日井の白山神社で、気になる事があるのです。

住所は、 愛知県春日井市白山町9丁目2


この周りは、白山と言う地域です。


前にも書いた通り、犬山の東之宮古墳のあたりは、白山平 と言う名前の場所です。


どちらが先かはわかりませんけど、ほとんど同じ時期につけられた名前でしょう。

サタヒコが伊勢に行ったのは、302年頃。その近くの年代と思います。

なのに、春日井の白山神社の祭神は、伊弉冉尊(イザナミノミコト)、菊理姫命、大巳貴命

養老2年の創建なので、718年でしょうか。

しかも、石川県の白山比咩神社の別れとなっています。

これをそのまま信じると、今までの話がすべて無くなってしまいます・・・


石川県の白山比咩神社を調べてみましょうか。
HPより引用します

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
崇神天皇(すじんてんのう)7年(前91)、本宮の北にある標高178mの舟岡山(白山市八幡町)に神地を定めたのが創建と伝わります。

応神天皇(おうじんてんのう)28年(297)には手取川の河畔「十八講河原」へ遷り(うつり)ましたが、氾濫のためしばしば社地が崩壊するので、霊亀2年(716)に手取川沿いの「安久濤の森」に遷座しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

船岡山は、丹波で彦坐王が居た所と同じ名前ですね。

その後の、応神天皇の所には、場所が移動するのに400年も間隔があるのは不自然では?

これらの内容は、後からの創作と思います。



ウィキペディアより引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
養老元年(717年)に越前の修験僧・泰澄大師によって白山に登って開山。主峰・御前峰に奥宮が創建され、白山妙理大権現が奉祀された、と伝わる。

菊理媛を白山の祭神としたのは、大江匡房(1041年-1111年)が扶桑明月集の中で書いたのが最初と言われている
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

創建は、養老元年で、泰澄によるものとするのが適当かと思います。

そうすると、春日井の白山神社は創建が養老2年(718)なので、翌年になります。

何か深い関係がありそうですね。

せっかくなので、これから白山神社について調べて行こうかなと思います。

どうなるのでしょうか?








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大宮諏訪神社へ帰りましょうか。。。

2022-06-06 13:18:45 | 大宮諏訪神社
垂仁天皇がまだ美濃に来ていなければ、サタヒコ達はそちらに行き、母親と会ってきているでしょう。

すでに来ているならば、美濃に行くようなことは無かったでしょう。

これは調べようが無いのでどちらなのかわかりません。

いずれにせよ、来た道を帰ることになります。でも、今度は徒歩です。

当時の環境では、一日に、10kmほどしか進めないそうです。

道があったのかそれさえも分かりません。でも、今までおいらが調べた限りでも,

やはり一日に10kmが、適当と思います。

宿泊地のなごりが無いか調べてみました。


青色が川です。左端が犬山です。 そこから約10kmぐらいに白髭神社があります。

そこが1日目の宿泊場所でしょう。

2日目が、金山城のある所です。適当な神社は見つかりません。城跡がそれなのかもしれません。

製鉄の神様の、「金山彦神」と同じ「金山」です。

後の時代に、製鉄の技術者がこの地に来たのでしょう。

この後、30kmぐらいが、適当な場所が見つかりません。黄色のラインです。

丸山ダム付近に南宮神社と言う所がありますけど、時代が違います。

でも、名前がそれらしいですね。3日目です。

4日目が分からないです。

5日目が、白山神社。 「創祀未詳なれども、嘉応二年再建の棟札あり」とのこと。

 ここにしておきましょう・・・へへ。

6日目は、妙見神社、白山神社のある所ですね。

7日目は、神坂峠山頂です。神坂神社まで行っているかもしれません。

8日目は、昼神温泉近くの「白髭神社」 この近くには、阿智神社があります。

  阿智神社は、出雲系諏訪族に対抗する天孫系氏族の尖兵が駐留していた場所なのです。

つまり、後の時代ですけど、サタヒコ達の敵なのです。

なので、白髭神社の由緒などはわかりません。かろうじて名前だけが残っているのではないかと思い

候補に挙げておきます。

9日目は、天竜川に出るところにある「阿知原諏訪神社」

ここは5年ほど前に訪問したことがあります。地形的に見てもここが宿泊地の可能性が高いでしょう。

10日目に、大宮諏訪神社に到着です。

おつかれさま。。。










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サタヒコ達は何処へ向かったのか?

2022-06-06 05:09:26 | 大宮諏訪神社
妙見神社から、犬山まではおよそ60kmです。

木曽川の上流は流れが速いと思います。時速10kmでも6時間で移動可能です。

その日のうちに到着できるでしょう。

その時のことは、こちらに書いています
猿田彦その 17 大宮諏訪神社はなぜその場所なのか

やはり、その後向かったのは春日井と思います。

春日井の何処なのか?製鉄をしていたと思われる白山神社ではないかと推測します。




春日井の高蔵神社に行く途中の祠  その2
に書いています。

そこでは、彦坐王の墓は、春日井の高蔵神社に行く途中の祠 ではないかと書いていますけど、

そうではなく、この白山神社ではないかと思うようになりました。

なぜなら、製鉄をしていた場所という理由がありますけど、それよりも、レイラインを測量する時間の余裕など無かったと思うのです。

さらに、墓を作ったのはサタヒコではなく、彦坐王の周りにいた製鉄の技術者たちでしょう。

その後、サタヒコ達は残っていた技術者たちを連れて大宮諏訪神社に帰っていったと思います。

これから15年ほどの間、この地には誰もいなくなったかもしれません。

この時点で、美濃には何も起きていなければ、そちらにも行きサタヒコの母親にも合っているでしょう。

サホヒコも、おそらく同じように行動していると思います。


彦坐王の棺が、途中の祠に移動したのは、伊勢に行く直前、犬山で船を作っている時ではないでしょうか。



三種の神器は、鏡と勾玉、そして天叢雲剣ですね。

おいらが思うには、鏡は丹波で作られ出雲大社に行き、そこで倭姫により

大国主(サホヒコ)の御霊を宿した(適当な表現が分かりません・・・)

