たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

桃太郎  その 14

2022-08-16 10:33:35 | 猿田彦
五斗長垣内遺跡のことが気になるのです。

弥生時代後期初頭に出現して後期末に終焉を迎えると書いてあります。

弥生時代後期は1世紀中頃から3世紀の中頃といわれます。

そうすると、後期初頭と言うのは、西暦50年ぐらいからのようなのですけど、その頃に人が居たということになります。

ただ、鍛冶を始めた年代が分からない。おいらが資料をきちんと読んでいないせいかもしれませんけど

サタヒコ達がくる以前から誰かが鍛冶を行っていたかもしれない。

この地図にある、西分増井遺跡(高知)は、かなり以前から鍛冶を行っていたようです。

そして、鍛冶をする鉄の原料(どのような形なのかよくわからない)は九州から来ていたそうです。

これ以上は、くわしい資料が無いので今までの状況から推測するほかありません。

少々強引ですけど、まあ、いつもの妄想と思ってお付き合いくだされ。。。


これは、日本海側の安来から岡山へのルートですが、





飯梨川流域には、砂鉄があります。大国主、サタヒコ達はそれを使って製鉄をした。

鍛冶をする前の鉄の材料、「銑(ずく)」と呼ばれる状態なのでしょうか?

それを作り、岡山から船で五斗長垣内遺跡、その他の場所に運んだ。

そう考えることはできないだろうか?

鍛冶をして出来た鉄製品を使い奈良を囲む地域の人を取り込んでいった。

その結果、垂仁天皇は降伏し出雲に使いを出した。

これがホムチワケの話になっていると思うのです。

ホムチワケは、架空の人物と思うのですが、補佐として出雲に行ったのが、曙立王(あけたつのみこ)

そして、弟の菟上王(うながみのみこ)。

彼らは、彦坐王の子なのです。

なので、交渉役に選ばれたのでしょう。その後すぐに、サタヒコのもとに垂仁天皇の娘である

倭姫が送られてきます。人質と言う意味なのだと思います。

そう考えると、五斗長垣内遺跡で、鍛冶を行っていたのは大国主やサタヒコ達で、

垂仁天皇が降伏してきて目的を達成できたので、引き上げた。


その後の鍛冶は、四国の 拝東遺跡や、西分増井遺跡で行ったのではないだろうか。













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