勾玉には、丹波で、アジサハヒメ(あめのうずめ)の御霊を宿します。

天叢雲剣は、これも丹波で作り犬山までもってきています。

サタヒコは、倭姫を連れ、春日井の白山神社に行き、倭姫により彦坐王の御霊を天叢雲剣に宿します。

その後、レイラインを測量して途中の祠の場所に棺を移動。

東谷山頂に古墳ができたらそちらに棺を移動。

ここまでがサタヒコの仕事でしょう。

その時の、天叢雲剣が現在、熱田神宮にある剣と思うのです。



いろいろと調べていると、

天目一箇神とイシコリドメの子孫が鏡と形代(レプリカ)の剣を作ったという説もあるようです。

形代の剣はどのように出来たのかは分かりませんけど、天目一箇神が、鏡と剣を作ったということは

今までの流れから考えると、かなり確立の高いことだと思います。




ヤマトタケルは架空の人物であり、東方遠征も架空の話と思います。

ちなみに、犬山の東之宮古墳のある場所は、「白山平」と言います。

白山神社は、この地名からついた名前ではないかと思うのです。

その逆かもしれません。どちらかでしょう。

サタヒコの関係する地名は「白」が付きますからね。。。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

妙見神社に行ってきました

2022-06-05 04:43:25 | 大宮諏訪神社

先週ですけどね

もう一度地図を見てみましょうか


正面に見えるのは、白山神社です。妙見神社はこの左側です。


これは、古墳ではないでしょうか?その中に祠があります。


1816年なので、ずいぶんと後になってからの神社の創建ですね。
しかもなぜ、妙見菩薩なのでしょうか?


妙見信仰について調べると、

インドで発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星・北斗七星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したものである

天体、つまり星に関係しているのは、

この古墳の被葬者は、レイラインの測量者の誰かということなのでしょうか?


内々神社の妙見宮はこちらです


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東山道 神坂峠

2022-06-04 08:01:03 | 大宮諏訪神社


ここは、もう何度か行ってます。


もしかしたら、この場所で宿泊もできたかもしれませんね。




標高 1585m 気持ちのいい風が吹いています

縄文時代からすでに人が行き来していたんだ!

じゃあ、サタヒコ達は、地元に人に案内をしてもらったかもしれませんね。

中津川方面です。今日はあまり見通しが良くないですね


駐車場には5台ほど車がありました。この場所にいらした人と少し話をしました。

なんでも、恵那山まで出かけたそうです。疲れたと言って、駐車場で座り込んでおられました。

かなりの距離のようです。おいらは行きません! へへ;

途中の、「強清水」


道が細いので、休日には行きたくありません。

この日でも、10台ぐらいとすれ違ったかな。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

妙見神社 ( 岐阜県瑞浪市釜戸町)

2022-06-02 07:34:41 | 大宮諏訪神社
天竜川から木曽川までの移動のルートを書いてみました。

大宮諏訪神社から、いったん天竜川に出ます。

天竜川から、阿知川、そして、園原川。神坂神社を経由して、東山道 神坂峠遺跡に行きます。

ここが頂上付近です。頂上付近は、当然ですけど川がありません。

少し下ると、「強清水」と言う場所があります。

そこから、川が確認できるようです。冷川ですね。そこを下ります。

地図見ていて面白いと思ったのが、「冷川」の隣に「温川」があり、二つが合わさり「湯船沢川」

になっています。「湯船」と言う名前の通り、ここから船に乗ったのでしょうか?

カヌーのような、小さい船でしょう。と言うことは、木を切るのに必要な道具があるということ。

なたの様なものでしょうか?おそらく、鉄でできていると推測します。

さて、そこからさらに下ります。

ちょうど、中央道がある場所で、「落合川」と合流します。

名前は落合川に変わります。

1.8kmぐらいで、木曽川に接続します。

ここに、目印とする場所があるんじゃないかと考えて、調べてみると、神社がありました。

白山神社と妙見神社です。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

狼煙は見えるのでしょうか?

2022-06-01 13:53:05 | 大宮諏訪神社
「 猿投神社の場所」を書きかけていますけど、こちらの、「大宮諏訪神社」を、書き始めてしまったので

「 猿投神社の場所」は後に検討することにします。


風越山から美濃と春日井に線を引いてみます

それぞれ、狼煙を上げたであろう付近の山の頂上に合わせます。

標高を調べると、美濃までは視界を遮る山が無いようです。

しかし、春日井の方は恵那山で、風越山より高い場所があります
こちらです

この場所を見てみると

標高 約1551.3mです

風越山は、 標高1,535mなので春日井の高蔵神社の磐座付近を直接は見ることが出来ないと思われます。

でも、狼煙の煙は確認できるかもしれません。

狼煙を連絡の手段として使っていたかどうかはわからないのですけど、それ以外は思いつきません。

東山道が出来たのはこの時だと思います。

険しい恵那山越えをしているということは、この時の切迫した事情が原因ではないかと推測します。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする